2017年10月17日

ガーディーズ・フォーク・シティー四半世紀の歴史

 ガーディーズ・フォーク・シティーというと、ボブ・ディランの経歴を扱った本の最初のほうに出てくるフォーク・クラブですが、今はもうありません。グリニッジ・ヴィレッジは、リンカーンが大統領をやってた時代に建てられたアパートメントに今でも人が暮らしているような場所ですが、他の大都市と同様に徐々に再開発が進んでおり、ガーディーズのあったところも、ビルそのものが建て替えられてしまい、もはや跡形もありません。在りし日の姿は、以下の記事のように、当時を知る人の思い出話を聞くしかない状態になって久しいです。


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ボブ・ディランにとっての初の大きなギグと
ガーディーズ・フォーク・シティーの四半世紀


文:フランク・マストロポロ


 1960年のグリニッジ・ヴィレッジはフォーク・ミュージックの爆心地だった。1950年代のビート詩人はガスライト・カフェ、カフェ・ビザール等のヴィレッジのコーヒーハウスをフォーク・シンガーに明け渡した。多くのミュージシャンがケトル・オブ・フィッシュやフォークロア・センターに集まってい。前者はバー、後者はイジー・ヤングの経営する店で、本やレコード、楽器を販売していた。
 ヤングの夢はヴィレッジのナイトクラブでフォーク・ミュージックを紹介することだった。1960年前半、ヤングと広告マンのトム・プレンダーガストは、西4丁目11番地にあるレストラン、ガーディーズのオーナー、マイク・ポーコにある契約を持ちかけた。イタリア系移民のポーコは工場労働者やNYCの学生に食事を提供しており、もともと、夜には時々、ボンゴ・プレイヤーやギタリスト、アコーディオン・プレイヤーがそこで演奏していた。ヤングのアイデアはこうだった:バンジョーの5番目のチューニング・ペグにちなんでフィフス・ペグというフォーク・ミュージック用のクラブを作る。ヤングは入場料をもらい、ミュージシャンにギャラを払う。そして、バーとレストランの儲けはポーコの懐に入る。
 フィフス・ペグは1960年1月26日にオープンした。数ヶ月間は、ヤングがエド・マカーディー、トミー・メイケム、クランシー・ブラザーズ、ソニー・テリー、ブラウニー・マギー、キャロライン・ヘスター、シスコ・ヒューストンといったフォーク音楽の大スターのコンサートを開いて満員にしていたが、ポーコは間もなく気づいた。パートナーなんていなくても、利益を出せるぞと。そして、体よくヤングを辞めさせた後、1960年6月1日にオープンしたのが、ガーディーズ・フォーク・シティーだった。
 月曜日にはフーテナニー・ナイトが行なわれていた。ギャラこそ出なかったが、ミュージシャンはそれぞれ3曲ずつ歌い、観客の前で演奏を披露するという貴重な経験を積むことが出来た。トム・パクストンは言う:「演奏するのに金を払わなくてよかったなんてビックリだ」
 1961年4月11日、ボブ・ディランはガーディーズでプロとして初のギグを行った。そして、1961年9月29日付ニューヨーク・タイムズ紙に載ったロバート・シェルトンによる激賞記事のおかげで、20歳のボブは広く注目され、その数週間後にコロムビア・レコードと契約を結んだ。
 1969年になると、ヒッピーとドラッグ、ロック・ミュージックが文化全般に浸透し、ヴィレッジ住人からの圧力で、ポーコはフォーク・シティーをいったん店じまいして、場所を西3丁目130番地に移さなければならなかった。1970年に新たにオープンしたフォーク・シティーには、ラリー・コリエルやエルヴィン・ジョーンズといったジャズの巨匠、NRBQやストーリーズといったロック・バンド、マーティン・ムルやアンディー・カウフマンといったコメディアンが、エミルー・ハリスやザ・ローチェズといったフォークやフォーク・ロックのミュージシャンに混じって出演した。
 1980年にポーコは引退し、フォーク・シティーを新しいオーナーに売却したが、1,500ドルだった家賃がそのうち3倍近くになると、クラブは賃貸契約を維持出来なくなり、1986年に遂に店じまいとなった。以下は、フォーク界の人気アーティストに語ってもらったガーディーズの思い出話である。

イアン・タイソン(イアン&シルヴィア):ガーディーズはフォークの場所だった。アパラチアン・タイプのフォーク・ミュージックを聞くことが出来たよ。新しい場所だった。ニューヨークの、ヴィレッジの雰囲気があったね。



バフィー・セイント=マリー:とても打ち解けた雰囲気で、新参者にも心地よかったわ。ブルーグラス、ブルース、イギリスのフォーク・ソング…いろんな人がいろんな音楽を演奏していた。私はソングライターだったから、パーフェクトな環境ね。オーディエンスは私と同い年くらいで、20代前半だったけど、大人の人もいたわ。ブロードウェイ・ショウにも通っていて、ジャズなんかも好きなニューヨーカー・タイプの人たちもね。最近だと、音楽フェスティヴァル以外では殆ど見られない幅広い年齢層だったわ。

パトリック・スカイ:入ると、このくらい長いバーがあったよ。バーの向こうの端っこにある階段を下に行くと、きれいに片づけられたエリアがあって、そこでは出演者が自分の出番に備えていた。



トム・パクストン:怖いところでもあったよ。最初は近所の何の変哲もないバー&グリルだったんだ。バーとテーブル席のエリアは高さが4〜5フィートの壁で分けられていた。フーテナニー・ナイトのような時にはたくさんの人が来て、バーのところは混雑してた。バー・エリアにいた連中は、いくぶん、舞台から隔てられてたように感じていた。ステージで起こってることにはあまり気にとめず、おしゃべりを続けてたんで、パフォーマーにとっては本当に辛かったんじゃないかな。邪魔な雑音がずっと聞こえてくるわけだから。

ハッピー・トラウム(ニュー・ワールド・シンガーズ):常にタバコの煙が一面にもうもうと立ちこめてたよ。目からは涙が出てくるし、服は臭くなるし、出演者として来た時には、観客より3フィートくらい高いところにいたから、煙が全部、天井に近いそこに来ちゃうんだよ。バー・エリアからはひっきりなしに騒音が聞こえてきた。レジの音やグラス同士がぶつかる音、ウェイトレスが厨房に客のオーダーを伝える声とかさ。



トム・パクストン:皆、月曜の晩のフーテナニーのことを話すだろ。凄かったんだぜ。もう、ぎゅうぎゅう状態。そのくらい混んでたよ。



イアン・タイソン:当時はオープンマイクっていう名前じゃなかったけど、そのことだよ。リストに名前を書いて、震えながら待つ。自分の晩が来たらステージに上がって歌う。うまくやり遂げて、皆に気に入ってもらえたら、レコード契約の話がたくさん舞い込んでくる。金は必要ない。ビールも安かったと思う。そんな感じだった。

トム・パクストン:フーテナニーは楽しかったなあ。マイクが1本あって、3曲歌った。ブラザー・ジョン・セラーズかドミニク・チアニーズに紹介されたらステージに上がって、3曲歌って、とっとと降りる。ステージ機材やモニター云々なんてない。誰もまだモニターなんて発明してないし。クランシー・ブラザーズだろうがトミー・メイケムだろうが関係ない。3曲歌ったら降りる。それでうまくいってた。それで、どんどんステージは進行した。

ハッピー・トラウム:月曜夜はガーディーズに行くしかなかったね。ブラザー・ジョン・セラーズって奴がいたなあ。ショウマン・タイプの黒人ゴスペル・シンガーで、とてもエネルギッシュな伝道師みたいなパフォーマーだった。こいつがしばらくフーテナニーの司会を務めていたんだが、ギル・ターナーは後を引き継いだ。ニュー・ワールド・シンガーズのリード・シンガーだったからだ。月曜夜にはよく行った。最初のうちは、ステージに上がって3曲歌うのは、簡単で楽しかったけど、1962年頃になると、人でごった返すようになった。バフィー・セイント=マリーやジュディー・コリンズやピーター・ポール&マリーの姿も見えた。ビールを1杯飲むか2ドルくらい払えば、中に入って優れたフォーク・シンガーをたくさん見ることが出来た。

トム・チェイピン(マウント・エアリー):キングストン・トリオやザ・ライムライターズのような半袖シャツを着て行ったよ。ニューヨークじゃ、オレたちは「フォーク・ピープル」の視点からしたら怪しい連中だったんじゃないかな。フォーク・ナチス(笑)。そういう面もあった。今でも少しはある。中に入ってフーテナニーの演奏をする。観客っていったって、そいつらも歌いに来た連中なんだけどね(笑)。でも、運が良かったら、バスに乗ってツアーに出るなんてこともあった。

バフィー・セイント=マリー:1960年代前半は、まさに自分の居場所だと感じたわ。カレッジを出たばかりの私は、男の人と飲んだこともなかったし、バンドや音楽ビジネス、有力なマネージャーやプロモーターとのコネも全くなかったの。ただ音楽があっただけ。聞いて、演奏して、皆と分かち合って…素晴らしかった。千客万来の雰囲気で、オーディエンスも大学生くらいの年齢の、スレてない人たちだったわ。自分の音楽だけじゃなくて、子供の頃には聞いたことのないあらゆる音楽を聞いたの。私がギターの腕前を上げたのは一生懸命練習したからじゃなくて、ジョン・ヘラルドやジョン・ハモンド・Jr、オープンマイクの晩にやって来たいろんなミュージシャンを見てやる気をもらったおかげよ。演奏すればするほど、ますます好きになったわ。誰が来るかはわからなかったわ。

トム・パクストン:オレは軍隊にいたんだけど、ニューヨークに到着して最初にオフが取れた晩、フォーク・シティーに直行してエド・マカーディーを見たよ。この人からは駆け出しの頃に大きな影響を受けた。オレはエドの歌が気に入った。バンジョー・プレイヤーのサンディ・ブルが前座だった。出演者と話が出来る場所だった。ということで、エド・マカーディーに話しかけて、知り合いになって、友達になったよ。

バジー・リンハート:デヴィッド・ブロンバーグがよく歌ってた。彼はフォークとブルースとロックを紡いで、ハッピー&アーティー・トラウム等の人を連れてきた。毎回違うことをやってたよ。

パトリック・スカイ:ジョーン・バエズやディック&ミミ・ファリーニャ、いろんな人がそこで歌ってた。ドク・ワトソンがカントリー・ミュージックをそっと持ち込んだ。ケトル・オブ・フィッシュかガーディーズで座ってれば、知ってる奴がやって来るさ、なんてよく言ってたな。

トム・パクストン:ギル・ターナーとハッピー・トラウムと会ったのを覚えてるよ。彼らは〈Blowin' in the Wind〉をレコーディングした史上初のシンガーだ。ドク・ワトソンやジーン・リッチーと会ったのもここだ。キャロライン・ヘスターもね。ジュディー・コリンズとも会った。皆、そこで歌ってた。

イアン・タイソン:ニューヨーク・シティーに初めて行った時さ。カナダからやって来たオレは、グリーンブライアー・ボーイズやピーター・ポール&マリー、レン・チャンドラー、ジャック・エリオット等、いろんなシンガーと会った。シスコ・ヒューストンと会ったのもそこでだ。たぶん、ヨーロッパから戻って来た後、亡くなる数日前だったんじゃないかな。

トム・パクストン:フーテナニーはマイク・ポーコにとっては大当たりだった。月曜に店を満杯にして、しかも、ギャラを払う相手は司会とバーテンダーだけ。あいつにとっては金のなる木だった。

ハッピー・トラウム:マイクの悪口は言ったことないね。とてもスイートな奴で、こいつを好きにならなかった奴は知らない。音楽については何も知らなかったなあ。特に、店を始めた当初はね。でも、理解の早い人間だったから、時が経つにつれて、どんどん知識は増えていった。マイクは「リトル・ボブ・ディラン」が好きだった。彼はボブをこう呼んでいた。ボブもマイクのことを気に入ってたと思うよ。オレはマイクとはたくさんの交友があったとは言えないけど、オレが店に到着するといつも、ニコニコしながら「ハイ」って挨拶してくれたなあ。強いイタリア語訛が抜けないところも、皆から愛されていた理由の1つだった。オレはマイクがとても好きだったよ。オレにはいつもとても良くしてくれたし。

トム・パクストン:デイヴ・ヴァン・ロンクは死ぬほどおかしな奴で、マイク・ポーコのことをこんな風に言ってたよ。奴は金の話をするまでは完璧な英語をしゃべるって。

デヴィッド・ブロンバーグ
:心のあたたかい、気前のいい奴だった。大好きだったよ。




ジュディー・コリンズ:楽しかったわ。1961年4月11日、どこかの店からハシゴしてガーディーズに来たの。ブロードウェイ・セントラル・ホテルで1晩30ドルの部屋を予約してね。私はヘッドライナーだったの。もうビックリ。歌い始めてまだ2年くらいしか経ってない頃だったのに、ヘッドライナーをやらせてもらえて、とてもワクワクしたわ。ガーディーズ・フォーク・シティーは昔からあるピザ屋で、黒ネコがここに住んでたの。
 皆が私の歌を聞きに来てくれたわ。私がレコードを聞いて知ってた人も大勢いました。ピーターとポールとマリーもいました。ピーター・ポール&マリーになる前のことです。その晩にはデイヴ・ヴァン・ロンク、ランブリン・ジャック・エリオット、シスコ・ヒューストンもいました。シスコ・ヒューストンは2カ月ほど後にガンで亡くなってしまいましたが、まさにヴィレッジ・ファミリー全員がいたわけ。ロバート・ズィママンとして知ってた人も来てたわ。この人は間もなく名前をディランに変えるんだけど、その時はまだそうしてなかったわ。しかも、私のオープニングを務めてくれたのが(笑)13歳のアーロ・ガスリーって子。ね、凄いでしょ。




パトリック・スカイ:他のたくさんのパフォーマーと会えたという意味でも、そこでプレイすることが出来て光栄だった。演奏するより、友達に会って話したりするほうが楽しかったりして(笑)。

バフィー・セイント=マリー:ヴィレッジのサリヴァン・ストリートのアパートはしばらく引き払わなかったので、ニューヨークに戻って来た時にはガーディーズに立ち寄って、出演者をチェックしたの。ソニー・テリー、ブラウニー・マギー、ボブ・ディラン、ジム&ジーン・グローヴァー、キャロライン・ヘスター、ゲイリー・デイヴィス師(一緒にイギリス・ツアーをやりました)、エド・マカーディー、オデッタ、ドック・ワトソン、クランシー・ブラザーズと会ったわ。いろんな種類のオリジナルな音楽を聞いたの。そういう立場にいることが出来てれて、本当にラッキーだったわ。



デヴィッド・ブロンバーグ:4丁目にあった店ではロニー・ジョンソンに会ったよ。20世紀で最も影響力の大きいギター・プレイヤーだと思うな。これはオレにとって重要なことなんだ。ジョン・リー・フッカーにも会ったよ。アーロ・ガスリーと初めて会ったのも、あの店でだ。



バフィー・セイント=マリー:私が初めてあそこで演奏したのはオープン・マイクの晩だったわ。誰でも歌って良かったんで、私もそうしたの。皆は私の演奏を気に入ってくれたんだけど、〈Universal Soldier〉〈Now That the Buffalo's Gone〉はちょっとショックだったみたい。過激なプロテスト・ソングだから、それも無理ないわ。アメリカ先住民問題に関する歌も、あの頃は珍しかったでしょ。でも、なんでもありっていうのが、コーヒーハウスの時代、初期フォーク・ミュージックの時代のいいところだったのよ。
 あの晩か別の晩に、ボブ・ディランが私の歌を聞いていて、私に話しかけてきたの。ガスライトにサム・フードに会いに行けと言われたわ。その後、私は何度もそこで歌ったわ。ニューヨーク・タイムズ紙のジャーナリスト、ロバート・シェルトンもガスライトで私の演奏を見て、記事を書いてくれたの。それから私のキャリアが始まったのよ。でも、本当の始まりは、ガーディーズでボブに、ガスライトに行けって勧められたことね。後になって、私はそういう愛の手渡し行為をカナダからやってきたソングライター、ジョニ・ミッチェルにやったの。私が彼女のデモテープを[マネージャーの]エリオット・ロバーツに聞かせて、やっと契約することが出来たのよね。エリオットがジョニのキャリアを大ブレイクさせたでしょ。全てはガーディーズで始まったんだわ。



トム・パクストン:超楽しかったなあ。たくさんの連中がいた。ある晩、ヴァン・ロンクと一緒にビールを飲んでたんだ。あいつもオレも自分の出番が終わっていたと思う。そしたらハンチング帽をかぶってハーモニカを抱えた痩せた小僧がステージに上がって、ウディー・ガスリーの歌を3曲歌ったんだよ。ディランさ。オレたちふたりとも、とても感動した。「ワオ! あいつ、とてもいいね」って言った。オレたちはボブをこっちに呼んできて、会話に興じて、友達になった。

ハッピー・トラウム:オレたちはディランにぞっこん惚れ込んだ。初めて聞いたその瞬間からね。まだ自分で曲を書いてなくて、トラディショナルなフォーク・ソングばっかり歌ってたけど、他の誰とも違うレベルのように感じたよ。オレの記憶では、〈Hard Rain's A-Gonna Fall〉を初めて聞いたのはガーディーズ・フォーク・シティーでだ。ディランがステージに登場した時、観客は12人くらいしかいなかった。「書いたばかりの新曲があります」って言って歌い始めたんだけど、椅子から転げ落ちるくらいビックリしたよ。忘れられない思い出だ。
 ボブが〈Talkin' Bear Mountain Picnic Massacre Blues〉を歌ったのも覚えてるよ。とてもユーモアたっぷりにね。当時は、パフォーマンスの中にユーモアがたくさんあった。今じゃ見れないけど、昔はステージ上でおかしなことばかりやっていた。概して人に好かれる奴ではだったけど、よく理解出来ないとか、声が好きじゃないとかいう人がたくさんいたなあ。でも、オレたちはボブの歌を聞くたびに完全に圧倒された。オレたちはあいつのこと気に入ってたし、友達だった。

デヴィッド・ブロンバーグ:3丁目に引っ越した後の店では、入ると左側にバーがあった。とても狭かった。バーを通り過ぎると----ゆうに15〜20フィートはあった----バーよりはるかに大きなリスニング・ルームがあった。



バジー・リンハート:ブリーカー・ストリートの近所に住んでたオレは、ヴィレッジを散歩していて、店の前を通りかかったら、中は満員だった。「何かやってるの?」って訊いたら、「ボブ・ディランの誕生パーティーだ」って言うから、中に入ったんだ。カメラを持ってりゃよかったな。フィル・オークスの隣にはアレン・ギンスバーグが座ってて、その隣にはボブ・ディランがいた。あの晩はベット・ミドラーも来てた。誕生日を祝って曲をプレゼントしたんだよ。ムーギー・クリングマンが店にあった小ぶりのグランド・ピアノを弾いた。ベッド・ミドラーとオレは〈Friends〉を歌い、天才ギタリストのエリオット・ランドールが一緒に演奏してくれた。
 一緒にたくさんジャムったよ。出演してるのが親しい友人だったら、ステージに招かれて演奏に加わえてもらえるような場所だった。午後にしっかりリハーサルをやれば、ステージで特別なことも出来た。



トム・チェイピン:オレは弟のスティーヴと一緒にマウント・エアリーっていうバンドをやってて、アルバムも作ったんだぜ。アルバムが出る時に、スティーヴがどこかでライヴをやるべきだって言い出して、フォーク・シティーへの出演を取り付けてきた。オレとスティーヴに、ボブ・ヒンクル、エリック・ワイスバーグってメンバーだった。マウント・エアリーは無名のバンドだったけど、映画『脱出』(原題『Deliverance』)が封切られて、オレたちは知らなかったんだが、エリック・ワイスバーグが演奏してる〈Dueling Banjos〉がナンバー1になっていた。それで、フォーク・シティーのあるブロックを1周するほど、会場待ちの人の列が出来ちゃったんだぜ(笑)。やる音楽はフォークだっていうのにさ。ある晩には、兄のハリーが来て----'72年のことさ----一緒に演奏してくれた。翌日の晩にはジョン・デンヴァーが来てくれた。たまたまニューヨークにいたんだよ。エリック・ワイスバーグはジョンのレコード全部でプレイしてるし、オレたち兄弟は1、2年前にジョン・デンヴァーのコンサートのオープニングを務めたこともあったから、ラブリーで素晴らしい5日間だった。マウント・エアリーの全盛期は、実際(笑)、あの週のフォーク・シティー公演だったね。1カ月くらいして、エリック・ワイスバーグが言ってたよ。「自分のバンドを持たなきゃなあ」って。ということで始めたのがエリック・ワイスバーグ&デリヴァランスだったのさ。



バジー・リンハート:少なくとも7年間は毎年、大晦日にプレイしてたよ。元日はクラブは休みで、オレは楽屋でギターを片づけていた。どこかの時点で、クラブにはフル・バンド分のギャラを払う余裕がなくなってしまったんだ。最後の数年間は、毎年元旦にマイク・ポーコがきついイタリア語訛でこう言ってたよ。「バジー、オレはとても嬉しいよ。毎年、クラブを失う寸前になっているが、お前が大晦日に来て、ピンチを救ってくれる」って。いい奴だったなあ。

ハッピー・トラウム:ガーディーズがヴィレッジの他のフォーク・クラブと違ってたのは、酒を出してたことだ。コーヒーだけじゃなくてね。ガスライトはコーヒーやアイスクリームの類だけだった。ストリートから人を引っ張り込み易いってことで、元コーヒーハウスが変身してフォーク・クラブになったところが殆どだった。

トム・パクストン:ガーディーズに出演することで箔がついたんだ。つまり、プロってことさ。今でも覚えてるけど、マイクは週6晩で最低賃金の90ドルを払ってたよ。金曜と土曜には3ショウ、他の日は2ショウをやったから、なかなかのハードワークだったけどね。

ハッピー・トラウム:ここに出演したってことは、ヴィレッジのシーンの輪の中に入ったってことさ。ここはしばらくの間はとても重要な会場だった。月曜夜のフーテナニーは、エージェントやマネージャー、レコード会社重役、コンサート・プロモーターの集まる場所になったんだ。こうした連中が、突然、先を争って来るようになって、ツアーやレコードの契約が出来そうな奴を物色していた。アルバート・グロスマンやジャック・ホルツマン、メイナード・ソロモン等、フォーク・ミュージックのビジネス・サイドのほうにいた連中と会うのも珍しいことじゃなかった。それから、ジャーナリストもさ。ロバート・シェルトンはいつもいた。しばらくの間は、食肉市場みたいな状態だった。新作を試してみる場所というよりは競争の場になっていた。

デヴィッド・ブロンバーグ:4丁目にあった店のほうが重要だった。プレイするのに重要な会場だった。



トム・パクストン:間もなく、ビター・エンドがピーター・ポール&マリー等のアクトがキャリアを開始する場所になった。マイク・ポーコより多額のギャラを平気で払っていたし。だから、フォーク・ミュージックの粒よりのパフォーマーがそこで演奏していたのは、非常に短い期間だった。マイクはギャラをそんなにたくさんは払えなかったんだ。

ジュディー・コリンズ:イジー・ヤングのフォークロア・センターと同様に、社交センターになってたわね。皆が集まる場所。ヴィレッジには素敵なクラブがいくつかあって、皆がなんやかんやの用事でそこに通ってたわ。ここは、あらゆる種類の作家や歌手、変人(笑)、クレイジーな人、全員が集まるとても社交的な芸術コミュニティーだったわ。エキサイティングな場所で、音楽を聞きに行くには素敵なところでした。私はそんな環境で成長したの。


The original article "Musicians Recall Dylan's First Big Gig and 25 Years of Music History at Gerde's Folk City" By Frank Mastropolo
http://bedfordandbowery.com/2017/09/musicians-recall-dylans-first-big-gig-and-25-years-of-music-history-at-gerdes-folk-city/


参考資料:Popspotsによる写真検証のページ
http://www.popspotsnyc.com/gerdes_folk_city/


追加情報:今月に入って入ってきたニュースですが、何と、ガーディーズがチェルシー・マーケットの地下で再開されるらしいですよ。ニューヨークを訪れる音楽ファンのための新たな観光名所になるかどうか、様子を見守りましょう。

http://www.brooklynvegan.com/legendary-nyc-venue-gerdes-folk-city-returning-in-chelsea-market/




posted by Saved at 20:33| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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