2022年04月02日

ポール・マッカートニーの本『Lyrics』をファクトチェックする

 あ〜、そういえばポールの1万円超の高額歌詞本も出ましたね。でも、私を含め、みんな映画『GET BACK』を見るのに忙しくて、こっちは存在を忘れてたか、買ったとしても本棚に直行か積ん読になっちゃってるようです。このレベルの不備なら、中身をしっかり読んでたら、すぐに気がついてあれこれ騒ぐだろうし。反省!
 ポールのリリースがビートルズの映画とぶつかっちゃったのは、《McCartney》と『Let It Be』の時もそうでしたね。



ポール・マッカートニーの本『Lyrics』をファクトチェックする

文:リッチー・ウンターバーガー


 『Paul McCartney: The Lyrics』は非常に優れた本である。期待をはるかに超える良書である。ロックの歌詞本というと、たいていは、あまり関係のない写真とともに歌詞を印刷しただけの代物なのだが、この2巻セットの、大枚をはたくだけの価値のある高額本には、マッカートニー本人による、自作の歌に関する詳しい回想もたくさんフィーチャーされている。写真もたくさん掲載されているが、とても興味深く、貴重なものや世界初公開のものまである。
 私は以前にもこの本についての書評を書いたが、今回の投稿は『Paul McCartney: The Lyrics』の単なる書評ではなく、テキストの一部のファクトチェックを行なったものだ。確かにこれは良書なのだが、完璧ではない。
 私は以前に書いた書評で「大量ではないものの、私がビックリするような事実関係の誤りが編集プロセスを素通りしてしまっている」と記したが、私の他にもたくさんのビートルズ・ファンがそういう誤りを見つけている可能性が高い。編集段階でそれがしっかり修正されていたならば、話のエッセンスや重要な点が損なわれることはなかったのに…。そういうクオリティーを保つために、そんなに大変とは言えない努力をするのは、マッカートニーや出版者にとってはあまり重要でなかったのだろうか?
 ポールが出来事の一部を誤って覚えていたり、何がいつ起こったのか順番を間違えたりしていても、私は驚かない。ものによっては50〜60年前の出来事なのだから。私が驚いているのは、大手の出版社が、こんなに大きくて立派なプロジェクトだというのに、ファクトチェックにあまり気を配っていないことなのだ。単なる有名ミュージシャンではなく、大物政治家や社会運動に関する本であったら、ファクトチェックはやらなければけないいつもの日課なのだろうが、ポールはそんじょそこらの政治家よりも世界を変えるのにずっと大きな貢献した人物だ。
 この出版社は、私や、間違いに気づいたであろう他の人間に、テキストを読んでくれと頼むことを怠ってしまった。私は何も、自分が特別な人間だなどと言っているのではない。数千人のファンも間違いに気づいただろうし、実際に本書を読めば気づくレベルのものなのだ。
 内容訂正的な脚注が欲しい人用に、私の目に留まった誤りをこの場でいくつか指摘しておこう:

64ページ: 1964年1月にパリで〈Can't Buy Me Love〉をレコーディングしたことを回想して、ポールはこう語っている。「皮肉なのは、パリに来る直前にフロリダに行って、そこでは愛とは言わないまでも、欲しいものをたくさん金で買うことが出来た」
 ビートルズのレコーディング・セッションの歴史に詳しくない人には、このヒット曲がロンドンではなくパリで録音されたというのが間違いのように思えるかもしれない。確かに、ビートルズはレコードの殆ど全てをロンドンで録音しているのだが、〈Can't Buy Me Love〉は、パリで約3週間のロングラン公演を行なっている合間に、1964年1月29日にその地でレコーディングした。


 この誤りは『The Lyrics』に登場する時間的な誤りの1番目のもので、多くの人にとっては些細な間違いだろうが、間違いは間違いである。それから、ビートルズはこのセッションの前にはフロリダに行っていない。ジョージ・ハリスンだけはアメリカに行ったことがあったが、その旅ではフロリダには行っていない(1963年後半に中西部で暮らす姉に会いに行った)。
 ビートルズは確かにフロリダ州マイアミに行ったが、それは〈Can't Buy Me Love〉をレコーディングした2週間後の、1964年2月中旬のことだ。初めてアメリカに行って『エド・サリヴァン・ショウ』に出演し、ワシントンDCとニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを行なった後に、彼らは短い休暇でマイアミを訪れている。彼らはこの月、『エド・サリヴァン・ショウ』に3回出演したが、その最後のものはマイアミで演奏したものだ。
 時間的に近いが、重要度が全然違う出来事の順番が、マッカートニーの頭の中で逆になってしまっているのは驚きである。グループのキャリアにとっては、初のアメリカ訪問のほうが、パリ公演よりずっと有名かつ重要だろう。この逆転に気づくビートルズ・ファンは何百万人もいるはずだ。スターの行動については、実際にそれを行なった当人よりもファンの方が詳しいということはよくある。これもそんな事例だろう。

91ページ: お気に入りのエレキギターはエピフォン・カジノだ。ロンドンのチャーリング・クロス・ロードにあるギター・ショップに行って、店員に言ったんだ。「フィードバックを起こすギターはある? ジミ・ヘンドリクスが出している音が大好きだからさ」って。オレはジミの大ファンだ。ロンドンにやって来て間もない頃の初期のギグを見ることが出来て、とてもラッキーだった。空が炸裂したようだった。
 ギター・ショップの店員が言った。「これが最もフィードバックするものです。ホロー・ボディーなので、ソリッド・ボディーのギターより大きな音が出ます」って。オレはそれを持ってスタジオに行った。ビグスビーのトレモロ・アームも付いてたから、フィードバック状態でプレイし、それをコントロールすることが出来た。そういうプレイに完璧なギターだった。ホットな音を出せる優れもののギターだった。そうして、これはオレのお気に入りのエレクトリック・ギターになって、〈Paperback Writer〉のイントロ・リフや、ジョージの曲〈Taxman〉のソロで使った。長年に渡って、たくさんの曲でこのギターを使っている。今でも弾いてるよ。あのエピフォン・カジノは人生の伴侶だ。


 いい話だ。しかし、マッカートニーがヘンドリクスを見たのは、最も早くて1966年9月下旬だろう。ジミがニューヨークからロンドンにやって来たのがこの頃なのだ。ジミはその直後に何度かギグを行なった後にエクスペリエンスを結成したが、ポールがジミを見たのは、私の推測なのだが、9月よりもう少し後のことと思われる。〈Paperback Writer〉をレコーディングしたのは少し前で、《Revolver》のセッションを行なっていた4月13、14日のことだ。〈Taxman〉はその約1週間後に録音している。なので、ポールはこうした曲でエピフォン・カジノを使用した段階では、まだジミは見ていない(演奏を耳にしたこともない)だろう。もしくは、後にレコーディングした曲の中に、ヘンドリクス風を念頭に置いてカジノを使用したものがあるのかもしれない。
 間違いの指摘ではないのだが、ポールが〈Paperback Writer〉のイントロ・リフでカジノを使ったと語っているのは興味深い。ジョージ・ハリスンではなくマッカートニーが曲の少なくとも一部でリード・ギターを弾いていることを意味しているからだ。
 アンディー・バビウクが著した『Beatles Gear』(徹底した中身で信頼出来る)によると、マッカートニーがエピフォン・カジノを購入したのは1964年12月で、ヘンドリクスがロンドンで知られた存在になるより2年近く前のことだった。この楽器を入手した動機に関しては、『Guitar Player』誌1990年7月号に掲載されたポールの発言のほうが詳しい。「[英ブルース・ロックの雄、ジョン・メイオールが]夜遅く、たくさんのレコードをオレに聞かせてくれたんだ。ジョンはDJタイプの人で、彼の家に行くと、ソファーに座らされて、飲み物を持ってきてくれて、これをチェックしろって言うと、オーディオ・セットのほうに行って、何時間もB・B・キングやエリック・クラプトンを大音量でかけた。エリックのプレイの出どころを教えてくれてたんだね。夜のちょっとした授業だった。それに刺激を受けたオレは、その後、エピフォンを買いに行ったんだ」

105ページ: 他のメンバーに言ったんだ。「〈With a Little Help from My Friends〉を歌う歌手を「この人しかいません。ビリー・シアーズです!」って紹介する箇所では、ライブラリーにある観客の笑い声を使おう」って。

 これは超些細な間違いだが、笑うオーディエンスの音が聞こえるのはもっとずっと前の箇所で、タイトル・トラック〈Sgt. Pepper〉の第1ヴァースの後だ。
〈Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band〉の随所でオーディエンス・ノイズは聞こえてくるが、最後のほうでビリー・シアーズが出て来た後は、笑い声ではなくざわめきと大歓声だ。もちろん、几帳面なポールがここに入れるように最初に提案したのは笑い声だった可能性もあるが、ビートルズが最終的に使用したのは別の種類のオーディエンス・ノイズだった。

179ページ: 説明文には、〈For No One〉は1965年3月、オーストリアのアルプスで映画『Help!』の撮影中に書かれたとあるが、明らかに真実とは違う。この時点では、アルバム《Help!》のレコーディングすら終了していないのだ。この時点で存在している曲を《Help!》にも、1965年後半の《Rubber Soul》にも入れず、1966年の《Revolver》まで持ち越したなんて、あり得そうにない。ポールが1965年3月にこの曲を書き始め、完成に長い時間がかかった可能性もあるだろうが、この説明文も他の情報源もそうは言っていない。
 バリー・マイルズがマッカートニーの全面的な協力を得てまとめた本『Paul McCartney: Many Years from Now』(1997年)によると、この曲は「1966年3月に、ジェインと一緒にスイスのクロスタースにスキー旅行に行った時に書かれた」とあるので、ポールはこのスキー旅行と混同しているのだろう。同書の中でポールは「とても素敵なところだった。そこで〈For No One〉を書いたのを覚えている」と証言しているのだ。

  

185ページ: 〈From Me to You〉について、ポールはこんなことを語っている。「ロイ・オービソンとツアーをやってた時に、オレたちはこの曲を書いたんだ。全員が同じツアー・バスに乗っていて、お茶と食事のためにどこかにとまった。ジョンとオレはお茶を飲んだ後、バスに戻って曲を書いた。バスの通路を歩いていくと、後ろの席にはロイ・オービソンが黒い服に黒いサングラスって格好で座っていて、ギターを弾きながら〈Pretty Woman〉を書いていたっていうのは、21歳のオレには特別な光景だった。和気藹々とした雰囲気で、互いに刺激しあっていた。いつの時代でもこういうのって素敵だよ。ロイがオレたちにこの曲を披露しすると、オレたちは「いい歌だ、ロイ。イカしてるよ」って言い、今度はオレたちが「それじゃ、これを聞いてくれよ」って言って、ロイに〈From Me to You〉を披露した。これって歴史的瞬間だよね」

 素晴らしい話なのだが、オービソンとのイギリス・ツアーが行なわれたのは1963年5月18日〜6月9日である。ビートルズが〈From Me to You〉をレコーディングしたのは、ツアーの2カ月以上前の1963年3月5日のことだ。再び『Paul McCartney: Many Years from Now』を参照すると、もっと確実な日付が書いてある。バリー・マイルズは、この曲が作曲されたのは「1963年2月28日、ヨークからシュリューズベリーに移動するツアー・バスの中で」と書いている。ビートルズにとって初の全英ツアーだったヘレン・シャピロ・ツアーでの出来事だった。
 その後に行なわれたツアーで、レノンとマッカートニーが作曲中の歌をオービソンに披露したというのは、極めてあり得ることである。既に書き、レコーディングを済ませているだけでなく、ツアー中ずっとイギリスのチャートで第1位になっており、毎晩演奏していることも考えると、〈From Me to You〉もロイに歌って聞かせた可能性は高いだろう。『Many Years from Now』の中で、ポールは〈From Me to You〉についてこうも語っている。「その後、ロイ・オービソンとやった別のツアーのバスの中で、ロイがバスの後ろの席に座って〈Pretty Woman〉を書いているのを目撃した」 ポールの頭の中では、あるツアー中に〈From Me to You〉を書いたことと、数カ月後の別のツアーでオービソンが〈Pretty Woman〉を書いているのを目撃したことが、合体してしまったようだ。
 ちなみに、ロイ・オービソンが〈Oh Pretty Woman〉を録音したのは1964年8月1日のことである。こんなに強力なナンバーを1年以上も寝かせておくなんてあり得ないのではなかろうか。証明する術{すべ}はないのだが、あの時は、ロイは曲を書き始めていただけで、完成するのに長い時間がかかったという可能性もあるだろう。





389ページ: ポールには責任を問えない間違いがある。ポールがウィルフリッド・ブランベル(Wilfrid Brambell。映画『A Hard Day's Night』でポールの祖父役を演じた俳優)と一緒に写っている写真のキャプションに「ウィルフレッド・ブランブル(Wilfred Bramble)と一緒に」と書いてある。〈Junk〉の説明文の最初のセンテンスでは、ブランベルの姓も名も正しく記されているのだが、キャプションのほうは誰も校正作業をしなかったのか?

639ページ: 《Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band》のタイトル・トラックと、《Sgt. Pepper》全体のコンセプトの誕生について、ポールは次のように回想している。「ジェイン・アッシャーに会いにアメリカに行ったんだ。彼女はシェイクスピア劇を上演しながらアメリカをツアーしていて、デンヴァーにいたので、オレは飛行機でデンバーに行って、彼女と2日ほど一緒に過ごしながら、ちょっと休みを取ったんだ。帰り道、ローディーのマル・エヴァンスが一緒にいたんだけど、飛行機に乗ってる時に、マルが「ソルト・アンド・ペッパーを取ってくれない」って言ったのを、オレは聞き間違えて、訊いたんだ。「何? サージェント・ペッパー?」って」

 マッカートニーがデンヴァーにいるアッシャーを訪ねて行ったのは、彼女の21歳の誕生日なので、1967年4月の上旬のことだった。アルバム《Sgt. Pepper》の最後の締めのセッションは4月3日に行なわれ、同月後半にリミックスが行なわれている。《Sgt. Pepper》のタイトル・トラックの最初のセッションは2月1日に行なわれているので、その頃には曲は既に書き終えており、アルバム・コンセプトも形になり始めていたに違いない。他の信頼出来る情報源には、ポールはデンヴァー旅行中に『Magical Mystery Tour』のタイトル曲と映画のコンセプトを考え始めたと書いてあるので、恐らくポールの頭の中では、この2つのプロジェクトの着想を得た順番がごちゃまぜになってしまったのだろう。

639ページ: 〈Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band〉の項にはもう1つ誤りがある。ライヴ・パフォーマンスをやめたことからアルバムがどう生まれたのかを説明している箇所で、ポールはこう述べている。「少し前にキャンドルスティック・パークでコンサートをやった。自分たちの演奏が聞こえないショウだった。雨も降っていて、オレたちは感電寸前だった。ステージを降りるとステンレス製のミニトラックの後ろに詰め込まれた。ミニトラックは中が空で、その中でツルツル滑りながらオレたち全員は思った。「こんなのもうたくさんだ」って」

 ここでは1966年8月29日にサンフランシスコで行なわれたビートルズ最後のコンサートの話をしている。サンフランシスコの夏は肌寒く、霧もよく発生することを、ポールは知っているようだ。海賊盤がたくさん出回っているショウの大部分を収録したテープでも、最後の曲〈Long Tall Sally〉の前に「この素晴らしい海風の吹くここに来れて光栄です」と言い、〈Yesterday〉の後でも「ちょっと寒いね」と発言している。40年近くサンフランシスコ/ベイエリアで暮らしている私だから言えるのだが、夏にとても深い霧が生じて、殆ど霧雨のような状態になることは珍しくない。
 しかし、夏のサンフランシスコで雨が降るのはきわめて稀で、実際、このコンサートの最中、キャンドルスティック・パークでは雨は降っていなかった。ポールやビートルズの面々がこの状態を雨が降っているように感じたのだとしたら、それを彼らの明らかなミスと言うのには抵抗がある。しかし、このコンサートに関する私がチェックした数多くの証言の中で、ビートルズのメンバーが感電する危険があったと言っているものは全く存在しない。ビートルズのキャンドルスティック・パーク公演でサポート・アクトを務めたボストンのグループ、ザ・リメインズのリーダー、バリー・タシアンの回想録『Ticket to Ride: The Extraordinary Diary of the Beatles' Last Tour』には、たくさんの証言が収録されており、それにはタシアン本人の回想をはじめ、ファンの目撃レポート、1966年当時に『サンフランシスコ・イグザミナー』や『TeenSet』に載ったコンサート・レビューの再掲載等が含まれているのだが、雨の話をしているものは1つもないし、感電の危険についても何の言及もない(タシアンは「ステージ上では強い海風があらゆる方向から吹いて来た」と回想しているが…)。
 私の推測なのだが、ポールの頭の中にあったのは、その数日前のシンシナティ公演ではなかろうか。ビートルズは1966年8月20日にクロスリー・フィールドでコンサートを行なう予定で、8:30に演奏開始予定だったが雨にたたられ、2時間待った後にキャンセルとなってしまった。実際、コンサートを続行したら自分たちは感電するのではとビートルズのメンバーは怯えていた。ジョージ・ハリスンの回想が『The Beatles Anthology』に載っている。「あまりに雨で濡れてたので、演奏することが出来なかった。電気は通ってて、ステージはびしょ濡れだったから、演奏してたら感電してた可能性がある。だから、キャンセルしたんだ。やり損ねた唯一のギグだった」
 アメリカでビートルズのビジネス面を担当していた弁護士、ナット・ワイスは、1972年出した著書『Apple to the Core』の中で、特にポールがこの出来事に動揺していたと述べている。「シンシナティでは不愉快な体験をした。プロモーターが数セントでも多く自分の懐に入れようとして、ステージ上に屋根をつけていなかった。雨が降り始め、感電の危険があったので、ビートルズはショウを続行することが出来なかった。35,000人の絶叫する子供たちを帰らせねばならなかった。全員に、翌日のコンサート用のパスを配った。そういうストレスにポールは耐えられなくなっていた。私がホテルに帰ったら、ポールは既にいたのだが、こうした緊張状態から食べたものを戻してしまっていた」(ビートルズは空が晴れた翌日にはクロスリー・フィールドでコンサートを行なった)
 ビートルズがどういう経緯で、どういう理由でツアー活動をやめたのかを説明するのに、マッカートニーがこの出来事を取り沙汰しているのには合点がゆく。しかし、感電の恐れがあったのが、ポールの発言にあるようにキャンドルスティック・パーク公演だった、という点は非常に疑わしい。それに、ステンレス製のミニトラックの中でツルツル滑ったのも、サンフランシスコではなくシンシナティでの出来事である可能性が高い。『The Beatles Anthology』の中でポールが、この災難が起こったのは「大雨が降った」場所でやったショウの後と述べているからだ。
 間違いの指摘ではないのだが、歴史的な内容の話においては、キャンドルスティック・パーク公演がビートルズ最後のコンサートだと説明されることが非常に多いのに、ポールがその点に触れていないのには少々違和感がある。キャンドルスティック・パークが取り壊される前に、この会場での最後のコンサートをポールが2014年に行なっているので、ポールはその事実を知らないはずはない。ビートルズがここで最後のショウを行なったことへのオマージュとして行なわれたコンサートなのだから。

   

721ページ: ジョン・レノンが〈Too Many People〉を自分への悪口と解釈し、仕返しとして〈How Do You Sleep?〉を書いたことは有名だが、ビートルズの解散と、その後、ふたりの間にあった悪感情の原因となった要因について、ポールはこんな説明をしている:「簡単に言うとこうだ。1969年にミーティングをした時、ジョンがやって来て、アレン・クラインて奴に会い、こいつはシラキューズでヨーコの個展を開くことを約束してくれたと言った。そして、事務的な口調で、バンドを辞めるとオレたちに言った。基本的には、こういう経緯だった」

 正確さに欠けている。少なくとも、出来事の時間的な幅を縮め過ぎている。先日公開されたドキュメンタリー『Get Back』が明らかにしている通り、ジョンとヨーコがアレン・クラインと初めて重要なミーティングを行なったのは1969年1月末で、最終的に《Let It Be》のアルバムと映画になった1969年1月のレコーディング・セッションと撮影が終了する間際のことだった(このミーティングが行なわれたのは1月26日とも27日とも言われているが、映画と、セッション中の会話を収録した本から判断すると、1月27日だった可能性が高い)。 ドキュメンタリー『Get Back』によると、ビートルズがグループとして初めてクラインとミーティングを行なったのは、そのすぐ翌日の1月28日らしい。
 ビートルズがまずはクライン抜きでグループ・ミーティングを行ない、その席で「ジョンがやって来て、アレン・クラインて奴に会った」と言ったのかどうかは、それほど重要ではないのだが、クラインをビートルズのマネージャーとして迎えたいというレノンの意向をマッカートニーが知ったのは、1月28日かそれよりも前だ。なので、このミーティングでジョンが「バンドを辞めるとオレたちに言った」というのはあり得ないだろう。というのも、ジョンは2日後にアップルの屋上でビートルズ最後のコンサートで演奏しているのだから。
 ジョンがバンドを辞めると言ったのは、1969年9月に、トロントで行なわれた音楽フェスティヴァルに、ビートルズとしてではなくプラスティック・オノ・ンドのメンバーとして出演して(9月13日)から間もない頃に行なわれたミーティングでだ、というのが定説である。1月下旬にビートルズがクラインとミーティングをしてからほぼ8カ月後のことで、それまでにビートルズは《Abbey Road》全曲をレコーディングしている。ちなみに、この9月の脱退発言の後も、レノンは正式にバンドを辞めてはいない。少なくとも公にはそう発表はしていない。定説では、ビートルズが解散したのは、ポールが脱退の意向を表明した1970年4月10日のことと思われている。
 さらに言うと、ヨーコがシラキューズで個展を開いたのは1971年10月の出来事である。1969年1月の初対面の時、もしくは、それにごく近い時期のミーティングで、クラインがヨーコにシラキューズでの個展開催を約束したというのは、あり得ないのではなかろうか。ポールの発言からは、ジョンがビートルズの面々にクラインのことを話した時には、既にクラインがヨーコに個展開催を既に約束していたと話したような印象を受ける。
 この記事中で指摘した間違いの殆どは、明らかに時系列的に混乱している箇所であり、50年以上前に起こった出来事についてなので、ある程度は仕方ないし、殆どのビートルズ・ファンにとって、読んでいてそんなに邪魔にはならないものだろう。しかし、これはクラインとレノンがビートルズの解散において果たした実際の役割を大きくゆがめている、最も目に余る間違いだ。

847ページ: 〈You Never Give Me Your Money〉の項にある解説は、〈Too Many People〉の項にあった時系列的な不正確さを補強してしまっている。ここでポールはこんなことを語っている。「1969年前半には既に、ビートルズは崩壊し始めていた。ジョンはバンドを辞めると言ったが、キャピトル・レコードと契約の交渉をしている真っ最中のアレン・クラインからは他言は絶対に無用と言われたので、オレたちは数カ月間、黙っていた。ジョンが既にグループを辞めてしまっていることを知りながら、オレたちは嘘をついてたんだ」
 
 解散が決定的なものとなったのは1969年前半ではなく、1970年春なので、その点以外はポールの発言はだいたい合っている。ジョンが脱退を表明したが、アレン・クラインから、バンドのために新契約を結んでいるところなので他言は無用と説得されたのは(恐らく、ビートルズの残りのメンバーも)1969年9月のことだった。ポールの記憶は約半年ずれているが、この不正確さは些細なものではない。ビートルズはその頃、《Abbey Road》のレコーディングを行なっているのだから。

 875ページほどの中に間違いが10箇所あるので(私が気づいていない間違いがまだあるかもしれないが)、これは標準以下の本なのだろうか? こうした誤りは私が注目に値すると思っただけであって、この本がダメなものだということでは断じてない。誤りが存在するとしても、それがこの本全体の高い価値を著しく下げているわけではない。

The original article "Fact-Checking Paul McCartney Lyrics Book" by Richie Unterberger
http://www.richieunterberger.com/wordpress/fact-checking-paul-mccartney-lyrics-book/
Reprinted by permission


最後に私(Saved)からも一言: リンゴの記憶もポールと同じくらい滅茶苦茶な状態です。2003年3月に私がニューヨークでリンゴにインタビューした時点での記憶では、ビートルズが最後に行なったコンサートは、1965年、サンフランシスコのカウ・パレス公演だということになっていました(今、リンゴとポールでビートルズ最後のコンサートの思い出話をしたら、いったいどんな会話になるのでしょう?)。《ホワイト・アルバム》を出したのは1967年だという発言をしているインタビューを読んだこともあります。どちらも1年「前に」ズレてますね。もちろん、客観的事実も大切なのですが、当事者の頭の中ではどういう記憶になっているのかにも私は興味があります。こういうふうに事実が変形し、現在ではこういうふうに記憶されているというのも、ある意味、事実なわけですから。


4/7追記:日本語版が6月に出ます。 ↑この内容、どうするんだろ?

 


   
posted by Saved at 23:27| Comment(0) | Beatles | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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