2022年06月19日

ボブ・ディラン・センター、プレ・グランドオープニング・イベント・レポート

 行きたいなあ。いつになったら行けるかなあ。このレポートの著者、ハロルド・レピドゥスさんからは、これまでに何度も記事の翻訳掲載許可をいただいてます。今回の記事もファン目線で面白いです。


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ボブ・ディラン・センター、プレ・グランドオープニング・イベント・レポート
文:ハロルド・レピドゥス


 今月[2022年5月]上旬、オクラホマ州タルサに開設されたボブ・ディラン・センターのグランド・オープニングのプレ・イベントに招かれるという名誉に浴しました。5月5日から8日までの旅では、美味しい食事、素晴らしい音楽、思いがけない人との会話、旧友との再会、新しい人との交流に満ちあふれ、そして、もちろん、ボブ・ディランとウディー・ガスリーの世界にどっぷり浸かりました。それに加えて、3晩に渡って、メイヴィス・ステイプルズ、パティー・スミス、エルヴィス・コステロのステージを見ることも出来ました。彼らは出身地やジャンルこそ違えど、皆、ミスター・ディランと繋がりがあり、共演経験のあるアーティストです。
 ボブ・ディランがニューヨーク・シティーにやって来て、ウディー・ガスリーと会い、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・シーンで成功しようと奮闘したのは、約60年前のことですが、ボブ・ディランのさまざまなアーカイヴをウディー・ガスリーの故郷{ふるさと}であるタルサに移すという計画は約6年前に始まり、今月[5月]にタルサのイースト・リコンシリエイション・ウェイ116番地、ウディー・ガスリー・センターの隣の隣に、ボブ・ディラン・センターが正式にオープンしました。

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 リコンシリエイション[=「和解」の意]・ウェイは、かつてはこの町の創立者の名を取ってM・B・ブレイディー・ストリートと呼ばれてましたが、もはやブレイディーは名誉に値しない人物であると判断され、名称が変更になりました。彼はクー・クルックス・クランのメンバーで、1921年に起こった人種差別に端を発するタルサ人種虐殺----これこそ、ディランが2020年に発表した歌〈Murder Most Foul〉で言うところの「悪事の現場」です----の計画に荷担した人物であると言われてます。正式なテープ・カットの式は、私が去った2日後の5月10日に行なわれました。
 日曜日の深夜近くに帰宅する頃には、センターの催しやその内容について、既にたくさんの記事が書かれてました。なので、既に発表されてる記事の内容を繰り返すのではなく、私独自の観点で語るためにはどうしたよいのか考えた結果、旅行談ぽいものを書くことにしました。そこで体験したことの全てを忘れないための自分用の覚え書きとして、そして、みなさんとそれを共有するためにです。この記事にはいわゆる「ネームドロッピング」[=有名人の名前を自分の知人であるかのように持ち出して自慢話をする行為]に聞こえる箇所がたくさんあるかもしれませんが、私は自分がこの集まりに招かれたことをただただ驚てます。招かれて当然なんて思ってはいません。驚嘆の念を持ってこの話をしてます。

5月4日(水)、5月5日(木)

 5月4日の朝のうちに、荷造りを始めました。午後8時まで普段の仕事があったからです。マスクは既にストックしてありました。ノートパソコンは持って行ったほうがいいかな? 使うかな? 帰宅して、残り物を温めて素早く夕飯を食べた後、目覚まし時計を午前4時にセットして、メラトニンを飲んで寝ようとしたのですが、午前3時に目が覚めてしまったので、そのまま起きることにしました。普段なら、旅行なんてそんなに心配なことではありませんが、コロナの大流行と飛行機に持ち込める手荷物の制限が厳しくなったことで、ここ2年の間に、明らかに、事態はすっかり変わってしまいました。タルサまで長旅組だったたくさんの人と同様に、残念なことに私も移動中に主に天候のせいで遅延が生じましたが、木曜の晩に予定されてたさまざまなイベントには余裕で間に合いました。通路の向こう側に座ってた女性(名前はキムだったかな?)は、タルサとオースティンでパティー・スミスを見る予定とのことでした。私は飛行機で少なくとも何度かはウトウト出来ました。

歓迎ムードの空港:
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 シャトルバスでホテルに行き、さっとシャワーを浴びて服を着替えると、コンサートの前にOK POPで行なわれた招待客オンリーのディナー・パーティーに行き、セス・ロゴヴォイ(『Jewish Daily Forward』のライター)やボビー・リヴィングストン(RRオークションのスタッフ)といった友人たちと合流しました。道を挟んで真向かいにある伝説的クラブ、ケインズでは次の日から3晩連続でロック・コンサートを楽しむことになっていました。ビジネス・カジュアルな服装はこの晩限りです。
 この晩のスポンサーはディランのヘヴンズ・ドア・ウィスキーを作っている会社であり、無料の試飲会も行なわれました。友人のボビーが私をダグラス・ブリンクリーに紹介してくれました。彼には数々の実績がありますが、ディランが最近、好んでインタビューを受けているジャーナリストです。もしくは、ブリンクリーがディランを好んでインタビューしているのかもしれません。ブリンクリーから名刺を求められたので、喜んで1枚あげたのですが、私はその時、名刺の殆どをホテルに置いてきてしまったことに気づきました。宣伝用の私の本もです。まあ、なるようになるでしょう。

   

 この時、私はパティー・スミスを密かに目で追ってました。翌晩にケインズでコンサートを行なうことになってる彼女は、隅のほうで人に取り囲まれてましたが、長い灰色の髪と黒のマスク、彼女が放つバイブレーションのせいで、美しいほど気高く崇高で、いくぶん別世界の存在のように見えました。その時は飛行機で移動した疲れのせいで、彼女にかける気の利いた言葉を考えつくことが出来ませんでしたが、X&ザ・ニッターズのジョン・ドウには会いました。そのタイミングが生じた時に、私は自己紹介し、共通する友人が複数いて、Xのボストン公演の前に皆で食事をしたことがあると伝えました。ジョンはとてもフレンドリーで、楽しい会話をし、友人たちのその後の消息についてあれこれ話しました。セス(『Forward』の)、ボビーとしばらく過ごした後、チケットとVIPパスをもらえる時が来ました。私たちは皆、翌晩以降に使うための白地に青い文字のパスをもらいました。。
 セスと私は上階に行き、39番テーブルに着きました。会場の後ろのほうでした。もちろん、ボビーはもっといい席を持ってました。セスと私は会場のあちこちにあるスクリーンが一番良く見える席に陣取ったつもりでいたのですが、残念なことに、会場の中央にある大きな柱の向こうに私たちが座ってしまったために見えないステージから、メイン・スピーカーのスピーチが行なわれました。しかし、『Ultimate Classic Rock』のアリソン・ラップには会うことが出来ました。私は昔から、この人の書く記事は大好きでした。私たちはソーシャル・メディア上での連絡先を交換し、セスが『Islip High School Buccaneer』に書いた《Frampton Comes Alive!》と《Hotel California》の伝説的レコード評が話題になったのは、この時が最後ではありませんでした。
 それから、D・A・ペネベイカーが1965年に監督した音楽ビデオ〈Subterranean Homesick Blues〉のアップデート・バージョンが発表されました。この新プロジェクト用に、さまざまな分野のアーティストから1カットずつ送ってもらい、パティー・スミスとブルース・スプリングスティーンからも1カットずつ寄せてもらったのですが、ふたりの筆跡は目立っていました。ソーシャル・メディア上で大々的に前宣伝され、多くのボブ・ファンが新ビデオではなく新レコーディングを期待してしまったため、がっかりした者もいました。今見ると、これはソーシャル・メディアにおいて注目を得ることを狙った興味深いコラージュです。広い心でもう1度見てみましょう(初めて見る人も):



 帰りがけには、トップのディラン研究家の1人、アン・マーガレット・ダニエルがさっきパスを配布していたテーブルにいるのを見つけました。彼女は手を振りながらこっちにやって来て、私に大きなハグの挨拶をしてくれました。私たちが初めて会ったのは、2019年にタルサで行なわれたザ・ワールド・オブ・ボブ・ディラン・シンポジウムの時です。アンも私もスピーチをしたのですが、彼女が一緒にレストランに向かう途中で足を挫くというアクシデントに見舞われたため、一緒に過ごした数日間は、2019年の出来事を繰り返さないよう、常に彼女の足を心配し、どこかに行く時には、飛び出してるレンガがあると指さして、彼女に自分の足元がしっかり見えてるのを確認してばかりいました。喜ばしいことに、彼女は今度は無傷でタルサから帰りました。
 次に、私たち全員はストリートを横断して、ケインズに入りました。ここはボブ・ウィリスがオーナーを務めている伝説的クラブで、納屋のような外見です。パティー・スミスもエルヴィス・コステロも1978年にここに出演したことがあります。翌晩と翌々晩とは異なって、この日のショウは招待客オンリーのイベントでした。出演したのはメイヴィス・ステイプルズです。
 この晩だけ、座席が何列も並んでました。当然、私たちは前のほうの4列目か5列目を陣取りました。私は2回ほどメイヴィスのコンサートを見てます。コロナの流行の前です。2回ともボストンで、ボブ・ディランのサポート・アクトを務めた時でした。もちろん、私もセスも、昨年[2021年]公開されたドキュメンタリー映画『Summer of Soul』で、1969年のステイプル・シンガーズの素晴らしいライヴ・シーンを見てます。ディランより約1歳年上ですが、メイヴィスの歌声の中にあるパワーとソウルは少しも減じてません。シンプルでファンキーなバンドは、ステイプル・シンガーズのサウンドを初期ニューウェイヴ風にしてアップデートしており、トーキング・ヘッズの〈Slippery People〉のカバーまで飛び出しました。
 ステイプルズのセット前半は、政治色のあるゴスペル、ソウル、R&Bがミックスされて、さまざまなアーティストが60年前に、もしくは、もっと前に訴えてたのと同じことを訴えてました。世代の希望と夢が時間の経過とともに雲散霧消してしまったことを考えると、それにはほろ苦さがありました。しかし、メイヴィスの歌は、たとえ束の間ではあっても、人を元気にし、希望を与えてくれます。
 披露された曲のいくつかは、今になって発表されたメイヴィス・ステイプルズ&リヴォン・ヘルムのアーカイヴ・リリース《Carry Me Home》に収録されてます。〈Hand Writing on the Wall〉や、ミシシッピ・フレッド・マクダウェルの〈You Got To Move〉(ローリング・ストーンズもカバーしてます)を全速力でカバーしたバージョンがそれです。ザ・バンドの〈The Weight〉のアレンジは、映画『The Last Waltz』でお馴染みのバージョンを彷彿させるものでした。

   

 男がひとり、セットの殆ど全部の間、最前列で踊ってました。彼はバッファロー・スプリングフィールドの〈For What It's Worth〉の最後のラインを一緒に歌ってましたが、この人物についてはまた後ほど話します。

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 ロウダウンという名前のクラブではアフター・パーティーのコンサートがあり、私の友人で仕事仲間のジェフ・スレイトが、地元のミュージシャン、ジェシ・エイコックのバントと演奏しました。ふたりは初期ディランの曲を交替で歌い、終始、トム・ペティー&ザ・ハートブレイカーズがチャネリングしたような雰囲気でした。
 しかし、そこに行くまでが結構大変でした。私たちのスマホの地図アプリが、目的地まで正確に連れてってくれなかったのです。そんな時、セスと私は知人の集団に遭遇しました。その中にはダニエル・マッケイがいました(『Hard Rain & Slow Trains』というポッドキャスト/ラジオショウをやっています)。全く見知らぬ人数人もBDCのVIPパスを持ってました。あたりの人にも訊いてみたのですが、このクラブのことを知ってる人が見つかるまで、しばらくかかりました。(参考までに言うと、タルサではiPhoneのバッテリーの消耗が激しく、私はしょっちゅう部屋に戻って自分とスマホに充電をしなければなりませんでした)
 社交的な私は、知らない人の1人に名前を尋ねました。その人は「アリ・サスマンです」と答えました。そして、彼から名前を訊かれたので「ハロルドです」と答えました。当然、アリから「ハロルド・何さんですか?」と訊かれたので、ファミリー・ネームも答えると、「あなたの記事を読んでますよ」という言葉が返ってきました。これが誉め言葉であるのを確信した後、私たちはクラブまでの道すがら、ボブが出してるウィスキーについて話しました。私がアリをセスに紹介すると、今度は「『Forward』の?」と訊きました。
 クラブの中に入ると、アリはセスと話し込んでました。私はアン・マーガレット、ボビーらと席に着いて、スレイトの素晴らしいステージを見ました。ローリング・サンダー・バージョンの〈Tonight I'll Be Staying Here With You〉も披露しました。メイヴィスの目の前で踊ってた男がヴォーカルで飛び入りすると、オレンジ色(赤だったかな?)の服を着たブロンドの女性(名前は不明)も面白半分で飛び入りしました。噂によると、男のほうはジャック・ホワイト(ホワイト・ストライプス、ラカンター、ザ・デッド・ウェザー)の弟[兄?]らしく、顔も声も似ていました。


ロウダウン、2022年5月5日


 ジェフとジェシがセットの締めに入ってる時には(私たちは〈Every Grain of Sand〉の演奏中に帰りました)、セスとアン・マーガレットと私はそれぞれのホテルに向かって歩いてました。アン・マーガレットが道案内で、私は彼女に足元に気をつけるよう注意する役でした。

5月6日(金)

 翌朝、ボビーからコーヒーと水を奢るというメールが届きました。彼はアン・マーガレットと彼女の友人にも連絡を入れており、皆で素敵な場所で会い、美味しくて健康的な、シンプルな朝食を取りました。私は2005年のSXSWで買ったロビン・ヒッチコックのトートバッグの中に、水のボトルと何冊かの自著、名刺、ノート、ペン、ボビーが私のために取っておいてくれたプロテイン・バー2本を持参していました。
 センターはまだ一般には公開されておらず、招待客のみ中に入ることが出来ました。アン・マーガレットとボビーと私は建物の中に入りました、訪問者が到着するタイミングが、誰かが出て行こうとしてる時でなかったりすると、中に入れてもらうのにノックをする必要がありました。まずは、とても親切なスタッフのいるささやかな受付があって、名前を言うと、イヤホン付きの小さなiPodみたいなものを渡されました。展示に付随する写真やレコーディング、ビデオを見たり聞いたりするためです。
 2019年のシンポジウムに参加した後、私はビックリを期待するようになってしまいました。心は驚く準備が出来てました。ボビーとアン・マーガレット、私は《Freewheelin'》アウトテイクのボブとスージー・ロトロの拡大写真の前を通過した後、前置き的なビデオを見ましたが、それには『No Direction Home』のアウトテイクと思しきディランのインタビュー映像や、(あくまで私が)見たことのないウッドストックで撮影されたプライベート・フィルムが(記憶が正しければ)が含まれてました。
 1階展示室に入る時が来ました。2分も経たないうちに、ミッチ・ブランクがいました。彼は伝説的ディラン・コレクターの1人で、コレクションの多くをBDCに寄贈した人物です。ミッチとは2019年のシンポジウムから帰ろうとしてた時に会ったことがありました。私が自著をプレゼントすると、光栄なことに、サインをお願いされました。ミッチのところに行って挨拶をすると、彼は私の本を気に入ったと言ってくれました(ありがとう!)。それから、センターはスターカイヴというデータベースを使っていて、私の本のもくじも検索目的のためにそれに含まれることになると教えてくれました(本の実際の内容が丸々入るわけでないのは、恐らく著作権の問題があるからだと思います)。何たる光栄でしょう!
 それから、ミッチはビル・ペイゲル(『Boblinks』の)が撮影したマイク・ブルームフィールド最後のパフォーマンスのビデオがあることを教えてくれました。1980年にディランと共演した時のものです。現存するオーディオと同期させてありました。と、その時、驚いたことに、ミスター・ペイゲルがそこに立ってるじゃありませんか。ビルは私にビデオを見せながら言いました。そのコンサートの時、この歴史的瞬間を撮影するのを警備員が止めようとしたと。警備員が阻止に失敗してくれて、ラッキーでした。
 この直後、私はビルと一緒に、ヒットしたバージョンの〈Tangled Up in Blue〉でケヴィン・オドガードが使ったギターの展示の前に立ってました。その時、2019年にケヴィンと会う予定だったのに会えなかったので、今年はタルサで会おうということになってるのですが、どういう顔なのかわからない旨をビルに伝えると、ケヴィンだったらさっきセンターの中を歩いてるのを見たよと教えてくれました。そして、ツイッターで連絡を取ろうと思った矢先にケヴィンが現れたので、星の巡り合わせが良かったら一緒に食事をしましょうと、ゆるい約束をしました。私たちはスケジュールをあれこれ調整し、最終的には会う時間を作ることが出来ました。
 ところで、ミッチとビルとケヴィンは会えるのなら会っておいたほうがいい超ナイス・ガイです。

   

 1階で充実した出会いがあり、それだけでも圧倒されましたが、初めて見るものは全部、しっかり写真に収めました。実際、初めてのものだらけです。1階と2階、両方の目玉の展示をいくつか紹介しましょう:

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ブルームフィールド、1980年


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エレクトリック・ディラン、1964年ウッドストック


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スワミ・ウィルベリーから


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ジョージ・ハリスンから





 私はひと休みして、クェ・ガストで食事をして(美味しい料理、素晴らしいスタッフ)、ホテルに戻って、スマホの充電などを行なうことにしました。セスと私は午後4時にBDCを見学する予約をしてました。
BDCに早めに戻って、1階の展示全てを消化・吸収し、写真を撮って、ビデオを見て、メモラビリア全部をしっかり見ようとしましたが、正直言って、見るべき物が多過ぎでした。撮った写真の中には、撮影したということを忘れてたものもありました。自分用だけではなく、ある特定の興味を持った友人をがっかりさせないために撮った写真もありました。帰りの飛行機の中で写真を眺めていた時にやっと気がついた、隠れた宝物もありました。
 会場のスタッフに見学ツアーの時間について質問したところ、少し誤解があったのですが、最終的にはそれが効を奏すことになりました。私はライブラリーの(半分)プライベートなツアーのスケジュールを翌日に変更しました。セスとアリもやって来て、一緒に見学しました。その後、私はホテルに戻り、夕食の前に休みました。
 ホテルに戻ろうとストリートを歩いていると、向こうから、何と、パティー・スミスが来るじゃありませんか!(マネージャーと一緒に。災い転じて福となったことの第1号) 私はすぐさま、慎重に(相手にそう見えてたらいいなあ)パティーに近づいて、とちりながら言葉をかけて自著を1冊渡しました。これはボブ・ディランについて書いた本だということを説明し、あなたについても1「段落」書きましたなんて変なことを言ってしまった後、すぐさま、「丸々1章」をさいてあなたが素晴らしいアーティストだってことを書いてますと訂正しました。嘘を言ってしまったというより、超緊張してしまい、落ち着きを保っていられなかったのです。そんな私にパティーは「ありがとう」と言いながら、気品たっぷりに私の本を受け取ってくれました。
 雲の上を歩いてるような感じでホテルの部屋に戻った後、私はスマホの充電をして、パティー・スミスと会ったことを複数の友人にメールで教え、それから少し休みをとりました。
 ボビーとアン・マーガレットが中東料理のレストランで夕飯を食べる手筈を整えてくれてました。その晩は、その近所のケインズではパティーがコンサートを行なうことになってました。セスは他の友人たちと会ってたので、私はアリを呼ぶと、彼は私たちのグループにすぐにとけ込み、ウィスキー・プロジェクトについて話してくれました。この店は料理は美味しかったのですが、スタッフ不足でした。コンサートで良い位置が取れるか心配になってきたので、私はこちらからウェイターを見つけだして勘定を払い、チップを渡して、店を出ました。
 ケインズでは、ステージ前のセクションには予約席が2列ありましたが、残りはスタンディングでした。予約席のエリアの左側に行くと、前晩にロウダウンでジェフ・スレイトと歌ってた人がいたので、話しかけてみました。スレイトと歌ってるのを見たよ、いい声してるね、いい演奏だった、レコードを出す計画はないの?と言うと、BDCで働いてるという回答が返ってきました。私が自著をプレゼントすると、センターに寄贈していいかと訊かれました。2019年に2冊寄贈したが、どこにも見あたらない旨を話すと、彼は、もしBDCライブラリーになかったら、必ずこそに入れると約束してくれました。彼の名前を訊いたら、レオ・ギリスと名乗りました。ジャック・ホワイトの本名のファミリー・ネームもギリスなので、親族というのは本当だろうと思いましたが、いろいろ忙しかったので、この件ばかりに関わってはいられませんでしたが、一緒に写真いい?と訊くと、いいよとの返事だったのでパチリ(私には何があったのだろう?):

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 私は指定席セクションの左側に陣取った自分のスポットに戻ると、警備スタッフのひとりから手招きされて、パスを持ってる人は指定席に座ることが出来ますよと言われました。私は最前列に移動してセスの席も取り、その旨をメールで伝えました。幸運なことに、私の右にはミッチ・ブランクがいて、そのさらに右隣には伝説の人物、ラリー・「ラッツォ」・スローマンがいました。私はミッチにスターカイヴについて詳しく説明してもらいました。
 ショウの開始直前に手違いが判明しました。指定席は青地に白い文字のパスを持ってる人用で、私たちの殆どは白地に青い文字のパスを持ってました。コレクションや金を寄付したVIPも後者のものを持ってました。その晩はそのままイベントが進行しましたが、土曜日のエルヴィス・コステロのギグではもっとしっかり仕切られてました。
 パティー・スミスのギグの雰囲気を説明するのに適切な言葉が見つかりません。クラブ・ショウでしたが、1985年のスプリングスティーンの《Born In The USA》ツアーのスタジアム・コンサートのような激烈さを持ってました。パティーは皆に愛されてるアーティストですと言うだけでは足りません。彼女も気づいてるはずです。自分の芸術性で皆に選ばれるのも大切ですが、ボブとのつながりも重要だってことを。ショウの早い段階で、パティーは「嬉しくて圧倒されています」と発言し、その晩の間ずっと、笑顔を絶やしませんでした。

余談: パティー・スミス・グループが、前回、ケインズに出演したのは1978年6月20日のことでした。コステロ&ジ・アトラクションズは同じ年の5月21日にここに出演しています。パンクのツンツン尖った髪、安全ピン、ラペル・ボタンの時代のことです。

 パティーのセットはディランの〈Boots of Spanish Leather〉の完璧かつデリケートな演奏で始まりました。伴奏はレニー・ケイのアコースティック・ギターのみです。終盤には同じフォーマットで〈One Too Many Mornings〉を演奏しました。この晩の大部分は彼女の1970年代のカタログが中心でしたが、〈My Blakean Year〉や、友人であるジョニー・デップのために演奏した〈Nine〉(『Banga』より)といった最近のナンバー、《Gone Again》でもカバーしたディランの〈Wicked Messenger〉もところどころにちりばめられていました。もちろん、最後は人を奮起させる力のある歌〈People Have the Power〉でした。コンサート中盤のパティーが少し休憩するコーナーでは、レニーとトニー・シャナハンがストーンズの〈I'm Free〉とルー・リードの〈Walk on the Wild Side〉をメドレーで披露しました。



 私は1978年にボストンのパラダイス・シアター(イアン・デュリー&ザ・ブロックヘッズも出演)で初めてパティー・スミス・グループを見て以来、コンサートや朗読、インストア・イベント等で何度も彼女を見ています。5月6日の晩にケインズのステージに立つパティーを見て、私は今までで最高のパティー・スミスを見たと感じました。バンド、オーディエンス、会場、ディランのバイブレーション(冗談を言ってるのではありません。ディランはいたるところにいるのです)----魔法のような晩でした。

   

 ショウが終わってしばらくウロウロし、ホテルに戻ろうかと思った時(もっと前のことだったかもしれませんが)、レイ・パジェット(ウェブサイト/メール・マガジン『Flagging Down the Double E's』『Every Tom Waits Song』を主宰しています)の姿が見えました。本当にいい人です。たくさんお話をしました。若いですがかなりの賢者です。タルサでは、その後も、何度か一緒になりました。
 マスクをしているというのに(でも、匿名ではなかったのでしょう)ある人が私に気がつき、声をかけてきました。2019年のシンポジウムで会った人でした。彼女は私のプレゼンに出席してました。おしゃべりに興じてる時に、バンク・オブ・オクラホマ(BOK)のビルを見ると、オフィスの窓の明かりが「BOB」になっていました。素晴らしい!

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 私はホテルに戻って寝ました。

5月7日(土)

 朝食をひとりでたっぷり食べようと思い、早起きしました。ネットで良さそうな場所を見つけたので、歩いてそこまで行きました。メーデーの式典に参加するのかとウェイトレスから訊かれたので、今日は1日中予定があるので、残念ながらそうではありませんと答えました。他の客にテーブルを用意するために追い出されるようにレストランを出た後、センターに戻りました。1階はまだ全部見終わっていませんでしたし、2階は未踏でした。
 しかし、まずはライブラリーのプライベート・ツアーをやりました。そこにはディラン評論家のテリー・ガンズから寄贈されたコレクションを含む、たくさんの本がありました。テーブルにはディランの書きかけの歌詞が飾られてましたが、その殆どは1965〜66年のいわゆるエレクトリック3部作のものと、1967〜73年のノート(「フェルト・ペン時代」という言い方をされていました)からのものでした。読み取ることが出来たものをいくつか挙げておきましょう:

・〈Mavis〉数行のみ、恐らくメイヴィス・ステイプルズのこと?
・〈Look Out Kid〉(〈Subterranean Homesick Blues〉)
・〈My Love She Comes In Silence〉(〈Love Minus Zero〉)
・〈Just Like Juarez〉(〈Just Like Tom Thumb's Blues〉)
・〈Alcatraz to the Nth Power〉(〈Farewell Angelina〉)
・〈Tombstone Blues〉
・〈Jet Pilot〉
・〈Visions of Johanna〉
・〈Dear Landlord〉(「…Lord I know you're a practical man…」)

 〈Dignity〉の初期段階のものや、《Infidels》に収録される可能性のあった曲のさまざまなバージョンの草稿もありました(4箱分も!)。ウッドストック時代のノートブックの中のどこかには「While men die of hunger」という1節があり、〈You Belong To Me〉に関するメモもありました。ずっと後になって、ディランはこの曲をカバーし、『Natural Born Killers』のサウンドトラック・アルバムに提供しました。

   

 ライブラリーを見ている間、私はツアーの他のゲストとの会話を始めました。この人はシェリ・ウェイレンといい、ボビー・ズィママンのヒビング時代のバンド、ゴールデン・コーズのメンバーだったルロイ・ホイカーラの娘さんでした。私はツアー・ガイドたちにシェリと彼女の妹[姉?]、シェルビー・ダックワースを紹介すると、ガイドたちは彼女らに会釈をしていました。

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シェルビー・ダックワース(左)、シェリ・ウェイレン(右)


 BDCで考古学的探検をしてると、有名な歴史家/ディラン研究家のショーン・ウィレンツに出くわしました。私は10年前に、自分のウェブサイト『Bob Dylan Examiner』のコラム用に、彼にインタビューしたことがあります。くだけた会話に興じてると、ウィレンツ先生のすぐ右にエルヴィス・コステロがいました。私はすみませんと言って会話を中断して、トートバッグの中に手を伸ばして自著を1冊取り出し、いつもの手際で言いました。「すみません。ミスター・コステロ。私の本をあなたに差し上げようと思って、1冊とっておいたんですよ」と。ミスター・コステロはそれを愛想良く受け取ると、「サインをもらえませんか」と言いました。(ワオ!)
 「喜んで! ところで、デクランさんへがいいですか? エルヴィスさんへがいいですか?」と私が訊くと、「どちらでも」との返事。私は素早く考えて、こう書き始めました:「デクランさんへ----私は毎日この本を書きました」 自分の名前を〈The Boy Named If〉をもじって「ハロルドという名の少年」と記せばよかったなあと今は思いますが、その時は、そんなこと考えもしませんでした。エルヴィスから本の内容について質問されたので、ディランと約120人のアーティストを結びつけたものですと答えました。そして、一緒に写真に写っていただけますか?とお願いすると、ありがたいことに、ノリノリで応じてくれました。

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 私はエルヴィスにお礼を言うと、彼をそこに残してセンターの探検に戻りました。ウィレンツ先生に追いつかなければいけません。そして、その後、探検の次の段階を開始しました。つまり、BDCの2階です。
 そこにも、素晴らしい品々が大量にありました。ディランのアートワーク、ミニ映画シアター、ジェリー・シャッツバーグ写真展(《Blonde on Blonde》のジャケット写真の他、たくさんの有名な写真を撮影しました)、インタラクティヴ仕様になっているメモラビリアの壁などがあり、ディランのキャリアのたくさんの面をカバーしていました。

   

 この時、エルヴィスも2階にいて、センターの特別なガイド・ツアーに参加してました。ミスター・コステロの近くに歓迎される以上に不法滞在するのは私の本意ではありませんでしたが、彼に自分の名刺を是非とも渡したいと思いました。私は素早くそれを実行して、彼の視界からは消えました。その後、彼のかわりに私の本を抱えてるアシスタントを見つけました。エルヴィスの渉外係のメアドが欲しかったのです。そして、この人物と話をしてると現れたのがラリー・ジェンキンスです。私をこのパーティーに招いてくれた恩人です。ラリーは私がエルヴィスの連絡先をゲットするのを手助けしてくれそうな人のところに連れていってくれるというので(運よ、味方をしておくれ)、その間に、急いで会話をしました。
 こうした興奮の後、私はホテルに戻って休み、再びクェ・ガストで美味しい昼食を取って、少しの間、BDCに戻ってセスと会い、BDCの隣の隣にあるウディー・ガスリー・センターの2時のツアーに参加しました。私はショーン・ウィレンツをセス(「『Forward』の?」とショーンが訊いてました)に紹介しました。当然、セスもウィレンツ先生の著作に親しんでました。
 私たちはガスリーに関する短いドキュメンタリーを見た後、ツアーガイドのサムの素晴らしい発表を聞きました。サムは私が以前にここに来た時にもいました。サムは優秀な語り部で、タルサ人種虐殺、アルバム《Fire in Little Africa》(ボブ・ディラン・センターとウディー・ガスリー・センターの関連プロジェクト)、ガスリーvs.トランプの父親を詳細に語る際には、まさに彼のワンマンショウでした。ブルース・スプリングスティーンの展示もありましたが、こちらは日曜朝に見ることにしました。
 BDCに戻ると、やっと2階を見ることが叶いました。まず、私は隅にある小さなシアターで映画を見ました。私がこれまでに見たことのなかったもので一番素敵だと思ったものは、1981年のコンサート映像(〈Blowin' in the Wind〉)、ディランとトニー・グローヴァーによる1961年の音源をフィーチャーしたドキュメンタリーです。お蔵入りになってしまった後、しばらく行方不明だったのですが、再発見されたのです。映画『No Direction Home』制作時に撮影されたトニー・グローヴァーのインタビュー中、彼が貴重なレコーディングについて「ディラン・コレクターだったら狂喜するでしょう」と語るシーンで少しだけ流れてたものです。
 ボブ・ディランの大家になるのは不可能です。研究者、学者、批評家、ファンにはなれます。でも、大家は無理です。ここにはあまりにたくさんのものがあり過ぎます。一生かけても底にすら行き着くことが出来ません。しかも、この泉には底がないのです。
 写真を撮りながら歩いてると、イギリス訛の人が2人の人間と話してるのが聞こえてきました(後に、そのうちひとりはガスリー・センターのスタッフだということがわかりました)。この人物は次に出す自分の(だと思います)本について出版社の人間と意見の不一致があり、ロジャー・マッギンがザ・バーズにいたことを説明する必要性を感じない、マッギンが何者なのか知らない人は自分の本なんて読まない、それに、今はインターネットがあるだろう、なんてことを話していました。
 そんなこと自分には関係のないと思ってましたが、『アニー・ホール』でマーシャル・マクルーハン本人が登場した時のような立場に私がなる瞬間が訪れました。インタラクティヴの壁に没頭し、彼らの会話の脈略がわからなくなってた時、イギリス人が発言したことに対して、ガスリー・センターのスタッフが「でも、ハロルド・「レペドゥス」はこう言ってますよ」などと反論してたのです。発音が間違ってたので、私は彼らのところに行き、笑顔で「レピドゥスと発音してください。みなさんで私の悪口を言ってたのでなければいいんですけどね」と言うと、そこには長居をせず、自分のツアーに戻りました。このイギリス人はクリントン・なんとかという名前です。この人のことを知らない人は、私の記事など読まないと思います。もちろん、今ではインターネットがありますね。



 BDCを出ようとしてた時、私は「匿名希望」の女性(本名は載せないで、とのことです)と彼女の旦那、ラスティーと楽しく会話をしました。ふたりはまた後ほど登場するので、覚えておいてください。
 ホテルに戻って、スマホを充電した後、前日の晩に食事をしたレストランでセスと会いました。5時の開店まで、外の椅子に座ってセスから話を聞いて、楽しく時間をつぶしました。この晩は店はそんなに混んではおらず、料理は美味しく、会計も待たされませんでした。何度かピーター・ストーン・ブラウンの名前も出てきました。
 エルヴィス・コステロ&ジ・インポスターズを見にケインズに行く時間になりました。元ディラン・バンドのチャーリー・セクストンがリード・ギターです。長い入場列が出来てましたが、中に入るのにそんなに時間はかかりませんでした。私たちは白地のパスを持ってたのでのが、優先席に座れるのは青地のパスの人だということはわかってました。でも、今日はそのセクションが3列に増えてます。VVVIPセクションのすぐ左側にいたセスと私に匿名希望の夫妻が合流したのですが、VIPセクションになら座っていいのかなあ、どうにか座れないかなあと思いました。(この時もまた)セスの書いた《Hotel California》のレコード評が話題になりました。
 私は自分が立ってる場所に100%満足してましたが、前の席に座りたくないなんていう人はいないでしょう。(私たちは、自分たちはVIP席に座る資格があると思い上がってる人間ではありません。そう思われてないことを祈ります。昨日だって、そういうオプションがあることは知らず、こっちに来ていいよと言われて初めて自分の幸運を喜んでたのです。心の中では、それこそドンチャン騒ぎ状態でした。幸い、予想は的中し、青地のパスの人たちが席に着いた後、白地のパスの人は入ることを許されました。今回ははるかに後ろの2列目でしたが!
 エルヴィスとバンドは最高でした。最初と最後をニック・ロウのカバーで挟んだ2時間のセットで、iPodシャッフルでエルヴィスを見てるような感じでした。サウンドを表現する的確な言葉がなかなか見つからないのですが、ショウには一貫して「Buzz」がありました。機材に技術的な問題があったというのではなく、「パンク育ちを感じさせる何か」が感じられたという意味です。エルヴィス初期の名曲中心でしたが、時々、カントリーに寄り道をしたり(〈Tonight the Bottle Let Me Down〉)、基本に戻った傑作アルバム《The Boy Named If》の曲、コステロの〈The Comedians〉のレフティー・ウィルベリー・バージョン、〈Brilliant Mistake〉のブリリアントな新アレンジ、そしてもちろん、ディランのカバーも2曲ありました。〈I Threw it All Away〉はアコースティックで、〈Like A Rolling Stone〉は1966年にザ・ホークスと演奏した時のテンポで披露しました。〈Pump It Up〉では〈Subterranean Homesick Blues〉の歌詞を挿入してました。正直に告白すると、この熱狂のフィナーレの最中、私は踊ってました。人前でです。衆人環視の中でです。



 ショウ終了後、2つ中央寄りの席に、写真家のリサ・ローがいました。最もカッコいいディランの写真を撮影した人です。それから、伝説のアーティスト、タジ・マハールもいました。私はタジ・マハールに握手をしていただけませんかとお願いすると、喜んで応じてくれました。最近はどんなことをやってるのですかと質問したところ、「いろいろさ」と言い、ライ・クーダーとニュー・アルバムを作ったことに触れました(当然、それは知ってますよ!)。ミスター・マハールから、どこから来たの?と訊かれたので、「マサチューセッツです。出身はニューヨークですが」と答えると、さらに「ニューヨークのどこ?」と訊くので、「ロングアイランドです」と答えました。タージ・マハールは「オレもニューヨーク出身だ。ハーレムのね」と言うと、リサ・ローと一緒にバックステージに向かいました。私はリサと名刺を交換しました。
 会場の外には、いつもの顔がありました。レイ・パジェットとまた少し話した後、ホテルの部屋に向かいました。ホテルの入り口を歩いて通過する時、私の前をジ・インポスターズのドラマー、ピート・トーマスが歩いてるのに気がつきました。一緒にエレベーターに乗ってる時に、今日のショウは良かったです、カナダやイギリスを含む、いろんなところのエルヴィス公演であなたのステージを見てますとミスター・トーマスに伝えると、キミはどこ出身?と訊かれました。私が答えたことはいつもの通りです。
 就寝。真夜中に目が覚めたら、エルヴィスの〈Farewell O.K.〉が頭の中で鳴っていました。

5月8日(日)

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 寝る前にインスタグラムでケヴィン・オドガードに「明日の朝食が会える最後のチャンスです」というメッセージを送り、朝になったら「アントワネットで午前9時」という返事が届いていました。起きて、シャワーを浴びて、服を着て、そこに出向きました。ミスター・オドガードを探していると、あのクリントン・なんとかがいました。場所を間違えたのかと思いましたが(小さなところでした)、ケヴィンの奥さんがいたので、自分が正しい場所にいることがわかりました。
 私はコーヒーとコーヒー・ケーキを注文し、それをテーブルに運びました。フライトの前にチェックしたいことがあったので、時間はあまりないと感じ、ディランのことではなく、ケヴィンの話を集中的に聞こうと思いました。ケヴィンはここ数年ずっと行なってるプロジェクトやハイチ旅行について話してくれたので、後者の話題がきっかけで、私も姪とその家族がハイチに住んでいて、そこで彼女がやってること、私が彼女の結婚式のために48時間そこに滞在したことを話しました。彼は2019年のシンポジウムの時のコーヒー・マグをくれました。彼が着てたジャケットと同じデザインのギターの柄です。ケヴィンは地上にこんないい人いないっていうくらいのいい人でした。少し会うことが出来たのは、私にとって大変な名誉です。セスが準備中のジョージ・ハリスンに関する本のタイトルは 『Well I Don't Want To Go On The Roof』(屋上には出たくないよ)がいいなあということでも、私たちの意見が一致しました。

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 私はBDCに戻って、気に入った展示を再度見ました。特に《World Gone Wrong》のアウトテイク、1961年のサウンドトラック、1964年にハワイで撮影された映像です。
 ガスリー・センターにも少し立ち寄って、スプリングスティーンの展示を見て、姪のためにTシャツを買いました。さて、帰宅の時間です。
 チェック・アウト時間は12時だったのですが、エルヴィスとバンドも同じ時間に出て行くところでした。ミスター・セクストンがいたので握手をお願いすると、グー・タッチの挨拶をしてくれました。エルヴィスも見かけましたが、追いかけ過ぎは禁物です。またどこかで会えたらいいなと思います。
 私は予定のフライトに乗って、無事、帰宅しました。[5月]10日、私はBDCのリボン・カットの式をテレビで見ました。ほろ苦く感じました。参加者は全てをつつがなくやってました。包括的で、知的で、感情豊かで、お祝いの雰囲気がありました。しかし、その日、皆が見せてた礼儀正しさやリスペクトは、歴史の本から出てきたもののようにも感じられました。
 ディランがグリニッジ・ヴィレッジにやって来た時の世界は、ケネディーが大統領になったばかりで、希望に満ちあふれてました。それだけ、可能性にも満ちあふれてました。しかし、60年後の今、事態は変わってしまいました。1963年の歌〈With God On Our Side〉は、歴史の中で嘘が語られてることをほのめかしてるだけでしたが、2020年の〈Murder Most Foul〉では、歴史が必然かつ悲劇的な結末を迎えてました。
 ディラン・センターの外側では、自分から数歩離れたところに超重要なアーカイブが存在してることに全く興味がなく、その施設のことを知らない人に会ったということも、記しておきましょう。それでいいのです。ディランがグリニッジ・ヴィレッジにやって来た時、彼が何者なのか誰も知りませんでしたが、間もなく、彼の芸術、才能に関する噂が広まりました。タルサでも同じ現象が起こるのを期待します。人の口に戸は立てられません。噂は広がるものです。
 ボブ・ディランは皆の口に合うようなアーティストではありませんが、パティー・スミスも言ってたように、ボブは遍在してる存在なのです。
 関係諸氏、ディラン・センター、ガスリー・センターのスタッフ、特にラリー・ジェンキンズに感謝します。今回の件については返せないほどの借りがあります。

(BDCに一言:ディランの未発表マテリアルを独占的に発売して、センターの資金にしたらいかがでしょう?)

All photos/original content (c) 2022 Harold Lepidus
The original article "Talkin' Tulsa Bob Dylan Center pre-Grand Opening Mavis/Patti/Elvis Celebration"
https://bostonharoldpodcast.blogspot.com/2022/05/talkin-tulsa-bob-dylan-center-pre-grand.html?m=1&fbclid=IwAR29gw4btpC83iMKKYOhmk3ssv8GQ1C7DTFWS1MFuWjWkVjkYFWEaLbAdqA
Reprinted by permission.

   
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