2017年05月21日

1978年7月1日ニュルンベルク公演の思い出

 来年は1978年のワールド・ツアーの40周年なので、オフィシャル筋から何か動きがあることを期待します(正式に録音した武道館公演2ショウ分を完全収録したCD4枚ボックスセットとかさ)。イギリス公演に関しては以前ここで『【ISIS Selection 03】1978年ワールド・ツアー』という記事を掲載しましたが、今回はドイツ公演を仕切ったプロモーターの話と、ニュルンベルク公演を見に行った人の回想です。
 ここで言及されているニュルンベルク公演の音の記録に関しては、パリ公演を録音した人が同じ機材を持ち込み、ボブのセットとクラプトンのセットを素晴らしい音質で記録しています。


ドイツの名物プロモーター、フリッツ・ラウが1978年ツアーを回想

『Fritz Rau: Buchhalter der Traeume』(カトリン・ブリグル&ジークフリート・シュミット=ジョース共著。タイトルを直訳すると「フリッツ・ラウ:夢の会計士」)より、マンフレッド・ヘルフェルトが抜粋・英訳。



 フリッツ・ラウはロサンゼルスでディランの新マネージャー、ジェリー・ワイントローブと交渉していた。ラウはワイントローブの自宅のディナーに招かれ、そこでディランと初対面を果たした:

 私達がワイントローブ宅に招かれて滞在していると、突然、ボブ・ディランが部屋に入って来ました。かなり無愛想という評判は知っていたので、私は思いました。ディランはどんなことを話すのかな? きっとツアーの契約を再確認するだけなんだろうな、と。
 ところが、全くそんな話は出てきませんでした。「フリッツ、あなたと1963年のアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティヴァルについて話したいんだ」
 その年、まだスーパー・スターではなかったディランは、ヨーロッパをヒッチハイクして回り、コペンハーゲンで開催されていたブルース・フェスティヴァルを見ていました。ディランは遠いシルエットのようにしか知らなかったブルース・アーティストの生演奏を、生まれて初めて聞いたのです。
 ソニー・ボーイ・ウィリアムソンの小さなブルースハープからコンサートが始まったのは賢い選択だったのかどうか、という話をボブは始めたのですが、私はディランのミリオン・ダラー・ツアーの話をするほうに関心があり、さっさとそっちに話題を持っていきました。
 ドルトムントのウェストファーレンハレ、ベルリンのドイチュランドハレ、そして、ニュルンベルクの、かつては「帝国党大会広場」という名前だったツェッペリン広場でコンサートを企画していると伝えたところ、ディランは頭を横に振って言いました。「ニュルンベルクは場所としては良くないと思う」
 そして、ボブはレニ・リーフェンシュタールの映画『意志の勝利』や、アルベルト・シュペーアの巨大建築について話し始めました。ボブは全てを知っていました。「帝国党大会広場」がどういう意味かもです。
 ボブはじっと考えていました。大変な決断だったでしょう。しかし、突然、ほほ笑みながら首を縦に振りました。私達があの場所でコンサートをやってもらいたい理由を、ボブは本能的に理解してくれたのです。
(p.209)



 ベルリン公演はマスコミによる前評判が芳しくなく、ショウの後にもディランと(黒人の)バック・シンガーが不評で、ボブはとても傷ついていた:

 ボブはベルリンを大絶賛してたのです。ベルリンは魅力的で、半年くらいここで暮らしたいとまで言ってましたが、コンサートの後はこの考えを捨ててしまいました。この町に心底傷つけられたからです。
 ニュルンベルクへの移動中、ボブは殆どしゃべらず、何かをじっくり考えているようでした。1978年にここで行なった野外公演は、私達の努力に見合う超ハイライトでした。私達は前年にも、サンタナ、シカゴ、ウド・リンデンベルク等が出演した野外コンサートをやったんです。昔、ヒトラーが使った演壇の上にステージを建てました。破壊されずに、まだ建ってましたから。でも、シュペーア教授のアグレッシヴな建築からは良い「バイブレーション」が感じられませんでした。そういうわけで、ボブの時にはその正反対の側にステージを作ったのです。
(p.210-211)

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 レイク、チキン・シャック、クラプトンが素晴らしいセットを披露した後、ブルース・ピアニストのチャンピオン・ジャック・デュプリーがボブの1つ前のアクトだった:

 ボブは興奮していました。スタッフがチャンピオン・ジャック・デュプリーのピアノをステージの外に移動している間、ボブはバックステージで椅子に座りながら言いました。「フリッツ、オレもステージに立たなきゃいけないんだよな…」 文句の言葉というより、助けを求めた懇願でした。でも、ボブのためのお膳立ては全て出来ています。ボブがレザー・ジャケットを着て、シャツのエリをピンと立て、ステージに向かうスロープに入った瞬間、雲に覆われてどんよりとしていた空に裂け目が生じ、沈む夕日がこの人物を照らし始めました。 (p.214-215)

 ディランのステージは続きました。顔の前に小さなハーモニカを掲げ、3〜4曲ソロで歌うと、若い黒人のバック・シンガー、キャロライン・デニスを前に立たせて、ゴスペル・ソング〈A Change Is Gonna Come〉を1曲歌わせました。

ボブはこんなふうにキャロラインを紹介した:

 どうもありがとう! このグループには若手の女性シンガーがいます。皆さんに彼女の歌を聞いて欲しいんです。OK? この子がこれから歌うのは、古いサム・クックの歌です。サム・クックはご存じですよね。この人はキャロライン・デニスと言います。歓迎してください。

 まだベルリンでの酷評を克服出来ていなかったディランは、自分が連れてきたミュージシャンを私たちにしっかり紹介したいと思っていたのでしょう。バック・コーラスの面々もです。
 その後、エリック・クラプトンが飛び入りしました。太陽は沈んでいきました。日暮れと、それにともない長くなった影によって、どんどん夜のドラマチックな雰囲気が高まっていきました。かつてヒトラーが使った巨大な演壇は暗闇に飲み込まれていく一方、ディランのステージはフラッドライトで輝いていました。
 私たちは〈Forever Young〉の第2ヴァースの間に打ち上げるよう、花火の準備をしていました。ディランがステージから降りてきた時、私は涙を流していました。ディランは世界チャンピオンのように、自分を応援するファンのために戦い、持ってる力を全て出しきっていたのに、ヘトヘトの状態でどこかに歩き去るのではなく、私のところに歩いてきて腕を掴むと、言いました:「どうしたんだ、フリッツ? 万事うまくいってたぜ!」
 翌朝、私たちは電車でパリに移動しました。2晩目にディランからホテルの私の部屋に電話があり、こう訊かれました。「フリッツ、ニュルンベルクでは何があったんだい? あの時は、よく理解してなかったからさあ」と。私は答えました。「ニュルンベルクで何があったのか、ベルリンで何があったのか、是非とも訊いてくれ。ふたつはつながってるんだから」

nurunberg.jpg


 そして、ヒトラーの演壇の反対側にステージを設置した理由と、8万人のドイツ人がヒトラーに背を向けて、ディランとその音楽のほうを向いていたことを、私は再度説明しました。
 ディランは一瞬、返事をためらいました。じっと思い出しているかのようでした。そして、「あぁ。そうだったかもしれないね…たぶん」と言うと、電話を切りました。
(p.216-217)






The Original Article "Bob Dylan's 1978 German tour -- Impressario Fritz Rau remembers" by Manfred Helfert
http://bobdylanroots.blogspot.jp/2011/05/bob-dylans-1978-german-tour-impressario.html
Reprinted by permission


ニュルンベルク公演私見
文:マンフレッド・ヘルフェルト


 クリントン・ヘイリンが昔からずっと反ドイツ的偏見を持っていて、「もっといい話」にするためには真実をも歪めてしまうセンセーショナルな物言いをしていることに(例えば、「ニュルンベルクに関連することには必ずナチス的なニュアンスが含まれている。『OK捕虜収容所』のステレオタイプに慣れているイギリスやアメリカの読者諸兄姉は、そう思うことだろう」)、私は今でもなお大変憤りを感じているので、あの日の個人的な思い出を掘り起こしてみた。
 もう1度事実を話そう。ネオナチがステージに物を投げたなんて事件は起こっていない。
 コンサートの前にネオナチ・グループ(ホフマン防衛競技集団)からの脅迫があり、これがニュルンベルク市とディランのツアー・マネージメントの両方によって深刻な問題として受け取られた結果(私が2006年にフリッツ・ラウに対して行なったインタビューの抜粋はこのブログのここに掲載)、警備が非常に(時には人を威圧するほど)厳しくなった。
 コンサートそのものは至って平和であり、物が投げられるということも少しはあったが、それは、ステージの前で立ち上がって視界の邪魔となっている連中に向かって、少し後ろの連中が投げたものだった。これは、イタリアからコンサートを見に来ていたアンドレア・オーランディを含む他の観客の証言からも、裏付けられている。
 フリッツ・ラウもアレックス・コンティ(オープニングを務めたグループの1つ、レイクのリード・ギタリスト)も、私が2006年にインタビューした際には、ネオナチがステージに向かって物を投げたような出来事は記憶にないと語っており、コンサートを見に来ていた知り合いもそう言っている。



 以下は、あのコンサートに関する(極めて私的な)思い出である: 

 1978年7月1日の朝----私の記憶が正しかったら土曜日だ----空は雲で覆われていて、大雨が降りそうな雰囲気だった。コーヒーをもう1杯飲んだ後、私は学生の友人2人と一緒にボロボロのビュイック6(つまりフォルクスワーゲン・ビートル)に乗り込み、ニュルンベルクに向かった。
 朝の8時、我々は予定より遅れてマインツ郊外を通過して66号線(A-66)に乗り、バヴァリア自由共和国(バイエルン州)の荒野の中を、「ツェッペリン広場」を目指して東に向かって進んだ。ニュルンベルクの元「帝国党大会広場」(ナチスが1930年代に党大会を行なった場所)だったところは、現在、この遠回しで政治的にも「不適当」な名前を付けられ、過去をかき集めて絨毯の下に隠してしまっている。今や、墓は全て芝生に覆われており、我々はのどかな田舎を平和に穏やかにドライヴしていた…。
 1週間ほど前に買ったばかりの《Street Legal》がカー・ステレオから爆音で流れていた。〈Baby, Stop Crying〉〈Is Your Love In Vain〉〈Senor〉...気が落ち着くステキな音楽だ。アウトバーンをビートルが出せる最高速度でドライヴするのにピッタリだ。
 フランクフルトに差しかかる。道路は混雑。いくつかの州ではこの日が学校の夏休みの第1日目であることを忘れていた。皆が家族でいろんなタイプのボロ自動車(ドイツの典型的なカーキチがそうであるように、たいていは染み1つなくピカピカな状態である)に乗って、内戦前のユーゴスラヴィアやイタリアといった楽園に続くこのハイウェイ上を、我々と同じ方向(東もしくは南東)に移動していたのだ。
 ヴュルツブルクに差しかかる。止まったり進んだり。人生で経験した最悪の交通渋滞に巻き込まれる。道路は車でぎっしり。スピードは時速2キロ。次の出口でアウトバーンから降りよう?
 さもなければ、2時のコンサート開始に間に合わない。フェスティヴァル・グランドの開場は12時だ。
 遂に出口があった。我々は激しい渋滞のハイウェイから降りて、狭い田舎道を目的地に向かって(スムーズに、渋滞などなく)進んだ。
 やっとニュルンベルクに到着。町の中で迷うが、11:30にやっと「ツェッペリン広場」という看板を見つけた。フェスティヴァル会場の近くの駐車スペースは既にいっぱいになってしまっていたので、我々は1マイルほど離れた場所に車をとめて、荷物を掴むとアリーナを目指して歩いた。
 第一印象:巨大な灰色のコンクリートの壁が慈悲深いカモフラージュとして植えられている林の向こうに立っていた。とにかく大きい。いたるところに有刺鉄線が張られ(フェスティヴァル会場への不正な侵入を防ぐため)、黒いレザーに身を包んだ凶暴そうな警備員と、さらに凶暴そうなジャーマン・シェパード(「総統」が飼っていた「ブロンディー」か他の犬の子孫だろう)が口輪をはめられて有刺鉄線の向こう側にいた。最悪の雰囲気。「我々は強制収容所に入ろうとしているのか?」
 メイン・エントランスでは、たくさんの人間が5箇所ほどの「家畜用シュート」のような入り口を通らされ、武器やガラス瓶を持ってないか身体検査を受けていた。しかし、空気が変わった。「最悪の雰囲気」はどこかに消えてしまった。入場の列に並びながら、人々は冗談を言い合ったり、新しい友達を作ったりしていた。
 我々はやっと中に入ることが出来た。驚くべき光景だった。我々の前には既に3万人か5万人のファンがいて、ステージ前の平らなエリアでブランケットやエアマットレス等の上に腰を下ろしていた。巨大建造物に囲まれた巨大アリーナ(映画『ベン・ハー』に出てくる立て馬車レースの競技場を2倍か3倍の大きさにしたものを想像してほしい。もしくは、レニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』を見て欲しい)の半分を会場として使っていたが、その端から見たら、このエリアはとても小さく見えた。
  もう半分のエリア(ステージの裏)はアメリカン・タイプのスポーツ場に変えられていた。標準的な野球場があり、その屋根なしの観客席は7月上旬の午後の太陽に照らされていた。(ニュルンベルグに配属された米軍に使用されていたので、コンサートの時には「立入禁止区域」となっていた)
 我々の真後ろには、この場所にある建築物の中で最も巨大な部分が立っていた。ヒトラーが演説に使った演壇があり、その後ろには巨大なコンクリートの「柱」がそびえ立っていた。こうしたものは皆、おそらく、観衆を「矮小化」すること、つまり、「お前個人なんか取るに足りない。お前の民族(と、栄光に満ちた指導者アドルフ・ヒトラー)こそ全てなのだ」という感情を吹き込もうという意図があったのだろう。人を威嚇し、萎縮させるものだった。
 我々はこのコンクリートの怪物の麓に腰を下ろすスペースを見つけた。ここはステージに近い平らなエリアよりやや高かったので、視界を邪魔されずにステージが見えた(我々は宝石は持っていなかったが、首からは双眼鏡を下げていた)。しかも、簡易トイレからもそんなに遠くはなかった(右の方にあった)。赤ワインをプラスチックのボトルに入れて持ってきていたので、かなり便利だった。会場内に入ってくる群衆は、エンドレスのようだった。

 コンサートが始まった。我々は近くにいた人と友達になり、タバコを融通しあったりした。
 ドイツとイギリスの混成バンド、レイクがオープニングとして登場。次はブリティッシュ・ブルースのチキン・シャック。ステージは回転式で、あるバンドが演奏している時に、次のバンドが裏で準備を行ない、出番が来たらステージを回転させて、後ろ側の部分を前に持って来る仕組みだった。そうして、セット・チェンジの時間を最小限にしていた。非常に優れたプランだった。
 この日初の真の「ハイライト」は、イヴォンヌ・エリマンをバック・シンガーに擁したエリック・クラプトンだった。イヴォンヌは映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』でマグダラのマリア役を演じたことで有名なシンガーで、〈Can't Find My Way Back Home〉ではソロ・アーティストとしてフィーチャーされていた。
 この頃、私は「塔」の1つの上にいた。ここからは会場全体だけでなく、ツェッペリン広場の外側も見えた。約500メートル向こうには人工(のように見える)の池があり、その反対側にはさらに巨大な建物があった(明らかにナチス時代の建造物だ)。
 フェスティヴァル会場への入場待ちの人々の列はまだ長かった。私はこんなに大勢の人は見たことがない。クラプトンはJ・J・ケールの〈Cocaine〉を演奏した。
 クラプトンの次に登場したのは、ソニー・テリー&ブラウニー・マギーではなく、チャンピオン・ジャック・デュプリーだった。素晴らしいミュージシャンだが、ある評論家が後に「闘牛場でビー玉遊びをするような演奏だった」と言ってたという記憶がある。素晴らしいアクトだったが、巨大なオーディエンス(この時点では7〜8万人になっていた)の前ではやや場違いだった。彼のくつろいだブルースはクラブのような場所のほうがお似合いだ。
 遂に、私がずっと長い間待ち続けていた瞬間が到来した。生まれて初めてボブ・ディランのコンサートを見ることが出来るのだ!
 私が全く知らなかったタンパ・レッドの〈She's Love Crazy〉がオープニングで、2曲目は〈Baby, Stop Crying〉(これは知っている曲)だった。〈Mr. Tambourine Man〉は馴染みのない1978年のアレンジ。〈Shelter From The Storm〉など。
 〈Going, Going, Gone〉(song #12)の後、キャロライン・デニスがサム・クックの〈A Change is Gonna Come〉を歌い、その後、ヘレナ・スプリングスの歌う〈Love Minus Zero/No Limits〉、スティーヴン・ソールズの歌う〈Laissez-Faire〉と続いた。
 昨晩、33年ほど前のこのコンサートをおさめたCD-Rを聞いて、ディランの演奏はとてもパワフルかつエキサイティングだと感じた。この歴史的な場所の変な雰囲気が、ディランに「最善」を尽くさせたかのようだった。
 1978年のヨーロッパ・ツアーの他のコンサートでは「平均」26〜27曲だったが、ニュルンベルクでは自分の「メイン・セット」で28曲を演奏し、〈Masters of War〉を紹介する歳には、この場所の重要性について言及すらした。
 ディランのセットの中盤で、私は群衆の中を進んでステージ前まで行った。バリケードや入り口のところにあった「家畜用シュート」が取り払われ、皆がタダで入って来て、フィナーレを見ることが出来るようになっていた。
 夜が訪れた後、アンコールで2曲披露された。〈I'll Be Your Baby Tonight〉と〈The Times They Are A-Changin'〉ではエリック・クラプトンが飛び入りした。最後の曲では、ステージの裏から「プロ」の花火が打ち上げられた。ステージ前のエリアは、フラッシュライト、ライター、米軍から放出されたと思しきさまざまな色の「照明弾」(観客の中にはかなりたくさんの米兵がいた)の何千もの光で、さらに明るく照らされた。このマジックのような光景は目に焼き付いて消えなかった。我々の車に戻るまでの長い帰り道の間も。


The original article "Nuremberg 1978 -- My Own (and Alex Conti's) Personal Recollections" by Manfred Helfert
http://bobdylanroots.blogspot.jp/2011/05/nuremberg-1978-my-own-personal.html
Reprinted by permission

   


以下の本、絶賛発売中

  
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