第2回 TMQケンとの出会い はこちら
Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場
回想録&インタビュー
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場
聞き手:スティーヴ・アンダーソン
ハイスクールの2年生の時に、オレはピンク・フロイドを教えられた。お袋の友人の息子がチャプマン大学に通ってたのだが、寮でマリファナを吸ってるところを見つかってしまった結果、新しい住処が見つかるまで臨時の居場所が必要となった。お袋はこいつに上の階のゲスト・ルームを提供したのだが、 お婆ちゃんには内緒ねとオレは口止めされた。この大学生が我が家に到着した際、レコード・コレクションも持って来て、その中にはピンク・フロイドの《Atom Heart Mother》が入っていた。マリファナも持って来たのは言うまでもない。こいつは喜んで、オレに両方を教えてくれた。オレはブッ飛んだ。レコードと葉ッパの両方に。
オレは《Atom Heart Mother》を借りると、それを持って急いでラリーん家{ち}に向かい、着くやいなや、ベッドルームのステレオでそれをかけた。ラリーもすっかりハマってしまった。こうしてオレたちはフロイドの大ファンになった。
運の良いことに、近々、ピンク・フロイドがハリウッド・ボウルでコンサートを行なう予定だったので、演奏を録音するのがとても楽しみだった。このバンドをしっかり捉えるためにはステレオで録音する必要があると感じたオレは、友人の親父さんからコンコード製オープンリールを借りた。これは大きさこそオレのラジオ・シャック製レコーダーと同じくらいだったが、ハーフトラックのステレオだった。それから、このマシンに繋げられるように改造した[シュアの]SM-57も2本借りた。その日のショウのために優秀な録音機材を揃えたが、かなりの大きさになってしまった。
ピンク・フロイドのハリウッド・ボウル公演にガールフレンドを連れて行くことが出来ないので(チケットを2枚しか入手出来なかった)、録音機をドレスの下に隠して会場に持ち込むといういつもの手は使えなかった。最終的に、オレは小さなバックパックの中に録音機を突っ込んで、その上から大きなジャケットを羽織り、脊柱後彎症のような格好をして、身をかがめ、足を引きずりながら歩いて進んだ。口から少しヨダレをたらすことも付け加えた。すると、警備スタッフはオレを病気持ちであるかのように避けた。完全に悪趣味だ。16歳のバカガキしかこんなことはしない。だが、これは完全に効を奏した。オレは会場にすんなり入っていった。誰もオレのチケットをチェックしなかった。ラリーとオレは美しいステレオでショウを録音することが出来たのだが、オレはこのレコーディングを自分ではリリースせず、ケンにあげて、彼がKornyfoneレーベルから《Crackers》というタイトルでリリースした。
コンサートの時にはまだ、こうしようとは思ってなかったのだが、その2週間後、ラリーとオレは《Take Linda Surfin’》を作る際には、表ジャケット用にハリウッド・ボウル公演のプログラムに載ってた写真を利用した。「El Monkee」のロゴはゴールデン・ゲート・パークで買ったピーナッツの袋から拝借したものだ。
オレたちがブートレッガーとして駆け出しだった数年間に、ケンはすぐに最も重要なコネクション、及び、仕事仲間になった。リトル・ダブやマルコム・M、マイケル・Gといった西海岸のブートレッグ産業の重鎮たちにラリーとオレを紹介してくれたのもケンだった。オレはケンから20年に渡って優れたアドバイスと計り知れない援助を受け取った。ラリーとオレがブートレッグ製造ビジネスに参入するようになったのは、ケンのおかげなのだ。
ケンは自分の友人がピンク・フロイドのスタンパー一式を売りたがってると、オレたちに持ちかけてきた。スタンパーは「ヨーロッパ製」で、アメリカのレコード・プレス機で使うには変換が必要とのことだった。もし興味があるなら電話番号を教えてやると言ったので、ラリーとオレは、即、番号を教えてもらった。ピンク・フロイドのレコードがWizardoの「正式な」リリースの第1号になると思うとウキウキした。以前に出したビートルズのブートレッグはハービー・ハワードが作ったものだから。
ケンがくれた電話番号は、ピーター・トソロというグレンデイルに住んでるテープ・コレクターのものだった。ピーターによると、スタンパーを持っていて、ピンク・フロイドのコンサートを収録したダブル・アルバムのものだってことはわかってるのだが、どこで行なわれた公演なのかはわからないし、どの曲が収録されてるのかもわからないとのことだった。マザーもマスターも持ってない、スタンパーしか持ってないとも言っていた。つまり、実際にプレスしない限り、何が入ってるのか全くわからないレコードを、オレたちは買うことになるのだ。それに、スタンパーを壊してしまったら、もう替えはない。
こうした可能性があるとなると、オレたちよりも思慮分別のある連中だったら絶対に見送るだろう。しかし、16歳で恐れ知らずのラリーとオレは、ピーターからスタンパーを100ドルで買うことを電話で即決した。オレたちは翌日、品物を受け取るためにグレンデイルまで行く必要にあった。というのも、ピーターはある宗教グループ(カルトと読み替えてもいい)に入信を済ませ、世俗的な所有物を売り払ったらすぐに「教化キャンプ」に向かう予定だったからだ。
翌日はその年の最高気温を記録した日だった。エアコン付き小型車のシムカが、グレンデイルまでの長旅の間にオーバーヒートしないか心配だった。ラリーもオレもレコード製造のメタル・パーツに関しては何の経験もなく、どんなものを渡されるのかもわからなかった。ただ、スタンパーが「壊れやすい」ものだとは聞いてたので、ニトログリセリンでも載せて帰るかのように、シムカの後部座席にビリビリに破いた新聞を敷き詰めて、スタンパーを揺れの衝撃から守る準備をしておいた。(スタンパーは分厚くて重量があり、ハマーで叩いても壊れないくらいだった。大量の新聞をビリビリに破いたのは無駄だった)
ピーターはとてもいい人だった。凄いテープ・コレクションを持っていて、ビートルズの〈What's the New Mary Jane〉のテープを聞かせてくれた。他所でこの曲を耳にする丸1年前にだ。こいつがどのようにしてフロイドのスタンパーを入手したのかも、テープ・コレクションがどうなったのかも、オレは知らない。さらには、ピーターがその後どうなったのかも知らない。彼は「スピリチュアル」な新しい人生へと向かって行った。ピーター・トソロと会ったのはその時が最初で最後だったが、Wizardo Recordsの誕生のきっかけとなったのが、こいつが持ってた謎のスタンパーだった。
《Take Linda Surfin’》と《Miracle Muffler》のスタンパーを入手した後、次の仕事はプレス工場を探すことだった。インターネットがない時代には図書館が最高の味方だった。タスティンは例外として。タスティンの図書館には「親米的な本が200冊以上と6種の雑誌」があり、「共産主義のプロパガンダは皆無」だった。ということで、ラリーとオレはまともな図書館に行く必要があった。町の怖い地域にあるサンタアナ図書館にだ。そこに行けばロサンゼルスやハリウッドのような近所の共産主義者の生息地の『イエローページ』[職業別電話帳]があると思ったのだ。予想通り、こうした大都市の電話帳にはレコード工場の広告がたくさん載っていた。あとは選ぶだけだ。でも、どれを?
オレたちは電話帳からプレス工場を3カ所選んだ。最初に選んだのはノース・ハリウッドのサンタモニカ・ブールヴァードにあるカスタム・フィデリティーだった。フロント・ドアを開けて、人を威嚇するような長いフロント・カウンターのある巨大ロビーを進む時、オレはビビリまくりだった。カウンターとは反対側には、ストリートが見える巨大なガラス窓が極端な角度でついていて、「どうやってキレイに拭くんだろう?」と思ったのを覚えている。大カウンターには男がたったひとりでいた。そいつはラリーとオレを見て、どんなご用件で?と訊いた。オレは唾をゴクリと飲み込んで、自分たちの「ガレージ・バンド」のレコードをプレスしてもらいたいんですという、あらかじめ練習しておいた話を始めた。説明が半分も終わってない時、突然、フロントドアが開くと、『警部マクロード』をやってる俳優、デニス・ウィーヴァーが猛烈な勢いで入って来た。テンガロン・ハットをかぶり、笑っちゃうほど派手なカウボーイ・ブーツ(色は鮮やかな赤)を履き、フル装備のカウボーイの出で立ちで登場したデニスは、ラリーとオレの前に割り込んで来た。その際、オレはつま先を踏まれた。「坊や、すまんな。大切な用事があるんだ」 ラリーはこの野郎、殺してやるといった顔をしてたが、オレはあまりに面食らって、全く言葉が出なかった。カウンターのところにいた男はミスター・ウィーバーに、今はこちらの人と話をしてるので、ちょっと待ってくれと説明したが、こいつは全く意に介さず、大声で、しかも、偽のカウボーイ風アクセントでまくし立てた。アルバム・ジャケットが届いて、中にレコードを入れる作業がしっかり出来てるのかと。ミスター・ウィーヴァーは自分をカントリー・シンガーだと思っていて、ファースト・アルバムをここ、カスタム・フィデリティーで作ったようだった。こいつは振り向いて、オレを見て言った。「オレは単なる映画スターじゃない。自分のレコード会社だって持ってるんだ!」 どうしてもそう言いたくなったのだろう。その社名はImpressive Recordsなのだとか。10分後にカウボーイ・デニスは帰り、ラリーとオレはカスタム・フィデリティーとの交渉を完了した。遂に、オレたちも自分のレコード会社を持つに至った。社名はWizardo Recordsだ。雑誌のいんちき臭い巻頭記事など必要ない。ビジネス・ライセンスも取ってない。全国放送の連続テレビ・ドラマも持ってない。大人もいない。オレたちが持ってるのは、1セットのスタンパーと、アメリカで最も儲かり、最も腐ったビジネス----音楽ビジネス----に参入したいという欲望だけだった。このビジネスは両腕を広げてオレたちを歓迎した。
レコードを作るために初めてカスタム・フィデリティーに行って、帰宅した時のことを覚えている。サンドイッチを作ろうとキッチンに入ると、親父とお袋はリビングのソニー製13インチのテレビで、何と『警部マクロード』を見ていて、お袋がデニス・ウィーヴァーっていいわねなんて語っていた。そっちに行って、ついさっきデニス・ウィーヴァーに会ったけど、くだらない奴だったよと言ってやろうと一瞬考えたが、思いとどまった。そんなことをしたら、学校ではなくてハリウッドに行ってたこと、レコードを作ろうとしてること、家の前になぜかとまってる謎の外車はオレのものだということも、話さなきゃいけなくなる。親父もお袋も、そこまでは知りたいとは思ってないだろう。
ピーター・トソロからピンク・フロイドの謎のスタンパーを購入したので、この先、どういうふうにビジネスを進めるのがベストなのかを考えなければならなかった。ダブル・アルバムではなく、1枚組のアルバムを2つ作ったほうがいいというのが、オレたちが出した結論だった。こうしたほうが利益は多く、前払い金は最小限に押さえられるからだ。どの曲が入ってるのかも、何年に録音されたのかも知らなかったので、テスト・プレスが出来るのを待ち、それを聞いてからジャケット・アートをデザインすることにしたのだが、レーベル・デザインだけはすぐに仕上げる必要があった。ラリーの寝室でマリファナを吸った後に、手書きのレーベルが誕生した。曲名の入る場所を空けておき、書き込む作業はリスナーに任せた。が、タイトルはどうしよう? タイトルも必要だ。
オレはジャン&ディーンのレコード・コレクターだった。1970年代前半の音楽業界はジャン&ディーンの時代とはガラリと変わっており、彼らのレコードはもはや「ヒップ」とは思われてはおらず、ピンク・フロイドのようなバンドが「カッコいい」の最先端にいた。なので、もはやカッコよくない、昔のジャン&ディーンの曲名をパクって、それを超クールなピンク・フロイドの最新ブートレッグのタイトルにしてしまったら楽しいのではないかと、オレは考えた。そうしたら、昔のジャン&ディーンの歌〈Take Linda Surfin’〉が再びカッコいいものになる。立派なプロパガンダだ。ハ、ハ。笑えるだろ。ただし、タスティンのガキがマリファナでイッちゃってる状態でそう思ったってことは忘れずに。
最初のプレスを聞いて、何の曲が入ってるのか判明したので、オレたちは曲目リストと、ハリウッド・ボウル公演のコンサート・プログラムに載ってたバンドの写真を、ハイスクールの友人、デイヴィス・ベイヤーリーに渡した。こいつはコンピューターが普及するはるか前の時代からグラフィックに取り組んでいた。こいつが巻き付け式のジャケットをデザインし、オレたちはそれを印刷した。オレは今でも、それを誇りに思っている。
《Take Linda Surfin’》で一番苦労したのは、ディスクを挿入した後の白ジャケットに、巻き付け式のジャケットを貼り付ける作業だった。オレたちはスコッチ社のスプレー糊を使ったのだが、缶から霧状になって噴射された糊はそこら中に飛散した。「ジャケット糊付けパーティー」をラリーん家{ち}でやったのだが、仕舞にはガールフレンド同士がくっついてしまう事態になったのを覚えている。後になって聞いたことなのだが、この糊はガンの原因になるのだとか。裏庭で作業をやってたのに、家中に酷い悪臭が充満し、ラリーのお袋さんからは叱られた。あぁ、懐かしいなあ。
ピーターから譲り受けたスタンパーはアメリカで作られたスタンパーよりも分厚く(しかも、銅の補強があった)、アメリカのプレス機では使えないものだった。イギリスのスタンパーは驚嘆すべき代物だった。アメリカで作られるスタンパーより10倍は長持ちするものだった。手持ちのスタンパーしかないので(マザーもマスターもない)、製造することの出来るレコードの量は、マスターがどのくらい長持ちするか次第だった。アメリカのスタンパーは非常に薄くて、とても壊れやすく、1,000枚ほどプレスしたら、取り替える必要があるのだが、イギリス製スタンパーは絶対に壊れない。作業終了後にそれを[Vicki Vinylの]アンドレアにあげたところ、こいつはそれで何年間もレコードを製造し続けたくらいだ。
スワップミートをブートレッグ用の儲かる市場と認識してたのは、ラリーとオレだけではなかった。ケンもそうだった。南カリフォルニアで行なわれてたオレンジ・ドライヴインより大きなスワップミートというと、ラミラダのスワップミートだけだった。ラミラダ・ドライヴインは、ケンとヴェスタが自分のレコード・チェーンをオープンする数年前に、週末に小売りビジネスをやってたところだった。ふたりは長年、そのスワップミートでファニー・ピッグ[The Smoking Pig]のレコードを売ってたのだが、たまにお店を休みした時には、オレンジ・ドライヴイン・スワップミートまでオレたちに会いに来て、商売の様子を気にかけてくれたり、助言してくれたりした。
ある土曜日、ケンが突然現れたので、オレたちはビックリした。その時、ケンが教えてくれた優れた販売術は、そのまま、もしくは、少しアレンジを加えて、オレが家庭電化製品を売ってた時期にも使い続けた。オレは当局の捜査を妨害するために、7年間、大学への入退学を繰り返した後に仕事を変えていた。1970年代後半に、ブートレッグ・ビジネスから一時的に退散する必要ありと感じた時に始めたのが家電の販売で、これをやってた時にはブートレッグを作ってた時よりも稼ぎは多かった。だが、ブートレッグの楽しさと興奮に欠けてたので、これを自分のキャリアだとは考えたことはない。ケンからはたくさんの教訓を学んだが、「販売」テクニックを教授してくれたおかげで、オレは金をかなり稼がせてもらった。
まさにその日、ケンが並べてあるブートレッグを見渡して、「一番売れないレコードはどれだ?」と訊くので、オレは答えた。「よくわかってるでしょう。あなたが「ジュニア・ブラインド」[視覚障害者のためのチャリティー団体?]用に作ったドノヴァンの《The Reedy River》ですよ」 《The Reedy River》は、ドノヴァンが放送メディアに出た時の演奏を、彼の隠れファンのケンが丁寧に編集して作った優れもののブートレッグだ。 デラックス仕様のブートレッグを出したイタリアのレーベル、Jokerがコピーしたのもこのレコードなのだ。素晴らしいレコードなのに、全然売れない。6カ月間に1枚も売れてない。ということで、ケンは言った。「お客さんが在庫の商品を全部見て「これで全部ですか?」と訊いてくることって何度ある?」 オレは答えた。「殆ど全てのお客さんがそう言いますよ」 「それじゃ、やるべきことはこうだ」とケンは言った。「ドノヴァンのブートレッグを棚からはずして、車のトランクに隠しておけ。次に誰かが「これで全部?」って訊いてきたら、「ええ」って答えてから、一瞬、間をおいて「ドノヴァンのレア盤以外は」って言うんだ。そのレコードは超レアだから、厳重に保管しておく必要があるんだと説明しろ。すると、その客は見せてくれないかと必ず言ってくる。そしたら、トランクから1枚取り出して売ればいい。このやり方でいつもOKさ」 オレはそんなにうまくいくはずないと思ったが、5分も経たないうちに、お客さんが、ここにあるもので全部ですか?と訊いてきた。その時、ケンを見たら、ニコニコしていた。
1時間もしないうちに、《The Reedy River》は5枚全部売れてしまった。凄え! これに詐欺行為は全く関与してないと思う。《The Reedy River》は貴重なブートレッグだ。購入したお客さんたちも、気に入ってくれたし。
ケンはオレを見て言った。「今度はリトル・ダブの作ったブラッド・スウェット&ティアーズのブートレッグをトランクにしまえ」 これは魔法のテクニックだった。あらゆるものに通用した。
ケンとの関係を通じて、ラリーとオレはリトル・ダブを紹介してもらった。ダブはケンが《Great White Wonder》《LIVEr》を作った時、及び、オリジナルのTrade Mark of Qualityレーベルを作った時のパートナーなのだが、オレたちが初めてケンと会った時には、このパートナーシップを解消しようとしている真っ最中だった。財政的にどんな取り決めがなされたのかは全く知らないが、最終的にはレーベルが2つの別々のTMQになるという結果になった。一方はケンが経営し、他方はリトル・ダブが経営した。「木版画」スタイルのブタの絵をTrade Mark of Qualityの文字が囲んでいるオリジナルのロゴを継承したのはダブのほうだった。「ブタ」の絵はリトル・ダブの小切手帳からパクったものだ。当時、バンク・オブ・アメリカは顧客の小切手に載せる絵の案をいくつか用意しており、「ブタ」の絵はそうした選択肢の1つだった。ケンは自分のTMQレーベル用に新しいロゴを採用し、「木版画」のブタを、ウィリアム・スタウトが描いたブタのイラストに変更したが、Trade Mark of Qualityという名前はそのまま使用した。業界内では、ケンの新レーベルは「ファニー・ピッグ」と呼ばれ、リトル・ダブのレーベルはオリジナルTMQとして通用した。
ケンとのパートナーシップを解消した後、リトル・ダブの新パートナーとなったのは自分の父親、ビッグ・ダブだった。ビッグ・ダブはずっと郵便局の職員として働いてたのだが、ある日、地下室に行った時に、自分の息子がブートレッグで稼いだ金、3万ドルを数えているのを目撃した。その瞬間、Trade Mark of Qualityはファミリー・ビジネスとなった。地下室(リトル・ダブのベッドルーム)はオフィス兼ブートレッグ問屋となり、TMQは以前よりもはるかに組織化された。ラリーとオレはレコードを購入するために、毎週、そこに巡礼した。取引は常に地下のオフィスにいるビッグ・ダブと行なった。オレはビッグ・ダブが大好きだった。ビッグ・ダブはラリーとオレのユーモアのセンスを気に入ってくれた。いたずらばっかりするオレは、いつも「馬の首」[ホースネックというカクテルがあるが、それと関係があるのかは不明。情報求]と呼ばれた。とても気前が良く、新リリースやテスト・プレス、まだ公表してないアートワークをいち早く見せてくれりもした。後に、オレのパートナーとなるジミー・マディンに紹介してくれたのもビッグ・ダブだった。ビッグ・ダブは当時のブートレッグ産業において大きな役割を果たしてたのだが、コレクターにはその存在を殆ど知られてなかった。レーダーによる捕捉を巧みに避けてたのだ。
ケンとリトル・ダブは世界最大のブートレッガーの称号を獲得した。《Great White Wonder》から得た利益のうちの自分の取り分を高級ポータブル・テープレコーダーに投資して、ローリング・ストーンズの1969年の全米ツアーを録音したのがリトル・ダブだ。そうしてリリースしたアルバム《LIVEr》が、少なくともロックンロールのコンサート・ブートレッグに関しては、全ての始まりとなった。リトル・ダブはナグラとウーヘルのオープンリール・テープレコーダーを購入した。どちらも主に映画産業のために作られ、実際に使用されてるものだった。シングル・トラックのモノラルだったが、テープの速度を7.5ips[19cm/s]に設定すると、優れた周波数特性とSN比を実現した。とても値の張るものだったが、これらは間違いなく1969年において入手可能な最高品質のポータブル・テープ・レコーダーだった。リトル・ダブは1970年代半ばまで、この機材でコンサートの録音を続けた。もちろん、高級の機材を持ってさえすれば必ず良い録音が出来るという保証はない。
1971年にザ・フーがロング・ビーチ・アリーナでコンサートを行なうことになってたので、ケンとリトル・ダブはショウを録音して、ザ・フーのブートレッグ第1号を作ろうと決めていた。ザ・フーは、当時、《Who's Next》がヘヴィー・ローテーション中で大人気を博してたので、コンサートを立派なクオリティーでレコーディングしてブートレッグとして発売すれば、《LIVEr》と同じくらい売れるだろうとふたりは考えた。
ケンはこんな話をしてくれた(せいぜいこの程度しか思い出せないのだが…)。「テープ・レコーダーとショットガン・マイクを積み込んで、ロング・ビーチ・アリーナに向かったのだが、問題は、リトル・ダブがザ・フーのコンサートを見たのはこれが初めてということと、コカインを吸ったのも初めてということだった。リトル・ダブは完全に落ち着きを失い、異常なくらい不安に襲われてしまった」 ケンの話はこう続いた。「こいつはマイクを宙に掲げず、見つからないようにと、足もとに隠してしまったんだ」
その結果、レコーディングには遺憾な点があったが、《Closer to Queen Mary》というタイトルで適当にリリースしてみたところ、ザ・フー人気のおかげで良く売れた。《LIVEr》と比べものにはならなかったが。
週末にオレンジ・ドライヴインで行われてるスワップミート用に大量のブートレッグをキープしてたので、このイベントに参加してない平日の5日間にも、大量の在庫を利用することが出来ないものかと、ラリーは思った。オレたちがオレンジ・カウンティーの独立系レコード店の全てにブートレッグを卸してたことは、既に話した通りなのだが、それでラリーは良いアイデアを思いついた。
ニューポート・ビーチにはオレたちが贔屓にしていたレコード店、ザ・ターニング・ポイントがあった。ここのオーナーのジョンは、かつてカリフォルニア大学アーヴァイン校でで物理学を教えてたのだが、40代前半の時に学問への情熱が燃え尽きてしまい、19歳のブロンドのサーファー・ガールと結婚して、レコード店を購入した。ここは町で一番イカしたレコード店だった。カウンターの後ろの壁には「盗むな----金を払いたくないほど無価値のレコードが欲しいのなら、店員に相談してくれれば進呈する」と書いてある大きな看板があった。看板の効果はあるのかとジョンに質問したら、「イエス」との回答だった。レコードをタダでくれと言ってきた奴はいるのかと訊いたら、「もちろん。でも、昨年中、タダであげたのはたった5枚だったよ。たいていのレコード店は1日にそのくらいのペースで万引きの被害にあってるんだけどね」 ヒッピー連中の心理を突いた見事な作戦だったのだろう。
ラリーとオレはジョンと契約を交わした。月曜日から金曜日まで、ザ・ターニング・ポイントにブートレッグを置いて販売を委託する。金曜日の午後、在庫を引き取り、レコードが売れた分の金を回収する、残りのレコードをスワップミートに持って行く。そして、月曜日の朝にはザ・ターニング・ポイントに在庫を戻して、同じプロセスを再び行なう、というものだ。皆が得をする良い関係だ。ジョンは前金を払うことなく客にたくさんのブートレッグを提供することが出来るし、ラリーとオレはあまり働かずにレコードが売れる。ところが、この良い契約をオレはとっとと台無しにしてしまったのだ。とんだ勘違いをして自惚れたせいで…。残念ながら、こんなことをしてしまったのは、この時が最後ではない。
ジョンの新しい奥さんであるサーファー・ガールのマイラは、彼の半分の年齢の、ブロンドで魅力的な女性で、ビーチ・ボーイズが名曲にしたためたカリフォルニア・ガールの生身のバージョンだった。彼女は旦那と一緒に店で働いてたが、いつも極小ビキニ以外は身につけてなかった。オレはザ・ターニング・ポイントに行くたびに、マイラから誘惑されてるような気がしていた。彼女はあらゆる人間とイチャイチャするのを楽しみ、しかも、気軽にどんどんというタイプの人のようだった。それが、ある日、「気がしていた」ではなくなった。オレは中古レコードのセクションのそばでマイラに追いつめられて、「夫のジョンとはオープン・マリッジ[お互いに浮気OKで、干渉なし]なのよ」と言われ、オレがどう答えていいのかわからないうちに、「あなたとボールしたいわ」なんて言われてしまった。「ボール」とはヒッピーの間ではセックスの婉曲表現であり、16歳のガキが本気になってしまうには、この言葉だけで十分だった。あと先のことなど全く考えずに「え、ええ、いいですねえ」とドモリながら答えてしまった。その時、オレは自分が超イケてると奴だと勘違いしてたのだろう。マイラから電話番号をもらったので、オレは翌日、電話をかけた。
マイラは、その晩、閉店後のザ・ターニング・ポイントで会いましょうと言った。シムカに乗ってやかましい音を立てながら、オレはニューポートにある店に到着し、午後8:00時頃、彼女をピックアップした。セックス以外、オレは特に何も予定してなかったが、少なくともマイラをディナーに連れて行こうとは考え、コスタメサの近くにあるメキシコ料理の人気レストラン、エル・トリートに行ったのだが、セックスをするためにマイラを連れて行ける場所がないことに気づいたのは、ディナーを食べてる時だった。オレん家{ち}には連れて行けない。まだ両親と暮らしていたからだ。マイラん家{ち}にも行くことは出来ない。旦那がいるからだ。やる気が失せる前に、マイラはレコード店に戻ろうと行った。鍵を持ってるので、そこに行けば、店のサウンド・システムで音楽を聞きながらセックスすることが出来るとのことだった。オレもいいアイデアだと思ったので、オレたちは店に戻った。マイラは鍵を開け、ザ・ターニング・ポイントの中に入った。
ピンク・フロイドの《Dark Side of the Moon》はその週にリリースされてたのだが、オレはまだそのレコードを聞くチャンスがなく、この作品に接する機会があったのはハリウッド・ボウルで録音したライヴ・バージョンだけだった。マイラはカウンターの向こうに行くと同時に服を脱いで、《Dark Side of the Moon》をターンテーブルに載せた。〈Speak to Me〉が終わる頃には、マイラはオレを裸にして、『ローリング・ストーン』誌のラックの横の床の上で忙しく「こと」に励んでいたのだが、〈Money〉が流れてる間のどこかの時点で、ガラスで出来た正面カウンターに赤いライトがチカチカ反射した。そして、そのすぐ後、拡声器を通したいかつい声が店の外から響いてきた。「ニューポート・ビーチ警察だ…」 ヤリたい一心のマイラは、店の自動通報装置のスイッチを切るのを忘れてたのだ。オレたちが入った後にフロントドアに鍵をかけるのも忘れていた。数秒もたたないうちに、オレたちはピストルを持ったニューポート・ビーチ警察の精鋭部隊に取り囲まれていた。マイラとオレは素っ裸で床に座っていた。オレが服を着ていいかと訊くと、「ダメだ!」と言われてしまったので、オレたちは警官に睨まれながらヌードのままで座っていた(マイラはそんなに気にしてないようだったが…)。そのうち、店のオーナーであるジョンが到着した。
警官がやっと銃をしまい、オレたちは服を着るのを許された。ジョンは自分の妻であるマイラにあれこれ説教し、その話の内容から判明したのは、ふたりの結婚が「オープン」なものだなんてジョンは聞いてないということだった。オレは恐ろしくなった。ジョンはいい人で、この人とはとても良い条件でビジネスをやっていた。オレはその後、ジョンの目をまっすぐ見ることが出来なくなった。言うまでもなく、ビジネスも出来なくなった。オレが全てを台無しにしてしまったのだ。10代だったから、なんて言い訳にはならない。本当にバカことをやってしまったと思う。
興味深いことに、オレはその晩、シールドを開けてしまった《Dark Side of the Moon》を自宅に持ち帰っている。どうやって店から持ち出したのかは想像すら出来ない。その日、オレは自宅で一晩中、このアルバムをヘッドホンで聞いた。何度も何度も。今でも〈Money〉を聞くと、マイラと一緒に警官に銃を向けられたのを必ず思い出してしまう。
オレンジ・ドライヴイン・スワップミートでレコードを売る日々に戻ったオレは、TMQのレコードを仕入れるために、毎週、ビッグ・ダブ・テイラー邸詣でを行なった。テイラー家は、グレンデイルのフリーウェイ5号線の東のロスフェリス・ブールヴァードに美しい家を構えていた。1920年代に建てられたものだと思う。テイラー家にはあらゆる人間に向かって吠える小型犬を飼っていた。キッチンから急な階段を下って地下室に行くと、そこがTrade Mark of Qualityの本部だった(ケンは「あのキャンキャン吠えてウザい犬」を階段のところで蹴飛ばしそうになったと言っていた)。この地下室は元はリトル・ダブのベッドルームだったのだが、この頃はダブは家を出てガールフレンドと暮らしていた。昔、リトル・ダブのガールフレンドが超キレイなことをケンに言うと、「確かに。でもなあ、中西部に行ったら、誰でも美人をガールフレンドにすることが出来るんだよ。リトル・ダブもそうしただけさ。マジでカワイイ娘{こ}だらけなんだぜ」とのことだった。(ということで、オレは次にオハイオの大学を選んだ)
地下室は、オレが毎週、ビッグ・ダブと会う場所だった。ビッグ・ダブはここを問屋、オフィス、発送センターに作り変えて使っていた。TMQはビッグ・ダブによって新たな段階にレベル・アップした。この頃になると、TMQは地下にある本部の他に、少し離れたところに巨大な倉庫も抱えていた。レコードをシュリンク・ラップするための半自動の熱トンネル・シール・シュリンク包装機もあった。オレはこんなに大きなものを見たことがなかった。大枚をはたいて購入したに違いない。一度、大量に注文が入った時、アンドレアとオレがビッグ・ダブを手伝った。アンドレアが巨大なシュリンク包装機を動かしてる間、オレはその周囲でサボってたのだが、とても楽しかった。アンドレアより働き者はいなかったし、オレより怠け者もいなかった。ビッグ・ダブも臆することなくそう言った。頻繁に。
怠け者のオレが自分のレーベルを設立したいと思ってることを、ビッグ・ダブは知っていた。ある日の朝、「年上の男なんだが、ブートレッグ・レコード・ビジネスに投資するための金を持ってる奴を知っている。興味はあるかい?」とビッグ・ダブから言われた。他の奴から言われたのだとしたらオファーを断ってただろうけど、ビッグ・ダブはブートレッグ・ファミリーだ。オレは彼を信じて、ミーティングの設定をお願いしたのだが、想像をどんなにワイルドに膨らましても、ザ・マッドマンを紹介されることになるとは思ってもいなかった。
この「年上の男」とは、その後間もなくWizardo Rekordsレーベルでパートナーになった奴なのだが、かつてはハリウッドのアイコン的存在だったジミー・マディンだったのだ。ジミーは全盛期には大物サックス・プレイヤーとして活躍し、ロサンゼルスでは『ザ・マッドマン・マディン・アワー』(1957〜58年放送)という自分のテレビ番組を持っていた。『Ghost of Dragstrip Hollow』という映画にも出演し(YouTubeにある)、レコードもたくさんリリースし、地元ロスでも全米でもチャートインを果たしている。サックスを演奏してた時代が終わると、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズの音楽部長になり、この頃にはザ・シーズ等のバンドのマネージャーにもなっていた。そして、オレと出会う頃には、ジミーはグレンデイルでバーを2軒----ザ・トロジェン・ルームとザ・コパ----持ち、シルヴァーレイクには汚く散らかった家があった。オレたちが初対面したのはこの頃だった。ジミーは背が低く、社交的なタイプで、歳は60くらいだった。残ってる髪は黒い靴墨で染めたように見える。食べてるサンドイッチから垂れたマスタードがシャツに付いていた。オレは一瞬でジミーを気に入った。オレたちはしばらく話し込み、オレが何タイトル作ろうと、その資金はジミーが出してくれるということになった。オレの夢が叶うまで、あともう1歩だった。
ここで余談なのだが、オレたちが初めて会った頃には、ジミーは長らく通信販売ビジネスもやって儲けていた。1960年代には、どの町でもすぐに手に入る音楽雑誌といったら『シックスティーン』誌しかなかった。これはグロリア・スタヴァーズが編集を担当してるティーン向け雑誌だったが、『ローリング・ストーン』誌が登場する前にはこれしかなかったのだ。毎号、後ろの方に映画スターやロックスターの写真を売りますという半ページの広告があって、「私はハリウッドのジェリーよ! 大好きなスターの写真を送るわ!」という飾り文句の下には、ジェリー本人と思しき20数歳くらいの褐色の髪の女性の写真と、写真のカタログの申込書があった。オレは子供の頃に、こうした広告を見て、数々のスターとコネのあるこのグラマラスな女性は、いったい何者なんだろうと疑問に思ってたのだが、ハリウッドのジェリーが実はジミー・マディンだと知って、とてつもなく悲しかったのと同時に、腹がよじれるくらいおかしかった。
ジミーとオレが共同でWizardo Recordsを立ち上げた頃、彼は既に他にもいくつか商売をやっていて、はやったりはやらなかったりしていた。2軒のナイトクラブと通信販売をやってることはさっき話したが、通信販売事業の1つが『ムーヴィー・バイズ』というものだった。ジミーは『ヒットメイカー』誌や他の低予算の音楽誌に広告を出して、ロックンロールのパフォーマンス(ほとんどは昔のテレビ放送からパクッたものだった)を収めた短い家庭用フィルム(8mm)を売っていた。家庭用ビデオ・レコーダーが普及する前の時代のことであり、画質は酷い、というより最悪だったのだが、ジミーはそういう代物を郵便システムを通してたくさん売っていた。
ムーヴィー・バイズは、ネガをポジにしたり複製を作ったりする作業をグレンデイルにあるハリウッド・シネ・ラボにやらせていた。ロスにある全てのポルノ映画会社や怪しいプロデューサー連中が、この無法状態の店を使っていた。法律やモラルに違反するものは、ハリウッド・シネ・ラボで製造されていた。このラボの歴史は1930年代に始まり、当時から『Reefer Madness』をはじめ、ヘイズ・コード[ハリウッド映画界が自主的に決めた倫理的ガイドライン]を無視したいわゆる「テント映画」のプリントを製造していた。ハリウッド・シネ・ラボは、ある意味で、映画業界のルイス・レコード[ブートレッグを製造してくれたプレス工場]だったと言える。どちらも複製を作ることを生業としてたが、品質は2の次だった。品質が2の次のブートレッガーにとっても、この2軒の業者はうってつけだった。
ある日、ジミーがハリウッド・シネ・ラボに連れてってくれた。オレたちはビュイック・エレクトラに乗ってグレンデイルの中を永久にグルグル回ってるように思えた。酒を受け取ってバーに届けるために、何度かストップした後、やっと目的地に到着した。中に入るやいなや、ジミーはカウンターの向こうにいた男とビジネスの話を始めたのだが、こうしてる間、隅にいるみすぼらしい格好の奴がジミーの注意を引こうとしてるのに、オレは気がついてしまった。あいつは誰?とジミーに尋ねると、封切り前の映画のネガフィルムを売ってくれる奴のことだった。ジミーはカウンターでの仕事を終えた後、隅まで行って、そいつと話した。ある時、ジミーはこっちに戻って来て言った。「私の友人」が「来年の夏に封切り予定の、大ヒット間違いなしの新作SF映画の音声入りネガフィルム」を持ってるんだと。ジミーがオレに「購入したほうがいいかな?」なんて訊くので、オレは「どんな映画?」と質問した。すると、ジミーは「巨大鮫がボートを丸ごと食っちまうんだ」と言ったので、オレは「今までに聞いた中で一番くだらない作品ぽいです。さっさと帰りましょう」と言った。結局、オレたちは『ジョーズ』のプリントを買わずにハリウッド・シネ・ラボを後にした。
Wizardo Recordsからリリースする全てのレコードで使うマトリクス番号の接頭コードを決める際、オレはWRMBがいいだろうと提案したのだが、これはWizardo Records Movie Buysの頭文字をとったものだった。
デニス・ウィーヴァー、及び、こいつのどうしょもないテレビドラマ『警部マクロード』には、あの楽しかった初対面から数年経た後に、再び対処を迫られた。その頃、Wizardo Recordsは全力で活動していた。ラリーがこの仕事から離脱して、ヴァーモント州にあるゴダード大学に通ってるために、オレは新パートナーのジミーとWizardoを切り盛りしていて、殆ど全てのメタル・パーツはサンタモニカのレインボ[プレス工場]に既に引っ越ししてあった。この頃、オレたちは30ほどのタイトルを絶賛プレス中だった。レインボで製造したディスクには全て、青のWizardoレーベルを使っていた。
ある月曜日の晩の11時頃、レインボのジャックから半狂乱の電話がかかってきた。「今すぐ」工場まで来て、持ち物を全部、撤去してくれとのことだった。メタル・パーツ、レーベル、ジャケット…とにかく全てを持って帰って欲しい。説明してる暇などない、とにかくこっちに来い、急いで!
あの頃は、この種の電話が意味してることは、あれしかなかった。FBIによるガサ入れが差し迫っている。レコード業界は腐敗してたので、家宅捜索が近いという警告を工場が前もって受け取るのは珍しいことではなかった。ブートレッグが直接、プレス工場から押収されるのが非常に稀なのは、そういうわけなのだ。FBIが到着した時には、不正な製品はもうそこにはない。ブートレッグ? ブートレッグって何ですか?
とにかく、オレは車に乗ってサンタモニカに向かった。レインボ・レコードはウェストミンスターにある自宅アパートメントから車で約1時間のところにあったので、到着予定時刻は深夜0時頃だった。車に乗ってる間はずっと、この先、何が起こるんだろうと考えていた。最近は、どこかがガサ入れを喰らったという話は全く聞いてない。FBIはWizardoのレコードをターゲットにしてるのか? それとも、何が穫れるかわからないまま魚釣りに出かけるようなものなのか? オレは心配で仕方なかった。
レインボに到着すると、ジャックと会うことになってる商品積み卸し場に直行した。驚いたことに、そこのドアは大きく開いており、中で働いてる連中が数人見えた。「マズイことになりそうだな」 そいつらはあらゆるものを片づけてるように見えた。ジャックもいた。きっと、近々あるというガサ入れと、それをどうやって知るに至ったのかという話を、こいつから聞かされるのだろう。ところが、予想に反して、こいつは全然違う話を始めた。
ジャックはテレビ番組の製作会社と契約して、丸1日、ロケ撮影用にレインボの工場を貸すことになった。で、何の撮影かというと、『警部マクロード』だったのだ。ジャックが驚いたことに、撮影が数日前倒しになったので、オレたちは直ちに荷物を動かす必要が生じたのだ。
『マクロード』のこの回は筋が最高だった。デニス・ウィーヴァーが追ってたのは、全てのブートレッガーがそうであるように、残忍な殺人を行なったブートレッガーだった。ジャックが最も恐れてたのは、背景を撮影するためのBロールに本物のブートレッグが写り込んでしまうことだった。オレはおかしくて仕方なかったが、自分の作った物をどけることに同意した。自分の荷物をまとめながら工場を念入りに見渡して、今回の件がFBIのガサ入れとは関係のないことを知ってホッとした。
数週間後にレインボに行くと、ジャックが話の面白い顛末を教えてくれた。丸1日かけた撮影の日、ジャックは工場内をウロウロしながらクルーが撮影するのを観察していた。ある時、品質管理室の外側にカメラが設置されていて、部屋の中にあるターンテーブルの上でレコードが回ってる様子を撮影してるのに気づいたのだが、回ってたのが青いレーベルのWizardoのレコードだったのを目にしてジャックは顔面蒼白状態になったという。オレは片づけてる最中、品質管理室もチェックしなきゃとは思いも寄らなかった。
オレはジレンマの中にいた。そのシーンが放送されたらいいなあという気持ちもあり、同時に、されなければいいなあという気持ちもあった。Wizardoのレコードがテレビ・ドラマの中に永遠に記録されたとしたら、とても素敵なことなのだが、本当にそうなってたとしたら大惨事を引き起こす結果になった可能性があろう。なので、そのシーンが編集でカットされたのは、きっと良いことだったのだ。その回は最初に放送された時に見た。アンドレアと一緒に見たと思う。もちろん、酷いドラマだった。シリーズ全部が酷い代物だった。デニス・ウィーヴァーも酷かった。でも、ブートレッガーにとっては楽しかった。オレたちは冷血な殺人者ではなかったが。
Wizardoとレインボ・レコードに関しては、面白い話がまだまだたくさんある。その時代の多くのプレス工場と同様、レインボの毎日の操業はベアという超強力な女性が切り盛りしていた。彼女はサンフェルナンド・ヴァレーに2軒のオルタナティヴ・ライフスタイル[同性愛者用?]のバーを持っていた。オレたちは親しい友達になった。ベアも物言わぬパートナーとブートレッグを作っていたのだが、それはまた後日話そう。
第4回に続く…
The original article “The John Wizardo Interview” by Steve Anderson
http://www.floydboots.com/pages/JonWizardo.php
Reprinted by permission