2018年02月21日

さらにしつこく『神を信じていなかった』本の書評

 第4章まであれこれ言ったついでに、最後までいっちゃいましょうか。もうこの本の大宣伝状態です。
 第5章は、これまでのまとめとして、プレスリーとディランの違いについてもうちょっと述べた後、ローリング・ストーンズ及びブリティッシュ・ロック一般に触れ、さらに、ロックがキリスト教化する「必然性」について持論を展開していますが、ツッコミどころが多数あることは、第3〜4章と同様です。(ところで、PPMやプレスリーについて詳しい人が第1〜2章を読んでどう思ったのか知りたいです)



(p.206)そうしたエルヴィスと比較したとき、ディランが、ゴスペル・アルバムを作っていた時期は短いし…実生活でもユダヤ教の信仰世界に戻ってしまったのである。

 さっき、p.146で「その点について簡単に結論を下すことがむずかしくなってくる」って言ってたのに。

(p.206)エルヴィスはゴスペルを聴きながら幼少期を過ごしたわけだが、ユダヤ教の家庭に育ったディランの場合には、そうした経験は全くなかったはずである。
(p.209)彼は、ゴスペルではなく、ユダヤ教音楽を聴きながら育った可能性が高い。

 島田は20世紀後半のあらゆる音楽にとって重要だったツール、ラジオの存在を忘れてないか。ボブは2006〜09年に『Theme Time Radio Hour』という番組のDJを担当し、自分が若い頃ラジオでいろんな音楽を知ったので、その恩返しをする番だとして、幼少期〜今まで好きだった音楽をたくさん紹介しました。その中にはキリスト教にまつわる歌がたくさんあったのですが、島田はそのプレイリストをチェックしたのでしょうか?

   

(p.210)たとえゴスペルを歌ったとしても、それは彼の体に染みついたものではない。…どうしても表面的なもの…ゴスペルを歌うようになるには、幼少期にそうした音楽体験をしていなければならない。ディランにはそれが欠けていた。

 島田の考え方だと、幼少期に体験したものじゃないと、本物として歌えないってことですね。ボブのゴスペルは表面をなぞっただけの偽物だったんですね。へえ〜。我々には思想の自由、言論の自由があるので、どう感じるかは人それぞれだと思います。正直、私もずっと疑問を抱えてたので、メイヴィス・ステイプルズが来日した時に直接訊いてみました。「本業のゴスペル歌手であるあなたからすると、ボブのゴスペル曲は本物ですか?」って。答えは「イエス」でした。
 もし表面的な薄っぺらいものだったら、多数の本物のゴスペル・シンガーたち(キリスト教の信仰も持っている)がボブのゴスペル曲を歌った《Gotta Serve Somebody: The Gospel Songs Of Bob Dylan》なんてアルバムは生まれたでしょうか? 超老舗の黒人ゴスペル・コーラス・グループのザ・ディキシー・ハミングバーズはボブの〈The City Of Gold〉をカバーしたでしょうか?
 
(p.210)アメリカのミュージシャンたちは、ユダヤ人を除けば、幼い頃から教会に通い、キリスト教の音楽世界にふれている。

 レコードやラジオ、テレビがあるので、ユダヤ人を含む全員が、あらゆる音楽に触れることが出来ます。現在では、それにプラスしてインターネットがあります。どうしてユダヤ人を除くのでしょう? ユダヤ人だからユダヤ音楽だけなんてあり得ません。ボブの場合、ユダヤの伝統音楽よりもゴスペルからのほうがはるかに大きな影響を受けています。レコードを聞けば明らかです。
 ボブがユダヤの伝統音楽を演奏した数少ない例が、ゴスペル時代が終わった後、1980年代後半にユダヤ人のチャリティー団体のテレビ・ショウに出演した時です。笛をピロピロ吹いてる迷演です。





 ボブがこういう音楽をやるのは例外のほうです。ボブはこの頃ルバヴィッチなんとかという団体の主催するこのチャリティー番組に何度か出演してるので、この難しい名前の人々がどういう教義を持っていて、どういう性質の団体なのか、アメリカ社会の中で彼らとつきあうというのはどういうことなのか、ボブのキリスト教改宗時にこの団体がどう反応したのかを、宗教学者の立場から説明してくれたら、ボブへの理解がもっと深まると思うのですが…。
 それから、ユダヤ系の音楽について説明するのにベン・シドランを取り上げてますが、彼がボブ・ディラン曲集《Dylan Different》を出してるのを、島田は知ってるのでしょうか?

(p.213)アメリカのポピュラー音楽の世界は…人間同士の恋愛を歌ったものでも、神からの愛、神への愛を暗示していることが少なくない。
(p.215)(イギリスのロックは)アメリカのロックから影響を受けた場合でも、むしろ信仰の要素がまったく見られない音楽が中心になっていた。
(p.216)(ローリング・ストーンズに関して)このアルバム(《Aftermath》)にも宗教や信仰に結びつくようなものは見出せない。それは、他人の曲が殆どを占めた最初のアルバムについても共通している。

 信仰の要素が見られる曲は避けて影響を受けたってこと? えっ? イギリスのミュージシャンは信仰の要素が見られる曲を大量に取り上げてると思います。特にブルース、R&B、ソウル系の人は。幼少期のゴスペル体験から始まってプロになった黒人ソウル/R&Bシンガーの歌う曲(ポピュラー音楽とはいえ、神からの愛、神への愛を暗示していることが少なくない----って島田がさっき言ってました)を、デビューしたてのローリング・ストーンズはたくさんカバーしています。例えば、わかりやすい例だと《Out Of Our Heads》に入ってる〈Mercy Mercy〉はどうでしょう。「Mercy」(慈悲)なんて説教の中に出てくる常套句です。

   

(p.219)この曲(〈Sympathy For The Devil〉)以外に、ローリング・ストーンズが悪魔を歌ったような曲はない。

 言い切っちゃってます。アルバムのタイトル、曲名すら確認しなかったのでしょうか? わかりやすい例だと、《Their Satanic Majesties Request》というアルバム、〈Dancing With Mr.D〉という曲があります。ミックは、サタニズムの世界では有名な映画監督ケネス・アンガーからの要請で『Invocation Of My Demon Brother』という映画のサントラを担当してもいます。



(p.216)〈I Just Want To Make Love To You〉だと、アメリカのブルース歌手、ウィリー・ディクソンが作った曲だけに、ゴスペルのテイストを持っている。だが、そのぶん、ローリング・ストーンズらしくない。

 私は反対に、この曲にストーンズらしさは見出せますが、ゴスペル・テイストは見出せません。単なる意見の相違ですけどね。島田はファースト・アルバムは聞いたようですが、〈Can I Get A Witness?〉にはゴスペル・テイストは感じなかったのでしょうか? 「witness」なんか教会の説教によく登場する言葉でしょうに。〈Imagine〉の最後のほうに出てくる「brother」で托鉢修道会を連想するほど敏感な人がこれに気づかないのには、何か深いわけがあるに違いありません。

(p.221)「悪魔を憐れむ歌」は、決してミックが悪魔主義者であることを証明するものではない。ローリング・ストーンズの音楽世界には、キリスト教の信仰はほとんど影響していないのである。

 アンチ・キリストの悪魔主義も、キリストが存在してこその「アンチ」なので、キリスト教的世界観の中に含まれるものだという考え方は、私の粗末な脳味噌でも理解できます。ミックの悪魔主義云々に関しても、私も、それがガチなものではなくて、アンチ・エスタブリッシュメントなイメージ戦略の一環としてちょっと取り入れただけの「なんちゃって」だと思います。しかし、悪魔主義が存在しないのでキリスト教信仰の影響も殆どなし、という論理展開には反対です。
 「信仰」の解釈にもよりますし、どのくらいの現象があったら「影響」を受けたことになるのかも、はっきりとした基準はありませんが(島田本全体に違和感を覚えるのは、島田本人の「基準」が首尾一貫してないような書き方になってる点です)、私の個人的意見としては、「影響していない」ではなくて、「ブルースやR&B、ソウルをたくさんカバーしたことから、それらの音楽に含まれていたキリスト教的な要素が、ローリング・ストーンズの音楽の中にもある程度は入り込んでいる」という言い方のほうが正確だと思います。〈Salt Of The Earth〉〈You Can't Always Get What You Want〉〈Gimme Shelter〉〈Shine A Light〉を聞いて、サウンドにゴスペル風を感じない人はたぶんいないでしょう。《Exile On Main St.》の〈I Just Wanna See His Face〉は「イエスのことなんて話したくねえ。ただ顔が見てえよ」と、イエス・キリストについて歌った曲です。ほのめかしじゃなくてモロなので、歌詞を調べればすぐにわかります。

   

 《Some Girls》の〈Far Away Eyes〉は、その冒頭で、カーラジオでゴスペル音楽と説教を聞きながら田舎の道をドライブしてる様子を歌っています(隠れた名曲だよな、これ)。私の耳には、キリスト教の影響がストーンズの音楽に入り込んでるようにしか聞こえません。



(p.242)(テレビ、ネット、CDなどのある現代)に比べれば…一九五〇年代を考えてみれば、若者たちが音楽を聴く主たる方法としてはラジオしかなかった。

 ラジオを過小評価しちゃいけない。アメリカには昔から日本の何倍ものラジオ局があって、レコードなんか買わなくても、何の気なくラジオを聞いてるだけで、ものすごい量の音楽に接してることになります。ロビー・ロバートソンはアメリカのラジオ局を聞いてブルースに親しんでたと言ってます。

(p.252)(日本の現状についての話の中で)英語の歌では、その意味が取りにくいのである。しかも、訳詞を行う際に、翻訳家が、歌の中に「神」が出てきたとしても、それを省いてしまう場合がある。ロックの歌詞に神が頻繁に登場しているにもかかわらず、それに気づかないという事態が生まれている。

 本当? これは具体例を知りたいです。びっくりした時の「オー・マイ・ガーッ」や「ジーザス!」はいちいち「おぉ、我が神よ」「イエス様!」と直訳してたら美的な点でかえって変だと思いますが、それとは違うレベルのところで「神」をしっかり訳してないというのでしょうか? 皆さんからの情報を求む。よろしくお願いします。

(p.255)ロックの宗教性を考えることは、ロックの本質に迫ることになる。また、アメリカの社会の姿をこれまでとは違ったものとしてとらえることを可能にしてくれる。その点では、ロックの宗教性、そのキリスト教とのかかわりを理解することはきわめて重要な意味を持っているのである。

 これが『神を信じなかった』本の締めくくりなのですが、私も100%そう思います。音楽の数千年の歴史を「剽窃」という観点で綴ったアメコミ『THEFT』でも、レイ・チャールズが神聖なゴスペルと世俗的で猥雑なブルースを合体させたことが、ロックの誕生において重要な役割を果たしたと指摘しています。

   

 島田は、ストーンズを語った後、エリック・クラプトンに関して、《Journeyman》《Pilgrim》あたりからキリスト教的信仰を歌った曲が増えたことや、自伝中でキリスト体験を綴っていることを指摘し、滅茶苦茶な生活→体を壊す、親しい人を失う等の人生の転機に反省→宗教に目覚める、という道筋をたどるミュージシャンが多い→もともとキリスト教とロックは結びつきやすいものだった、という具合に論を展開し、上記の言葉で本全体を締めくくっています。
 しかし、これが最終的な結論として言いたいことだとすると、プレスリーや改宗ディラン、クラプトンは例として適していますが、島田自身が殆ど宗教性を見出せていないビートルズやローリング・ストーンズにたくさんのページを割いてるのは、ゴールに行き着く上で迷走にしか見えません。キリスト教3部作を発表する以前のディランにもキリスト教の影響があり、ビートルズもストーンズもキリストの教の影響を受けている点が島田には殆ど見えてない(少なくとも、影響を積極的に認めようとするのとは反対のベクトルで語ってる)ので、2重の意味で迷走です。
 ということで、最後にひとこと。この本のタイトルは『ロックとキリスト教』で、サブタイトルが「ジョン・レノンは、なぜ、神を信じなかったのか」のほうが、内容からするとフェアじゃないでしょうか。島田先生、もっといい本書いてください。
posted by Saved at 23:50| Comment(0) | Rolling Stones | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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