2021年06月06日

19歳のボブ・ディランが行なった歴史から忘れられたコネチカット公演

文:マーク・ザレツキー


1200x0.jpg

27歳の時に、ブランフォードで行なわれたインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルで撮影したボブ・ディランの写真2枚を見せるスティーヴン・H・フェナージャン(87歳)フェナージャンの写真は息子のスティーヴン・M・フェナージャン(スティーヴン・フェナージャン・ジュニア)が撮影。(写真提供:スティーヴン・M・フェナージャン)

rawImage.jpg

1961年にブランフォードで行なわれたインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルで観客に混じるボブ・ディラン(右から2番目)。当時、マサチューセッツ州ケンブリッジで暮らす27歳のアマチュア・カメラマンだったスティーヴン・H・フェナージャンが撮影。フェナージャンは現在、87歳で、マサチューセッツ州シャロンで暮らしている。(写真の撮影と提供:スティーヴン・H・フェナージャン)

 フォーク・フェスティヴァルを見に来たことを想像してみよう。なんとなく行ったわけではない。お目当のアーティストもいた。しかし、突然、才能と深み、含蓄のある新進気鋭のアーティストを発見し、その体験によって、その後数十年間の音楽観、人生観が変わってしまった。
 19歳のボブ・ディランと出会ったことを想像してみよう。彼が何者なのか知らない。彼が同じ志の数十人の人々のために、予告もなく演奏するのを聞いた。観客の殆どは彼のことなんて見たことがない。多くの場合、名前を聞いたこともない。

 そんなことが60年前の木曜日にブランフォードで起こった。1961年5月6日、インディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルでだ。

 このイベントが重要なのは、その場にいた人々の話によれば、グリニッジ・ヴィレッジや故郷の町、ミネソタ州ヒビングの外側の人々がディランの演奏を見たり聞いたりした初めての機会だったからである。

 その約60年後、世の中がこのイベントがあったことなど、とうの昔に忘れているというのに、複数の人間がそのレコーディングをYouTubeに投稿したため、急にその思い出がよみがえることとなった。
 
rawImage-1.jpg

1961年にブランフォードで行なわれたインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルで観客にまじっているボブ・ディラン(中央やや左上)。(写真の撮影・提供:スティーヴン・H・フェナージャン)

 ディランがインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルで演奏する様子を収めたテープは最初期のディランを収めた歴史的記録の1つだが、ニュー・ヘイヴンのウールジー・ホールで「正式」なコンサートが行なわれた翌日にインディアン・ネック地区にあるモントウィーシ・ハウスという古くてボロボロのホテルで行われたアフター・パーティーで、ディランは出演者リストには載ってすらいなかったがが、ウディー・ガスリーの歌を3曲も演奏した。

 「コンサートが終わった後、彼らは皆、ホテルに戻って、一晩中演奏したんだ。寝てる人なんていなかった」と、当時その場にいたスティーヴン・H・フェナージャン(現在は87歳)は語る。

 「インディアン・ネックは北東部にあったたくさんの音楽サークルの中では重要なイベントだった」と、ニューヨーク州ウッドストックで暮らすミュージシャン、ハッピー・トラウムは語る。彼もその場にいたが、発表された出演者のラインナップには含まれていなかった。

 あらかじめ発表されていた出演者の中にはジュディー・コリンズ、ジム・クゥェスキン、バフィー・セイント=マリー、キャロライン・ヘスター、サンディー・ブル、ロジャー・スプラング、ライオネル・キルバーグ、ザ・グリーンブライアー・ボーイズ、テッド・アレヴィゾス、ロビン・ロバーツ、ザ・ガードナーズ、モリー・スコット、ハリー&ジェニー・ウェスト、フィドラー・ビアーズ&イヴリン、ソニア・サヴェグ、ザ・グレイ・スカイ・ボーイズ、シンシア・グッディング、ボーデン・スノウ、ロリ・ホランド、アンガス・ゴッドウィン、アニー・バード、リック・フォン・シュミット等だった。「その他」の中にいたのがディランやトラウムだった。

rawImage-3.jpg

1961年5月6日にブランフォードで行なわれたインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルで歌う22歳の誕生日から5日経過したばかりのジュディー・コリンズ。(写真の撮影・提供:スティーヴン・H・フェナージャン)
 
 何らかの理由で、このイベントは時が経つにつれて忘れ去られ、1965年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルでポール・バターフィールド・ブルース・バンドのメンバーを従えて「エレクトリック化」した歴史的パフォーマンスと比べたら、重要度がはるかに低いものとなってしまっている。

 インディアン・ネックはイェール大学のフォーク・ソサエティーの主催で行なわれ、東部で開かれた最大規模のフォーク集会として宣伝されたもので、ディランのマニアや熱心なフォーク・ファンの集まりやブログでは語られ続けてはいるものの、この地域で暮らしている人でさえ、今ではあったことすら知らない状態である。しかし、確かにこのイベントは行なわれ、幸運なことに、誰かによって録音されていた。



 YouTube動画には「音声の記録が残っているボブ・ディラン最古のコンサート」というタイトルが付いているが、ハーヴァード大学の古典学の教授で、ディランに関する講座を受け持ち、著書もあるリチャード・トーマスや、ボブ・ディラン・アーカイヴのあるタルサ大学のインスチチュート・フォー・ボブ・ディラン・スタディーズの所長であるショーン・ラザムは、そうではないと言う。

 ディランがヒビングを離れる前に録音された、もっと古いテープも存在するし、「初期のバンドで作ったアセテート盤も存在する」とラザムは語る。

1200x0-3.jpg

ブランフォードで行なわれたインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルで歌うボブ・ディラン(当時19歳)(スティーヴン・H・フェナージャン撮影)

 だからといって、このフェスティヴァルと演奏の歴史的価値は下がるわけではない。このイベントが行なわれたのは、ディランが1961年1月24日にニューヨーク・シティーにやって来てから14.5週後、グリニッジ・ヴィレッジのガーディース・フォーク・シティーでブルースの巨人、ジョン・リー・フッカーの前座を務めるというニューヨークで初めて大仕事をやってから、たった25日後のことなのだ。

 ディランのパフォーマンスは、現代のソフトウェアで昔のブートレッグの音をクリーンナップしてYouTubeにアップロードした複数の音源の中に記録されている。1960年代半ばにフェスティヴァルの主催を引き継いだジェイ・ハートマン=ベリヤー(故人)の夫、ボブによると、コンサートの録音を行なった人物はテープの箱にディランの名前を「DILLON」と綴っているのだとか。

 フェスティヴァルは、その時その場にいた少なくとも2人の人物によって写真が撮影されている。現在はマサチューセッツ州シャロン在住のフェナージャンもそのひとりであり、彼と故ジョー・アルパーは、今考えるともの凄く貴重な写真をものにしている。

 当時27歳で、ハーヴァードのケンブリッジ電子加速器のある研究所の職員だったフェナージャンは、ケンブリッジのフォーク・シーンを趣味として記録していた。インディアン・ネックで、彼はそこにいたディランや他のミュージシャンの写真を撮影したが、他のミュージシャンの中には22歳の誕生日を5日過ぎたばかりの若きジュディー・コリンズや、ジム・クゥェスキン、ボブ・ニューワース、マーク・スポールストラ、レヴァランド・ゲイリー・デイヴィスがいた。

1200x0-1.jpg


 「よく覚えているよ。フェスティヴァルの最初の宣伝チラシも持っている」とフェナージャンは語った。「ボブ・ディランはこのイベントに呼ばれていたわけではない。そこにいた誰かのゲストとして来ていた。ジム・クゥェスキンが私のところに駆け寄ってきて、「こいつの写真を撮影しろ」って言ったんだ」

1200x0-2.jpg

1961年5月6日に行なわれたインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルで演奏する当時19歳のボブ・ディラン(中央)、マーク・スポールストラ(右)、ボブ・ニューワース(左下)。(スティーヴン・H・フェナージャン撮影)

 グリニッジ・ヴィレッジのシーンの内側の人間ではない多数の人と同様に、フェナージャンもディランのことは聞いたことがなかった。ロバート・ズィママンがウェールズの詩人、ディラン・トーマスへのトリビュートとして「ボブ・ディラン」というステージ・ネームを名乗るようになって、まだ間もない頃だった。

 「この写真を撮影する時にジムに「Dillonか?」って訊いたら、「いや、Dylanだと思うよ」って言ってたよ。皆、ウディー・ガスリーの歌ばかりを歌っていた。ジム・クゥェスキンや皆がディランと一緒に歌っていた。私はディランがハーモニカも吹いていたことに感銘を受けたよ。あんなふうにやる人は見たことがなかったから。声については、感銘は受けなかったね」とフェナージャンは語る。

 フェナージャンにとって、2016年にノーベル文学賞を獲得することになるディランは印象に残ってはいたが、他のミュージシャンとの差違はそんなになかった。

rawImage-2.jpg

1961年5月6日にブランフォードで行なわれたインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルでのRev.ゲイリー・デイヴィス(スティーヴン・H・フェナージャン撮影)

 「世の中、どうなるかわからないね」とフェナージャンは言う。「ディランがニューポートやイェール大学----私が初めてディランと会ったのはここ----でステージに立った時には、将来こんなふうになるなんて誰にもわからなかった」

 フェナージャンによると、正式なコンサートはウールジー・ホールで行なわれたのだが、ミュージシャンや主催者の一部には、滞在しているホテルで無料の食事、無料のビールが振る舞われた。フェナージャンは、フロリダに行かなければならなかったエリック・フォン・シュミットから招待状をもらって、フェスティヴァルにやって来た。

 フェナージャンはプロの写真家ではないが、彼があの頃に撮影した何百枚もの写真の一部が、ハーヴァード・スクエアやケンブリッジの伝説的な音楽クラブ、クラブ47(後のクラブ・パッシム)の50年間を取り上げた本の中で使用されており、インディアン・ネックの写真に関しては、マーティン・スコセッシが監督したドキュメンタリー映画『No Direction Home』で使用されている。
 
 フォーク・シーンを代表するシンガー、ジュディー・コリンズの記憶の中にもこのショウはある。彼女の出演はあらかじめ予定されており、そう宣伝もされていた。コリンズがボブ・ディランと会ったのも、ステージを見たのも、この時が初めてではない。コリンズはニューヨーク・シティーの自宅から電話でこのインタビューに答えて、「ウールジー・ホールで行なわれたコンサートについては覚えていません。自分が参加していたことはわかっているんですけどね」と語る。しかし、ディランがそこで演奏するのを見たことは彼女の記憶にある。コリンズは1959年にコロラドでディランと会い、その日は雨だったとはっきり覚えている。

 コリンズはディランの演奏を聞いた時----ディラン関連のウェブサイトによると、ガスリーの〈Talking Columbia〉〈Hangknot, Slipknot〉〈Talking Fish Blues〉----その場にいた多くの人とは違って、そんなに感銘は受けなかった。

 あの時点では「ディランは死ぬほど退屈でした」とコリンズは言う。「ディランは昔のウディー・ガスリーの曲を歌っていましたた。ダメね、と思いました。でも、その数カ月後、『Sing Out』誌に〈Blowin' In The Wind〉というディランの曲が掲載されたの。一番下に彼の名前が書いてあるのを見た時、何かの間違いじゃないって思いました」

 コリンズは歌詞の質が高いことに驚いた。「何が起こったのかは今でもわかりません。ディランはニューヨークに出てきたばかりで、知人宅を泊まり歩いていました」 つまりは住所不定だ。「家はなく、まだウディー・ガスリーの歌を歌っていました。(自分の曲を)書いてはいたんでしょう。でも、人前では披露していなかったんです」

 ジュディー・コリンズはディランの自作曲を聞き始めた後はディランのファンになり、今でも時々は話す仲だという。1964年にディランが〈Mr. Tambourine Man〉を書いている時、コリンズもその場にいた。当時のマネージャー、アルバート・グロスマン宅で行なわれたパーティーが終わった後のことだった。「私はディランの大ファンです。ボブの曲のいくつかは常に自分のレパートリーの中に入れています」

 後にディランと何曲かレコーディングしたハッピー・トラウムは、60年も経ってしまっているので、インディアン・ネックについて覚えていることは多くないと言いながら、こう語る。「オレもそこにいたことは覚えてるよでも、ディランがいたっていう記憶はない。当時はディランのことは知らなかったし。初めて会ったのは1962年だったからね。オレの頭の中で一番覚えているのはジム・クゥェスキンだ」 ジムはボストンを中心に活躍しているフォーク・ミュージシャンで、後にジム・クゥェスキン&ザ・ジャグバンドを結成した人物だ。「ジムはとにかくダイナミックな奴で…いろんなものを演奏していた。ギャラは全然出なかった」

 現在はノヴァ・スコシアのケープ・ブレトン島で暮らすボブ・ハートマン=ベリヤーは「仕事ではなくて、集会のようなものだった」と語る。彼は後にフェスティヴァルの委員長となり、長年の間、コネチカット州の別の場所で私的な招待制のイベントとして続けている。

 ハートマン=ベリヤーによると、最初の数回のフェスティヴァルはモントウィーシ・ハウス(Montowese House、ディランの公式ウェブサイトを含むネット上ではしばしば「Montowesi Hotel」となっている)で開催されたが、このホテルは1963年に焼け落ちてしまったらしい。

 2017年に『Why Bob Dylan Matters』を出版したハーヴァード大のトーマス教授は、インディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルは、ディランがミネソタからニューヨーク・シティーにやって来た後、ニューヨークの外で行なった初のパフォーマンスとして重要なものであると言う。

 「ニューヨーク・シティーに到着して以来、その外にはあまり出たことがないのではないかと思います」とニュージーランド出身のトーマスは語る。研究家たちは異を唱えているのだが、ディランがニューヨークにやって来たという「伝説の」日は、昔から1961年1月24日とされている。

 「インディアン・ネック・フェスティヴァルがある種のシンボル的なものになっているのは、ディランがニューヨーク・シティーの北に行ったからでしょう」とトーマスは語る。その後まもなく、「ディランは一念発起してクラブ47に出演します。ここはバエズも歌っていたフォーク・シーンです。…そして、そこでケンブリッジ・フォークの人たちと出会うのです」

ratio3x2_1200.jpg

1961年のインディアン・ネック・フォーク・フェスティヴァルの会場となったコネチカット州ブランフォードのホテル、モントウィーシ・ハウスのビンテージ写真。ボブ・ディランは1961年5月6日にここで3曲歌った。Photo: Blackstone Library collection / Contributed

 後にディランの友人、ツアー・マネージャーになったボブ・ニューワースは、ジャニス・ジョップリンと〈Mercedes Benz〉を共作したソングライターとしても有名だが、エリック・フォン・シュミットとジム・ルーニーが1979年に出版した本『Baby Let Me Follow You Down』の中で、インディアン・ネックで「ディランと初めて出会った」思い出話を語っている。よく覚えているのは「首にハーモニカ・ホルダーをかけていたのは、他にもうひとりしか知らなかったからだ」と言う。

 「ビールの樽のまわりに立って、クゥェスキンとロバート・L・ジョーンズとオレでウディー・ガスリーの曲を歌ったのを覚えているよ」とニューワースは語る。「そしたらボブがやって来て、それに合わせて演奏し始めたんだ。ボブは別のウディー・ガスリーの歌も知っていて、暗くなるまでセッションが続いて、ウディー・ガスリーやハンク・ウィリアムズのマニアックな曲を演奏したよ」

 前述の本によると、ニューワースとディランは互いに楽しい時を過ごしたとのことだが、ニューワースはもっと詳しく説明してくれた。「1日中笑っていた。激しく笑っていた。その頃のディランはステージ上でたくさんトークを行なっていた。演奏よりもトークのほうが多かったくらいだよ。本当に凄い奴だったから、インディアン・ネックの会場で、ケンブリッジに来いって勧めたんだ」

The original article “A look inside 19-year-old Bob Dylan's Connecticut performance that history forgot” by Mark Zaretsky
https://www.nhregister.com/entertainment/slideshow/Vintage-photos-19-year-old-Bob-Dylan-performing-221116.php?src=nhrhpgalleries



   
posted by Saved at 20:20| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: