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回想録&インタビュー
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBI
回想録&インタビュー
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBI
聞き手:スティーヴ・アンダーソン
キム・フォウリーは魅力的な男だ。身長が6フィート[180cm]を超えてたこいつは、自分は背が高過ぎてロックスターには向いてないと思ってはいたが、その道を諦めてたわけではない。1958年、キムはジャン&ディーンと同じ高校に通っていた。このデュオが〈Jennie Lee〉で初のヒットを飛ばした時、キムは自分にもヒット・レコードを作ることが出来るはずだと感じた。だって、ジャン&ディーンに出来ることなんだから(大きく健康的なエゴは、常に、キムのオーバーサイズの人格の大きな一部だった)。そして、笑ってしまうことに、キムは実際、同年に、ジャン&ディーンよりも大きなヒット・レコードを作った。キムのグループ、ザ・ハリウッド・アーガイルズがリリースした〈Alley Oop〉というノヴェルティー・ソングは、同じ年に、チャートを第1位まで上昇したのだ。しかし、ジャン&ディーンはその後もヒット曲を出し続けることが出来たのだが、キム・フォウリーはその器ではなかった。
キムは1960年代の大部分を再度ヒットを飛ばそうと企てて、うまくいったりいかなかったりしていたが、1970年代半ばには、他の才能を育てる「プロデューサー」と「プロモーター」の2役をこなすことに落ち着いていた。1960年代の女の子のバンド、ザ・シャングリラスがずっと大好きだったキムは、1970年代仕様にアップデートした「パンク」バージョンのバンドを作れば、同じくらい人気が出るかもと考え、3人の若い女性ミュージシャンを勧誘して、ハリウッドのスタジオでリハーサルをさせた。そうして誕生したのがザ・ランナウェイズだった。キムは彼女らを「スクール・ガール・ロックンロール」として宣伝し、マーキュリー・レコードとの契約を獲得した。何度かのメンバーチェンジを経た後にバンドは4人組となり、ファースト・シングル〈Cherry Bomb〉を宣伝するためにワールド・ツアーを開始した。バンドは驚くべき速さでトップに向かって突っ走り、キム・フォウリー本人も再び注目されるに至った。
ランナウェイズはハリウッドのザ・スターウッドに出演予定だったので、オレは是非、このショウのブートレッグを出したいと思った。ということで、友人{ダチ}のマイクとオレはチケットを買った。マイクはベトナム戦争に行った兵役経験者で、並々ならぬレコード・コレクターだった。オレがジャン&ディーン・コレクションを築くのを助けてくれたのがこいつだった。とても穏和な性格で、どんな状況でも冷静でいることが出来た。しかも、とても屈強さも持っていた。つまり、こいつはブートレッグ作りには完璧な仲間で、こいつのいろんな才能のおかげでオレは何度助けられたかわからない。特に、ランナウェイズのコンサートでは。
ランナウェイズのスターウッド公演は、まさにオレたちの予想通りの様相を呈していた。ソールドアウトの会場には客がスシ詰めになっていて、立ち見オンリーの客席の中は体と体が触れ合うくらいの混雑だった。録音するには非常に難しい状況だったが、マイクは体を張ってレコーダーとマイクロホンをしっかりと守ってくれた。ショウの最後に狂乱状態になるまでは。当時、ランナウェイズのコンサートは、フィナーレで血糊の入ったカプセルという小道具が登場した。こうした派手な演出のおかげで観客は狂乱状態になり、会場は大混乱。あちこちで体が宙を舞っていた。オレの周りでも大騒ぎが始まったと思った途端、自分の体が床から浮いたような感じがした。マイクが片方の手で群衆を押し退け、もう片方の手でオレをテーブルの上に載せてくれたのだ。オレは安全だったのだが、マイクロホンのケーブルはレコーダーから外れてしまった。ブートレッグにフィナーレが収録されてないのはこのせいなのだが、それ以外の点では、初期ランナウェイズのショウの熱気を捉えた非常にエキサイティングな記録となっている。
最初のランナウェイズのブートレッグが大成功したので、当然、2枚目も出すことになった。バンドの人気が高まると、コンサートを行なう会場も大きくなっていき、ランナウェイズは1977年にはサンタモニカ・シヴィック・センターでヘッドライン・ショウを行なうことになった。前座はチープ・トリックだ。マイクとオレはこのコンサートのチケットも買い、ランナウェイズとチープ・トリック、両方を録音した。この時も、ランナウェイズがブートレッグでも人気があることがわかった。オレのほうで商売が終わった後にメタル・パーツをアンドレアにあげたら、彼女は2つを合わせて2枚組バージョンを作ったが、こちらもファンには非常に好評だった。
マイクとオレはランナウェイズが大好きで、コンサートを何度も見に行った。メンバーとは個人的は知り合いではなかったが、そうした状態も間もなく変わることになった。その年のもう少し後になって、リヴァーサイドのレインクロス・スクエアで行なわれたランナウェイズのコンサートで、全く予期せぬ驚きがあった。予期せぬ出来事が起きる時、それは時として超楽しい話になる。
マイクから教えてもらったのだが、KROQラジオでランナウェイズのインタビューを聞いてたら、バンドがあのWizardo製ブートレッグ・レコードについて好意的な発言をしてたらしいのだ。インサートのアートワークについて、メンバーが冗談も言ってたとのことだった。「家出」した若い子が「ヤクを打ってる」という、ある意味、様式化した写真を『ペントハウス』誌からパクってジャケットに使ってたのだが、あるバンド・メンバーが、この写真がジョーン・ジェットに似てると言い出した。バンドがスターウッド公演を記録したブートレッグを認めてくれて、宣伝すらしてくれてたように思い、オレは大感激した。
リヴァーサイドのレインクロス・スクエアでコンサートがあることを教えてくれたのもマイクだった。オレたちはチケットを買って、Wizardoからレコードを出すために3度目のライヴ・レコーディングをやろうと決めた。またメンバー・チェンジがあったこともマイクが教えてくれた。今度はベースが交代した。オレたちは会場に早く到着して、ウロウロ、ブラブラすることにした。マイクのホンダでリヴァーサイドに到着したのは、開演の2時間前だった。
到着して驚いたのだが、ここは約2,000席で、音響もバッチリの素敵なシアターだった。録音に適した一番いい場所を見つけようとウロウロしてると(自由席だったのだ)、マイクの姿がしばらく見えないなあと思ったら、「オール・アクセス」のバックステージ・パスをどこかから見つけて、2つ持って戻って来た。オレたちはただちにそれを服に貼り付けて、バックステージに向かった。
腹が減ってたので、まずは軽食のサービスをチェックした。オレの記憶では、ご馳走が並べられてるというものではなく、ポテトチップやソフトドリンク等が置いてあるようなものだった。すると間もなく、バンドがもうすぐ到着するぞという声が聞こえてきたので、マイクとオレはバンドの会場入りを見ようと(新しいベース・プレイヤーも一目見るために)楽屋口に行った。オレたちはドアの隣の壁際を陣取った。数秒後、ドアが大きく開いて、まずはジョーン・ジェット、続いてサンディー・ウェスト、次にリタ・フォード、そして、新ベース・プレイヤーと思しきブロンド美女が入って来た。バンド・メンバーは皆、オレたちにもみくちゃにされながらも目は真っ直ぐ前を見て進んでたのだが、新人が立ち止まり、オレを見て、もう1度見て、言った。「ワオ、ジョンじゃないの。ここで何やってるのさ?」 オレは何が起こってるのかわからず狼狽した。オレはこの娘{こ}のことは知らないのに、この娘{こ}はオレのことを知ってるの? 予想外の事態だ。テープ・レコーダーとマイクロホンも持ってるので、本当にどうしよう? 幸い、マイクはオレが困った時に面倒を見てくれることに長けていた。この時は、素早くオレと謎の女の子の間に入ってくれた。オレがバックステージ・エリアからさっさと脱出しようとしてる時、マイクが「フレンドリー」な声で「ジョンを知ってるの?」と訊いてるのが聞こえた。オレは今起こったことを理解出来なかったが、マイクが真相を突き止めてくれるだろうと思っていた。その間、オレは安全な客席に向かって走っていた。群衆の中のほうが見つかりにくいと思ったのだ。
30分後、マイクがやっとオレのところに戻って来て、ビックリすることを話してくれた。オレたちはもう1度バックステージに行った。今度は、正式に招待されて。
ラリーとオレがまだハイスクールに通ってた頃、ザ・Bトフ・バンドはさまざまな紆余曲折を経験した。いろんなミュージシャンや友人が臨時で入れ替わり立ち替わり参加したが、ラリーとオレは中心メンバーとしてだいたいいつもいた。ある時、「ギャラがでる仕事」が入ったので、きちんとりたリハーサルをやる必要が生じたのだが、ラリーの親父さん、お袋さんはこの目的のために、気前良くガレージを使わせてくれた。デイヴ・ジネットとかいう名のギタリストがドラマー(名前はとっくの昔に忘れてしまった)を連れて来た。ふたりはオレたちよりも年上で、本物のロックンローラーのように見えた。ドラマーはアフロヘアーに髭! オレたちは毎日、放課後にヒット曲の練習を始めた。新メンバーはラリーとオレが書いた曲を演奏するのも嫌がらなかったので、来{きた}るコンサートに向けてガレージで楽しく練習をした。Bトフ・バンドのショウの目玉は、皆に自分の楽器を持って来させて、客席で一緒に演奏してもらうことだったので、ギグによっては誰もが参加できる長いジャムが行なわれることがあった。ショウにチューバを持って来たツワモノもいた。そいつは最前列に陣取っていた。
1960年代、70年代には、全ての町の全ての地区の全てのストリートに、ビッグになることを夢見る「ガレージ・バンド」が存在していた。タスティンの、ラリーん家{ち}のあるウッドローン・ストリートにはBトフ・バンドがあった。あらゆるガレージ・バンドと同様、オレたちもフル・ボリュームで練習した。何時間も。得意げに。
ラリーにはウェンディーという妹がいた。時々、ウェンディーは彼女の友人{だち}と一緒に、オレたちがガレージで練習するのを見てたのだが、こいつらにはあまり注意を払ってなかった。だって、所詮、ラリーの妹の友達{だち}だろ…。こいつらの誰かと話をした記憶もない。「相手にするには幼すぎる」と思ってたのだろう。ウェンディーは少なくともしばらくの間は俳優の道に進み、映画『ポーキーズ』シリーズの1つに出演してると思う。彼女の友人{だち}のひとり、ヴィッキーも興味深いキャリアを歩んだ。
その晩、リヴァーサイドのレインクロス・スクエアで行なわれるランナウェイズのコンサートで、マイクはオレを見つけると、新ベース・プレイヤーのヴィッキー・ティシュラーはウェンディー・フェインの友人{だち}だと教えてくれた。「ラリーん家{ち}のガレージでお前が練習してるのをよく見てたから、お前のことを覚えてるんだって」とマイクは語った。「だが、お前がブートレッガーだってことも知ってるぜ。お前がショウを録音するためにここに来てるってこともメンバー全員が知ってるんだけど、別にいいよだって」 それからマイクはこう続けた。「ヴィッキーの新しいステージ・ネームはヴィッキー・ブルーっていうんだ。お前にバックステージに来て欲しいってさ」 オレは何かの罠かもと考えた。控えめに言っても話が出来過ぎている。だが、オレはマイクを信頼し、こいつがその話を信じたのなら、チャンスに賭けてみる価値はあると思った。ということで、その晩、2度目となる、バックステージ訪問を行なった。
マイクの言ってた話は正しかった。オレはヴィッキーのことがわからなかったが、ヴィッキーは確かにオレのことを覚えていた。何年も前に、ラリーん家{ち}のガレージでオレがBトフ・バンドの練習をしてるのを見たという話を、ヴィッキーはしてくれた。全てが超現実的に思え、なかなか理解することが出来なかった。ヴィッキーは、今はハリウッドで暮らしてるのと言い、オレに電話番号をくれた。ワオ! 超イカした出会いだぜ。マイクとオレはショウを録音するために客席に戻った。
レインクロス・スクエア公演のライヴ・レコーディングは、Wizardoがリリースするランナウェイズのブートレッグの第3弾になる予定だったが、いろんな理由でそれは実現しなかった。しかし、マスタリングは済み、インサート・カバーのデザインも出来上がっていた。予定していたタイトルは「Stolen Property」[盗まれた財産]だった。使わなかったジャケット・デザインに関する裏話も面白いかもしれない。
オレがヴィッキー・ブルーと会うよりずっと前、ジム・ウォッシュバーンはランナウェイズのオリジナル・ベーシスト、ミシェル・スティールと付き合っていた。彼女はバンドを早々にやめて、バングルズに参加した。賢い選択だと思う。詳しいことは忘れてしまったが、馴れ初めの話はジムから聞き、ミシェルのランナウェイズ時代の話は、ある晩、彼女のアパートメントで聞いた。ミシェルは思い出の品の入った箱を取り出して、その中身をオレに見せてくれたのだが、あるものがすぐに目に付いた。それは巨大な鮫の歯がついた銀のネックレスだった。それにまつわる話はあるのかと訊いたら、笑いながら言った。「それは私がバンドに入った日にシェリー・カリーから盗んだものよ。その日は、バンドを辞めようと思った日でもあるんだけど、単なる偶然の一致じゃないのよね」 彼女はオリジナル・トリオにシェリーが加わったばかりの頃の貴重な宣伝用写真を見せてくれた。ミシェルによると、ランナウェイズはこのラインナップではショウをやったこともレコーディングをやったこともないらしい。ウマが合わなかったんだと思う。キム・フォウリーも言っていた。「シェリーのエゴを扱うのは、犬がオレの顔に向かって小便をするがままにしとくようなもんだった」 つまり、そんなことがあったのだ。オレが何者だか知ってるミシェルは、Wizardoから発売予定の《Stolen Property》のジャケットに鮫の歯のネックレスの写真を使えばと提案してくれたのだが、オレもいいアイデアだと思った。
しかし、残念ながらレコードが出ることはなかった。ランナウェイズのリヴァーサイド公演のバックステージでヴィッキー・ブルーから電話番号をもらった後、オレは数日まって電話をかけて、ハリウッドまで会いに行ったのを覚えている。ヴィッキーはガワー・ストリートにあるエドワード・G・ロビンソンの古い家で暮らしていた。朝の6:00になると、観光バスが次々にこの家の前に横付けになり、もうそんな時間であることを知らせた。気が散るなあ。ある土曜の晩には、ヴィッキーからキャピトル・レコード・スワップミートに連れてってよとお願いされた。この非衛生的な「コレクター」ミートは、毎週、キャピトル・レコードの駐車場で開催されていて、午前12:00頃から始まって、一晩中行われていた。毎週、何百人もの「レコード愛好家」が集まり、貴重なレコードや大量のブートレッグを見つけるにはパーフェクトな場所だった。オレは喜んでヴィッキーをそこに連れてったのだが、それは間違いだった。
場所がハリウッドだけに、到着するが早いか、キャピトルにいたロック・ファン全員がヴィッキーに気がついてしまった。そして、こいつらの多くはオレにも気がついた。ブートレッグ・コレクターだったからだ。皆、こっちを指さしたり、写真を撮ったりし始めた。さらに悪いことに、その晩はカート・グレムザーがここに来ていたのだ。こいつはこの件を言いふらすに違いない。オレは世間を騒がせたくはなかった。マーキュリー・レコードの法務部がヴィッキーの交友関係について何か言ってくるかもしれない、というのがオレの心配だった。とにかく、ヴィッキーにとって(オレにとってもだけど)トラブルになることは絶対に避けたかったのだ。オレはこれ以上、虎の尻尾をひねらない方がいいと思って《Stolen Property》を永遠に棚上げした。
レインクロス・スクエア公演はボツにしてしまったが、オレはランナウェイズのさらにいくつかのコンサートを録音し、リリースすることを考えた。伝説のゴールデン・ベア公演は特に出来が良かったし、バークリー公演も良かった。ファンのために、いつかこのコンサートをリリース出来たらなあと考えるのは楽しい。
ローリング・ストーンズは、つい先日、1973年のアルバム《Goats Head Soup》のリイシュー盤を発売することを公表した。これには未発表だった「新曲」が含まれてるとのことだが、そうした曲の1つ、〈Criss Cross〉はWizardoが1977年に発売したレアなEP盤(グリーン・ビニール)に収録されていた。
この頃、オレはスキーキー・ボーイと一緒にアーヴァインのウッドブリッジにあるアンドレア宅で暮らしていた(アンドレアはラグナビーチの新居に引っ越していた)。巨大な家なのに家具は殆どなく、殆どの部屋は空っぽだった。リヴィング・ルームにはテレビが1台とローンチェアー[日光浴用折りたたみ椅子]が2つあるだけだった。この家は高級住宅街にあったので、近所の住人は隣にいる「クレイジーなヒッピー」は何者なのか疑問に思ってたことだろう。オレたちは連中とは口をきかなかった。まわりの連中にとっては資産価値を下げる存在だったかもしれないが、オレたちはとても楽しく暮らしていた。一度、スキーキー・ボーイの伯父さんのブレインがオーストラリアからやって来たことがあった。近所のオバチャン連中を驚かすために、ロマンスグレーのブレイン伯父さんにはオレたちお抱えのイギリス人執事として振る舞ってもらった。オレたちがからかいの対象としたオバチャンたちは、オーストラリア訛とイギリス訛の違いなんてわからなかったので、いつも感心していた。ブレイン伯父さんもそれを楽しんでいた。彼はオレのベッドルームにいきなり入って来ると(オレが呼んだ客人たちが裸だとわかってのことだ)、「失礼いたします、旦那様。警察署長からお電話です」と叫んだ。昔のテレビドラマ『バットマン』に出てくるアルフレッドのように。そのうち、ブレイン伯父さんはオーストラリアに帰国したのだが、一緒に過ごした時間は忘れられない。
ある晩、スキーキー・ボーイとオレがローンチェアーに座ってテレビを見てると、日本の新作長編アニメ映画[サンリオ制作の『星のオルフェウス』。英題は『Metamorphosis (Winds of Change)』]がオレンジ・カウンティーで公開となることを宣伝するCMが現れた。オレたちはアニメなんてどうでもよかったのだが、広告の後ろで流れてた音楽に驚愕した。紛れもないローリング・ストーンズだ。しかも、聞いたことのない曲だったのだ。そして、コマーシャルの最後に、「ローリング・ストーンズの新曲をフィーチャー」という結び文句が登場した。ワオ! オレたちはすぐに新聞をひっ掴み、映画が上映される劇場を探した。
映画のタイトルは覚えてないが、そんなものはどうでもよかった。気になってるのはフィーチャーされてるというストーンズの未発表曲だった。オレは信頼できるウーヘルのテープレコーダーとマイクロホンを荷造りして、劇場に向かった。オレは映画のどの部分でストーンズの曲が使われてるのか知らなかったので、客席でマイクロホンをセットすると映画を最初から最後まで録音した。約90分間、バックでテクノ・ミュージックが流れた後、CMに騙されたのかと思った頃、突然、紛れもないローリング・ストーンズのサウンドが流れて来た。ストーンズの未発表曲がこのゴミのような日本のアニメに使われてる理由は全くもって不明だが、確かに入っていた! 劇場はほぼ空っぽだったので、お目当の曲を素晴らしいステレオで録音することが出来たのだが、映画の最後のクレジットには曲のタイトルが出てこない。ただ「ローリング・ストーンズ、著作権登録1972年」とのみ書いてあった。
オレたちは急いで帰宅して、約100回、レコーディングを聞いて、タイトルを〈Save Me〉に決めた。この言葉が一番頻繁に出て来るからだ。スキーキー・ボーイズとオレはフル・アルバムを出せるほどのマテリアルは持ってなかったので、このトラックと、さまざまなプロジェクトから漏れた3曲を収録した7インチのEPレコード用のマスターを作って、ルイス・レコードでグリーンのビニールにプレスして、ものの数日のうちにリリースした。製造したのは限定500枚で、売れ行きはとても良かった。
新しい《Goats Head Soup》のリイシューでは、オレたちが〈Save Me〉と呼んだ歌には〈Criss Cross〉という「正式なタイトル」が付いている。興味深いことに、1980年代に誰かからもらったアセテートにもこの曲は収録されていて、その時のタイトルは〈Criss Cross Man〉だった。このアセテートはあるパーティー会場にジミー・ミラーが置き忘れたものらしい。とにかく、これは全部、同一の曲がさまざまなタイトルで変化{へんげ}したものだ。ミックスも同じようだ。ストーンズは、昔のアウトテイクをリリースする時には、たいてい音を追加して、きれいに磨きをかけてしまうのだが、〈Criss Cross〉についてはこの例から漏れ、棚からテープを下ろし、埃を吹き飛ばしただけのようだ。それに、映画の中に出て来た著作権登録の年が正しいなら、〈Criss Cross〉は 《Goats Head Soup》ではなく《Exile》のアウトテイクだろう。オレが言うのも何だが、タイトルとしては〈Criss Cross Man〉が一番気に入っている。昔のアセテート盤は今でも持っていて、どこかにあると思う。
1970年代には時々、箱詰めしたレコードを、さまざまな東海岸の目的地にカウンター・トゥ・カウンターの航空貨物として送った。これは遠く離れた小売業者にいち早く製品を届けるのに良い方法なのだが、この種の「配送」は正規の料金だととても高いのが問題だった。航空会社は荷物に対しても人間を運ぶのと同じくらいの料金を取っていた。これはコストがかかっても大丈夫な大企業用のシステムではないかと思う。しかし、運の良いことに、ケンがこのコストを劇的に安くするクールな裏技を教えてくれた。10〜20ドルでスカイキャップ[手荷物運搬係]を買収すればいいのだ。「ホワイト・ゾーン」(乗客が荷物を預ける場所)に車を横付けして、トランクから箱を運び出して、手荷物運搬係を呼んで、「この箱はJFK行きです。カウンター受け取りで」と告げる。それから、10ドル札を出して、「これがチケットです」と言うと、手荷物運搬係は「イエス、サー」と言って「チケット」を自分のポケットの中に入れる。5時間後には荷物はニューヨークで拾われる。とてもスムーズだ。時々、なかなか賢い手荷物運搬係がいて、「もっと大きなチケットでないと…」と言われることもあるが、そんな時は20ドルあげればいい。ヘッ、ヘッ、ヘッ。
1970年代のある日、オレンジ・カウンティー空港でブロンクスのマーティー宛の箱を預けようとした。この空港には少し前にジョン・ウェインという「セカンド・ネーム」が付いた。オレンジ・カウンティーでもっとも有名なアル中で、人種差別主義者で、糞な俳優にちなんでだ。この最低の出来事を祝うために、テンガロン・ハットに拳銃6丁を持った「ザ・デューク」[ジョン・ウェインの愛称]の巨大な銅像がターミナル・ビルに立った。箱を6個運んでくれるよう空港の手荷物運搬係を買収した後、オレは中をブラブラ散歩して、共和党に牛耳られた市議会が神として崇め奉ろうと決めたハリウッドのクソ野郎を見てみることにした。
ターミナルの中にあったものはオレをガッカリさせなかった。部屋の中央には、真鍮のポールにかけられたヴェルヴェットのロープで囲まれて、「銅像」があった。想像してたよりもバカで間抜けっぽい。この奇怪な物体から約20フィート[6m]離れたところに立ってるガリガリ警備員が、胡散臭そうにオレを見ている。この像をもっと良く見ようと、ヴェルヴェットのロープの近くまで進んだ時に、オレは咳払いをしたのだが、横笛みたいなガリガリ体型の奴はそれをある種の脅威と受け取り、オレに向かって怒鳴った。「そこの坊主、その銅像に向かって唾を吐いたら公共物破損の罪だ。10年ブタ箱に入れてやってもいいんだぜ」 その時、オレは銅像に唾を吐こうとは全く思ってなかった。その瞬間まではだ。警備員とオレは昔のマカロニ・ウェスタン映画みたいに睨み合った。オレがノドをガーッてすると、笛のようにガリガリの保安官補が言った。「やるのか、小僧」 オレは出来る限り大きな痰を飛ばしてやった。「デューク」の顔をめがけたのだが、左肩に当たった。大きくてドロドロの痰だった。警備員の目は飛び出しそうだった。もしこいつが銃を持ってたら、オレに向けてぶっ放してただろう。が、持ってなかったので、こいつに出来るのは、せいぜい、オレに向かって突進することくらいだった。オレは電光石火の早さで逃げた。こんなヘボ野郎を走ってぶっちぎるのなんて簡単だ。当時、この空港は1本の長い廊下の形をしていて、南端にある階段を上るとバーがあった。オレは21歳を詐称する偽の身分証明書を持ってたので、その階段を駆け上がって、1杯飲みながら興奮が治まるのを待つことにした。
ジン&トニックをもらった後、空港の駐車場を見渡すことの出来る窓のそばの席に座った。15分くらいすると、下では大きな騒ぎが起きていた。アーヴァイン市警のパトカー4台がサイレンを鳴らしながら到着した。さっきのガリガリ野郎がいて、大きく手を振り、大げさな動作をしながらしゃべっている。恐らく、「公共物破損」について説明してるのだろう。この時点で、オレは少し心配になり、捕まるとしたら「故意による器物損壊」か「公共の場で唾を吐いたこと」って罪状になるのかなあ、でも、どっちも優秀な弁護士なら取り下げさせることが出来るだろうと思っていた。その瞬間、6人の警官がオレを探していたのだが…。
ということで、オレはオレンジ・カウンティー空港のバーで、駐車場を見下ろしながらジン&トニックをもう1杯飲んでいた。最終的に、パトカーが去ってったので、オレは捜査網から逃れたのだと判断した。ことの真相は、警備員はオレを「ティーンエイジャー」と正確に認識してたので、警官はわざわざバーを捜索しに来なかった、もしくは、怠けて階段を上らなかったのだろう。いずれにせよ、公共物を破損した10代少年の時代は、その日の午後に終了した。以来、オレはジョン・ウェイン像に唾を吐くことは控えている。こいつは十分にそうするに値するんだけどな。
マイク・Gもブートレッグ黎明期の無名のヒーローだ。こいつはもともと、マルコムの録音パートナーとしてシーンに登場した。マイクは背が高く(少なくとも6フィート[180cm]はあった)、もじゃもじゃの黒髪を保守的な長さに伸ばしていた(ケンやオレと比べたらなのだが)。髭は常にキレイに剃っていて、ブートレッガーというよりも従来のビジネスマンに見えた。とても良い人で、美人で知的な奥さんがいた。彼女もまた、ケンの奥さんのヴェスタのように、アンダーグラウンドなレコード・ビジネスは絶対に許さないようだった。
そのうち、マイクはケンのビジネス・パートナーになり、ブートレッグの他に、ベルモント・ショアにあるマケイン・レコード店の経営も手伝っていた。1980年代前半にマイクとオレは協力して、何度か店頭プロモーションを行なって大成功した。大パーティーだった。レコード店がオレたちが企画したブラインド・デート・ナイト[第三者の紹介による面識のない男女のデート]をやった時には、ロングビーチの住人の半分とマスコミが退去して押しかけた。マイクが保守的な格好をしたイケメンだったおかげで、オレだけだったら開かせるのが難しかったであろうたくさんのドアが開いた。まあ、そもそも、こういうイベントはオレだけで勝手に出来ることではない。次の話はマイクがマルコムと一緒にレコードを作ってた頃のことだ。
西海岸のブートレッガーは皆、あの頃は、基本的に友達同士だった。互いを信用してたわけではないが、いつも一緒につるんで楽しくやっていた。レコード製造を始めた頃のマルコムとマイクは、それを素早くやりたがった。その結果、オレはマイクから、いくつかのテープのマスタリングとインサート作りをやってくれないかと頼まれた。さっきも言ったように、マイクは音楽人間というよりもビジネス人間だったので、こいつがブートレッグのリリースに値するアーティストを決定する際には、「ニッチ」なブートレッグ・ファンが本当に欲しそうなものとは対極をなしてる『ビルボード』誌のチャートから影響を受けた。このせいで、オレはジョン・デンヴァーやジム・クロウチのコンサートのレコードのマスタリングの作業もやらされた。こんなものあまり売れないとわかっていながらだ。この手の連中は、ブートレッグ・ファンが興味を持うようなタイプのアーティストではない。しかし、幸いなことに、マイクとマルコムは他にも、ザ・フーやデヴィッド・ボウイといった、もっと人気のあるバンドのライヴ・テープを持っていた。オレはせっせといろんなテープのマスタリングをやって、写真を切り張りしながらジャケット用のインサートを作ってたのだが、ジム・クロウチのインサート作る際には仕事が滞ってしまった。こいつの写真が入手出来ないのだ。どこにも載ってない。オレは怠惰な人間で、そんな時は最も簡単に出来ることをやる。電話をかけるのだ。
オレはジム・ウォッシュバーンに電話をかけた。ジムの当時のガールフレンドは才能あるロック・ロック・フォトグラファーのキム・アプトンだった。こいつらが無限に集めてるいろんなものの中にクロウチの写真があるかもしれないと思ったのだが、当ては外れた。すぐに入手可能なジム・クロウチの写真は全然ないようだった。今、思い返すと、ジム・ウォッシュバーンもオレも、この電話の時には、かなりマリファナで酔ってたと思うのだが、次に起こったことは、これで少しは説明がつくかもしれない。
オレ:困ったよ。明日までに全部のインサートを仕上げるってマイケルに約束してるんで、これから走り回って、ジム・クロウチの写真を見つけなきゃいけない。
ジム:そういえば…ジム・クロウチに似た奴がいただろ。誰だったっけかなあ…あ、カルロス・サンタナだ!
オレ:つまり、それを使えと…?
ジム:カルロス・サンタナの写真だったら持ってるぜ。
オレ:今すぐ取りに行く。
手短に言うと、世界で1枚だけのジム・クロウチのブートレッグのインサート・カバーにはカルロス・サンタナの写真が使われてるのだ。ハイな時、オレはいつもクソ野郎だ。今でも笑える。
1977年のどこかの時点で、オレはWizardo Recordsはそろそろヤバイなと思い始めた。ジミーとオレは取り決め通りうまくやっていた。ジミーは心の底からいい奴だ。しかし、世代が異なるので、疑問の余地があるとオレが感じる判断をすることも多かった。ジミーはこの頃、「レコード業界で活躍する2人」に紹介してもらってコネが出来たから、こいつらと組めばきっとかなり儲けさせてもらえると言っていた。レコード等を大量に買ってもらえるのだとか。ジミーはオレをこの見知らぬ連中に会わせたがったのだが、トラブルの臭いがプンプンするので、2度とこいつらと話はするなと言った。こいつらはFBIの捜査官だと、オレは確信していた。ジミーはこいつらが誰だろうと、あらゆるコンタクトはストップすると約束してくれた。とはいうものの、ジミーの性格からすると、オレが何を言おうと、交渉を続けようとする可能性が高いだろうとも思った。全てを捨てて大学に戻って学問の道を進むのには、今が良いチャンスのようだった。法的に追及された場合、それをかわすことも出来るだろう。
この時、オレが選んだのは、美しいワシントン州になるエヴァーグリーン大学だった。演技と演劇を学ぶのがそこに行った表向きの目的だったが、実際にしたのは、アカデミックな環境をエンジョイしながら、シアトルとヴァンクーヴァーに近いという地の利を利用したことだった。オレは大学に通いながら、たくさんのコンサートを録音した。一番有名なのはパラマウント・ノースウェスト劇場で録音したクイーンとイギー・ポップだろう。どちらもしばらくしてからリリースしたが、次に説明する理由があって、Wizardoからではなく、アンドレアのレーベルからだった。
ある日の午後、学生の友人{だち}から電話があった。こいつが耳にした話によると、エヴァーグリーン大のキャンパス警備室にFBIが来て、オレがここの学生かどうかを確認し、今どこにいるのか訊いてたという。何てこった。その後にかかってきた大慌ての電話でわかったのだが、ジミーは2日前にFBIに逮捕されたらしい。ジミーの新しい友人{だち}は、オレが恐れてた通り、やっぱりFBIの捜査員だったのだ。友人{だち}が警告してくれたおかげで、オレはエヴァーグリーンにいるのもそろそろ潮時と判断して、荷物を鞄に詰めて、カマロに「新しい」ナンバープレートを付けて、南のほうを目指した。Wizardo Records関連の物を少しでも救出するために何か出来ることはないかと思ったのだ。
まず始めに向かったところはタスティンにある実家だった。親父もお袋も別の町に行ってしまってたが、家政婦がいた。彼女は片方の目でオレを見ると、「たった今、FBIの捜査員があなたを探してここに来たところよ。いったい、何をやらかしたのよ?」と言った。彼女からは名刺を渡された。「これをあなたにって残していったわ」 白いカードには「マイケル・J・ハウイー--特別捜査員」とのみ書かれていた。それだけ。FBIとも書かれてないし、他の法執行官の身分も書かれていなかった。名前の下には手書きで「電話をしてください」というメッセージと市外局番213の電話番号があった。
マイケル・J・ハウイーがFBIの捜査官であることはわかった。家政婦にそう名乗ったんだから。後にわかったのだが、ワシントン州のエヴァーグリーン大学でもオレはこいつに追われていた。現地には頭のおかしいブロンドのガールフレンドがいたのだが、オレが町を出た日にこいつはマイケルに捕まったようだった。こいつが警察で尋問される様子を見たかったなあ。オレのブロンドのガールフレンドは、アシッドで頭がいかれており、「死人と会った、そいつが死ぬ前に」なんていう意味不明のことを延々としゃべり出したら止まらない奴だった。きっとマイケル・J・ハウイーも、自分が聞きたいことの他に、こうした話を全部、嫌というくらい聞かされたに違いない。この時点での大きな問題は、受話器を取ってマイケルに電話をかけるべきなのか?ということだった。
レコード会社は、ブートレッガーのせいで毎年数百万ドルを失ってると、FBIに訴えていた。全米レコード協会(RIAA)も、ブートレッガーのせいで音楽産業は毎年数十億万ドルを失ってると、FBIに訴えていた。こうした「ブートレッガーども」は高度に組織化された犯罪シンジケートで、全米に秘密の工場を抱え、たくさんの大型トラックによって違法な密売品を全国の共産主義者の経営するレコード店に運んでいる。「ブートレッガー本人」は美しいロシア人売春婦に囲まれながら宮殿のような大邸宅で暮らしてるに違いない。もちろん、こいつらは全員、スイスの銀行に秘密の口座を持っている。FBIはこうしたことを信じ込まされていた。
1970年代半ば、RIAAは音楽業界紙に、ブートレッガーの逮捕及び有罪判決につながる情報に対して5万ドルの報奨金を出すという広告を掲載した。この脅しに対するケンの反応を、オレははっきりと覚えている。ケンの家に遊びに行ってテレビを見てる晩のことだった。オレたちはこの広告のことや、RIAAが報奨金の大看板をハリウッドの町に掲げるまでに至ったことにを話題にした。すると、ケンはオレのほうを向いて言った。「報奨金が10万ドルになったら、互いを突き出そうぜ!」
FBIはバカでも無知でもない。ブートレッガーは巨大犯罪組織ではない、そんなのはレコード会社がでっち上げたことだとFBIが気づくまでに、長い時間はかからなかった。にもかかわらず、ブートレッガーに対する捜査には既に多額の金が投じられてるし、検察側はマスコミに対しては常にいい顔をしたい…なので、FBIは最も簡単なターゲットを追及した:レーダーに捕捉されながら飛行してたふたり、アンドレアとジミーだ。
先に述べたように、ジミーが逮捕された結果、オレん家{ち}の家政婦はFBIの特別捜査員、マイケル・J・ハウイーの訪問を受け、こいつは電話をして「ください」というメッセージを書いた名詞を残していった。オレは愚かなことに、こいつに電話を入れたところ、オレとジミー・マディンとの関係についていろいろ話したいので、ウェストウッド地区のウィルシャー・ブールヴァードにある連邦ビルに来るように誘われた。愚かなことに、オレは次の日の朝に会うことに同意した。当局はオレに関する物的証拠は何も持ってないと考えたのだ。誰かとの関係を知られただけでは犯罪とはならない。会見に応じないほうが、かえって印象を悪くするだろうと思った。オレの考えは正しかった。だが、運も良かった。法を執行する側の人間とは、弁護士の同席なしに話してはいけない。罪を犯していようが無実であろうが、当局による「尋問」を受ける際には、常に弁護士を通して発言すべきである。
FBIは連邦ビルの最上階に入っており、武装した警備員2人のいるエレベーターでしか、そこに行くことは出来なかった。連中のオフィスに到着する前から犯罪者になった気分だった。目的の階に到着すると、金属探知機の中を通り抜け、身体検査を受けてから、特別捜査官、マイケル・J・ハウイーのオフィスに案内された。オレは彼の机の前の椅子に座った。マイケルは立ち上がってジャケットを脱いだが、その理由はひとつ。肩にかけたホルスターの中に.38口径の銃があることを見せつけるためだった。「なあ、少年。キミは友人のジミー・マディンのことをどのくらい知ってるのかな?」が、マイケルの口から初めて出て来た言葉だった。が、オレが答える暇も与えず、ハウイーは続けた。「我々が彼の自宅を捜索した際、キミがシアトルから彼に送った手紙が出て来たんだ」 「それが何か?」と思ったが、オレは口を開かなかった。ハウイーが知りたかったのは、ジミーがドジャーズ戦の偽造チケットを売りさばいて儲けてたことについて、オレがどれだけ知ってるのかということだった。オレはこいつが何を言ってるのか全然理解することが出来なかった。ハウイーが言うには、ジミーは1965年にドジャーズ戦の偽造チケットを印刷した廉で取り調べ中とのことだった。えっ? 10年も前の! これは聞き間違いではなかった。オレは10歳の頃はませたガキだったが、偽造チケットには全く関係ないと説明した。だが、次は、ブートレッグについて何か知ってるか?という質問だった。この時点で、こういうふうに会うのに同意したのは間違いだったことに気づいた。オレはマイケルに、言うことは何もない、逮捕されてるわけではないので帰ると告げた。ハウイーは「OK、坊や。帰っていいよ。だが、私が知りたいことを全部、きっと話してもらうことになるからね」 性根が挑戦的なオレは心の中で「糞食らえ」と言うと、その場から立ち去った。
翌朝、午前8時きっかりに電話があった。ハウイー特別捜査官からだった。「私と話す気になったかね?」 オレは目を覚ましたばっかりだったので、「まだコーヒーを飲んでません」とか言って電話を切った。翌朝も同じだった。「そろそろ話す気になってくれてもいいんじゃないかな」 オレは再び電話を切ったが、「いったいオレはどうすりゃいいんだよ?」と思った。ケンに電話して相談すべき時が来ていた。
The original article “The John Wizardo Interview” by Steve Anderson
http://www.floydboots.com/pages/JonWizardo.php
Reprinted by permission
第5回に続く…