2020年11月28日

Wizardo回想録&インタビュー:第7回 ピンク・フロイドのブートレッグ、思い出のジャン&ディーン

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBIこちら
第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?こちら
第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたちこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第7回 ピンク・フロイドのブートレッグ、思い出のジャン&ディーン


聞き手:スティーヴ・アンダーソン



《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスはいつ製造したのか覚えてますか? 以前考えられていたよりも前のことだったようですが。

 オレは1973年にロンドンにいて、ローリング・ストーンズが《Goats Head Soup》をリリースしたばかりで、その頃、UKツアーも始まっていた。《Take Linda Surfin'》のオリジナル・プレスを1箱持って行って、ロンドン中で取引した。ということは、ラリーとオレが《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスを作ったのは、1974年よりも前だ。オレの記憶だと、最初に製造したのは1972年後半か1973年のはじめだ。その時、アメリカの俳優、デニス・ウィーヴァーがカスタム・フィデリティーでレコードを作ってたんで、それで、もっとはっきりと時期を特定することが出来るんじゃないかな。

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《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスは黒ビニールだったのですか、カラー・ビニールだったのですか?

 《Take Linda Surfin'》のオリジナル・プレスは全部、黒のビニールで、手書きのレーベルだ。《Miracle Muffler》もそうだ。どちらも最初は、サンタモニカ・ブールヴァードのカスタム・フィデリティーでプレスした。カスタム・フィデリティーは大量に注文しないとカラー盤は作ってくれなかった。しかも、成型機の掃除代として250ドルの追加料金を取られた。オレたちは黒を選んだよ。注文は少しだけだったから。レコードは自分たちのガレージ・バンドのものだって、工場の人には伝えてあったからね。スタッフからは訝{いぶか}しげに訊かれたよ。「ちょっと確かめたいことがあるんだが、キミたちはガレージ・バンドをやってるんだよね。そのバンドのテープを作ったんだよね。それから、何らかの理由で、テープをヨーロッパに持って行ってメタル・パーツを作ったのに、スタンパーだけをアメリカに持ち帰ったの? それを調整して、レコードをプレスするのを、この工場にやらせたいの? それがキミたちが当社に依頼したいことなのかな?」って。追い出されるのかなと思ってたら、オレたちが何の言葉も発しないうちに、「いいでしょう。引き受けますよ。何枚欲しいんですか?」って言われたよ。その日、そのスタッフに渡して帰ったスタンパーは、マニラ紙で包んであって、マトリクス・ナンバーしか書かれてなかった。作業が終わって返してもらった時には、スリーヴには誰かの手で 「Pink Floyd Bootleg」って殴り書きされていた。中身なんてどうでもよかったんだね。その後も何度もプレスしてくれたし。そうしてオレたちは、レコード・ビジネス全体がいかに腐ってるのかを学んでいった。レコードを作るのは簡単なことだった。中身を問う奴なんていなかった。未来は明るそうだった。

《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスと比較すると《Miracle Muffler》はどうして入手困難なのでしょう? どうしてカラー・ビニールでプレスされてないのでしょう?

 タイミングの問題だと想うよ。《Take Linda Surfin'》から《Miracle Muffler》までの短期間に、ラリーとオレは南はサンディエゴから、途中のサンタバーバラを含み、北はサンフランシスコまで、レコード店への配給ルートを作り上げたんだ。《Miracle Muffler》のオリジナル・プレスが州外に出回らなかったのは需要と供給の関係からだ。このレコードはベイエリアだけで山ほど売れた。あの頃は良かったなあ。レコード店がたくさんあった。ヒッピーもたくさんいた。ピンク・フロイド・ファンもたくさんいた。《Take Linda Surfin'》の時には卸売りのコネクションは持ってなかったから、殆どは他のブートレッグ業者を相手にトレードしたり売ったりして、今度はそいつらが、いろんな場所でそれを売った。1973年には《Take Linda Surfin'》を75枚、イギリスに持って行って、ロンドン中でトレードしたんだけど、その時は《Miracle Muffler》は品切れ状態だったんだ。そうでなかったら、このレコードも持って行ったよ。

あなたにどうしても訊いておかなければならないことなのですが、《Take Linda Surfin'》はカラー盤を作ったのに、《Miracle Muffler》はどうしてカラー盤を作らなかったのですか?

 《Miracle Muffler》のカラー盤が見つからないってことが驚きだよ。ルイスで何度もカラー盤を製造したよ。

本当ですか?

 どこにもないの? 1枚も見つかってないの?

● そうなんです。私のほうが間違ってるのかなあ。

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《Take Linda Surfin'》《Miracle Muffler》をプレスするのに使われたプレートは、元々は《Embryo》というブートレッグを作るために使われたものだと、昔から言われていますが、実際はどうなのでしょうか?

 《Take Linda Surfin'》のスタンパーをカスタム・フィデリティーに最初に持ってった時には、ヨーロッパ式になっていて、アメリカでは使われた形跡はなかった。カスタム・フィデリティーがアメリカのプレス機にも合うように手を加えたんだ。ヨーロッパ式のスタンパーはランオフ・エリア[ランアウト・エリア、マトリクス・エリアともいう]の後で少し隆起してるんだ。この縁{ふち}はこっちの機械で使う前にスタンパーから取り除いておかなければならない。メタル・パーツをアメリカに持って来た奴が、スタンパーを2セット(同じマザーから作った同一のもの)持って来たんだろうっていうのが、最も論理的な説明かなあ。予備のスタンパーが必要になる場合もあるだろうから、こうしておいたほうが賢明なんだ。2セットのスタンパーのうち1セットはどこで使われたのかなあ。ルイスじゃないだろう。ムンレイはどうやって調整したらいいのか全然わかってなかっただろうから。レインボならあり得るか。そういうものの扱いは朝飯前だったし、いろんなブートレッガーの行き着く先だったから。もちろん、もう1セットのスタンパーは、カルトに入信したピーター・トソロを通してオレのところに来た。
 100%そうだっていう自信はないが、《Embryo》はレインボでプレスされたんだと思う。クロスビー&ナッシュの《Very Stoney Evening》や他のたくさんのレコードを作った奴も同じレーベルを使っている。全部、レインボで製造したんだ。こいつや、こいつとレインボ、及び、レインボの経営陣との個人的な関係について面白い話を持ってるんだが、レインボはまだ存在してるので、大丈夫だと判断出来るようになるまでは話すべきではないだろう。酷い話だから。

この人物の名前はわかってるのですか?

 以前に話した通り、レインボの日々の操業はベアという名の女の人が監督してたんだ。工場の全てをだ。プレスのスケジュールを決めたり、会計なんかも全部、彼女が切り盛りしていた。ベアはまた、サンフェルダンド・ヴァレーにある、型にはまらないライフスタイルの(つまり、レズビアン)バーのオーナーでもあった。自宅では18輪トラックを運転してるかのような、小柄でずんぐりむっくりの中年だった。オレが会ったことない奴なんだが、自分より若い男のパートナーと自分の工場でブートレッグを作ってもいた。
 ブートレッグの黎明期に、オレにはずっと謎のレーベルが1つあった。ここから出る製品はだいたいいつもダブル・アルバムで、ジャケットは印刷で、打ち抜き加工。折りたたみジャケットを開くと、それぞれのポケットに入ったレコードがある。とてもイカしてたいが、誰が作ってるのかは全然わからなかった。クロスビー&ナッシュの《Very Stoney Evening》はその好例だった。他にもレッド・ツェッペリンの《Going to California》やCSNYの《Live In San Francisco》があった。こうしたレコードはハービー・ハワードから仕入れてはいたが、こいつは製造には全く関与してなかった。このレーベルとそれに関与してた人物は、素早く現れ、素早く消え去った。
 オレがまだレインボでWizardo Recordsの製品を作ってる頃、ベアからメタル・パーツや、彼女が関わった「以前の事業」の残ってる在庫の購入を持ちかけられた。どんなものなのかを質問すると、彼女はひとこと言った。「ブートレッグよ」 2日後に、何があるんだろうと思ってベアの自宅に行ってみたところ、ビックリ仰天! 謎のブートレッガーの全カタログがあったんだよ。マザー、スタンパー、アートワーク、それから大量の売れ残りのレコード。リリースしてないものもあった。例えば、まだ日の目を見てないジョージ・ハリスンのサンフランシスコ公演を収めたダブル・アルバムとかがだ。どこから手に入れたのか訊くと、「年下の男のビジネス・パートナー」がいて、別のビジネスを始める際に、ひと財産を残していったのだということだったが、それ以上の詳しいことは話してくれなかった。
 この時点で、オレはWizardoの事業を縮小して、学業休暇を取ることを計画してたので、この驚くべき宝の山を自分のコレクションに加えたいと一瞬思ったものの、ベアからそれを購入する理由は全くなかった。だが、買うであろう人物をひとり知ってたので、オレはアンドレアに電話をかけた。彼女は自分が全部を引き取るという契約を、24時間も経たないうちにベアと交わした。「発見者への謝礼」として、アンドレアはオレの個人コレクション用に全タイトルを1枚ずつくれた。その中にはピンク・フロイドが2枚あった。立派な見開きジャケットだったが、中身はよくあるBBC放送だったと思う。
 アンドレアが全てを購入したが、逮捕されたのもその頃なので、計画通り再発したタイトルはないと思うよ。
 笑える話があるんだ。デヴィッド・Bは「謎のブートレッガー」と電話で話したことがあるんだ。デヴィッドがケン・ダグラスのマケイン・レコード店の1つの経営を任されてた時、招かれざる電話がかかってきたんだ。マケインにブートレッグを売りたいって。デヴィッドは電話でその男にいろいろ質問した後、こいつが謎のブートレッグを作ってる奴だと確信した。デヴィッドはKornyfone[ケン・ダグラスが関与していたレーベルの1つ、TAKRL]のレコードは卸してもらえるのか?と訊いたら、ブートレッガーはこう答えた。「Kornyfoneのレコードは最低だ。避けたほうがいい」 デヴィッドは電話を切ると、オレに、こいつはとんだ糞野郎だと言った。
 《Very Stoney Evening》等の謎のダブル・アルバムの思い出話をもうちょっとすると、多くはカラー盤だったと思う。レインボにはカラー盤を作る設備はあったんだけど、機械を掃除するプロセスに時間がかかるってことで、あまり頻繁には作ってなかった。そういう状況が反映されて、殆どの顧客がすすんで払いたいとは思わないほどの高い料金になっていた。でも、中には高い料金を払った奴もいるんだよ。レインボの作るカラー・レコードは美しかった。ルイスが製造したカラー盤とレインボのカラー盤の違いは透明度なんだ。レインボのカラー盤は光にかざすと透明なんだけど、ルイスのカラー・ビニールにはいつも濁りがある。
 レインボでのベアの立場を考えると、オレの推測なんだが、ベアは払いたくない料金があったとしても、成型機の洗浄代なんかどってことないって感じだったんじゃないかな。帳簿外でやってた可能性もあるだろう。だとすると、かなりの利益率だっただろう。
 こうしたレコードのレーベルは大きく「1」「2」と書いてあるだけだ。これは当時のTMQのブートレッグと同じスタイルだ。レーベルの別バージョンには「All Rights Reserved - All Wrongs Reversed」というスローガンを初めて使ったものもあった。

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上記のブートレッグは、Wizardoの「社内用」コピーであり、インサートはあなたの手書きで、友人にプレゼントされたものだ、という触れ込みでネットで売られていました。これは本物ですか? 偽物ですか? 現在、「レア」と称する偽のインサートが市場にたくさん出回っていて、この件に関して論争があって…。

 すっかり忘れてたよ。これはオレのブートレッグ・パートナーのラリー・フェイン(ラリー・ウィザード)が描いたものだ。こいつは後に、アジアでは有名な漫画家になった。ググってみてくれ。同じスタンパーが何度も使い回されてたって話はしたよね。レコードがなくなる前に、白ジャケットに巻き付ける紙のカバーのほうがなくなっちゃった時には、テキトーなインサートを急いで印刷するなんてことがあったが、そんなに多くはない。そんなことをしたのは、1軒だけにしか行かない小さな注文を処理した時とかだったよ。その後、オレたちはスタンパーをアンドレアに譲り、彼女は違うインサートを作った。スタンパーはいろんな人に渡っていった。最後はどこに行ったのか知りたいよ。理由はとっくの昔に忘れたが、ウィリアム・スタウトにムカついてた時には、ラリーが5分後には忘れてしまうようなバカな風刺画を描いた。本当に5分で忘れ去られたほうがいいものだったんだけどねえ。こんなくだらないものまで集めてるコレクターがいるんだから、参っちゃうなあ。

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これはいかがですか? インサートではWizardoのロゴの下に「Omayyad」と印刷されています。本物ですか? フェイクですか?


 フェイクだ。オリジナルのWizardoのインサートじゃないよ。

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《Screaming Abdab》に関して覚えていることはありますか?

 《Dark Side of the Moon》をリリースした後、フロイドの新しい正式なアルバムが出るまでしばらくあった。1974年になってやっと、バンドは新マテリアルを演奏し始めた。ラリーがヨーロッパから入手した新曲のオーディエンス・レコーディングが酷かったのを覚えてるよ。音質が最悪だったんで、演奏してるのが《Dark Side》じゃないってことくらいしかわからなかった。当時、このバンドへの関心は非常に高く、皆がバンドの新曲を聞きたいと思ってたので、音質が悪かったけど、とにかく《The Screaming Abdab》っていうタイトルを付けて世に出した。

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《Libest Spacement Monitor》というタイトルの由来は何ですか?

 その記憶は消えちゃってるなあ。《Libest Spacement Monitor》は、雑誌か新聞かシアーズ[アメリカの通販大手]のカタログで見てカッコいいと思って、そこから切り抜いたものだと思う。レーダーのアンテナの写真もそうだ。何を意味してるのかはわからない。こんな回答だと皆をガッカリさせちゃうかもしれないけど、当時のガールフレンドはアシッドを大量にやっていて、フロイドも大好きだったんで、こいつがタイトルを付けた可能性もある。その娘{こ}の名前、思い出せないなあ…。
 《Spacement Monitors》の謎に答えようと頭を絞ってるんだけど、このぼんやりとした記憶が答えの一部にはなるかもしれない。それがリリースされた当時、皆が次のフロイドの正式なアルバムにはどんな音楽が収録されるんだろう?、タイトルは何だろう?って思いを巡らせていた。ラリーと会話をしてた時、こいつがキャピトル・レコードの誰かからフロイドの新譜のタイトルはかくかくしかじかだと聞いたって話してたような気もするから、《Libest Spacement Monitor》がタイトル候補の1つだった可能性もある。ラリーと連絡を取って、この記憶があるかどうか訊いてみるよ。

《Pictures Of Pink Floyd》というヨーロッパ製のレアなブートレッグがありました。リリースは1971年です。その片面には「Libest Spacement Monitor」と(ブートレッガーが)題した長いインプロヴィゼーションが収録されているので、あなたがこのブートレッグを持ってたんじゃないかと思ってました。

 ワオ! 繋がるねえ。でも、おかしなことに、ヨーロッパ製ブートレッグも自分の作ったブートレッグもはっきりとした記憶がないんだ。オレがヨーロッパ製のブートレッグを持っていて、キミが考えてたように、オレがタイトルをコピーしたか、レコードを丸ごとコピーしたか、デヴィッド・Bか誰かにコピーするようにあげたかした可能性もあるだろう。ジミーが 《Liebest Spacement Monitor》というタイトルのピンク・フロイドのブートレッグの注文を受けて、ジミーがいつもそうだったように、ピンク・フロイドのブートレッグなんかどれも同じだろうと考えて、インサートを適当に印刷して、そこらにあったピンク・フロイドの過剰在庫にテキトーに貼り付けてた可能性もある。そんなことはあまり起こらなかったけど、発送部門にジミーのような人間は欲しくない。オレが一番気に入ってる説は、アシッドが大好きだったガールフレンドが思いついたってことかな。「今何時?」といった質問に対する回答として、よくそんな言葉が口からぺちゃくちゃ出てきたものさ。ヨーロッパ製のブートレッグのほうがオレのブートレッグより後に出た可能性はないのかな? オレには謎だ。

偶然の一致が多過ぎます。《Pictures Of Pink Floyd》に端を発し、どこかの時点であなたの意識にひっかかったのだと私は思います。簡単に思いつくような言葉ではありません。しかも、何も意味していません。「Libest Spacement Monitor」といったものは存在しません。インサートの「Pink Floyd」というグラフィックは、《Screaming Abdab》のインサートから拝借したものです。なので、《Libest Spacement Monitor》は1975年前後にリリースされたのだと思います。

 そうかもね。これはお袋の古いタイプライターの文字だ。ということは、オレがインサートの文字を打って、変な写真をペーストする作業もやったってことだ。ディーラーや問屋が面白いレコーディングを手に入れて、将来に出すレコード用にってオレに渡すことも時々あった。誰かがオレにテープを送る時に、「このレコードを作る際には、…というタイトルにしてくれ」なんて言ってた可能性もあるだろう。はっきり思い出せたらいいのにと思うよ。プレスはルイスかレインボのどちらかでやったと思う。パチパチ、プツプツが多い場合はルイスだ。そういうノイズが少なかったらレインボだ。

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《Midas Touch》に関する裏話はありますか?

 《The Midas Touch》はWizardo Recordsが最初に作ったレコードの1つだ。リトル・ダブが作ったフロイドのブートレッグ《Omayyad》の注文が、サンフランシスコの問屋から大量に入った時に、仲買人をやるより自分のバージョンを作ったほうが利益が大きいので、そうしたんだ。1曲追加しておくとか、ちょっと変更を加えてね。インサートは「マッド・ジャック」がデザインしたものだ。オリジナルは、魔女のジョーンによると「魔法の力」を持つという「茶褐色」の紙に印刷した。ジャック&ジョーンは最もクリエイティヴな時であっても、安定性が完全に欠如してクレイジーな状態からわずか1歩しかこっち側にいなかった。オレはジミーと一緒にジョーンの祭壇で人身御供にされてしまうんじゃないかと戦々恐々としていた。

今でもコレクションの中にピンク・フロイドのブートレッグをたくさん持っているのですか?

 今でもフロイドのブートレッグを大量に抱えてるよ。絶対に手放すことはないだろうね。

レーベルの話に戻りましょう。あらゆるブートレッグ・レーベルの中で、Wizardoのリリースしたレコードのカタログが一番奥が深く、ボンゾ・ドッグやジェントル・ジャイアントといった知名度の点で劣って、売り上げが見込めそうにないバンドのブートレッグまで含まれています。これって、Wizardoがリリースしたアルバムはあなたの音楽への愛情を表現したもので、他の一部のブートレッガーがそうだったような、動機の100%が金儲けというわけではなかったってことですね。

 アナログ・ブートレッグの時代には金儲けが全てじゃなくて、てっぺんから下っ端まで腐りきってる業界で楽しくやるのが主眼だった。イギリスではどうだったか知らないけど、古き良きUSAでは、メジャー・レーベルこそがレコード業界最大の海賊だった。CEOから倉庫の掃除係まで、あらゆる連中がアーティストから利益をぼったくってたんだから。メジャーなレコード会社が「オーバー・ラン」をやってたまさにその工場を、オレは自分のレコードをプレスするのに使ってたんだ。「オーバー・ラン」ていうのは帳簿外でレコードを製造することだ。「宣伝用」と称してね。そうすれば、アーティストに印税を払わなくて済むんだよ。もちろん、そこで作ったレコードは全部、販売するんだ。大手レーベルは、アーティストをあれやこれやの手を使って騙して、帳簿外で何十億ドルっていう利益を出していた。こうした笑っちゃう手口の話をオレはたくさん聞いた。リチャード・トンプソンから直接言われたことがあるよ。キャピトルからよりWizardoからレコードを出したほうが儲かっただろうなあって。昔は楽しかったよ。それに対して、後に韓国でCDを製造するようになった時には、金は入ってきたけど楽しさはなかった。滅茶苦茶な時代だったけど、思い出話をするならアナログ・ブートレッグ時代に限るよ。
 オレはあまり知られてないアーティストをブートレッグを通して宣伝するのが好きだった。そうしたアーティストたちも(たいていは)ブートレッグが出ることを気に入っていた。連中はブートレッグをヒップ[カッコいい]な要因だと思ってたのさ。ジャン&ディーン、キャプテン・ビーフハート、カーヴド・エア、リトル・リチャードをはじめ、他の多くのアーティストがオレに感謝の気持ちを述べてたよ。ディーンはロングビーチのレコード店でジャン&ディーンのブートレッグを見つけて超興奮したんで、自分でブートレッグを作り始めたくらいだ。ローリング・ストーンズもブートレッグが好きみたいだね。
 1977年には、短期間だけど、スキーキー・ボーイとオレはビル・ワイマンの私的コレクション用にブートレッグを集めてあげたことがあった。ビルはローリング・ストーンズのものだけでなく、あらゆるブートレッグを欲しがったんで、それこそありったけあげたよ。そもそも、これはスキーキー・ボーイがボビー・キーズとストーンズのテープをトレードしてたことがきっかけなんだ。ボビー・キーズは1973年のヨーロッパ・ツアーでサックスをプレイしていて、演奏に参加したコンサートのオーディエンス・レコーディングを集めてたんだ。特に「オーディエンス・レコーディング」を集めてたっていうのがイカしてると思ったね。ボビーは自分がアクセス出来るオフィシャル・レコーディングには殆ど入ってない観客の反応を聞きたかったんだ。スキーキー・ボーイはストーンズの大ファンで、テープのトレードもやってたから、オレたちは1973年ツアーのレコーディングを大量に持っていた。酷い音質のものが大半だったが、そんなことはどうでもよく、ボビーは全部を欲しがった。
 オレたちはハリウッドのAIRサウンドステージでボビーに会う手筈を整えた。彼はレオ・セイヤーの次のツアーのリハーサルに参加してたので、ランチブレイク中に会った。とてもいい人だった。オレたちはボビーが欲しがってた1973年のショウが入ってる約10本のカセットを持参した。ボビーはポケットに手を突っ込んで財布を取り出して、満面に笑みをたたえながら言った。「いくら払えばいいのかな?」 オレたちがお金なんかいりませんよと言ったら、ボビーからとても感謝された。リハーサルを見ていきたい?って訊かれたが、スキーキー・ボーイもオレもレオ・セイヤーのファンじゃなかったんで、丁重に断ってその場を離れた。
 ボビーはオレたちのことをビル・ワイマンに話したんだと思う。というのも、AIRで会ってから間もなくして、スキーキー・ボーイのところに何者かから(ビル本人ではないと思う)、ビルのコレクション用にブートレッグを調達することは出来るかという問い合わせがあったからだ。オレたちはサンタモニカにあるパブリシストのオフィスに何度か大量のブートレッグを届けた。ブートレッグを受付の人に渡すと、いつも誠心誠意対応してくれて、ビルはレコードを大変気に入ってますと言ってくれたが、それ以上の情報はくれなかった。サンタモニカまでドライヴしても受付係にしか会えないのでそのうち飽きてしまい、ビルのためにブートレッグを調達するのをやめてしまった。オレの記憶が正しければ、スキーキー・ボーイはビルから礼状をもらったと思う。
 お前らはブートレッガーにぼったくられてるってレーベルはアーティストに言う。レーベルはFBIにも同じことを言った。確かにアーティストからぼったくってはいたが、ブートレッグなんてバケツ1杯の水の中の小さな1滴だった。レーベルが「カットアウト盤」や「プロモーション盤」を利用してやってたものが本物の盗みだ。さっきも言った通り、「正規」のレコード業界は頭のてっぺんから爪先まで腐っていた。皆が金を儲けてたが、アーティストは行列の一番最後に並んでる存在で、パイ全体のうち非常に小さな取り分しかもらえなかった。頭のいいレコーディング・アーティストは、ブートレッグが自分の食い扶持にとって脅威でも何でもないことをわかっていて、最もハードコアなファンに対する追加の宣伝として見ていた。ミックかキースに訊いてみるといい。


   






Wizardoのカタログにある全アルバムの中で、ジャン&ディーンのブートレッグは音楽的に違っていて、(エルヴィスを抜かして)他のアーティストよりも前の時代のものということで目立ってますね。ジャン&ディーンは昔好きだったのですか?

 オレから見ると、ジャン&ディーンはカリフォルニアが生んだ最も偉大なロックンロール・デュオだ。ふたりは大学の付属の高校に一緒に通い、代表チームでフットボールをプレイしてた。ドゥーワップ・スタイルのオリジナル曲を書いて、ジャン宅のガレージで録音した。このガレージで録音したヴォーカル・トラックを、当時まだ無名だったハーブ・アルパートが持ってた小さなレコード会社、ドアに持って行った。アルパートがヴォーカルにバッキング・トラックを加えると、数々のヒット曲が誕生した。ジャン&ディーンはこういうやり方で、1958年に〈Baby Talk〉で最初のヒットを飛ばした。まだハイスクール生だった時にだ。
 ジャン&ディーンとレコード業界にいる他の連中との違いは類まれな知能だ。ふたりとも高IQの持ち主で、ジャンは160を超えてたらしい。1960年代初頭にリヴァティー・レーベルと契約した頃には、ジャンはすべてのレコーディング・セッションを完全に取り仕切り、あらゆるレコードを自分でプロデュースしていた。こんなアーティストは前代未聞だった。しかも、こんな若い年齢の奴がだ。ジャンは1963年から1966年にかけて、リヴァティーでヒットにつぐヒットを飛ばして…で、ここからが皆さんが好きなパートだ…。
 1964年にはジャン・ベリーとディーン・トレンスは世界の頂点にいた。その年、ふたりは『T.A.M.I.ショウ』のホストを務め、トップ10ヒットのレコードを3枚出し、MGMと映画『Ride The Wild Surf』に出演する契約を交わした。自分たちで企画した映画『Easy Come Easy Go』にも出る契約をした。しかし、よくない出来事が重なって、ジャン&ディーンのキャリアの道は永遠に変わってしまった。
 フランク・シナトラの息子がネヴァダ公演の後に誘拐され、父親であるフランクSr.のもとには身代金として多額の現金を要求するメッセージが届いた。フランクSr.は身代金を払い、フランクJr.は無傷で解放されたが、フランクSr.は誘拐犯を見つけ出すために国中のあらゆる法執行官に電話を入れた。FBIが身代金を見つけるのに3日間しかかからなかった。何と、ディーン・トレンス宅のシャワー室から発見されたのだ。どうして? ディーンの親友ふたりがフランク・シナトラJr.を誘拐した廉で逮捕され、ディーンはどういう経緯で身代金が自宅のシャワー室にあったのか説明を求められた。もともと、ディーンとその親友は、誘拐はフランクJr.が関与した「宣伝」行為だと言い逃れをしようとしたが、間もなくディーンは証言を変え、ふたりの親友は本当にフランクJr.を誘拐し、自分は事前にはそれを知らなかったと主張した。ディーンの親友は有罪となって、懲役80年とかの判決が下された。ディーンはどうにか起訴されずに自由の身となり、皆、この結果に満足したものの、フランク・シナトラだけは別だった。シナトラ一族はディーンの血を求めた。
 数日もしないうちに最初の災難に見舞われた。ベルエアにあるジャンの家が焼け落ちた。原因はミステリアスでも何でもない。フランクに雇われたならず者たちがジャンとディーンを間違えたのだ。次に、MGMから映画『Ride The Wild Surf』への出演を断られたのだが、自分たちの映画の撮影を開始する予定があったので、ジャン&ディーンにとっては痛手ではなかった。しかし、『Easy Come Easy Go』の撮影初日に、鉄道の敷地内で、有蓋貨車が謎の暴走をして、ジャン&ディーンが撮影のために乗ってる平台型貨車に突っ込んで来た。ディーンはそれに気づいて飛び降りて難を逃れたが、ジャンと多数の技術スタッフは大怪我を負ったため、MGMはこの映画を完全にキャンセルしてしまった。驚いたことに、フランク・シナトラの力がこんなところにまで及んでいた。
 1年後も、シナトラがあらゆる手を使って妨害工作を行ない、ジャン&ディーンのテレビ・ショウを中止に追い込んだりしたが、ふたりはチャート上では好成績をあげていた。が、今度は徴兵委員会が大問題となっていた。ジャンに徴兵カードが届いたのだ。ジャンはヴェトナムには行きたくなかったが、どうすることも出来なかった。徴兵委員会はジャンに言った。「エルヴィスも徴兵に応じたんだ。お前なんかよりはるかに有名だったけどな」 ジャンは腹立ち半分にオフィスを出て行き、コルヴェットを運転してサンセット・ブールヴァードに向かったが、ジーン・バリーの家の前でトラックの後ろに車ごと突っ込んだ。事故に気づいて外に飛び出し、ジャンの頭からフロントガラスの破片を引っこ抜いたのは、バリーの子供だった。その子によると、ジャンの頭のてっぺんにはソフトボール大の穴が開いてたという。
 ジャンはそれでも死ななかったが、脳に酷い損傷を負ったため、歩くこともしゃべることも、もう1度ゼロから学び直さねばならなかった。長期にわたるリハビリの末にレコーディング活動に復帰したのは大きな勝利ではあったが、昔と同じというわけにはいかなかった。

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 Wizardo製のジャン&ディーンのブートレッグは、オレが長年かけて集めたレアなレコーディングをまとめたものだ。コレクターはとても気に入ってくれたようだが、一番気に入ってくれたのはディーン本人だった。オレは直接言われたよ。このアルバムのおかげで、自分でジャン&ディーンのブートレッグを出したいと思ったって。
 ジャン&ディーンとの長年の交流に関してはもっとたくさんの話があるんだけど、聞きたいと思う人がいるとしたら、今ではわずかにしか存在しないジャン&ディーンのファンに限られるだろうなあ。

WRMBの番号が300番台から400番台になり、最終的には500番台になったのには何か意味はあるのですか?

 この話は気に入ってもらえるかなあ。あの頃は、パーティー活動がブートレッガーのライフスタイルの重要な部分だった。こうしたパーティーには酒やその他のものが出てくるのが常だったので、たいていは二日酔いだ。朝起きて頭がぼうっとした状態なのは珍しいことじゃなかった。作業をしなきゃいけないというのにさ。新しいレコードにマトリクス番号を割り当てなきゃいけないんだけど、最後の番号がいくつだったか思い出せなくて、「この前のレコードはWRMB328だったっけかなあ、329だったっけかなあ?」ってことになった。そんな時、前に使った番号を間違えてもう1度使ってしまうのを避けるために、シリーズの番号を100繰り上げたんだ。作業が自分自身だけで完結していて、「連続性」や「商標」といった面倒なことに邪魔されずにレコードを作ることが出来たら、人生は素晴らしいね。

1970年代には、どんな方法を使って当局のレーダーにひっかからないようにしていたのですか?

 ケンはよく言ってたよ。「逮捕を逃れるには常にレーダーの下側を飛んでるしかない。見えないものは逮捕出来ない」って。オレは賢くも、ケンが教えてくれたことを全部、頭に叩き込んでいた。「追われてる」時には、姿を消して「しばらく大学にでも通え」というアドバイスをしてくれたのもケンだ。州レベルの追及であれFBIの追及であれ、オレはいつもこの単純だが効果的なごまかし方で捜査を攪乱してきた。おかげでアカデミズムの世界でもずいぶんあちこち行った。ブートレッグと寛大なお婆ちゃんのおかげで、10以上の高等教育の学校に通うことが出来たよ。オレが授業を受けた大学の中にはチャップマン、アンティオーク、エヴァーグリーン、UCLAがあった。ハリウッドのシャーウッド・オークスのような「実験的な」カレッジにも通った。これはあの頃のブートレッグ・キャリアの最高の側面だ。こういうふうにして追及を逃れることが出来ただけじゃなく、教育を受けることまで出来てしまったんだから。1970年代には、法的にその必要が生じた時にはいつも「仕事をやめて大学に通う」というカードを切っていた。再び平和と静寂が訪れて、ほとぼりが冷めるやいなや、ブートレッグ製造に戻ることが出来た。
 ユニークな立場にいた結果、オレは自分なりのやり方で大学を選んだ。最初はどれにしようかな?って。『The Rolling Stone Guide to Colleges and Universities』っていうペーパーバックの本を買ってみたら、そこには「アンティオーク・カレッジはとてもヒップで、学生用の書店では避妊具が売られている」って書いてあったんだ。それ以上の情報はいらなかった。即、入学を希望したよ。アンティオークはオハイオ州にある超リベラルな人文系のカレッジで、デイトンの約20マイル[32km]東のイエロースプリングスっていう小さな町にあった。創立は南北戦争よりも前で、建物の殆どにはビクトリア時代より前の様式のタワーがあって、とてもイカしてた。
 アンティオークへの入学手続きは、当時のあらゆる大学と同様だった。入学課にハイスクールの学業成績証明書を送る必要があるんだが、オレの場合はチャップマン・カレッジのそれでOKだった。ハイスクールの最高学年をそこで過ごしたからね。それから推薦状も必要だったんで、ダッチ・ビショフ保安官補にオレンジ・カウンティー保安官オフィスのレターヘッドのある便箋に一筆書いてもらったよ。入学課がそれを見てどう思ったかは検討もつかないけど、オレのユーモアのセンスには訴えるものがあった。それから、卒業生と個別に面接をしなければならなかった。
 オレと面接をしてくれることになった卒業生は、オレンジ・カウンティーのダウンタウンで、オレ実家から15分くらいのところで暮らしてる人だった。到着してみたら、オレンジ・サンシャインていうヘッドショップの隣で暮らしてることわかって愉快になった。ここはブートレッグを卸してた店だ。そして、ドアをノックしたらビックリ。出て来たのは何とヒッピーだった。髪はオレより長く、髭もオレよりぼうぼう。オレは感動した。
 この人から訊かれたこと全部を覚えてるわけじゃないけど、いくつかははっきりと記憶している。彼はオレがアンティオークの入学課に送った入学申込書のコピーを持っていて、それにはラリーと一緒にオレンジ・カウンティー・フリー・クリニックでボランティアの仕事をやった件が書いてあった。本当かと訊かれたので、イエスと答えると、「そこまでの行き方を教えてくれる?」と頼まれた。ドラッグをやってるのか?という質問に「ノー」と答えると、「覚えるまで、まだ2カ月はあるなあ」と言われた。オレは正しい学校を選択していた。
 ドラッグはやってないと答え、推薦状もオレンジ・カウンティー保安官オフィスからのものだったにもかかわらず、オレはすぐにアンティオーク・カレッジに入学を許可され、秋から授業に出席し始め、クリスマスにはまたブートレッグを作っていた。
 カレッジに入退学を繰り返してた時期は、ブートレッガーとしてのキャリアの前半分にあたる。つまり、1972年から1977年までの、オレがWizardo Recordsをやってた時代だ。この頃、オレはブートレッグの殆どをWizardoの名前で出していて、当局による捜査を攪乱するために大学に入ったり出たりを繰り返していた(ブートレッガーとしてのキャリアの後半には別の策略を使っていた)。あなたとのやりとりでは主に1972〜1977年のことを話している。年齢でいうと16歳から21歳の頃だ。ご存じの通り、オレはその後さらに12年間、ブートレッグの製造を続けてたが、もはやWizardoのブランドでは作ってなかったし、本当に成人になってたし、ブートレッグ作りもそんなに楽しくなくなってたんだ。楽しい瞬間は皆無だったって言ってるわけじゃないが、それはまた別の機会に話そう。ブートレッグの世界から去った後の30年間に何をやってたのかって話も同様だ。どれもこれもだと話が多過ぎるので、今は1972〜1977年だけにしておこう。
 10歳の時にテレビで『Hank』っていう連続ドラマを見た。大学に進学する金はないが、高等教育を受けることを諦めなかった男の物語だった。こいつはコミュニティー・カレッジの学生のふりをして、興味のある授業だったら何でもかんでも「もぐり」で受講した。その後、「ドロップアウト」すると、新しい授業で同じプロセスを繰り返した。そして、遂に、こいつ独自のやり方で受けたい教育を受けてしまった。オレは10歳ながらも、これは面白い教育モデルだ、自分もこういうアカデミズムの旅をしたいと思い、だいたいその通りのことをしたかな。無料じゃなかったってこと以外はさ。オレは大学に通うのが好きだった。学問の雰囲気が好きだった。その時、学びたいものに関係のある授業にしか出席しなかったけどね。大学で学位を取ることはオレの目標じゃなかった。オレは怠け者過ぎて、卒業証書をもらうのに必要な面倒臭い手続きをしっかりやることができなかった。それに、最後はロースクールに行きたいって思ったんだ。学位は必要なかったけどね。法科大学院入学適性試験での好成績と立派な推薦状があったらなあ…。

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あなたとVicky Vinylことアンドレアのツーショット写真はどういう経緯で撮影されたのですか?

 ヴィッキーとオレの写真は1994年頃に撮影されたものだ。この頃にはオレもヴィッキーもブートレッグ・キャリアは終了していた。ジム・ウォッシュバーンがやってたオレンジ・カウンティーのブートレッガーたちっていうプロジェクト用だった。オレの前にあるブートレッグはオレが作ったものじゃない。撮影に持ってったのはローリング・ストーンズの「ナンシー」のジャケットだけだ。オレはナンシーが大好きで、彼女のイラストをブートレッグによく使った。残りの物は、オレがセットに到着した時には、もうそこにあったんだ。たぶんジムのコレクションなんじゃないかな。ヴィッキーとオレはレコードで顔を隠すことになってたんだが、顔をチラッと見せたりして、楽しかったよ。

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1980年のブートレッグの宣伝チラシはVicky Vinylが作ったものですか? それにはアンドレア・エンサールという名前があります。


 違うな。見たことない。アンドレアが関与したものとは信じがたい。変なハリウッドの住所も彼女とは関係ない。でも、『ザ・トイレット・ペーパー』に似てるなあ。謄写版を使ってるって点でさ。当時は、謄写版印刷機は全ての学校と小さな会社にあったよね。ベガーズ・バンケット[アンドレアが経営していたレコード店]が南カリフォルニアの小規模ディーラーにレコードを卸していた。ここがブートレッグの出どころの可能性がある。

あなたはContraband Musicのレコードも仕入れて売ってたんですよね。このレーベルについては、あまりよく知られていません。創設者のデヴィッド・Dとは付き合いはあったのですか?

 デヴィッド・DはCBMのブートレッグを作ってた。ノフォーク出身なんだけど、デンヴァーに引っ越した。専門はビートルズのブートレッグだった。オレはこいつにピンク・フロイド等、ビートルズ以外のバンドのテープを供給した。とてもいい奴だった。デヴィッドはKing KongやInstant Analysisのブートレッグを作った。東海岸のプレス工場を使っていた。ここの作るレコードは最初は貧弱な音だったけど、後になると、はるかに良質なディスクを作るようになった。ケンがこっちのプレス工場とトラブってた時、デヴィッドの東海岸の工場に大量のレコードを作らせて、ロサンゼルスまで列車で輸送してもらったところ、全部、酷い反りが生じていて売り物にならなかった。その後は、西海岸の工場しか使わなかったね。
 
1980年代前半の「Trade Mark Of Quantity」リリースはアンドレア(Vicky Vinyl)とケン・ダグラスが提携した結果であると考える研究家もいます。これは事実ですか?

 そんな記憶は全くないね。アンドレアとオレだったらやりそうなことだけどね。ケンとアンドレアとオレは、公私問わず、いろんなプロジェクトで協力した。オレたちは友人{だち}だったが、ビジネスとなると、信頼が常に重要だった。皆が皆のレコードをコピーしていた。皆が知り合いで、他人が何をやってるのかわかってた。対人関係が大混乱を引き起こすこともあった。 オレがVicky Vinylを誕生させてしまったことをケンは許してないと思うけど、同時に、彼女はとても頭が良くて、やる気も満々の女性で、オレたちを制圧してしまった。プレス工場に連れてってあげた時(どうだ、凄いだろって感じでさ)、しっかり観察してたんだね。それから1年もしないうちに、オレたちの誰よりも収益を上げるようになった。もちろん、オレたちと同様、「レーダーにひっかかって飛行」してしまい、最終的には代償を払ったけどね。

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Wizardoがリリースしたフロイド以外のアルバムで、コレクターの間でいくつか疑問が生じているものについて話していただけますか? まず、このローリング・ストーンズのブートレッグには「SODD」のインサート(「ザ・ビアード(髭男)」についての短い物語が載っている)が付いていますが、明らかにWizardoが製造したものですよね。

 このSODDのインサートの付いたストーンズのブートレッグは、オレが「パロディー」、つまり、冗談で作ったものだ。「ザ・ビアード(髭男)」はケンだ。このレコードは350枚しか製造してないと思う。全部、ノース・カロライナの奴に送った。見分け方は簡単だ。Singer's Original Double Discsが作ったものは2枚組だったけど、オレが作ったストーンズの模造品は1枚組だった。
 ケンが何枚かWizardoの偽レコードを出したんで、オレはふざけて仕返しをしたんだよ。さもなければ、SODDのほうが最初で、ケンが偽のWizardo盤を作って報復したのかもしれない。はっきりとは覚えてないけど、全部、楽しんでやったことさ。わざと音質最低のオーディエンス・テープを使ったこともある。顧客にとっては無価値のプロジェクトだった。45年後にそれを気に入ってくれる人がいるとは思ってもなかったよ。
 デヴィッド・B…(The Kornyfoneの奴)がケンのためにSODDのレコードを作ってたんだけど、デヴィッドは思い上がった野郎だったから、あのジャケットに気分を相当害するのはわかってた。だから、おかしさ倍増さ。

ということは、デヴィッド・B…が「テリー・フォーン博士」だったのですか?

 そう。デヴィッドはバカな名前が好きだった。こいつは黄色いフォルクスワーゲンに乗ってたんだけど、オレはドイツ車は嫌いなんだよなあ。

Kornyfoneのレコードには謎のタイトルが付いてましたが、その裏にいたのがこの人ではないかと思っています。ケン・ダグラスに訊いたら、自分ではないって言っていたので。

 そう。デヴィッドはKornyfoneのレコードにああいう意味のないタイトルを付けては自分は優秀だって悦に浸り、自分を取り繕って大きく見せるのにたくさんの時間を使っていた。ダウニーで両親と一緒に暮らしてたんで、こいつには、ストリート名を取ってダウニー・デイヴって名前もあった(もっとダサい名前も2つばかり)。
 アンドレアのレコード店、ベガーズ・バンケットには、奥の部屋にピンボール・マシンがあった。元は「ゲイター」って名前だったんだけど、リックとジムとオレで「ダウニーから逃げろ」って呼ぶようになった。銀のボールは、小さな町から出ようとするデヴィッドの黄色のフォルクスワーゲンだった。ボールが下に落ちないようにすることで、デヴィッドがダウニーから出て行くのを阻止して、アメリカを守ってたのさ。バカなガキだろ。楽しかったけどね。
 アンドレアはウッドブリッジの家で、しばらくの間、デヴィッドと一緒に暮らしてみたんだ。仕事の用事でアンドレアに会うために、時々、立ち寄ったんだけど、オレが行く時に限ってデヴィッドはいないようだった。アンドレアに理由を訊いてみたところ、デヴィッドは家にいるんだけど、オレが帰るまでバスルームに隠れてるってことだった。それを知るやいなや、オレは頻繁にアンドレアの家を訪問するようになり、ビールの栓を開けて、テレビを見て、何時間もくつろいだ。その頃には、アンドレアはデヴィッドにウンザリしてたので、オレがこういうやり方でデヴィッドを苦しめても気にしなかった。こいつをバスルームに閉じこめた最長記録は4時間半だった。ガキだよなあ。今でも、思い出すと笑ってしまう。
 アンドレアはデヴィッドの誕生日のプレゼント用にソニー製の超優秀なポータブル・カセット・テープ・レコーダーを買ってあったんだ。こいつがオレのようにコンサートの録音を始められるようにね。その頃、ピンク・フロイドがアナハイム・スタジアムでコンサートを行なう予定があったので、オレはチケットを2枚持っていた。もちろん録音する予定だったんだけど、オレのウーヘルCR134は故障して、使えなかったんだ。それで、アンドレアを説得して、デヴィッド用のソニーの新品の封を開けさせた。オレたちはそれをコンサートに持って行って、素晴らしい状態で録音した。このブートレッグを出した時、オレはジャケットのどこかに「レコーダーを誰かさんにプレゼントしなくてありがとう」って書いておいた。オレはこうしてデヴィッド・Bをいじめ続けた。ターゲットにしやすい奴だった。こいつがその後、どうなったのかは知らないが、自画自賛の人生を続けたんじゃないかな。

ワオ! 《California Stockyard》も録音したのはあなただったんですね。ファースト・ープレスはDragonflyレーベルですよね? リリースしたのは誰ですか? あなたですか? アンドレアですか? それとも共同で出したのですか?

 Dragonflyレーベルで正しいと思うよ。オレの記憶では、このプロジェクトでオレが果たした役割は、フロイド公演の録音したのと、ティアックの7300ハーフトラックでマスタリングしたことだ。あれはアンドレアのレコードだった。何らかの報酬をもらったのかどうかは記憶にない。アンドレアとは、仕事で協力しなくなってからもずっと親しくしてたんで、ダウニー・デイヴへの当てつけでそれをやったのかもしれない。
 《California Stockyard》用にオレが使いたいと思ったオリジナル・タイトルは《David's Album: A Bakers Dozen》だった。アンドレアがデヴィッドの誕生日のプレゼントに買っておいたソニーのテープ・デッキをオレが使っちゃったという一件に基づいた、内輪のジョークさ。録音に使った後、レコーダーは書類や発泡スチロールのパッキング等と混ぜてごちゃごちゃにして箱の中に戻しておいた。受け取る前に使われていることをデヴィッドがわかるようにだ。当然、嫌がらせだよ。アンドレアはオレのタイトル案を採用せず、最終的には《California Stockyard》になった。
 オレがやった全てのライヴ・レコーディングと同様、今でもオリジナルのカセットテープはどこかにしまってあるよ。長年の間に、アメリカ中で何十、何百ってコンサートを録音して、もちろん、その多くはブートレッグになった。オレ自身の手か友人{だち}の手によってか、どっちかでね。ケンのKornyfoneレーベルで使うために、ダウニー・デイヴにテープを供給したことすらある。なので、オレはこいつのことを少しは気に入ってたのかなあ。ケンのレコード・パートナーだったんで、その点では敬意を持っていた。デヴィッドとふたりきりでいて、こいつの自分語りをやめさせることが出来るのなら、限られた時間だが一緒にいて楽いかった…かもしれない。当時のポピュラー・ミュージックについて豊富な知識を持ってたし、レコード・コレクターでもあったと思う。あの頃は、あらゆる種類の変人とつき合う必要があったんだが、ダウニー・デイヴもその好例だ。

この人物をいじめて楽しんでいたようですね。

 テリー・フォーン博士をいじめるの自分の時間の多くを使ったと思うよ。「ボクをいじめて」って叫ぶ変な奴がいたらどうする? 全力でそうするしかないだろ。超楽しかったんだ。大勢の連中に参加してもらった。オレは酷く残酷だった。オレはもうアンドレアと別れてはいたが、デヴィットとは一緒にいて欲しくなかったんだ。オレって間抜けだろ。デヴィッドのエゴをうまく回避することが出来るのなら、近くにいてもいい奴だった。いろいろ書いたけど、本当はこいつのことを気に入ってた。こいつは根はいい奴なんだよ。ハートがあるし、優れたユーモアのセンスの持ち主だった。同じ音楽が好きだったし、ブートレッグのマジックも信じていた。ケンもこいつのことを気に入っていた。オレはデヴィッドにKornyfone用のテープをたくさん提供したし、お返しにいろんな便宜を図ってくれた。マクドナルドの最古のハンバーガー・スタンドの1つがデヴィッドのホームタウンのダウニーにあって、そこに一緒に行って楽しかったことを覚えてるよ。その後に、レアなレコードを求めてウェンゼルズに行ったんだ。親友{マブダチ}になるべきだったんだろうけど、そういうふうにはならなかったね。あの世では親友になれるかな。

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これは何だかわかりますか? 《California Stockyard》のジャケットのプロトタイプと言われているものです。

 アンドレアが作ったものでもオレが作ったものでもないよ。

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このビートルズのブートレッグはとても珍しいものです。ジャック&ジョーンによるインサートがあるのに、カタログ番号がWRMB300番台ではないんです。

 このビートルズのブートレッグは珍盤だ。ジミーとオレが初めて会った時、ジミーは独自にルイスでこれを作っていた。そういうわけで、オリジナル・プレスにはWizardoではなくてFan Buysのレーベルが付いてるんだ。ジミーが中身をどこで手に入れたのかは覚えてない。きっと、他のブートレッグをコピーしたに違いない。オレは気に入らなかった。だから、オレの知る限りプレスは1回きりだ。

黒ビニールと赤ビニールが発見されているのですが、ルイスで黒と別の色を同時にプレスするのは珍しいですね。

 カラー・ビニールは普通、黒ビニールと並んで使われることはなかった。同時に2台のプレス機を使うのではない限りね(ルイスではこんなことは起こらなかった)。ケイにお願いして、ジミーにはスタンパーが壊れてしまったと伝えてもらった記憶がおぼろげながらある。こいつはスタンパーを新たに作るなんてことは絶対にしないだろうと思ってね。
 ジミーは、オレの関知してない、ひとりでやってる製造については、オレに伝えることをいつも「忘れて」いた。最終的には、それでうまくいってたんだけどよ。オレも自分がやってる作業のこまごまとしたことで、常にジミーの手を煩わせてたわけじゃなかったからね。Bトフ・バンドのアルバムはそういうふうに作ったんだ。オレはそれをWRMBのタイトルの1つとして製造スケジュールにすべり込ませたんだ。ジミーは自分のお得意先からこのアルバムの注文を受けてたが、知らないバンド(ビートルズ以外のあらゆるバンドがそうだった)の1つだと思ってたんだろう。ジャケットなんかわざわざ見てないと思う。見る理由がないから。オレたちの仕事上の関係は、普通とは違うが楽しいものだった。しかし、そのおかげで、残念なことに、正確な製造枚数がわからなくなっていた。

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このブートレッグは見たことありますか? Vicky VinylのDragonflyレーベルに、TMOQのタイトルが付いていて、あなたのEl Monkee Wizardoのロゴがあります。

 見たことないな。El Monkeeのロゴをパクるなんて素敵じゃないか。今や、サルのイラストのあるブートレッグのほうがピーナッツの袋より多く見るよ。誰が最初に描いたのかなあ? 最初に描いたアーティストが、これが載ってるブートレッグとどこかで出会ってたら素敵なだあ。その人はどう思うかなあ? イラストの主がニール・ヤングじゃないのはいいことだ。
 オリジナルのEl Monkeeのピーナッツの袋は、白地に2色刷りだった。サルの顔は青で舌は赤だった。オレが加えた唯一の変更は、1色刷りにした時に見栄えがいいように、舌を「スクリーン」にしたことだ。素晴らしいグラフィックだと今でも思うよ。もっとたくさんのレコードに載せたほうがよかったな。

Wizardoの他にどんなレーベルをあなたは関与していたのですか? 例えばDeath Records、Boss、Oddもあなたのレーベルですよね?

 いっぱいありすぎて覚えてないというのが回答だ。思い出せるもののリストを作ることは出来るが、それだけでもたくさんある。アクティヴなブートレッガーで、オレが音源を提供しなかった奴はいないと思う。皆のために大量のマテリアルのマスタリングを行ない、「単発」リリースでは他にも多くの連中のパートナーになった。
 オレの気に入ってた匿名レーベルの1つが、アンドレアと作ったSLAレコードだ。日本のお得意さんであるジャパン・オールラウンド・ミュージックのためにレコードを作ったんだ。この業者はオレたちのブートレッグ全部の写真を載せた大マガジンを出版した。『Footprints In The Sand』というタイトルのビートルズの本も出版した。その中ではジョン・ウィザードのことを架空のアメリカン・アウトローって紹介していた。笑っちゃうよね。ずいぶん昔のことさ。
 Death Recordsは忘れてたよ。それもオレだ。実際、たくさんのレーベルがあった。狙いは全て当局による追及を混乱させることであって、うまくいったね。でも、それが未来のコレクターを混乱させることにもなるとは、思いもよらなかったよ。クレジットを入れなかったのは、オレのところにまでたどりつけないようにするためだ。今になって突然、この件を話題するなんて笑っちゃうよな。この30年間は、2度とこんな話をしなくて済むように、懸命に働いてきたんだぜ。オレが実際に作ったアルバムが何枚か計算することって可能なのかなあ? オレは記録なんて残してないし。レコードのプレス工場も記録を残してない。全て、見えないようにやってたし。オレたちはそうするのが上手だったが、おかげで法で認められてない仕事の歴史を正確に語るのに支障をきたすことになってしまった。当時、ブートレッグがどのくらい売れてたのか「本当の知識」を持ってるなどと称する奴は警戒したほうがいい。そんなデータなんて存在しない。オレにも。ケンにも。リトル・ダブにもだ。経験に基づいた推測なら出来るが、正確さを求めるには経った年月が長過ぎる。

クリントン・ヘイリンの本『Great White Wonders』は読みましたか?

 そういう本が出たことは知ってるが、読んだことはない。間違いばかりで気分を害すから読むなって、ジム・ウォッシュバーンから言われ、このアドバイスに従った。ジムが言うには、この本は主に、ルー・コーアンていう学校教師へのインタビューを情報源にしてるんだとか。こいつはルイスで2タイトルほどブートレッグを作った。ルーはとてもいい奴だ。一緒にいて楽しい。偉大な高校教師だ。そして、純真無垢だ。ウォルター・ミティー・タイプの、事実と空想を混ぜこぜにして楽しんでるような奴だった。ブートレッグ産業で自分が果たした役割をどんなふうに説明したか、だいたい想像がつくね。きっと、巨人になってることだろう。

ヨーロッパの業者とは取引をしていましたか? 『Floydboots』のメンバーがオランダのブートレッグ・シーンについて本を書いていて、あなたがオランダにもレコードを送っていたのか、その国では誰があなたのブートレッグを流通させていたのか知りたがっています。

 オランダやイギリスの多くのブートレッガーと取引があったよ。「World White」レーベルの裏で糸を引いてた連中を知っている。「殆どお金を持ってない人のための少額のレコード」というのがそいつらのスローガンだったと思う。当時のオランダの大物2人は、「ダッチ・チョコレート」という名で知られていたリカルドとフェリーって奴だった。身長が6フィート[180cm]以上ある黒人(ダッチ・チョコレート)と、小柄な白人のパートナー(フェリー)っていうコンビだ。運の悪いことに、フェリーは殆どのアメリカ人には女性用のハンドバッグにしか見えない小型カバンを持っていた。
 タバコを買いに、午前2:00にロサンゼルスのコンビニに一緒に入った時のことを覚えている。中には大柄のバイカー・タイプの連中がいて、こいつらはフェリーを見るとからかい始めた。「ヘイ、お嬢さん。名前は何ていうんだい?」とひとりが声をかけてきたので、オレは死ぬほどビビッた。もしフェリーが「フェリー」って答えたりしたら、バイカー連中は「フェアリー」(オカマ)と空耳して、絶対に一悶着あるだろうと思ったのだ。オレは手でフェリーの口を押さえて叫んだ。「こいつの名前はボブだ。フランスから来たばかりなんだ」 バイカーたちは少しの間、無言になり、ポルノ雑誌の立ち読みを再開した。外に出た時、フェリーから「どうしてフランスから来たって言ったの?」って訊かれたので、バイカー連中は地理に疎くて、オランダなんて聞いたこともないだろうからと答え、それに、アメリカ人は皆、フランスのことを、皆がチーズを食べてジェリー・ルイスの映画を見ている一風変わった国だと思ってるとも説明した。とにかく、危ない目に遭わずに済んだよ。
 ダッチ・チョコレートについて、とてもいい奴だったってこと以外で一番印象深いことといったら、こいつはコカインをタバコに混ぜてたことだ。ゲロゲロだ。こいつによると、ヨーロッパじゃ皆がそうしてるらしいんだが…。そんなことしたらタバコもコカインも台無しだとオレは思うんだけどね。当時、コカインはいたるところにあって、おかげで滅茶苦茶になるパーティーが増えた。1973年にロンドンに行く際にはブートレッグを2箱分持って行った。自分のコレクションを増やすために、ヨーロッパ製のブートレッグと交換しようと思ってね。たくさんの人と会ったんで、誰が何を作ったのか思い出すのも一苦労だ。数年後、BPI[英国レコード産業協会]が、ヨーロッパのブートレッガーを捕まえる目的でデヴィッド・ボウイの偽のブートレッグを製造するなんてことがあって、新しい友人{だち}を作るのが少し難しくなったのだが、もちろん、困ったのは当局の連中ほうだった。たくさんの金を使っといて、オレも他のブートレッガーも捕まえることが出来なかったんだからね。本当に愉快な時代だったなあ。

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「…だが、そもそも、ルイスで製造されたWizardoのブートレッグ全部に、盛大なパチパチ・ノイズが入っている。だから、真偽のほどはわからない。私ははっきりしない過去と物覚えの悪さにずっと苦しんでいる…。とにかく、もう、はるか昔の出来事だから」

The original article “The John Wizardo Interview” by Steve Anderson
Interview Conducted By Steve Anderson March to August 2020
Personal Photographs Copyright : Jon Tschirgi 2020 & Ken Douglas 2020
http://www.floydboots.com/pages/JonWizardo.php
Reprinted by permission


   

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