2017年10月26日

ラッツォという名の男

 ローリング・サンダー・レヴューの追っかけ取材をして『On The Road With Bob Dylan』を書いた人を紹介したおもしろ記事を発見したので紹介します。この人が担当したマイク・タイソンやアンソニー・キーディスの本は邦訳が出てるのに、ボブの本が出てないのは残念です。サム・シェパードの本のほうは出てるのに。




ラッツォという名の男
〜ボブ・ディラン、アービー・ホフマン、ハワード・スターン、マイク・タイソンと交流したクイーンズ生まれの男〜

文:デヴィッド・ハーシュコヴィッツ



 1975年11月8日、ヴァーモント州バーリントン市にあるシェルバーン・インの敷地内でラリー・スローマンは悟った。スローマンは格好はボロボロ、臭いのほうもそれ相応の状態でホテルに車を横付けしたが、ボブ・ディランのローリング・サンダー・レビュー一行は部屋を引き払い、今や皆でバレーボールの試合に興じているところだった。スローマンはローリング・ストーン誌からディランのコンサート・ツアーの記事を書くという任務を仰せつかっていた。殆ど寝ずにドラッグ満タン状態で車でツアー・バスを追いかけたり、いかがわしいバーで閉店まで酒を飲んだり生活が、体に応え始めていた。スローマンはクリーンナップの期限をはるかに過ぎていた。
 ディランがツアー活動を再開したことは、1975年には大ニュースだった。ボブは元恋人のジョーン・バエズと仕事上で縒りを戻し、ランブリン・ジャック・エリオットやジョニ・ミッチェル、ロジャー・マッギン、アレン・ギンズバーグ、サム・シェパードといったキャスト陣と撮影クルーを集めて、映画『レナルド&クララ』を撮影していた。この映画は完成してみたら4時間もの長さになっており、限られた場所でしか上映されず、レビューは散々。訴訟の後遺症で永久にお蔵入りになってしまった。比較的小さな会場でプレイしながら、殺人の廉で服役しているルービン・「ハリケーン」・カーターの釈放を嘆願するというコンセプトでディランとクルーは巡業をしていたのだが、最後の最後の瞬間まで会場を秘密にしておくという神出鬼没のツアーだったので、マスコミは当然、事の成り行きに関して出来る限りたくさんの情報を欲しがっていた。
 スローマンはツアーを取材していいという誘いをディランから個人的に受けていた。ディランとはフォーク・ロック・シーン時代からの知り合いだったのだが、ツアーが始まってみると、ディラン本人から招待されていたにもかかわらず、マネジメントのほうはあまり協力的でないことがわかった。実際、インサイダーでもありアウトサイダーでもあるという立場のせいで、スローマンはツアー一行にとっては、気まぐれディランが自分たちに押しつけてきた邪魔者、必要悪という特別なカテゴリーに入れられてしまったのだ。スローマンは後に、この歴史的ツアーを多少誇張気味にリアル・タイムでレポートした『On the Road With Bob Dylan』の中で「オレはジョークのオプションになってしまった」と書いている。まさに、報道許可証{プレスパス}を持った「いけ好かない野郎」と思われていたのだ。
 ある日、ジョーン・バエズは衛生上問題が大ありの格好をしたスローマンが悪臭を放つレンタカーから出てくるのを見たのだが、その姿があまりにむさ苦しく、ドブネズミみたいだったので、周りの仲間にこう叫んだのだ:「ねえ、ラッツォがいるわよ」 もちろん、『真夜中のカウボーイ』の中でダスティン・ホフマンが演じた借り物の時間の中で生きている服がボロボロのホームレスの男のことを言っていた。
 そうとわかってたスローマンだが、わざと「オレのことをラッツォって言ったのは、ダスティン・ホフマンに似てるからかい?」と訊くと、ジョーンは言った:「違うわよ。ラッツォ・リッツォみたいだからよ」



 まさにその時だった。自分のアイデンティティーはこれで決まりだと、スローマンが悟ったのは。
 「オレはラッツォだったのだ」とスローマンは書いている。「オレはそれに気づいたのだ。ハイウェイ沿いのホテルとは名ばかりのところで、大量のパンチをうまく受けながら、傷をなめながら、ほつれた夢をボロボロのスーツケースの中に詰めながら。いいじゃないか。所定のやり方でツアーの取材が出来ないのなら、ファンでもあり物書きでもあり薬屋でもあり道化師でもある、スピリチュアルなマスコットのような存在になろうじゃないか」



 あれから40年以上を経ているが、スローマンのフェイスブック・ページに掲載されている数々の写真は、この特技がいかに功を奏してきたかを示している。マイク・タイソンとルディー・ジュリアーニの間に挟まれている写真。ニック・ケイヴとのツー・ショット。1980年代にチャールズ・ブコウスキと一緒に撮った写真。B・B・キングの店の楽屋でキンキー・フリードマンと。ニューヨーク・レンジャーズのメンバーと。そして、ハワード・スターンやボブ・ディラン、アンソニー・キーディス、デヴィッド・ブレイン、ジョージ・ロイス、レナード・コーエン等と。さらに多くの人物との写真があってもおかしくない。ニューヨークで暮らしているマスコミ関係者で、スローマンと同じくらい数多くのパーティーに行ったことのある人なら、ソーシャル・メディア的な意味での「フレンズ」----そのようにお膳立てされたイベントでちょっとスナップショットを撮影した人----と一緒に写ってるこうした写真を山ほど持っていることだろう。しかし、スローマンの場合は事情が違う。スターンやタイソン、キーディス、ブレインと本を書いただけでなく、彼のありえないような内容の履歴書にはハイ・タイムズ誌やナショナル・ランプーン誌の編集長という経歴もある。ショウビズ界の超大物たち、文化的権威、ノーベル賞受賞者がこぞって「ラッツォ」と呼ばれる68歳の男の大親友なのだ。もはやクイーンズ地区のユダヤ系中流家庭に生まれた少年でも、汚い身なりであくせく生きている男でもない。「ラッツォ」は時空を超越した存在なのだ。



 「オレの親父はドアのノックの音に常にビクビクしているようなユダヤ人だった。ナチスが復活するのを恐れてたんだよ。音を立てるな、静かにしてろ、注意を引くな、っていう感じだった」 一家は名前をスロニムスキーからスローマンに変えた。スローマンは学校では良い成績を修めて両親を納得させておき、その裏でこっそり、カウンターカルチャーへの興味も満たすという戦略を取った。成績さえ良ければ、万事OKだったのだ。イースト・ヴィレッジでは既にヒッピー・シーンが始まっており、その魅力はどんどん大きくなっていった。「かなり一貫性のない人生を送ってたね。一方では、余剰品のアーミー・ジャケットを着て、髪を長くして、ヴェトナム戦争に反対するデモ行進に参加して、体制に対して出来る限り反抗していたんだけど、他方では、クイーンズ・カレッジのΦΒΚに属している成績超優秀な学生だったんだ」 クイーンズ出身の好奇心旺盛な少年には吸収すべきものがたくさんあった。物書きの才能を教師たちから注目されていた彼は、当然、エド・サンダース・ピース・アイ・ブックストアやイースト・ヴィレッジ・アザーのオフィスに引き寄せられていった。後者はカウンターカルチャーの様子や、アービー・ホフマン率いる急進的政治集団、イッピーの派手な活動を随時報道していたアングラ新聞である。
 スローマンはホフマンについてはこう語る:「あいつはオレが人生のお手本にしたユダヤ人の第1号だった。それ以前は、お手本といったらレンジャーズのミッキー・マントルやアンディー・バスゲイトとか、スポーツ選手ばかりだったけど、突然、社会に反逆するユダヤ人がオレのヒーローになったんだ。オレが見たことのない類のユダヤ人だった。クイーンズ地区のユダヤ系の友人の誰とも違ってたよ」
 そして、スローマンはふたりが最初に出会った時の話を始めた。スローマンはホフマンから言われた:「来い。これからウォール・ストリートに行くんだ。これを記事にしろよ」
 証券取引所にヒッピーの一団が到着した。ホフマンを先頭にして彼らがドアから入ろうとすると、警備員に止められ、「どちらにご用ですか」と訊かれた。
 「見学者用ギャラリーです」とホフマンが答えたが(ここから取引の様子が見える)、警備員から「皆さんは入れません」と言い返されたので、ホフマンはこう言った:「お前は、オレたちがユダヤ系だから入れないって言うんだな」
 話の締めくくりをスローマンはこう語る:「警備員が「そ、そういうわけじゃないんですが…」というと、連中はこいつの後をついてギャラリーに行った。そして、ホフマンと一味の連中は取引場の上からドル札の雨を降らせて、歓喜の雄叫びを上げた。ブローカーたちは床を這いずり回って札を集めてたよ。そして、外でアビーが地元紙のインタビューに答えていると、パトカーのサイレンが聞こえてきた。オレが超感銘を受けたのが次のところさ。サイレンが聞こえてくるやいなや、アビーはキャブを呼び止めて乗り込み、後に残した連中に警察の相手をさせておいたんだ。オレたちはイースト・ヴィレッジにあるアビーのアパートメントに直行して、その晩のニュース・リポートを見た。もう、畏敬の念を抱いたね」


 
 スローマンは「真面目過ぎ」かつ「バランスを取るのがあまりに上手」だったために、ヒッピー・ムーヴメントにチューン・インすることも学校をドロップアウトすることもなかった。軍隊に徴兵されるようなリスクを進んで冒すこともなかった。彼は1年間、VISTA(貧困地区奉仕団)に参加した後、奨学金を得てマディソンにあるウィスコンシン大学社会学部に進学し、社会的逸脱行為と犯罪について学んだ。スローマンは修士号を獲得したが、学者として生きていくつもりはなかった。カウンターカルチャーはまだまだ強力で、音楽は当時の政治への主な窓口だった。スローマンは学生新聞の音楽担当の編集部員となり、物書きになろうと考え、ローリング・ストーン誌に記事を売り込み始めた。
 ニューヨークに戻ると、街は変わってしまっていた。イースト・ヴィレッジにはスピードとヘロインが蔓延し、トンプキン・スクエア・パークの常連だった人物は、人肉で作ったシチューをホームレスに振る舞った廉で告発された。ヴェトナム戦争は終わった。スローマンはプリンス・ストリートのアパートメントに引っ越した。ここにはジェリー・ルービンが住んでいたのだが、カリフォルニアに引っ越すために引き払ったのだ。
 何人もの友人がドラッグ中毒になり、そのやりすぎの結果、命を落とす者までいた時、スローマンは文化革命の最前線で社会学者のようなやり方で生きた。ライフスタイルにおいてはその洗礼を受けながらも、知的には距離を取っていた。「常にそういう遠慮はあったね。社会から逸脱した連中の世界を覗くようになったけど、その中には入らなかったよ」 片足は地にしっかりつけ、別のほうの足はスペイシーなカウンターカルチャーに突っ込んでるという絶妙なバランスは、スローマンにとって功を奏した。「常に距離を保っていて、社会学的な観点から参加しているオブザーバーになってたよ。頭の中のどこかで親父が言ってるんだ。「お前は逮捕されるぞ。お前は自分の人生を滅茶苦茶にしてるんだぞ」って」 
 ある晩、スローマンはブルース・ギターの名手、マイク・ブルームフィールドに薦められて、キンキー・フリードマン&ザ・テキサス・ジューボーイズのコンサートを見に行った。スローマンがブルームフィールドと会ったのは、マディソンでベン・シドランとテレビの深夜番組を作っている時だった。ブルームフィールド等のゲスト・ミュージシャンにインタビューして、彼らが演じるスキットを書くのが、スローマンの仕事だった。スローマンはカッコイイ同胞には興味を抱いてしまうたちだった。「ブルームフィールドからキンキー・フリードマン&ザ・テキサス・ジューボーイズを見ろって言われたので、マクシス・カンザス・シティーに出演した時に見に行ったのさ。素敵な雰囲気だったよ。ステージ上にいる奴らが気の利いたセリフを言いながら互いを罵りあっていた。それが連中お得意のネタだったんだけどね。そのうち、オレもその気になって、イディッシュでヤジを飛ばしたり、「〈Tea for Tsuris〉をやれ!」などと、カントリー・ソングをリクエストしたりした。ショウが終わった後、「ブルームフィールドがよろしく言ってたよ」と伝えるためにバックステージに行って、実際にそうしたら、ロード・マネージャーをやってるブルームフィールドの弟から「ヤジを飛ばしたのお前だろ? 最高のヤジだったよ。キンキーに会いに来い」と言われたんだ。それから後の話は皆が知っての通りさ」



 まさに、フリードマンの書いた探偵小説シリーズに登場する人物として「ラッツォ」を知る多くの人の頭の中でリンクしているのは、当時のスローマンとフリードマンである。スローマンが実生活において実の母親を捜そうとしていたことは、フリードマンの『God Bless John Wayne』の筋にもなっている。スローマンの両親はどちらもマンハッタンで暮らすアシュケナージ系ユダヤ人であり、父親は衣類メーカーのセールスマンで、母親は帳簿係だった。スローマンは幼い頃に母親から----父親は大変悔いることになるのだが----お前は養子なんだと告げられた。父親が1992年に亡くなった後に書類を調べたところ、本当の両親もユダヤ人であることが判明した。最近行なったDNA検査で明らかになったのは、98.5%南ヨーロッパ系だということだった。「29%イタリア系で、40数%バルカン系だったんだ」 彼はショックを受けた。「最初、オレは思った。自分はユダヤ人じゃないのかも。だとしたら、今までのことは全部、見せかけだったってことじゃねえか!って」 オレはすぐに「バルカン系ユダヤ人」てググったよ。そしたら、どうやら、スペイン系ユダヤ人は皆、スペインから追い出された後、バルカン半島やイタリアに行ったらしい。全然知らなかったよ。ということは、オレはスペイン系ユダヤ人てことだ!」



 ディランの本を出した後、スローマンはマリファナの文化史に関する『Reefer Madness』を書いた。その後、1982年には『Thin Ice: A Season in Hell with the New York Rangers』を出した他、ハイ・タイムズ誌やナショナル・ランプーン誌の編集部員、映画出演、ジョン・ケイルとの作曲等の活動をしている。



 しかし、スローマンが有名な存在になったのは、1990年代に『Private Parts』に関与したことがきっかけだった。この頃、ハワード・スターンはマスコミで最もホットなキャラクターになっていた。ラジオ番組のおかげで彼は一般大衆にとってはスターに、性的な冗談や遠慮のない意見に異を唱えるモラリストたちにとっては悩みの種となった。何百万もの人が彼の朝の番組にダイヤルを合わせていた。スローマンも最初はそうしたリスナーのひとりであり、彼が台本を書く仕事場では必ずスターンの番組が流れていた。「毎日、オフィスの席に座ってハワードの番組を聞いてたよ。ある日、ハワードが本を書きたいって話してたんで、その本、オレが担当したいよって言ったんだ」 スターンの代理人を知ってたスローマンのライティング・パートナーが、スターンのスタッフに話を持ちかけた。「ライターの名前はラッツォだ」と聞かされたスターンのマネージャーは、「ラッツォか。いいじゃないか」
 ラッツォはゴーストライターになる予定で、スターンの資料に目を通していた。「1年間に渡って本の作業をしてたんだけど、1年間、毎日、ハワードは放送で「ロビン、ラッツォが来てくれて本を書いてくれてるんだ」と言ってたよ」



 スターンはラッツォをからかいながら、本の宣伝もしていたのだ。ラッツォは番組のキャラクターになり、スターンと一緒にナンセンスなコメントを作るために呼ばれるようになった。この本はナンバー1ベストセラーになった。
 スローマンは名声を得た。そんなに大金が転がり込んできたわけではないが、ラッツォはPCリチャーズのセールスマンや地元のイタリア料理店からVIP待遇をしてもらえるくらいには有名になった。ハワード・スターン・ショウに出てたラッツォ? でしたら、そのコンピューターなら別の支店に在庫がございますよ、お取り寄せいたしましょう。ハワード・スターン・ショウに出てたラッツォ? もう店仕舞いの時間なのですが、あなたのために何か特別にご用意いたしましょう。

 そして、次がマイク・タイソンだ。
 「あいつが口を開くたびに、こっちはうっとりさ。創造性と生まれながらの頭の良さという点で、あいつは殆どのスポーツ選手より数段上だった。いい本になると思ったよ。検閲はなし。そのままだ」
 1992年に、タイソンは強姦の廉で有罪となっている。「オレは本能的に、あいつはあの女性をレイプなんかしていないって感じたんで、獄中のタイソンに手紙を書いたんだ。「こんなことで負けないでください。私が自分の人生の辛い時から抜け出すのを助けてくれた本を同封します。ニーチェの自伝『この人を見よ』です」って。こうも書いておいた:「きっと気に入っていただけると思います。私はハワード・スターンの本を書き終えたばかりです。もし、あなたが自伝を書く作業を私に手伝わせたいと思ったら、連絡をください」って。でも、返事はなかったなあ」
 数年後、タイソンのチームは彼に自分の人生を語らせることにしたのだが、その仕事をすぐにラッツォには回さず、まずは15人のライターをオーディションした。「オレは面接部屋に座り、仕事のやり方を説明した。最後の2人にまで絞り込まれた時、スタッフはオレたちを飛行機でロスに連れてって、マイクに会わせたんだ。フォー・シーズンズ・ホテルで面会ってことになって、初対面の時にオレは言ったんだ。「あなたはいい人{ナイスガイ}だって聞いてます。私の妻が、昔、タトゥーズ[タイソンがよく通ってたナイトクラブ]で働いていて、あなたからチップを100ドルもらったって言ってました」って。そしたら、マイクは「ああ。オレが金を持ってた頃の話だ」って言うんで、オレは言ったんだ:「覚えているかどうかわかりませんが、私はあなたが服役してる時に、ニーチェの自伝を送ったんです」って。そしたらマイクの反応は「あの本、覚えてるぜ! ニーチェって面白い奴だなあ。1900年に死んだんだろ。最初にセックスした時に梅毒もらって、晩年には気が狂っちまったんだってな」だった。
 面接が終わってラッツォは部屋を出ようとしていた。「ドアのところまで来たら、マイクから声をかけられた。「ヘイ、ラッツォ。どうしてオレにあの本を送ってくれたんだい? オレが超人だとでも思ったのかい?」って。オレはこう答えた。「いや。マイク、あの本を送ったのは、落ち込んでるんじゃないかと思ったからです。あの本を読めば少しは元気になれるんじゃないかと思ったんですよ」と。そしたら、マイクは言った。「ありがとな、ラッツォ」 その日はそこまでだった。まあ、結局、オレは雇ってもらえたんだけど」



 次の幕は、スローマンにとって人生が一周した出来事だ。1990年代前半に書いた脚本から映画が制作されたおかげで、映画俳優組合から年金がもらえることになったのだ。スローマンの本『The Secret Life of Houdini: The Making of America's First Superhero』をもとにして、現在、新たに映画が制作されてもいる。アメリカのスパイであるマジシャンが、自分の努力奮闘のせいで殺されてしまうという話だ。しかし、何にも増してスローマンがワクワクしているのは、新たに音楽のキャリアも始まったことだ。「一番興奮したことの1つが、1980年代にジョン・ケイルと曲を作ったことだ。オレは歌詞を書いたんだ。本を出して、それがバーンズ&ノーブルの店頭に並ぶのは当たり前だ。でも、ボトムラインでジョン・ケイルがオレの書いた歌詞を歌うのを聞いた時には、マジで背筋がゾクゾクしたよ。ディランのツアーが終わった後、曲を書き始めたんだ。それを自分で歌うなんて思ってもいなかった。自分ていう概念すらなかったし」



 しかし、イースト・ヴィレッジにあるKGBバーでレイディオ・アワーというショウをやってる間に、全てが変わり始めた。「マーク・ジェイコブソンと一緒にショウをやるようになって、ブルックリンのいろんなインディーズ・バンドとコネが出来たんだ」 特に意外なことではないが、このショウが当たり、スローマンはケイジド・アニマルズのヴィン・カッチョーネ等、音楽シーンの人たちと交流するようになり、彼が歌詞を書いたケイルの名曲〈Dying on the Vine〉をレコーディングしたらと、カッチョーネから勧められたのだ。「まだ自信はなかったんで、伝説的プロデューサーのハル・ウィルナーに歌を聞かせて、感想を訊いたんだ。そしたら、「ラッツォ、何を待ってるんだい?」だって。『The Art of the Schnorr』(「間抜けの技術」の意)というタイトルになる予定の本のためのリサーチをしていことをジョークのネタにしている人物にふさわしく、スローマンは曲を2つ備蓄していた。「ケイルにはあげなかったんだ。オレの取り分がたった40%だって言うからさ」 スローマンはこの曲をずっと手元に持っていた。現在、スローマンは組んだばかりのバンドと数回、ショウケース・ギグを行ない、友人であるニック・ケイヴとデュエットしているビデオも制作する予定だ。
 スローマンは今でもなおラッツォというペルソナを楽しんでいる。ただし、小綺麗なバージョンになっていて、ヤギ髭と昔風の色付きメガネがトレードマークとなっている。今やラッツォは、エキセントリックなスタイルは名前の通りだが、オシャレな男なのである。ある晩、彼のコレクションの中から慎重に選んだスモーキング・ジャケットを着て出てきたかと思うと、特別なイベントでは、ハワイの友人特製のタイダイ・スーツ(「結構な値段なんだぜ」----ラッツォ談)で登場したりする。
 文化の最前線で活躍する最もダイナミックな人々と友人となった作家、役者、作曲家、雑誌編集者として40年あまりに及ぶキャリアを経た後、ラッツォにとって、これまでの経験の全てを糧としながら自分自身に焦点を当てる時がやっと到来した。ロック・バンドのフロントマンを務める67歳のユダヤ人を世界は必要としているのだろうか? 答えはもちろんイエスだ。

This story originally appeared in English in Tablet magazine, at tabletmag.com, and us reprinted in translation with permission.

The original article "A Mensch Named Ratso: The life and high times of a Queens kid who found his way to Bob Dylan, Abbie Hoffman, Howard Stern, and Mike Tyson" by David Hershkovits
http://www.tabletmag.com/jewish-arts-and-culture/247146/larry-ratso-sloman?utm_source=tabletmagazinelist&utm_campaign=a11c27f59b-EMAIL_CAMPAIGN_2017_10_18&utm_medium=email&utm_term=0_c308bf8edb-a11c27f59b-206970289
Reprinted by permission
posted by Saved at 22:39| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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