2019年06月10日

ロブ・ストーナー、《Desire》制作秘話を語る

 1975年秋のローリング・サンダー・レヴューのリハーサルと5公演のボブのセット完全版を収めた14枚組箱物行政《The Rolling Thunder Revue: The 1975 Live Recordings》がリリースされ、皆さん、聞くのに忙しいことでしょう。《Desire》とローリング・サンダー・レヴュー・ツアーでベースとバック・ヴォーカルとバンド・リーダー役を務めていたロブ・ストーナーのインタビューがダミアン・ラヴのページに掲載されたので、ここで紹介します。聞きながら読んだら、楽しさ倍増と思います。





ロブ・ストーナー、《Desire》制作秘話を語る


聞き手:ダミアン・ラヴ


 陳腐な言い方だが、《Blood On The Tracks》がボブ・ディランの離婚アルバムだとすると、次の《Desire》は和解して縒りを戻したレコードだと言えるだろう。このアルバムでは、《Blood》を通して思い出や後悔を探して回った孤独な人物から、どんどん人数が増えて入り乱れるくたびれたミュージシャンたちのリーダーへと変身して、大きくてワイルドな世界に再び出て行く姿を見ることが出来る。
 スカーレット・リヴェラのバイオリンの音や、特殊な語りの強調や神秘的な含蓄が特徴の《Desire》は、さまざまな理由で、ディランのキャリアの中でユニークなレコードである。劇作家/舞台演出家であるジャック・レヴィーと一緒に大半の曲を共作している点がいちばんの新機軸だったのだが、この件についてディランは1975年にこう語っている:「どっちが何を書いたかは覚えてないよ。ジャックが[曲]を別のところに持って行くと、次はオレもどこか別のところ持って行って、そしたらジャックがさらに遠くに持って行って、今度はオレがさらに遠くに持って行ってって感じだったよ」
 1970年代半ばのディランの復活の頂点となった《Desire》は、今では伝説となっているローリング・サンダー・レヴュー・ツアーを生み出した。ディランが集めたミュージシャンやアーティストから成る、かなり風変わりで微妙に崩壊寸前のドサ周りのサーカス一座が建国200年目の1975年にアメリカを回ったこのツアーでは、ディランはキャリアの中で最もハングリーなライヴ・パフォーマンスを見せた。
 この間ずっとディランの側にいたのがロブ・ストーナーだ。音楽シーンではベテランの顔役的存在の彼は、《Desire》でベースを弾いてもらうためにディランに召集されたが、このレコードと後のローリング・サンダー・ツアーの両方で、事実上、バンド・リーダー役を担うようになった。2016年に行なったこのインタビューでは、私はストーナーにアルバム制作の思い出と、ツアーのことについて質問した。

stoner2.jpg


ディランと初めて会ったのは《Desire》の数年前なんですよね? 1970年代前半くらい…。

 そう。1970年代初頭だ。ロサンゼルスで会ったんだ。ジョン・ヘラルドを仕事をしてる時に。ジョンはザ・グリーンブライア・ボーイズのリーダーで、ボブはよく、このグループの前座をやってたんだ。だから、ボブはよく、彼らのコンサートを見に来てたんだよ。昔の知り合いのコンサートにはよく姿を見せていた。ザ・グリーン・ブライアー・ボーイズのロサンゼルス公演を聞きに来た際、ボブはオレの演奏を聞いて、知り合いになり、その後も連絡を取り合ってたんだ。

一気に1975年夏のニューヨーク・シティーに飛ぶと、しばらくそのシーンから遠ざかっていたボブは、再びどっぷり浸かって、動向をチェックしたり、クラブやコンサート会場に姿を見せたりしました。あなたはどういうふうにしてボブと再び繋がったのでしょう?

 ザ・バンドにバックを務めてもらうことは、もう出来なくなってたんだよ。'74年に一緒にド派手なスタジアム・ツアーをやった後、別の道を進んでしまったんで、ボブは新しい方向性を探していた。そういう目的で、新しい作曲パートナーを見つけたんだ。ジャック・レヴィーさ。こいつがいくつか新しい方向性を示してくれた。
 ボブはこうした曲をあちこちで試しに歌い始めた。ルーツに戻ろうとしてるかのようにね。グリニッジヴィレッジのクラブにさ。オレはその頃、あらゆるクラブのある通りから、2ブロックしか離れてないところに住んでたんで、当時のグリニッジヴィレッジのフォーク、ロックのクラブ・シーンではどこにでも姿を現す存在だったんだ。ロッキン・ボブ&ザ・レベルズっていう自分のバンドも持ってて、たくさんの場所でプレイしてたしね。それに、ブリーカー・ストリート/マクドゥーガル・ストリート界隈のクラブに出演しているフォーク・シンガー、ロック・シンガーの多くのバックを務めてたんだ。ごく近所に住んでたんで、土壇場で誰かが必要になった時には、オレに電話をしたら、20分でヘルプに駆けつけることが出来た。オレは何でも出来る奴だからさ。ギター、ベース、ピアノ、ヴォーカル、必要なことだったら何でもさ。だから、誰かが土壇場になって、何かの楽器を弾く奴がもう1人必要だってことになると、いつもオレに電話が来た。そして、オレは現場に駆けつけた。
 オレは常にあのへんにいたんで、ボブがヴィレッジで誰かの演奏を見に来た時、何度かオレのステージも見てるんだ。ボブの昔の友人のジョン・ヘラルドとオレが一緒にプレイしてるのも見てるよ。ボブがヴィレッジのクラブをウロウロし始めた時、ランブリン・ジャック・エリオットや、あのシーンの他のアーティストとオレが一緒に演奏してるのも見てるんだ。
 ボブから「ヘイ、メ〜ン。そのうち何かやろうぜ」って言われたよ。こうした言葉は、ボブほどのポジションにいる人だったら、出会ったミュージシャン全員に言う社交辞令で、悪意はないんだけど、実際に実現に至ることは殆どない。だから、実際に電話がかかってきて、レコーディング・スタジオに来てくれって言われた時には、とても驚いたよ。1975年8月後半のことだった。
 
あなたはロカビリーの人ですよね。ロカビリーがあなたのルーツで、その頃の音楽の大ファンで、リンク・レイといった人々と演奏をした経験があります。ディランもそういう音楽が大好きですが、ディランとロカビリーをすぐに結びつける人は多くはありません。ラジオ番組『シーム・タイム・レイディオ・アワー』で、1950年代、1960年代のロカビリーやR&Bのレア曲をかけまくった後なので、今ではそう思う人も増えたと思いますけど。そういう音楽がお互いに大好きだってことは、一緒に仕事をしてる間、絆を作る助けになったんじゃないですか?

 あの『シーム・タイム』の番組はボブの趣味が丸見えだったね。ボブと遊んでてわかったよ。こいつはロカビリーや昔のブルース、初期ロックンロール、ロックンロールより前のファンキーな音楽に、誰にも負けないくらい詳しいぞって。ボブはバディー・ホリーの歌だったら全部のフレーズを知ってる。エルヴィスの歌も全部知ってる。全部のリフを知ってる。どの曲のギター・ソロも歌うことが出来る。ギターで弾くことが出来なくてもだ。アメリカの公園にはチャック・ベリーの銅像を立てるべきだとも言ってたよ。チャック・ベリーとスモーキー・ロビンソンは最高の詩人だって思ってた。あの頃のボブ本人の音楽を聞いてもすぐにはわからないんだけど、そういう音楽に精通してて、そこからエネルギーを得ていたね。実際、オレと仕事をしてた頃は、ボブが一番誇りに感じてた手柄はエルヴィス・プレスリーが自分の曲〈Tomorrow Is A Long Time〉をレコーディングしてくれたってことだった。エルヴィスの映画のサウンドトラック盤にこっそり入ってたレベルのものだったけど、ボブは感動してたよ。



《Desire》のレコーディングについてうかがってもいいですか。《Desire》の1回目のセッションに到着した時、どんなシーンに出迎えられましたか? 私の理解だと、あのアルバムの最初のセッションではたくさんのミュージシャンが参加していて----エリック・クラプトンをはじめ、20人以上----だから、まとまらなかったようですね。最初の晩は、あまり成果は上がっていません。

 その通り。ニューヨークの東52丁目にあるコロムビア・レコードのレコーディング・スタジオに行って、セッションを目撃して「フゥー」って思ったよ。最初に、ボブのプロデューサーのドン・デヴィートから電話をもらった。ドンはレコードの作り方に関して人の邪魔をするようなところがあった。皆が何かを生み出そうと頑張ってるのにさ。スタジオに行って目撃したのは、混乱してて制御不可能な状況だった。俗に言う、船頭多くして船山に登るってやつ。完全にカオスだったね。
 スーパースターのプレイヤーが揃ってた。エリック・クラプトンにデイヴ・メイスン、ココモっていうイギリスのグループ。ジョー・コッカーのグリース・バンドのメンバーだった奴もいた。こうした連中がいて、そのひとりひとりに取り巻きがいた。少なくとも2人のゲストがいた。だから、仕事の環境というよりは社交の場だったなあ。実際、レコーディングに使ってたスタジオの隣の部屋もいくつか開けて、他の連中が交流出来る場所を作らなければならなかった。飲食物を並べたテーブルが用意されてて、レコーディング・セッションていうよりはコンサートの後のバックステージでのパーティーのようだった。
 哀れだったのはボブさ。こうしたカオスの中心にいて、新曲をやろうと頑張っていた。一部はオレの聞いたことがあるものだった。レコーディングに入る前の数週間、ボブがヴィレッジで試しに演奏してるのをオレは聞いていた。たいてい、ひとりで歌ってたけど、ここでは同じ曲を大所帯のバンドでやろうとしてたんだ。
 ボブ以外の連中は、ロックのレコードを作る際にはテイクにテイクを重ねるという方法を取っていた。何時間もかけてドラムの音を作って、それから、この音、あの音って試して、完璧なテイクを求めて延々に通しで演奏をする。ボブにはそんなことをやる辛抱強さはないし、ボブの音楽もそういうアプローチには向いてない。ボブの音楽は瞬間の中にある。ミスのないテイクを1つ得られればいいんだ。酷いミスのないテイクを、って言ったほうがいいかな。ディランのレコードには間違いがたくさんある。ミスなく出来た最初のテイクが「キープ」になる可能性が高い。無秩序な大グループだと、そういうものは得られないものさ。

dylan clapton.jpg


こんなにたくさんの人を集めたのはどんなアイデアがあってのことだと思いますか?

 問題はプロデューサーがいなかったことだ。ドン・デヴィートは名義はプロデューサーだったけど、現場をしっかり仕切るプロデューサーっていうよりは、レコード会社との橋渡し的な役割の奴だった。事実上、責任者は皆無で、それが問題だった。ボブも断固たる態度を取らなかった。そもそも、そういう性格じゃないからね。このプロデューサーは何でも勝手にやらせておいて、それで何かまとまればいいなあっていう感じだった。でも、そんなことして待ってても無駄だって、オレにはわかってたよ。こんなのは、ボブの曲に永遠の命を与える生産的な方法とは言えないからさ。その晩、録音したトラックで《Desire》に収録されたのは〈Romance In Durango〉だけだった。クラプトンが入ってる。このアルバムでクラプトンが入ってるのは、唯一、この曲だけだ。伝説のスタジオ・プレイヤーのヴィニー・ベルもいた。この曲は他の連中の殆どを帰宅させた後にやったものだ。この曲をレコーディングした後、その晩、残ってた人ともう1曲やったんだ。クラプトンとヴィニー・ベル、偉大なアコーディイオン・プレイヤーのドン・コーテスらがいた。



ドン・デヴィートは、アルバム用のセッションが進むにつれて、もっとプロデューサーの役割を果たすようになったのですか?

 いや。何が起こったのかというと、ドンはそれをオレに頼んできやがった。やるべきことをね。召集の電話を受けた時、ドンが電話の主で、「ボブがあなたにスタジオまで来て欲しいと言ってます」って言ってたんだけど、オレに来て欲しいと思ったのが本当にボブだったのか、ボブとドンの両方だったのか、どっちか片方なのか、今となってはわからない。当時もわからなかった。そこに着いたら、もう既にたくさん過ぎるくらいミュージシャンがいて、どの曲にもオレが入り込む余地なんてなかったんだ。あまりにカオス状態だったから、しゃしゃり出たいとは思わなかったな。事態を見て、参加はごめんて思ったよ。
 そしたら、ボブとドンから端のほうに呼ばれて----ふたり一緒にではなく、ひとりずつ----「この状態、どう思う?」って訊かれたんだ。中立の立場の奴の意見を聞きたかったんだと思う。この状況の外からやってきた人間、この種のレコードでプレイした経験のある奴のね。もちろん、ボブはバンドのバックが付いてるレコードをたくさん制作している。でも、理由が何であれ、オレは意見を求められたんで、新たに仕切り直すべきだっていう大胆な提案をして、「今夜のことは忘れよう。皆を帰らせ、明日の晩、小さなバンドと一緒にここに来よう。スタッフも最小限で。そしたら、うまくやれる」って言うと、「それじゃ、誰がいいと思う?」って訊くんで、「クラプトンはいいね。残ってもらおう」って答えた。実際、ボブとドンは殆どの連中を帰してしまったが、オレがエミルー・ハリスには続けてもらおうって提案したのは覚えている。エミルーはいい声だからさ。
 ということで、オレたちはもっと小所帯のスタッフと一緒にスタジオに戻った。事態はただちに良くなった。良い結果が出た。不朽の名作をものにしようと、既に2晩、頑張ってたわけだけど、オレの提案を受け入れるやいなや、アルバムの大半を1晩で録音してしまった。それでオレの株は上がったってわけさ。1晩でアルバムのだいたい全部、録音しちゃったんだから。いや、半分以上と言った方がいいかな。その後、もう1晩、スタジオに戻って、録音したマテリアルを聞いてみて、昨日の晩、夢を見てたわけじゃないことを確認したんだ。あの晩、大きな成果があった後、信じられないって感じだったからさ。
 さっき言ったように、最初にミスがなく出来たテイクが「キープ」なんだ。あの晩のそういう演奏がアルバムに収録された。オレが覚えてる限りでは、皆、初めて出来た完奏だ。必要なのはまさにそういうものなんだ。いくつかの曲は何度か通しで練習してから本番の演奏をしたんだけど、ドラムの音や、あの音、この音をいじる大作業は全くやってない。スタジオに入って、生のまま録音。録音の黎明期以来、ずっとそうやってきたように。オーバーダブとかをやるようになる前の時代にね。実際、1つの例外を除いて、あのレコードではオーバーダブは全くやってない。スタジオの中で完全にライヴで演奏したものだ。聞こえてくる音が、実際に起こったことだ。ボブ・ディランの音楽はそういうふうに聞くべきだ。成り行きのスナップショット、その瞬間のスナップショットなんだよ。
 
笑ってしまいます。20数年後のアルバム《Time Out Of Mind》に参加した人々にインタビューしたのですが、その時もスタジオにはたくさんのミュージシャンが集まっていて、ミスなく出来た最初のテイクが採用されることについて、あなたが言ってたのと同じようなことを話してました。ただし、彼らのルールは、どう演奏したらいいのかわからなかったら、つまり、それをしっかり把握出来てなかったら、全くプレイするな。それがアルバムに採用されるテイクになる可能性があるから、ってことでした。

 ああ。疑念がある時には離れてろって、その通りさ。しかし、小さなグループの時には、それをやってる余地はない。皆が参加しなきゃいけない。あらゆるダウンビートで何かを心して演奏しておいたほうがいいね。



何テイクも演奏しないとおっしゃってましたが、作業があまりに長引いてしまった時、ディランがフラストレーションをため込んだり、燃え尽きてしまうなんてことはありませんでしたか? 最初のほうのセッションでそんな様子を目撃したりはしませんでしたか?

 あの最初の晩に? 大グループでやった時に? ああ、もう悪夢だったよ。見ていてボブを気の毒に思ったよ。自分の力が及ばず、フラストレーションがたまってるようだった。デヴィートがボブの後ろ盾になって、この混乱の中で断固たる態度を取ってしっかり主導権を握ってなかったのも、気の毒に感じたよ。凄い連中が勢揃いだったので、あいつらはプロだし経験も豊富だから、そのうちまとまるはずさって思ってたんだろう。ところが、そうはいかない。どれほど有名か、どれほど優れたミュージシャンかなんて関係ない。良い結果を得たいなら、固守しなきゃいけない原理ってものがある。

翌晩、人数を減らしたバンドでスタジオに集まって、その1晩だけでアルバムの半分以上をレコーディングしてしまったんですよね。何かが違うぞって手応えを感じたのはいつの時点ですか?

 1曲目だ。ボブはこのアンサンブルでプレイしたことはなかったんで、全く新しいアイデアだった。ギターとハーモニカのボブ、ヴァイオリンのスカーレット・リヴェラ、オレと昔からやってるドラマーのハウイー・ワイアス、それからパーカッションを演奏する女の子がいた。名前はシーナ・サイデンバーグっていって、後にもっと経験豊富な男のパーカッショニスト、ルーサー・リックスを入れた。あの晩までは、ボブはドラマーと会ったこともなかった。
 最初、少人数のグループでやってみようっていう提案を試してみることにした時、ボブは「ドラマーは誰がいる?」って言った。そして、ボブは思いついた。「ナッシュヴィルからケニー・バトリーを呼ぼう」って。《Blonde On Blonde》をはじめ、向こうで作ったアルバムで、いい仕事をしてくれたからだ。ボブは直ちにケニー・バトリーに電話を入れたんだけど、ケニーには既に他のプロジェクトの先約があって、無理なことがわかった。それで、オレが言ったんだ。「オレと一緒に演奏してた奴、覚えてるだろう。そいつがオレのバンドで演奏してるの聞いてるはずだ。ハウイー・ワイアスって奴だ」 すると、ボブは「ああ、良さそうだね。そいつを入れよう」って言った。
 ボブはハウイーと演奏したことはなかったんだけど、あの晩、スタジオで初めて顔合わせをして、1曲目の作業をやってる時だった。初めてミスなしの完奏テイクが出来たんで、すぐにコントロール・ルームに行ってプレイバックを聞いた後、オレはボブからわきに連れていかれた。何を言われるんだろうと思い、「ヘイ、マ〜ン、お前んとこのドラマーさ〜…」って言われるのを半分覚悟してたら、ボブは「こいつ、いいよ。ドラマーは完璧だ。パーフェクトな音だ。これならうまく行く」って言い出した。提案が受け入れられて、満足の行く作業が出来て、オレはホッとした。1曲目から、こいつはうまく行きそうだってわかったよ。演奏を聞いててわかったよ。ボブも同じ意見だった時、オレは思った。これで決まったって。そうして、その後も作業を続けた。
 夜の7時から始めて、翌日の朝7時まで作業を続けた。調子がいいっていう自覚があったから、続けたんだ。ドラッグも酒も何もなかった。全員が純粋なアドレナリンだけで作業をしていた。《Desire》はテキーラ浸けで作ったレコードとかいうバカバカしい記事を見たことがあるけど、テキーラって言葉が出てくる歌があるんで、そう思っちゃったんだと思うよ。超シラフなセッションだったことは、オレが保証するよ。カフェインとアドレナリン、それから、当時は欠かせなかったニコチン以外は何もなかった。CMや映画のサントラを抜かしたら、これはオレが参加した最もシラフのセッションだった。
 その晩、オレたちはやり続けた。乗ってるって実感があった。魔法の呪文にかかってるような感じだったんで、止めたくはなかったんだ。それで、とにかくそのまま続けた。朝の7時に止めたたった1つの理由は、マンハッタンのあのストリートでは、その時間に車をレッカー移動してたからだ。オレたちは車を移動されたくなかったんで、作業は午前6:30にストップした。


ロブ・ストーナー、ルーサー・リックス近況


あなたはこうした曲の進化中の状態を聞いてるんですよね。ディランがヴィレッジのクラブで歌った時とかに。ディランはスタジオに来て、ミュージシャンたちにどういうふうに曲の説明をしていましたか?

 オレが働いてたテネシー州ナッシュヴィルでは、レコードを録音する時、何度か通し稽古をして、他のいかなる場所よりもさっさと曲を録音してしまう。ナッシュヴィルには数字を使ったシステムがあって、コードをコード名じゃなくて数字的に見てるんだ。オレは数字のシステムの使い方を知っている。コードのチャートを速記するようなものさ。ボブが歌い始めると、オレは一心不乱にメモを取り始めた。コード・チェンジを気にしなきゃいけないのはオレだけだった。ヴァイオリニストのスカーレットは全部の楽器の上で演奏していた。ボブがギターで弾いてるのと同じコード上にいる必要があるのはオレだけだったんで、ボブの手を観察して数字をメモし、同時に演奏もしていた。左手で演奏して、右手で数字を書いてたよ。ベースは片手でプレイすることが出来るんだ。たいていのベース・プレイヤーは左手だけで演奏することが出来るものなのさ。
 オレは左手で演奏して、右手でメモを取った。しっかりとした情報を得るためにね。もちろん、その間はずっとボブの手を見ていた。ボブがどのコードを弾いてるのかわかるだけでなく、次はどのコードに行くのかも予測出来るようになった。手の筋肉が弛んで、手の形が次のコードになり始めるのを観察してたからね。次にどのコードが来るかという視覚的観察と、どのコードがどのコードとスムーズに繋がるかっていうミュージシャンとして知ってた知識の両方を使って、曲がどんな「和音的ボキャブラリー」を持ってるのかを知ったわけさ。これはいわゆる「フェイク」だ。ミュージシャンはいつも「フェイク」をしていなきゃならない。オレたちがいつも使ってるんだけど、「フェイクブック」っていう本もあるくらいだ。これは曲の大まかな骨組みを演奏するためのもので、大きなミスをせずに演奏する程度には役に立つよ。
 オレがやろうとしてたのはそれだ。曲を覚えるのに時間を取って、進行を滞らせたくはなかったからね。ボブが演奏をスタートしたら、オレもスタートだ。 もう「スタンプ・ザ・バンド」(1990年代にゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツがやっていたお遊び。客に他のバンドの曲のタイトルを叫ばせて、それを即興で演奏する)だよ。少なくとも、オレにとっては「スタンプ・ザ・ベース・プレイヤー」だった。ドラマーはテンポを保つだけでいい。ヴァイオリニストは進行しているものの上に乗っかってプレイしている。スカーレットはとても優れた耳を持っていた。何度か一緒に仕事をしたことがある。オレたちは全員、フェイクしながら演奏をしていた。全員、この技が得意だった。ジャム・セッションの時にやるのがこれさ。聞いたことのない曲をジャムってるように演奏した。こんなことは何度もやったことがある。ミュージシャンがリハーサルをしてない状況でステージに上がり、楽譜も何もない場合、互いを見て、互いの音を聞きながら演奏する。そういう状況だったんだ。不慣れな曲に飛び入り参加って感じかな。しかも、それが功を奏したのさ。あぁ、足も見てたね。ビートの入り方を確かめるためにボブの足を見てた。

こういうふうにオールナイトでセッションをやるのは、あなたの経験ではよくやってたことなのですか? それとも、世間一般での「労働時間」にレコーディング・セッションをやるほうが慣れていたのですか?

 プロジェクト次第だよ。多くのロック・バンドは----人気のある大物グループのために働いてるなら----1週間くらいスタジオを予約して、何時にスタジオ入りしてもOKな状態にしておく。そういう日取りだと、夜通しのセッションなんてことがありうる。当時、オレがやってた仕事の殆どは----当時、存在してたバンドの殆どは----9時〜5時だったね。つまり、午前9時から午後5時まで。午後9時から午前5時までじゃなくてね。でも、多くのミュージシャンは、生活のリズムが夜の仕事用に合わさってるだろ。デューク・エリントンは夜通しのセッションが好きだったって読んだことがある。少なくとも、自分のプロジェクトを自分でコントロールする権限の持ち主はそうだ。レコード・レーベルの小物は、上の奴から言われた通りの時間にスタジオに行くまでさ。

レコードに参加してるミュージシャンについておかがいたいと思います。エミルー・ハリスがハーモニーを歌ってる時、ボブ・ディランとの相性はどうでしたか? エネルギーの生じ方とか環境とか。

 即興さ。歌詞もどんどん変わった。ジャック・レヴィもいた。歌詞は大きな黄色いリーガルパッドに鉛筆で書いてあった。テイクごとに歌詞が変わることもあった。ジャックはそこにいて、歌詞を書いていた。ブロードウェイ・ショウを作ってるようだった。常に歌詞やセリフをいじくり回し、ボブも常に歌詞をいじくり回していた。だから、エミルーはリハーサルなしでボブのフレージングについていかなきゃならなくて、少々ビクビクしてたよ。ボブのフレージングって特異だろ。ボブとハモるのは容易じゃない。
 エミルーは2晩しかいなかった。大混乱の晩にいて、小編成でやった晩にもいた。大きな成果を上げた晩にね。でも、他の仕事があったんで、その後はいなかった。だから、その時点で、オレがハーモニー・シンガー役を引き継いだ。《Desire》セッションで録音した〈Abandoned Love〉って曲があるだろ。どうして《Desire》に入らなかったのかは知らないんだけどさ。でも、ボックスセット《Biograph》に収録された時に、「エミルーはこの曲で好サポートしてる」って評を見たことがある。違う違う。それ、オレだよ。《Desire》のセッションだからエミルーだと思われてる節があるけど、違うんだよ。彼女はあの時点ではもう帰っちゃってて、オレがハーモニー・シンガーの仕事を引き継いだんだ。
 ボブと一緒に歌うのがどんなに大変かわかったのがその時だった。まず、未完のテイクでもない限り、リハーサルがない。未完のテイクが唯一のリハーサルだったりする。さっきも言ったように、初めて出来た完奏テイクがリリースするテイクになる可能性が高かった。完奏テイクをものにした後、「もう1度やって、もっと良い演奏にしようか」ってことになる時もあったけど、たいてい、前のほうのテイクがベストだった。でも、ハーモニー・シンガーにとって、最初のほうのテイクは、まだ自分のフレージングがボブと正確にマッチング出来てないっていう問題がある。アルバムを聞くと、完全にシンクロしてないことがわかる。音程に関しては、エミルーは素晴らしい。ピッチは正確なんだが、フレージングについてはボブに合わせようと努力奮闘してることがわかる。オレにはエミルーのやってることがわかる、その後で、オレも同じことをやってたから。〈Abandoned Love〉のレコーディングだけじゃない。ローリング・サンダー・レヴュー・ツアーでもオレはスティーヴン・ソールズ、Tボーン・バーネットらとハーモニーを担当してた。そういう体験から、ボブとハモるのは難しいってことを知っている。ボブがしょっちゅう節回しを変えちゃうからさ。ボブのフレージングって超特殊で、韻律を壊してしまうんだよ。そうすることで、リズムの自由を得てるんだけどね。それに対処するベストな方法は、ボブの顔を見て、次にどういう言葉が出てくるのか予測することだ。だから、簡単じゃないんだよ。
 エミルーはグラム・パーソンズのところにいて、もっとコントロールされた、きちんと練習するような状況のほうに慣れていたんで、ボブのやり方には完全にビビッていた。あの晩のある時点で、「オー・マイ・ガーッ、とても難しいわ。もう1度やるチャンスをもらえないかしら」って言ってたよ。後になって、彼女はもう1度やるチャンスをもらえることになって、後日、オーバーダブしたんだけど、結局、オリジナル・テイクのほうが採用された。こっちのほうが雰囲気が優れていたからだ。
 アルバムを聞くと、エミルーが何を心配してたのかよくわかる。彼女の節回しはボブと完全には合ってない。歌詞が同時に始まり、同時に終わってない。でも、そこがいいんだよ! それこそ音楽ってやつだ。間違ってるんだけど力が漲{みなぎ}ってるだろ。オレもアルバムでいくつかミスを犯してる。自分で聞いたらわかる。ベーシスト以外は誰も気づかないかもしれないけど、正しくない音を弾いてる箇所が2つある。オレはテイクを止めず、演奏を続けた。ミスも人生の一部、音楽の一部だ。オレたちが目指してたのは音の真実であって、完璧であることじゃなかった。ミスをしてるのにパワーが漲ってる。オレたちはひとかどのものを持ってるってわかってた。他とは異なるとても重要なものを作ってるんだってわかってた。質の高い曲、ボブ・ディランとジャック・レヴィの努力の成果のおかげでさ。これはユニークな文芸作品だ。不朽のね。

スカーレット・リヴェラはいかがでしたか? 彼女の貢献がなかったら《Desire》は全く趣の異なるアルバムになっていたでしょう。スカーレットのヴァイオリンがこのレコードの看板だという意見もありますが、私が驚いているのは、彼女はそれまでレコーディングの経験があまりなかったということです。彼女はああいうスタジオの環境をどう感じていたと思いますか?

 そういう機会をもらえてとても喜んでたよ。そして、自分のアプローチが適切だったことにも満足していた。あの種の曲のためにはまさにピッタリだったし、しかも、ボブにとっても全く新しい楽器だったし。いつもは、ボブのレコードでリードを取るのはギターやキーボードといった従来の楽器なので、レコード全体にヴァイオリンを入れたことで、非常に独特なフィーリングが生じた。しかも、スカーレットのアプローチも素晴らしかった。ビブラートも素敵だ。ファンキーなロックンロールも出来る。オレには、スカーレットのバイオリンは、エレキギターをマーシャル・アンプに通してガンガン弾いてるように聞こえた。低いヴォリュームっていう点が違ってたけどね。オレの言いたいこと、わかるだろ。サステインがたくさん、ブルージーなフレーズ、たくさんのベンディング。まるでギタリストの演奏みたいで、ブルージーでとてもファンキーだ。たいていのヴァイオリニストはちょっと躾が良すぎるんだが、スカーレットは演奏にああいう鋭さがあった。今でも、それを持っている。クラシック音楽のテクニックも持っていて、状況に合わせることが出来た。そのおかげで、躾が良すぎるような演奏にはならなかった。そんな演奏だったら、ああいう場ではフォーマル過ぎてしまっただろうなあ。

レコーディングに関して、一番思い出に残ってるのはどの曲ですか?

 〈Abandoned Love〉だ。オレが歌ってるのに、クレジットされてない。ブートレッグ・シリーズの中でローリング・サンダー・ツアーを収録した《Live 1975》でも、オレのヴォーカル担当のクレジットがない。ブックレットでは「ロブ・ストーナー:ベース」って書いてあるだけだ。全部の曲で高い音程のハーモニーを歌ってるのにさ。シンガーとしてのオレの名前はレコード会社によって削除されてしまった。それがショービズってやつさ。

セッション最後の晩のついてうかがいたいと思います。〈Sara〉をレコーディングしたのはその時ですよね?

 再度スタジオに行った時だ。基本的には、今までに録音したテープを聞き直して、前の晩に起こったことが思い違いではないことを確かめようってことだった。それから、いくつか残ってる曲をやってみるという目的もあった。〈Abandoned Love〉はその晩にやったんだ。エミルーはいなかったから、ハーモニーをつける仕事はオレに割り当てられた。その晩、サラ・ディランもいた。ボブは彼女をバンドに紹介すると、「今夜はサラのために1曲やるから、みんなお行儀よくするように」って言った。素晴らしい瞬間だった。レコーディング・セッションていうのは、普段はプライベートなものではなくて、ミュージシャンは雇われた従業員のように扱われるものなんだけど、この時はオレがやり慣れてた環境よりも、少しプライベートな雰囲気だった。ボブが突然、オレたちに奥さんを紹介して、「さあ、最高の瞬間になるよ」って言ったんだ。

数カ月後に〈Hurricane〉のレコーディングをやり直さなければなりませんでしたよね。既に録音してあったオリジナル・バージョンの歌詞の一部が、法律的に問題ありそうだってことで。

 そうそう。だから、この曲だけちょっと違うよね。それを説明しようか。既に話した通り、《Desire》はリハーサルなしで、皆がフェイクしながら作ったアルバムだ。でも、〈Hurricane〉のレコーディングをやり直す頃には、既に、ローリング・サンダー・ツアーのリハーサルをやってたんで、それを中断して「ヘイ、コア・グループとリズム・セクションはコロムビア・スタジオに行って〈Hurricane〉をレコーディングし直すぞ」って通達があったんだ。この時点で、しばらく練習を重ねてたので、アルバムに収録されたバージョンの〈Hurricane〉はフェイクじゃないんだよ。つまり、オレたちは曲を覚えてたんだ。録音をやり直す頃には、ずっと練習し続けていて、曲を知ってたわけさ。アルバムの残りの曲は、録音する時点では知らず、フェイクで演奏していたんだ。
 町の向こうのSIRスタジオでリハーサルをして、既にバンドになってたってことが、〈Hurricane〉と残りの曲の違いだと思うね。核となってたバンドはハウイー・ワイアスとスカーレットとオレだ。それから、この時はパーカッショニストのルーサー・リックスにコンガを演奏してもらった。それで音がかなり豊かになったなあ。アルバム中でコンガとトラップドラムが入ってるのは、この曲だけだ。リズムに推進力を与えているよね。それから、ロニー・ブレイクリーとスティーヴン・ソールズも一緒だった。他にもバック・シンガーがいた。リズム・セクションもいつもより少し大きかった。しかも、オレたちはあらかじめ曲を知ってた。それが《Desire》の残りの曲と一番違う点だ。2つのレコーディングのうち、オレはもちろん、2番目のほう----発売されたほう----がいいと思う。レコーディングして以来、オリジナル・バージョンは聞いたことがないんだけど、記憶では、この曲は複雑だから、エミルーはボブとハモるのにとても苦労していた。他にもいくつか難点があったと思う。アルバムの中でも野心的な曲だった。オリジナル・レコーディングは全然洗練されてない。だから、やり直せて嬉しかったよ。やり直しを主導していたCBSの法務部もそうだろう。
 最初のバージョンが発売されてたとしても、優れた曲だったと思う。もちろん、ツアーでは全曲やり直す機会があった。あのツアーのレコーディングを聞けば、殆ど全曲、少しは練習を積んでる様子がわかる。でも、最初のレコーディングで決めるべき箇所は見事に決めてると思うよ。ライヴ盤《Rolling Thunder Revue》と《Desire》の曲を聞けば、基本的には同じことをやってるのがわかるだろう。本能的に、最初にこうするのがいいってわかったことをやり続けた。



ローリング・サンダー・レヴュー・ツアーでは、あなたはバンド・リーダー役を務めていましたが、この仕事で最も大変だったのはどんなことですか?

 そうだなあ。一番大変だったのは管理する立場だったってことかな。音楽の仕事っていうのは名ばかりで、実際には…「ネコを集める」って比喩わかるかな? まさにそれなんだ。ひとところにじっとしてない、自由奔放で、パーティー好きの連中だったから、リハーサルをさせて、ショウに磨きをかけるのは大変だったよ。さっき話したスーパースターだらけの1回目の《Desire》セッションみたいな態度で、皆、「いいね。パーティーしようぜ」って感じだった。でも、それじゃダメだろ。演奏にはもっと良くなる余地があった。いつの日か、顕微鏡で調べられるようにオレたちの演奏は検証させる。つまり、演奏が全て世に出ることはわかっていた。一方、数千人の観客に向かって演奏している。だから、最高の演奏をしたいとオレは思ったんだ。それに、一部の奴がプロの心構えでやってないように、オレの目には見えたんだ。正確に言うと、皆、プロの心構えを持ってはいたんだけど、少し楽しくやり過ぎてたんだ。自分の部屋でテープを聞いて、気がついたことをメモを取り、いろんな人にそれを回した。「お前だったら、ここを、もっとうまく出来るはずだ」とか「ここを違ったふうに出来るはずだ」とか。
 オレがやってた唯一のリハーサルはサウンドチェック時にやっていた。実際、そうしているバンドは多い。だから、サウンドチェックの時に「こうしてみよう。ああしてみよう」って提案して、演奏をさらに磨き上げた。ツアー初期では、多くの曲がイントロもなければエンディングもない。ヴァースからコーラスに移るのも、その逆も、スムーズに出来てない。フックが外れてしまっている。皆が一度にあれこれ音を出していて、悪夢のようだった。音楽ディレクターとは名ばかりの奴の視点から見るとね。オレがそういう役をやることになったってことにも驚いたよ。だって、アレンジの知識もあって、こういうのに適役の人間が他にもたくさんいたからさ。ミック・ロンスンはデヴィッド・ボウイのためにそういうことをやってたんだろう。Tボーン・バーネットはレコード・プロデューサーとして、数多くのアーティストに対してそういうことをやってきた奴だ。デヴィッド・マンスフィールドも優れたミュージシャンで、バンド全体の中で一番優秀なプレイヤーだ。あいつだって、やろうと思えば出来ただろう。若かったから、トラブルを避けるために出しゃばらなかったんだろうが、デヴィッドはステージで最も多芸な奴だった。
 優れたプレイヤーが勢揃いして、皆がガンガン演奏してるわけさ。でも、重要なのは、誰も他人の楽しみを邪魔する奴、躾の厳しい奴にはなりたがらないってことさ。人気のない役割だからね。オレはベースを弾きながら、同時に指揮をしていて、ステージの向こう側にいる奴の注意を引くために手を振ったりしてた。
 オレは証拠に基づいて言ってるんだぜ。前半のギグと後半のギグのレコーディングを聞き比べてみると、オレのささやかな貢献を聞くことが出来る。後半のほうでは、皆が適当にジャカジャカやって終わるんじゃなくて、曲にエンディングがある。イントロがついている。後半の頃の曲になると、ある曲にはダイナミクスが生じて、3番目のヴァースに向かうのにコントラストを生じさせているなんてことがある。
 このツアーの前半のショウを聞いて、後半のショウと比べてみると、明らかに向上してることがわかる。ツアーが進むにつれて、オレがリハーサルをやるぞと言っても、無駄なことが多かった。リハーサルをやるぞと呼びかけるのは、猫を一カ所に集めるようなことだった。ある者は乗馬に行ってしまってる。別の奴は酒を飲んで大騒ぎをしてる。ここいる奴は二日酔いだ。こんな調子だったので、数名を集めることが出来ただけでも御の字だったよ。その場にいなかった奴等には、メモを渡したんだ。毎晩、皆がパーティーをやってる時に、オレは何をやってたと思う? 自分の部屋でその晩のボード・テープを聞いて、次のショウではどこを引き締めなければいけないか、メモを取ってたんだよ。誰かがバンドリーダー役をやらなきゃいけない。悲しいけど事実さ。


このインタビューは2016年頃に行なわれたもので、現在執筆中で、いつかは完成予定の本『Rolling: In The Studio With Bob Dylan』からの抜粋である。


The original article "Wrong But Strong: Rob Stoner on the making of Bob Dylan's Desire" by Damien Love
https://damienlove.com/writing/wrong-but-strong-rob-stoner-on-the-making-of-bob-dylans-desire/?fbclid=IwAR2-x_dP9ip3ZogkijcPcqYMMmQTJYxYgbaT4P1h4L4cFBFzgQ712m9mvKcof-bob-dylans-desire/?fbclid=IwAR2-x_dP9ip3ZogkijcPcqYMMmQTJYxYgbaT4P1h4L4cFBFzgQ712m9mvKcgQ712m9mvKc
Reprinted by permission


  
posted by Saved at 21:29| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: