2020年11月16日

Wizardo回想録&インタビュー:第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBIこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?


聞き手:スティーヴ・アンダーソン


 ここからは、The Pink Floyd Vinyl Bootleg Guide主宰、スティーヴ・アンダーソンがジョン・ウィザードの回想録を読んだ上で、さらに詳しいことを訊いたインタビューです。

カート・グレムザーが出した『Hot Wacks』の最初のエディション(2分冊)は、あなたが自分の持っているコレクションにさまざまなコメントを付けて整理したリストが元になってると言われていますが、本当にそうなんですか?

 カートは付き合いがあった奴のうち、オレから大切なものをぼったくった唯一の人間だ。オレは1967年12月にCBSに送られた『Magical Mystery Tour』の16mmプリントを持っていた。ジミーが放送ネットワークの誰かから直接もらったもので、CBSのリールに巻かれていた。当時は上質なプリントは手に入らなかったんだが、それをカートにぼったくられた。こいつはオレのデータベースの初期コピーを入手すべく、アンドレアも騙している。それもこの男にぼったくられた。毒舌だからこんなこと言ってるんじゃない。今やカナダ人全員が嫌いだ。カートはとんだ糞野郎だった。そもそも、こいつにもこいつのレーベルも眼中になんてなかったし。
 2年前、アンドレアは、家の掃除をしてる時に、オレがタイプライターで書いたブートレッグ・データベースがたくさん挟まってるバインダーを発見した。彼女がカートに渡した2冊のバインダーの1つのコピーだ。彼女が渡す前にコピーを取っておいたなんて、全く知らなかった。とにかく、出て来たのは1冊だけだった。もう1冊はなくしてしまったようだ。ある晩、オレが招待したショウに、アンドレアはそれを持ってやって来て、「バインダーは返したほうがいいのかしら?」と言った。オレは「その必要はない」と答えたのだが、とにかく彼女からそれを渡されたのでバインダーは家に持ち帰った。ジーン[Wizardoの現在の奥さん?]がそれを見つけたら、キミに送るテープと一緒に箱の中に入れておこう。それがあれば、どんなものを元ネタとして入手して『Hot Wacks』を作ったのかわかるだろう。
 カートは『Hot Wacks』の1冊の出版準備をしてる時に、厚かましくも、アンドレアに提供させた2冊のバインダーには載ってない「追加情報はないかなあ」なんてオレに訊いてきた。オレは「あるぜ!」と答え、架空のタイトル10枚のリストを渡した。全部は覚えてないのだが、1つはアリス・クーパーのボルティモア公演だった。カートはリスト全部を掲載した。こいつに偽の情報を流したのはオレひとりだけではなかった。『Hot Wacks』はガイドブックとして利用してるコレクターを欲求不満にさせる内容だった。そもそも、こんな奴とつき合うんじゃなかったと思うが、ジミーからもらった『Magical Mystery Tour』のネットワーク用プリントをこいつにぼったくられたことには、腹が立ってしかたない。

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それを考えると、カートはどうやって《Libest Spacement Monitor》をあなたのプレートを使って自分のK&Sレーベルから再発することが出来たのでしょうか? どうやって、たくさんのTMOQのタイトルを「オリジナル・プレート」から再発することが出来たのでしょう? こんなことをされて、あなたは嬉しく思ってなんていないでしょう。

 「ルイス・レコード」工場の輝かしい歴史は、1969年にケンとリトル・ダブが《Great White Wonder》《LIVEr Than You'll Ever Be》を製造した時に始まった。ブートレッグとしては史上初ではないが(オペラのブートレッグは何十年も前からここで製造されていた)、有名になったロック・ブートレッグはこれらが初だった。ケンから聞いたのだが、あの頃は1枚あたり15セントのプレス代を払ってたらしい。こうしたレコードからオリジナルのTMQレーベルや、ケンがリトル・ダブと袂を分かってから始めたファニー・ピッグが誕生した。参考までに話しておくと、当時、オリジナルのTrade Mark of Qualityのレコードは常にTMQと言われていた。「TMOQ」ではない。一般的に、前置詞「of」は頭文字化されない。TMOQと呼び始めたのはカナダの間抜け野郎のカートだ。ケンがリトル・ダブ抜きでレコードを作り始めた際、彼のレーベルはファニー・ピッグと呼ばれた。ビル[ウィリアム・スタウト。こちらのインタビューも参照のこと]が描いたブタのロゴを使っていたからだ。また、ダブは2人いたので(マイケルとその親父さん)、区別するためにマイケルのほうはいつも「リトル・ダブ」と呼ばれていた。オレはリトル・ダブよりもビッグ・ダブのほうとビジネスをやっていた。ビッグ・ダブはとてもいい人で、オレは彼から変なユーモアのセンスを評価されて「馬の首」と呼ばれていた。ケンはリトル・ダブと袂を分かった後、ルイス・レコードからメタル・パーツを引き上げて、もっと設備の整ったプレス工場に持って行ったが、リトル・ダブはTMQのオリジナル・スタンパーとともにルイスを使い続けた。
 リトル・ダブは本質的には才能豊かなアーティストだった。音楽のほうもなかなかだった。オレは彼の描いた絵の1つを自分のアパートメントに長年飾っていた。とても面白い人物だったのだが、当時の殆ど全てのブートレッガーと同じく、リトル・ダブも財政面で何度も浮き沈みを経験した。ケンからよく、こう言われた:リトル・ダブとオレには共通点がある。どっちもキャッシュ・フローと利益をしっかり区別することが出来ない。ケンは正しかった。ケンは常に正しかった。1975年までに、リトル・ダブは何度も大金を失った(彼はまず第一にアーティストなのだ)。最後にひと仕事(ストーンズの2枚組アルバム)をした後、ルイス・レコードから永久に去った。オリジナルTMQのメタル・パーツを全部残して。大借金も残して。テッド・ルイスが私立探偵を雇ってリトル・ダブを追わせるほど多額の借金だった。調査を始めて数週間後、探偵はダブ・テイラーを発見したとテッドに報告したが、どちらにとっても不運なことに、連中が居所を突き止めたというダブ・テイラーはアメリカで活躍する高齢の俳優だった。もちろん、自分に対してこんな告発がなされてることに愉快なはずがない。
 ルイス・レコードは引退した俳優から借金を回収することが出来るはずもなく、本物のリトル・ダブを見つけることも出来ないので、テッドは別の方法で損失を埋め合わせることを考えた。リトル・ダブが残していったメタル・パーツを「家財」としたのだ。つまり、普段、ルイス・レコードでレコードをプレスしている顧客がリトル・ダブのスタンパーを使ってレコードをプレスしたい場合、それが可能だったということだ。この頃には、賢いブートレッガーは皆、ルイス・レコードを見限って、もっと設備の良い、安全な工場に移っていた。こうした状況のおかげで、カートのような連中でも、ダブが昔に使ってたスタンパーからレコードを作ることが出来た。こうして作られたレコードは酷い音だった。ルイス・レコードで作ったレコードは全部、糞だった。その理由は後で話すが、古いスタンパーを使ってプレスしたレコードは本当に質が悪かった。
 オレのピンク・フロイドのスタンパーがどういう経緯でルイス・レコードに渡ったのかは本当に謎だ。あのレコードはルイスでプレスしてないと思うのだが、もしかしたらそうしたのかなあ? プレスの注文を出したいのに、レインボが忙し過ぎるなんてことがあったのなら、ルイスに持ってって、出て行く時にスタンパーを持ち帰るのを忘れてしまったのかもしれない。カートはそれを発見して、レコードを製造したのだろうか。こいつとK&Sのレコードはブートレッグ業界の汚点だ。「落伍者」でしかない。誰からも語られず、顧みられることもない。こんな奴、仲間じゃない。こいつはルイス・レコードやブートレッグ全般の面白い歴史の中の、小さくて目立たない、つまらない脚注だ。

ルイス・レコードについて私たちに詳しい話を聞かせてください。

 ルイス・レコード製造工場はカリフォルニア州イングルウッドにあった。そこは非常に治安が悪い地域だった。古い2.5階建ての、壁が化粧漆喰のビルがプレス工場になったのは、1950年代前半のことだった。その後20年間、何も変わらなかった。昔ながらの手動プレス。壁の汚れ。同じ従業員。絶頂期には、ルイスはキャピトル・レコードの子会社であるファンタジー・レコードが自分の工場ではプレスしきれない分を、ここがプレスしていた。大量のファンタジーのメタル・パーツが工場の暗くて埃っぽい片隅にしまわれてるのを、オレは一度見たことがある。その中には、発売中止になったジョーン・バエズのレアなアルバムのスタンパーもあった。
 ルイス・レコードには100万もの素敵な物語がある。そこで行なわれていたモンキー・ビジネスについて丸々1冊の本が書けるくらいだ。ルイス・レコードの屋上には小さなビルがあった。2階のそのまた上に付け足されたそこは、元は倉庫として使われてたが、もう何年も空っぽのままだった。ある日、テッドから訊かれた。ヘルズ・エンジェルズの南カリフォルニア支部に貸すのはどうかなあ?って。オレは「気でも狂ったか? 絶対にやめろ!」って言ったのだが、テッドは貸してしまった。すると、24時間もしないうちに、小さなビルは火災を起こして崩れ、屋根に大きな穴があき、そこからひとりのメンバーがテッドの上に落ちて来た。テッドはその時、2階で寝てたのだが、後になってからオレに言った。「そいつがオレのケンタッキー・フライド・チキンの上に落ちて来なくてよかったよ」 テッドはチキンが大好きだった。酔っぱらいながらフラフラと下の工場に降りて来て、上でチキンを食べようと、オレを誘ってくれたことがあったが、オレは死ぬほど怖くて、行かない理由をでっち上げた。オレがテッドと、この工場がブートレッグの歴史に果たした役割を評価することが出来るようになったのは、後になってからのことだった。こんな時代、2度と繰り返すことはないだろう。
 テッド・ルイスはいつも、3日間のドンチャン騒ぎを終えたばかりのような様子だった。パジャマとバスローブ以外の服を着てるのは見たことがないと思う。顔にはいつも、まるで階段から落ちたかのような謎の傷や打撲傷があったのだが、本当にそうだったのかもしれない。当時のテッドは、シラフでない状態が生活の大部分を占めてたので。完全にイッっちゃってる状態で、こいつの頭の中でのたうち回ってる理解不能な話題についてオレと会話することが何度もあった。会話はいつもテッドが「そろそろ横にならなきゃ」って言って終わった。 テッドのことを思うと、スパーン・ムーヴィー・ランチのオーナーでマンソン・ファミリーを入れちゃった頭のおかしい奴も思い出す。どっちも、自分のまわりで何が起こってるのか、自分が歴史の中でどんな役回りを演じてるのかわかってなかった。
 テッドの頭の中は階段を避けることと、暇さえあったら横になることでいっぱいだったので、ルイス・レコードの経営に実質的に携わってたのはケイ・ジョーンズで、工場を稼働させてたのはムンレイというクレイジーな中国人だった。両方とも漫画本から飛び出して来たような人物で、ルイス・レコードには完璧にフィットしていた。ケイはチェーン・スモーカーで、吠えてばかりいる犬のような背の低い女性だったのだが、オレは彼女からいつも「ハニー」と呼ばれていた。年齢は不詳だったが、たぶん70代だったんじゃなかろうか。ケイはいつもブーブー言いながら、料金の請求や経理全般を切り盛りしていた。中でも、最も重要なのが、彼女がツケの管理もやってるってことだった。工場のルールとしてはツケはきかないことになってたのだが、ケイに気に入られた場合には、その金額は無制限だった。少なくとも、リトル・ダブがずらかるまでは。ある時点で、オレは当時のパートナーのスキーキー・ボーイと一緒に、Wizardo Recordsの拠点をハワイに移した。レコードを作るために月に2度ほどカリフォルニアに戻ってたのだが、その時もまだルイスを使うこともあった。どういう状況だったかは忘れてしまったが、不測の事態が起こって、払える金額分以上の枚数を作る必要があったので、手っ取り早く何かをやって、ケイのご厚意を賜る必要があった。オレがハワイで暮らしていて、レコードを作るために時々戻って来てるのを、彼女は知っていた。そこで、ルイスがあるのと同じストリートに小さなメキシコ系の食料品店があったので、そこに立ち寄ってパイナップルを購入して、ケイの事務所に持参して言った。「ハワイからお土産を持って来ましたよ!」 すると、ケイは「まあ、ハニー、そんなことしなくてもいいのに」と言った。これでツケ払いはOKになった。








 ルイスには出来て他の殆どのプレス工場には出来なかったことは、カラー・ビニール盤の製造だった。プレス工場が原料のポリ塩化ビニールを仕入れる際、小球がセメントを入れるような大きな袋の中に入った状態で届く。評判の良い工場では、この塩ビの小球は成型機の中に入れられ、小球を柔らかくして小さなビスケット状にする。この熱せられたビスケットはレコード・プレス機の中に放り込まれて、レコードが作られる。ルイスは成型機を持ってない唯一のプレス工場で、ここではレストラン・スタイルのヒート・ランプを使って原料の小球を熱していた。プレス工は使い捨て紙コップで小球を掬うと、その中身を直接、スタンパーに注いだ。神にかけて、この方法では品質の悪いレコードが製造され、スタンパーの磨耗も激しいのだが、逆に言えば、こういう方法だったからこそ、ルイスはカラー・ビニールを使うことが出来たのだ。どんな工場でもカラー・ビニールを使ってレコードをプレスするのは、やろうと思えば出来るのだが、作業の後にプラスチック成型機をきれいに掃除するのに時間がかかるので、手間と費用に値しないことだった。だが、成型機がなければ掃除するものはない。ゆえに、ルイスではカラー・ビニールのレコードを作ることが出来たのだ。大量に。

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 参考までに言っておくと、カラー・ビニール・レコードはどのプレス工場でも作れるが、さまざまな色が盤の中心から外側に飛び散るような「スプラッター」模様のカラー・ビニール・レコードはルイスでしか作ることが出来なかった。ルイスには成型機がなかったからだ。ルイスはカップいっぱいのマルチカラーのビニールの小球をスタンパーに直接注いた。そうすると、プレスした時に「スプラッター」模様が出来るのだ。同じマルチカラーの小球を成型機のほうに入れて、溶け合ってからプレスすると、マルチカラーのレコードにはなるが、色が滲んでしまって「スプラッター」効果は出ない。ヴァーコは非常に美しい「色がブレンドしてるタイプ」のカラー・レコードを作ってたが、オレもそのやり方でたくさんのレコードを作った。ヴァーコは高音質のレコードを製造することの出来る最新の機材を揃えた工場で、ヴァージニアという女性がオーナーだった(Virginia + Company = Virco)。オレがそこの受付嬢と付き合ってた話は、後日のためにとっておこう。
 第2次世界大戦中は、戦争用物資の節約のためにレコードを紙にプレスしてたということを耳にした。ある日、オレはルイスにいる時に、紙の板にレコードをプレスどうなるのかなあと思った。オレはKISSのブートレッグを製造してたのだが、その最後にムンレイに頼んで紙の盤にプレスしてもらった後、すぐさま、テスト・ルームにあるターンテーブルで再生してみたところ、結構うまく再生出来たのだ! さまざまな点を考慮に入れると、とても良い音だ。そこでオレは考えた。他にもどんなものでレコードを作れるのかな? 食べられるレコードを作ろうと思ったオレは、グリーン・アップル・ジョリー・ランチャーのキャンディーを1箱丸ごと購入して、ハンマーでキャンディーを粉々にして、それをヒートランプの下に置いた。オレはムンレイに頼んで、ダブがかつて使った《Yellow Matter Custard》のスタンパーをプレス機につけてもらい、1カップ分の砕いたキャンディーをさっとあけて、美しい半透明のグリーン・キャンディーのレコードを作ってみた。そこそこ再生することも出来たのだが、美味しく食べるのは無理だった。プレスする際に少量の機械油がどうしても混じってしまうため、食べられるレコードというアイデアは挫折した。注油システムに植物性の油を使ってやり直してみようと思ったが、手間暇がかかりそうだなあと思い、ものぐさなオレは断念した。大切なのは、ルイスではこんなことをしても大丈夫だったってことだ。この点がルイス・レコードの歴史的重要性なのだ。
 たった今、思い出したルイス・レコードにまつわる物語は「Appy Records」の話だ。1970年代半ばのある時、ルイス・レコードでエルトン・ジョンのブートレッグを作ってる超小柄な奴に出会った。オレの人生のこの頃には、知り合いでないブートレッガーと出会うのは珍しいことだった。だが、そいつは確かにそこにいて、自分で作ってるエルトン・ジョンのレコードについて、あれこれオレに話してくれた。当時、エルトンはキャリアの絶頂期で、ブートレッグもよく売れてたので、エルトン・ジョンのブートレッグを作る奴が出現するのは異常ことではなかった。しかし、このブートレッグの特異な点は、ライヴ・レコーディングではなく、未発表のスタジオ・レコーディングばかりが収められてることだった。このマテリアルをどこて入手したかと訊くと、こいつは父親が音楽パブリッシャーをやってるという変わった話を語ってくれた。このレコードに収録されてるトラックはパブリッシャー用デモだった。音質は悪かった。リトル・ダブを知ってるとは言ってたが、いろいろ質問をしていくうちに、本当はあまり知らないことがわかった。怪しい奴だ。
 この怪しい男{ウィアード}はトヨタの小型トラックをルイスの荷物積み降ろし場にとめていた。オレは約10箱分のエルトンのレコードをトラックに積むのを手伝いながら、こいつと話をした。オレの記憶だと、ディスクは青いビニールでプレスされ、レーベル名は「Appy Records」だった。トラックに荷物を積み込む作業は終わったのだが、エンジンがかからない。イグニション・キーを何度もカチャカチャ回してみるのだがトヨタは動こうとしない。きっと燃料ポンプがいけないんだと怪しい男{ウィアード}は言い、ホーソーンにあるアパートメントまで車で送ってくれないかとオレに頼んできた。その地区は帰る途中にあるので、オレは別にいいよと言った。少なくとも、この新参者ブートレッガーがどこに住んでるか確かめるいいチャンスにはなるとオレは思った。
 フリーウェイ405号線を南に進んでる間、怪しい男{ウィアード}の口数は多くなかった。ここからホーソーンに下りてくれと言われた時に、アパートメントに着いたら電話を貸してくれないかと頼んでみたところ、怪しい男{ウィアード}は口ごもりながら、オレがアパートに入れない理由をなんだかんだ言い始め、駐車場に到着した時もまだあれこれ言い訳をしていた。「なあ、ここまで乗せてきてやったんだぜ。電話をかける用事があるんだ。何が問題なんだ?」とオレが言うと、こいつはもう少しモゴモゴ言い訳をしてたが、遂にオレが電話を借りることにOKを出した。こいつは高層アパートメントの14階で暮らしていた。自宅前に到着したのだが、怪しい男{ウィアード}はオレを中に入れてくれない。こいつは、ドアの外で待っててくれ、電話を持って来るからと言うと、中に消えてった。オレは中に入れてくれない理由を知りたくなった。何を隠してるんだろう? 怪しい男{ウィアード}が戻ってきた。ドアが開き、オレに電話を渡してくれた。この時、電話をかけるよりも、ドアの向こう側に何があるのかを知りたく思ったオレは、アパートメントのドアを思いっきり押し、怪しい男{ウィアード}を押し倒して部屋に入ってみると…何じゃこりゃ! オレはとんでもない物を見てしまった。
 家具は全くない。折りたたみ椅子すらない。床にはファースト・フードの包み紙や電線、分解された目覚まし時計、金属の棒、単1電池が散乱していた。オレは床に倒れていた怪しい男{ウィアード}を無理矢理立たせて、ここで何が行なわれてるのか説明を求めた。「あんたが思ってるようなことじゃない」とこいつは言った。オレがどう思ってるとこいつが考えてるのか、オレにはわからなかったが、こいつが次に言ったことではなかった。「オレはユダヤ防衛同盟[非合法手段も辞さずにテロ事件を起こしてきた過去のある過激派団体]のために無所属で働いてる活動家なんだ。ウェストウッドにある小さな書店用にいわゆる「脅しの道具」を作ってるところさ」 しかし、こいつが平気な顔をしながら言った次の言葉にオレは総毛立った。「…それから、バスタブに丸々1杯のニトロもあるぜ」 マジかよ。聞くんじゃなかった。
 オレはそこからさっさと退散した。逃げるしかないだろ。オレは怪しい男{ウィアード}のアパートメントの近所にあるザ・ジャック・イン・ザ・ボックスというハンバーガー・スタンドに寄って、どうしたらいいのか考えた。怪しい男{ウィアード}は危険な奴だ。ユダヤ防衛同盟のために活動してるというのがウソだとしても(こいつがオレに言った他のことも全部、ウソだとしても)、アパートメントではゾッとするものを見た。バスタブにニトログリセリンがあると自慢げに語ったこと、しかも、アパートメントには何も知らない善良な市民が多数暮らしてることを考えると、警察{サツ}にたれこむしかないだろう。警察に電話をかけるにはたくさんの勇気が必要だが、怪しい男{ウィアード}はオレに楽々と一線を越えさせた。オレは公衆電話のところに行って、ホーソーン警察に電話を入れて、匿名のまま、知ってる事実を全部伝えた。
 その後、怪しい男{ウィアード}とは会ってもないし、噂も聞いてない。ウェストウッドの書店が爆破されたなんてことも、ホーソーンのアパートメントが吹っ飛んだなんてことも聞いてない。
 「Appy Records」の話の真の結末をオレは是非とも知りたい。

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あなたはインサート作りについてはかなり手を抜いていたとのことですが、そんなあなたでも怪しい男{ウィアード}を負かすのは大変そうですよ。

 あのレコードの画像が存在するなんて信じられないよ。あなたはそれを持ってるの? オレの知る限り、怪しい男{ウィアード}のトラックに載せた500枚がこいつが作った全てだ。極めて貴重なレコードに違いない。

残念ながら、私はこのレコードは持っていません。発見出来たのはGoogleのおかげです。このレコードはレアですが、レコード・ディーラーをやってた頃に学んだのは、一般的な人気と「コレクター間での需要」には大きなギャップがあるということです。
   
 その意見にはオレも同意するね。そこがエルトン・ジョンの面白いところさ。1970年代前半には、エルトンはアメリカのブートレッグ・ファンにはとても人気があったんだ。ケンもあのハマースミス・オデオンでのクリスマス公演の放送を収めたレコードを大量に売った。でも、1970年代半ばの(商業的な)人気の絶頂期には、ブートレッガーとブートレッグ・ファンにとっては、エルトンは死んでるも同然だった。オレはエルトン・ジョンのブートレッグは作ったことはないが、アンドレアとケンは作った。東海岸のCBMやマーティーもね。同じ現象がロッド・スチュワートにも起こってる。リトル・ダブはライヴを収めたブートレッグ 《Plynth》をたくさん売ったが、その後、ロッド・スチュワートは死んでしまった。少なくともブートレッガーにとっては。
 ブートレッグ市場は『ビルボード』のチャートとはあまり関係がなかったので、エルヴィスのブートレッグがよく売れるのにはいつもビックリした。オレの知ってる人間で、エルヴィスを聞いてた奴なんて皆無だったからね。オレと同年代だとエルヴィスを好きな奴は誰もいなかった。でも、オレたちはどこかにいる知られてないファンにたくさんのエルヴィスのレコードを売ってたんだ(ジミーはエルヴィスが好きだった。それでレコードを作った)。通常の状態では、オレは音楽的コンテンツが良いと思わなければレコードは作らない。南部のレッドネックの連中が集まって「エルヴィスの最新ブートレッグ聞いたかい? ラスヴェガス・ヒルトンで録音されたものだぜ。イェー! ロックンロールだぜ!」なんて光景を想像することなんて出来ないよ。サン・レコードが出したエルヴィスの歌は大好きだったが、兵役以後は音楽的には悲惨だ。ビートルズが1964年にエルヴィスに会った時、ジョンはどうしてロックンロールを録音しないのかって質問したんだけど、エルヴィスはジョンの質問の意味がわからなかったんだってね。エルヴィスは自分がまだロックンロールを録音してると思ってたから。


第6回に続く…

The original article “The John Wizardo Interview” by Steve Anderson
http://www.floydboots.com/pages/JonWizardo.php
Reprinted by permission


   
posted by Saved at 21:34| Comment(0) | Music Industry | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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