2020年11月08日

Wizardo回想録&インタビュー:第2回 TMQケンとの出会い

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生はこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第2回 TMQケンとの出会い


聞き手:スティーヴ・アンダーソン


 「オレたち」と同じスワップミートでブートレッグを売ってる奴を発見したのはラリーだった。蚤の市をウロウロしてたら、「テーブルいっぱいにTrade Mark of Qualityのブートレッグを並べてる男」がいたというのだ。自分の目で確かめようと思ってオレも行ってみると、ラリーの言う通りだった。テーブルいっぱいのTMQだ。しかも、見たことのないものがわんさか。この時点で、オレたちにコネがないのがTMQの供給ラインだった。そこで、オレはこいつが何者なのかを探ることにした。こいつはユリスと名乗った。ずんぐり体型で、オレと同じくらいの歳だろうか。ボサボサのブロンド髪で、ほんのわずかながらロシア語の訛があった。どうせ教えてくれないだろうなと思いながら、どこでこのレコードを入手してるのかと訊くと、「友人{ダチ}のケニーからさ」と教えてくれるじゃないか。でも、こいつはそれ以上は何も言わなかったので、ラリーとオレは、こいつの言う「ケニー」が誰なのか気になって仕方なかった。
 いくつかの週末が過ぎた。オレたちは商売を続け、ユリスも自分のブートレッグを売り続けた。こいつが売ってるのはTMQで、オレたちは他のレーベルのブートレッグだったので、こいつとオレたちは競合してたわけじゃない。ある土曜日に、ユリスは美しい赤の「Eタイプ」のジャガーXKEに乗って現れた。オレはユリスに訊いた。「このスゲエ車、どこで手に入れたのさ?」 こいつの言ったことは今でも覚えてる。「ケニーがブートレッグとの交換でXKEを2台手に入れて、その1台をオレがもらったのさ。ケニーはキャンディー・アップル・ブルーのものに乗ってるよ」 オレはビックリ仰天した。ブートレッグとの交換で夢のスーパー・カーを2台もゲット? 信じられない。オレはこの謎の「ケニー」って人物に会いたいとユリスに言った。すると、こいつは「あぁ、そうそう、ケニーはお前に会いたがってるんだ。次の土曜日にここに来るってさ」 ラリーもオレも喜んでいいのか恐れたらいいのかわからなかった。

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(The photograph copyright (c) Ken Douglas 2020)


 ドライヴイン・シアターで行なわれるスワップミートは、どこもだいたい同じレイアウトだった。駐車場には売り手のスタンドの列が50ほど出来ており、夜になると、同じ場所に映画を見に来た客が車をとめた。売り手は朝早くやって来て販売ブースを設営し、会場がオープンして一般の買い物客が入って来る時間になると、通路は車両通行禁止になった。オレンジ・ドライヴイン・スワップミートでラリーとオレが使用してたのは11番スペースだった(7列の11番スペースだったかなあ。確かなことは覚えてない)。
 ケニーことケン・ダグラスとの初対面は決して忘れることはないだろう。ケンがスワップミートでオレたちに会えるよう段取りをつけてくれたのはユリスだった。土曜日の午前11:00頃だ。客の質問に答えたり、ブートレッグを売るのに忙しくしてると、オレたちのブースのある列の端のほうが、突然、騒がしくなった。人々が何かに向かって歓声を上げたり、ジャンプしたりしていた。騒ぎの元は大きな黒のキャディラックだとわかった。しかも、歩行者専用の通路をこっちに向かってくる。車両は通行禁止なのに。キャデラックは時々とまると、パワーウィンドウが下がり、何かと交換で金が売り手に渡された。誰かが通路を車で通るだけでなく、買い物までしてるのだ!
 スワップミートで起こるあらゆることは既に目にしてると思ってたが、車に乗ってこんな常軌を逸した振る舞いをする奴は、たったひとりしか心当たりがなかった。伝説のブートレッガー、ケン・ダグラスだ。
 キャディラックがオレたちのブースの前に来てとまった。車内にいたのはケニー(助手席)と彼のレコード事業のパートナーのグレッグ(運転席)だった。ケニーは窓を下げると、疑い深い目でオレを見た。こいつは緑のアーミー・ジャケットと飛行機の操縦士用のサングラスを身につけていた。髪は長く、頬髭、口髭があった。こんなに感銘を受けたことはない。最初の会話はとても短かった。ケンから「お前がWizardoか?」って訊かれたので、オレは「そうです」と答えた。そして、TMQのレコードを買いたい旨を伝えると、はっきりとした返答はなかったが、電話番号を教えてくれた。その後、ケンとグレッグはスワップミート中をドライヴした。たぶん、買い物をしながら。これは、オレのそれまでの人生の中で目撃した最もカッコいい光景だった。本当にぶったまげた。
 その日、スワップミートを終えて帰宅する途中、ラリーとオレはチャプマン・アヴェニューにあるスリフティー・ドラッグ・ストアに立ち寄って、ふたりともアイスクリームを買った。それから、飛行機の操縦士用のサングラスも買った。
 あの土曜日、オレンジ・ドライヴイン・スワップミートまで会いに来てくれたケンとグレッグは、オレたちが並べていたCBM製ブートレッグに気がついた。デヴィッド・Dがリリースしたばかりの《The Rolling Stones 1972 Tour》にケンは特に興味を抱いてた。ストーンズの'69年のツアーを収めた《LIVEr》が大成功した後なので、これはコピーに値すると思ったのかもと、オレは推測した。ケンから電話番号をもらってるので、オレはすかさず彼に電話を入れた。最終的には、オレたちはケンのTrade Mark of Qualityのレコードを仕入れたかったので、CBMが出したばかりのストーンズのブートレッグをエサにすれば、もう1度会ってもらえるだろうと考えたのだ。ケンはエサに食いつき、翌日にロングビーチにある「ジ・エルボー・ルーム」というバーで会おうということになった。
 ケンに会えることになって、オレはワクワクした。ただ、唯一の問題は年齢だった。まだ16歳だったので、法律上問題なくバーに入れるようになるにはあと5年待たなければならなかった。オレは電話でこの件をケンに説明すると、「お前は16よりずっと年上に見えるぜ。それに、バーテンダーのディックはオレの友人{ダチ}なんで問題はないよ」ってことだった。「ディック」はカラフルな人物で(ケニーの人生に登場する多くの人と同じく)、本が1冊書けてしまうくらいたくさんの鳥肌ものの冒険譚がある奴なので、脱線して少しだけ紹介しよう。
 エルボー・ルームはロングビーチにある典型的な小さなバーだ。この種のバーはどこぞの国のパブとは違う。パブというのはもの寂しい場所であって、人は悲しみを酒で紛らわすためにそこに来る。楽しい時を過ごすためじゃない。しかし、エルボー・ルームのようなところは、オレの目には、無法者が顔を合わせるのにぴったりの場所のように見えた。オレはバーに行った経験は全くなかったが、21歳であることを立派に証明してくれるWizardoの顔写真入り身分証明カードを持っていた。コンピューターやプリンターなどない昔は、役所が発行した本物に見える写真入り身分証明カードを偽造するのは簡単なことではなかったので、オレは自分の偽IDをとても誇りに思っていた。しかし、その出番はなかった。ケンが言ってたように、彼の友人{ダチ}のディックがバーの向こうにいたからだ。
 エルボ・ルームに入ると、バーのところに1人だけ座っていた。背中を見ただけで、それがケンだとわかった。オレは隣の席に腰掛けると、ケンはオレを見て頷いた。ケンは適当に当たり障りのない話をするような奴じゃない。電話でも「もしもし、ケンです」なんて言わずに、いきなり話を始める。電話に自分が出てることくらい、まともな頭の持ち主ならわかるだろって感じで。バーテンダーのディックがぶらぶらしながら、ご注文は?と訊いてきた。酒を飲んだ経験も殆どなかったのだが、ビートルズのメンバーはラム&コークを飲んでたと本に書いてあったので、それを頼んだ。ディックが大きなグラスを手にとって、その中に並々とラムを注ぐのを、オレは怖々と見ていた。少なくとも12オンス[約360cc]はあっただろう。ディックは続いて「ガン」[注入器具]を手に取って、ラムの上にコークをほんの少しだけ注ぐと、それをオレによこした。オレはケンを見た。ケンは小さく賞賛の挙手をして、ディックにも聞こえるくらいの大きさでささやいた。「お前を気に入ったってことさ。飲み干さなかったら失礼ってもんだぜ」 ひぇ〜。でもまあ、大人を相手にゲームに興じてるんだ。オレは勇気を出して、世界最大のように思えたグラスからラムを飲み始めた。
 その後のことはあまり記憶がないのだが、ケンはオレにレコードに売ることに同意してくれた。ただし、レートは2種類あって、オレがスワップミートで小売りするレコードは1枚1.50ドルで、レコード店に卸すレコードは1枚1.00ドルで。あくまで「自主管理」ってことなのだが、オレは卸売り用の低い価格で買ったレコードは小売りしないと約束した。最近では、こんなビジネス協定は聞かない。信頼? そんなものは2020年には存在しないが、昔は、盗人の間にも名誉というものがあった。ケンはやさしいことに、ディックがこっちを見てないうちに、オレのグラスの中にあるラムの4分の3を飲み干してくれた。とてもありがたかった。ケンはCBMがリリースしたストーンズのブートレッグを1枚受け取ったが、音質が良くなかったので、最終的には、わざわざコピーするほどのものではないと判断した。ケンと次に会うのは、彼の自宅でということになった。遂に、Trade Mark of Quality(間もなくファニー・ピッグとして知られることになった)のレコードを、本人から直接、購入することになったのだ!
 あのミーティングの後も、10年間ほど、ディックはオレの人生に、時々、出たり入ったりした。ディックは年を取らない連中の1人だった。30歳から70歳までだったら、何歳でも通用しただろう。背は低くて、逞しい外見で、刑務所{ムショ}に入った経験のあるような話し方をする奴だった。オレの前ではとてもいい奴で、親しい友人だったが、状況に応じて極悪非道な人間にもなれる奴だという感じも常にした。
 ディックと初めて会ってから何年もした後、オレは鮮やかな赤のフィアット123スパイダー・コンバーチブルを購入すると、ディックはそれを運転したがった。その日、一緒に何をやってたのかは忘れてしまったが、オーシャン・アヴェニューをベルモント・ショアに向かってドライブしている時だった。町に向かう途中、美しい椰子並木のある素敵な道路を通ったのだが、そこはディックがハンドルを握るには絶好の場所だった。そして、次に起こったことはオレの脳裏に永久に焼き付いている。
 ディックが運転を始めて0.5マイル[800m]もしないうちに、ロングビーチ警察のパトカーがオレたちの後ろに現れ、約30秒後に赤ランプが点灯したので、ディックは道路の端のほうに車をゆっくりと寄せて停止させた。パトカーもオレたちの後ろに止まり、中から警官が出て来た。オレはこれからどうなるのか心配だった。ディックは無免許運転してたのだろうか? この手の輩はだいたい持ってないし。警官がディックの側に来たので、ディックは警官を見て言った。「何で止まんなきゃいけねえんだよ、クソバカ野郎」 オレは誰かが警官を「バカ野郎」呼ばわりするのを聞いたことがなかった。賢い行為ではないだろう。警官にとっても初めて耳にする言葉だったに違いない。こいつもディックを見ると、歯を食いしばりながら言った。「スピード違反だ、バカ野郎」 ディックは疑い深い目で警官を見て言った。「6つの州で殺人で指名手配されてるオレを、たかが交通違反の切符を切るためだけに止めたって言ってるのか? 地球で一番頭の悪いブタ野郎だぜ」 この時、オレたちは銃口を向けられ、車の外に出て、地面にうつ伏せになるよう命令された。数分もしないうちに、さらに10台のパトカーが現場に到着し、あたりは警官だらけになった。ディックとオレは手錠をかけられた。ディックは嬉しそうだった。笑ったり、警察の連中に汚い言葉を叫んだりして楽しんでいた。免許を携帯してなかったので、警察はこいつが誰だかわからなかった。ディックはさらに喜んだ。警官を困らせるために小躍りまでした。
 最終的に、ディックは何らかの容疑で逮捕された。殺人ではないと思うが…。この時が何度目かはわからないが、ブタ箱に連れていかれる時もまだ、ディックは笑いながら叫び声を上げていた。ディックはそういう奴だった。法に屈してる時でさえ、自分のペースで生きていた。オレはどうしたのって? 運の良いことに車にはドラッグはなく、有効な免許証と登録証を持ってたので、友達の選び方に関して長々と説教をされた後、無事、釈放された。




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 初めてケンと超美人の奥さん、ヴェスタと会った時、彼らはロングビーチの隣にある高級住宅街、ベルモント・ショアの素敵な家で暮らしていた。電話で道案内してもらったのを覚えている。「7番街を左に曲がれ。油田の中を進んでるように見えるが、進み続けろ。オレは油田で暮らしてわけじゃないからな」 オレはレコードを買うために、少なくとも週に1度はケン宅に行った。電話をして、注文を入れて、その晩、ケン宅まで車で行って品物を受け取った。今思うと、オレはしばしば、長居し過ぎだったに違いない。ヴェスタはとてもやさしいので何も言わなかったが、旦那の時間をオレが占領してるのを、良くは思ってなかっただろう。オレはケンとしゃべるのが大好きで、ケンがテレビを見ようとしてたのに、オレは床に腰を下ろして居座り、時には何時間も質問した。いろんなことを話したが、たいていはブートレッグのことだった。オレは大量のイケてる知識を得た。ケンから教えてもらったことは、全部、肝に銘じた。前にも言った通り、ケンからもらったアドバイスのおかげでトラブルにあわずに済んだことなど、数え切れない。
 1970年代半ばのある時点で、ケンは南カリフォルニアでレコード・チェーンをオープンしたいと考えたのだが、行き当たりバッタリのタイプなので、コンセプトを考えたり、スケッチを書いたり、プランを立てたりするのは面倒くさかった。そこで、ケンは大工のガビーを、巻き尺とノートを持たせて人気レコード店のリコリス・ピザに派遣した。ガビーへの注文は、正面カウンターからレコード箱まで、あらゆるものの寸法を測ることだった。全てのものを正確にコピー出来るように。それが即席のレコード店をブートレッガーのやり方で作るのに役立つというわけだが、オレは素晴らしいと思った。ケンはそこら中にリコリス・ピザのクローンをたくさんオープンし、ここが彼のユーモアのセンスなのだが、それぞれの店に対して、マケインの前に聖書的な響きのあるファースト・ネームを与えた。ヘゼキアル・マケイン、ジェヘラミア・マケイン、その他の名前は今この瞬間は思い出せない。ケンはしばらくは楽しんでたが、レコード・チェーンの経営はやらなければいけないことがたくさんあって大変だ。それに、あの間抜けなエゴイスト、ダウニー・デイヴに「手伝わせてた」ことも、急速に興味を失った原因だと思う。ケンは遂に、ベルモント・ショアにある店を除く全ての店を閉めてしまったのだが、この話は別の機会にとっておこう。
 ある晩、ケンから電話があり、ある店舗のカギが盗まれたので、そこに一緒に行ってくれないかとのことだった。その晩、泥棒が盗みを働くために戻って来るだろうとケンは信じきっていた。オレは喜んでその要望に応えた。というのも、そのなんとかマケインの奥の部屋にはピンボール・マシンがたくさんあったからだ。オレはピンボール大好き人間なのだ。店に到着すると、ケンが自宅に帰ってショットガンを持って戻って来るまで、オレが番をすることになった。そして、店を閉めると、ピンボール・マシンを「フリー・プレイ」にセットして、何者が現れるかどうか待っていた。あまりに楽しくピンボールに興じてたので、朝の4時にはオレは疲れ果て、もしここに来るつもりの悪い奴がいるとしたら、とっくにそうしてるんじゃないかと思い、お願いして家に帰った。ところが、オレが帰った20分後に悪い奴がやって来たので、ケンは20番ゲージの銃で脅して、カギを取り返した。ケンは常に無敵だ。

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 ラリーとオレが週末のスワップミートでブートレッグの屋台を開くようになって8カ月ほど経った頃、大惨事に見舞われた。ある土曜日、ずんぐり体型の中年男がオレたちのレコードを見ていた。野球帽にサングラスという出で立ちだった。そいつがオレを見て、「これは全部、ブートレッグなのかい?」って訊いてきたので、何も知らないオレは「はい」と答えてしまった。すると、そいつは保安官のバッジを取り出して、オレンジ・カウンティー保安官補、ディック・レヴィンだと名乗りをあげた。すると突然、制服を着た保安官補が2人、どこからともなく現れた。レヴィンはレコードを「証拠品」として押収し、オレたちを逮捕すると言い出した。何てこった! 制服を着た連中は手錠まで取り出した…。
 ラリーもオレもそんなに神様は信じてなかった。日曜日にはあまり教会には行かず、ブートレッグを売っていた。にもかかわらず、時々、神が運命に介入し、オレたちに助け船を出してくれたんだと感じることがあった。スワップミートのオレたちの隣のブースでは老夫婦がキャンプ用品を売っていた。ラリーもオレも彼らと話す用事は全くなかった。年配者だからヒッピーなんて嫌いなんだろうと、オレたちは思っていた。ところが、突然、この爺さんがオレたちの屋台のところにいた保安官補たちの間に割って入って来て、レヴィンに訴え始めた。「まあまあ、落ち着いて! 手錠なんかしまいなさいな! 彼らは立派な市民ですよ!」 オレにはどうしてこの爺さんがオレたちを守ろうとしてくれてるのかわからなかったし、どうして保安官補たちがこの爺さんの言うことを聞いてるのかもわからなかった。制服組は手錠をしまい、レヴィンの態度も激変した。レヴィンは老人に、オレたちを逮捕するつもりはない旨を告げた。ラリーは、ここで売ってるレコードは模造品ではなくて「コンサート」を収録したものだと、レヴィンに説明した。すると、レヴィンは「コンサート・レコーディング」が合法なのか違法なのかはよく知らないと言い出し、困ってる様子だった。しかし、それでもなお、こいつがここにある在庫を押収したいと主張すると、老人は、レコードの押収は一時的な手続きであって、違法なものでないことが証明されたら、オレたちに返却されるというのはどうかと提案した。レヴィン保安官補はこれに同視した。ラリーもオレも大きく安堵のため息をついた。在庫を失うことになるかもしれないが、少なくともブタ箱行きにはならないようだった。オレたちは、隣でキャンプ用品を売ってる老人に感謝した。
 帰宅するやいなや、オレたちはレコードを釈放させる戦略を練り始めた。それには「コンサート・ブートレッグ」が、保安官補たちがスワップミートで押収してる模造品の8トラック・テープとは違うことを証明すればいいと、オレたちは考えた。オレたちが売ってたのはCBM製ブートレッグだった。デヴィッド・Dが最初にリリースしたアルバムの1つが《British Blue Jam》で、レノン=クラプトン=リチャーズの演奏する〈Yer Blues〉が収録されてたと思う。重要なのはジャケットだ。はっきりとした理由はわからないが、「全印税はヴァージニア州ノフォークのContra Band Musicによって納められています」という文句がデヴィッドによって印刷されていた。押収されたレコードの中に1箱分の《British Blue Jam》があったので、世間知らずなことに、ジャケットに印刷された「合法性」を云々する言葉さえあれば、オレたちの扱ってるレコードに違法性がないことを示すのに十分だろうと思ってたのだ。
 まず最初に、月曜日の朝、オレたちは保安官のオフィスに電話をかけて、火曜日にディック・レヴィン保安官補に面会して、レコードの返却について話し合う約束を取り付けた。ミーティングは大成功だった。オレたちが到着する前に、レヴィンはすでにブートレッグの返却を決めてたようだった。オレたちは「コンサート・レコード」がどういうものなのかを説明し、《British Blue Jam》のジャケットを見せた。保安官補はノフォークにCBMに関する問い合わせのテレックスを送ろうかともつぶやいてたが、本当にそうするつもりはなさそうだった。ある時点で、レヴィンがオフィスから出ていった。ドアを閉めたが、レヴィンが誰かと話してるのが聞こえてきた。「こいつらは若い商売人のようだ。売ってるのがレコードだから、髪を長くしてるんだろう。最近の若い連中は髪が短い奴からなんてレコードは買わないからね」なんて声がした。レヴィンはオフィスに戻って来て、レコードは持って帰って良しと言った。「だが」とこいつは付け加えた。「正式な命令や苦情が届いたら、お前らのレコードは没収しなきゃならないからな。そしたら、今度は返却されないよ」 オレたちは保安官補にお礼の言葉を言って、正面玄関に向かった。建物から出ようと思った瞬間に、声をかけられた。「それじゃ、また、土曜日に」 フロント・デスクのほうを向いたら、オレンジ・カウンティー保安官補のダッチ・ビショフが立っていた。何と、オレンジ・ドライヴイン・スワップミートで奥さんと一緒にキャンプ用品を売ってる爺さんじゃないか! この人は同時に、私服で覆面捜査も行なってたのだ。オレたちのすぐ隣でだ。オレたちは親友になった。
 保安官のオフィスからレコードを取り戻して約2週間経った頃、オレはオレンジ・カウンティーのチャプマン・アヴェニューをドライヴしてると、保安官の車につけられた。1マイル[1.6km]くらいつけられた後、赤ランプが点灯した。この時、オレは'71年製トヨタ・ワゴンに乗っていた。当然、後部にはブートレッグが積んであった。あの時のレヴィンの気が変わって、レコードを押収せよって命令を出したのかなあと思いながら、車を端に寄せて止めた。保安官が歩いてこっちに来ると、後ろに積まれたレコードを指さして言った。「これは全部ブートレッグかね?」 「またかよ」と思いながらも、正直に「はいそうです」と答えると、保安官は「出して見せろ」と言う。オレは渋々、外に出てハッチを開けた。保安官はすぐさま、箱を開けてレコードをめくり始めると、時折、1〜2枚引っ張り出した。保安官がオレを逮捕しようとしてるのではなく買い物をしてるのだとオレ気づくのに、長い時間はかからなかった。しばらくすると、選んだレコードは約5枚ほどになり(主にフロイドとボウイだった)、いくらかなと訊いてきたので、「あなたが選んだのは宣伝用のレコードです。だから、タダです」と答えた。保安官はオレに向かって満面の笑みを見せると、ブートレッグを抱えてパトカーに戻って走り去った。オレはしばらくその場につっ立ったまま、今、何が起こったのかを理解しようとした。この後の数年間、オレはブートレッグ・コレクションを増やそうと熱心な保安官どもに、よく車を止められた。実際、それは都合の良いことだった。連中がピックアップしたのはいつも「宣伝用レコード」だった。彼らはいつもニコニコした。ラリーもオレも逮捕されることはなかった。

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 ラリーとオレは1971年後半からコンサートを積極的に録音するようになった。その前にオレが初めてライヴ・レコーディングを行なったのは、ハリー・ベラフォンテのロサンゼルス公演だった。使ったのは、両親からクリスマスのプレゼントとしてもらった電池駆動のモノラルのカセット・レコーダーだった。当時にはよくあったものだ。結果を聞いて確信したのは、もっとハイクオリティーのテープ・レコーダーが必要だということだった。非常に限られたリサーチ能力しかないオレたちが行き着いたのがレイディオ・シャックだった。この会社からは電池駆動のモノラルのオープンリールのマシンが出ていた。周波数特性もSN比もオレが使ってたテープ・レコーダーのざっと2倍だった。提携してる工場に業務委託で作らせたレコーダーにレイディオ・シャックのマークを付けたものだと思う。問題は大きさだった。巨大かつ重い代物だったのだ。単1電池6本で動いた。コンサート会場に大型の無指向性マイクと一緒にこっそり持ち込むのはひと苦労だろうが、ラリーもオレも、この問題は何とか解決出来ると確信してたので、レコーダーは69.95ドルだったが、さらに16ドル追加してマイクも購入した。これがオレたちやリトル・ダブ、ケン等、初期ブートレッガー全員が使ってた主な録音機だった。
 新しい録音機はロサンゼルスのロキシーで行なわれたキャプテン・ビーフハートの連続公演でデビューを果たした。キャプテンは金曜、土曜、日曜に渡って計3回の公演を行なうことになっていた。ラリーとオレは全公演を録音しようと思い、シムカに電池と生テープ、ガールフレンドたちを乗せてハリウッドまでドライヴした。オレたちは女の子の股の間に録音機を吊り下げて、「田舎娘風ロングドレス」(ありがたいことに、当時はそれが流行してた)で隠して内密に持ち込んだ。
 キャプテン・ビーフハートの3公演を録音するためには、前座も3回見なければならなかった。この時の前座は、当時はまだ無名だったマーティン・マルだった。張り紙にはマーティン・マル&ヒズ・ファビュラス・ファニチャーと載っていた。ロキシーは飲み物を少なくとも「2杯」オーダーしてくださいという方針で、その決まりを客に積極的に課していた。オレたちはWizardoを名乗る偽の身分証明カードを持ってたので、このルールに喜んで従ってたのだが、マーティン・マルにとってはこれが問題を2、3引き起こしていた。問題とは、16歳のガキどもが酔っぱらった状態で前列に陣取ってたことである。オレたちはマーティンのステージ(同一の内容だった)を1度ならず見てるうちに、こいつのギャグを全部覚えてしまい、マーティンがジョークを言い終える前にオチの言葉を叫んではゲラゲラ笑ってたのだ。マーティンの名誉のために言っておくと、彼は2人の邪魔なガキどもを見事なやり方でいなしていた。ある時は、客席に降りてきて、ラリーの頭(縮れた長髪)をなでながら、「まだ言うなよ、縮れ頭…よ〜し」と言った。そんなこともあったが、オレたちは数時間分の優れたレコーディングをものにして、このショウからシングル・アルバムを作った。《What's All This Booga-Booga Music?》というタイトルは、客席にいた若い黒人女性が叫んだ質問(「このブーガブーガ・ミュージックはいったい何?」)にちなんで付けた。この野次には笑ったなあ。
 ラリーとオレはビーフハートの・ショウが終わるたびに、楽屋口付近で出待ちをした。キャプテンはいつも、一番熱心なファンに声をかけていた。ロキシー公演の後に「素晴らしかったです」と声をかけたら、「オレがやった唯一の素晴らしいことは、リーヴァイスを穿くのを拒んだことだ」という返事をもらった。
 リトル・ダブのTMQがリリースした《David Bowie Live at The Long Beach Arena》や他のレコード(思い出せない)も、同じ録音機を使ったものなのだが、カセットの性能が急速に向上しているのは明らかなので、モノラル録音からステレオ録音になっていくのは当然の成り行きだった。


第3回につづく…

The original article “The John Wizardo Interview” by Steve Anderson
http://www.floydboots.com/pages/JonWizardo.php
Reprinted by permission


   

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