2020年04月23日

こんな時に読む記事『1960年代における「失われた」コンサート』

 本当なら今頃、Zepp DiverCity、Zepp Namba、Zepp Tokyo、そして、NHKホールと場所を移しながら、連日連夜、ボブ・ディランのコンサートが行われているはずでしたが、全世界的なコロナ騒ぎのせいで日本ツアーは丸ごとキャンセル。ディラン史上、いや、ロック史上、前代未聞の事態です。ネヴァー・エンディング・ツアーが新型ウイルスの流行によってとどめを刺されてしまうのか、世界が落ち着いたら再び続行なのか、全くわかりません。全世界的に皆が仕事や学校を休んで家でじっとしている時間が多い中、超強力な新曲が2つもインターネットを通じて発表になったり、日本では『日本のシングル集』や完全限定アナログ盤「サブタレニアン・ホームシック・ブルース/シー・ビロングズ・トゥ・ミー」、そして、歌詞の翻訳本が発売になったりと、他のものはいろいろあるのにコンサート「だけ」がないという、歯がゆい状態とはまさにこのことです。
 海外から届く「本当だったら今日、東京行きの飛行機に乗るはずだったのに」というメッセージには、高い確率で、「日本に行った時におみやげとして買うはずだった『シングル集』とアナログ盤を、代わりに買って送ってくれないか」というリクエストが付されています。で、代わりに買って(実店舗は閉まっちゃってますが、通販は生きてるので問題なし)、うまい具合に梱包して、いざ、送ってあげようと思ったら、コロナ騒ぎで配達に遅延が生じていて…なんていうのはまだマシなほうで、国によっては荷物を受け付けてすらくれなかったり…。もう、トホホです。
 ということで、今回紹介するのは、ファンジン『ISIS』誌に8年ほど前に掲載された1960年代のショウのキャンセルに関する記事です。筆者はネットに自分の書いた記事が載るのは好きじゃないという方針なのですが、『ISIS』誌のウェブページにも載せて、新たな情報を広く募っている記事でもあるし、今、我々が陥っている状況を考えると皆に読んでもらう価値があるだろう、ということでOKが出ました。本当に、この記事に載っていない新情報をお持ちでしたら、ここのコメント欄でもいいし、メールでもいいし、ツイッターでもいいし、フェイスブックでもいいので、是非、お寄せください。

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1960年代の「失われた」コンサート

文:イアン・ウッドワード


 50年を超えるキャリアにおいて、ボブ・ディランのコンサートがキャンセルになることは珍しい事態である。1970年代半ば以降のショウについては、キャンセルになったものを含み、たくさんの資料が残っているのだが、1960年代のコンサートに関しては、特にキャンセルになったものについては、よくわからない部分が多い。
 キャンセルされたショウの定義も思うほど簡単ではないのだが、この記事では噂のレベルで終わったツアーやショウ(1966年3月のツアー日程についてはさまざまな混乱がある)は除き、少なくとも広告が出て、チケットが発売されたもの(全てがそうとは限らないが)を扱う。ただし、オートバイ事故後については定義の幅を広げることにする。
 ということで、話を進めよう。


1962年12月17日(月)〜23日(日)
ユニコーン(マサチューセッツ州ボストン)


 ユニコーンはボストンのボイルストン・ストリート825番地の建物の地下にあるコーヒーハウスで、「絵のように美しい」「最もプロフェッショナルな」、というよりもむしろ「あまり民衆{フォーク}的とは言えない高級な」会場として有名だった。『LIFE』誌はフォトジャーナリズムで有名な100ページほどの週刊誌で、その1962年12月14日付の号の「ライフ・ガイド」のセクションには、アメリカで近々行なわれる「フォーク・シンギング」の公演に関する情報を掲載した1ページがあった。このセクションのテーマは号によって異なり、例えば、1週前の号では近刊の書籍に割いているので、1962年12月14日号にディランの公演が掲載されているのは、たまたまそういうタイミングだったからなのかもしれない。

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 「ボストン」で行なわれるショウを扱ったサブセクションには、「アイルランドの4人組」ザ・クランシー・ブラザーズとトミー・メイケムが、1962年12月16日までボストンのユニコーン・コーヒーハウスに出演予定とあり、続いて「次に登場するボブ・ディランは、田舎というよりは大都市風スタイルだ」と書かれている。我々に出来る推測は、当時、ボブ・ディランはまだボストンには行ったことがなかったので、「フォーク・シンギング」の公演リストをまとめた人物は、公演予定日よりもある程度前に記事を書いたのだろう、ということだけである。
 ディランは1962年12月6日にコロムビア・レコードでレコーディング・セッションを行ない、M・ウィットマーク&サンズ宛の1962年12月7日の日付のある手紙にサインして、〈Blowin' In The Wind〉を含む18曲を、1962年7月12日に契約を交わしたこの音楽出版社に正式に登録している。

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 こうした出来事から数日しか経っていない頃、ディランはBBCテレビのドラマ『マッドハウス・オン・カッスル・ストリート』(エヴァン・ジョーンズ脚本)に出演するために、飛行機でロンドンに移動した。11月下旬の時点では、ボブとジョーンズのエージェントとは交渉中で、BBCとの契約もこの頃、交わされているのだが、BBCとジョーンズの間の契約は12月上旬になってやっと締結された。ディランはロンドンに直行して、台本の読み合わせとリハーサルをしなければならなかった。
 恐らく、ロンドン行きは、BBCが提示したギャラが良く、費用も向こう持ちということで抗し難く、契約書に必要なサインが得られるや否や、ディランはイギリスに急行したのだろう。ディランのマネージャーのアルバート・グロスマンがこうした可能性のあることをユニコーン側に伝えたのか否か、そして、もし伝えてないとしたら、ユニコーンのオーナーを宥めるためにどんな策を取ったのか、我々には推測することしか残されていない。
 ボストン界隈でコンサートのブッキングが問題になったのは、この時だけではなかった。


1964年3月7日(土)
タフツ大学クーセンズ体育館(マサチューセッツ州メドフォード)


 コンサートを主催したのはタフツ大学に1963年に入学し、1966年に卒業する予定の学生たちだった。最近になって、このコンサートのポスターとチケット(どちらも複数枚)がインターネットを通じて売られた。ポスターのデザインはユニークで、1963年11月2日にボストンのジョーダン・ホール公演で撮影されたディランの写真が使われていた。チケットのほうはこれよりはるかに地味なデザインだが、それでもコレクションに加える価値は大ありと見なされている。これは本当に歴史的遺物だ。コンサートは宣伝され、チケットが販売され、観客も集まったのだが、残念なことにボブ・ディランは姿を見せなかった。

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 読者に「フォーク・ミュージックとコーヒハウスの情報」を提供していた『ブロードサイド・オブ・ボストン』紙はディランのすっぽかしを直ちに報道し、この問題を追求することを約束した。次の号では、編集長で、自分もタフツ大にいてディランの登場を待っていたデイヴ・ウィルソンがこう書いている。「ディランがタフツ公演に姿を見せなかった翌朝、『ブロードサイド』の電話は鳴り続け、ボブに何があったのかという問い合わせが殺到した」 はっきりとした情報がないのでさまざまな噂が飛び交い始め、その中には、ディランは泥酔していた;別のところに行って無料で演奏した;友人と酒盛りをしていた等の根も葉もない悪口もあった。ハーヴァード大学で予定されていたジュビリー・ウィークエンド・コンサートも「ディランのズル休み」のためにキャンセルとなったという噂もあった。以上のものはどれも真実ではないが、このような空白状態を埋めるのは、えてして噂と憶測なのだ。
 数週間後、ウィルソンがニューヨークにいる間に問い合わせをしてみたところ、その質問に回答すべき人間は席をはずしているので、折り返し電話を差し上げますというのがグロスマンの事務所の対応だったが、その電話がかかってくることはなかった。ウィルソンはその晩、その係の人物に偶然会うことが出来、翌日にオフィスに戻って調べてみると言われたので電話をかけたものの、不在だった。念を押したものの、この時も折り返しの電話はなかった。わざとか単なる失念かは不明だ。その後、ウィルソンはオフィスに出入り禁止になってしまった。
 正式な説明がなかったので、ウィルソンは他の情報源を探って、次の情報を手に入れた。ディランは週末に西海岸から戻って来て、事務所に確認の連絡を入れたのだが、コンサートについては何も言われなかった。殆どのスタッフが早々に帰ってしまい、たくさんの仕事を抱えて手いっぱいの秘書がひとりだけが残されていたらしい。
 こう聞くと、ディランがグロスマンのオフィスから手抜きの対応をされたようであり、管理上の問題がどこかで生じていたのかもしれない。3月17日付の『ブラウン・デイリー・ヘラルド』紙は、ブラウン大学のスプリング・ウィークエンド・イベントの告知をしており、その幕開けがディランのコンサートだった。記事は、ディランが「先週」[←原文のまま]タフツ大学公演に姿を見せなかったことにも言及し、ブラウン大学のイベント組織委員会の委員長の言葉を掲載している。彼によると、ディランをブッキングしたニューヨークの大手エージェントも、ユニオン(音楽家組合か?)もそれを繰り返されるのはごめんだと考えていたらしい。ブッキングは直接、グロスマンのオフィスが行なったのではなく、「ニューヨークの大手エージェンシー」----恐らくはITA(インターナショナル・タレント・エージェンシー)----が行なったようだ。
 1963年末及び1964年の大部分の間は、ITAがディランのブッキング・エージェントの役割を担っていた。1964年11月の時点では、ITAはジェネラル・アーティスツ・コーポレーションに買収されていたが、ITAの社長は副社長としてとどまって「コンサートの分野で演奏家の代理を務める」ことを継続していた。
 この出来事の丸2年後、ロバート・シェルトンはディランをインタビューした際に、この時のキャンセルの事情について触れている。しかし、非常に異なる状況でキャンセルとなった次のショウは、殆ど知られていない。


1965年2月13日(土)
カーネギー・ホール(ニューヨーク州ニューヨーク)


 これは少しでっちあげ臭のするコンサートだ。1964年7月に、トリオ・コンサーツ・Incがこの年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルのプログラム冊子の中に載せた広告なのだが、ピーター・ポール&マリー、イアン&シルヴィア、オデッタ等、アルバート・グロスマンのマネジメントに所属する他のアーティストと一緒に、ディランのこの公演の記述もあるのだ。トリオ・コンサーツ・Incはグロスマンがピーター・ポール&マリーのために、このグループと一緒に設立した会社で、この広告に「チケット情報」の問い合わせ先として掲載されているトリオ・コンサーツの所在地は、グロスマンの事務所の住所と同じだった。

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 少なくともカーネギー・ホールを押さえていなかったら、グロスマンはこのディランのコンサートの広告は出さなかったであろうが、1964年半ばに掲載されたこの広告以外は、他所でも記されていたり、チケットが発売されたりといった形跡は何もない。しかし、この広告にある他の3つのコンサートは記されている通りの日時に確かに開催され、『ニューヨーク・タイムズ』紙にはロバート・シェルトンによる評も掲載されている。彼のコンサート評は、時代精神{ツァイトガイスト}を反映しているとおぼしき変化がフォーク・ミュージックの分野でも進行中であると述べていた。
 ニューポートのプログラムに掲載されているディランのコンサート計画は、静かに棚上げになったようである。計画変更の理由は不明であり、我々には想像することしか出来ない。変更は、少なくとも部分的には、ディランがジョーン・バエズとの関係を続けていたからかもしれない。1964年8月には、ジョーンはウッドストックにあるボブの屋敷に泊まっており、8月8日にはボブは彼女のフォーレスト・ヒルズ公演に登場している。ジョーンはその返礼として、同年秋には、10月31日にニューヨークで行なわれた「ハロウィーン」コンサートを含むボブのコンサート数回に飛び入りしている。ディランの人気が急上昇中だったので、グロスマンは1965年2月よりも前にニューヨークで大きなコンサートをやろうと決めたのかもしれない。1964年11月には、ディランは1965年にバエズとジョイント・コンサートを行なう計画を話しており、その殆どは1965年3月に実際に開催されている。これらのジョイント・コンサートはアメリカの東海岸で行なわれたが、ニューヨーク・シティーで行なわれたものは1つもない。


1966年3月19日(土)
シヴィック・オーディトリアム(ニューメキシコ州アルバカーキ)


 このコンサートは、開催まであと1カ月もない2月21日に『アルバカーキ・ジャーナル』紙で発表された。ディランは「フォーク・ミュージックの作曲家、現代の詩人、作家」と説明されているが、肩書きの最後のものは『タランチュラ』の最初の発売予定日よりもいくらか先んじている。記事にはディランは「昨年、全国ツアーを行ない、今春にはオーストラリア・ツアーに向けて出発する」という情報も書かれているが、コロムビア・レコードがディランの「全世界ツアー」をマスコミに発表するよりも前に記事になってしまっている。オーストラリア公演が予定されていることについては、コロムビアの正式発表前に報じたマスコミが実際にいくつかあった。
 新聞記事の最後の段落には非常に興味をそそられる。「ディランは10名の楽団を連れて行き、パフォーマンスの前半はトップ・ヒットを披露し、後半はオーディエンスからリクエストされた曲を演奏する予定だ」 そういう計画があったとなると、このショウが実現しなかったのは甚だ残念である。

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 地元紙がショウが行なわれないことを発表したのは、その当日のことだった。プロモーターのポール・ヴィレラの発言によると、ディランは前晩にアルバカーキに到着したのだが、ウイルスに感染して体調が悪化し、医者からはコンサートはやらないように言われたとのことだった。ヴィレラは続けて言っている。「このイベントは私がこれまでに経験した最大の前売り記録となっていました。5,000ドル相当のチケットを売りました」 彼はチケット購入者には払い戻しを約束しているが、ディランの体調を思いやる気持ちは全く示していない。「もう2度とブッキングしません」 これは、人には体調がすぐれない時もあるということに落胆しての発言とも取れるし、キャンセルの理由について疑わしく思っていたとも取れる。ディラン研究家の中には、ディランは1966年3月13日のデンヴァー公演の後、バンドのメンバーに10日間の休暇を与えて、自分は飛行機でロサンゼルスに行ったと言う者もいる。
 2番目の地元紙の最後の段落には興味をそそられる。2人の若いファンがディランのアルバカーキ公演を見るために、ニューヨークの自宅からヒッチハイクでやって来たと書いてあるのだ。このアルバカーキ公演は1カ月前に地元紙で発表されたのみなのに、その情報がニューヨークにまで達していたのだろうか、それとも、彼らはツアー関係者から情報を得たのだろうか? ディランもしくはツアーのメンバーはこうしたファンの存在を知っていたようでもある。記事には、彼らはディランの次の公演地であるエルパソにも行く予定で、帰宅のための航空券代はディランが払うことを約束しているとも書いてある。エルパソ公演もキャンセルとなっていることを考えると、何とも奇妙な話である。


1966年3月20日(日)
コロシアム(テキサス州エルパソ)


 このコンサートが『エルパソ・ヘラルド・ポスト』紙で発表されたのは、公演日まであと1カ月を切っている1966年2月26日のことであり、同紙には広告まで出ている。
 1966年3月19日にキャンセルを報じたのも同紙である。「明日の午後7:30にコロシアムで開催予定だったボブ・ディランのコンサートは中止となった」 記事によると、ディランは「今日」アルバカーキでコンサートを行なう予定だったのだが、体調悪化のため、公演(複数形で記されている)はキャンセルされた、とのことだった。この情報は、地元のプロモーター、セントラル・タレント・エージェンシーの責任者、ジョー・プレスリーから発せられている。
 記事はその後に、「ショウタイム」というページに掲載された広告に言及する一言を加えているのだが、この広告はキャンセルについては何も言っていない。恐らく、広告のほうはかなり前に原稿を入れてしまっており、キャンセルのニュースが入って来たものの、引っ込めるには遅過ぎたのだろう。ところが、奇妙なことに、広告では「今晩!コロシアムにて」となっている。3月20日ではなく3月19日にコンサートがあることになてしまっているのだ。
 2公演のキャンセルが同時に発表されたことははっきりしている。ところで、ニューヨークから来た2人のファンは、アルバカーキにいる時点でエルパソに移動しても無駄だと伝えられたのだろうか? もし彼らが既にエルパソに向かってしまっていたとしたら、再度の公演のキャンセルに失望したことは想像に難くない。


1966年3月27日(日)
コロシアム(ワシントン州スポケイン)


 このコンサートも宣伝されたものの実行はされなかったものだが、その直前の状況について少し触れておこう。
 1966年3月下旬にワシントン州とオレゴン州で行なわれたコンサート・スケジュールについては、長年に渡って、ディラン研究家がその解明に手を焼いてきた。1966年3月26日のヴァンクーヴァー公演に関する当時の資料はしばらく前から存在していたが、それとは対照的に、国境線のこちら側に戻ったアメリカでのコンサートの詳細の解明は困難だった。
 しかし、広告やポスター、チケット半券(インターネット上、もしくは他所で見ることが出来る)から、次のようなスケジュールを再構成することが出来よう:

3月23日(水)パラマウント・シアター(オレゴン州ポートランド)
3月25日(金)ニュー・センター・アリーナ(ワシントン州シアトル)
3月26日(土)ジ・アグロドーム(PNEアグロドーム)(ブリティッシュ・コロムビア州ヴァンクーヴァー)
3月27日(日)スポケイン・コロシアム(ワシントン州スポケイン)

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 しかし、これで全てが正解というわけではなさそうだ。
 『ヴァンクーヴァー・プロヴィンス』紙の記事には、ショウの内容に関する記述に続いて、「ディランは土曜日の午後にプライヴェートな便でシアトルからここに来て、日曜日にはタコマに向かって出発した」と書かれている。シアトルからヴァンクーヴァーの移動は上記の日程と一致するが、ヴァンクーヴァーからタコマに向かったというのは一致しない。シアトルとタコマは空港を共有しているのに(当時はシアトル・タコマ国際空港、後に、シータックと短縮されている)、記者が2つの都市を区別して書いているという点にも注意が必要だ。ということは、日曜日にはタコマでコンサートがあったのではなかろうか。事実、一部のディラン研究家は3月27日(日)をタコマ公演の日としている。しかし、ディランがタコマで公演を行なったのは3月24日(木)とする説もある。どちらの場合にせよ、文書の記録は存在しないし、会場名すら明らかになっていない。一方、もし、ポスターの通り、日曜日にスポケインでショウが行なわれたのだとしたら、どのようにして同じ日にタコマでもショウを行なうことが出来たのだろう? この問題については議論をする必要もないだろう。
 親切なことに、スポケインの地元紙の代表が社のアーカイヴを調べ、1966年3月27日にコンサートがあると宣伝はされたものの、技術的問題のせいでキャンセルされていることを確認してくれた。音響機材を運搬するトラックが故障したらしい。あの時代、ディランとザ・ホークスは大量の機材を運搬していた。ジュールズ・シーゲルは、ヴァンクーヴァー公演の会場での音響問題というコンテクストで「ディランは機材ケース8個分の、3万ドル相当の特注のサウンドシステムを持っていたが、この巨大な残響室をクリアなサウンドで満たすには全然足りていなかった」と述べ、さらに「公演地から公演地へと音響機材とミュージシャンの楽器を運ぶ2人のドライヴァー」と「1人の音響技術士」がいたことについても言及している。技術的問題と機材の量の他、もう1つ問題があった。
 スポケイン・コロシアムでのコンサートの開始が午後4時だったというのは通例とは違う。この時のツアーでは、殆どのコンサートの開始時間は午後8時か8時半だったので、午後4時というのは非常に早い。ヴァンクーヴァー公演終了後に音響機材をばらしてトラックに積み込み、スポケインまで移動して機材を降ろし、午後4時のショウに間に合うように組み立てるのは、もし本当にそれをやったとしたら簡単ではなかったであろう。現代の地図によると、ヴァンクーヴァーからスポケインまでは約11時間の距離となっているが、これはトラックではなく普通の自動車で移動するならばである。しかも、当時の世界のあの地域には州間幹線道路は殆どなく、該当するルートの大部分は車線の分かれたハイウェイですらなかった。
 ディランのマネジメントもしくはエージェントが1日に2公演をやろうとしていたのか? 当時はそんな慣例はなかったし、そもそも、こんなに離れた2都市でコンサートを設定するだろうか? ある日、ヴァンクーヴァーで夜公演をやってから音響機材のトラックを移動して、翌日昼のスポケイン公演に間に合うようにすることは、頑張ればどうにか出来るとしても、昼のスポケイン公演から同日夜のタコマ公演に移動するのはほぼ不可能であろう。たとえ、コンサートの開始が真夜中であってもだ。当時は、車で移動するだけでも7時間はかかったからだ。
 ということで、疑問を整理するとこうなる:ディランとツアー隊は1966年3月27日(日)のタコマ公演を優先させて、スポケイン公演はキャンセルしたのか? それとも、タコマ公演はその前の3月24日(木)に実際に行なわれたのだろうか? 私がタコマの図書館に問い合わせをしたところ、次のような返事を得ることが出来た。
「こんにちは。『タコマ・ニュース・トリビュート』紙を前後数日間分も含めて調べてみましたが、ボブ・ディランのコンサートに関するものは全く見あたりません。切り抜きファイルやタコマを扱った記事のインデックスも調べてみましたが、1966年のディランのタコマ公演に関連したものは何も見つかりませんでした。以上の情報でお役に立ちますでしょうか。お問い合わせ、ありがとうございました!」

 以上のことから、1966年にはディランはタコマではコンサートは行なっておらず、スポケインではコンサートが計画されたがキャンセルとなったようだ。この年、コンサートがキャンセルになったのはこれが最後ではなかった。


1966年7月24日(日)
フェスティヴァル・フィールド(ロードアイランド州ニューポート)


 1966年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルの早い時点での広告には、「ボブ・ディラン」は出演者リストの中に含まれていただけだが、『シング・アウト!』誌の1966年7月号に掲載されたもののような後の広告では、最終夜に出演すると、話の具体性が増している。しかし、この広告の原稿が書かれたのは数カ月前のことだろう。1966年7月21日(木)のイヴニング・コンサートの出演者に「ディック&ミミ・ファリーニャ」が入っているからだ。ディック・ファリーニャは1966年4月30日にオートバイ事故で他界している。

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 『シング・アウト!』誌の1966年9月号では、フェスティヴァルのラインナップに「土壇場での変更」があり、シオ・バイケルとボブ・ディランがリストから消えたことが報じられている。シオ・バイケルが出演しないことには何の理由も述べられていないが、ディランが出ないのは「『映画の仕事』があるため」と書かれていた。これは恐らく、ディランがABC-TVの番組『ステージ'66』の作業をしていることに言及していると思われる。『シング・アウト!』誌の記事中で引用符付きで『映画の仕事』とあるのは、これがディランか彼の代理人の発言だった可能性を示唆している。
 ロバート・シェルトンは、1966年のフェスティヴァルには1965年の記録的な人出に十分対抗しうるレベルの人出があったと述べ、ジョーン・バエズ等の大物数人が出演を取りやめていることを考えると「注目に値する」数字だったと記している。シェルトンは「ボブ・ディラン、ポール・ストゥーキー、メアリー・トラヴァースをはじめ、アルバート・グロスマンとジョン・コートのマネジメントに属しているミュージシャンの殆ど全員が出演しなかった」とも書いている。
 もしディランが1966年7月24日にニューポートに出演していたなら、1966年7月29日朝にオートバイ事故を起こす前に行なった最後の公演となっていただろう。


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オートバイ事故後

 ロバート・シェルトンがオートバイ事故のニュースを最初に耳にしたのは、ラジオで短いニュースを聞いたディランの父親から、その日の夜遅くに電話をもらった時だった。シェルトンは「詳しい情報はないかと思って『ニューヨーク・タイムズ』紙に電話をした」のだが、この新聞社はそれ以上の情報は持っておらず、その後数日間はニュースを報じることもなかった。同紙を含むマスコミがやっと事故を報じるようになったのが1966年8月2日(火)なので、グロスマンは1966年8月1日(月)に何らかの声明を出したに違いない。この時のマスコミ報道から判断すると、この声明は短く、詳細に欠けるものだったようだ。
 ディラン研究家の間では、事故の時点でのディランのツアー計画に関して、一致した見解はない。
 当時のさまざまなイベントに詳しく、ディランとは個人的に近い存在だったシェルトンは、「近い将来、アメリカ国内で64公演を行なうことを、グロスマンは計画していた」と書いている。「計画」という言葉は「ブッキング」(ある研究家はこの言葉を使用している)と必ずしも同じ意味ではないが、「非常にきつい」(別の研究家の言葉)スケジュールであることは明らかだった。シェルトンがいつ頃の期間をさして「近い将来」と言っているのか定かではないのだが、64公演というのは、1966年末までに行なうべきコンサート数だとするとかなり多いと言えるだろう。後にシェルトンは「グロスマンは1966〜67年に60公演以上を計画していた」と言っているので、グロスマンが半年先まで(1966年8月から1967年1月)の計画を立てていたのだとしたら、この期間に64公演を行なうとなると、毎週末に2〜3公演ずつというペースであろう。
 この64公演の契約に関しては殆ど何の情報もない。宣伝も、地元紙での発表もなく、チケットも発売されておらず、何の痕跡も残っていないので、詳しい情報が皆無であっても驚きではない。しかし、いくつかのものはドキュメントが存在するのだ。


1966年8月6日(土)
イェール・ボウル(コネティカット州ニューヘイヴン)


 プレス・リリースがグロスマンから発せられてたならば、非常に差し迫ったものであるこのイェール・ボウル公演に触れていた可能性が高いだろう。オートバイ事故を報じた『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事は極めて短く、今後予定されているショウについては「土曜日の晩にニューヘイヴンのイェール・ボウルで行なわれる予定のコンサートはキャンセル」と記されていた。『ニューヨーク・ポスト』紙はもう少し詳しく、「マネージャーのアルバート・グロスマンによると、今週の土曜日、ニューヘイヴンのイェール・ボウルに出演する予定はキャンセルし、少なくとも2カ月は安静にしている必要がある」と報じている。ということは、1966年10月より前にはコンサートはやる予定はなかったのだろう。
 他のコンサートについては詳細は全くわからないし、この活動休止の影響についてもわからないのだが、恐らく、グロスマンのオフィスが各地のプロモーターに連絡をして、コンサートがキャンセルになる可能性があることを告げ、既に手配をしてあったものを取り消したと思われる。
 最初の記事が掲載された翌日の『ニューヨーク・タイムズ』紙には、イェール・ボウル公演に関する追加情報が載っていた:「手持ちのディラン公演のチケットで、土曜日の午後8:30にフォーレスト・ヒルズ・スタジアムで開催されるザ・ママス&ザ・パパスとサイモン&ガーファンクル公演を見ることが出来ます」 ということは、この新聞がグロスマンのオフィスを取材したのか、グロスマンが続いてプレスリリースを発表したのかのどちらかであろう。
 『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、その年の夏、イェール・ボウルでは1966年7月9日から8月12日にかけて複数の「ポップス・コンサート」が開催されており、予定されていたディランのコンサートもその一環だったようだ。青年商工会議所がスポンサーだったので、ニューヘイヴン青年商工会議所会員がチケットの交換を告知した。$4.50のディランのイェール・ボウル公演のチケットは、フォーレスト・ヒルズで行われるコンサートのチケットと交換することが出来た。もしくは、コンサート事務局本部に直接来るか郵送で払い戻しを申し込むことも出来た。バリー・テニンという人物はチケット代の返金について地元のラジオでアナウンスがあったのを覚えている。
 ディランのドラマーだったミッキー・ジョーンズは、ディランから直接電話があって、事故のせいでリハーサルが出来ないので、ニューヨークに来る必要はない、そのうちまた連絡をすると言われたらしい。イェール・ボウル公演については何かを言われたという記憶はないが、次の2公演については話があったという。


1966年8月13日(土)
ウィリアム・A・シェイ・ミュニシパル・スタジアム(ニューヨーク州ロングアイランド、フラッシング)


 このコンサートは「コンサート・アット・ザ・シェイ」というシリーズの一環で、ディランが出演するコンサートや他のパフォーマーのコンサートを宣伝し、チケットの申込用紙も兼ねていたチラシは、少なくとも1カ月前には作られていたものと思われる。
 ミッキー・ジョーンズの記憶によると、ショウはピーター・ポール&マリーと一緒に行なう予定だったとのことであり、これはこの宣伝チラシからも確認することが出来る。ピーター・ポール&マリーがオープニングを務めてショウの前半を担当し、ディランとバンドが後半のステージを務め、この時はエレクトリック・セットのみの予定だったとも、ミッキーは述べている。
 ダブル・ヘッドライナーという形式にしたのは、大会場を満員にする可能性を高めるため、もしくは、少なくともコンサートを商業的に実行可能するために必要だったのだろう(絶対にそうだったとは言い切れないのだが…)。ビートルズの1966年8月23日のシェイ・スタジアム公演でさえソールドアウトとはならず、55,600席のうち11,000席ほどが売れ残っていたのだから。

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 この話にはオマケも付いていた。ディランのショウの約1カ月前に、プロモーターのハリー・ブルームフィールドは、ニューヨーク市の認可委員会から彼が計画していた「コンサート・アット・シェイ」シリーズ用に受領した金を全部返金するよう命じられてしまった。数年前に税金滞納で有罪判決を受けているので、シェイ・スタジアムの使用は認められないことが判明したからだ。それに加えて、ブルームフィールドが数週間前に行なった「バットマン」と「ザ・リドラー」らのショウが「大失敗」に終わり、10万ドル以上を失っていたブルームフィールドは、起死回生のためにディランのコンサートを相当あてにしていたようだ。『ヴァラエティー』誌は「ブルームフィールドにとって、ボブ・ディランが出演する予定の8月のショウは、是非とも開催したいものだった。他のショウは既に被っている損害を増やすものでしかないと思っていた」と報じている。なので、ハリー・ブルームフィールドはさぞかしがっかりしたに違いない。
 ミッキー・ジョーンズに入れた電話連絡によると、オートバイ事故がなかったら、ディランはシェイ・スタジアム公演はやるつもりだったようだ。


1966年8月14日以降
モスクワ(ソ連)


 ミッキー・ジョーンズは「翌日、オレたちはモスクワに発つ予定だった。ロシアで演奏する史上初のロックンローラーとしてね。超いかすぜって思ってたんだけどな」とも付け加えている。
 「翌日」とはシェイ・スタジアム公演の次の日である。1966年8年14日にニューヨークを発って、東の方向に、太陽の動きとは反対に飛ぶことになるので、コンサートを行なう予定があったとしたら、早くて8月16日(火)か、1、2日程度後だったのかもしれない。
 費用がかかる長距離の移動となると、たった1回しかコンサートを行なわないというのは考えられないのだが、鉄のカーテンの向こう側、もしくは、西ヨーロッパにおいて、他のコンサートが計画されていたのかどうかは不明だ。


1966年9月?
ハリウッド・ボウル(カリフォルニア州ロサンゼルス)


 ハリウッド・ボウル公演が計画されていたとクリントン・ヘイリンは言っているのだが、証拠となる文書は全く見つかっていない。9月にショウが行なわれる予定が本当にあったのだとしたら、ショウまでの期間があと1カ月を切った頃に、その発表や宣伝をするというグロスマンのいつものやり方を考慮に入れると、発表や宣伝はまだ行なっていなかった可能性もある。
 だが、発表されていたショウが1つある。


1966年10月6日(木)
バーリントン・メモリアル・オーディトリアム(ヴァーモント州バーリントン)


 ヴァーモントのバーリントン・メモリアル・オーディトリアムで行なわれる4つのコンサートを宣伝する、横12インチ、縦22インチの厚紙に印刷されたポスターが、1枚残っている。最初のコンサートは1966年9月16日(金)のオデッタとザ・ポゾ・セコ・シンガーズで、最後の2つは10月20日(木)のピーター・ポール&マリー、11月5日(土)のイアン&シルヴィア。残りの1つが1966年10月6日のボブ・ディランだった。
 地元のプロモーターであるヴァーモント結核衛生協会が4つのコンサートを1つのポスターで1度に宣伝してしまおうと思わなかったら、ディランのコンサートは宣伝されなかった可能性が高い。最初のコンサートが9月中旬なので、ポスターは1966年8月中旬かそれ以前から貼るために印刷されたであろう。その頃、グロスマンのオフィスから出されたメッセージは、ディランは2カ月間はコンサートはやりませんというものだった。

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 このポスターは、前述の1964年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルのプログラムに掲載されていた広告と共通点がある。どちらも4組のアーティストのコンサートをまとめて宣伝する形式で、しかも、全員がアルバート・B・グロスマンのマネジメント組織に属している。
 その年の夏、ヴァーモント州ミドルベリーに滞在していたクリス・ワーナーは、地元のラジオ局で「ボブ・ディランが今年、バーリントンに来ます。詳しい情報はこの後伝えますので、チャンネルはそのままに」というニュースが放送されたのを覚えているが、チケットの情報については覚えていないという。このニュースは地元のプロデューサーからラジオ局に提供されたものであろう。
 1966年のディランのバーリントン公演のプロモーターは1965年の時と同じだった。ディランの1965年のコンサートについては「ポスター剥がしが伝染病のようにバーリントンで流行し」、しかも、ヴァーモント結核衛生協会はコンサートから3100ドルの収益を上げている。グロスマンもしくはディランは、1966年のコンサートをキャンセルした際に、同じくらいの金額を同協会に寄付したのだろうか?


1966年10月12日(水)〜14日(金)
ヒルトン・ホテル(イタリア、ローマ)


 1966年10月8日付の『ビルボード』紙には「第3回イタリア歌謡バラ祭」に関する長々とした記事が掲載されている。同紙のローマ特派員が書いたこの記事は、10月12〜14日に同市のヒルトン・ホテルにあるカヴァリエリの間(Salone dei Cavalieri)で開催されたこのフェスティヴァルの様子を詳細に伝えているのだが、こちらにはディランの名前は一切登場しない。が、このメインの記事を補足する短い記事には、出演予定だったアーティストの名前が載っているのだ。『ビルボード』紙のニューヨークのオフィスが用意したこの記事によると「10月12日から始まる第3回バラ祭にはボブ・ディランとジョーン・バエズが出演予定」となっている。
 数日後、CBSはこれを否定する声明を発表している:「業界誌に載っている情報は…誤りです。ボブ・ディランは7月29日にニューヨーク州ウッドストックにおいて、オートバイ事故で骨折し脳震盪を起こした後、かなり回復しているものの、1967年3月よりも前に予定しているコンサートはない」

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 翌週の『ビルボード』紙には、グロスマンの事務所で働いているスタン・ポスナーの発表に基づいて、最初に掲載した情報を引っ込めている。『ビルボード』誌の訂正記事とコロムビア・レコードのマスコミ発表の言葉遣いが似ていることから考えると、後者にはポスナーの名前は出てこないが、彼が内容に誤りのある記事を発見した後、ただちに『ビルボード』紙とレコード会社に連絡を取ったのかもしれない。
 バエズと一緒であろうがなかろうが、ディランのローマ歌謡祭出演は、グロスマンの計画の中にはなかったと考えられよう。


1966年11月
フィルハーモニック・ホール(ニューヨーク州ニューヨーク)


 『メロディー・メイカー』紙のニューヨーク特派員はディランのオートバイ事故を報じた際に、「キャンセルとなるであろう公演の1つ」としてイェール・ボウル公演の中止について触れた後、「医者によると、回復には2カ月かかるだろうとのこと」と述べ、「11月のニューヨーク・フィルハーモニック・ホールでのコンサートは、今のところは、行なわれる予定だ」と書いている。
 ディランの事故の2週間ほど前に『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』紙は、「9月に行なわれるニューヨークのフィルハーモニック・ホール公演から全国ツアーを開始する」と報じているのだが、この書き方だとイェール・ボウルとシェイ・スタジアムは記者の勘定には入っていなかったようである。


1966年秋
マッカーター・シアター(ニュージャージー州プリンストン)


 これは単に、出来ればいいなあと思ったもの過ぎない。1966年6月にプリンストン大学のマッカーター・シアターは、1966〜67年の年間公演予定を発表しているのだが、宣伝には「演劇!」「音楽!」「映画!」「特別なイベント」の4つのコーナーがあり、「特別なイベント」の項の一番下に「フットボール・シーズンにマッカーターで開催される秋のフォーク・スペシャルには、ボブ・ディラン、イアン&シルヴィア、バフィー・セイント=マリーが登場予定」と記されていた。
 ボブ・ディランがプリンストン大でコンサートを行なうという「スケジュール」がアルバート・グロスマンによって組まれていた可能性があるとも考えられるが、確かなことはわからない。他に資料は存在しないし、マッカーター・シアターが時期尚早な発表をしたのはこの時が初めてではないからだ。
 1965年にも、マッカーター・シアターは1965〜66年の年間予定を発表しているのだが、レイアウトは殆ど同じで、4番目のコーナーの一番下には「フットボール・シーズン中にマッカーターで開催されるミッドナイト・スペシャルには、ジュディ・コリンズ、スクラッグス&フラット、そして、皆さん待望のボブ・ディランが登場予定」と記されていた。1965年後半にディランがマッカーターでコンサートを行なったという証拠は、今のところは出てきていない。1965年10月15日にはディランはここではコンサートはやっていない。その晩、この会場では確かにコンサートが行なわれているのだが、ミッドナイト・スペシャルに出演していたのはスクラッグス&フラットだった。
 これは1965年の出来事だ。1966年には、事故後の日程でプリンストン大のためにコンサートが計画されていたのかもしれないのだが、1966年6月に出た広告に載っていたからといって本当にそうだったという保証にはならない。


1967年4月第1週
場所不明(カリフォルニア州)


 ラルフ・グリースンが記事中で書いているのだが、掲載紙は不明。恐らく『サンフランシスコ・クロニクル』だろうが、日付は不明。内容から推測すると1967年2月に掲載されたものだろう。「ディランのマネジメントはホールを予約し、ここで5公演を行なう計画を立てていたが、今週、突然、公演をキャンセルした」と書かれいる。公演は4月の第1週に設定されていたのだが、「ディランがツアーを行なうことに医者がOKを出さなかった」らしい。
 以上から推測出来るのは、ツアー計画のキャンセルには3つの段階があったということだ。オートバイ事故の直後には、ディランは2カ月間----つまり、8月と9月----は公演活動はやらないという発表があり、1966年10月には、休止期間は1967年3月まで延びていたようだ。グリースンの記事からは、1967年4月以降のツアー計画が立てられていたが、1967年2月にはキャンセルされたのでは、と推測することが出来よう。
 だからといって、1966年7月の時点で、グロスマンが1966年8月から1967年4月以降まで行なうツアーの計画を持っていたことには必ずしもならないが、こうした段階を経るたびに、グロスマンと彼のチームはディランがツアー活動に復帰することを予想もしくは希望しながら、ツアー計画の見直しを行っていた可能性も、丸っきり否定することは出来ない。


1967年8月25日(金)
スポーティング・クラブ(モナコ、モンテカルロ)


 1967年4月15日付の『ビルボード』紙は、パリ特派員からの情報として「ボブ・ディランは8月25日にモンテカルロで行なわれる赤十字のフェスティヴァルに出演予定」というニュースが掲載された。しかし、同年の『ビルボード』紙には、ボビー・ダーリンがこのショウのトリを飾るという記事が何度か掲載されているので、どこかの時点で「ボビー・ダーリン」と「ボブ・ディラン」が混同されてしまったのだろう。
 ディランの契約上の立場は、この頃はまだはっきりしていなかったことから、コロムビア・レコードは記事を否定する声明は出していないのだが、いい加減な記事であることは変わらない。


いくつかの考察

 ディランの公演活動休止は、当初言われていた「1967年3月」以後も何カ月も続いており、1968年1月20日にウディー・ガスリー追悼公演に出演したのは例外的なことだった。このコンサートには、ガスリーから受けた影響に対する感謝の気持ちから出演したので、公の場での仕事というよりは個人的な感情を反映したものだった。ガスリーの死去という事件がなかったら、このコンサートは行なわれなかったであろう。
 キャンセルされたショウのリストは、最初にこの記事の原稿を書いた時点よりもいくぶん短くなっている。いろんな方々の努力と、皆さんが与えてくれた糸口によって、さらに多くのことが明らかになったからだ。インターネット上で入手出来る資料も増えたので、もはや、それらがある場所を実際に訪れる必要もない。ディランに関する調査をしたいと思う人間にとっては、これは良いチャンスである。1960年代のディランのショウに関する、これまでは知られていなかった資料が新たに出てきたら(キャンセルになったものであれ、行なわれたものであれ)、是非、お知らせください。 
 1962年12月のコーヒーハウスでのギグは特殊な事態が生じてキャンセルとなった。1964年3月と1965年2月のショウのキャンセルはディランのせいで生じたものではない。1965年9月から1966年3月中旬までのツアーではキャンセルを示す記録は皆無である。1966年3月中旬にはいくつかのコンサートがキャンセルとなっているが、その後に行なわれた海外ツアーではキャンセルとなった公演はない。
 もっと魅力的な仕事を選んだ、管理・運営側が混乱していた、発表が時期尚早だった、体調が悪かった、技術的な問題が発生した、天候悪化等の不測の事態が生じた、マスコミ報道が間違っていたなど、キャンセルの理由はさまざまだ。全部ではないのだが、多くの場合、チケットの購入者はキャンセルにがっかりして、それがローカル紙の記事になったことだろう。何か驚きの発見があるかもしれないので、興味のある方は、調査のほどよろしくお願いします。

The original article “Dylan’s ‘Lost Concerts’ Of The 1960s” by Ian Woodward
https://www.bobdylanisis.com/2-dylans-lost-concerts-of-the-1960s/


   
posted by Saved at 19:15| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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