文:リーフ・パターセン
1960年夏、当時15歳だった私の親父、クリーヴ・パターセンはレイディオ・シャック[家電チェーン]に行って、初めて市販されたポータブルのオープンリール・レコーダーの1つを買いました。それは足のせ台[中が空洞でしばしば物入れとして用いられる]ほどの大きさで、同じ大きさの石ほどの重さがありました。値段は50ドルでした。今の貨幣価値に換算すると400ドルくらいでしょう。なので、15歳の少年にとっては小さな買い物ではなかったはずです。
親父には、ディンキータウンのコーヒーハウスのミュージック・シーンに食い込んでいた近所のマセたガキ、ボル・ゴルファスという友達がいました。そして、ゴルファスにくっついて何度かディンキータウンに行くうちに、数人のミュージシャンと出会いました。その中には「スパイダー」・ジョン・キーナー、トニー・グローヴァー、故デイヴ・レイがいました。3人はグループを結成し、「キーナー・レイ・グローヴァー」という名前でアルバムを何枚かリリースしています。
ジョン&アラン・ローマックス親子は1930年代、40年代にアメリカ南部を旅して(フォードのセダンのトランクに重さ300ポンド[136kg]の「最新式」のワイヤー・レコーダーを積載していたのだとか)、国会図書館のためにアメリカの民俗音楽の収集・保存を行なっていましたが、親父は彼らのフィールド・ワークに刺激されて、後世のためにディンキータウンのミュージシャンの演奏を録音しようと決めました。このシーンのミュージシャンの中には、野心に燃えた15歳の記録係の思い通りにさせてくれる者は誰もいなかったのですが、ひとりだけ例外がいました。19歳のボブ・ディランです。
前年の秋に、ディランはアイアン・レンジからミネアポリスにやって来ていました。表向きはミネソタ大学に通うためでしたが、誰の説明によっても、彼はあまり授業には出席せず、殆どの時間をギターを弾いて過ごしていたとのことです。ディランは、最初の頃は、ディンキータウンの14thアヴェニューSE&4thストリートの角のゲイリーズ・ドラッグストアの上にある、路地を見下ろすアペートメントで暮らしていたのですが、その後、15thアヴェニューSEの711番地にある、目立たない2階建ての、張り出し窓のついたマルチユニット・ビルに引っ越しました。
ミネアポリスでのボブは、大学での席は空席のままでしたが、フォークとブルースにますます情熱を注ぎ、喫茶店で小さなギグを行なっていました。ミネアポリス・パーティー・テープとして、長年、畏敬の念をもって知られている音源が録音されたのは、ボビー・ズィママンから「ボブ・ディラン」に変身した後ですが、オリジナル曲をせっせと書き始める前という頃でした。
親父の回想によると、ディンキータウンのフォーク・シンガーたちは、皆、似たり寄ったりで、同じ曲をだいたい同じやり方で歌っていたそうです。そういう集団の中でも、ディランは一番うまい歌手とは思われてはいませんでしたが、親父にとって都合の良いことに、ディランは自分がどんな歌声をしているのか、自分の耳で確かめたいという強い好奇心を持っていたのです。ディランは一番録音したいと思っていたシンガーではありませんでしたが、親父は、大学生たちが、少しの間、自分を仲間に入れてくれたのをありがたく思っていました。
ということで、ある日の午後、親父とゴルファスはテープ・レコーダーを15thアヴェニューSEの1階のアパートメント(アスベストだらけのこの建物は、2014年に取り壊されました)までやっとの思いをして運び、リビングでのジャム・セッションを収録しました。その時、パーティーに居合わせた人の中には、ガールフレンドのボニー・ビーチャー(後に、グレイトフル・デッド界隈やウッドストックで有名になるウェイヴィー・グレイヴィーと結婚しました)や友人のシンシア・フィッシャーがいました。
ざっと2時間のうちに、ボブとボニーとシンシアはワインを1本飲み干しながら、合計31分、12曲を録音しました。〈Come See Jerusalem〉〈I Thought I Heard That Casey When She Blowed〉〈I'm Gonna Walk the Streets of Glory〉など、殆どの曲がウディー・ガスリーやジミー・ロジャーズといったアーティストのカバーでしたが、ボブが無精なルームメイトのことを歌った1分長のオリジナル曲、〈Hugh Brown〉もありました。
ディランはまだディランになってはいませんでした。録音から数十年経った後に親父は言いました。「ディランだって知らなかったら、誰かがディランの下手くそな真似をしてるようにしか聞こえないね」 しかし、このテープはディランの最初期のレコーディングの1つとして重要な歴史的資料であり、ディランの音楽的成長を記す、ささやかながら貴重極まりないレポートの役割を果たしています。プロの音質でレコーディングするのは、この2年後のことです。
テープは時々、聞き苦しい音になっていますが、驚くほどクリアな箇所もあります。曲と曲の間では後ろで話す声やノイズが聞こえ、〈Liberty Ship〉では愛想の良いディランがシンシアと冗談を言い合っています。ボブは曲の途中、曲と曲の間に頻繁に咳をしており、部屋にいる人が次に歌う曲の提案をしても、ボブはためらいがちで、どの歌をテープに録音したらいいのか気持ちを思い切れないでいます。
ディランは頻繁にテープを止めて、巻き戻して、録音したばかりの自分の歌を聞いています。そうしているうちに、録音状態が悪いのはマイクロホンを置いたテーブルが振動するせいだということが判明し、その後は、親父がセッションが終わるまで、マイクを手で持ってディランのほうに向けていました。音質も向上しています。全部の演奏が終わった時、ディランはテープを巻き戻して、もう1度全体を聞きたいと言いました。その後、親父とゴルファスは帰り、親父がディランと再び会うことはありませんでした。
同じ年の12月に、ディランは学業を放棄してニューヨークのグリニッジヴィレッジに行きました。そして、1年もしないうちにコロムビア・レコードと契約を結び、快進撃が始まりました。
長年の間、ミネアポリス・パーティー・テープはあまり知られてはいませんでした。粗末なコピーが作られたことはありますが、2005年に親父がオリジナル・テープをミネソタ歴史協会に寄付するまでは、最もハードコアなディラン研究家でさえこの重要なレコーディングを聞いたことがありませんでした。このテープそのものは棚にはありませんが、CDとカセット・コピーは貸してもらえて館内で聞くことが可能です。コピーを作ることは禁止です。
親父がテープを寄付したというニュースをディランのスタッフが聞きつけてくれたおかげで、ミネアポリス・パーティー・テープの一部は、たまたまその頃、制作中だったマーティン・スコセッシが監督のドキュメンタリー映画『No Direction Home』(2005年公開)に収録され、トラックの1つ〈Rambler, Gambler〉は《The Bootleg Series, Vol.7: No Direction Home》にも収録されました。このぎりぎり間に合った貢献のおかげで、親父はニューヨークで行なわれた映画の封切りに招待されました。
私は長年、旅行ライターとして活躍しているのですが、この話を世界中の人にすると、皆、目を見開いて夢中になって聞いてくれました。ミネアポリス・パーティー・テープの伝説を知っている人は特に喜んでくれます。まるで、私の言葉を通して時間をさかのぼり、若きディランのエッセンスに触れたかのようにです。私の話には「ミネアポリスは荒涼とした凍土地帯だって、皆から思われているよな。1960年代前半の時点で既にそうではなかったのに」という気持ちが言外にこもっているのですけどね。プリンスとリプレイスメンツが出てきてようやく、ミネアポリスは音楽の町として、世間から認められるようになりました。渋々ですが…。
ミネアポリスは有名な町ではないかもしれませんが、ここには素晴らしい才能を輩出してきたという奥の深い歴史があります。ボビー・ズィママンはミネアポリスで偉業を成し遂げたわけではないですが、彼がハイウェイ61を進み、ローリング・ストーンを経由して歴史になる前に(私と親父もそれに少し乗っけてもらえたわけですね)、この町がその方向性を与えたことは否定出来ません。
元記事:
“My father recorded young Bob Dylan: How the historic "Minneapolis Party Tape" was made”
https://www.salon.com/2019/05/08/my-father-recorded-bob-dylan-at-19-how-the-historic-minneapolis-party-tape-was-made/?fbclid=IwAR3TTtnycsZo767aR6Uivq-QFVFb9n2zka4yozf3_BnmigiIjZfUMJS4gjw"
写真:
“Dylan Party Tape: 1960”
https://twincitiesmusichighlights.net/concerts/dylan-party-tape-1960/