2017年09月01日

デイヴ・デクスター:イギリスのバンドを却下しまくったキャピトル重役

 ビートルズはイギリスで大ブレイクした後でも、アメリカでは大手のキャピトル・レコードからすんなりレコードを出してもらえず、最初の数枚のシングルやLPはいくつかのマイナー・レーベルから出ていたのは有名な話ですが、ビートルズをボツにしていたA&Rマンが、他のイギリスのアーティストも冷たく却下していたというのは興味深いです。この人は坂本九の〈上を向いて歩こう〉をアメリカで発売して大ヒットさせたということで、我が国ではその「英断」が高く評価されている人物なのですが、最近、公開となった資料をもとに、今回紹介するような辛口の記事が書かれています。



参考資料:デイヴ・デクスターを高く評価している日本のネット記事
・イギリスのザ・ビートルズを袖にして、日本の坂本九氏の「上を向いて歩こう」を選び、1963年見事!全米No1に輝かせたデイブ・デクスター・ジュニア
http://k-unit.seesaa.net/article/421699605.html
・「抱きしめたい」を聞いた瞬間、ビートルズ拒否から快諾に転じたデイブ・デクスター・ジュニア
http://www.tapthepop.net/day/8470
・ビジネスマンというよりは物静かな学者タイプだった石坂範一郎〜偉大なミュージックマンにして東芝レコードの実質的な創始者(デクスターが来日したことに言及)
https://entertainmentstation.jp/57378


  







デイヴ・デクスター:イギリスのバンドを却下しまくったキャピトル重役
文:リッチー・ウンターバーガー


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 デイヴ・デクスターはビートルズ伝説の中では一番人気の登場人物ではない。彼はキャピトル・レコードからUS編集盤をリリースするにあたって、ビートルズの初期のレコーディングの一部にリヴァーブを加えたことで悪名高いのだが(現在、このミックスは《The Capitol Albums, Vol. 1》と《The Capitol Albums, Vol. 2》で聞くことが出来る)、ビートルズの最初の4枚のシングルのリリースを見送って、キャピトルから発売しなかったことでも有名な人物なのだ。キャピトルがやっと〈I Want to Hold Your Hand〉をリリースし、アメリカでビートルマニア作りに乗り出したのは、1963年末のことだった。

   

 1988年にチャック・ハディックスによるインタビューを受けた際に、デクスターは初めてビートルズを聞いた時を思い出して、こう語った。「このレコードでレノンのハーモニカ・プレイを聞いて、最悪なものを耳にしたと思い、それでボツにしました。ビートルズなんかこれっぽっちも欲しくはありませんでした」(デクスターはこの会話の時には、曲のタイトルを思い出せなかったが、恐らく〈Love Me Do〉のことを話していたのだろう)
 1980年代半ばにラジオ・ドキュメンタリー『From Britain With Love』用に収録されたインタビューでは、デクスターはもっと詳しく説明している:「ハーモニカの音のせいで、全然好きになれませんでした。私がこのハーモニカを気に入らなかったのは、古いブルースのレコードやブルースのハーモニカ・プレイヤーをこれでもかってくらい聞いて育ったからです。単に気に入らなかったんです。それで、レコードはただちにボツにしました」

   

 マーク・ルイソンは『The Beatles Tune In』の拡大版でこう書いている:「2カ月前にデクスターに却下されたハーモニカ入りのレコード[フランク・アイフィールドの〈I Remember You〉]でヴィー・ジェイ・レコードが大ヒットを飛ばしているので、この点で慎重になる理由はないし、キャピトルが自作自演型グループ、ビーチボーイズで成功を収めていたので、[ビートルズが]そういう形のグループだということでも慎重になる理由など皆無った。デクスターはイギリス人を好きになることが出来ず、好意的なふりすら出来なかった。彼はビートルズやシャドウズ、クリフ・リチャード、アダム・フェイス、ヘレン・シャピロ、マット・モンローにはOKを出さなかったが、ミセス・ミルズのピアノ・インストゥルメンタル〈Bobbikins〉はだけはリリースした。サロン・バーのようなピアノでパーティー・ソングを叩き出す43歳のでっぷりとしたオバチャンのグラディス・ミルズは、この中で最もイギリス臭がぷんぷんするアクトなのに…。1961年後半にテレビで一躍有名になったミセス・ミルズはノーマン・ウェルズの導きでパーロフォンと契約し、デビュー・シングルはヒットしたのだが、その後は全くパッとしなかった。アメリカにこのアーティストが必要だと判断したのは、デクスターが犯した失敗の1つだった」

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ミセス・ミルズ----ビートルズのイギリスでのヒット曲が見送られている頃に、キャピトルによってリリースされたイギリス人アーティストのひとり


 デクスターとビートルズの関係についてはこれまであまり語られたことはないが(ルイソンによる超巨大ビートルズ史プロジェクト『Tune In』の第1巻は1962年末までしかカバーしていないが、次の巻ではこの件についてたくさん語ってくれるだろう)、別のことを調べている際に、私はミズーリ大学カンザスシティー校のライブラリーのウェブサイトの一角に、デクスターがキャピトルにいた時代の、殆ど知られていないメモが掲載されているのをたまたま発見した。このメモ群は、この重役がビートルズを冷遇した罪を許すような内容ではないが、ブリティッシュ・インヴェイジョンがメインストリームとなりつつある頃に彼がイギリスの音楽をどう扱ったかを、いろいろな角度から伝えてくれる貴重な資料だ。

LaBudde & Marr | Dave E. Dexter, Jr. Collection: Capitol Records & The Beatles
https://library2.umkc.edu/spec-col-collections//dexter/beatles

 1964年以前には、デクスターがビートルズの初期のレコードや他のブリティッシュ・ロック黎明期のレコードを却下したことに関しては、社内では殆ど問題にならなかったようである。イギリスで発売されたビートルズの2枚目、3枚目、4枚目のシングルはどれも全英チャートのトップになり、〈She Loves You〉にいたっては、かの国では最大売上枚数を記録したシングルの1つとなったほどだが、これらはアメリカではキャピトルが発売を見合わせた後に、ヴィージェイもしくはスワンからリリースされ、殆ど売れなかった。イギリス産のロックのレコードは、どのような種類のものであれ、アメリカのチャートでは殆どヒットには至らなかったのだ。
 しかし、この状態を一瞬で変えたのが〈I Want to Hold Your Hand〉だ。この曲は1963年12月26日にキャピトルから発売されるやいなや大ヒットとなった。チャック・ハディックスによるデクスターのインタビューが、ミズーリ大学カンザスシティー校のウェブサイトに掲載されているのだが(音声ファイルとして)、興味深いことに、彼は9月か10月にイギリスを訪問した際に(1962年と発言しているが、明らかに間違いである)A&Rマンからこの曲を聞かされたという回想を語っている。A&Rマンのトニー・パーマーは、デクスターがビートルズに対して精神的抵抗を持っていることを恐らく知っていて、彼に誰のものか伝えずにこの曲を聞かせたのだろう。「4小節聞いただけで、飛びつきました」とデクスターは語っているのだが、黄金の耳を持たずとも、この曲に大ヒットする可能性があることはわかったであろうし、この曲をキャピトルでリリースする決定を下した、もしくは、リリースするよう社に働きかけた人物として、デクスターの名を挙げている情報源は、私の知る限りにおいては、これしか存在しないのだ。

   

 デクスターが1976年に出した自伝『Playback』(世間一般にはあまり知られていない)には少し違う回想が書かれているので、やはりこの人物はあまり信用するわけにはいかない。ここでは、シングルを聞かされる前に、パーマーからこれはビートルズのレコードだと伝えられたと述べているのだ。こんなことは枝葉末節かもしれないが、デクスターはパーマーに「キャピトルは主要な業界紙3つにフルページの広告を掲載し、重要なラジオ局全てに特製レコードとバンド紹介の紙資料を送る。全力で売り出す」と語った、とも書いている。しかし、ロサンゼルス・タイムズ紙に掲載されたアラン・リヴィングストンの故人略伝には、キャピトルが〈I Want To Hold Your Hand〉を売り出す重要なきっかけになったのは、リヴィングストンのもとにブライアン・エプスタインから個人的に電話がかかってきたことだと、記されていた。キャピトルが〈I Want To Hold Your Hand〉をリリースし、しかも大プッシュすることを決定するにあたって、誰が中心的な役割を果たしたのかは、今でもなお謎のままである。ビートルマニアがアメリカで始まった後は、その業績を認めてもらおうと、キャピトル・レコードの何人もの人間がスクランブル発進しているからだ。

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イギリス最大のヒット・シングルなのに、キャピトルはアメリカ市場用にリリースすることはなかった


 1964年2月20日にデクスターからアラン・リヴィングストン(〈I Want To Hold Your Hand〉がアメリカでリリースされることになったのは、この人物の業績とされている)に送られたメモは、デクスターが圧力をかけられていたことを示している。イギリスのロック・レコードをもっと注意深く吟味しろとも、ビートルズ以外にもアメリカで人気が高まり始めているアクトがいるというのに、どうして彼らを却下したのか理由を説明せよとも、言われていたことがうかがえる。デクスターはこう書いている:「ビリー・クレイマー&ザ・ダコタズやジェリー&ザ・ペイスメイカーズは、他のたくさんのロック・グループやソロ・シンガー、ヴォーカル・グループ、オーケストラ、コメディアンやその他のEMIのアーティストと一緒にオファーが届きました。私が両グループを見送ったのは、どちらも特にユニークなサウンドではなかったからです。彼らがイギリスでビッグ・ヒットを飛ばしたのはその後のことですし、アメリカのレーベルが出したレコードもありますが、全く売れませんでした」 もちろん、両バンドとも、ブリティッシュ・インヴェイジョンが大ブームとなった次の2年間には、アメリカでもビッグ・ヒットを飛ばす運命であり、複数のレーベルが彼らの1963年中のUKヒットをリリース、もしくは再リリースすると、そのいくつかは(ビートルズの1963年のシングルのように)遅ればせながらアメリカのチャートでもヒットした。

   

 クレイマーもザ・ペイスメイカーズもブライアン・エプスタインのマネジメントに属しているバンドであることを、デクスターは知っていたのでは? また、クレイマーの初期のヒット曲がジョン・レノン&ポール・マッカートニーのペンによるものだ----今やキャピトルのために大量のレコードを売っているビートルズの曲を書いているのが、言うまでもなく、このふたりである----ということも、彼は知っていたのでは? 両バンドの中にあるどの要因からしても、レーベルがエプスタインに取り入る目的であれ、レノン=マッカートニーのナンバー(明らかに捨て曲)でレコードをヒットさせる目的であれ、彼らをキャピトル・アーティストのラインナップに加えるのに値するだろう。もしデクスターが2月20日の時点で以上のことを全て知っていたとしたら、この知識のせいで自分をさらに窮地に追い込まれてしまうと思い、無知を演じていたのかもしれない。

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もしキャピトルがビリー・J・クレイマーの初期のヒット曲を却下していなかったのなら、彼のレコーディングでしか手に入らないレノン=マッカートニーの曲をアメリカでリリースすることが出来たのに


 興味深いことに、次のパラグラフではデクスターは以下のような提案をしているのだ:「私の意見ですが、フレディー&ザ・ドリーマーズは最も魅力的なロック・サウンドを持っていて、アメリカでも大ヒットするかもしれません。我が社がリリースした最初のレコードは1枚も売れませんでしたが。フレディーの2枚目のレコードは来週にキャピトルから発売されます」 ザ・ドリーマーズは確かにこの後、キャピトル傘下のレーベルから2つのヒット曲を出した。彼らは1965年半ば〜後半に〈I'm Telling You Now〉〈You Were Made for Me〉をヒットさせたが、これらはイギリスでは1963年前半〜半ばに大ヒットした曲だった。デクスターは、ブリティッシュ・インヴェンジョン初期の他のバンドを、まだ賞味期限内であるうちに獲得することで、自分の失敗を隠そうとしていたのだろうか? 次の段落では、デクスターはザ・スインギング・ブルー・ジーンズ(1964年にアメリカで中ヒット)やザ・フォーモスト(エプスタインのマネジメントに所属しているグループで、レノン=マッカートニーの捨て曲でイギリスではヒットを飛ばしたが、アメリカではチャートインしなかった)の将来性について否定的な意見を述べている。「私の意見としてですが、キャピトルではこうしたグループのうち、ごく一部しか扱うことが出来ません」 実際に、キャピトルはザ・スインギング・ブルー・ジーンズのレコードは全く出さなかったし、ザ・フォーモストに関してはいくつかリリースはしたが(ビートルズの〈Here, There, and Everywhere〉のカバーを含む)、それは数年後のことだった。

   

 次の段落では、デクスターは興味深い判断をしている。マンフレッド・マンの「ファースト・レコード」を見送る決定をしたのは自分であると明かしているのだ。この月、マンフレッド・マンは〈5-4-3-2-1〉でイギリスで初ヒットを飛ばしたばかりであり、彼らがアメリカで初ヒットを飛ばすのは(〈Do Wah Diddy Diddy〉は第1位に輝く)6ヶ月以上も先のことだった。デクスターはこう書いている:「このレコードは1951年にチェスから出た何かに似ていたので、私はすぐにトニー・パーマーに電報を送り、別のところに持っていけと言いました」
 デクスターが聞いたマンフレッド・マンの「ファースト・レコード」が、イギリスで発売されたデビュー・シングル (〈Why Should We Not〉/〈Brother Jack〉、どちらも大人しめのブルース/ジャズ風インストゥルメンタル)だったのか、セカンド・シングル(ポール・ジョーンズがヴォーカルを取っているR&Bナンバー〈Cock-A-Hoop〉)だったのかを知るのは有益だろう。もし前者だったとしたら、デクスターの判断力はしっかりしていたと言えよう。「1951年にチェスから出た何かに似ていた」とたとえた点も、ドンピシャリではないものの、かなり正確だ。しかし、ジョーンズのヴォーカル曲の1つだとしたら----特に、〈5-4-3-2-1〉がイギリスのチャートを上昇することで価値を既に証明しつつあったとなると----デクスターの予測は外れた。結局、マンフレッド・マンのアメリカでの権利は、ユナイテッド・アーティスツの子会社、アスコットが獲得した。

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デイヴ・デクスターによって却下されたマンフレッド・マン初期のナンバーが入っているEP


 メモの最後の部分で、デクスターはさらに自分の立場の弁明をしている。「アラン、私だって皆と同じように判断を誤ることもあります。でも、考えてみてください。自分のデスクのところに、毎月、山ほどのシングルやアルバムが送られて来るのです。イギリスのパーロフォンやコロムビアやHMVからだけでなく、フランス、ドイツ、イタリア、日本、オーストラリア、スカンジナヴィア諸国、その他の地域からもです。なので、はっきり言って、数ヶ月、数年の間に、我々が逃したヒットがこんなに少ないことに、私は驚いています」 デクスターはこうも記している:「イギリスでは先週、「ザ・ブルー・ビート」というジャマイカの影響を受けた新タイプの音楽が、業界内で大きな話題になりました。私は既に2方面に電報を送って、ロックとカリプソを融合したようなこの新しい音楽を北米地域で発売する最初の会社になることを望んでいます」

   

 これはブルー・ビートの----現在では「スカ」として知られている----100点満点ではないとしても極めて正確な説明だ。この発言は、先の「1951年にチェス・レコードから出たような」といった言葉と同様に、デクスターが完全に時代遅れなのではなく、ロック/ポップ界におけるさまざまなトレンドやスタイルに関してある程度の知識を持っていたことを示している。しかし、アメリカで大ヒットしたブルー・ビートのシングル第1号、ミリー・スモールの〈My Boy Lollipop〉をリリースしたのは、キャピトルではなくフォンタナであった。

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 1964年のこの後の期間に配布された多数のメモを見ると、キャピトルがイギリス産のレコーディングを受け入れたり拒否したりする手順を精査し、デクスター以外の人間にも関与させるようになったことがうかがえる。9月21日にリヴィングストンはデクスターに書いている。:「最近のリリース活動----特に、シラ・ブラックやピーター&ゴードンの成功したことと、最近、私たちが逃してしまったかもしれないものを、吟味してみたいと思います。まずはジ・アニマルズについて考えてみると、もし私の状況把握が正しいならば、我々が断った原盤は、その後、ヒットには至ってないはずです。しかし、この原盤をボツにした結果、取り決めに基づいて、我々はアーティストに関する将来の権利を失い、よって、現在チャートにいるアニマルズのヒット・レコード[この時〈House of the Rising Sun〉は第1位だった]を獲得するチャンスを失ってしまいました。私はこの件について貴殿に確認したいこと、もっと詳しく説明してもらいたいことがあります」

   

 デクスターは返答として、10月1日に非常に詳しい報告を送っている。キャピトルがリリースした英ロックのシングルの殆どが、イギリスでヒットしたものでも、クリフ・リチャードやジョニー・キッドといったイギリスの大スターのものであっても、アメリカ市場ではいかに売れていないかを(特に1964年より前は)、販売枚数とともに述べているのだ。デクスターは極めて腹を割った書き方で、こう説明している:「キャピトルは全米50州の何千ものレコード店の女性店員全員に数セントずつボーナスを払って、[ヘレン・シャピロの]3枚目のシングルの売り上げを無理矢理19,000枚にしたものの、こんなの「インチキ」でした。2年後、エピックが証明したように、この娘{こ}はアメリカ市場で成功するようなサウンドを持っていなかったのです」

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ヘレン・シャピロは1960年代前半に母国イギリスでは大ヒットを連発したが、アメリカではサッパリだった


 ある時点で、デイヴ・デクスターは非常に興味深い発言をしている:「今日判明したことなのですが、私が去る8月にロンドンに行かなかったら、キャピトルはビートルズと再契約することが出来なかったでしょう。フランク・アイフィールドも獲得出来なかったでしょう。彼は今は休眠状態ですが、短期間のうちに我が社のためにたくさんのシングルとアルバムを売りました」 キャピトルがビートルズのレコードを出す決定を下に至った物語は、普通はこういうふうには語られない。もしデクスターがロンドンにいたのが1963年8月のなら、〈I Want to Hold Your Hand〉は聞くことが出来なかったはずなのだ。チャック・ハディックスによるインタビューで、心をつかまれたと語ったあの曲は、まだレコーディングされていないからだ。訪問した月を誤って思い出しただけなのかもしれないが(訪問してまだ1年しか経ってないのに)、彼はフランク・アイフィールドについても思い違いをしている。アイフィールドは1963年後半にはキャピトルのためにいくつものシングルをチャートインさせていたが、アメリカにおける大ヒット〈I Remember You〉はキャピトルは出し損ねている。この曲は1962年にヴィージェイから出ているのだ。
 メモをさらに読み進めると、もっと詳しい情報が書いてある。文面からうかがえるのは、デクスターは自分がイギリスに行った時期に関して正確に覚えていないのか、さもなければ、ビートルズがキャピトルと契約する際に彼が果たした役割は、本当は皆が思っているより大きかったか、どちらかだということだ。デクスターは次のように述べている:「1963年の夏にヴィージェイが破産した後、スワンがビートルズのアメリカでの3枚目のシングル[〈She Loves You〉]の権利を獲得しました。売り上げは1,000枚に満たず、スワンはこのグループへの興味を失いました。 1963年8月に私がイギリスから戻って来る頃には、ビートルズはイギリスがかつて体験したことのないくらいホットな存在となっていたので、スワンがこのグループを手放したと知った時、私はリヴィングストンと[キャピトルのプロデューサー、ヴォイル・]ギルモアとダンに対して、獲得に向けてEMIとエプスタインに猛プッシュするよう猛烈に促しました。主に、宣伝キャンペーンを行なう約束を条件として提示して」
 この部分にはいくつかちぐはぐな点がある。デクスターが書いたこのメモからは、スワンが出した〈She Loves You〉の売り上げは1,000枚未満で、このレーベルがビートルズを手放したのは、彼がイギリスから帰国した1963年8月頃だと印象づけたい意図が見えるが、スワンは1963年9月16日まで〈She Loves You〉をリリースしていない(イギリスでの発売日も8月23日だった)。それに、筆者が当たった殆ど全ての資料では、EMIとエプスタインがキャピトルに、ビートルズのレコードを発売して宣伝するよう猛プッシュをしたとなっており(しかも〈I Want to Hold Your Hand〉の時にだ)、その逆はない。
 デクスターは続けてこうも述べている:ハーマンズ・ハーミッツの〈I'm Into Something Good〉をボツにしたのは自分のヘマだと認める;ザ・チェロキーズには「高い希望」を持っていて、「重役会はザ・クレスターズとシャーリー&ジョニーには大きな可能性があると感じている」(このうちアメリカでチャートインしたアクトは1つもない);ザ・ゼファーズは気に入っていたが「アーティスト印税がキャピトルの希望する以上の額だった」 ジ・アニマルズに関しては「〈House of the Rising Sun〉はイギリスでは彼らの3枚目のシングル」という不正確な発言をしており(実際には2枚目)、加えて、「我々は1964年3月27日にこのグループを手放しているので」〈House of the Rising Sun〉はキャピトルに送られて来なかったとも言っている。また、キャピトルが却下したデビュー・シングル〈Baby Let Me Take You Home〉は「世界のいかなる場所でも売れなかった」と語っているが、これは真実ではない。イギリスでは21位になっているのだ。英ロック史で最も競争の激しかった時期としては、これはかなり立派な成果だ。デクスターはジ・アニマルズに関して判断を誤ったことを隠そうとしていたように思われる。
 次は、マンフレッド・マンに関する話だ。デクスターは彼らの最初の2枚のシングル〈Brother Jack〉〈Cock-A-Hoop〉を却下したのは自分だと認めている(彼がどちらを聞いて「1951年にチェス・レコードから出たような」曲だと思ったのかは、今もなお明らかになっていない)。彼らの3枚目のシングル〈 5-4-3-2-1〉も彼のもとにオファーが来たが、サンプルが届いた頃には、既に別のレーベルに決まってしまっていたという。デクスターは「このレコードはアメリカではあまり成功はしませんでしたが、次のレコードからは大成功しています」と書いているので、このメモの時点で、〈Do Wah Diddy Diddy〉がアメリカで第1位に向けてまっしぐらであることを理解はしていようだ。
 ジェリー&ザ・ペースメイカーズに関しては:「ここでは何の言い訳もしません。このグループのサウンドが優れているとは思いませんでしたし、送られてきたさまざまなグループの何万枚ものサンプルのうち、ジェリーには特別なところが何もないと、今でもなお思っています。捕まえ損なったのは私です」
 ザ・スインギング・ブルー・ジーンズについては:「このグループを見送ったのは私です。他の983のバンドと似たり寄ったりのサウンドですが、彼らはアメリカのライバル・レーベルで、記憶に残るとまでは言わないまでも、そこそこの成功を享受しています」と述べているが、ビリー・J・クレイマーとデイヴ・クラーク・ファイヴについては「私はスケープゴートにされるのは御免です」と書いている。トランスグローバル(アメリカのレコード会社とライセンス契約を結ぶための仲介をする会社)から、彼らの曲をしっかり聞かないうちに即断するよう急かされたのを重圧と感じていたようだ。

   

 1段落を丸々費やして、デクスターがリリースを見送った雑多なバンドの名前を挙げるという形で、さらに言い訳が続く。殆どは、今となってはブリティック・インヴェイジョン・マニアでさえ知らない名前ばかりだが、ジョージー・フェイムはアメリカでは大ヒット曲を2曲持っており(母国イギリスではもっと)、クリス・ファーロウはローリンツ・ストーンズの〈Out of Time〉で1966年に全英ナンバー1を獲得している。R&Bの祖、ザ・ダウンライナーズ・セクトはカルト的人気があったし、ザ・サウンズ・インコーポレイテッドはビートルズとツアーを行なっている。メモに載っている実際のリストはもっと長いのだが、その最後にも、世界のどこかで(アメリカではない)その後ヒットするに至ったり、カルト的人気を獲得したりしたアクトの名前もある:ダフィー・パワー、ザ・パラマウンツ(後にプロコル・ハルムへと進化)、スカのスター・アーティスト、ローレル・エイトキン、ジュリー・ドリスコル…。

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デクスターはジョージー・フェイムを見送った結果、その間隙を埋めるように、インペリアル・レコードがフェイムがイギリスでチャートのトップに輝いた〈Yeh Yeh〉でUSヒットを獲得した


 また、デイヴ・デクスターは概して、キャピトルの外国のアクトの宣伝には不満を表明している:「クリフ・リチャードが我々にもたらす利益はゼロでした。プレスリー・ブームの最中に、アメリカ以外のいたる地域でプレスリー本人と同じくらいたくさんのレコードを売っていたのにです。我々はそうしようと思えば、フレディー&ザ・ドリーマーズをジ・アニマルズかマンフレッド・マン、デイヴ・クラークよりもビッグにすることが出来たかもしれません。なのに、我々は彼には1セントも投入しませんでした」(これはフレディー&ザ・ドリーマーズが、遅ればせながら1965年初頭に〈I'm Telling You Now〉で全米ブレイクする以前のことだ)

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フレディー&ザ・ドリーマーズはキャピトルから2曲ヒットを飛ばしたものの、デイヴ・クラーク・ファイヴやジ・アニマルズ、マンフレンド・マンよりもビッグにはならなかった


 デクスターにとっては調子のおかしい不安な時期だったに違いない。キャピトルは主にビートルズのおかげで、1963年後半に予想していたよりもはるかに儲かっていた。ザ・ビーチボーイズや他のヒット・アクトも抱えていたことを考えてもだ。同時に、ビートルズのレコードを、約1年間、アメリカの他のレーベルが出すことを許してしまったがために(キャピトルは1965年初頭までにこうした初期のトラックの権利を得たが…)、そして、英EMIと契約している他のブリティッシュ・インヴェイジョンのアーティストを他のアメリカのレコード会社に取られてしまったがために、キャピトルは自分で自分を痛めつけていたようなものだった。
 この点で、デクスターはわかりやすいスケープゴートにされてしまったのかもしれないが、最終的には、彼の判断は、寛大な目で見ても、完全無欠の状態からはほど遠かったと言える。1964年以前にはアメリカ国内では誰も注意を払っていなかった音楽が、突然、彼のもとに殺到するようになってしまい、しかも、自分が全く詳しくない(アメリカでは全員がそうだったであろう)音楽スタイルについて彼が下した、下さなければならなかった判断に対し、説明を求められるようになったのだ。1964年10月1日のリポートの最後のセンテンスで、デクスターはこう書いている:「レコード・ビジネスはたった1年の間にずいぶんと変わってしまいました」
 残念なことに、『ハーマンズ・ハーミッツを却下したこと&「アーティストがイギリスで成功/失敗をするまでは、キャピトルは手放せという意見に耳を貸すべきではない」というリヴィングストンの強い要請』というタイトルが付いている1965年4月8日〜6月14日付のメモへのリンクは「お探しのページは見つかりません」状態になってしまっているが【訳者註:2017/9/01現在、見ることができます】、1965年8月31日にアラン・リヴィングストンからデクスターに送られた短い最後のメモからは、当時、ザ・ビートルズがキャピトルからリリースされるレコードに対してもっと中身を管理する権限を持ちたがっていたことがうかがえる:「昨日行なわれた話し合いにおいて、ブライアン・エプスタインは、我々のリリースするビートルズのアルバムもイギリスと同じジャケットを使うことを考えてくれと、強く希望していました。こうすることが可能なのかどうか、私に教えてください。それが可能だとしたら、何か問題があるのか教えてください」

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キャピトルがリリースした初期ビートルズのLPで使われたミックスは遂にCD化された


 この時点で、デクスターはザ・ビートルズや他のイギリスのバンドに関して行なった様々な判断について、何度も上司に呼び出されては叱られ、ザ・ビートルズの威力を嫌というほど味わっていたことだろう。この悪感情はずっと消えることはなかった。ジョン・レノン死去の約2週間後のビルボード誌に掲載された記事の中で、デクスターはこう書いている:「ビートルズの初のアメリカ公演の際にマイアミ滞在中のレノンとマッカートニーから電話をもらい、キャピトルのエンジニアのおかげでアメリカ盤は素晴らしいサウンドになっていると賞賛されましたが、後になって、レノンはキャピトルの経営陣に対し、キャピトルが作ったアルバム・ジャケットは気に入らないと難癖をつけてきたのです。レノンは裏ジャケットも気に入っていませんでしたし、キャピトルがリリースしたビートルズのテープの音質も良しとは認めていませんでした。キャピトルが行なったイコライジングとリヴァーブ補正を以前は誉めていたのに、突然、意見を180度変えたのです」
 ビートルズ研究家のほぼ全員だけでなく、恐らくファンの殆ども、キャピトルがリリースした《Rubber Soul》(イギリスとアメリカで同じジャケットになってたのは、このアルバムからだ)よりも前のLPのアートワークは、イギリス盤のジャケット・デザインよりも劣っていると感じている。キャピトルがアメリカ市場に向けてより多くの(収録時間が短い)アルバムをリリースするために、イギリス盤の中身を切り刻んでいることが広く知れ渡ると、こうした判断も当然のことながら批判された。アメリカ市場用の変更点を気にしていないファンも、一部、存在していたかもしれないが、アメリカ盤がビートルズ側の承認もなく、ビートルズ側の希望とは食い違っているかたちでパッケージを作り替えられていたということは、否定することは出来ない。当然のことながら、デクスターは回想録『Playback』の中でこの事態を彼独自の視点から見ている。
 デクスターは腹立ちまぎれに言う:「ザ・ビートルズが市場を制覇すると、マネージャーのエプスタインとバンド側の態度が変わりました。マーヴィン・シュワルツと作業を行なって、表と裏のジャケットをデザインしたり、我々がベストと思った写真や解説を選択したり、といったことが出来なくなりました。いじめっ子のエプスタインは、アルバムのフォーマットに組み込むためのマスターの選択も許してくれなくなりました。それぞれのシングル、それぞれのアルバムは、ロンドンのビートルズ側の組織が考えた仕様に合わせて作られました。アートワークはマンチェスター・スクエア[にあるEMI本部]からキャピトル・タワーに送られてきました。裏ジャケットの解説も同様です。我々がカリフォルニアでやっていたことと比べて、改善された点は皆無だったと思います」
 デクスターは『Playback』の中で、余談としてこんなことも語っている。ジョージ・マーティンから 「LPがいっぱいになるほどたくさんの曲をフィーチャーする予定はないので」、映画『Help!』のサウンドトラック盤はない旨を告げられたのだという。デクスターの見解としては、自分が映画の中で実際に使われていた7曲とビートルズの演奏でないインストゥルメンタル音楽を継ぎ接ぎしてアメリカ編集盤《Help!》を作らざるを得なかったのは、この言葉のせいなのだという。しかし、これは思い違いではなかろうか。というのも、ビートルズは1965年前半〜中期には普段の勤勉なペースで、作曲とスタジオでのレコーディングの作業をこなしており、アメリカ盤とほぼ同時期にリリースされたイギリス盤《Help!》用には丸々14トラックを用意しているのだから。US盤《Help!》にビートルズの演奏曲を7曲しか収録しなかった理由は、利益の最大化を図るために、よりたくさんの製品を世に出そうというキャピトルのいつもの戦略に則って、UK盤に入ってた残りの曲(アメリカでナンバー1シングルになった〈Yesterday〉を含む)を、後にこのレーベルがリリースするシングルやLP用に振り分けようとしたのではないか、というのが一般的な推測である。なので、ビートルズ側は、いったいどんな理由があって、キャピトルのスタッフを完成している曲に関する情報に疎い状態にしておいたというのだろう? 

(ところで、デクスターが使える曲が少なかった1つの理由は、出来る限りたくさんのLPを出すことに熱心だったキャピトルが、USバージョンの《Help!》のサウンドトラック盤に先だって1965年6月にリリースした《Beatles VI》に、UKバージョンの《Help!》に収録されていた3曲を使ってしまったからである。《Beatles VI》ではキャピトルは、《Help!》セッションで録音された〈Bad Boy〉(イギリスでは1966年後半になってやっとリリース)と〈Yes It Is〉(《Help!》のサントラでフィーチャーされていた〈Ticket To Ride〉のB面曲)も使ってしまった。実際、〈Dizzy Miss Lizzie〉(アメリカ盤《Beatles VI》とイギリス盤《Help!》に収録)と〈Bad Boy〉の両曲は、アメリカで《Help!》に先だってLPを1枚リリースすることが出来るように、アメリカ市場向けに特別にレコーディングされたもので、これが《Beatles VI》の埋め草になった。恐らく《Beatles VI》はデクスターがまとめたレコードなのだが、サントラ盤《Help!》の作品不足の原因がこれだったことを、作った本人は忘れてしまっていたようだ)

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デイヴ・デクスターがしぶしぶまとめたアメリカ盤《Help!》のジャケット


 しかし、デクスターがザ・ビートルズから受けた最悪の攻撃は、アラン・リヴィングストンが1964年にザ・ビートルズのために開いたパーティーで起こった出来事だ。デクスターはビルボード誌に寄せた記事で書いているのだが、ビヴァリーヒルズにあるリヴィングストン宅の近所の子供たちが、「ビートルズのメンバーに向かって、窓の近くに来て姿を見せてくれと叫んでいたので、私は窓に一番近くで子供たちに向かって立っていたレノンに、数フィート動いて「ハロー」って声をかけてくれと頼んだのです。すると、レノンは答えました。「このクソガキどもにか?! こいつら、オレたちの邪魔ばかりして、プライバシーを奪おうとする。もうウンザリさ」って。考えられないくらい失礼な対応ですよ。でも、リンゴとポールは子供たちの要望に応えていました」 悪いタイミングで出てしまったデクスターの記事はあまりに不評で、ビルボード誌の次号の編集後記はこのように終わっている:「この記事で一部の読者諸兄姉に不快な思いをさせてしまったことを、私どもは大変遺憾に思っています。当誌にはそのような意図は全くなく、不愉快な思いをなさった方々には謝罪をいたします。完全な人間などいません。ビルボード誌もまたしかりです」
 デクスターはチャック・ハディックスのインタビューでも語っている:「超テング状態になってしまいました。我々がリリースした最初の数枚のシングル、最初の2枚のアルバムの時はとても喜んでいたんですよ。私に電話をかけてきて、感謝の言葉をくれたんですから。キャピトルがビートルズを獲得した直後のことです。その頃、彼らはパーロフォンから出たレコードよりもキャピトルから出たレコードのほうが音がいいって思ってたんですよ。なのに、2年後、態度をくるりと変えて、キャピトルの音はイギリス盤ほど良くないって文句を言い出しました。そんな言葉があらゆる音楽誌に印刷されました。私はビートルズについては話題にすらしたくありません。私にとっては不幸な…」 デクスターの声はフェイドアウトしていった。


The original article "Dave Dexter, The Beatles, and Capitol Records" by Richie Unterberger
http://www.richieunterberger.com/wordpress/dave-dexter-the-beatles-and-capitol-records/
Reprinted by permission


   
posted by Saved at 15:25| Comment(0) | Beatles | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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