ファーゴのボブ・ディランゆかりの場所5選
文:トレイシー・ブリッグス
ボブ・ディランが皿洗いのバイトをしていた店でコーヒーを飲めるのですか? ええ、それに近いことなら出来ますよ。ディランが80歳の誕生日を迎える5月24日(月)に『Forum News Service』では彼がファーゴで暮らしていた頃の思い出の場所をめぐります。
ボブ・ディランが短期間ファーゴで暮らしていたことを知っている人は多いですが、実際にどの場所で過ごしていたかは知っていましたか?
今年の初頭に『Forum』のコラムニスト、カート・エリクスメンが、ファーゴ/モアヘッドで暮らしていた頃のボブ・ディランについて書きました。この記事は、ダルース生まれヒビング育ちのディランが1959年夏をファーゴでどのように過ごしたかを詳細かつ魅力的に語ったものでした。しかし今回は、どの建物で暮らし、どこでタイムカードを押し、どこで演奏活動をしていたのかを紹介します。当時と殆ど変わっていない場所もあれば、すっかり変わってしまったところもあります。
註:ディランが1959年にファーゴで暮らしていた時、2つの異なる名前と1つのニックネームで活動していたのですが(そのうちどれもボブ・ディランではありません)、混乱を避けるために、この記事中では、一番有名な名前、ボブ・ディランで通します。
ディランがファーゴにやって来た理由
ディランは当時、本名「ロバート・ズィママン」を名乗っていました。1959年にヒビング・ハイスクールを卒業したばかりのディランは、音楽シーンをチェックするためにファーゴに来て、ウィスコンシン州のサマーキャンプで会った友人宅で暮らすようになりました。
エリクスメンの記事によると、ディランは1957年にキャンプに参加したご褒美に、両親からオートバイを買ってもらったそうなのですが、キャンプに参加することに同意したからといって、喜んでそうしたとは限らないということです。
キャンプの指導員によると、ディランは「反逆者」となって、活動の殆どに参加することを拒み、ずっと歌ったりギターを弾いたりして過ごしていたそうです。しかし、ファーゴから来たロックンロール・ミュージックが好きな少年、ロン・ジョエルソンとは親しい関係を築きました。
ロン・ジョエルソン(セントラル・ハイスクール卒業アルバム)
7thストリートでの生活
ジョエルスンは1959年にファーゴ・セントラル・ハイスクールを卒業し、その後もディランと連絡を絶やしませんでした。当時、ディランは「ズィミー」というニックネームで呼ばれていました。高校を卒業した夏に、ジョエルソンは自分の家にディランを呼び、未亡人である母サラ(サリー)・ジョエルソンとロンの兄のマイク(ファーゴ・セントラル・ハイスクールを1956年に卒業)と一緒に住まわせました。1959年の町の住所氏名録によると、ジョエルソン家はファーゴの7thストリート南、1122番地で暮らしていたようです。
ファーゴの7thストリート南、1122番地
この家の現在の所有者はブレイディー&エミリー・ジョンソンです。夫妻は、ディランが昔、ここで暮らしていたことを隣人から教えられた時には懐疑的でしたが、町の古い住所氏名録を見た後は本当だと信じるに至りました。
「ボブ・ディランは屋根裏部屋で暮らしていました。今までずっと手つかずの状態です。夏の時期には快適だったと思いますよ」とエミリー・ジョンスンは語ってくれました。「笑ってしまうような証拠もありました。我が家の屋根裏部屋に直接通じるケーブル・コードをうちの旦那が発見したのですが、それには「ボブ・ディラン」ていうラベルが貼ってあったのです」
ディランのバイブレーションがまだ壁の中にあるかもしれません。
「この家を初めて見た時、居心地が良く、心休まる感じがしました。落ち着いていて、徐々にとけ込んで暮らせるようになる家だと。ディランの音楽とよく似ています」とジョンソンは言います。「この家の屋根裏部屋でディランがギターをかき鳴らしていたと思うと愉快ですね」
話を1959年に戻しましょう。ロンの父親、アル・ジョエルスンはその前年の1958年に亡くなっており、町の記録によると、一家はシドズ・タヴァーン(後にNPアヴェニューのザ・ラウンドアップ・ラウンジになりました)を所有・経営していました。
未成年だったディランはタヴァーン(酒場)では仕事をさせてもらえませんでしたが、数ブロック先で仕事を見つけました。1959年の町の住所氏名録には、ロバート・ズィママンはファーゴのメイン・アヴェニュー604番地のザ・レッド・アップル・カフェの皿洗いと記されています。ザ・レッド・アップル・カフェはとっくの昔に廃業していますが、その場所には現在、バブズ・コーヒー・ハウスがあります。
メイン・アヴェニュー604番地、バブズ・コーヒー・ハウス
バブズのオーナー、ショーン・ジブリーは、ここがディランにゆかりのある建物であることを知ると、誕生日には店で何か特別なことをしたいと思い始めました。「ボブはコーヒーの歌もいくつか書いているので、飲み物にボブにちなんだ名前を付けようと思っていて、リンゴ風味のおいしい飲み物を開発中です。ボブはきっとリンゴが好きでしょうから」
皿洗いでボブの手が荒れなくてよかった
ディランは、コーヒー・カップやパイの皿を洗っていない時には、音楽を演奏していました。この地のバンド、プア・ボーイズに入れてもらえた時には、ステージ・ネームをエルストン・ガン(Elston Gunnn、nは確かに3つです)に変えました。プア・ボーイズは、近々、ザ・クリスタル・ボールルームに出演することになっているのにピアノ・プレイヤーがいなくて困っていたので、いくつか不安な点もありましたがディランを雇いました。
ザ・クリスタル・ボールルームは1stアヴェニュー・サウスのブロードウェイの近くにあり、現在ではクリスタル・スクエア・アパートメントがあります。ストリートを挟んでアイランド・パーク水泳プールの向かいです。
ザ・クリスタル・ボールルームはダウンタウンの1stアヴェニュー・サウスにあったファーゴ州兵部隊本部の建物の上階にあった
このボールルームはビッグ・バンド・ミュージックの会場として有名で、デューク・エリントン等の大物も出演しましたが、時には、ロックンロール・ダンス・パーティーにも使われていました。
ボブ・ディランはプア・ボーイズのメンバーだった時にクリスタル・ボールルームでプレイしました。先のエリクスメンの記事によると、ディランはピアノをCのキーでしか弾くことが出来ず、メンバーのひとりはディランの歌い方をカントリー・ウェスタンのシンガー、アーネスト・タブのそれにたとえていたのだそうです。
なので、結局、それではうまくいかず、バンドとディランは袂を分かちました。
同じ頃にクリスタル・ボールルームで行なわれたYMCA主催ダンスパーティーの様子
ティーン・アイドルと吟遊詩人
しかし、夏はまだ終わっていません。ディランは中西部出身の男と出会い、ともに演奏をする運命でした。彼は後に音楽産業において大成功します。ディランは'59年夏にピアノ・プレイヤーとしてザ・シャドウズに参加しました。
ボビー・ヴィー&ザ・シャドウズ
(左から)ディック・ダンカーク、ボビー・ヴィー、ボブ・コーラム、ビル・ヴェリン
(1950年代末か1960年代初頭に撮影?)
(左から)ディック・ダンカーク、ボビー・ヴィー、ボブ・コーラム、ビル・ヴェリン
(1950年代末か1960年代初頭に撮影?)
このバンドのリード・シンガーであるボブ・ヴェリンはファーゴ・セントラル高校に通う15歳の少年でしたが、1959年2月3日にスターダムへの道を歩み始めました。この日、リッチー・ヴァレンスとバディー・ホリー、及び、ザ・ビッグ・ボッパーはモアヘッドで「ウィンター・ダンス・パーティー」と題されたコンサートで演奏するために会場に向かう途中、アイオワ州で飛行機事故で亡くなり、以来「音楽が死んだ日」として知られるようになりました。それでもショウは決行するので、ファーゴ及びモアヘッドにいる良さそうな奴を片っ端から見つけてきてステージに上げろという決定がなされました。
バディー・ホリーのウィンター・ダンス・パーティーのポスター
1959年2月に国家警備隊準備センターで行なわれる予定だった
1959年2月に国家警備隊準備センターで行なわれる予定だった
その晩、最大の発見の1つが、ベビーフェイスのヴェリンでした。悲劇的な事故の後、モアヘッドに注目していた音楽業界の重役の目にとまった彼は、翌年「ボビー・ヴィー」の名でティーン・アイドルとしてデビューし、1961年のナンバー1ヒット〈Take Good Care of my Baby〉を含む38曲をトップ100に送り込み、7枚のゴールド・ディスクを獲得しました。
しかし、ウィンター・ダンス・パーティーに出演して数カ月後の1959年夏の時点では、ザ・シャドウズは徐々に人気が出てきたとはいえ、まだ殆ど地元でしか演奏活動をしていませんでした。ヴィーが自身のウェブサイトでその年の夏のこと書いています。グループが「ジェリー・リー・ルイスのように弾く」ピアノ・プレイヤーを加えることを夢見ていた時、ボビーの兄、ビルがバス発着所からそう遠くないNPアヴェニュー514番地にあるサムズ・レコードランドで「愉快で、痩せているが筋骨たくましい奴」に会ったと。その人物こそボブ・ディランなのです。
2000年に行なわれたWDAY-TVのインタビューでボブ・ディランとの出会いを語るボビー・ヴィー
この写真は同時期にファーゴのハーブストにあった似たようなレコード屋で撮影されたもの。
新メンバーにお揃いのシャツを買ってあげることが出来たのを、当時、ザ・シャドウズは誇りに思っていたと、ヴィーは書いています。しかし、そこが一番良かった時かもしれません。後に音楽のアイコンとなる人物との最初のギグをノース・ダコタ州グゥィナーでやった時、ディランは「しっかりチューニングしていない古くてパリパリのピアノ」を弾かなければならず、キーが変わると、時々、弾くのをやめてしまったと、ヴィーは2000年にWDAYに語っています。しかし、ディランはそれでも音楽の世界に入るのを決して諦めませんでした。
バンドがディランにピアノを買ってあげられないのなら、ピアニストを入れるのなんてどのみち無理だと、ヴィーたちは悟りました。実際、そんな金はなかったということで、アメリカ初のティーン・アイドル、ヴィーと、時代の声、ディランとのコラボレーションはこれで終了でした。しかし、この影響はヴィーとディラン、どちらにもずっと続きました。実際、ボビー・ヴェリンに、名前をボビー・ヴィーに変えろと提案したのはディランだったのです。
ディランとヴィーのどちらも、この別れに悪感情はないと語っており、ふたりは次の50年間、ずっと友達でした。ヴィーによると、ディランと会った時には、ザ・レッド・アップルやノース・ダコタでやったギグのことを語り合ったそうです。ディランはヴィーを、これまでにステージをともにした人の中で「最も意味の深い人物」「兄弟のようだ」と語っています。ステージ上でそんな話をしたこともありました。
ボビー・ヴィーとボブ・ディラン
ディランは自伝でこう書いています。「ボビー・ヴィーはノース・ダコタ州ファーゴ出身だ。オレとそう遠くないところで育った。'59年の夏にローカル・レーベルから出した〈Suzie Baby〉が地元でヒットした。そいつのバンドはザ・シャドウズっていい、オレはヒッチハイクでそこに行って、どうにか言いくるめてピアノ・プレイヤーとしてバンドに入れてもらい、何度かギグをやった。教会の地下でやったこともある。何度か一緒にショウをやったけど、あいつにピアノ・プレイヤーは必要なかった。それに、しっかり調律してあるピアノがホールにあることなんて、殆どなかったんだ。ボビー・ヴィーとオレは、進んだ道こそ全然違う方向だったけど、たくさんの共通点があった。同じ音楽を聞いて育ち、同じ時に同じ場所から世に出ていった」
1960年代の最も影響力のあったミュージシャンと思われているディランは、5月24日に80歳という年齢と60年以上に及ぶキャリアを祝うことになります。ヴィーはアルツハイマー病と戦った後に、2016年に亡くなりましたが、その数年前に『Forum Communications』に語ってくれました。ディランは強面{こわもて}だが、それまでに出会った人の中で一番ナイスガイだったと。「いちばん覚えているのは、彼のエネルギーとスピリットだ。自信たっぷりで、まっすぐで、陽気だったってことだ」とヴィーは語っています。
誕生日おめでとう、ボブ・ディラン、エルストン・ガン、ロバート・ズィママン。いつでもファーゴに戻って来てください。バブズで例のコーヒーを1杯おごりますよ。
The original article "Bob Dylan lived in Fargo. Here are 5 spots where he lived, worked and played"
https://www.thedickinsonpress.com/entertainment/music/7041970-Bob-Dylan-lived-in-Fargo.-Here-are-5-spots-where-he-lived-worked-and-played