ボブ・ディラン追っかけ談義(パート2)
http://heartofmine.seesaa.net/article/437355598.html
ツェッペリンフィールドから〈I Contain Multitudes〉まで
客席からボブを撮り続ける写真家、
アンドレア・オーランディ・インタビュー
聞き手:トレヴ・ギブ
客席からボブを撮り続ける写真家、
アンドレア・オーランディ・インタビュー
聞き手:トレヴ・ギブ
〈I Contain Multitudes〉のシングル・リリースと《Rough and Rowdy Ways》アナログ盤のインナー・スリーヴ用に使用されたこの写真を撮影した人物がアンドレア・オーランディだ。これでアンドレアと写真は永遠にディランの歴史の一部となった。
アンドレアが写真を紹介しているページ:『Andrea Orlandi Shoots In The Dark』
● 最初にどこでディランのコンサートを見たのですか? その時の感想は?
1978年7月1日、ニュルンベルクのツェッペリンフィールドです。ボブのファンになって10年ほど経っていました。2、3歳年上のいとこたちが、私にボブの音楽を教えてくれました。皆でレコードで〈Don't Think Twice〉を聞いた後、いとこのひとりがギターでそれをフィンガーピッキング・スタイルで弾いてくれました。
でも、ボブに恋をしてしまったのは《Bringing it all Back Home》を聞いた時です。あの声! あの歌詞! 新しい視野、新しい世界が開けました。1969年のことでした。作品全部を知ってるわけではなかったので、その後の数カ月間は、レコード・ハンティングに出かけて未知のレコードをたくさん買って楽しみました。
出るのと同時に買った初めてのアルバムは《Nashville Skyline》でしたが、《John Wesley Harding》を聞くのにはもう2年かかりました。ニュー・アルバムを聞いて一番驚いたのが《Blood On The Tracks》でした。1974年1月にイタリアの新聞の第1面に載った記事で、ボブがザ・バンドと全米ツアーを開始したのがわかったのに、その時は私にはライヴ・コンサートを見に行くすべが微塵もなくて、どんなに悔しかったことか…。
さらに、それからわずか2年後、ボブは再びツアーを行なったのですが、今度もまたアメリカだけでした。全国放送のテレビでライヴ・ショウ『Hard Rain』を見れたのはラッキーでしたが、それで満足出来たわけではありません。不治のディラン病にかかっていた私は、ディランのマテリアル、記事、本、レコード、写真、関係者のレコード等、ボブに関連するものだったら何でも探し求めました。
仲間がいたのはいいことでした。4人のいとこのうち年下のほうの人が----私より2歳年上でしたが----同じハンティング・チームの一員でした。いつの日かボブのライヴ・ステージを見る機会があるとは、私もいとこも考えてすらいませんでした。
ところが、《Street Legal》が出たんですよ。このレコードは大好きです。このレコードと同時に、当時イタリアで有名だった音楽誌『Ciao 2001』に突然、広告が載ってたんです。7月1日のドイツ、ニュルンベルク公演を見に行くバス・ツアーのものが。イタリアのいろんな都市から出発し、ショウのチケットも込みというものでした。自分の目が信じられませんでした。バスのオプションはいらなかったので、私たちはチケットだけを申し込み、いとこがスピードの出るアルフェッタ[アルファロメオが1972〜84年に製造していた小型乗用車]を持ってたので、アウトスタラーダ[イタリアの高速道路]とアウトバーン[ドイツの高速道路]を通ってニュルンベルクまで移動しました。700kmの距離を6、7時間かけて会場に到着しました。私の運転で前日の夜の11時に出発して、翌朝の6時30分に着きました。
右のイケメンがアンドレア
このコンサートは絶対に忘れることのない人生最大の体験です。ショウはあらゆる期待を超越していました。ライヴ・ショウについての事前の知識はなく、数日前に《Street Legal》を聞いてはいたので、バンドについては知っていました。でも、あんな素晴らしいリズム&ブルース、パワーと感情に溢れた音楽を聞くことになるとは思ってませんでした。ボブの前に登場したエリック・クラプトン&ヒズ・バンドより大きな音だったんですから。
ボブがジャンプしながらステージに登場して、〈Baby Stop Crying〉が最初の曲でした。『Hard Rain』バージョンとは似ても似つかない〈Shelter From The Storm〉には少しがっかりしたのを覚えてます。長年のフラストレーションがたまってた時に、よく知ってる曲の新バージョンを聞いてビックリというのは、これが初体験でした。
〈It's All Over Now Baby Blue〉を歌い始めた瞬間は今でも覚えています。これこそボブ・ディランのライヴ体験の真骨頂です。数曲後に〈Like A Rolling Stone〉が登場しました。私の魂の奥底にヒット。命中です。私は涙を流していました。
参考:当ブログで紹介したニュルンベルク公演に関する記事
1978年7月1日ニュルンベルク公演の思い出
http://heartofmine.seesaa.net/article/450086646.html
● ディランのコンサートを撮影し始めたのはいつですか?
最初のニュルンベルク公演からです。私は既に写真を撮るのが大好きでしたが、音楽のコンサートはまだ撮影したことがありませんでした。ディランに関してはあれが私の初トライです。次は1981年ロンドンです。それから1989年まで長いギャップがありました。その頃には、コンサートを見るのに撮影しないなんてあり得ないと思うようになりました。
1981年6月26日アールズコート
● 長年撮りためてきたものの中で、お気に入りの写真はどれですか?
私は自分の撮影したコンサート写真を判断するのに、技術的な鑑識眼を使うのではなく、写真から伝わってくる感情に浸ってしまうほうです。少なくとも私はそうです。こういう態度ゆえ、深く心に刻まれたショットがいくつかあります。
ブルース・スプリングスティーン、ボブ・ディラン、ニール・ヤング
ローズランド・ボールルーム
ローズランド・ボールルーム
最初に脳裏に浮かぶ写真は、ローズランドでステージの下から撮影したフル・バンドのショットです。ボブとブルースとニールがギターを持ってるなんて、なかなか珍しい3ショットです。
〈Dark Eyes〉を歌うボブ・ディランとパティー・スミス
ボブとパティーが互いに顔を寄せて、1本のマイクに向かって〈Dark Eyes〉をハモっている写真もいいですね。フィラデルフィアのエレクトリック・ファクトリーで撮影しました。ミラノでハーモニカを吹きながらヴァン・モリスンとマイクを分け合う写真も思い出深いです。
最後は1996年のザルツブルク公演の写真です。〈I Contain Multitudes〉のビデオと《Rough and Rowdy Ways》のインナースリーヴ用にボブが選んだものです。
ボブ・ディラン 1996年ザルツブルク
● パティー・スミスのお母さんについての話を聞かせてください。
フィラデルフィアで撮影したフィルムを現像した後、ボブとパティーが一緒に歌ってる写真をパティーに送ろうと思ったのです。数カ月後、フィラデルフィアから手紙が届きました。パティーのママからでした。パティーがボブと一緒に写ってる写真を送ってくれてありがとうって書いてありました。その頃、パティーのママとパパの結婚記念日に、パティーとバンドのメンバーもやって来て、大きなファミリー・パーティーを開き、あの写真がその晩のハイライトだったってことを、私に知らせたかったのだそうです。素敵なレディーですね。感動しました。
パティーに声をかけるアンドレア
この手紙の2年後、シドニーの書店で行なわれたパティーの朗読イベントをお手伝いする機会がありました。パティーはあるアーティストにツアーに同行させて、ドキュメンタリー・フィルムや写真を撮影していました。最後には本のサイン会があったので、私はそれが終わるまで待ちました。私は2年前に送ったフィラデルフィアでのボブとのツーショット写真を大きく引き延ばして持って行ったんです。挨拶をして、このプリントをプレゼントするやいなや、パティーは手で口を覆いながら大きな声で陽気に笑い出しました。映画監督が右後ろにいたんですが、パティーは彼のほうに振り向くと、写真を見せながら大声で言いました。「見てよ。写真はこうでなきゃ!」って。
● これまでにどんな友人と出会いましたか?
こういう質問の時の決まり文句ですが、話すと長くなりますよ。ボブのツアーの追っかけと言っても、最初の数年間は2、3ショウしか見ませんでしたが、それでもたくさんのファンと出会いました。一緒に移動したり、食事をしたり、ホテルの部屋をシェアしたり、客席で一緒だったり、ドアが開くのを待ったり…。私たちは同じ情熱を持っていて、しかも、真剣なので、そうすべき理由をわかってたんです。世界中の素晴らしい人と出会って友達になるのは、一生ものの貴重な体験になるだろうって。ボブのツアーがあったからこそ、一生のうちに出会うチャンスがあったんだって。
1980年代にはクラウディオ、カルロ、マウロというイタリア人の友人が出来ました。ジョン・ヒューム[追っかけ写真家として有名]とは1990年代前半からの友人です。素敵な女の子もたくさん。ジョン・ボールディー、ポール・ウィリアムズ、グレン・ダンダス、ビル・ペイゲルといった皆から高く評価されているディラン研究の権威たち。そして、ピーター・ストーン・ブラウン。ピーターとは2018年12月にフィラデルフィアでやっと会えました。アンディー、ボブ、トミー、ダンカン、デイヴ、ティムといった愉快なことにかけては無敵な友人がいると、追っかけが楽しくなります。多過ぎて、全員は紹介出来ません。
● ディランのツアーを長年追いかけていて、何か素敵な話はありますか?
1991年の初夏には、イタリアからデンマークでの最終公演までツアーを追いかけました。カルヴォイヤ[ノルウェーの都市]で、マーティン・フェルドマンとサム・ディランとお話をする機会がありました。イタリアにいた時から、ふたりがオフの日やショウの前にサイクリングによく出かけてることに気がついていました。私の仕事のクライアントが自転車関連用品を作ってる会社のトップだったので、サドルと当時としては新製品のサイクル・コンピューターをプレゼントしたのです。サムとはホテルで一緒に朝食を食べるくらい親しくなり、この良い関係は今でも続いてます。ロサンゼルスとニューヨークでもコンサートの会場で会いました。ロスのソニー・シアターでは、サムは友人たちと一緒にロッジにいました。デザレイ[ボブとキャロライン・デニスとの間にできた娘]もパートナーと一緒に私のすぐ近くの前の方の列にいました。
休憩時間にバーに向かっていたら、サムと友人が通路に立っていました。サムは私と息子が通るのを見て、あたたかく声をかけて挨拶してくれて、友人たちには、私たちが90年代前半のヨーロッパ・ツアーの時からの知り合いだと説明しました。そして、「アンドレア、今まで何回ショウを見てるのか、こいつらに教えてやってくれよ」なんて言うのです。恥ずかしいので、失礼にはならないように回答を断ろうとしたのですが、しつこく訊いてきます。サムが遂に私の意向をわかってくれたと思ったら、突然、息子に訊きました。「キミなら知ってるよねえ」って。息子は回答することを辞退せず、しかも、私を裏切らない(少なくとも、完全に裏切ったわけではありません)やり方を見つけて答えました。「ボクが見たのは110回だよ、サム」って。
● ディランと会ったことはあるのですか? どんな出会いでしたか?
何度か会ったことはありますが、最初の機会にはこんな経緯がありました。1991年6月に私はイタリア公演を全部見に行き、ミラノが最終公演でした。ユーゴスラヴィアとの国境に近い町から来た2人の友人も一緒でした。
1日オフがあって、次のショウは2日後のリュブリャーナ公演でした。イタリアとの国境から1時間ほどの小さな都市です。まさにその年にはユーゴスラヴィアは崩壊しかけていて、リュブリャーナのあるスロヴェニアは、ベオグラードにある共産主義の政府に戦争を仕掛けようとしていました。
私は自分の彼女と----今では私の奥さんです----別のカップルと一緒にショウの前日にその町に行くことにしたので、ホテルを予約しました。当時のディランのツアー・スタッフの重要人物とコネが出来るチャンスがあったからです。このホテルには最上階にレストランがあったので、ショウのある日の前の晩に、4人でディナーを楽しむことにしました。
レストランのある階に行くためには、エレベーターに乗らなければなりませんでした。その扉は大きなレストランの前で開きます。テーブルについてディナーを食べてる人は誰もいませんでした。いるのは私たちだけでした。15〜20分後に、知ってる人物がエレベーターから出て来ました。20代の男2人と一緒でした。
彼らは誰もいなかったテーブルに座りました。その大男は目と顔と手で私たちにメッセージを送ってきました。どこにも行くな。おとなしくしていろ。落ち着きを失うな。でも、そうしていれば、とてもいいことが起こるぞって。
突然、エレベーターのドアが再び開きました。小柄でカーリーヘアの、よく知ってる人物が黒髪の女性と一緒にレストランに入って来ました。テーブルは10卓あって、人がいるのは2卓だけ。1つには私たち4人が座っていて、もう1つは大男と2人の若者が座ってました。ボブたちは部屋の隅のテーブルに座りました。私たちから3つ離れたテーブルでした。
私たちはディナーを出来るだけ長引かせようと頑張りました。
私たちはウェイターに頼んで、店にある一番上等な赤ワインを、「私たちからのプレゼントです」という手書きのメッセージを添えて、隅に座ってるカップルに届けてもらいました。ボトルがテーブルに届けられると、彼らはウェイターと少し言葉を交わし、こっちを見ました。ボブは少し笑いながら、私たちのテーブルに向かってありがとうのジェスチャーをしました。
遂に彼らがディナーを終えてテーブルから立ち上がった時(エレベーターのドアまでは8メートルくらいの距離でした)、私は自分のエゴと戦いました。3、4秒のうちに決断しなきゃと思いました。何が起ころうとも、それを横目で見ながらじっとしているか、ボブがエレベーターで自分の部屋に戻るのに私たちのテーブルの2メートル先を歩く以外の選択肢がない時にハローと言うか、席から急いで立ち上がって、こっちからボブに近づくか。
私は普段はそんなに社交的ではなく、誰かの前にしゃしゃり出てって自己紹介をするような人間ではありません。なので、私の若い頃の夢を形作った人物に対して、20年以上崇拝してた人物に対して、そんなことをするのは、私の能力を超えていました。
ボブ一行がエレベーターのドアまで行くために私たちのテーブルとレストランの壁の間を通過する際、私はこれが一生に一度のチャンスだと判断して、席から立ち上がって、自分のヒーローに自己紹介して話しかけました。誰にも邪魔されずに、誰にも迷惑をかけずに、それをやってのけたのです。自分がこんなことをするなんて信じられませんでした。私がディランに自己紹介して、握手をし、肩を抱いてる様子が自分の耳に聞こえてきた時、本当に自分がこれをやってるか?と思いました。もう1回コンサートを見たくてイタリアからこっちにやって来たということ、最初に見たコンサートがニュルンベルクのツェッペリンフィールドだったことを伝えると、ボブは私の手を握って「オゥ! イタリアの人! イタリアは人も国も大好きだよ。ワインありがとう」って言いました。そして、ボブたちはエレベーターに乗ると、さよならをしました。
● お気に入りのNETショウはいつのものですか? ディランを追っかけるようになってからのお気に入りの瞬間は?
1994年ローズランド 3日連続公演で、最終日にはニール・ヤングとブルース・スプリングスティーンが客席にいて、最後の2曲で飛び入りしました。
サパー・クラブ 1晩に2回ずつ、2日で4回のショウをやった思い出深い晩です。美しい小クラブで、1993年のバンドで、エレクトリック・ギターは使わないで行なったコンサートです。《World Gone Wrong》の曲がいくつか初めて披露され、〈Queen Jane〉〈Tight Connection〉〈Ring Them Bells〉〈One More Cup of Coffee〉など、ライヴでやるのがレアな昔の名曲や、ここでしか歌ってない曲が歌われたという点で、これに匹敵するショウはありません。
ルーン・マウンテン 1997年には病気が原因でヴァン・モリスンとのEUサマ・ツアーはキャンセルになってしまったため、8月にヴァーモント山脈のスキー場からUSツアーが始まりました。心臓の疾患と聞いて私たち全員ヒヤリとしましたが、その数カ月後に、昼の日に照らされながらステージに立ち、私たちの数メートル前で歌うボブを見るのは、2度と体験出来ないことでしょう。
モントリオール 病み上がり後の最初のショウの1つですが、あの晩のコンサートが心に残ってるのは、皆が驚いたことに、〈Blind Willie McTell〉をライヴでは初めて歌ったからです。ザ・バンドのカバー・バージョンのようなアレンジでした。思いがけない曲でした。
リック・ダンコ 同じく1997年の夏のツアーですが、ボブはウォリングフォードでリックと 〈This Wheels on Fire〉を歌ったんです。リックは数年後に亡くなってしまいました。
● NET初期のツアー・メンバーとは知り合いなんですよね。チャーリー・クィンタナ、ビッグ・ジム[ローリング・ストーンズが暇な時にはボブのボディーガードをやっていた]、ウィンストン、JJ[ジョン・ジャクスン]等との楽しい思い出を聞かせてください。
チャーリー・クィンタナとは1992年7月にレッジョ・エミリアで会いました。ビッグ・ジムが紹介してくれたので、コレジオ公演の前に皆で一緒にランチを食べに行きました。私たちはすぐに打ちとけました。話していてとても愉快な人物でした。
その後のショウでは随分助けてもらいました。バックステージに入れてくれたり、チケットの入手が大変なショウではパスの都合をつけてくれたり…。
チャーリーのディラン・バンドでの最後のショウとなるオマハ公演の後、私たちは飲みに出かけて、酒をたらふく飲みました。
すると、彼からこんなことを頼まれました。「オレがバンドから離脱した後は、親友のウィンストン・ワトスンを雇ってくれってボブに薦めたんだ。カンザス・シティー公演がこいつの1回目になるんで、ショウの前にこれこれのホテルに行って、励ましてやって欲しい」って。もちろん、そうしましたよ。
JJも私が知り合いになったディラン・バンドのメンバーの中で超いい人です。初めて会ったのは1991年でしたが、JJも私も今よりずっと若くて、彼がボブとツアーをしていた6年間には、何度も会って話をしました。とてもソウルフルな演奏をする素晴らしいギター・プレイヤーです。
ビッグ・ジムは、この25年間、ボブのショウに行っても会えなくて寂しい人物です。1994年5月にツアーから離脱した後も、時々はツアーに参加していましたが、ビッグ・ジムの不在は埋められない大きな穴です。
● 長年に渡り、バンドが変化するたびにどういうふうに感じましたか? どのラインナップが好きでしたか? どのバンド・メンバーからいちばん感銘を受けましたか?
生まれるのが遅過ぎてボブ・ディラン&ザ・バンドを見ることは叶いませんでした。1975年と76年のRTRも見るチャンスはゼロでしたが、幸運なことに1978年以後のバンドは全部見ることが出来ています。
最高のラインナップを作ることなんて出来ないと思います。ボブがツアーに同行させたどのバンドにも、ボブの実演奏家としての人生のうちの、ある特定の時期に持っていたある特定の方針にフィットしていました。
私は《Street Legal》バンドの持つ音のインパクトに仰天しました。特にアラン・パスカのオルガンのタッチ、スティーヴ・ダグラスのサックスとフルートによる色づけ、スウィートで時には激しく荒れ狂うデヴィッド・マンスフィールドのバイオリン、ビリー・クロスのレスポールから出るリッチなヴィブラートが好きでした。
《Street Legal》バンドはディランがライヴのサウンドを最もガラッと変えた例で(ボビー・ブルー・ブランドから影響を受けたと語っています)、リズム&ブルース寄りでした。
昔の名曲の真髄を演奏で表現した最も優秀なグループは《Saved》/《Shot of Love》ツアー・バンドです。ケルトナーとドラモンドのリズム・セクションが推進力となり、優秀なギタリストが2人いて、バック・ヴォーカルのゴスペル・シンガーはこの時が最高でした。
1986年、1987年のツアーは評価が低いですが、グレイトフル・デッドとトム・ペティー&ザ・ハートブレイカーズがどれほど優秀なバンドだったのかってことは、説明の必要はないでしょう。
1988年以後のNETバンドはあまりにたくさんありすぎて全部の説明は出来ませんが、1993〜1996年のラインナップ、1999〜2002年のラインナップ、2019年秋のツアー・バンドが、ボブの過去32年のライブ・ヒストリーの重要な要素であることは、否定出来ません。
私は1993〜96年のラインナップに愛着を持っています。優れたミュージシャンによって演奏されたショウ、サウンド、歌に関する素敵な思い出がたくさんあるからです。
1999〜02年のバンドではギターの絡み合いが最高です。
● ニュー・アルバムに使用されている写真が自分が撮影したものだと気がついたのはいつですか?
最初に〈I Contain Multitudes〉のビデオに使った時です。朝、まだ殆ど寝てる状態で携帯電話を掴んで時間を確かめた後、ネットを見て最初に現れたのがVevoのアプリから流れ始めたこのビデオでした。最初は混乱して、誰かが冗談で私の写真をビデオに使ったのかなあと思いました。でも、耳に馴染んではいない曲です。新曲でした。でも、どうして私の写真? 誰がそれを使ったの?
曲が半分くらいのところに来てやっと、これはソニーのよる新曲の公式リリースなんだとわかりました。私が1996年にザルツブルクで撮影したエレキギターを持つボブの写真をソニーが使ったのです。
● アルバムのヴァイナル・リリースのほうでは写真は大々的に使われていますが、どんな気分でしたか?
4月17日早朝に、初めてネットで〈I Contain Multitudes〉を見た時に私が思ったことを説明することの出来る言葉はそう多くはありません。しかも、その後、《Rough and Rowdy Ways》のアナログ盤のジャケットを見た時、1960年代後半に初めてボブの音楽を聞いて以来、買うことの出来るアルバムは全部買い、熱心なファンを長年続けてきた後、やっと認められたんだと思い、鼻高々やら嬉しいやらでした。
● 写真の件でディランのスタッフとは話しましたか?
ええ。今は、満足のいく素敵な経験だったとしか言えませんけどね。
● ニュー・アルバムの感想は? 好きな曲、お気に入りの歌詞はありますか?
私は音楽評論家ではありませんし、既にいろんな人がいろんなことを言ってます。いいとか悪いとか。既に言われてること、書かれてることに、さらに気の利いたことを私に付け加えられるとは思いません。
私の気に入ったレビューは、友人であるアン・マーガレット・ダニエルとハロルド・レピドゥスが書いたものです。ピーター・ストーン・ブラウンが生きてたら、このアルバムにどうコメントしてたかなあ…。
とにかく、優れた作品だと思います。最高傑作の1枚でしょう。音楽もとてもいいです。新しいオリジナル曲が何年も皆無だった後だけに、大きな驚きでした。レコードでもステージでも、アメリカン・ソングブックのカバーの期間が何年も続いたので、そうして自分の曲の新たな表現方法を発見したんでしょう。ボブは再度、自己改革に成功したわけですよ。
このレコードは過去30年間でベストなヴォーカルだと思います。
今この瞬間、私の好きな曲は〈Key West〉です。時点は僅差で〈I've Made Up My Mind To Give Myself To You〉です。
● ボブ・ディランの本についてどんな計画をお持ちなんですか? いつ執筆して、いつ発売し、どのような形で世に出す予定なんですか? 写真を年代順に並べるのですか? 写真と一緒にショウのレビューやツアーの話も載せるんですか?
何年もの間、ずっと考えてるんですけどね。作業を始めかけたこともあるんですが、いつも先延ばしにしてしまいます。時間がないですし、どういうふうにまとめたらいいのかもわかりません。やるべき時が来ているとは思うんですけどね。写真と物語の本になるだろうとは思います。
● 将来もディランのコンサートを追いかけ続ける予定ですか?
主がそれを望み、何の問題も起きないならば。['If the Good Lord’s Willing and the Creek Don’t Rise'----古いカントリー・ソングの歌詞を引用しながら]
● ディランを撮影したカメラマンで好きな人は誰ですか。
アニー・リーボヴィッツとケン・リーガンです。
The original article "Andrea Orlandi from Zeppelinfeld to the photo for 'I Contain Multitudes'" by Trev Gibb
https://www.peterstonebrown.com/2020/08/16/andrea-orlandi-from-zeppelinfeld-to-i-contain-multitudes/
Reprinted by permission