第2回 TMQケンとの出会い はこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場 はこちら
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBI はこちら
第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物? はこちら
Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー
第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち
回想録&インタビュー
第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち
聞き手:スティーヴ・アンダーソン
● あなたが昔、利用していた他の工場についても教えてください。レインボ・レコードとか。
レインボ・レコードはサンタモニカにあった。フリーウェイ10号線を降りて、フリーウェイ5号線から海まで延々と続く工場の建物の間に、レインボ・レコードがあった。サンタモニカ・シヴィック・センターから遠くはなかったので、そこでコンサートをたくさん録音しては、後になってそのレコードをレインボでプレスした。この工場はシンダーブロック[石炭殻を用いた軽量ブロック]で作られた大きな2階建てのビルの中にあった。このビルは恐らく1950年代に建てられたものだと思うけど、レコードのプレス機はもっと新しくて、1960年代に製造されたものだった。手動の機械だったが、とても高音質のレコードが出来た。
1970年代のレインボ・レコードの一番いいところが駐車場だ。南カリフォルニアのあらゆる都市と同じく、サンタモニカも自動車が多過ぎて駐車スペースが足りなかったんだが、レインボは工場のビルの屋上に駐車場を作ることでこの問題を解決していた。急なドライヴウェイを上がって屋上に出ると、そこはだだっ広い平らな屋根で、ここにとめてくださいなんていうスペースの指示はなかった。車をとめた後、駐車場の一番北のところまで歩いて行き、そこにある小さな建物のドアから中に入ると急な階段があって、それをおりるとレインボのロビーがあった。
レインボの屋上はペンキで駐車スペースが記されてはいなかったが、どこにでも車をとめていいわけではなかった。1960年代後半に、グレン・キャンベルは『ザ・グレン・キャンベル・グッドタイム・アワー』というテレビ番組を持っていた。放送時間は忘れてしまったが、何らかの理由で、毎回、ショウの最後にはレインボ・レコードの屋根のシーンが流れた。屋根のあちこちにセットや背景幕、支柱があったので、グレン・キャンベル・ショウの中を縫うように進んで車をとめなければならなかった。現実世界とは思えない。ディズニーランドの乗り物のようだった。オレは8mmカメラを持って来て、ラリーが屋上のセットのまわりを走ってる映画を作った。そのフィルム、今はどこにあるのかなあ?
以前、レコード産業は腐ってたって話をしたけど、レインボも他社と同様、腐っていた。つまり、皆が腐ってたってことだ。全員がだ。ブートレッグ(と音楽の海賊行為)の歴史の中でレインボがどんな立場だったかがよくわかる話を2つしよう。
「正規の」レコード会社が契約アーティストから利益をぼったくる最たるやり方の1つが、「プロモーション盤」や「カットアウト盤」を作ることだ。ラジオ局や評論家に送られるプロモーション用レコードからは、アーティストは印税をもらえない。同じく、在庫過剰のため、ジャケットを「カットアウト」した上で割引価格で小売り業者に売られるレコードからも、アーティストは印税をもらえない。帳簿外で独立系のプレス工場にカットアウト盤やプロモ盤を作らせれば莫大な利益を上げられることにレコード会社が気づくまで、長い時間はかからなかった。つまり、こういうカラクリがあるんだよ。あなたがレコード会社だとしよう。そして、キャット・スティーヴンスのような売れっ子アーティストを抱えている。そいつには《Tea For The Tillerman》のような大ヒット・アルバムがある。10万枚売れた時点で、キャト・スティーヴンスに告げるんだ。売れ行きが止まっちゃったので、そろそろ在庫はカットアウトにして値下げして売って、倉庫のスペースをあけましょうって。でも、そんなの嘘だ。レコードはまだ売れている。そんな時に、レインボに行ってさらに10万枚製造して、カットアウトとして問屋に売るんだ。レコード会社はキャット・スティーヴンスに印税を払わないから、同じくらい儲かる。税金もなし。しかも、帳簿外で。レコードが本当に売れなくなるまでこのプロセスを繰り返す。キャット・スティーヴンスの場合、レコードが売れなくなるなんてことはない。レインボはもっぱらキャピトルのためにカットアウト盤やプロモーション盤を製造して経営を続けてきた。1970年代半ばにキャピトルはビートルズのベスト盤《Rock'N'Roll Music》をリリースした。その頃、レインボがオレのメタル・パーツを誤って破損してしまったため、弁償したいと言ってきたことがあった。オレは現金ではなく、ビートルズのニュー・アルバムを2箱分もらったよ。中のアルバムは全部、ジャケットに「Promotional - Not For Sale」っていうスタンプが押してあった。キャピトルがやってるのと同じように、オレもそれを売り払った。
ジミー・マディンがオレのブートレッグ・パートナーだった頃、ジミーは全タイトルを1つのプレス工場で製造して、経営体制を集中させようとした。ジミーはアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ[第3回を参照のこと]の部長をしてた頃からレインボ・レコードのことを知ってたので、ビジネス契約の話し合いを行なうために、レインボの社長のジャック・ブラウンとのミーティングの約束を取り付けてくれと言ってきた。オレはこの件に大きな懸念を抱いていた。いろんなブートレッガーがレインボでレコードをプレスしてるのは知ってたが、その殆どは「1回限り」であって、1タイトル作ったら次は別の工場に行くという具合だった。新たにアルバムを30枚も持ってって、レインボ・レコードで大規模なブートレッグの製造を行ないたいと社長に告げるとなると、話は違うだろう。ドアの外に放り出されることになるかもとオレは思ったが、とにかくミーティングの約束は取り付けた。財布の紐を握ってたのはジミーだったので、彼が勧める通りにやってみることにした。
ジミーはオレよりかなり年上で、グレイの髪がバーコード状態になってたが、着てるスーツが古くてシワがあっても堂々としていた。ジャックとミーティングをするためにレインボに到着した時にも、ジミーはそういう格好をしていた。案内された2階にあるジャックの巨大なオフィスには、1950年代にレインボが発足した当時からの調度品があった。巨大な木製の机の向こうで葉巻を吹かしてる大柄の男がジャックだった。オレたちは彼の机の前にある人工皮革のソファーに腰を下ろすように言われた。既にビビッてはオレは、緊張しながら口上を開始した。私どもは小さなレコード会社でして、現在、まだ約30タイトルしかリリースしていませんが、最新の設備があって、料金が手頃なプレス工場を探しています…と。オレのプレゼンは順調に進み、ジャックも相づちを打ちながらオレの話を聞いていた。と、突然、オレの話を遮って質問してきた。「リリースしたのはどんな種類のレコードですか?」と。気まずい沈黙。ゲーム終了って思ってジミーのほうを見ると、こいつはジャックに向かっていたって冷静に言った。「今更、どうしてそんなこと質問するんだよ?」 またまた長い沈黙。オレはジャックがすぐにでも警察に電話をかけるんじゃないかと思ったが、彼は笑い始めた。すると、ジミーも笑い始めた。オレも笑い始めた。ジャックは葉巻をワイルドに振りながら大声で笑った。「オレっていったい何を考えてたんだ?」とでも言うかのように。オレたちはクスクス笑いながら握手をした。そして、Wizardoはまさにその翌日にはレインボでレコードのプレスを開始した。レインボとオレたちは、その後、何年間も、良いビジネス関係を維持した。
● あなたは当時、大量のブートレッグ・コレクションを持っていたそうですが、好きなバンドのブートレッグだけを買っていたのですか? アーティストは関係なく、持っていないものなら何でも買っていたのですか? ビニールの色やレーベルの違いも重要だったのですか? つまり、多くのコレクターと同様、あらゆるバージョンを揃えるために、同じ内容のブートレッグを何枚も買っていたのですか? それとも、タイトルごとに1枚あれば満足だったのですか? 『Hot Wacks』を抜かしたら、あなたは世界初のハードコアなブートレッグ・コレクターなので、どういう方針で収集していたのか、是非聞かせて欲しいのですが…。
ラリーとオレがブートレッグを集め始めたのは《Get Back To Toronto》を手にした日だね。それから1週間もしないうちに、お気に入りのアングラFM局 (KYMS)が《LIVEr Than You'll Ever Be》を流したんだ。DJが「スーパーマーケットの裏や薄暗い路地でしか買えないブートレッグ・レコードの1つです」って話してたよ。オレたちは虜になった。ラリーもオレも、地元のセイフウェイ[スーパーマーケット・チェーン]の裏ではブートレッグは手に入らないことは知っていた。それ以外のことは全然わからなかった。ウィンの楽器店には《Get Back To Toronto》しか置いてなかった。言うまでもなく、大きなデパートのレコード売場のカウンターにはブートレッグは置いてなかった。なので、オレンジ・カウンティー中にどんどん出現してるカラフルなヘッドショップや小さな独立系のレコード店なら置いてあるかもと考えたんだが、ラリーとオレの暮らすタスティンはそういう店は皆無だった。長髪や音楽、レコード、その他の共産主義的活動は、タスティンにおいては御法度だった。12歳の時、タスティンの警官から『ライ麦畑でつかまえて』を没収されたことがある。「キミがポルノを読んでるのを、お父さん、お母さんはご存じのかな?」って怒り心頭だった。トホホ。ちょっと脱線しちゃったね。
ラリーもオレも自動車を運転出来る年齢じゃなかったから、なかなか見つからないブートレッグ・レコードを探して、自転車のペダルを必死にこいで走り回らなければならなかった。楽しかったなあ。フランス製の10段変速の自転車を持っていて、お宝を見つけたらそれを入れるためのバックパックを背負ってた。自転車で行ける限りの、あらゆるサイケデリックなレコード店やヘッドショップをあたったよ。こうした遠出のおかげで、最初のブートレッグは全部、手に入れることが出来た。《LIVEr》《Great White Wonder》《Isle of Wight》など、見つけたものは全部買った。こうした非正規盤には驚き、魅了された。全部、持ってなきゃいけないと感じてた。一生治らない中毒だ。
オレのブートレッグ・コレクションは初版が中心だった。全アーティストが対象だった。このビジネスの中にいたので、作ってる奴から新譜を直接手に入れるのは簡単だった。殆どのリイシューやビニールの色違いには関心がなかった。最初にリリースされたバージョンのみを集めていた。ヨーロッパ製のブートレッグについては、リカルドとフェリーっていう2人のオランダ人に頼っていた。彼らがいなかったら入手困難だったものを、たくさんオレに流してくれた。アンドレアは時々ヨーロッパに行くたびに、驚きの土産を持ち帰った。あるイタリアのブートレッガーの全カタログをお土産に持って帰って来たこともあった。存在してるとは知らなかったものをね。当時、ブートレッグを収集する際、「本拠地」にいるっていう強みも確かにあっただろう。今でもこうしたブートレッグは全部持ってるよ。
ブートレッグ界の初期に活躍してた無名のヒーローの中で、マルコム・Mはオレの一番のお気に入りだ。マルコムはケンの友人で、オレらがロングビーチ大学[カリフォルニア州立大学ロングビーチ校]に通ってた頃に会った。マルコムがブートレッグ・ビジネスを始めたのは、たぶん、そういう人間関係があったせいだと思う。バッファロー・スプリングフィールドの《Roots》、ジェファーソン・エアプレインの《Winterland》、グレイトフル・デッドの《Fillmore》など、オレが大好きだったアルバムをたくさん作った。マイケルはルイスのプレスは糞だと思ってたので、自分の出すレコードの殆どをレインボで製造していた。マルコムは6フィート[180cm]を超える高身長で、立派なもみあげとオシャレな口ひげを持っていた。カールした髪を前は短く、後ろは長くしていて、頭頂部は薄かった。マイケルは、オレにとっては、1970年代のカッコ良さの頂点だった。
ブートレッガーは皆、自分のことをクールだと思っていた。ブートレッガーであること自体がとにかくクールなんだからって理由でね。でも、全てのブートレッガーの中でもマルコムは一番カッコよかった。しゃべり方がカッコよかった。ジェイムズ・キャグニーのスタイルで、口の半分でしゃべるんだけど、こいつは流暢に自然に首尾一貫してやっていた。先祖代々、そういう血が流れてるんじゃないかなって思ったくらいさ。でも、お袋さんに会ったら、ごく普通のしゃべり方だったので、それはマルコムだけのものだった。しかも、素敵だった。マルコムはとても興味深い奴で、こいつの声だったら何時間でも聞いていられる。
マルコムはロングビーチの、ケンとヴェスタの家から遠くないところにアパートメントを持っていた。オレはマルコムのところに遊びに行くのが好きだった。それもこれも、こいつが一番カッコいいブートレッガーだったからなのだが、最大の理由はブートレッグ・コレクターの第1号だったらだ。リビングルームはこいつのブートレッグ・コレクションでいっぱいだった。棚や箱に入りきらない大量のレコードが床の上にいくつもの長い列を作っていた。そんなのは見たことがない。オレはこうしたレコードをぱらぱらめくって、見たことのない凄いブートレッグを見つけるのが好きだった。マルコムは超カッコいい奴だった。ある日、オレが部屋の隅にある「新入荷」の山を忙しくチェックしてると、こいつは何気なく「帰宅する時、封筒に入った金をレコードのどれかに隠しといたんだけど、見つからないんだよ。見つけたら教えてくれ」なんて言う。冗談を言ってるんだと思ってたのだが、約20分後、《Ballsy Blues》というタイトルのジャニス・ジョップリンのブートレッグを見つけ、それを拾い上げたら封筒が落ちて、100ドル札70枚が床に散らばった。最近では7,000ドルなんてそんなに大金ではないが、あの時は、自宅のリビングで7,000ドルもレコードの中に入れてなくすなんて相当ビックリした。それもマイケルのカッコいいところだった。
たいていのブートレッガーと同様、マルコムも強い冒険心の持ち主だった。冒険心は基本的には持ってるといい性質だが、マイナス面は、慎重さを欠いてる場合、人生の悪い選択を招いてしまいかねないってことだ。オレを含む殆どのブートレッガーと同じく、マルコムもマルコムなりに人生の選択を誤ることがあった。こいつの人生はジェットコースターだった。ある週、金持ちだったと思うと、次の週は乞食だった。でも、マルコムはいつもカッコよかった。
● ある時期、Wizardoのインサートは見た目がだいたい同じになりました。誰のせいですか?
ジャケットのあのスタイルのアートワークは、皆のジャックとジョーンが作ったんだ。こいつらはハリウッドの芸能人の取り巻きで、皆の知り合いのようだった。ジョーンは魔女で、ジャックはさすらいのタクシー運転手(当然もぐり)で、チャールズ・マンソンがマリファナを宅配をやる時には、こいつの車によく乗っていた。ジャックとジョーンは古いセシル・B・デミル監督のの防音スタジオで結婚式を挙げた。オレがこいつらと会ったのは、ハリウッドの古株、ジミー・マディンを通してだった。ジミーは長年、Wizardoの隠れたパートナーを務めてくれた人物だ。1950年代には自分のテレビ番組を持ってる有名なサックスプレイヤーで、1960年代にはアメリカン・インターナショナルの音楽部長となり、その後、ナイトクラブのオーナーとなった。何かの風の吹き回しでビッグ・ダブと知り合いになり、ブートレッグの製造に興味を示したのだが、ビッグ・ダブの息子のリトル・ダブはジミーと関係を持とうとしなかったので、オレのところに電話をかけてきて、財政面の支援者は必要ないかと訊いた。その後のことは、俗に言う、皆さんご存じの通りだ。最初の10枚くらいをリリースした後、ジミーもオレもジャック&ジョーンの屁人ぶりにウンザリして、電話番号も変えて、インサートのアートワークも変えたんだ。
インサート作りに関しては、ブートレッガー全員が超怠け者だが、一番怠け者なのがオレだった。何らかの理由で、インサートはさっさと作られることが多かった。「やべえ。ツェッペリンのブートレッグを明日出荷しなきゃいけないのに、インサートを印刷するのを忘れてた」とかさ。その結果、オレのブリーフケースには、方眼紙とゴム糊、ペンナイフ、擦ると下の紙に文字が移るレタリング・シート、雑誌から切り取った写真やらがわんさか入っていた。印刷機の前でインサートをこしらえるためにだ。雑誌からは写真と一緒に、インサート用にリサイクル出来そうなグラフィック・アートやテキストも切り取っておいた。この好例がパティー・スミスのブートレッグ《Turn It Up》だ。「Turn It Up」の文字は『ナショナル・ランプーン』誌に載ってたマクセルの広告からパクったものだ。Wizardoのブートレッグの多くのインサートは『ナショナル・ランプーン』誌に載ってたグラフィックからパクったものを使っている。あの頃のオレがどんなものを読んでたか、バレてしまうなあ。
ハイスクール時代、オレにはスービー(SueBee)っていうブロンド美人のガールフレンドがいた。蜂蜜のようにスウィートだからスービーだったのだが、彼女は3人の友達と一緒にザ・ドゥービー・シスターズというアカペラ・グループをやっていた。面白いことに、彼女らがこの名前を選んだのは、もうちょっと有名なザ・ドゥービー・ブラザーズというグループの活躍がオレの耳に届くようになる数年前のことだった。シスターズは時代を先取りしてたと言える。このグループはしばしば、Bトフ・バンドと一緒に歌ってたが、そのことで彼女らを責めないでくれ。ザ・ドゥービー・シスターズの他のメンバー、マーシー・ブロウスタインも、オレがタスティンの実家で暮らしてた頃のご近所さんだ。
マーシーはオレより1歳年下で、スービーと同じく、とても頭が良くて、とてもヒップだった。彼女はコンサートにテープ・レコーダーをこっそり持ち込むのにパーフェクトな巨大ハンドバッグを持っていた。オレたちはいっしょにたくさんのコンサートに行った。彼女がオレのために、1973年にアリス・クーパーのイングルウッド・フォーラム公演に8mmサウンド・ムーヴィー・カメラ(とフィルム20巻ほど)をこっそり持ち込んでくれたのを覚えている。オレは史上初の「ブートレッグ・ムーヴィー」を作ろうと決意した。実際、これはなかなかいい出来だったのだが、コピーを作って流通させるにはあまりに金がかかり過ぎることがわかった。それに、アリスはその年、自分でコンサート・フィルムを作ってしまった。
1976年のどこかの時点で、マーシーとオレはハリウッドのロキシーに行って、パティー・スミスとジョン・ケイルのコンサートを録音した。パティー・スミスを見たのはこの時が初めてだったが、彼女はとても刺激的で、素晴らしいショウだった。オレはこのパフォーマンスを《Turn It Up》というブートレッグに収録した。時間という砂によって削られてしまった理由によって、次の数カ月間に、マーシーはパティー・スミスの大親友になった。
パティー・スミスはブートレッグに興味があるようだった。特に、パティー・スミスのブートレッグに。マーシーはパティーに、自分は「本物のライヴ・ブートレッガー」を知ってると言ったのだと思う。というのも、ある日の午後、マーシーから「パティーがあんたと会って、ブートレッグについて話したいって言ってるんで、今晩、サンディエゴのコンサート会場に来れない? ショウの後に楽屋で会おうって」って電話があったからだ。オレははるばるサンディエゴまではあまり行きたくはなかったが、テープ・レコーダーを仕込んで南に向かうと、ボックスオフィスでチケットがオレを待っていた。
ショウはワイルドだった。パティーが演奏中ずっとドラマーに対して腹を立ててるのが見て取れた。オレには何が問題なのかはわからなかったが、明らかにドラマーに怒っていた。セットのどこかでパティーは、ルー・リードがハンク・ウィリアムズについて歌った曲〈Pale Blue Eyes〉を披露した。この晩、彼女は歌詞を「sometimes I feel teenage perversity」(時々、10代のひねくれ者のように感じる)に変えていた。たぶん、オレが会場にいるのはわかってるよってことだったんだろう。残念なことに、パティーが言ってたブートレッグはオレのではなくて、デヴィッド・Bのものだった。あぁ、残念。オレはそのことをデヴィッドには言わなかった。こいつに満足を与えたくなんてなかったからだ。
マーシーはショウの後にオレを見つけて、バックステージのパティー・スミスの楽屋に連れてってくれた。マーシーはオレをジョン・ウィザード、ブートレッガーと紹介した。パティーはまだ何かに腹を立てており、「マネージャーのジェインがいるのに、ここに来てブートレッグの話をするなんて、あまり粋じゃないわ」と吠えるように言った。オレは小さな部屋の中を見回したが、マーシーとオレの他にはいなかった。ジェインの姿はない。パティーがいったい何のことを言ってるのかわからなかった。パティーが座ってる隣の壁には古いフェンダーのデュオソニックが立てかけてあるのに気がついたオレは、あざけるように言った。「いいギターだね。オレに売りたくない?」 パティーは一瞬、オレを見つめると、自分がからかわれてることを理解してるかのように、少しニコっとしながら答えた。「それはレニーのものなのよ。売りたくないんじゃないかしら」 少なくとも、パティーは微笑んだ。パティーは翌晩はロキシーで行なわれるイベント「詩情の夜」に出演予定だった。ソロで出演するのか、それともバンドと一緒?と訊くと、「どこに行くにもバンドと一緒よ」と答えた。そして、少し間をおいてから、力を込めて言った。「ドラマー以外はね。あいつは連れてかない」 それでどうなったのかは想像も出来ない。
ハイスクール時代の美しいスイートハート、スービーは、その後、どうなったのかって? 噂によると、イギリスのロックバンド、10ccのベース・プレイヤーと結婚したらしい。それでうまくいったのかどうかも想像出来ない。
● ケン・ダグラスについては好意的に語っていますね。ケンの人となりについて、ケンとの交友関係について話を聞かせてください。
ケンは本当に、超気前が良く、言葉では言い表せないくらい実直で、言葉に偽りのない人物だ。本人は死ぬまで否定するだろうけど、ケンは「犯罪者」とは正反対だった。オレが非常に多感な頃(初めて会った時、オレは15歳だった)、ケンというお手本がいてくれたおかげで、オレは真っ直ぐな道を進み、重大なトラブルを回避することが出来た。100回以上ね。しかも、それは始まりでしかない。間違いなく、ケンは史上最大のブートレッガーだ。リトル・ダブやスコットよりも歴史的に重要だ。あの時代にオレが持ってた最大の親友だ。数え切れないくれい助けてもらったよ。どんなに感謝しても感謝し足りない。ケンの物語は語られる必要がある。でも、本人に語らせるのはダメだ。ケンは謙虚過ぎるから、最も偉大な成果を省略したり、忘れてしまったりするだろうから。
● TMQのアルバム《Circus Days》について裏話を知ってるそうですね。
1977〜78年頃のある時、キャピトル・レコード・スワップミートでリトル・ダブと偶然会ったんだ。最新ブートレッグ《Circus Days》を1枚くれたよ。帰宅してヘッドホンで聞いたら、背景に変なエレクトロニクス風の音が重なっていた。そういえば思い当たる節があった。最後にリトル・ダブのスタジオに行った時(実家の裏庭にあった)、彼はモーグ・シンセサイザーで遊んでいた。ピンク・フロイドの音楽に合わせて自分の演奏も加えたのかも。そうしたんじゃないか。1年以上経った後に、もう1度リトル・ダブに会う機会があったんで、その時、オレが《Circus Days》について疑ってることを訊いてみた。こいつは笑いながら言った。「今までにそのことをオレに訊いてきたの、お前だけだよ。お前はあのレコードをじっくり聞いた唯一の人間だ」 思った通り、リトル・ダブのオーバーダブだった。
● しばらくTMQについて話しましょう…。私は『Floydboots』用に行なったウィリアム・スタウト・インタビューでは、名前は出さなかったのですが、TMQのパートナーのひとりが(インタビューでは「ミスター?」となっている)出世して、正規のレコード・レーベルを作ったと言ってました。いろんな情報を合わせると、それに当てはまる人物としてリチャード・フース(Rhino Recordsの創業者)がいますが、彼ではないんですよね?
リチャード・フースはオレの友人{ダチ}で、毎週末、オレンジ・ドライヴインに来て、中古レコードを物色してた。ウェストウッドに開く予定のレコード店(ライノ)用の在庫を集めようと、1年以上そんなことをやっていた。こいつは買ったレコードを実家のガレージに保管しておいた。オレはリチャードに山ほどのブートレッグを売ったが、こいつは製造はやってない。オレの知る限りでは、リトル・ダブとは何の関係もない。面白いミニ知識なんだが、Rhino Recordが公式にリリースしたレコードの第1号が《The Savage Young Winos》だった。これはRhinoの社員が作ったバンドがレコーディングしたものだった。ラリーとオレのBトフ・バンド[第1回を参照のこと]のアルバムからアイデアをパクったんだ。当時、ライノでそれを売ってたからね。皆が知っての通り、その後、Rhinoは正規のレーベルとして大成功したが、リチャードは殆ど関与してないんだ。こいつと最後に会ったのは、ニューヨーク州のアップステートの街にライノっていうレコード店をオープンした時だ。20年前のことだ。
ウィリアム・スタウトはRhinoがザッパのブートレッグのコピーをリリースした時に、アートワークを担当した。レーベルのロゴもデザインしていると思う。でも、オレの知る限り、この件もリトル・ダブとは全く関係のないことだ。
● ザッパはブートレッグ嫌いを公言してましたね。
ザッパは音楽業界のファシストだ。フランクはブートレッグが大嫌いだった。レコード・パラダイスで、リトル・ダブの作った《200 Motels》のブートレッグをオレに投げつけてきたことがある。それを手にとって呪いの言葉を吐いてたので、オレはわざと大きな声で、これは大好きなザッパのアルバムですって言ったんだ。そしたら、「オレが全く関与してないものだ」って叫ぶと、それを店のあっちからこっちに向かって投げてきた。店のオーナーのオリーはザッパの顔を知らなかったので、トラブルを起こしてるバカなヒッピーと思い、店から出て行かなかったら警察を呼ぶぞと脅した。ザッパはこれに超腹を立てて、「ワーナー・ブラザーズはここに2度とレコードを卸さない。お前はこの店を失うことになる」と叫んだ。この時点で、オリーはザッパを「狂った」ヒッピーと確信して、ハリウッドの警察署に電話をかけ始めた。ザッパはこんな事態になったことが信じられず、自分のおでこをぴしゃりと叩くと、オレに「バカ野郎」と言って、店からドカドカ出て行った。オレはオリーにフランク・ザッパが何者なのかを説明しようとしたが、彼女は「そんなことどうでもいいわ。LSDをやってるクレイジーなヒッピーなんて店に出入り禁止よ」と言った。オリーと旦那はリトル・ダブとはいい友達だったと思う。
笑える後日談があるんだよ。ザッパに遭遇した2日後に、ジョニ・ミッチェルがロサンゼルスのドロシー・チャンドラー・パヴィリオンでコンサートをやることになっていた。ラリーは自分とガールフレンドのチケットを買ってたのだが、オレがチケットを買う前にソールド・アウトになってしまったので、Bトフ・バンドのリード・ギタリストのランディー・リグビーとオレは、ランディーのダッジ・ダートに乗って、とにかく会場まで行き、「ダフ屋」からチケットを買えるか様子を見ることにした。他にもたくさんの連中が同じことを考えてたようで、皆がチケットを探していた。誰も余り券は持ってない。諦めてオレンジ・カウンティーに車で戻ろうとした時、フランク・ザッパとハワード・ケイランが会場に入って行くのが見えた。オレはランディーに、もうちょっとこのへんをぶらぶらして、他にも有名人が来るかどうか見てみようって言った。キャス・エリオットとジョディー・マクリーがボックスオフィスに向かうのを発見した時には、オレは思わず、口から言葉が出てしまった。何がオレにそうさせたのかはわからないが、オレはふたりに近づいて言った。「ねえ、ママ・キャスさん。チケット余分に持ってませんか?」 すると、超ビックリしたことに、ジョディーが自分のジャケットのポケットに手を入れて、チケットを2枚取り出して言った。「やるよ」 ランディーとオレは2列目。ホセ・フェリシアーノの隣の席だった。オレたちははるか上のバルコニー席にいるラリーに手を振った。だが、この話の一番面白い部分は、オレのまん前に座ったのが誰だったのかってことだ。そう、フランクだったんだ。こいつは何度も振り向いてオレを見た。どこで会ったのか思い出そうとしてたんだろう。しまいには「どこかで会ったかなあ?」って訊いてきた。「あぁ。オレはあんたがレコード・パラダイスから追い出されるのを目撃した奴さ」と言いたくて仕方なかったが、そうするのはやめて「いいえ」とだけ答えた。ランディーとオレは帰宅途中ずっと笑っていた。
● これは1971年にBBCで放送されたブートレッグに関するドキュメンタリーなのですが、知っている顔や場所はありますか?
このBBCの番組は見たことないなあ。レコード店の店長は当時のオレに瓜二つだ。もしこの番組がアメリカのテレビで放送されてたなら、友人{だち}全員が、オレが偽のイギリス訛の言葉をしゃべりながらロンドンのレコード店を切り盛りしてる様子だと確信しただろうな。奇妙なこともあるもんだ。ハッ、ハッ。ここに映ってる連中は誰も覚えてないな。でも、あの頃、ロンドンに行ったことあるよ。町中の店でブートレッグの取引をしたから、非常に短期間だけど、このうち何人かとは取引をしたと思う。
● YouTubeに何度もアップされては消されている、ニール・ヤングがアンチ・ブートレッグを唱える動画は見たことはありますか?
『ニール・ヤングがブートレッグを盗もうとする』という映画は1970年代に見たよ。リアルな作品だ。この映画の中のニールは、とんだ間抜け野郎のイメージだね。自分は法律を超越した存在で、意のままにアルバムを盗んだっていいんだって考えてるように見える。YouTubeから削除し続けてるのは、たぶんそういう理由からだろう。当時、アメリカではブートレッグを取り締まる連邦法は全くなかったんだ。無知なニールが言ってるのは民法だ。つまり、金銭的なダメージがあることを証明出来るのなら、理論上は、自分の名前等を語る製品を売ってる廉でレコード店を訴えることが出来るってことだ。しかし、だからといって、厚かましくも店の在庫を没収する権利が与えられるわけじゃない。そんなことをするのは窃盗以外の何物でもない。店の経営者は警察に電話をかけて、ニールと頭の悪い撮影隊を逮捕してもらえばよかったのに。オレだったらそうしたね。オレはニール・ヤングの音楽は大好きだが、アーティスト性と人間性はわけて考える必要がある。自分のイメージを損なうバカなプロジェクトにムダ金を使っちゃったって、ニールはわかってるのさ。カナダのレコード店に腹を立てたほうがよかったのかも。そっちの法律のほうがよくわかってるだろうし。もしくは、その場では何も言わないでおいて、レコード会社に法律云々のことをやらせておいたほうがよかったのに。「《Wooden Nickel》…聞いたことねえなあ」ってさ。
● ニールもザッパの《Beat The Boots》のようなスタイルの、昔のブートレッグをシリーズでリリースすると発表しました。
オレはニールの音楽は好きだが、ブートレッガーを目の敵にするような理屈はナンセンスだ。50年前のアナログ・ブートレッグからパクった「新マスター」は、オリジナルよりはるかに良い音だろう。新リリースはニールのPono Walkmanで聞くとパーフェクトなんだろう。ああした昔のレコードが今でも嫌いだっていうんだから不思議だなあ。スコットはニールのブートレッグをいくつか作ったな。ニールのおかげで、2020年にもRubber Dubberは健在だ。ハッ、ハッ!
● 他にもブートレッグ嫌いの有名ミュージシャンはいましたか?
オレの友人{ダチ}のマイケル・Fが、昔、Little Birdっていうレーベルでテッド・ニュージェントのブートレッグを作ったんだ。地元のレコード店、リコリス・ピザにテッドがサイン会をやりに来た時、マイケルはテッドにサインしてもらおうと、誇らしげに自分の作ったブートレッグを持参したところ、テッドはレコードを2つにカチ割ると、理性を失って叫び始めた。「このレコードを作った奴のケツに突っ込んでやる!」 ニュージェントは急に立ち上がると、怒りながらレコード店を出て行った。この宣伝のサイン会はこれで終了。テッドのサインをもらおうと待ってた数十人のファンはガッカリした。
テッドはその後、ナチスみたいなバカげた政治観とトランプのケツを舐めるのが大好きなことで、自分のキャリアを沈没させてしまった。エゴと狂気が爆発して車ごと崖から飛び降りたようなもんだ。マイクのブートレッグがテッドの崩壊に小さな役割を果たしたと思うね。
笑える余談をしよう。リコリス・ピザ・レコード・チェーンのオーナーはジム・グリーンウッドって奴だった。ジムはリオン・ラッセルのブートレッグ《Sessions》で得た利益を利用して1号店を開いたんだ。黒いジャケットで、レインボでプレスした。今となっては信じられないけど、このブートレッグは当時はとても人気があったんだ。
第7回に続く…
The original article “The John Wizardo Interview” by Steve Anderson
http://www.floydboots.com/pages/JonWizardo.php
Reprinted by permission