ビートルズとドアーズはメンバー同士会ったことがあるのか?
文:ジム・チェリー
ビートルズとドアーズは活躍の時期こそ重複していたものの、交流は殆どなかったようである。どちらのバンドの活動を綴った本にも、メンバー同士が会ったとは全く書かれていないし、一緒に写っている写真も1枚も存在しない。しかし、両バンドの間に繋がりがあったことを示す証拠文書があり、メンバー同士が会ったと考えるに値する風説も存在する。
ビートルズとドアーズの最初の縁は、ドアーズがバンドになり始めたばかりの1965年9月にあった。エレクトラ・レコードの創設者、ジャック・ホルツマンはクラシックのアーティストがビートルズの音楽を演奏しているアルバム《The Baroque Beatles Book》を制作中だったのだが、ビートルズからダメ出しが出ることを恐れた彼は、ロンドンに飛んでジョン・レノンとポール・マッカートニーと会見し、ふたりからこのプロジェクトに対する祝福の言葉をもらったのだ。
ドアーズ初のヨーロッパ・ツアー(1968年9月)の後、ジム・モリソンとパム・カーソンはロンドンでアパートメントを借りて、数週間、この地に滞在していたのだが、この頃、ジム・モリソンはアビイ・ロードで〈Happiness is a Warm Gun〉をレコーディング中のジョン・レノンと会ったという噂がある(セッションは1968年9月23〜25日にアビイ・ロード第2スタジオで行なわれていた)。これは十分ありえることだ。ホルツマンがビートルズと会ったことをモリソンが知っていて、紹介してくれと彼にお願いした可能性は高いだろう。この曲のコーラスにはモリソンが参加しているという説もある。
モリソンがロサンゼルスに戻った後の話だが、彼がアビイ・ロードを訪問したお礼に、ジョージ・ハリスンが1968年11月に《The Soft Parade》のレコーディング中のドアーズを表敬訪問したという噂もある。詳しい日時は不明だが、11月29日のことだったとする情報源もある(ハリスンのこの時の渡米の主な目的は、ニューヨーク州ウッドストックにあるボブ・ディラン宅の訪問)。《The Soft Parade》はドアーズが初めてジャズや管弦楽のミュージシャンを起用した作品で、完成に9カ月を要し、1969年7月に発売された。ハリスンは複雑な作業過程を見て、《Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band》のレコーディングを彷彿させると語ったらしい。
1969年9月に、ドアーズはトロント・ロックンロール・リヴァイヴァル・フェスティヴァルのトリを務めたが、当初、チケットの売れ行きが芳しくなく、主催者側ではコンサートの中止も考え始めていた。そんな状況下で、このイベントの司会を務めることになっていたキム・フォウリーはジョン・レノンと連絡を取って、開催に力を貸してもらうことが出来た。このショウの時にレノンがドアーズの誰かと会ったという報道は全くないが、レイ・マンザレクは、バックステージに用意されていた食べ物をレノンの側近が全部食べてしまったと報告している。
The original articles "The Beatles-Doors Connection" and "The Doors-George Harrison Connection" by Jim Cherry
http://doorsexaminer.com/beatles-doors-connection/
http://doorsexaminer.com/george-harrison-visit-doors/
Reprinted by permisson
カメラを持ったバンド・メンバー:写真家リンダ・マッカートニー
文:ジム・チェリー
1960年代半ばには、ロック産業はまだ生まれたばかりの状態で、ファンとバンド、メディアの区別はまだしっかりとは出来ていなかった。ロック・ファンがカメラを持っていたら、その人は写真家だった。ロック・ファンがノートを持っていたらジャーナリストだった(映画『あの頃ペニー・レインと』を見よう)。いずれの場合にせよ、バンドに近づくことは容易だった。そういう時代だったので、ドアーズを撮影した写真家はプロではなく、そうなる意図も持っていなかった。彼らは友人やヒーローの写真を撮っているファンだった。
リンダ・イーストマンも同じやり方でドアーズの撮影を始めた。
リンダは音楽ビジネスの中に生まれた。彼女の父親のリー・イーストマンはショウビジネス専門の弁護士としてアーティストや音楽家をクライアントに抱えており、リンダは画家のウィレム・デ・クーニングやブルックリンのソングライター、ジャック・ローレンス(1942年に1歳のイーストマンのために〈Linda〉という曲を書いた)等に囲まれた環境で育った。(リー・イーストマンがイーストマン・コダックで有名なジョージ・イーストマンと親戚であるという噂もあるが、それは否である)
ロックンロールの世代の多くの子供と同様に、リンダ・イーストマンも年頃になると自宅から抜け出してロックの映画やコンサーを見に行くようになり、ニューヨークで行なわれたアラン・フリードのロックンロール・レヴューで、バディー・ホリー&ザ・クリケッツ、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ等の多くのパフォーマーを見て、強烈な印象を受けた。リンダはカレッジに進学すると芸術史を専攻した。その頃、興味を持っていたのはイタリアやフランスの白黒映画だったが、卒業後、アリゾナで暮らすようになると、地元の芸術センターの写真コースに通い始めた。このセンターでは大恐慌時代の写真家、ウォーカー・エヴァンス、ドロシー・ラングの作品を展示しており、彼らが撮影した1930年代の移民収容キャンプや小作農の肖像写真を見て、リンダはスチール・イメージも動画やコンサートと同じくらい刺激的なメディアになりうることを確信した。
リンダの初期の写真は自分の娘や自然を写したものだったが、ニューヨークに戻ると『タウン・アンド・カントリー・マガジン』で働くようになり、昼休みにはよくMOMAの写真コーナーを見に行った。彼女が撮影した最初の肖像写真はザ・デイヴ・クラーク・ファイヴで、ヨット上で行なわれたローリング・ストーンズのパーティーでは乗船を許されたたったひとりの写真家となったことから(彼女がブロンド美人だったこともマイナス要素ではなかっただろう)、ロック写真家としてのキャリアがスタートした。
リンダが初めてドアーズと出会ったのは、1966年冬のオンディーヌ公演の時だった。ドアーズはファースト・アルバムをリリースする前で、その頃はまだ成功を夢見る無名のバンドだった。彼女がドアーズと再会を果たすのは、彼らがオンディーヌやスティーヴ・ポールの経営するザ・シーンでギグを行なうためにニューヨークに再びやって来た'67年3月のことだった。
(撮影:リンダ・マッカートニー)
リンダがジム・モリソンと親しくなったのは、彼がスターダムに向かって急上昇する直前だった。ふたりは一緒に書店巡りをしたり、チャイナタウンに行ったり、リンダのアパートメントでデートを重ねたりした。リンダが撮影したこの時期のドアーズの写真からは、ワイルドなロック・バンドという様子は殆どうかがえない。メンバーは皆、茶か黒の衣装を着ており、ジム・モリソンはまだ、音楽とともに彼のトレードマークとなったかの有名なレザーの衣装を着ていない。リンダは、ドアーズはバンドとしてまとまりのある演奏をしていたと述べているが、ステージ写真を見る限りでは、まだ実験段階といった雰囲気だ。
(撮影:リンダ・マッカートニー)
リンダはジミ・ヘンドリクス、ザ・フー、ジャニス・ジョップリン等、1960年代の大物ロッカーたちと親しい関係を持っており、彼女が写真家として評判が高かったのは、被写体にポーズを取らせるのではなく、自分が「楽器としてカメラを選んだバンド・メンバー」として撮影に臨んでいたからだ。
リンダ・イーストマンが撮影した最も有名な被写体はポール・マッカートニーだった。この後、リンダはリンダ・マッカートニーとして知られるようになる。リンダとポールは1969年3月に結婚した後、リンダの連れ子と、ふたりの間に出来た3人の子供を育てた。リンダはポールのバンド、ウィングスでプレイし、ベジタリアン料理の本を出版して菜食主義運動を開始したが、残念なことに、1998年に乳がんのため56歳の若さで死去した。
リンダ・マッカートニーの作品はネット上にあるさまざまなギャラリーや、『Linda McCartney's Sixties』や『Life in Photographs』等の写真集で見ることが出来る。
The original article "Linda McCartney: Band Member with a Camera" by Jim Cherry
http://doorsexaminer.com/linda-mccartney-band-member-camera/
Reprinted by permission