2018年09月05日

グレイトフル・テーパーズ:ファンによるコンサート録音の歴史

 ちょうど30年前に『Audio』誌に掲載された面白記事を発見したので、ここで紹介します。グレイトフル・デッドのファンがバンドの音楽を愛しすぎてコンサートの録音に情熱を燃やし、遂にはバンド側が正式に録音者用のセクションまで用意するまでに至った紆余曲折は、このブログでも手短に紹介してますが、アメリカのオーディオ雑誌にグレイトフル・デッドのショウの録音の歴史に関するこんな本格的な記事が掲載されてたなんて知りませんでした。しかも、書いたのは10年くらい前に六本木の炉端焼の店で一緒に食事をしたオジサンじゃないですか〜。
 SDカードやコンパクト・フラッシュ等にデータを記録するデジタル・レコーダーどころか、DATもまだ市販されてない頃に書かれた記事ですが、ひとつ言えることがあります。グレイトフル・デッドは日本とは殆ど縁がなく、こちらでは人気もなかったバンドですが、テーパーズ・セクションやテープ・トレードの世界を席巻していたのはメイド・イン・ジャパンの製品です。この記事では主にハード面の日本のメーカーが言及されていますが、カセット時代、DAT時代を通して、記録媒体として好んで使われていたのはMaxell、TDK、Sony、Denon等、日本のメーカーのテープでした。グレイトフル・デッドの重要なシーンを支えていたのは日本の製品なのです。海の向こうでそんなことを思いながら録音していた人、テープを聞いてた人は、あまりいないと思いますが…。
 この記事から30年経った今、テーパーたちの努力はインターネットに蓄積されています。記事の要所要所に、関連音源を聞くことの出来るリンクを作っておきましたので、是非クリックしながら読んでください。



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昨年夏、友人たちとコンサートを楽しむ著者、マイケル・ナッシュ(ヒゲのオジサン)



グレイトフル・テーパーズ
ファンによるコンサート録音の歴史

文:マイケル・ナッシュ(写真:フィリップ・グールド)


 「ヘイ、そこでマイクを持ってるキミ」 グレイトフル・デッドのギタリスト、ボブ・ウィアはステージ上から呼びかける。不埒な輩を叱ろうとしているのか? 「いい音で録音したかったら、40フィート(12メートル)ぐらい下がるといいよ」
 ベーシストのフィル・レッシュも加わる。「後ろの方がずっといい音だよ」
 1971年8月。グレイトフル・デッドのコンサート会場で、ファンによるライヴ録音が定着し始めたのがこの頃だ。デッドはハリウッド・パラディアム2回連続公演の2晩目の演奏をしていたところで、これは奨励の言葉だった。ミュージシャンがファンに、コンサートを録音するのに最適なポジションをアドバイスしているのだ。こんなことがあったということを、どうして我々は知っているのか? それはもちろん、テープに記録されているからだ。[これを聞け→2トラック目〈Bertha〉6:54〜]
 あのハリウッド公演から16年経った今、ファンからもバンドからも正式に認められた存在へと進化を遂げたテーパーたちは、指定されたエリアからコンサートの録音を行なっており、彼らの生息場所、テーパーズ・セクションは、多種多様なマイクロホン、風防スポンジ、アクリル版や他の遮音材、アナログ及びデジタルのレコーディング機器が並ぶハイテク大会となっている。こうしたものは全て、デッドの演奏をしっかり記録するためだ。しかも、金なんか取らない。このテーマに関してジェリー・ガルシアはこんな発言をした。「オレたちの演奏が済むやいなや、今度はそれはファンのものだ」
 1965年にフィルモア・オーディトリアムでプレイしていた頃からグレイトフル・デッドと行動をともにしており、現在はサウンド・ミキシングを担当している音響の魔術師、ダン・ヒーリーはこう言う。「オレたちは、哲学的には、音楽は皆のものだという立場なんだ。金銭的動機からやることは、これに反した策謀だ。この世界、金だけじゃないだろう。オレは金が欲しくてここにいるんじゃない。続けているのも金のためじゃない。金のために今やってることを思いとどまるなんて、今後もないだろう」
 コンサートの録音を許すことはレコードの売り上げ減少につながるというのが音楽業界一般の主張だが、デッドはというとニコニコしているだけだ。「ライヴの録音が何かに損害を与えているなんて証拠はこれっぽっちもない。どちらかというと、状況を良くしてるね」とヒーリーは言う。彼は、コンサート・テープがバンドの音楽をもっと広い層に広めてきたとも指摘する。
 デッドはこれまでに、恐らく歴史上どのツアー・バンドよりも多い、2,000回以上のコンサートを行なっており、1987年にバンド史上最も商業的に成功したアルバム《In The Dark》がリリースされてプラチナ・アルバムに輝いて以来、人気はさらに増え続けている。
 グレイトフル・デッドのコンサートほど素晴らしいものはない、というのはデッドヘッズの口癖かもしれないが、熱心なテーパーなら、優れたレコーディングはそれに肉迫するものだ、とも言うだろう。1つの良質のテープは、デッドの音楽をいたるところに広めるネットワークを通して拡散されると、文字通り数千人のファンを生み出す可能性を持っている。音楽とその進化を研究し、後世のためにそれをアーカイヴすることに興味があるのであれ、「音楽がバンドをプレイしている」瞬間を追体験することに興味があるのであれ、その役割を満たすためにテープが存在しているのだ。

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花とデッドのステッカーで飾られたマイク・スタンド


 グレイトフル・デッドの音楽が絶え間なく前進しているように、テーパーのテクノロジーも常に進化を遂げている。たくさんの高級マイクロホンが林立する以前から、dbxノイズ・リダクションやPCMデジタル・プロセッサーが登場する以前から、会場にテーパーズ・セクションが設けられるようになる以前から、さまざまなフィールド・ワークが行なわれていたのだ。
 デッドをテープ上に記録した最初のテーパーのひとりが、スティーヴ・ブラウンだ。彼は1965年にパロアルトのバーでこのグループ(その時点ではザ・ウォーロックスとして知られていた)を初めて見て、一目惚れならぬ「一音惚れ」したのだという。当時、地元のラジオ局職員とレコードの宣伝係という二足の草鞋{わらじ}を履いていたブラウンは、その後も2年ほど、バンドのライヴに足を運び続けた。
 その後、ブラウンは海軍に入り、太平洋沿岸に配置された軍艦の船内娯楽システムのためにテープを作る仕事をするようになったのだが、非番の週末には、定期的に、サンディエゴから北上して、サンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムやアヴァロン・ボールルームで行なわれるコンサートを見に行った。その中には、当然、グレイトフル・デッドも含まれていた。1968年春のある週末、ブラウンは海軍で使用していたオープンリール・デッキ----Uher 440----を持ち出して、ウィンターランドに密かに持ち込んだ。その晩の出演者はクリームだった。彼はバルコニー席の1列目のど真ん中でUherのコンデンサー・マイクを突き出して、モノラルで演奏を録音した。
 翌朝、ブラウンは、グレイトフル・デッドがその日ヘイト・ストリートでフリー・コンサートを行なうという噂を聞いた。手元にあるテープ・デッキは、クリームのコンサートで電池を殆ど使い果たしてしまっていたが、ブラウンはとにかくその現場に出かけていった。噂通りバンドが登場し、演奏を開始した。彼はマイクロホンを持つ手を変えながら、バッテリーがご臨終となる前に、最初の4曲----〈Viola Lee Blues〉〈Smokestack Lightning〉〈(Turn On Your) Lovelight〉〈It Hurts Me Too〉----を録音した。[これを聞け→
 1週間もしないうちに、太平洋沿岸の多数の水兵たちは、海軍の娯楽システムの第4チャンネルから鳴り響くワイルドでサイケデリックなバージョンの〈Viola Lee Blues〉を耳にすることになった。ブラウンは笑いながら言う。「そんなことやってたからオレたちは戦争に負けたんだよ」
 ヘイト・ストリート公演をテープに収めた人はブラウンしかいないようなので(5号リールを9.5cm/sで回していたので、20年を経た現在でも音質はまずまず)、この4曲のテープを持っているなら、その音源は彼だ。
 1968年3月3日に行なわれたこのコンサートは、ブラウンが録音した最初で最後のグレイトフル・デッドのショウだったが、彼は1970年代前半に、バンドのレコード・レーベル、ラウンド・レコードの発足に手を貸した。彼がこのレーベルのために働いていた間は、ファンがライヴ・テープを持っていることに何の懸念もなかったとのことだ。

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1971年からデッドのコンサートを録音しているベテラン・テーパー、ボブ・メンキ。ベイエリアの自宅にて。


 ブラウンがデッドを録音した翌年、ボブ・メンキは兄と一緒にブラインド・フェイスのコンサートに行った。兄はこのショウにCraigの5号リール用オープンリール・デッキを持って行った。彼らは翌年夏にクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのコンサートでも同じことをやった。
 「このアイデア、いいねと思ったんだ」とメンキは回想する。1年もしないうちに、彼はSonyのポータブル・カセット・デッキ、TC-40を購入して、最初のコンサートを録音した。数カ月後の1971年7月にラジオで放送されたビル・グレアムのフィルモア・ウェストのさよならコンサートが、メンキがグレイトフル・デッドに接する初めての機会となり、この時、彼はショウをラジオから録音し、次の必然的なステップとしてデッドのコンサートに行ってみようと決意した。もちろん、Sonyのデッキを抱えてだ。
 8月に、メンキは次の16年間に録音することになる200回近いグレイトフル・デッドのコンサートのうちの第1回目のものを録音した。結果、決して最新技術ではなかったが、楽しく聞くことの出来るレベルのテープをものにした。しかし、当時においては、コンサートを録音するのは楽ではなかった。録音行為は基本的に禁止だったのだ。デッドがレコーディング契約を結んでいたワーナー・ブラザーズが、録音に対していい顔をしていなかったからだ。それでもなお、機材を会場内に持ち込んで、見つからないようにしながら事に及べば、録音に成功する可能性は高かった。
 1972年8月、Sonyのポータブル・ステレオ・レコーダー、124にグレード・アップしたメンキは、バークリー・コミュニティー・シアターの前列でこの新ユニットを試そうとしたが、1曲目で見つかってしまった。彼はこの時こそ意気消沈したが、懲りずにこの新しい趣味を続けた。
 メンキによると、当時は、東海岸と西海岸にわずかな数のテーパーしか存在せず、しかも、皆が基本的にはSonyのポータブル・デッキを使っていたらしい。次の数年間に、録音禁止の方針が徹底されるようになると、テーパーたちは巧妙な手段を使って録音機材を会場の中に持ち込むようになった。テープ・デッキを女性の太股に縛り付ける、乳母車の中で寝ている赤ん坊の下に隠す、ストリートに面したトイレの換気口にマイクを入れておいて、会場内に入ってからそれを回収するといった工夫や、入り口にいる警備員の気を逸らすトリックの話は、それこそ豊富に存在する。メンキはというと、デッキをタオルに包んでボーイスカウト用のバックパックの中に入れて、封を切ってない食べ物でそれを覆っておいた。メンキはこう回想する。「常に1歩先を行く必要があったね」
 1974年に、メンキはSony 152を使い始めると、「コンサートの録音はさらに本格的なものとなった」。ステレオのワンポイント・マイク、入力レベルの調整つまみ、ドルビー・ノイズ・リダクション、使用するテープのタイプによって切り替えることの出来るイコライザーがついていた152は、テーパーたちにとっては大きな恩恵だった。小さなデッキではないので隠すのは難しくなったが、音質が向上していたので、皆、すぐにこれを買い求めた。
 1974年には、グレイトフル・デッドのコンサートに来た観客も向上した音を聞いていた。ダン・ヒーリーとサウンド・デザイナー/エンジニアのロン・ウィッカーシャムが「ウォール・オブ・サウンド」という巨大サウンド・システムを完成させていたからだ。641個のスピーカーを有するこの音響システムは、コンサートPAとしては最も野心的なもので(あまりに大きいので、最終的には、使い続けることが出来なくなった)、コンサートの音響を幾何級数的に向上させたことで、普通のデッドヘッズと同様にテーパーたちも喜ばせた。実用性とコストを別とすると、このシステムは音響の点で最高だった。

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指向性を高めるための工夫。手製ながら効果は絶大。


 1974年後半から1976年前半まで、グレイトフル・デッドはツアー活動を休止して、さまざまなレコーディングやソロ・プロジェクトを行なっていたのだが、メンキと仲間たちも、ジェリー・ガルシア・バンドや、ボブ・ウィアをフィーチャーしたグループ、キングフィッシュのクラブ・ショウを録音することで腕を磨いていた。ガルシアのステージ・モニターの隣にマイクを置いて素晴らしい録音が出来るという大勝利も経験したが、仕事に真面目なローディーにマイク・ケーブルをちょん切られるという不運も味わった。メンキの記憶に残る特に幸運な体験は、1975年9月に、デッドがゴールデン・ゲート・パークで行なった無料コンサートの時に味わった。誰かがヴォーカル用モニターをステージの端からこっちに向けたのだ。メンキは感度の異なる2本のSony製コンデンサー・マイクを使って、1本をこのモニターに向けて、他方は楽器に向けてみた。その結果は「アンビエンスが全く入ってない、ボード・テープみたいな音になったね」[これを聞け→
 1976年にデッドが活動復帰を果たすと、録音人口も徐々に増え始めた。Sonyも152の次に153、158を発売し、メンキも1977年に後者を購入した。マイクもSonyの上位レベルのECM-270、ECM-280を購入した。加えて、ハイバイアスのクローム・テープ(初登場は1971年)を使うようになっていた。メンキの作るテープは徐々に音質が向上した。

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ライヴ・コンサートでは音源ははるか遠くにあるので、それぞれのマイクロホンの向きを正しい角度に調整するのが大切


 1977年3月のウィンターランド公演の録音中に、メンキと仲間は、バルコニー席の1列目に、便利なことに交流電源のコンセントがあることを発見して驚喜した。同年6月、デッドが次にウィンターランド公演を行なった時には、10号リールのかかるオープンリール・デッキを2台運んできて----Tandberg 10XとRevox A77----その電源プラグをコンセントに差し込んだ。新たに導入したAKGのダイナミック・マイク、D-224Eを棒の先に付けて、バルコニーから突き出した。その結果、音質の点でさらに少し前進した。[これを聞け→彼らは翌年も時々オープンリール・デッキを使い続け、メンキによると、1978年12月に友人がNagraのデッキと外部から電源を供給するNeumannのマイクの組み合わせで録音したテープが最高の出来だったという。
 1979年に、Sonyはフィールド・レコーディングのマニア用に作られた初のカセット・デッキ、TC-D5を発売した。この新モデルは158よりはるかに小型であり、グレイトフル・デッドのテーピング・シーン全体に恩恵をもたらし、テーパーの数はさらに増えた。TC-D5は当初の発売価格は700ドルだったので、安易に購入出来るものではなかったが、これが標準的機材となるのに時間はかからなかった。メンキもただちに1台購入し、1年後には(他の大勢のテーパーたちと同じく)メタル・テープに対応することの出来る新バージョン、TC-D5Mに買い換えた。
 1979年には、Nakamichiのマイク、700を使い始めた。指向性カプセル、もしくは、無指向性カプセルを付けることの出来るこのコンデンサー・マイクは、メンキによると、高い周波数の感度が向上し、会場の後ろのほうから録音する場合、それまで使っていたAKGよりも高音質だった。以来、Nakamichiが彼のお気に入りのマイクになった。メンキはパッシヴ・プリアンプを自作して、低音を6dBブーストしていたが、デッドの音響システムが低音をもっとたくさん出すようになると、このユニットは使わなくなった。

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デッドのコンサートでは殆ど毎回、高価なハイテク・マイクロホンの森がテーパーズ・セクションに出現する


 テーパーの数が増加するにつれて、デッドのコンサートに機材を持ち込む際のいざこざも増加したが、一部のテーパーが、コンサートを録音しない観客の権利を蹂躙するケースが増えてきたことは、さらに深刻な問題だった。初期のテーパーは常に目立たないように行動し、自分の場所を正当な方法で確保し、録音に興味がない人にも敬意を払っていた。しかし、残念なことに、テーパーの数が増えてくると、全員が礼儀正しい奴とは限らなくなった。メンキによると、この頃から、東海岸ではマイスタンドの林立が問題になり始め、徐々に手に負えない状況になっていったという。一方、メンキはSony/Nakamichiの組み合わせに落ち着いていた。
 メンキの録音仲間であるジェイミー・ポーリスは、同じようなシステムを使っていたが、まだまだ改善の余地があると感じていた。ナショナル・セミコンダクター社で電気工学技師をやっているポーリスは、1971年に東海岸で初めてデッドのコンサートを見て、1973年には彼の言う「粗末なポータブル」でいくつかのショウを録音したが、熱心に録音を始めたのは、1979年に居をカリフォルニアに移してからだった。以来、彼は機材の選択から手法まで、さまざまな実験を行なっている。
 ポーリスが最初の頃にまず悟ったのは、どんな機材をどのように使ったらいいのかを知る最良の方法は、とにかくコンサート会場に行って実験することだ、ということだった。彼が位相と振幅の違いの研究を開始し、ありとあらゆる組み合わせで、音を拾うパターンや、2本のマイクを開く角度を変えてみた。
 しばらく行なっていた実験は、自作のパッシヴ・ミキサーを通して3本のマイクを2チャンネルにブレンドすることだった。例えば、指向性の強いマイク2本と、無指向性マイク1本を使ってみたらどうなるか、という実験だった。ポーリスによると、その結果、SN比は多少損なわれるが、それでもマイクが2本だけの時よりも良い音がするとのことだった。



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スポンジと粘着テープでマイクロホンの指向性をさらに強めている


 ポーリスと新しい録音仲間のジム・オルネスが、間接音を拾い過ぎている、反響が問題を引き起こしやすい屋内では特に、と思ったのは1981年のことだった。指向性の強いマイクを使うことが解決策のようだったが、ポーリスは無指向性マイクの音のほうがお気に入りだった。指向性マイクについて彼が感じた問題は、全周波数で同じ反応をするわけではないことだった。音源からの角度によって反応パターンが異なり、それによってサウンドに色づけが生じるのだ。録音仲間うちでは別の指向性マイク、無指向性マイクを選び、結果を比べあった。
 反響音に対する直接音の割合を高めるために、彼らはマイクに付ける風防スポンジに関しても、さまざまな形のものを作り始めた。マイクの中心軸に対して90度を超えた角度から来る音は著しく減衰したので、観客のノイズは減り、音楽はもっと目立つようになった。100%自然な音とは言えないが、以前よりも良い結果が得られた。「良くなった。でも、まだ完全な解決じゃない」とポーリスは語る。
 翌年、ポーリスとオルネスはシステムにさらに変更を加えた。Nakamichi 700(マイク)の性能を向上させるために、コンデンサーをより高級なものに交換し、トランスを全部はずし、外部電源をこしらえて、BNCコネクターでカプセルに繋げた。この過程において、9インチ長だったマイクは約4インチになった。ポーリスとオルネスによると、こうして出来た「ミニNak」は、以前のものよりノイズが少なく、はるかに音質が向上していた。

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3台のSony TC-D5Mの下にあるのがNakamichi 450。レベルのつまみが動かないようにテープでとめてある。アウトドアという過酷な環境で使用するものだが、こうした機材には多額が投じられている。


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手の込んだ接続をしてある3台のSony TC-D5MとYamahaのミキサーMM-10。デッドのコンサートを録音していると、客席のノイズも新しい意味を帯びてくる。


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微調整済みの機材の下には薄い毛布を敷いておく


 それに加えて、ポーリスはマイク用プリアンプも新調した。これと比較するとクオリティーが低いと感じていたSony TC-D5M内蔵のプリアンプのかわりに、高品位のオペアンプ用チップを使ったものを使用するようになったのだ。
 さらなる前進は、dbxノイズリダクションを導入して、テープのSN比を向上させたことである。ポーリスとオルネスは家庭用のdbx 224を購入して、一部のコンデンサーとオペアンプを交換し、トランスの場所に8本の9V電池からなるポータブル電源を挿入した。パッチ・ベイも1つ追加することで、シグナルをdbx側とDolby側の両方に供給することが可能となった。その後、さらにパッチ・ベイを追加することで、15人のテーパーがプラグを差し込むことが出来るようになった。
 オルネス/ポーリスのグループは、マイクロホンを改造し、プリアンプを新調し、dbxを加えたことで、以前よりもかなり高音質のテープを作ることが出来るようになった。家庭用に設計されたdbxユニットを会場に持ち込むのは楽なことではなかったが、音質向上のためには苦労に値することだった。これと同時に、従来のスポンジを使った風防の形の研究を重ね(後にSonexの吸音材を使用するようになる)、出来る限り高音質で音楽を記録することが出来るよう努力を続けた。
 熱心なテーパーが録音技術の向上に努めている一方で、一部の新参テーパーのマナーの悪さもますます目立つようになった。さらにたくさんのマイクスタンドが立ち、他のファンの視界やショウを楽しむ権利を邪魔するようになったのだ。他のファンが何時間も列に並んで獲得したスペースに、後からやって来て入り込むテーパーもいた。テープが「台無し」になるので、しゃべるな、一緒に歌うなと言われるケースもあった。トラブルを引き起こしている連中は少数だったが、重大視するには十分な数だった。ますますたくさんの苦情が聞こえるようになった。
 1984年には、ヒーリー、及び、概して寛容だったグレイトフル・デッドのメンバーおよび幹部スタッフも、さすがに見て見ぬふりは出来なくなった。バンド側が迫られた選択は、急増中のトラブルを防ぐために録音禁止を徹底するか、それとも、新たな方法を見つけるかだった。そこで、デッドはクリエイティヴな解決法を選び、テーパーズ・セクションを設けることにしたのだ。ショウでは毎回、指定された場所で、録音したいファンが堂々と音楽を録音出来るようにした。突然、テーパーは権利を獲得したのだ。
 1984年10月、電話のチケット・ホットラインでは、メール・オーダーでチケットを申し込む際、コンサートを録音したい人は、券種をそう指定するようにという指示が流れはじめた。すると、テーパーにはそう明記されたチケットが送られた。以来、このプロセスは座席指定の会場で用いられている。オール・スタンディングのショウではこのセクションは早い者勝ちなのだが、たいてい、録音を希望する者全員が入れるよう十分なスペースが用意されている。
 古参テーパーの中には、サウンドボード前のスイート・スポットを失ってガッカリする者もいたが、テーパーズ・セクションの出現で、概して、皆にとって事態はスムーズになった。突然、こそこそ行動する必要のなくなったテーパーは、音響に関する実験を、バンド側から認められた状態で、堂々と行なうことが出来るようになったのだ。
 ジェイミー・ポーリスはPZM(Pressure Zone Microphone)に関する記事を読んだことがあったので、このテクニックを試してみようと思った。このマイクは弦楽四重奏のほうに適しているようだったが、彼とジム・オルネスは失敗したところで失うものは何もないと判断した。
 彼らはこんなことを考えた。アクリル樹脂の板を使って、マイクに対して半球系のピックアップ・パターンを作る。そして、マイクをアクリル板上に、その平らな表面を向くようにマウントし、板から反射した音を拾ってみようというものだった。アクリル版の後ろの音は混じらないというのが、主な利点だった。欠点は、板の大きさ次第で、ベースが減衰してしまうことだった。
 ベース音のコントロールがし易くなるように、彼らはまず、手頃な大きさのアクリル板から始めて、指向性マイクと無指向性マイク両方において、マイク用電源のコンデンサーの容量を変えた。最終的に、ポーリスたちは、無指向性カプセルのベースの感度を気に入り、それを好んで使うようになった。一方、アクリル板には本のように開閉するヒンジを付けた。そうすることで、ポーリスとオルネスはマイクの角度を調整することが出来るようになり、ポーリスの言によると、結果は「ある周波数域が強調されるということはなくなり、低域から高域まで比較的フラットなレスポンスになった。低音もよく録れてるし、指向性も抜群だった」とのことだ。[誰が試みたかは不明だが、パラボラ集音器を使用した例もある→
 実験はさらに続く。ふたりはマイクを20フィート(6メートル)離し、アクリル板も使用した。効果は絶大だった。マイク間の距離を離すほうが、左右に音をふっている音作りのPAには合っていて、優れた音像のテープに仕上がった。後に、彼らはアクリル板を大きくして、Nakamichi 700にKnowles製カプセルを付けるようになった。これはテレメトリ通信や補聴器、刑務所の監視等に使われる小型のエレクトレット・コンデンサー・マイクで、値段(たった25ドル)の割には極めて高音質だった。ただし、中高音域が少し強調されていたが…。
 同時に、ポーリスはレベル・メーターを自作して、システムに繋げた。おかげでオルネスは、Sonyのレコーダーに付いている針式のVUメーターではなく、3dB刻みで録音レベルを読むことが出来るようになった。ポーリスは現在、マイク用電源を内蔵したマイク・プリアンプを製作中だ。これが完成すると、ベースの感度を4段階で調整することが出来るようになるらしい。
 より良い結果を得ようと常に努力奮闘しているふたりだが、その過程を楽しむようにしている。彼らの友人は言う。「それでも、楽しい要素はたくさんある。あいつらは真剣に遊んでるのさ」
 ポーリスやオルネスのようなテーパーが真剣に研究に取り組んでいるとしたら、デジタル録音に宗旨替えし、多額の費用を負担して、ポータブル・ビデオテープ・デッキにデジタル信号を送るためのPCMプロセッサーを使用している者たちにも、同じことが言えるだろう。デジタル・テーパーのひとり、ロス・リプトンは言う。「よく冗談で言ってるんだけど、デジタルに移行したくてTC-D5を売っても、バッテリーしか買えないね」 リプトンと彼の録音仲間のクリス・ヘクトがファンタム電源で使っている4個の12Vの蓄電池は、実際、1個100ドルもするのだ。
 グレイトフル・デッドのテーピング・シーンにデジタル機材が初めて登場したのは、1983年春のことだった。デイヴ・クレイマーは1979年に標準的なカセット・テープを使って録音を開始し、3本のマイクをブレンドする手法においてジェイミー・ポーリスとチームを組んでいたが、グレイトフル・デッド以上にコンサートの音響が高音質のバンドはないと確信し、デジタル録音も試みる価値は大ありだと考えた。彼はSony PCM-F1とベータマックスのポータブル・ビデオ・レコーダーをレンタルし、重量級のニッカド電池でそれを駆動し、まずはアリゾナ州テンピ公演でそれを使ってみた。[これを聞け→
 違いは大きかった。テープ・ノイズは皆無(特に、音楽と音楽の間でそれは顕著)、ダイナミック・レンジは抜群、ワウフラッターも皆無、20Hz〜20kHzまでハーモニック・ディストーションもなし。クレイマーは、デジタルこそ進むべき道だと思った。
 当時、PCMプロセッサーは市場に殆ど出回っていなかったが、間もなく、彼は自前の機材を購入した。その後、Sonyのプロセッサーを売却してNakamichi DMP1000を購入した。後者のほうが音にあたたかみがあると感じられたからだ。彼はまた、ベータ用レコーダーをVHS用の最高級機と交換した。ツアー中、VHSテープのほうが手に入りやすかったからだ。

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Sony PCM-F1デジタル・プロセッサー3台と、ビデオ・レコーダー4台(そのうち2台はSony SL-2000)


 スタジオ・エンジニアの経歴を持っていたクレイマーは、本に載っているマイクロホンを殆ど全部試してみて、最終的に、指向性のあるダイナミック・マイク、Sennheiser 421を3本使い、2本をXY方式に配置し、3本目をその少し後ろに置いて、位相をずらすのがベストだと判断した。30Hzのところで少し感度の山があるが、出来は上々とのことだ。
 12,000ドルを投資し、総重量120ポンド(約54kg)の機材を持ち運ぶという努力は、決して小さいものではないが、それなりの結果は出していると、クレイマーは感じている。ヘクトとリプトンも同じ感情を共有している。ふたりの間では、録音システムにつぎ込んだ金を合計するとBMWが1台買えるだろう、と話しているそうだ。彼らは、デッドのコンサートに向かう時、もしくは、帰る途中、空港の手荷物受取所でよく顔を合わせ、1982年には時々、一緒に録音している。リプトンは1985年にデジタル・システムを購入し、現在はPCM-F1とSony SF-2000というポータブル・ベータマックス・ビデオ・レコーダー、そして、彼らの属する録音グループのメンバー間でトレードして集めたさまざまな最高級マイクを使用している。
 ヘクトとリプトンは、自分たちの作るテープはダイナミック・レンジとSN比が向上し、低音に迫力があると感じている。ビデオ・デッキはオーディオ・デッキよりも信号の書き込みスピードがずっと速いという点も、彼らの気に入ってるところである。好んで使っているテープは標準的なベータ・テープより厚いSony Pro-X 500で、これを最も速いスピードで回している。さらに、デジタル処理のプロセスでは、オーディオ・カセットと異なり、何度コピーしても音質は劣化せず、ノイズも増加しない。
 昨年夏、バークリーにあるグリーク・シアター(多くのデッドヘッズから、デッドを聞くにはベストな会場だと思われている野外アンフィシアター)で、ヘクトとリプトンのチームは、様々な条件を調整しながらマイクロホンの比較テストを行なった。彼らはトップ・クオリティーのマイク----Neumann TLM170、Schoeps CMC 341、改良版のAKG 414----をそれぞれペアで用意し、3日連続公演中の毎晩、ピックアップ・パターンを揃えて(NeumannとAKGはスイッチを切り替えて、Schoepsはカプセルを交換して)、互いから2メートルと離れてない場所に設置して、同機種を使った録音ユニットに繋いだ。
 リファレンス・システムでテープを聞いた後、チームのメンバー全員が、無指向性カプセルを付けたSchoepsがベストなサウンドだと判断したが、ヘクトは、Neumannにはまだたくさんの可能性があると感じた。テストに使用した電源はNeumannに100%マッチしておらず、供給した電圧が足りていなかったことがわかったからだ。ヘクトは170用の外部電源を作った他、ジェイミー・ポーリスが勧めるSSMチップを使ったアクティヴ回路を持つ、多目的プリアンプの製作にも取り組んでいる。彼は、特定のマイクロホンに特化した専用のプリアンプの製作も計画している。B&Kのマイクをフィールド・テストを行ない、グレイトフル・デッドのコンサートという条件の中で、いかほどの効果を発揮するか確かめる予定もあるのだとか。
 一方、ポーリスはAmbisonicsを導入も検討していると語っている。[別の有名テーパーがこの手法で録音した例→ポーリスが言うには、理論的には、より優れた音像が得られるはずらしい。「2本のマイクではやれるところまでやっちゃった」のだが、新しい試みを思いついた時には常に「悩みの種についても考える。あまりに難しそうだったら、忘れることにしてるよ」
 テーパー・サークルの全員が楽しみにしている次のステップは、DATレコーダーの登場である。目下の話題は、ポータブルなのかどうか、入手可能かどうか、購入可能かどうか、そして、それはいつになるのかだ。

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グレイトフル・デッドのサウンドマン、ダン・ヒーリー。ミキシング・ボードがコンサートで彼がプレイしている「楽器」だ。


 「デジタル・カセットこそ、最も興味のあるものだ」とダン・ヒーリーもはっきり述べている。テーパーたちも同意見のようだ。DATは、約10年前のSony TC-D5と同じくらい大きな影響を、グレイトフル・デッドのテーピング・シーンに及ぼすことになるかもしれない。しかし、テーパー全員からはこういう答えが返ってくる----自分たちの高音質のテープがあるのは音の元の出どころが優れているからだ。
 「オレたちが録音に取り組んでいるのが超ハイクオリティーなサウンドでないならば、こんなことをやっても無意味だよ」とヘクトは言う。「オレたち、ロック・コンサートを録音してるんだと言っても、オーディオ・マニアやエンジニアからは笑われるのがオチだ。バカバカしいって。殆どの場合、その意見は正しい。でも、デッドのコンサートは違うんだ。今の音楽界で最高のサウンド・システムなんだから」

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