2018年08月29日

嘘まみれの人生:ボブ・ディランとロリー・ワイアットと〈Blowin' in the Wind〉

 ボブのバイオ本でも真の作曲者騒動についてはほんの少ししか触れられておらず、はっきり言ってわけのわからない事件なのですが、その経緯をちょっと詳しく説明している記事を発見したので紹介します。どうでもいいことなので、わけのわからないままでも全く困らないんですけどね。ニュージャージー州の小さな町での出来事が発端となったこの騒動に関しては、「蘇る記憶:1965年10月2日ニューアーク公演」でも少し触れられています。



嘘まみれの人生:ボブ・ディランとロリー・ワイアットと〈Blowin' in the Wind〉
文:フレッド・バルズ


 風が強く、雪もぱらつき、気温は氷点より少し上。1962年4月16日(月)の晩。場所はニューヨーク・シティーのウェスト・ヴィレッジ。ジョーン・バエズは西4丁目11番地前に停まっていたタクシーに飛び乗ると、そのドライバーに向かって、聞いたばかりの歌についてしゃべり出した。

ジョーン:信じられないでしょうけど、もうびっくりしたわ。これこそ本物の詩よ。
運転手:しっかり韻を踏んでたのかい?

 その日、成功への夢見るふたりのミュージシャンは、ついさっきまでファット・ブラック・プッシーキャットにいた。ここは、グリニッジ・ヴィレッジにある薄暗いコーヒー・ハウスであるということが大切だった時代に、ヴィレッジにあったコーヒー・ハウスだった。プッシーキャットが営業を停止する際に、ニューヨーク・タイムズ紙はこう言っていた。

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 ふたりのミュージシャンとは、フォーク・シーンでもっとウケが良くなるように名前を変えたユダヤ系の若者だった。ひとりは22歳になったばかりで、もうひとりはその歳になるのにあと1カ月足りなかった。プッシーキャットはいかがわしい場所だった。将来、そこのオーナーになる人物は「汚水槽だよ」と言った。「タバコの煙のせいで人の姿が見えず、ふたりにひとりの割合でヤクの売人なんで、おちおち人に話しかけられなかった」

 ファンキーであろうがなかろうが、プッシーキャットはヴィレッジで合法的に営業している会場だった。タイニー・ティムも、ママ・キャス・エリオットも、リッチー・ヘヴンズも、シェル・シルヴァースタインも、ビル・コスビーもここに出演した。しかし、午後は、この肌寒い4月の午後もそうだったのだが、プッシーキャットは、ヒップスターやビート詩人がコーヒーをすすりながら、盗聴されることもなく話の出来る静かな場所だった。

曲の誕生
 ふたりの男がここにいる。コーヒーを飲みながら、とりとめのないことを話している。もじゃもじゃ頭の若者のほうはノートとペンを取り出して、ギターを弾き始め、コードを弾くのと言葉をノートに書き留めるのを交互にやる。「ヘイ、マ〜ン。韻を考える間、オレの代わりにギターを弾いててくれないか」 こいつは別の若者にギターを渡しながら言う。「〈No More Auction Block〉だ」
 この古いスピリチュアルを知らなかったら、1962年のフォーク・シンガーじゃない。デヴィッド・ブルーがギターでこの曲を弾く間、ボブ・ディランは歌詞に最後の仕上げを施す。
 2ヴァースが満足に仕上がったところで、ディランとブルーはガーディース・フォーク・シティーに向かう。そこでは毎週、フート・ナイトが行なわれている。月曜日はいつもそうなのだが、ガーディースの地下室は出演者リストに載りたいミュージシャンでごった返していた。全員が、ステージの鍵を握っているギル・ターナーの気を引こうとしていた。ギルはフート・ナイトの司会進行役をしていたフォークシンガー兼興行主だ。

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ギル・ターナーの結婚式でのデロアズ・ディクソンとボブ・ディラン


 ディランはターナーと親しく、ターナーのグループ、ザ・ニュー・ワールド・シンガーズのリード・シンガー、デロアズ・ディクソンに片思いをしており、ガーディースの遅い時間のセットで一緒に歌いたいと思っていた。ディクソンは、毎晩、締めくくりとして〈No More Auction Block〉を披露していたのだ。
 「あなたに是非聞いてもらいたい曲を持ってきたんだ」 ディランはターナーにこう言うと、歌い始め、ターナーはそれを熱心に聞いた。「この曲は是非オレが歌いたい」とターナーが言う。「今すぐだ!」
 ディランはギルにコードを教え、ギルは歌詞にざっと目を通し、ディランが彼のために殴り書きをした歌詞を手に取ると、急いでステージに出た。「ここにお集まりの皆さん、私はこれから、偉大なソングライターが書いた新曲を歌いたいと思います。鉛筆の先から出て来てホヤホヤです。それでは行きましょう」 ギル・ターナーによる〈Blowin' in the Wind〉の初のライヴ・パフォーマンスは、こうして始まった。
 デヴィッド・ブルーの話によると、最後には観客全員からスタンディング・オベーションをもらい、ボブはそれを喜んで見ていた、そして、ふたりは帰宅した、とのことだ。
 しかし、その日の晩に、ボブ本人も〈Blowin' in the Wind〉を歌った。フート・ナイトには「3曲歌ったら去る」という厳格なルールがあったのだが、それを破っても良いという特別な許可をギルから得ていたのであろう。ディランはオリジナル曲の〈Talkin' New York〉、3曲のトラディショナル、そして、最後の締めくくりとして〈Blowin'〉を披露した。

聞く耳持たず
 〈Blowin'〉がフォーク・ソングの怪物的名曲になるだろうと、全ての人がすぐに認めたわけではない。ヴィレッジのフォーク・ファンにとっては「マクドゥーガル・ストリートの市長」として知られているデイヴ・ヴァン・ロンクは、その翌日、ディランを引きとめてこう言った。「ボビー、何て間抜けな曲なんだ! いったい、風に吹かれてるって何なんだよ?」 ヴァン・ロンクは時たま〈Blowin'〉にこんな歌詞を付けてからかった。

How much wood could a woodchuck chuck
if a woodchuck could chuck wood?
The answer my friend is blowin' in the wind.
  ウッドチャックが木を放り投げることが出来るのなら
  1匹のウッドチャックはどのくらいたくさんの木を放り投げることが出来るのだろう
  友よ、答えは風に吹かれている


 ディランと時々つきあってたデロアズ・ディクソンは、「Blowin'」という言葉が文法的に正しくないので、歌いたくないと感じていた。彼女はこの箇所を「Blown in the Wind」に変え、ザ・ニュー・ワールド・シンガーズもその歌詞でレコーディングしている。「ボブは気にしてないようだったよ」とハッピー・トラウムは回想する。「デロアズのことが好きだったから」
 ピーター・ポール&マリーを結成し、マネージメントを担当し、時折、レコードのプロデュースも行ない、ディランともマネジメント契約を結んでいたアルバート・グロスマンは、〈Blowin'〉は良くてもB面用の曲だと考え、こちらではなくて〈Don't Think Twice〉のほうをPPMに歌わせようとプッシュした。
 しかし、幸いなことに〈Don't Think〉ではなく〈Blowin’〉のほうが1963年6月に発売されると、最初の1週間で30万枚が売れた。ビルボード誌ではチャートを急上昇して最高第2位を記録し、他にも数百ものカバー・バージョンを生み出し、全てのフォーク・シンガーのレパートリー中の人気曲になった。1962年には、ディランはまだニューヨークのフォーク・シーンの中で天才扱いされているだけだったが、翌年にはニューポート・フォーク・フェスティヴァルに招かれて、ピーター・ポール&マリーと一緒に〈Blowin' in the Wind〉を披露し、大物フォーク・シンガーとなった。
 その頃、〈Blowin'〉に関する奇妙な噂が広まり始めた。

「ザ・ミルバーネアーズのメンバーが書いた曲です」
「ディランではなく、ミルバーン高校の学生、ロリー・ワイアットが〈Blowin' in the Wind〉を書き、ディランにこの曲を売ったという噂が広まっている。ディランは自分がこの曲を書いたと言い、ワイアットも自分が著作者であることを否定しているのだが、ミルバーン高校の生徒の中には、ディランが歌う前に、ワイアットからこの曲を聞いたと主張している者もいる」ニューズウィーク(1963年11月)

 ニュージャージー州ミルバーンはグリニッジ・ヴィレッジから電車で30分ほどのところにある町で、ミルバーン高校はそこにある。この学校は、課外活動の中でも、生徒が交代で参加しているアカペラ・グループ、ザ・ミルバーネアーズを特に支援していた。
 1962年9月、ミルバーン高校の3年生で、シンガー/ソングライター志望だったロリー・ワイアットは、ザ・ミルバーネアーズのオーディションに合格したという通知を受け取り、晴れて、このグループの1962年度第3期のメンバーとなった。フォーク・ミュージックに心酔していたワイアットは、自作のフォーク・ソングをザ・ミルバーネアーズに取り上げさせたいと思っていた。大きな理由は、彼らのアドバイザーがRCAにコネがあって、ザ・ミルバーネアーズのアルバムをリリースしようという話もあったからだ。
 ワイアットが、何かいいアイデアはないかと『Sing Out!』誌の10/11月号を眺めていた時に見つけたのが、ボブ・ディランの〈Blowin'〉だった(この曲の楽譜と歌詞が出版された最初期の例の1つだが、これが本当に第1号というわけではなかった。それが今後、この件において重要になってくる)。少年は〈Blowin'〉を自分の曲に作り変えようとしたが、ここまではれっきとしたフォークの伝統である。ザ・ミルバーネアーズの次のリハーサルの時、ワイアットはポケットの中に2バージョンの〈Blowin'〉を持っていた。ディランのものとまだ作りかけの自作だが、ワイアット本人も、後者はオリジナルと比べて取るに足らないものだと思っていた。しかし、誰かが「いい曲を持ってる者はいないか?」と訊いた時、この先10年間、自分に付きまとうことになる判断をしてしまった。
 ワイアットがディランの〈Blowin'〉を披露したところ、皆、驚きのあまり口もきけない状態になってしまったのだが、誰かが遂に訊いた。「お前が書いたのか?」 ワイアットは考えた。「イエスと答えたところで誰が傷つくのだろう?」と。ニュージャージー州ミルバーンにある友人宅のリビングでベージュ色の絨毯の上に座っていたその時、ロリー・ワイアット人生は狂騒に向かって真っ逆さまに落ちていった。

メンバー:感謝祭の集会でやろう!
ワイアット:だめだよ。まだ完成してないから。
メンバー:絶対やろう!

 感謝祭の集会のバックステージで、ワイアットはザ・ミルバーネアーズのメンバーに、誰が書いたかについては何も言うな、歌うだけにしといてくれと懇願した。
 しかし、メンバーのひとりが集まった観客に言ってしまった。「ザ・ミルバーネアーズのメンバーが作った歌を歌います!」

 終演後の楽屋で、ワイアットがもうこの曲は歌いませんと言っている様子を耳にして訝しく思っていたホームルームの教師は、後日、ワイアットを「ちょっと話があります」と呼び出した。この時、弱冠17歳の少年だったは、教師にまで追及されるなんて死んだほうがましだと感じ、この場から早く逃れようとして、曲の権利を1,000ドルで売って、チャリティーに寄付したと出まかせを言った。「どこに寄付したの?」と教師に訊かれたワイアットは、最初に頭に浮かんだものを口に出した。「C.A.R.E.にです!」
 1973年に『ニュー・タイムズ』誌に掲載されたワイアットの告白は、ここで話が終わっているが、実は正気でない沙汰はこれで終わったわけではなかった。

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 1963年に、ザ・ミルバーネアーズは《A Time to Sing》というLPを自費出版したが、それにはこの曲が収録され、作曲者としてロリー・ワイアットがクレジットされ、曲の成り立ちに関するライナーノーツまで印刷されていた。同年、このレコードはリヴァーサイド・レコードのサブ・レーベルによって拾われて、《Teenage Hootenanny》というタイトルで再発された。この曲はアルバムの1曲目だったが、タイトルは〈Blowing in the Wind〉と誤表記されている。作曲クレジットもワイアットではない、というより、その欄には誰の名前も記されていなかった。

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 ミルバーン高校の新聞『ザ・ミラー』の記事も、ワイアットが1962年夏にこの歌を作曲して、ボブ・ディランに1,000ドルで売り、その金をC.A.R.E.に寄付したという話を紹介していた。
 2カ月後、『ザ・ミラー』紙は、ザ・チャド・ミッチェル・トリオが最新アルバム《In Action》で同曲を取り上げる予定だという記事を掲載した。冒険心豊かな高校生記者は、トリオのレーベルの宣伝担当者に接触して、「美しいバラッドを作ったのはロリーです」と言ったらしい。しかし、《In Action》がリリースされた時には、作曲者名が記されているのは〈Blowin'〉だけで、しかも、ボブ・ディランというクレジットだった。ピーター・ポール&マリーがこの曲を有名にしたおかげで、《In Action》が8カ月後に再発された際には、タイトルも《Blowin' in the Wind》に変えられた。
 チャド・ミッチェル・トリオは、1962年に〈Blowin' in the Wind〉をシングルとしてリリースする機会を逸していた、という話もある。当時のプロデューサーからダメ出しをくらったのだ。「歌詞に「死」が含まれている曲がトップ50に入った例はない」というのがその理由説明だった。このトリオは厳密に第1号ではないとしても、〈Blowin'〉を最初にリリースしたアーティストの中には入る。1963年1月にリリースされたアルバム《In Action》も、同月にリリースされたシングル〈Blowin'〉も、作曲者クレジットは正しくボブ・ディランと記されていたが、シングルはザ・ミルバーネアーズの《Teenage Hootenanny》の名残だろうか、再び「Blowing」と綴りが間違っていた。
 レコード・レーベルが何を言おうと、ワイアットのクラスメイトの多くは、彼がこの曲を書いたが、権利の全てを売り渡すという間違った決定をしてしまったと信じていた。「ワイアット=〈Blowin'〉の真の作曲者」説を信じている者は、インタビューに応じてこう答えている。「権利売却に伴う条件の1つに、ワイアットは、未来永劫、自分が作曲者だとは主張しないこと、というのがありました。でも、本当は彼がこの曲を書いたことを、皆、知っています」
 噂はニュージャージー州の高校からグリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスに流れて来たが、それを取り沙汰する者は殆ど皆無だった。『ニューズウィーク』誌がこれを取り上げなかったら、恐らく自然死を迎えていただろう。

「僕の過去はとても複雑で、たぶん、皆さんには信じられないでしょう」
 大ボラを吹く傾向があったことを考えると、若きボブ・ディランのマスコミ対応はラッキー続きだったと言えよう。その時点までは、ディランにとっての「マスコミ」とは、ボブが本当にサーカスと一緒に旅をしたのかどうか、ホーボーとして西部を放浪したのかどうかよりも、この若者の才能のほうに興味を持っている友好的な広報係だったからだ。しかし、1963年11月に〈Blowin'〉がモンスター・ヒットとなり、カーネギー・ホールでコンサートを開催するようになると、大手マスコミの注意も引くようになった。
 1963年11月に、『ニューズウィーク』誌に、ディランの身なりから「卑猥な言葉をまぶしながら、わざと間違った文法を使うこと」まで、ありとあらゆることを批評し、歌っていない時にディランの口から出てくる言葉の殆ど全てが嘘であると言い、最後の締めくくりに、皆の知らない場所からやって来たと主張するボブ・ディランの実体はヒビング出身のボビー・ズィママンであると暴露する記事が掲載された。ディランはこれを書いた匿名の記者に、当然、気を悪くしたことだろう。
 これはジャーナリズムの世界では昔からお馴染みの中傷記事で、ディランなんてインチキ野郎だと悪口を言うのが目的なだけに、〈Blowin' in the Wind〉の本当の作者はロリー・ワイアットだという噂についても、しっかり言及していた。
 ディランの伝記を書いたアンソニー・スカデュトによると、「ディランと[マネージャーのアルバート・]グロスマンは報復をされたのだ。他の大勢の記者にもあったことなのだが、『ニューズウィーク』誌の記者はインタビューに協力するというディランの約束を取り付けていたものの、土壇場になって、ディランかグロスマンのどちらか(話にはいくつかのバージョンがあるが、最も信頼できる説によるとグロスマン)から、インタビューはなしと通達されたのだ。それで、この記者はミネアポリスとヒビングに出向いてディランの過去を掘り起こし、戻って来るやいなやゴシップ記事を出版するぞと脅した。グロスマンは譲歩してインタビューをセッティングしたが、記者がディランと話すことが出来たのはほんの束の間。ディランは機嫌を悪くして中断してしまった。ということで、この中傷記事が載ることになったのだ」
 ディランは『ニューズウィーク』誌の記事のおかげで数週間ほど落ち込んでいたが、遂には回復。この記事は、キャリアを妨害されたというよりもむしろ、ディラン神話を、ミネソタ出身のユダヤ系の若者がウディー・ガスリーのクローンに変身して、ニューヨークのフォーク・シーンを支配するというものにアップデートする材料になったと言えよう。ディランはこの後も、パンクなエレクトリック・ロッカーのディラン、レイドバックしたカントリー・ボーイのディラン、キリスト教伝道師のディラン、その他多くのディランをどんどん作り出していった。

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 『ニューズウィーク』誌の記事とインターネットのおかげで、〈Blowin' in the Wind〉の噂はなかなかの長寿を持っているようだ。真の作曲者はボブ・ディランであるという疑いのない証拠があり、ロリー・ワイアットがそれは嘘ですと何度も白状しているのにもかかわらずだ。真実はこうだ。ガーディース・フォーク・シティーで〈Blowin'〉を初演した1カ月後の1962年5月に、歌詞を追加したバージョンが『ブロードサイド』誌に掲載され、その後、『シング・アウト!』誌の10月/11月号にも再掲載された。こちらをロリー・ワイアットが----しなければよかったのに----発見することになる。ディランは1962年7月9日に〈Blowin' in the Wind〉をレコーディングし、それが収録されたセカンド・アルバム《The Freewheelin' Bob Dylan》は1963年5月に発売された。1カ月後、ピーター・ポール&マリーによるカバー・バージョンがこの曲を大ヒットさせた。

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 「〈We Shall Ovecome〉時代を代表する冠のような曲となる歌をオレが偶然見つけた話を明かすのを、セラピストはビックリしながら聞いてたよ。そして、応援してくれるようなことを言ってくれた。「まあ、少なくとも、あなたは優れた耳を持ってたってことよね」って」 ロリー・ワイアットは真のフォーク・ファンで、フォーク界では人気パフォーマーとなり、ピート・シーガーのコラボレーターも務めた。1990年代半ばに患った脳卒中のせいで活動のペースこそゆっくりとなったが、ワイアットは現在も演奏活動を続けている。
 一方、ボブ・ディランはボブ自身の最大の発明品であり続けている。

The original article “All the Lies That Are My Life: Bob Dylan, Lorre Wyatt and “Blowin’ in the Wind”” by Fred Bals.
https://medium.com/@fredbals/all-the-lies-that-are-my-life-bob-dylan-lorre-wyatt-and-blowin-in-the-wind-dd612a1fd4e4


  

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