『ロックミュージックのオカルト的背景』は、シュタイナーの研究者であるグライナーがロックとオカルトというテーマに取り組んだ論文で、アレイスター・クロウリーを西洋哲学の系譜の中に、その鬼っ子、悪性腫瘍みたいな存在として位置づけています(哲学の系譜に組み込んでもらえていること自体が画期的)。論文の中身を超大雑把に要約すると「ロックはクロウリーを思想的な祖に持つゆえ、ロックを愛好する現代人はエーテル体が危機に瀕している」です。シュタイナー研究者にとっては当たり前の用語なのでしょうが、私のようなシロウトには、エーテル体だのアストラル体だのが出てきても、よくわかりません。訳者によるたった5行の脚注では足りません。「詳細はシュタイナーの『神智学』を参照のこと」だそうです。はい、わかりました(この本を読んでも理解出来るかどうかはわかりませんが…)。
そして、最後の締めくくりが「この病を癒す薬は、何処に有るのでしょうか。この現状を打破する代替案は、何処に有るのでしょうか」です。エーテル体が危機に瀕している典型的な現代人の私の不安を煽るだけ煽っといて、疑問で終わってます。まさに尻切れとんぼ状態。シュタイナー教育の人でも、今のところ、ロックのせいで生じた深刻な「エーテル体の危機」を救うすべはないようなのです。『訳者あとがき』によると、著者本人が講演原稿に手を加え続けていて未完の状態であるのを承知して、この論文を翻訳したらしいのですが、だとしたら、「癒す薬」「代替案」についてもう少し著者の考えがまとまった時点で紹介して欲しかったなあ。時期尚早感がパないです。私の想像ですが、グライナーはこうした問題を抱えている現代人の心・精神・霊的な何かを治したいという立場の人なのでしょうに。
そもそも、不思議な構成の本なんですよ、これ。全部で約200ページなのですが、タイトルにもなっているグライナーの論文が最初の70ページ、「訳者による解説と補足」という但し書き付きで竹下哲生の『近代と現代の分水嶺としての十九世紀』が約70ページ、残りが『深淵の獣の行方』と題した、竹下と現代フランス哲学の研究者でロックも大好きな柿並良佑の対談となっています。で、2番目の『十九世紀』が、それほどグライナー論文の解説にも補足にもなっていないどころか(だって、私に必要な解説はエーテル体のことだもん)、これはこれで独立した文として発表していいほど、面白い視点で刺激的に書かれている近〜現代の西洋音楽史なのです。3番目の『行方』対談も、グライナーのオカルト論文の解説というよりは、非常に興味深い、中高年には書けない鋭い内容の現代日本文化・文明論になっています。どちらも「解説」「補足」などという一段低い地位に甘んじる必要のない立派な内容です。はっきり言って、本の看板ではあるものの、「さて、レッド・ツェッペリンは----確認出来る範囲で----最初にリバース・スピーチ(逆再生メッセージ)を使用したアーティストだと言えます」とか、ちょっとボケたことが書いてあるグライナー論文など(ビートルズの〈Rain〉は確認範囲外だったのか?)、なくても通用する本ですよ。なので、グライナー論文をヨイショする必要性など、私には全く感じられません。何の根拠もない私の妄想ですが、本当は『十九世紀』と『行方』を発表したかったんだけど、シュタイナー系の出版社を説得するのにグライナーを取り上げなければならなかったという大人の事情でもあったのでしょうか?
本ブログのロックとオカルト関係記事:
・オカルト史観でロックを語る『Season of the Witch』著者インタビュー
http://heartofmine.seesaa.net/article/408594084.html
・どうしてロックはアレイスター・クロウリーを愛するのか
http://heartofmine.seesaa.net/article/433815718.html
とても好意的な書評を書いて頂いて、本当にありがとうございますm(-_-)m
またグライナーさんの論文に「中途半端感」が有るというのも、頷けます。というのも、彼としては現代文明に対する「問い」を提示したかったのであって、何らかの「解決策」を提案したかったわけではないからです。というのも、これは今はやりの落合陽一さんの『日本再興戦略』にも書かれているのですが、結局のところ近代という時代には未だ「正解」があるのだけれども、その正解すらないのが「現代」という時代なんですね。そして、そのことは確かに明確に表現できていなかったと思います_| ̄|○
それで、この問題について僕なりに考えてみたのですが、矢張り問題は「視点」の違いだと思います。というのもグライナーさんの論文は、もともとは自身の講演をまとめたものであって、その聴衆というのは古代エジプトやギリシャ古典、更には中世キリスト教の発展史に精通した人たちなんですね。それで、そういう「文化の王道」に居る人たちに、ロックミュージックという「サブカルチャーの価値」を訴えたものが彼の論文の「視点」なのですが、これって一般の日本の読者の「視点」ではないですよね?ということで、僕が「解説」というかたちで改めて「サブカルチャーの視点からハイカルチャーを評価する」ということをやってみたのですが、これが上手く機能しているかどうかは分かりません^^;
それと「エーテル体の危機」に関して、詳しい解説が無かったということに関しては、僕の力不足だと言うしか有りません。またグライナーさんに、そのことに関してだけで一冊本を書くように言っておきます(^^)/
但しロックミュージックというのはエーテル体の危機の「結果」であって、「原因」ではないということはお知らせしておきます。
今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。
竹下哲生