ボブ・ディランのマッスル・ショールズ・セッション秘話
文:マット・ウェイク
「ベア、たまげたぜ。ディランがキリスト教徒になっちゃったよ」 ジェリー・ウェクスラーは電話でバリー・ベケットに語った。『Bob Dylan: A Spiritual Life』の著者、スコット・M・マーシャルによると、この会話が行なわれたのは、ボブ・ディランが1979年に発表したアルバム《Slow Train Coming》のセッションがマッスル・ショールズで行なわれる前のことである。マーシャルがこのアルバムを共同でプロデュースしたウェクスラーとベケット(どちらも既に物故者)に最後にインタビューしたのは、それぞれ2008年と2009年のことだった。
ベケット(ニックネームはベア)はディランがキリスト教に改宗したことが次作にもたらす影響について、ウェクスラーほどは悲観的ではなかった。ベケットはこの電話でウェクスラーにこう答えた。「うまくいくと思うよ、ジェリー。ボブの書く歌詞が感傷的過ぎなければだが」
ディランは55年に及ぶレコーディング・キャリアによって、史上最も影響力のあるソングライターとして確固たる地位を築いてきたが、《Slow Train Coming》と、同じくマッスル・ショールズで録音された《Saved》以降の「キリスト教期」は、最も評価されていない時期である。これと同じくらい低い評価が下されたのは、1965年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルで「プラグイン」した時しかない。ディランはアコースティック・ギターでソロで奏でていたフォーク・サウンドをストラトキャスターとエレクトリック・ロック・バンドと交換し、一部のファンを失望させたのだ。そのツアーの終盤のほうで行なわれたマンチェスター公演では、ある愚か者が曲と曲の間に「ジューダス!」と大声で野次を飛ばした。
マーシャルは「ディランのエレクトリック化」と「キリスト教への改宗」にいくつもの共通点を見出しているが、前者がポップ・カルチャーの歴史的瞬間だとすると、後者のほうが雰囲気的に重苦しいものだったと言っている。ジョージア州トコアで奥さんと暮らす自宅から筆者の電話インタビューに答えてくれたマーシャルはこう言う:「当時(1960年代半ば)の議論は楽器とスタイルの選択についてでした。もちろん、これも重要なことであって、大騒動になりましたが、1970年代末には、ほぼ20年に及ぶ作品大系を抱えていて、多くの人の崇拝の対象になっていたディランが、皆の前に出てきて「イエスが答えだ」って言い出したのです」
ドラマーのピック・ウィザーズは、カリフォルニア州ウェスト・ハリウッドにあるザ・ロキシーでイギリスのバンド、ダイアー・ストレイツのギグでプレイした後に、ディランと初対面した。彼らは上階にあるプライベート・バーでディランを紹介された。ダイアー・ストレイツが1978年にリリースしたデビュー・アルバムには、ディラン風のとりとめのない曲〈Sultans Of Swing〉が収録され、しかも、この曲はヒットしてた。シャキっとさわやかなジャズ風の演奏をするウィザーズと、ダイアー・ストレイツ・サウンドのトレードマークとなった雄弁なギター・ソロを弾くプレイヤー、マーク・ノップラーは、ディランの《Slow Train Coming》のセッションに招かれた。現在、妻のリンダとリヴァプールで暮らすウィザーズは言う:「(ロキシー公演は)略式のオーディションだったんだと思う。ジェリー・ウェクスラーとバリー・ベケットがオレたちを推薦してたんだよ。ダイアー・ストレイツのセカンド・アルバム《Communique》をふたりに共同プロデュースしてもらったばかりだから、オレたちが参加することになった直接的理由はそれじゃないかな」 2000年にマーシャルがウェクスラーから聞いた話によると、ディランから電話があって、《Slow Train Coming》となるアルバムのプロデュースを頼まれたらしい。これまでにマッスル・ショールズでレコーディングされた数多くのレコードの確固たる音楽性と商業的成功を、ディランは強く意識していた可能性が高い。ステイプル・シンガーズのソウル・ヒット〈I'll Take You There〉もローリング・ストーンズの名曲〈Brown Sugar〉も、ここで録音されたものだった。
〈Slow Train〉はマッスル・ショールズ・サウンドでレコーディングされたものだが、アラバマ州シェフィールドのジャクソン・ハイウェイ3614番地にある有名なほうのスタジオではなく、アラバマ・アヴェニュー1000番地の、テネシー川河畔にある元海軍予備隊ビルにあるスタジオのほうだった。
グレッグ・ハムは《Slow Train Coming》と次のLP《Saved》でレコーディング・エンジニアを務めた人物で、ディランとミュージシャンたちの奏でる音楽は、彼の手によってニーヴのコンソールを通して2インチ・24トラックのアナログ・テープに収録された。ディランのヴォーカル録りは中央の隔離ブースで行なわれ(ノイマンU87に向かって歌ったと思われる)、その信号はハムとウェクスラーとベケットの控えるコントロール・ルームにダイレクトに届けられた。
ハムの記憶によると、ディランはセッション中、殆どいつも「小さなトボガン・キャップ帽子」をかぶっていたらしい。ディランはバンドの演奏と一緒にライヴで歌い、ギター(その中にはブラック&ホワイトのストラトもあったであろう)も同時にレコーディングした。「レコーディングを一瞬一瞬がどんどん変化していくような状況に置きたいようだった」とハムは語る。「いつもそういうふうにやってたんだろう。オレもその意見に全面的に賛成だ。リアルな音をリアルタイムに得るというのは、とても筋が通っているね」 ハムの記憶によると、ディランは《Slow Train Coming》のセッション中ずっとノートブックを持っていたが、その中身が歌詞かセッション・メモか買い物リストかは定かではないという。
ベケットによると(2000年に行なわれたマーシャルによるインタビュー)、ディランはマッスル・ショールズ・サウンドで新曲〈Gotta Serve Somebody〉のランスルーを聞いて、初めてホッとしていたらしい。「歌詞を聞いた時に、オレは「こいつは凄い!」って言ったんだ。クリスチャン・ミュージックによくありがちな「イエス様は私を愛している。それを実感している」なんていうダサいものじゃなくて、深みがあったね」 骨太なサウンドと大胆な歌詞を持ちダンサブルですらある〈 Gotta Serve Somebody〉に、ハムは瞬く間に虜になった:「皆に広まりやすい優れたフィーリングっがあった。特別な曲だと思ったね」 このナンバーはアルバムのオープニング曲になっただけでなく、ディラン初のグラミー受賞曲にもなった。1980年に最優秀男性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞に輝いたのだ。
1979年の時点で、マッスル・ショールズはロッド・スチュワートやポール・サイモン等、数々の大スターを迎えていたが、共同オーナーであるジミー・ジョンソンはディランがやって来ることに非常にわくわくしていた。しかし、このわくわく感はディランと会った途端にやりにくさに変わった。ジョンソンは語る:「超変人で、興味を引き起こす人物だったよ。実際、最初に会った時には我々と話そうとすらしなかったんで、そういうふうに扱うようにしたら、今度は手のひらを返したようにいい人になっていった。ずっとスタジオを経営してきたけど、あんな人物には会ったことはないと思う。でも、最後には、いい友好関係を築き上げることが出来たよ」
ハムの記憶によると、セッションが進むにつれて場があたたまってきたという。「参加メンバーの多くは(ディランと)会ったことがなかったので、どんな人物か知らなかったんだ。よく知らない人で、しかも、その人がディランほどの地位の人物だったら、接するコツを飲み込むまでは超慎重になってしまうだろう」
ハムによると、1979年春の《Slow Train Coming》セッションの殆どが昼間に行なわれたのは、ウェクスラーが夜遅くに働くのを好まなかったかららしい。多くのセッション参加者と同様、ハムの思い出の中でもディランは物静かな人物で、歌ったり、ギターを弾いたり、ミュージシャンに新曲の説明をしたりしていない時には、自分ひとりでいたという。コントロール・ルームのトークバック・マイクを通して送られて来た指示の一部は、元をたどるとディランから出たものであったかもしれないが、セッションを仕切っていたのは基本的にウェクスラーとベケットだった。ウィザーズによれば、彼とノップラーがディランと会うのは「現場で」のみ、つまりスタジオ内だけであったという。
だからといって、ディランは《Slow Train Coming》に参加したミュージシャンたちをセッション中に避けていたわけではない。ジョンソンは笑いながら回想する。アルバムに参加していた女性のバック・シンガー全員を、自分が宿としていたウィルソン湖の屋敷に泊まらせていた、と。
《Slow Train Coming》ではエディー・ライアンのカスタムメイドのキットを叩いていたウィザーズによると、セッションの始まりはゆっくりだったという。ディランとウィザーズ、ノップラー、そしてベーシストのティム・ドラモンドが、ピアノを弾くベケットと一緒に曲のアレンジを行なった。ウィザーズは語る:「基本的に、オレたち全員がピアノのまわりに集まって、曲がどういうものかを初めて伝えられたんだけど、皆の頭の中にロードマップのようなものが出来上がってはじめて、オレがドラムを叩いたという記憶がある。興味深かったのは、ディランの最初の数テイクのヴォーカルがマスター・ヴォーカルになったってことだ。最大でも3回しかやらずに、別の曲に行った。アルバム全体がこういうやり方でレコーディングされた。まずは4つのベーシックなリズム・セクションをレコーディングして、マークのソロやバック・ヴォーカル、オルガン、パーカッション、ホーン等は後で録音した」
実際、ウィザーズとノップラーがマッスル・ショールズ・サウンドにいたのは10日間だけで、ノップラーのギター・ソロを除くと、後から加えられたオーバーダブは、1979年8月20日に《Slow Train Coming》がリリースされるまで、ふたりとも全く聞いていない。
ウィザーズは、ベケットとドラモンドとのコンビネーションでドラムを叩いたことで、自分のプレイは向上した、ダイアー・ストレイツの後のアルバムにキーボードを加えるのにも役に立ったと語っている。「オレはずっと、ダイアー・ストレイツにキーボードを導入したかったんだけど、ジョン・イルズリー(ベーシスト)とデヴィッド・ノップラー(リズム・ギタリスト)が二の足を踏んでたんだ。でも、この体験のおかげで、ずっとあれこれ考えてたマークも、キーボードを入れる決意をすることが出来たんだと思う」 そういうわけでウィザーズがダイアー・ストレイツに在籍していたその後の6年間における最大のヒットでは、キーボードがフィーチャーされることになった。1985年の〈Walk Of Life〉がその1例だ。ウィザーズはその後、ロバート・プラントやジョーン・バエズのプロジェクトに参加した。
ウィザーズがディラン・セッションを振り返って特にお気に入りの曲として挙げているのが〈Do Right To Me Baby〉とレゲエ風の〈Man Gave Names To All The Animals〉である。「他の曲の中には、ゴージャスな女性ゴスペル・コーラスやホーン・セクション、キーボードがなかったら不完全なものもある。こうした曲は、オーバーダブの結果、見事に完成したけど、〈Animals〉はオーバーダブのないバージョンのほうが、もっと完全な作品だったなあ」
この記事のためにインタビューに答えてくれたミュージシャンやスタジオのスタッフのうち、ディランのキリスト教色の強い歌詞をセッション時の大きなトピックとして語ってくれる人は皆無だ。ウィザーズは言う:「それにはあまり注意を払ってなかったよ。バッキングの演奏に集中してたから」 〈When He Returns〉等、テーマやタイトルが明らかにキリスト教的であるだけでなく、ディランの書く歌詞の中身もド直球だった。以前のマテリアルは、〈Like A Rolling Stone〉といった謎の歌のように、いろんな意味に取ることが可能で多様な解釈の余地のあることが多かったが、マーシャルの意見によると「もっと前の時代の歌詞と比べると、全く異なる性質のもの」になった。
《Slow Train Coming》には〈Gotta Serve Somebody〉以外にも傑出した曲があり。感情豊かな〈I Believe in You〉ではノップラーの愛らしいギター・フレーズがフィーチャーされ、 ディランのヴォーカルとベケットのピアノだけで歌われているシンプルの極致ともいうべき〈When He Returns〉も強力なトラックだ。後者について、ベケットは2000年に行なわれたインタビューでこう語っている:「ディランの歌唱力の神髄にこの時初めて気づいたよ。どれだけたくさんの魂{ソウル}を持ってるかってことにね。まさに大発見だった」
チャールズ・ローズ(トロンボーン)、ロニー・イーデス(サックス)、ハーヴィー・トンプソン(サックス)、ハリソン・キャロウェイ・Jr.(トランペット)からなるマッスル・ショールズ・ホーンズは、後になってからスタジオに呼ばれて、〈Precious Angel〉〈When You Gonna Wake Up〉〈Gonna Change My Way Of Thinking〉等の曲にオーバーダブを施した。この時期、4人は時々「頭の中で」フレーズを考えながらセッションをこなすこともあったが、ローズによると、《Slow Train Coming》ではキャロウェイがホーン・セクションの楽譜をきっちり書いたとのことだ。ローズはこのセッションではキング社製3Bトロンボーンを演奏したらしい。
マッスル・ショールズ・ホーンズはウェクスラーと良い関係を保っており、ピアノ・ロックのスター、エルトン・ジョンの1974年のツアーの際にはウェクスラーから推薦してもらっていた。ローズの記憶によると、《Slow Train Coming》のホーン・セクションはマッスル・ショールズのスタジオBで録音したのだが、その前に、エレクトリック・フラッグのギタリスト、バリー・ゴールドバーグのレコーディング・セッションで1度ディランに会ったことがあるらしい。ゴールドバーグは物議を醸した1965年のニューポートの「エレクトリック・セット」でディランのバックでキーボードを演奏した人物だ。1974年にリリースされた彼のアルバム《Barry Goldberg》は、ディランとウェクスラーによる共同プロデュースのもとマッスル・ショールズで行われたのだが、セッション中にウェクスラーはローズに電話をかけてジャクソン・ハイウェイ3616番地のスタジオのコントロール・ルームに来させて言った:「ヘイ、チャーリー。こちらがボブ・ディランだ。お前にハミングでフレーズを教えたいってさ」 ローズはディランのアイデアを聞いて「了解。やりますよ」と返事をすると、メインルームに戻ってホーン・セクションの他のメンバーにそれを伝えた。ディランのまだ小さな息子のひとりがコントロール・ルームにいて、新品のストップウォッチを持って、ローズがコントロール・ルームにどのくらいの時間がかかるか計っていた。その時、ローズは「このガキは何者だ? 作業効率の専門家か?」って思ったらしい。最近、ローズはカントリー・シンガーのライル・ラヴェットとずっとツアーに出ている。このインタビューは彼が宿泊しているクリーヴランドのホテルに電話をかけて質問に答えてもらったものである。
ウィザーズは少年時代にディランのレコードを「大量」に聞いて育ったのだが、レコーディングに参加出来ることになった時の最初の反応は「ちょっと微妙。この仕事は是非やりたいとは思ったさ。でも、失敗したらどうしようって不安が心の影の部分に潜んでたよ。ある意味、ルビコン川を渡るような気持ちだった。ダイアー・ストレイツでのオレのいかなる業績よりも重要なことだった」 《Slow Train Coming》セッションに参加した当時、ウィザーズは31歳だった。彼はアラバマで楽しい時を過ごしたが、1日スタジオで働いた後にレストランでビールを注文することが出来ないのは、当時は異常な事態だと感じていた。ちなみに、2017年の現在、彼は18年間アルコールを口にしていない。
《Slow Train Coming》の裏ジャケットの写真については、さまざまな憶測がなされてきた。海の上に浮かぶボート。十字架のような位置にあるマスト。シルエットの人物はディランだろうか。マーシャルはこのショットを撮影した写真家、ニック・サクストンにインタビューした。サクストンによると、この写真はアマゾン川かその近くで撮影されたもので、謎の人物はディランではなく、1975年にヒットした名曲〈Dream Weaver〉で有名なゲイリー・ライトなのだという。サクストンは以前にライトの写真を撮影したのだが、ライトがいらないと判断したものの中にボートの写真があり、どういうわけかこれを目にしたディランが《Slow Train Coming》用に使いたがったのだとか。マーシャルは言う:「笑っちゃいますよね。〈Dream Weaver〉を書いた人物が《Slow Train Coming》の裏ジャケットにいるんですから」
〈Mustang Sally〉や〈When A Man Loves A Woman〉とはじめ、マッスル・ショールズでレコーディングされた数多くのヒット曲に味わいのある素晴らしいキーボードを添えているプレイヤー、スプーナー・オールダムは、《Slow Train Coming》を宣伝するツアーでディランのバンドに加わった。オールダムはサンタモニカにある倉庫でディランとバンドと一緒にリハーサルを行なった。オールダムは言う:「ディランは行き当たりばったりの人間で、リハーサルはあまりやらないって思っていたけど、オレの完全な思い違いだったよね。オレたちはツアーに向けて綿密にリハーサルをやったよ」
ツアー開始前にディランはNBCの『サタデー・ナイト・ライヴ』に初出演して、《Slow Train Coming》に収録されている〈Gotta Serve Somebody〉〈I Believe In You〉〈When You Gonna Wake Up〉の3曲を披露した。オールダムにとって、ディランと『SNL』で演奏したのは「心地良い」経験で、ビル・マレーやジェイン・カーティンといった『SNL』でお馴染みの俳優に会えたのも楽しかったという。「自宅で見ていて、気に入ってた人たちだからね」 アフターパーティーもあったらしい。『SNL』の収録が終わってTVスタジオを出ていく時も面白かったという。オールダムの記憶によると、ディランは外で待ちかまえているパパラッチをかわすために、オールダムの妻、カレンの「大きなコートの下に身を隠そうとした」らしい。「後を追ってくる連中を避けようと、リムジンの運転手に、路地をバックで運転させていたよ。ああいう注目は浴びたくないようだった」 マーシャルも「TVのお笑い番組でバリバリのクリスチャン・ソングを披露するのはクレイジーだ」と思っている。
ボブ・ディランのゴスペル・ツアーは1979年11月にサンフランシスコのウォーフィールド・シアターで行われた長期連続公演から開始された。この会場はコンサート・プロモーターのビル・グレアムによって豪華に改装されたばかりだった。バンでショウに到着した際、オールダムの目に留まったのは、会場の外でプラカードを掲げた20数名の集団がいたことだった。「1960年代を彷彿させたよ」 彼は何事かと思い、若者たちが持っているプラカードを読もうとした。「ボブがユダヤ教からキリスト教に鞍替えしたのに反対してる、っていうことだけは理解出来た。ビックリしたね」
ディランのツアーでは、オールダムのハモンドB-3とワーリツァーのエレクトリック・ピアノはステージの下手(客席から見ると左側)に設置されていた。ウォーフィールド公演の最初の2回はソールド・アウトになっていて、バンドが1曲演奏すると、オーディエンスの半分が拍手をして、もう半分がブーイングをした。「萎縮するよね。ゴスペル音楽を演奏してブーイングされるんだから。演奏も歌も良かったのに。全く意味不明だった。でも、何が起こっているのかおぼろげながらわかってはいたよ。つまり、観客はボブに〈Like A Rolling Stone〉や〈Mr. Tambourine Man〉、その他、聞きたいと思ってる曲を歌ってもらいたいのさ。なのに、ボブは誰かのために1音、1フレーズ、1行たりとて変えない人間だろ。あくまで自分のやり方を通す。あっぱれだよ」
ディランの昔のヒット曲を無視したコンサートを繰り返していたとはいうものの、オールダムの記憶では、ファンの大きな拒絶反応があったのは、ツアー初頭のサンフランシスコ公演以外ではアリゾナ公演のみだったという。アラバマ州センター・スター生まれのオールダムは教会でピアノとオルガンを聞いて育ったので、自分がディランのゴスペル色の強いマテリアルを演奏するのは「ありのまま」のように感じた。
次のショウに向かってバスで移動する間、ディランは自分の前の座席にブーツを履いた足を乗せながら、バンドのメンバーに話しかけたりも話しかけられたりもせず、ひとりで座っていた。オールダムはディランのツアー・バス内の雰囲気についてこう語る:「オレはひとりぼっちに感じたなあ。皆もそうだったんじゃないかと思うよ」 それでも、忘れられないアドヴェンチャーもあった。ボストンでは、オールダムのホテルの部屋にディランから電話がかかってきて、レコード店でサイン会をやるので一緒に行かないかと言われたので、キーボーディストは喜んでこの誘いに乗った。冬だったので、ディランはPコートを着ていて、オールダムは長丈のレザーコートを着ていた。「会場に着く前に体が冷えてしまい、「ボブ、今日は超冷えるなあ」って言うと、ボブは「えっ、オレには最高だぜ。生きてることを実感するよ」なんて言ってたよ。ミネソタ育ちだから、寒いのに慣れてるんだろうな」
ニューヨークでは、ディランはオールダムとバンドのメンバーをディナーに招待し、その後、以前に見ていいと思ったバンドを見にクラブに連れて行った。一行がクラブに到着したら、そこは殆どガラガラ。出てきたバンドは、数年後にMTVでヒットを飛ばすことになるブルージーなグループだったが、ステージ上で酔っぱらっており酷い演奏だった。後でディランはオールダムに言った:「もう2度と誰にも何も薦めないよ」 オールダムは説明を加える:「スペシャルな思い出を作りたかったようなんだ----ボブと一緒に出かけるだけでも十分スペシャルなんだけどね。連れて行った先で、スペシャルでない連中が出てきてしまったんだ」
《Slow Train Coming》セッションが終了して約9カ月後に、ディランとツアー・バンドはツアー・バスに乗ってマッスル・ショールズ・サウンドにやって来て、次のLP《Saved》を録音した。ベケットとウェクスラーも再び共同プロデューサーとなった。ハムは語る:「彼らは名コンビだった。バリーは音楽面の切り盛りで敏腕を発揮し、ジェリーは皆をうまく働かせるための気の配り方を熟知していた」
ツアーに出ていて、その足でレコーディングに突入するのはオールダムにとって初めてだった。「あの頃、オレたちはアメリカ中の劇場で演奏していた。そして、あそこに転がり込んだら、マイクや機材がセットしてあったんで、新たなショウをやるように演奏を始めたんだ」 《Slow Train Coming》と同様に、《Saved》のマテリアルもまた、殆どライヴで、わずか数テイクでレコーディングしてしまった。オールダムには、ディランが彼や他のミュージシャンに、何をいつ、どのようにプレイするよう指示を出したという記憶は一切ないらしい。「ボブはソングライターで、ギター・プレイヤーで、シンガーなので、自分の歌を覚えるのに手一杯だったんだろう。オレが思うに、自分のことはしっかり出来るメンバーや女の子たちを集めて、一緒にまとめてイメージを具体化しようって、ボブは考えてたんじゃないかな」
オールダムはディランとツアーに出て、スタジオで《Saved》のレコーディングを行なった約2年ほどの間に、彼のギター・プレイにも感銘を受けた。「思っていた以上に流暢でなめらかだった。優れたプレイヤーだ」
ツアーの最初の頃は関係者用の招待券やバックステージパスの用意がなかったことも、今回の取材で判明した。オールダムの言によると、業界ではこれは稀なケースらしい。ミュージシャンの誰かが知人をコンサート会場に入れたい場合、人数分のチケット代(約15ドル)が週給から差し引かれていたようだ。オールダムはそう思っている。バーミンガム・シヴィック・センター公演は、オールダムの家族や友人が住む場所の一番近いところで行なったコンサートだったので、「オレのゲストが35人いて、そのチケット代はオレ持ちで、オレのギャラから差し引いてもらうつもりだった。でも、その晩、ギグの後に、ボブからオレの部屋に電話があって----2回目かなあ----とにかく、夕食やら何やらあらゆることが済んだ後、12時頃にボブから電話があって、「スプーナー、チケット代なんだけどね、オレが面倒見といたよ」って言われたんだ。ボブが持ってくれたのさ」 現在、スプーナーはロジャースヴィル在住。自宅の裏庭はエルク川に接しているそうである。近年は、ペギー・ヤングというシンガー・ソングライターと演奏活動を共にしている。
《Slow Train Coming》は《Saved》よりよく売れ、チャートでは5位まで上昇し、プラチナムに輝いた。一方、シングル〈Gotta Serve Somebody〉はトップ30を記録した。どちらのアルバムにも賛否両方の評価があったが、評論家受けの点でも《Slow Train Coming》のほうがやや上で、ローリング・ストーン誌のヤン・ウェナーも絶賛していた。しかし、推進力のある〈Solid Rock〉、圧倒的なゴスペル・ソウル〈Pressing On〉、そしてオルガンが印象的な〈Are You Ready〉を聞けばわかる通り、《Saved》にはオン・ザ・ロードで磨き上げたタイトなサウンドがある。
ハムは1980年代半ばにスタジオ・ワークから引退し、以後は暖房/エアコン業界で働いている。フローレンス在住。最近になって《Slow Train Coming》のCDを購入し、「再び聞けてとても嬉しかった」と思ったという。アルバムのあたたかみのあるクリアなサウンドに改めて驚愕して、「ボブが作ったレコードの中で音質的に満足のいくアルバムの1つだろう」とも語っている。「ただし、必ずしもオレの手柄じゃないね。ミュージシャンと機材、そして、これを優れたアルバムにするためにオレたちがかけた時間のおかげさ」
マッスル・ショールズのある場所がレコーディングに適している理由の1つが、近所に大都市のような娯楽施設はなく、業界の取り巻きたちもいない、レイドバックしている地域だということだ。マッスル・ショールズ・サウンドに来たスターの大部分は人知れずこっそりとレコーディングを行なっていたが、ハムの記憶によると、ディランのセッション中、純朴なファンが駐車場をうろついていたという。〈Blowin' in the Wind〉を書いた人物が外に出てきて、タバコか何かを吸うのを見たかったのだろう。「ボブがそこにいるってどうしてわかったのかは知らないけど、天才詩人なので、当時はどこにでも追っかけていくファンがたくさんいたんだろうなあ」
2017年前半に、ジャーナリスト、ビル・フラナガンによるディラン・インタビューが公式ウェブサイトbobdylan.comに掲載された。スタンダード曲を収めた最新アルバム《Triplicate》の宣伝が目的だったが、内容は多岐に渡っており、受けてしかるべき注目を受けてない曲は何かというフラナガンの質問に対し、ディランは〈Brownsville Girl〉だと答えている。これは先頃亡くなった劇作家、サム・シェパードと共作した曲で、《Knocked Out Loaded》に収録されている。この時、ディランが挙げたもう1曲が《Saved》に収録されている神聖なナンバー〈In the Garden〉だった。《Slow Train Coming》《Saved》から、1981年にロサンゼルスでレコーディングされた宗教色のいくぶん薄いアルバム《Shot Of Love》に至る「クリスチャン期」においては、マーシャルの言葉を借りると「ディランは自分の信条を曲として書き、ファンの面前で、たくさんの情熱とエネルギーを込めてそれを歌ったのです」
ボブ・ディランに関しては200をゆうに超える本が出版されている。マーシャルはディランの大ファンになって久しいが(最も好きなアルバムは1965年の《Bringing It All Back Home》など)、しばらくの間はいわゆるゴスペル・アルバムには特に興味がなかったらしい。しかし、「私自身がキリスト体験をしてからは、事態は変わりました。すると、ディランの精神的な旅にも当然興味がわいてきて、大量の本を貪るように読みました。ある時点で、わたしはいろんな人にインタビューしました。当然の成り行きでしょう。そして、またある時点では、私にはこのテーマ以外は選択の余地がないように感じました。でも、それも悪くはありません」
マーシャルが『Bob Dylan: A Spiritual Life』用にインタビューをした人のうち、ウェクスラー、ベケット、ドラモンド、ディランの元パブリシスト、ポール・ワッサーマン等、少なくとも12人はもうこの世にはいない。マーシャルはこの他、多数のミュージシャン、シンガー、レコーディング・スタッフにもインタビューを行ない、マッスル・ショールズ・サウンドの雑用係からもディランをヴァンに乗せた思い出話を聞いている。普段、ディランはステージ上で曲と曲の間にあまり話さないが、ネブラスカ州オマハ公演では、マッスル・ショールズで《Saved》をレコーディングする日が近づいていたためか「少し饒舌」になっていた。「曲と曲の間に(ディランは)語りました。『'60年代には人からお前は予言者だとよく言われ、「いいえ、違います」と答えると、「絶対にそうだ」と言われました。でも、今、私が皆の前に出て「イエスこそ答えです」って話すと、皆は「あぁ、ボブ・ディランね。あいつは予言者じゃないよ」って言うんです』」
The original article “The secrets behind Bob Dylan's Muscle Shoals albums” by Matt Wake
http://www.al.com/entertainment/index.ssf/2017/08/bob_dylan_muscle_shoals.html
Reprinted by permission