2020年11月05日

Wizardo回想録&インタビュー:第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生

 ピンク・フロイドのブートレッグに関する超マニアックなサイト『The Pink Floyd Vinyl Bootleg Guide』に面白い記事があるよとHKTマニアの知人が教えてくれたので、サイトの主と連絡を取って、日本語訳の掲載許可をもらいました。オリジナルの記事は超長く、恐らく原稿用紙400枚分くらいはありそうなので、1週間に1回ずつ、全5回くらいの連載にしたいと思います。是非、爆笑しながら読んでください。


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生


聞き手:スティーヴ・アンダーソン


「ジョン・ウィザードは、1980年代にロサンゼルス国際空港の近くにあったプレス工場、ルイス・レコードで、プラスチック成型機の中に落ちて亡くなった。箒の柄で目詰まりを取り除こうとしていたところ、よろけて中に落ちたらしい。彼の死体は、その時製造していたポール・マッカートニーのブートレッグの中にプレスされてしまったのだとか。再生した時に盛大なパチパチ・ノイズが聞こえてきたら、ジョンの亡骸がプレスされたレコードなのだという…」

…これ、本当の話?

 このページではジョン・ウィザードを紹介する必要はないだろうが、今、とにかく、この記事を書いている。ジョンは往年のブートレッグ・シーンの伝説の人物の1人だ。このシーンを開始したTMOQのケン・ダグラスとダブ・テイラーの話はしばしば語られているのだが、ジョン・ウィザードも1970年代のカリフォルニアのブートレッグ・シーンの、殊にピンク・フロイドに関して重要な部分を担っていた存在だ。彼は《Take Linda Surfin'》《Miracle Muffler》《The Midas Touch》《The Screaming Abdabs》《Libest Spacement Monitor》といったアメリカ製ブートレッグを代表する名盤の他、トータルで100タイトル以上をリリースした。
 ジョン・ウィザードは約45年前に操業を開始して以来ずっと、インタビューに応じることを避けてきたのだが、今回我々は、大変光栄なことにジョン本人から話を聞けることとなった。本題に入る前に、私がジョンにインタビューするための糸口を見つけてくれたのは、我が『Floydboots On Facebook』のメンバー、コリン・リーヴァー----またの名をジェイムズ・フロイド----のお手柄であることは述べておきたい。

 インタビューの第1部は回想録の形式を取っている。これはジョンが『Floydboots』用に書いたもので、彼の少年時代やブートレッガーとして活躍していた日々の思い出は必読だ。そして、その後に、我々がもっとマニアックなコレクター関連の質問をぶつけることになっている。

まずは、このインタビューに応じてくれたジョンに、私から、そして『Floydboots』のメンバー全員から、さらに広くはブートレッグ・コレクター・コミュニティーから、感謝の気持ちを表します。最初の質問は、もうお察しがついてると思いますが、過去について話すことに関して、どうして方針を変えたのですか? 私は何年もあなたを追っていたのですが、全然、捕まえることが出来ませんでした。

 ブートレッグ界を去った1990年、オレは大変な苦境に陥ってた。韓国でCDを作って、とてもうまくいってたんだが、突然、工場が閉鎖されてしまった。金の流れは止まり、パートナー連中はあてにならない、オレは酷いヤク中で、にっちもさっちもいかない状態になっていた。韓国外換銀行を通してSKCに口座振込をするというヘマをやらかして、財務省からも目を付けられていた。フィラデルフィアに積み荷としてあった《Back-Track》のCDがFBIに押収され、テキサスの業者から届いたFederal Expressの封筒に入ってた6,000ドルが何者かに盗まれた。トム・ウェイツ風に言うと、一番早く町から出るバスに乗って、新しい友人{ダチ}を作ったほうがいい頃合いだった。とにかく、一文無しというのが問題だった。ヤク中だと悪い判断をしてしまうだろ。財政的には、崖から車ごと派手に飛び降りたようなものだった。自分のいる地獄から脱出するためにライフラインが必要だったオレは、ケン・ダグラスに電話をした。ケンとは昼食を食べながらオレと会って、ここから逃げるための「緊急脱出ボタン」を押すような、金銭的援助をしてくれた。オレはその金をいいことに使った。オレの人生はケンに救われたよ。
 文字通り姿を消し、キレイになって、新たに再出発をしなければならない状況になってしまった時には、自分をそれまでの生活から完全に切り離さなければいけない。全てを捨てて、別にやるべきことを見つけなければならない。オレはそうしたんだ。この30年間、カリフォルニアの有名なアートの団体でオーディオ&ビデオ・ディレクターとして働いて、つい最近、引退した。この世で最高の女性と結婚し、南カリフォルニアのビーチ・コミュニティーに家がある。アンドレア(Vicki Vinyl)も似たような成功の道をたどって、結婚して、素晴らしい家庭を築き、オレん家{ち}の近所に家を持っている。最近では、オレは愛妻、ジーンと一緒に、たちの悪い病気の蔓延を心配しながら、家の庭の中に引きこもっている。誰かがオレが昔のYouTubeチャンネルを見つけて、あなたがジョン・ウィザードですか?と訊いてくる。あなたがウィザードですか?って訊かれた時には、いつもきまって架空の話をしていた。ジョン・ウィザードはルイス・レコードの工場内で奇っ怪な事故で亡くなりましたって。その中には、梯子や箒の柄、プラスチック成型機が登場する。
 でも、スティーヴ、キミからの返事を読んでる時、死が差し迫ってることを心配するより、昔の思い出話をするほうが楽しいかもって考え始めたんだ。キミから届いたメール、気に入ったよ。あなたのウェブサイトも好きだ。もちろん、Wizardo Recordsに興味を持ってくれてることも嬉しかった。《Take Linda Surfin’》を作った頃に、50年後もこのレコードに興味を持ってる人がいるよと言われたとしても、その意味が理解出来ず、将来を真剣に心配したかもしれない。
 その結果、オレたちは今ここにいるのさ。スティーヴ、オレはキミの質問に最善を尽くして答えよう。と同時に、横道にもそれて、オレの記憶の中で特に印象に残ってることも話そう。オレがグランパ・シンプソンのようにとりとめのない話を始めてしまったら、ためらうことなく本題に戻してくれ。さもなきゃ、うるせえ黙れと言ってくれ。ハハハ。

まずは少年時代から始めよう…。

 1969年秋、13歳だったオレは、カリフォルニア州オレンジ・カウンティーのタスティンにあるフットヒル・ハイスクールの1年生だった。[アメリカの学校制度についてはこのページを参照のこと]毎週、放課後に集まる演劇クラブで、将来、オレのレコード・パートナーとなるラリー・フェインと出会った。その秋、生徒が『Mouse That Roared』[レナード・ウィバリー作、冷戦を風刺した戯曲]上演することになっていた。ラリーとオレはそれぞれ兵士1、兵士3の役をもらった。基本的に台詞はなく、ただ通り過ぎるだけの役だった。演劇を担当していたペカラロ先生は「端役」なんてひとつもありませんよなんて言ってたが、いい役は全部、上級生に回っていた。1年生や2年生とは違って、演技が上手だったからだ。端役でないもののために強制的に長時間の練習に参加させられてる時、ラリーとオレはたっぷり時間をかけて互いをよく知り、楽しく過ごした。毎日8時間耐えなきゃならない酷い、最低の、人種差別を平気でするハイスクール教職員と管理体制が大嫌いという共通点のおかげで、オレたちの友情は強固なものになった。自分たちのいる反教育的な公立学校システムという悪と戦うために、ユーモアのセンスを使ってマンガを描くのが好きだったということでも、友情は深まった。
 当時の南カリフォルニアでは、オレンジ・カウンティーが右翼の人種差別主義団体の温床となっていて、死んだ猫を振り回したらヘイト団体に当たるほどだった。ジョン・バーチ協会、国家社会主義白人党、KKK、『タスティン・ニュース』紙は皆、裏庭にあった。こうした団体全部が、タスティンの教育委員会にメンバーを送り込んでたので、オレたちが教室で受けていた授業のカリキュラムがどんなものだったのかは想像に難くない。連中は全ての人間、全てのものが嫌いだった。特に嫌いだったのが共産主義者とヒッピー、そして今の音楽だ。こうしたものは、あいつらの目には、理解不能なものだった。そして、もちろん言うまでもなく、黒人とメキシコ人も嫌いだった。ラリーとオレは「ヒッピーのように見える」ということで何度も授業を受けさせてもらえなかった。そんな時は、家に戻って、髪を切り、自分の子供が将来、共産主義者みたいにならないよう努力しますと親に約束させなければならなかった。そうしないと授業に戻ることは出来なかったのだ。ラリーとオレにとって誰が敵かは明らかだった。そいつらはオレたちから攻撃されたくて仕方なかった。学校で上演された劇におけるオレたちの「役」は、期待に反して、校内の女子たちからビートルマニア的な反応を得ることが出来なかったので、このゲームに関しては年貢の納め時だった。
 1960年代末〜1970年代初頭、アメリカ中でいわゆるアングラ新聞ブームが生じ、そうした新聞は皆、大手マスコミが粗製濫造してる情報とは異なる内容の記事を掲載することに躍起になっていた。そこで、ラリーとオレもアンダーグラウンドな学校新聞を作って楽しもうと考えた。『ザ・トイレット・ペーパー』と名付けた新聞にはマンガや風刺たっぷりの批評や記事を掲載した。書いてあることは全て、中傷、冒涜、そして低俗なものばかりだった。生徒には気に入ってもらえたが、教職員や学校の運営当局にはそれほどでもなかった。

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(The photograph copyright c Jon Tschirgi 2020)


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(The photograph copyright c Jon Tschirgi 2020)


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(The photograph copyright c Jon Tschirgi 2020)


 当時、アメリカで起こってた他の現象は「ガレージ」バンド・ブームだった。こうしたバンドは町内に少なくとも1つはあった----ラリーの暮らしてる町を除いて…。そこで、オレたちはビリー・トフ・バンドを結成した。このバンド名にしたのは、ひとえに、バスドラムのヘッドや宣伝告知に「B.TOFF」(ビートフ)と書くことが出来たからだ。「Beat-off」(ビートフ)という言葉はスクールボーイの間ではマスターベーションを意味するスラングだった。練習は主にラリーん家{ち}のガレージや地下室でやった。ラリーのパパは古いウォレンサックのオープンリール・レコーダーを持ってたので、オレたちはそれを使って遊んだ。後に、他のブートレッグと一緒に出したWizardo B.Toff Bandのアルバムに収録したレコーディングの多くは、ここで作ったものだ。練習場所がラリーん家{ち}のガレージだったってことは、数年後に重要になる。ザ・ランナウェイズも関わってくる笑えるこの話は、もっと先に取っておこう。
 1971年のタスティンにはレコードの小売店が2軒あった。1つはビルダーズ・エンポリアム。ここは建設資材や木材の店だったのだが、なぜか中古コードも売っていた。もう1つのウィンズ・ミュージックは楽器店だったのだが、1月上旬のある雨降りの午後に足を踏み入れると、カウンターの上にレコードの入った箱が置いてあり、「ビートルズのニュー・アルバム----$3.99」と書いてあった。オレは1964年以来、ビートルズの大ファンなのだが、ビートルズの新譜に関するニュースなんて全く聞いてないんだけど…。
 8歳の時だった。サンフェルナンド・ヴァレーの実家で暮らしていた頃、オレの寝室には古い真空管ラジオがあって、夜、ベッドに入ってよく聞いていた。両親は「良質な音楽」の専門局のKGILにダイヤルを合わせていた。ある晩、同じ町に住むティーンの女の子が留守番のアルバイトとして来ていた。その子の名前は今でも覚えている。その晩、ベッドに入る時、ラジオをつけてとお願いすると、彼女はそうしてくれた。真空管があたたまって、音楽が聞こえてくると、彼女はどうしてこんなつまらないものを聞いてるのよ?と言い、ただちにダイヤルをKRLAに合わせた。その時、流れてきたのが〈Twist and Shout〉だった。ビートルズのバージョンだ。オレの人生は、その瞬間に変わった。こんな音楽はそれまで聞いたことがなかった。オレは死ぬまでビートルズ・ファンになった。
 …この「ビートルズのニュー・アルバム」とやらを手にとって、ジャケットを見た。表には「Get Back To Toronto」という文字に加えて、平和のサインと抽象的なイラストがあった。裏側には真っ白だった。レコード会社の名前はどこにもなかった。さらには、ザ・ビートルズというバンド名も記されてなかった。オレはカウンターの向こう側にいた店員のダニーに、このレコードはいったい何?と質問した。回答はこうだった。「これはねえ、確かにビートルズのニュー・アルバムなんだけど、ビートルズが作ったものでもないし、キャピトル・レコードが作ったものでもないんだ。作ったのは…犯罪者だ。ブートレッグ(密造レコード)っていうものさ!」 ダニーのせいで興味を持ってしまったオレは1枚購入し、この新しい宝物をラリーに見せびらかそうと、雨の中、せっせと自転車をこいで全速力でラリーん家{ち}に行った。そして、さらに人生が変わった瞬間が訪れた。

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 KYMSは、1970年代前半には、オレンジ・カウンティーのヒップな「アンダーグランド」ラジオ局だった。ラリーとオレはもっぱらこの局ばかりを聞いていた。オレたちはこの局が主催する無料診療所のためのチャリティー・オークションをボランティアで手伝いに行き、さまざまなラジオ・パーソナリティーと会った。ハイスクール時に親友だったデイヴィスにも会った。彼はこの局で長い間、下っ端の仕事をやっていた(デイヴィスにはグラフィック・アートの腕前があり、オレたちのために《Take Linda Surfin’》のジャケット・デザインを担当してくれた)。ラリーとオレがKYMSに行きたかった本当の理由は、そこのライブラリーには見たことのないブートレッグがあったからだ。ブートレッグに関しては、この時点ではまだ、ラリーもオレも初心者だった。知ってるものといったら、『ローリング・ストーン』誌に載ってたものや、このラジオ局で知ったものだけだった。
 まだハイスクールの生徒だったオレたちは、この非公認レコーディングという新ジャンルに熱中した。ブートレッグは入手が困難で、ヒット・チャートとは無関係というのも、その「ヒップ」な要素だった。非公認の音楽を途切れることなく供給したら、他の生徒も気に入ってくれるだろうなあと、オレたちは考えた。ラリーとオレに必要なのは、それを実現する方法を見つけることだった。つまり、卸の値段で大量のブートレッグを入手出来る場所を見つけることだった。ブートレッガーは電話帳には載ってなかったので、自分たちで探すしかなかいことは承知していた。
 ちょうどその頃、タスティンに新しいレコード店がオープンした。ラリーん家{ち}から数分のところにあるバーボン・ストリート・レコードは、新たに放課後にたむろする場所になった(オレたちは後に、ビートフ・バンドのアルバムでバーボン・ストリート・レコードの名を永久に残した)。店のオーナーのジンボが言った。「ブートレッガーから、品物を卸したいんだけどという電話があったんだが、ブートレッグを店に置いたほうがいいと思う?」 もちろん、オレたちの答えは絶対に「イエス」だ。ブートレッガーに会えるかもと思ったのは言うまでもない。時間は約束してないのだが、ブートレッガーからはいつかまた電話がかかってくるとジンボが言ってたので、その時以降、次の数日間は、ラリーとオレと交代でフロント・カウンターの周辺で張り込みをして、ジンボと本物のブートレッガーの会話を盗み聞きする瞬間を待っていた。この根気強さは遂に報われた。ラリーがカウンターのところにいた時、遂に「アール」が電話をして、ジンボにブートレッグを扱う気があるのかどうか訊いてきた。ラリーは電話番号を盗み聞きし、その48時間後には、オレたちは高校生ブートレッグ企業家になっていた。
 電話番号を入手したものの、オレたちはそれからどうしたらよいのかわからなかった。この「アール」という人物が小売店にレコードを卸してることは理解できたが、ふたりの高校生にレコードを売ってくれるのかなあ? 店を開く免許すら持ってないし。都合の良いことに、ラリーのお袋さんがタスティンに小さな衣料品店を2軒持ってるので、そこで売るためのブートレッグを購入したい、店の前の駐車場で会いたいと言えば、「アール」への説明になるだろうと考えた。もちろん、ラリーのお袋さんはそんなこと知りもしない。ということで、オレたちはそれを実行に移した。タスティンで最もオシャレな女性用衣料品店、ザ・ニュー・アンジャニューの駐車場で「アール」と会う手筈を整えたのだ。
 バーボン・ストリートで見たものから、「アール」がどんなタイトルを売ってるのか、おぼろげながらわかってはいたが、彼の到着を待ちながら駐車場で腰を下ろしてる間は、この先に何が起こるのかよくわかってなかった。午後7:00に会う約束だったのに、8:30になっても「アール」が来る気配はなかった。そろそろ諦めて、自転車をこいで帰宅しようとした時、大きな音を立てて煙を吹き出しながら、ボロボロの破損車が駐車場の向こうのほうに入ってきた。1950年製のフォード・クラブ・クーペだった。当時はまだ、1950年製フォードはカッコいい往年の名車とは思われておらず、誰も欲しがらない見苦しい代物扱いだった。少なくとも、到着した車はそうだった。
 その「車」はオレたちの前まで来て、ボボボボボ…と音を立てて停止し、バックファイアを起こして、1分ほどガタガタした後、最後に車体をぶるっと震わせて死んだ。オレが見た中で最もみすぼらしい身なりのヒッピーが出て来て、「お前らがラリーとアール?」と訊くので、「ボクたちはラリーとジョンです。おじさんがアールですか?」と答えると、「ああ、そう、そうだよ。ブートレッグを買いたいっていうのはお前ら?」って言った。 オレたちは初めてブートレッガーと会ったのだ。この瞬間は永遠に忘れない(彼の車をもう1度動かすために、オレたちは押してあげなければならなかった)。
 今度はエドと名乗るようになったこのヒッピーから、オレたちは週に2度ブートレッグを購入して、学校で売りさばいた。エドは自分でブートレッグを製造してるのではなく、他のブートレッガーが作ったレコードの卸売りをやってるだけだった。しばらくの間はこれで良かったのだが、間もなく、オレたちはエドには手に入らないタイトルが欲しくなった。もっとコネが必要だ。出来れば、実際にレコードを作ってる連中と知り合いたい。オレたちはハイスクールの域を脱する大計画を立て始めた。
 この時点で、オレはハイスクールの3年生になったばかりで、1年上のラリーは4年生になったばかりだった。オレたちは自転車ではカバーできない移動手段が必要だと感じていた。必要なのは自動車だ! どこに行ったら買えるのかは知っていた。
 白人しか住んでない白パンのようなタスティンの隣にはサンタアナ市があった。サンタアナにも金持ち白パンの地域があったが、たくさんのモーテルや中古車販売店があって、白人以外の人が暮らす地域もあった。オレたちは金を少ししか持ってなかったので、貧乏な側のほうに向かい、4番街のマレーズ・モーターズで1966年製シムカ・セダンを見つけた。当時はデトロイトの車が良いとされ、北アメリカ製の大型車が路上の主流であり、外国製の粗末な車を自宅の駐車場に置きたい奴なんていなかった。そんなのは恥ずかしいことだった。まさにこの理由で、シムカなら安く買えるんじゃないかとオレは踏んだのだ。シムカはフランス車で、オレンジ・カウンティーでは移民か共産主義者が乗ってるような車に見える。完璧だ! オレは免許を持ってない。車両を登録する術もない。保険にも入れない。だって15歳だ。そんなオレに車を売ったら違法のはずなのに、なぜかマレーズ・モーターズは売ってくれた。200ドルで。
 このシムカは実際、優れた小型車だった。特に値段を考えるとそうだった。ボディーにはへこみが数カ所あって、外装部品の一部も付いてなかったが、動きはとてもしっかりしていた。リアエンジンでエアコン付きだった。とてもコスパがいい。エンジン音もカッコいい。馬力がもう少し出るよう、もっといい排気システムが付いてればいいんだがと思ってると、ヘッダーに特注の排気システムを付けてくれるリペア・ショップがオレンジにあることを、ある友人が教えてくれた。それは「ミラクル・マフラー」というもので、値段は46ドルだった。それを装着した結果、この車はオレンジ・カウンティーで一番イカしたシムカになった。そもそも、オレンジ・カウンティーにはシムカはたった1台しかなく、カリフォルニア州全体でも、シムカは恐らくこれだけだっただろう。しかし、最も重要だったのは、ラリーとオレが動けるようになったということだった。


   



 シムカを手に入れるやいなや、オレたちのブートレッグビジネスは急成長を開始した。同時に、エド(本当の名前は何ていうんだろう?)からは悲しいことを告げられた。1950年製のクラブ・クーペが遂にお釈迦になってしまったので、ブートレッグ・ビジネスのほうからは引退だと。彼はやさしいことに、さよならを言う前に、ラリーとオレにブートレッグの供給元の電話番号を教えてくれた。この番号はスティーヴ・H(ハービー・ハワードという名前のほうが有名か)という人物のものだった。スティーヴはオレンジ・カウンティーまではブートレッグの配達はしてないと言ってたので、シムカがあって良かった。こいつはオレたちが車で会いに来たことを喜んでいた。
 ハービー・ハワードは南カリフォルニアでブートレッグの製造を始めた人間の1人で、Rubber Dubberの後にこのビジネスに参入した。こいつはスコットの友人{だち}なのだが、2人は別々に事業をやっていた。ハービーは特定のレーベルを使っていなかった。同一の人間が作ってるように見えないよう、レコードを出すごとに見た目をガラッと変えたほうがいいだろうという方針でやっていた。こういうわけで、こいつはTMQやWizardoレーベルほど皆の記憶に残ってないのだが、初期には大物だった。こいつが作った最も有名なレコードの2つは、CSN&Yの《Wooden Nickel》とレッド・ツェッペリンの《Live On Blueberry Hill》だ。それから、ローリング・ストーンズの1972年のマディソン・スクエア・ガーデン公演のテープを最初にリリースしたのもこいつで、ダブはこのディスクをコピーしてTMQバージョンの《Welcome To New York》を製造した。オレがこのことを知ってるのは、ハービーのディスクをダブにコピーするように渡したのはオレだからだ。ハービーはこの件を気にしてなかった。ハービーのカタログの大部分はダブのカタログからコピーしたものだったからだ。あの頃はそうだったのだ。皆にとってマーケットが十分にあり、使う音源の所有権を主張するブートレッガーは誰もいなかった。まず第一に、音源は誰のものでもないので、コピーした奴に腹を立てても意味がない。誰かが言ってたように、模倣は最も誠実なほめ言葉なのだ。同じタイトルが異なるブートレッガーから同時にリリースされるケースが多発してたのは、こうした方針のせいだ。
 ハービー・ハワードがどこで暮らしてたのかは知らないが、ラリーとオレはいつもハリウッドのタイニー・ネイラーズ・レストランでこいつと会った。電話でレコードを注文した後に、タスティンから1時間かけて北に向かってドライヴした。タイニー・ネイラーズはサンセット・ブールヴァードにある、「カーホップ」[車まで食事を届けてくれる若い女性ウェイトレス]のいるスタイルのドライヴイン・ハンバーガー・ジョイントで、駐車場の隅には公衆電話のブースがあって、オレたちはそこで会っていた。ある日、ハービー・ハワードがそこで電話をしている間、オレたちはシムカのフードに腰をかけて待っていた。ゴージャスな赤毛の子が通りかかった時、ハービーは会話を止めて、ブースの外に頭を出して叫んだ。「ヘイ、ベイビー。ハービー・ハワードは毎日10分間フリーだぜ!」 ハービーはそういうノリの奴だった。こいつは日焼けして、胸毛を見せ、ヘアカットに金をかける、ハリウッド・タイプの人間だった。とてもいい奴で、会うやいなや、友人がDittolino Discsを作ってるんだけど、そいつの電話番号教えてやろうか?って言ってきた。もちろん、お願いしますと答えたさ。

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 ハービー・ハワードがラリーとオレに教えてくれた電話番号は、H・A・レイキンという名で通ってる男のものだった。こいつのアパートはノース・ハリウッドの古い下宿屋の1つにあったのだが、そういう下宿屋は、当時でさえ、もう既に、過ぎ去った時代の遺物になっていて、今はもうすっかりなくなってしまっている。驚いたことに、彼の部屋はブートレッグだらけだった。Dittolinoのブートレッグだ。
 ハリー・レイキンとの取引はトワイライト・ゾーンに足を踏み入れるようなものだった。電話をかけて注文しようと思っても、全く要領を得ない。耳が聞こえないのか、よく混乱状態になってしまうのか…とにかく、電話の複雑な仕組みをまだ心得てないようだった。こいつが突然、受話器を置いて、そこから離れてしまうと、会話は終了だった。後ろのほうで、テレビが爆音で鳴るのが聞こえてくると、それは、うちまで自動車で来て、オーダー品を自分で持って行けというサインだった。
 トワイライト・ゾーンが始まるのはここからだ。ハリーは古いデュモン製の白黒テレビを持っていた。直径6インチの丸いスクリーンが付いてる代物で、1950年代に作られたものだった。何曜日に行っても、昼だろうが夜だろうが、オレたちがハリー宅に到着すると、こいつはそのテレビで『Love American Style』を見てるのだ。家庭用ビデオデッキやケーブル・テレビ、衛星放送などが登場する以前の時代のことなので、どうしてそんな芸当が出来るのか全く説明がつかない。滑稽なことに、レコードを注文しようとすると、ハリーが「静かに! 大切なところなんだ!」と言ってオレたちを制止し、小さなスクリーンを食い入るように見つめた。当時としても、『Love American Style』は大して面白くないシチュエーション・コメディーで、「大切なところ」なんて存在してなかった。「まあまあのところ」もない。こんなものを一所懸命見るなんてクレイジーだ。しかし、オレたちはこうしてDittolino Discsのブートレッグを仕入れたのだ。
 ビジネス関係が成立してしばらくした頃、ハリーはデュモン製のテレビから離れて、自分が何者で、どのようにしてブートレッグを入手してるのかを、オレたちに明かしてくれた。こいつの甥がCatso、Figa、Immaculate Conceptionといったレコード・レーベルを作っていた。ここからリリースされたものは、白黒印刷のジャケットを作り、高品質のプレスで有名だった。ハリーと甥はイタリア系なので、レーベル名はイタリア語のののしり言葉にちなんでつけられたものであり、ハリーはそのひとつひとつの意味を嬉々として説明してくれた。何度も。Dittolino Discsは甥が現在、製造してるカタログで、ハリーがその唯一の卸業者だった。「Dittolino」は「小指」という意味で、ハリーによると、中指を突き立てるよりもはるかに侮辱的のだとか。
 2人の信頼できる供給業者がバックについてくれたおかげで、オレたちはハイスクールの生徒という小さな顧客基盤を相手にするだけではもの足りなくなり、事業の規模拡大に着手した。オレたちはオレンジ・カウンティーのレコード店にブートレッグを卸すようになっただけでなく、オレンジ・ドライヴイン・シアターで週末に行われるスワップミート[不要品交換会]でレコードの小売りすることが一番重要な商売になった。この時点で、学校に行くことはビジネスの妨げになり始めてたのだが、間もなく運命が介入することになる。
 数年間楽しく記事を書き、作ってきたアングラ新聞『ザ・トイレット・ペーパー』は、ラリーとオレにとっては、自分たちの敵に対して怒りを発する創造的はけ口となっていた。ハイスクールの教職員や運営当局がオレたちの「風刺」の主なターゲットだったが、そのうち、自分たちが売ってるブートレッグの宣伝も行なうようになった。『ザ・トイレット・ペーパー』は謄写版印刷機で「印刷」されていた。この昔の印刷機は当時の全てのハイスクールにあったもので、印刷物に酷い臭いを染み込ませることで有名だったが、そうして印刷してるのがこのアングラ紙だと思うと、この特徴はとても魅力的に感じられた。『ザ・トイレット・ペーパー』を作るのに使った材料は、印刷機自体も含め、全て学校の倉庫からくすねたものだということに、オレたちは鼻高々だった。
 この時、オレはタスティンのフットヒル・ハイスクールの3年生、ラリーは4年生だった。ここの校長は不運なことにウィリアム・フリックという名前だった。不運と言ったのは、有名なナチ戦犯、ヴィルヘルム・フリックと同じ名前だったからだ。オレたちはこの愉快な偶然の一致を発見した際、そうするしかないだろうってことで、このテーマで『ザ・トイレット・ペーパー』特別号を発行した。ヴィルヘルム・フリックはニュルンベルクの絞首台から逃れ、その後、我がハイスクールの校長になった、という見出しで。この記事はフリック校長には気に入ってもらえなかった。本部オフィスで働いてる友人が、次に起こったことを教えてくれた。「校長は『ザ・トイレット・ペーパー』を読むと、胸を押さえて床に倒れ込んでしまった。救急車が呼ばれた時も、校長は苦しみながらこの新聞を手に握りしめていた。救急隊員によってストレッチャーに載せられ、病院に運ばれる際も、しわくちゃになったこの新聞をまだ持ってたよ」 幸いなことに、今回は軽度の「心臓発作」で済み、フリック校長は復讐心に燃えながら約10日後に学校に復帰した。

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(Photograph copyright c Jon Tschirgi 2020)


 ということで、ラリーとオレは放校処分となった。最終学年のラリーはあと9カ月で卒業することが出来る状態だったので、「補習学校」に入学した。補習学校とはさまざまな理由で普通の学校に通うことが出来ない生徒のために作られたものだ。つまり、妊娠中の子や移民、そして、タスティンでは望ましくないと思われた全ての連中が通う場所だ。この種の学校の良いところは、自分のペースで勉強することが出来ることであり、ラリーは2週間で最終学年を終了してしまった。オレは卒業まであと1年半も残ってたので、別の道を歩むことに決めた。チャプマン大学と交渉して、そこの1年生として授業を履修して単位を取り、それがハイスクールの最終学年の単位としても数えてもらえることになったのだ。履修単位をダブルにカウントしてもらえるシステムのおかげで、オレはハイスクールの1年半をすっ飛ばすことが出来たのだ。最高! ラリーとオレにとって、この人生激変の真の価値は、エネルギーの大部分をブートレッグ・ビジネスの拡大に集中させることが出来たということだ。
 この文を読んでる皆さんは、これまでのどこかの時点で、「その時期、お前の親の監督責任はどこにいっちゃってたんだ?」と思ったことだろう。当然の疑問だ。オレはその頃、まだ実家で両親と一緒に暮らしていて、両親はオレがハイスクールに通ってると思っていた。オレに出来る一番マシな説明は、きっと、子供のことに親は余計な介入をすべきじゃない、興味を示すのも良くないと堅く信じてたんじゃないかなあということだ。これは子育ての方針として、オーソドックスなものからかなり外れてると思うが、当時のオレには全く問題ではなかった。そのおかげで、殆どのティーンエイジャーが夢でしか見れない自由を与えられてたからだ。親父は航空宇宙学の優秀なエンジニアで、お袋はオレンジ・カウンティー国連センターの運営スタッフで、ふたりとも自分の生活で忙しくしていた。オレも自分の生活で忙しかった。
 オレは9歳の時からかなり自立していた。その年、オレはニューヨークに行こうと思い立った。当時(1965年)、オレは南部、ヴァージニア州のレイク・バークロフトという人種が分離されてる町で両親と一緒に暮らしていた。あらゆる場所に南部連邦の将軍にちなんだ名前がついていて、オレは信じられないくらい退屈していた。有名な振り付け師のベティー・ウォルバーグはオレの従姉{いとこ}で、今でこそ、いろんな本に彼女の経歴やクレジットが載ってるが、当時はニューヨークのNBCで働き、ティーンのための新しい音楽番組『Hullabaloo』を担当していた。9歳のオレにとって、ベティーは最もカッコいい人物だった。『Hullabaloo』には欧米のトップの音楽アクトが出演していた。ベッティーだったらオレをスタジオに入れるくらいわけないだろう、オレが凄い奴だってわかれば、カッコいい仕事をもらえるかもと考えた。9歳のガキのロジックだ。オレのニューヨーク行きについて、どうしたら両親を説得することが出来るかなあと思ったが、お願いするだけで大丈夫だった。24時間後には、オレはバスの中にいた。ひとりで、ポケットの中に5ドルを入れて、『Mad Magazine』を持って、ニューヨークに向かってたのだ。
 ところが、オレの乗ったバスはペンシルヴァニア州のどこかでエンジンが故障してしまった。乗客たちが道路際で座ってると、運転手に選択を求められた。このバスにとどまって、修理が完了するまで、どのくらいかかるかわからない時間を待つか、間もなくやって来る他のバスに乗るか。そのバスもニューヨーク・シティーに行く。オレは、ニューヨーク・シティーがどのくらい大きいのか知らないないが、バスなんてどれも同じさと考え、別のバスに乗った。そして、無事、ニューヨークには到着したが、そこに迎えのいとこの姿はなかった。
 バスから降りたオレは、ビッグ・アップルでひとりぼっちになってしまった。バス・ターミナルは巨大で、ストリートに出るだけでも永遠の時間がかかった。オレはひとりでニューヨーク観光をして、それから5ドルを使ってタクシーでNBCに行き、いとこを呼んでもらうという計画を立てた。オレが最初に見たものは隅で行なわれてる3枚カードだまし[3枚の裏返したカードのうち、どれがクイーンなのか当てるゲーム]だった。まるで、映画の中から出て来たかのようだった。その様子を見ようと駆け寄ると、突然、大きな手に肩を掴まれた。「なあ、坊や。お父さんとお母さんはどこにいるのかな?」 警官だった。「ヴァージニアです」という回答は気に入ってもらえず、オレは警察署に連れて行かれた。オレのニューヨーク観光は遠回りを余儀なくされた。
 ブタ箱に入れられたり、面通しのために容疑者の列に並ばされたりすることもなくて、最初はがっかりしたが、ただ椅子に座ってコークを飲みながら待ってる間、女装した売春夫がブタ箱に入れられるのをながめてるうちに、そんな気持ちも少し和らいだ。9歳のガキだったら誰でも、この光景は面白いと思うだろう。やっといとこがやって来て、再会となった。オレは『Hullabaloo』のセットに入ることが出来た。チャド&ジェレミーにも会った。テレビ・ショウがどういうふうに作られるのかもわかった。ライヴ・シアターも見た。美人ダンサーたちにも会った。エンパイア・ステイト・ビルディングの最上階にも行った。大きな博物館にも行った。オレはそこらの9歳の子供よりもはるかにたくさん楽しいことをやったが、その場には両親はいなかった。
 ヴァージニアに帰った時、親父もお袋も驚いていた。がっかりしてたのかもしれない。9歳にして親抜きで行動する大計画を立てていたオレには、そんなことはどうでもよかった。

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 ハービー・ハワードと取引をするようになって2カ月が経ち、ハリー・レイキンのDittolinoのブートレッグもオレンジ・カウンティーのさまざまなレコード店に卸し、かなり儲かるビジネスを築き始めていた。毎週末にはオレンジ・ドライヴイン・スワップミートで小売りも始めてたのだが、これについては後で話そう。ハービー・ハワードがオレたちに興味深いオファーをしてきたのはこの頃だった。
 ハービーは《Shea: The Good Old Days》というタイトルのビートルズのブートレッグを持って来た。プレス工場が誤って、注文より500枚も余計に製造してしまった。もちろんハービーには、頼んでないディスクの代金を払わなきゃいけない筋合いはないのだが、工場は粉砕機の中に放り込むよりもマシということで、余計に作ってしまったディスクを格安料金でハービーに売ることにした。しかし、当面、このレコードの使い道がなかったハービーは、500枚全部を引き取ってくれるならオレたちに1枚50セントで売るよと言ってきた。もちろん、そのオファーに飛びついた。
 オレたちが大喜びした理由は2つあった。1番目の、最重要の理由は、白の無地のジャケットに入った状態でレコードを受け取ったので、自分たちで新しいジャケットをデザインする必要が生じたことだ。これがWizardo Rekordsを謳ったレコードの第1号になるのだ。2番目に、この音源が「シェイ・スタジアム」とは何の関係もなく、1964年のハリウッド・ボウル公演の夜の部を録音したものだったという点だ。この事実が判明したのは、KYMSでDJをやってる友人が特定してくれたからだ。彼はこのコンサートを実際に見に行っただけでなく、1964年のキャピトル・レコードのクリスマス・パーティーに出席し、リリース案に上がった正真正銘のハリウッド・ボウル公演のテスト・プレスがかけられた時、その場にいたのだ。オレたちは超重要なコンサート音源が収録された日時、場所を正しく特定した最初のブートレッガーになれることを誇りに思った。
 ラリーもオレも当時はまだ実家で両親と一緒に暮らしてたのだが、Wizardoのビジネスの殆どはラリーの寝室で行なっていた。あの晩、《Live At The Hollywood Bowl》のジャケットとインサートをデザインした場所もここだ。オレが古い雑誌からメンバーのカラーの顔写真を切り抜き、ラリーはレタリング作業を担当した。オレたちはゴム糊の臭いをかぎながら、インサートを作成した。その晩、ランスという名の友人{ダチ}が来て手伝ってくれた。こいつはラリーん家{ち}の前にマスタングを止めると、寝室にやって来た。皆でジャケットを仕上げて、マリファナを吸って、2時間ほど楽しくやった。ランスは立ち上がって帰ろうとしたので、オレがマリファナをもう1本勧めたのだが、「やめとくよ。行かなきゃけない。ガールフレンドたちが車の中で待ってるんだ」という返事が来た。当時の基準からしても、ずいぶん大胆なことをしてたもんだ。

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 ランスと出会った正確な場所は覚えてない。レコード・パラダイスでだったかもしれない。こいつとは忘れられない体験を2つしている。最初のものはミック・ジャガーに会ったことだ。1972年5月くらいに、ランスと一緒にハリウッド・ブールヴァードを歩いてた時、ハリウッド・トイズの前でミックに出くわした。そこに立ってたのだ。「あれが本当にミック・ジャガーだとしたら、ずいぶん小柄なんだなあ」と思ったのを覚えている。ランスが話しかけた。「ミック?」 すると、ミックがか細いモノトーンの声で言った。「あぁ、やれやれ…」 永遠の長さのように感じられた沈黙の後、ランスが訊いた。「ハリウッドで何をやってるんですか? ストーンズがレコーディングしてるんですか?」 突然、ちょっとだけ打ち解けたミックは答えた。「キースと一緒に新しいダブル・アルバムの最終ミキシングをやってるんだよ」 オレが訊いた。「ワオ! 何てタイトル?」 ミックが答えた。「Eat Shit[クソ食らえ]ってタイトルさ。ダブル・アルバムだ。フランスでモービル・トラックで録音したんだ」 今思うと、ミックは質問をはぐらかして、正しいタイトルは教えてくれなかったのだが、不思議なことに、その時は真面目にそう言ってるように聞こえた。2カ月後、《Exile On Main Street》が発売された。フランスでレコーディングしたダブル・アルバムというのは本当だった。
 ランスとの2番目の冒険はカノガ・パークでやった。ランスが何の仕事をしてたのは全く知らないが、当時はもうそれはやってなかった、ランスの失業保険を受け取るために社会保障のビルまで行ったことがあるからだ。列に並んでると、ランスがオレたちの2人前にいる人物に気づいた。モーリーン・マコーミック、『Brady Bunch』[1969〜1974年に放送されていたシチュエーション・コメディー。『ゆかいなブレディ一家』として日本でも放送された]のマーシャだ! この番組は放送開始後、少なくとも1年は経っていた。モーリーンは超ホットで、見た目は18歳くらいだった。ランスがオレに言った。「デートに誘おうぜ。楽しもうぜ」 オレはそんなに乗り気ではなかったが、ランスを止めることは出来なかった。ということで、オレたちはモーリーンの前まで歩いて行くと、ランスが言った。「ヘイ、モーリーン。元気そうだね。これから友人{ダチ}と一緒にハリウッド・ヒルズでアシッド・パーティーをやるんだけど、一緒に来ない? 一緒に裸になって、プールに飛び込もう。楽しいぜ」 モーリーンは興味津々そうな表情をランスに向けて答えた。「楽しそうなんだけど、私の彼が気に入らないと思うのよ」 すると、ランスが答えた。「キミの彼氏が気に入らないことはオレが保証するよ」 すると、モーリーンは目を大きく見開いて、微笑んで、歩き去って行った。
 1960年代のある時から、オレンジ・カウンティーの伝道師がオレンジ・ドライヴインを日曜朝の教会代わりに使うようになっていた。人々が車でやって来て駐車するのだが、映画を見るためではない。信者連中はロバート・シュラーが軽食バーの屋根から説教するのを見るのだ。シュラーの信者集団は増えていき、すぐにドライヴインでは手狭になって、よそに移っていったが、シアターを映画以外のものに使うというコンセプトは、その後も生き続けた。1970年代初頭には、カリフォルニアのあらゆるドライヴインで土曜日と日曜日にスワップミート[不要物交換会]が開かれるようになっていた。最初は、主に普通の家の人間が車のトランクから古物を売るための、ガレージ・セールのようなイベントとしてスタートしたが、すぐに、「ヴェンダー[売り手]」が認可や他の規定について心配することなく週末にビジネスを行なうことの出来る、小売りセンターへと変貌を遂げた。ブートレッガーにとって、そこは商売を行なうのに申しぶんのない場所だった。
 ラリーとオレは少し前に、ヴァージニア州ノフォークを本拠地とするContra Band Musicの住所を知るに至り、CBMのブートレッグを加えて約100タイトルの卸売り、及び、小売りを行なってたのだが、オレたちの実家から一番近いところにあるオレンジ・ドライヴインにも出店して様子を見ることにした。商品に日が当たらないようにするために天蓋を購入し、スミカにレコードを積み込んで、スワップミートに向かって出発した。ブートレッグを売って大儲けする気満々だった。だが、たった1つ問題が生じた。ライバルがいたのだ。


第2回に続く…

The original article “The John Wizardo Interview” by Steve Anderson
http://www.floydboots.com/pages/JonWizardo.php
Reprinted by permission



   
posted by Saved at 22:33| Comment(0) | Music Industry | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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