2017年07月17日

ディラン&ザ・グレイトフル・デッドは30周年

 なんとか何十周年というのが大流行の今日この頃ですが、今年がそれにあたるというのに《Sgt. Pepper》50周年やコーネル大学公演40周年の影に隠れて全然目立ってないのが「ディラン&ザ・デッド30周年」です。前2者のような派手な「箱物行政」のリリースもなく、誰からも相手にされてない感がパないですが、嬉しいことに、ハワード・F・ワイナーというディランとデッドの両方が好きという殊勝な人物が『Dylan & The Grateful Dead: A Tale Of Twisted Fate』を出版しましたよ。そして、彼のお気に入りのショウ、ジャイアンツ・スタジアム公演が行なわれた7月12日に、今回ここで紹介する回想を自身のブログに掲載しました。
 私もこのコンサート、直に体験したかったなあ。

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[共演の翌年にリリースされたユージーン公演(私はこの公演が一番好き)の海賊盤LPと、21世紀になってからeBayで入手した同公演の未使用チケット----タイムマシンが欲しい]





ディラン&ザ・デッド、再生の場所としてのジャイアンツ・スタジアム
文:ハワード・J・ワイナー


 1987年7月12日(日)、ビルボード誌のシングル・チャートではボニー・タイラーの〈Total Eclipse Of The Heart〉がナンバー1、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストではスティーヴン・キングの『Misery』のトップだった。『Misery』に登場するよろよろ歩きの主人公のように、ディランは名声によって手足を不自由にされ、救済を求めていた。ジャイアンツ・スタジアムの10マイル東には、ボブ・ディランの神話と伝説が始まった場所であるマンハッタン島の荘厳なスカイラインがあるが、もしディラン本人がキャリア初期のヴィレッジ時代についてじっくり考えるなんてことをするとしたら、別の人生で起こった出来事のように感じることだろう。華氏95度(35℃)の猛暑だったあの日、ニュージャージー州イースト・ラザフォードでハイウェイや沼地、汗臭いヒッピーに囲まれながら、ディランはデッドからライフラインを受け取ったのだ。
 これはグレイトフル・デッドが1セット丸々ディランのバックを務めた6回のショウのうちの3回目だった。7月4日にフォックスボロで行なわれた1回目のショウは、ディランにとっては11カ月ぶりのコンサートだった。ディランのグダグダで錆びついたパフォーマンスをグレイトフル・デッドの調子の悪い日と合わせてみろ。結果は最悪だ。6日後にJFKスタジアムで行なわれたショウ2回目には大きな向上が見られた。その時、ガルシアとディランが同じステージに立っているという光景のパワーに私は心を奪われながら〈The Ballad Of Frankie Lee And Judas Priest〉の初演を聞いた。しかし、このショウのテープに私は感激したことはなく、ディラン/デッドのコラボレーションの素晴らしさを説明するのに、誰かに聞けと勧めたこともない。その2日後のジャイアンツ・スタジアム公演こそ、私がこれまでに見た最もスリリングな音楽イベントなのだ。この30年の間、数千回とテープを聞き、ビデオを見てきた後も、この気持ちは変わらない。
 ディランにもガルシアにも、躊躇やお試しという概念はない。ショウの前に協定を結んだかのようだ。2曲目の〈Stuck Inside Of Mobile With The Memphis Blues Again〉の開始時、ディランはずれた拍子で歌い始めてしてしまったが、調子を落とすことなく歌い続け、第3ヴァースになると、この語り部は初めてこのバンドに畏敬の念を抱いたかの如く、歌詞を弾丸のように発射する。グレイトフル・デッドはディランのスタイルでペースを作ったアレンジを提供し、ソロのスペースは2回分、手短に残しておいた。ディランとのジョイントが終了した後も、デッドは〈Stuck Inside Of Mobile〉をレパートリーに加えたが、ガルシアはいつもソロを2回取っている。しかし、この晩には、ディランが情熱的に「Oh MAMA! Can this really be the END?」と叫ぶのを耳にしたガルシアは、ソロをもう1度余計に弾いて、大胆なパフォーマンスの流れの方向性を定めた。



 ガルシアはペダル・スティールのほうに移動すると、ディラン/デッドでは1回だけしか演奏しなかった〈Tomorrow Is A Long Time〉が始まった。ディランがこんな曲聞いたことないかのように叫び声で歌う一方、デッドはラブリーなカントリー風味の演奏をしていた。しかし、ガルシアとウィア、ミッドランドと一緒にサビを歌い、ジェリーのペダル・スティール・ソロを聞いて、ディランはこのバラッドの本質的感情を発見し、最終ヴァースの叫びには愛がこもっていた。
 〈Highway 61〉ではディランは軽快に飛ばし、「Found a promoter who nearly fell off the floor, yeah-eah, I never did engage in this kind of thing before, yeah-eah」(床に転びそうになったプロモーターを発見。イェー。前に、こんなことに関わったことなんてないぜ。イェー)を笑い混じりに歌った。ディランは歌いながら、歌詞のアイロニーに思いがけず気がついたのだ。だって、本当に、こんなことは今までにやったことがなかったのだから。ディランは常に音楽面でのリーダー役を担ってきたが、ジャイアンツ・スタジアムでは、事実上のリーダーはガルシアだった。2006年にローリング・ストーン誌に掲載されたジョナサン・レゼムによるインタビューで、ディランはこう語っている。「デッドはオレの曲をたくさんやってたから、一緒にやった時はアレンジは全部いただいた。オレよりうまくやってたからね。オレの出来の悪いレコーディングの中にある、そこに埋もれてる歌が、ジェリー・ガルシアには聞こえていたのさ」 〈Highway 61 Revisited〉でガルシアは絶妙なスライド・ギターを弾いた。ガルシアのソロ活動は、ここしばらくはジェリー・ガルシア・バンドのみだった。デッドと同じくらい実験的な音楽をやってはいたが、こっちもずっと同じメンバーだった。ディランと演奏することは夢の実現であり、かつ、ジェリーとっては、いつもの快適ゾーンの外側に踏み出すチャンスにもなっていた。
 エキサイティングな〈Highway 61〉の後、ディランとデッドは〈It's All Over Now, Baby Blue〉を始めた。1986年には2回挑戦して悲惨な結果に終わっていた曲だ。ジャイアンツ・スタジアムでもまた、ディランのシャウトのタイミングはズレ気味だったが、自信を失わずに曲を進め、第2ヴァースになると、デッドのゆったりとしたアレンジに対して銃を速射するような歌い方をうまく合わせる術を見出した。ガルシアが「And it's all over now…」と歌っていると、ディランは最後の2単語以外を早口でまくし立てた後に、ガルシアが追いつくのを待ち、ふたりで揃って最後の言葉を叫んだ。「Baby Blue!」 自分のアプローチを変えることなく、ディランはこの芸当をやってのけた。そして、ガルシアはこの瞬間が気に入ったことを、2回目のソロとして表現した。グレイトフル・デッドの歴史において、〈Stuck Inside Of Mobile〉のソロが3回あったのはこのショウのみだったが、ソロが2度あった〈Baby Blue〉もこの時のみだった。
 ディラン&ザ・デッドが〈Ballad Of A Thin Man〉を開始すると、何かが起こり始めた。ディランが1960年代に書いた予見的な歌をこのコンビは3回連続で演奏したが、ディランが歌詞を正しく歌うのを聞きながら、ウィアとガルシアも自信に満ちた表情をしていた。ガルシアはディランの歌に呼応するようにリフを演奏した。ディランが「contacts among the lumberjacks」(木こり間の連絡)に関する強力なブリッジを歌った後に、ブレントがパワフルなコードを弾くと、ミュージシャン全員のタイミングはピッタリ。ディランはブレントの貢献に「オー・イェー!」と叫んで応える。ガルシアがエンディングで弾いた精神がとろけてしまうような見事なソロは、サイケデリックな混沌の雰囲気を作り出した。私たち全員、ミスター・ジョーンズ的な性質を少しは抱えているものなのだ。



 ディランがデッドの手を借りて初期の未発表の反戦歌〈John Brown〉を蘇らせた後、薄明かりが暗闇に変わると、ミュージシャンたちはタバコのライターの炎のゆらめきを背景に楽器をチューニングした。ジャイアンツ・スタジアムに掲げられた巨大なビデオ・スクリーンの1つが、ギターを持ったガルシアの姿を映し出したタイミングで〈Wicked Messenger〉が始まった。《John Wesley Harding》に入っているこの曲は、ディランがライヴでは披露したことのなかったナンバーだが、ガルシアのソロ・バンドの1つ、リジョン・オブ・メアリーは1975年に何度か〈Wicked Messenger〉をカバーしている。ディランはマイクの前に歩み出て吠えた。「There was a wicked messenger from Eli he did come!」(悪意を抱いた使者がいた。そいつはエリからやってきた) 腹の底から声を発する伝道師のようなヴォーカルは、この曲の聖書的な雰囲気にマッチしていた。ディランの丁寧な歌い方が何かを示しているとしたら、ガルシアのブルース・リフとバンドが出す雷鳴のようなサウンドに動かされてのことだろう。ディランが「The soles of my feet, I swear, they're burning」(オレの足の裏が燃えている)と歌うのをガルシアが聞くと、彼のすばしこい指は踊るソーセージにようにフレットボード上を小刻みに動いた。ディランはガルシアのギターに酔いしれながらステージ上をウロウロした。私はこれまでで最もホットなギター・ソロを聞いた時の観客の反応に心を打たれた。 「If you can't bring good news then don't bring any」(良いニュースを持って来れないのなら、何も持ってくるな)とディランが歌うと、デッドはブルース風メロディーラインをもう1度演奏して、この曲を締めた。ガルシアとウィアはドヤ顔で立っていた。ディランは何かに取り憑かれているようだった。ミッション完了。
 このパフォーマンスに関する歴史的な云々(ディランにとって〈Wicked Messenger〉はライヴ初演だった)や、ディランが人生半ばで経験していた創造力の沈滞について全く知らなかった私は、ただ癒しを感じていただけだった。これは、ガルシアとディランが一緒にステージに立ったらこんなことが起こるかもしれないと私が考えていた予想を超えていた。
 次に披露された私の大好きな2曲〈Queen Jane Approximately〉〈Chimes of Freedom〉は少々焦点の合ってない演奏だったが、〈Chimes〉ではディランは煌めくようなヴォーカル・ワークを披露した。



 フォックスボロ公演とJFK公演の後に、私の頭の中でずっと鳴っていた曲が、《Desire》に収録されている伝説のギャングについて歌った〈Joey〉だった。ディラン・マニアになってまだ日が浅かった私は、この曲が持つパワーを見過ごしていた。ディランの横で、ガルシアは確信を持ってコーラスを歌った。「ジョーイ、ジョーイ、ストリートの王、土の子供。奴らに自分を殺しに来させたのはなぜなのか?」 デッドが何度も強くコード進行を鳴り響かせているこの時の〈Joey〉は、アルバム・バージョンを打ち砕いてしまった。ディランはフットボール・フィールドの端に建てられたステージ上に立っていた。全米トラック運転手協会のボス、ジミー・ホファの遺体が埋まってるのはそのあたりだという噂がある。ディランはギャングのペルソナをかぶり、まるで本当に見てきたかのような話しっぷりで、ジョーイ・ガロのゆりかご(ブルックリンのレッド・フックで誕生)から墓場(ニューヨークのシーフード・レストランで撃たれる)までの物語を語る。ディランはギターをライフルのように持ち、前をまっすぐ見据えて、せせら笑いながら、ジャイアンツ・スタジアムを魔法にかけてしまった。5つのヴァース全てを完璧な順番で歌い、社交クラブにいる話し上手な男のホラ話のようなやり方で事実を届けた。ディランの演奏中、巨大スクリーンの映像が観客の心の中に入り込む。ディランはそれまで見捨てていた曲と本能的に再接続していた。
 1991年のポール・ゾロによるインタビューで、ディランは語っている。「オレにとっては、いい歌さ。素晴らしい歌だという魅力は決して失われない。そういうことって、毎晩歌いながら、ようやくわかることなんだ。この曲をオレに歌わせた奴を知ってるだろう。ガルシアさ。ガルシアがオレにこの曲をもう1度歌わせたんだ。史上最高の歌の1つだとも言っていた。こんな言葉が彼の口から出てきて、どっちに受け取っていいのかわからなかったよ(笑)。デッドの演奏でこの曲を歌わされたけど、オレにとっては、〈Joey〉には、毎日耳に出来るわけではないホメロス的なところがあるのさ」
 〈All Along The Watchtower〉でもガルシアの素晴らしいギターの腕前が披露された。私はこの曲が自分が体験した最もスリリングなコンサートの最後の曲だろうと思った。最後のジャムの炎のまだまだ熱い残骸が遂にタッチダウンとなった時、ディランは言った。「ありがとう、グレイトフル・デッド!」 ディランは1987年に36回のコンサートを行なったが、オーディエンスに向かって語りかけたのは2度しかない。この時と、9月5日のテルアヴィヴ公演で〈Highway 61〉の後に「シャローム」(「みなさんに平和を」という意の別れの言葉)を言った時だ。この晩のデッドのパフォーマンスに心の動かされていたディランは、コードをいくつかかき鳴らした。その直後、ボブの口から発せられた言葉は「Come gather 'round people, wherever you roam…」。ジェリーと仲間たちは不意をつかれたに違いない。しかし、彼らは残業も厭わない。ディランの発する不朽の言葉の間のスペースを、ガルシアは生き生きとしたラインで満たした。ジャイアンツ・スタジアムに集まった忠実なファンの中に立っていた私の頬を、驚喜の涙が伝っていた。今でおなお、この〈The Times They Are A-Changin'〉の感動的な演奏は、テープで聞くたびに胸がいっぱいになる。5時間に渡って、3回の長いセットをこなした後だというのに、グレイトフル・デッドはディランと一緒に再び登場して、ダブル・アンコールに応えた。ディランは〈Touch Of Grey〉にギターで参加し、ウィアとガルシア、そして、ふたりの間にいるディランが「we will get by-eye-eye, we will survive」のラインを歌った。これ以上幸福な瞬間はない。〈Knockin' on Heaven's Door〉は素晴らしいイベントのやさしいさよならの挨拶だった。ずいぶんゆっくりとしたバージョンだったが、彼らがまだ演奏しているのは驚きだった。私はまあまあ健康な24歳の男子だったが、じりじり暑い夏の日に、倒れる寸前だったのだから。
 ディラン&ザ・デッドは1週間の休みの後、西に移動してユージーン、オークランド、アナハイムで最後の3回のコンサートを行なった。何があったのかは私には定かではないが、ツアーの最初の勢いはなくなっていた。ユージーン公演はフォックスボロに毛が生えた程度の出来映えで、残りのショウも首尾一貫性に欠けていた。7月24日のオークランド公演がこの3回の中ではベストであり、〈I Want You〉と〈Knockin' On Heaven's Door〉は必聴だ。
 1989年には、このツアーで演奏された曲をまとめたレコードがリリースされた。批評家たちはこぞって《Dylan & The Dead》を酷評した。確かに残念なアルバムで、選曲はディランが担当したらしい。デッド側からも、主にジャイアンツ・スタジアム公演から選曲されたアルバム案がまとめられたが、ディランはこの提案を拒否。ガルシアがアルバムのミックスについて相談するためにマリブのディラン邸を訪れた際、ボブはラジカセでテープを聞いたらしい。リリースされたアルバムは無意識的な自己破壊行為であり、これによってグレイトフル・デッドも間接的にダメージを被った。ジャイアンツ・スタジアム公演を中心にアルバムを作らない限り、まともな作品にはならない。ディランの《Bootleg Series》の一環として、ジャイアンツ・スタジアム公演にスタジオ・セッションのアウトテイクが加えられてリリースされたら、《Dylan & the Dead》によって不正確に記録されてしまった歴史を修正し、この重要なコラボレーションを輝かしい光で照らすことが出来るだろう。

The original article "BORN AGAIN IN THE SWAMPS: DYLAN & THE DEAD 30 YEAR AGO, GIANTS STADIUM" by Howard Weiner
http://visionsofdylan.blogspot.jp/2017/07/normal-0-false-false-false-en-us-x-none.html
Reprinted by permission

   
posted by Saved at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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