2018年02月14日

書評:『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのか ロックとキリスト教』

 島田裕巳・著『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのか ロックとキリスト教』(イースト新書)は宗教にからめてロックを語った本としては日本では画期的で、しかも、執筆者が音楽評論家ではなくて有名な宗教学者ということで、そこらのロック関連書籍とは違うものになるだろうと期待度の高い本でした。ロックの専門家ではない、大学で他の専門分野を研究している人の書いたロック本としては、『ビートルズは音楽を超える』(武藤浩史・著)が、英文学やイギリス社会史とからめて、音楽ファン(ロックに夢中で学校の勉強をサボり、成績が悪かった人ばっか。私もそうです)にはない視点からビートルズを語った名著だったので、こっちもと期待していました。



 『神を信じなかった』本を実際に手に取ると、さっそく「はじめに」の中で(日本でロックとキリスト教の関係が知られてこなかったのは)「音楽評論家たちが、まったくといっていいほど、ロックの背後にある、あるいは西欧の音楽全体の背後にあるキリスト教の信仰について関心を持たなければ、知識もなかったことがあげられる」(p.006)とあります。裏を返すと「宗教に興味も関心もある学者の私が書くことは、勉強が足りてないロック・バカとは違いますよ」と受け取ることが出来ます。実に頼もしい。まさに、そういう本を待ってたのです。
 第1〜2章のピーター・ポール&マリーの宗教色、ゴスペル大好きエルヴィスまではイケイケ状態の書きっぷりです。エルヴィスが実は信心深い純朴な人間で、ゴスペルが大好きだった件は、カジュアルなファンでも知ってることですが、米宗教史とからめたその位置づけは、関心と知識のある宗教学者ならではのものです。しかし、第3章からボブ・ディランのことを話し始めると、アレレ?という箇所が現れ始めます:

(p.115)(1965年ニューポートに関する説のひとつを紹介)〈It's All Over Now, Baby Blue〉をヤーローとデュエット

 デュエット説の存在は初耳です。私の勉強不足でしょうか? 何人かの知人にも質問してみましたが、デュエット説は知らないとのことでした。何かの本に載ってるのでしょうか?

(p.120)『ジョン・ウェズリー・ハーディング』のアルバム・ジャケットでも、ふたりのネイティヴ・アメリカンにはさまれたディランは

 ネイティヴ・アメリカンじゃなくてインド人。

   

(p.120〜121)(《Nashville Skyline》について、これを聞いた時の佐野元春の驚きと、「音楽雑誌は判断を迷っていた。私は声まで変えていたのだ。みんなが頭を抱えていた」というボブ本人の言葉を引用した直後に)聴衆は、社会に対してプロテストする歌よりも、安心して聴ける曲を求めていた。…社会からは支持されたのである。

 ボブの発言は「みんなから支持されなかった」という意味だと私は解釈してます。それと正反対の「社会から支持された」という論調は、この本で初めて読みました。私の勉強不足か?

(p.129)湯浅の著作では、ディランがこの時代にボーン・アゲインということばを使った覚えはないと、わざわざ証言したことを紹介している。

 〈In The Garden〉の歌詞はチェックしなかったのでしょうか?

(p.129)新生を経験するということは、なんらかの宗教体験をすることを意味する。では、ディランにはそうした体験はあったのだろうか?

 この問題提起の後、「公演中、ファンがステージに投げた十字架を拾った」「ホテルの一室でイエスと会った。イエスは肉体として現れた」等の宗教体験の話が全く紹介されていません。伝記本にはよく出てくる話なのに、どうして触れてないの?

(p.129)一九七八年に『レナルド・アンド・クララ』という映画を製作

 1978年は公開。制作は1975〜77年。

(p.135)ゴスペル期になるまで、キリスト教の信仰と関連するような曲をディランはほとんど作ってない。
(p.139)ゴスペル期になるまで…聖書に登場する語句や人物が出てくることもあまりない。
(p.147)ゴスペル期以前に、彼が自作の曲に神を登場させなかったことを…
(p.154)自分で作った曲には、宗教色が欠けている

 第3章でこの点をしつこく繰り返しているので、島田は自信を持ってそう判断してるのでしょうが、以下の歌詞はどうでしょう? 「神はアブラハムに、お前の息子を殺して私にささげなさいと言った」で始まる〈Highway 61 Revisited〉は? 〈Rainy Day Women #12&35〉の「石を投げる」はイエスが生きてた頃のユダヤの刑罰を連想しないか? 〈Desolation Row〉にはカインとアベルが登場。〈The Lonesome Death Of Hattie Carroll〉の「slain by a cane」はカインによるアベルの殺害も連想させる懸詞でしょうに。〈When The Ship Comes In〉には海が分かれる、ゴリアテ、ファラオという言葉が登場して旧約聖書臭ぷんぷん。〈George Jackson〉に「Lord」が登場。〈No Time To Think〉では「キスによって裏切られ」と歌っている。〈Sign On The Cross〉はもろ十字架。〈Idiot Wind〉には「十字架上の孤独な兵士」。〈Joey〉には「天国にいる神が…」。〈I Shall Be Free No.10〉には「天国のストリート」。私が自分の粗末な脳味噌でちょっと思い出しただけで、これだけ出てきます。歌詞本を調べたら、もっと出てくるでしょう。これでも「ほとんど作ってない」のでしょうか? こうした曲が何曲あれば「少し」もしくは「まあまあ」作ってることになるのでしょうか? 数十ページ先で、ジョン・レノンの〈God〉の「I'm John」に『ヨハネの福音書』を連想するほどキリスト教関連の言葉に敏感な人なら、以上の歌詞にもビビビッとくるはずなんですが…。もしかして、島田は歌詞集をチェックせずして歌詞について論じてるのか?

   

(p.147)『ノックト・アウト・ローデッド』は、マハトマ・ガンジーやマーティン・ルーサー・キング牧師、そしてイエス・キリストが理不尽に殺されたことを神に対して訴える内容になっている。

 アルバム全体がこういうテーマなのではなく、その中の1曲〈They Killed Him〉がこういう内容。島田はこの曲がクリス・クリストファーソンの曲とは気づいてなさそうです。

(p.150)彼が作り演奏した音楽を追っていくかぎり、信仰上の葛藤があったようには見えない。

 1979〜80年前半のツアーでゴスペル曲しか歌わなかったのは、過去の曲と信仰上の葛藤があったからです。ボブもそう語ってます。島田は「演奏した音楽」を本当に追ったのでしょうか?

(p.152)コンサートがはけてから、バックコーラスのメンバーと夜を徹してゴスペルを歌った。そうした面はディランには欠けていた。

 映画『Renaldo And Clara』には、コンサートではない場所で〈People Get Ready〉を歌ってる様子が収録されています(別のシーンのバックとして、音だけ)。この曲はジャンルとしてはソウル/R&Bとされていますが、十分ゴスペル風の曲じゃないですか。なので、「欠けていた」という断定的な表現には違和感を覚えます。


 
 普通、この手の本には巻末に参考文献の長いリストが載っているものなのですが(それを見ると著者の研究のレベルもわかります)、この本にはありません。でも、さすが学者です。本文中にしっかり書いてありました。ボブとキリスト教に関して扱っている第3章で引用元として触れられているのは、次のものでした:

湯浅学『ボブ・ディラン----ロックの精霊』
佐野元春『ハートランドからの手紙』
マイケル・J・ギルモア『Gospel According To Bob Dylan』
ハワード・スーンズ『Down The Highway』

   

 これだけです。湯浅、ギルモア、スーンズの本はボブのキャリア全般を鳥瞰した内容のものであり、ボブと宗教についても書いてなくはありません。しかし、ボブと宗教というテーマなら、それを本格的に論じた最新の研究をチェックしない理由がわかりません。昨年中に《Trouble No More》にあわせて出版された『Trouble In Mind』(クリントン・ヘイリン著)や、一足先に出た『Bob Dylan: A Spiritual Life』(スコット・マーシャル著)を島田が読んだ様子はありません。時間的に可能なのにです。ボブはずっとイエスを信じていたと主張する『Dylan Redeemed: From Highway 61 to Saved』(スティーヴン・H・ウェブ著)も、何だかんだ言ってボブはずっとユダヤのルーツを捨ててないと主張する『Bob Dylan: Prophet Mystic Poet』(セス・ロゴヴォイ著)も読んだ様子はありません。どうして?

   

 途中は以上のようにツッコミどころ満載なのですが(変な箇所はまだまだある)、島田が至った「〜ではないだろうか」という暫定的結論は、なかなかいいところを突いてるんです。まとめると、こうでしょうか:ディランはユダヤ教の通過儀礼を経験したものの、その信仰世界を深く探求することはなく、キリスト教徒もたくさんいるアメリカ社会の中でアメリカ人として生きてきた。短期間、キリスト教の信仰に没頭したが、その熱がさめた後も、ゆる〜く信仰を持ち続けているのではないだろうか。
 さらに、こんな良いことも述べてます。「無宗教を自覚するわれわれ日本人に近いのかもしれない。日本人は、通過儀礼は神道と仏教でやりながら、自分たちは信仰を持っているという自覚は持たない」「キリスト教のボーン・アゲインの信仰と、ユダヤ教の通過儀礼とでは次元が違うわけである。次元が違うということは、必ずしも両者が衝突しないということを意味する」「アメリカに住むユダヤ人全体に共通するもので、別格珍しいものではない」 これは気がつきませんでした。あっちになったこっちになった的な議論ばかりを聞き(いわば、ウェブvs.ロゴヴォイ)、宗教は日本人には理解出来ない話題だと半ば諦めていましたが、時々迷走してる文の最後になって面白い視点が提示され、ハッとました。
 とはいえ、宗教学者の関心と知識が生かされてる本とはあまり思いません。レーガン政権で一気に保守化が進み、キリスト教の一部宗派が政治に関心を持ち始め、政治家が票田としての宗教界に目を向けるようになったのと(子ブッシュ時代のネオコンにつながる)、ボブのゴスペル期は時が一致しています。ジョン・レノン&ヨーコ・オノはゴスペル・ボブが気に入らなかったのに、その直後に作ったアルバム《Double Fantasy》の〈Starting Over〉や〈Hard Times Are Over〉はバリバリのゴスペル・サウンドです。フランク・ザッパも《You Are What You Is》の〈Heavenly Bank Account〉でバリバリのゴスペル・サウンドに乗せて宗教ブームを皮肉っています。これが全部、同じ時期に起こってるんです。時代的な何かがあるはずです。島田は年齢と学歴からすると、宗教に対する関心と知識を持ちながらリアルタイムでこの頃の世界を見ているはずで、現に『芸能人と新宗教』『反知性主義と新宗教』という著書もあるので、何か言うべきことを持ち合わせてはいないのでしょうか? 現代アメリカにおけるさまざまな宗教運動・団体(例のヴィニヤードなんとかやジューズ・フォー・ジーザスなど)の活動や主張を、日本人にわかりやすく説明してくれればいいのに。ボブはどういう思想を持った人たちに混じって、どういう勉強をしたのでしょう? 聖書の勉強というのは、先生がどういうことを教え、生徒は何をするのでしょう? コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)という音楽ジャンルにおいて、ボブはどういう位置づけなのでしょうか? ボブはCCMからどういう影響を受け、どういう影響を与えたのでしょう? わからないことだらけです。知りたいことだらけです。「はじめに」で音楽評論家を元気良くディスってる割には、学者の本は取り上げず(ウェブ、マーシャルは宗教学者です)、音楽評論家やミュージシャンの書いた本しか参考にしてないし、中身はそれをはるかに下回るレベルというていたらく。こういう本のことを、買って後悔の駄本と言います。きっと、昨今のビートルズ人気とボブ・ディランのノーベル文学賞受賞にあやかって、それで何か書かないか?というオファーが来てから、それまで特に関心も知識も持ってなかったボブと宗教に関して、評判の良い本を数冊読んで(たぶん斜め読み)適当なことを書いちゃったのでしょう。そんな雰囲気がパない、つめの甘い本でした。(なのに、この記事にアマゾンのリンクを貼っておく私は相当な偽善者です)

   

 以上、第3章までのツッコミ&感想です。第4章からビートルズの話になるのですが、こちらもツッコミどころ満載。気が向いたら、何か書きます。
 ロックと宗教というと、『ロックミュージックのオカルト的背景』という本もそろそろ出るようです(宗教とはちょっとズレてるか)。
http://www.shikokuanthroposophiekreis.com/2017/12/blog-post_18.html
posted by Saved at 10:43| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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