2016年01月12日

メタリカのロバート・トゥルヒージョ、ジャコ・パストリアスを語る

 ジャコ・パストリアスの伝記映画《Jaco》が完成し、アメリカではDVD/Blu-rayとサウンドトラック盤が既に発売。本邦でのジャコ人気からすると、日本でも既に映画の公開やディスクの発売が決定してると思います。
 この映画で面白いのが、スイサイダル・テンデンシーズ〜インフェクシャス・グルーヴズで活躍し、現メタリカのベーシストのロバート・トゥルヒージョ(トゥルヒーヨ?)が制作を担当していることです。私の音楽的興味は狭い範囲で凝り固まってしまっているため、このへんのメタル系とは殆ど接点なく暮らしてきましたが、ロバートの交友関係や音楽に対する造詣の深さが半端でないことにはただただビックリ。
 ひとつのインタビューでここまで多岐に渡るジャンルの音楽(ハードコア・メタルからUKポップ、プログレッシヴ・ブルーグラスまで)が話題にされているのは、拙ページでは初めてでしょう。





 



メタリカのロバート・トゥルヒージョ、ジャコ・パストリアスを語る
聞き手:マイク・ラゴーニャ


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[こんなルックスの人が実はジャコの大大大ファン]


ロバート、あなたが受けた人生初の音楽的衝撃ってジャコ・パストリアスなんだそうですね。

 そう。ミュージシャンだったらたいていやってることなんだけど、オレも常に自分のいろんなインスピレーション元からアイデアを引っ張ってきて、大量のそうした影響を合体させて自分の音楽にしようと頑張っている。1979年に初めてジャコを見た時には大感激だった。それで人生が変わって、クリエイティヴな道に進もうと思ったわけさ。

どの時代のジャコのライヴ・パフォーマンスを初体験したんですか?

 ウェザー・リポートにいた時に見たんだよ。1970年代後半にジャコの評判を聞いてはいたんだけど、ウェザー・リポートが来てサンタモニカ・シヴィック・オーディトリアムでコンサートをやったのは、1979年のことだった。当時は、ここがよくコンサートを見に行く地元の会場だった。自転車で行けるっていうのが、サンタモニカ・シヴィック・オーディトリアムのいいところだった。この時は、親父がオレと友人たちを車で送ってくれたんだけどね。ロニー・ジェイムズ・ディオ、ジャン=リュック・ポンティー、ウェザー・リポート、プリテンダーズも見に行ったなあ。あの会場にはいろんなジャンルのミュージシャンがやって来た。しかも、住んでたところの近くにあって、行くのが簡単だった。生活の一部だったね。ジャコはずっと謎の人物だったんだ。今では、インターネットでバンドやミュージシャンのことを調べられるけど、昔はそうはいかなかった。実際に見なければならなかった。まずレコードを買って、それで体験して、その後、運が良ければコンサートを見に行くことが出来たわけさ。良い時代だった。楽しい時代だった。ああいうスタイルの音楽が人気があって、同じ頃、スタンリー・クラークを見ようと思ったんだけど、チケットが売り切れで、会場の中に入ることが出来なかった。グリーク・シアター4公演が売り切れになっちゃって、オレは漏れてくる音を駐車場で聞こうと頑張ったくらいさ。当時は、全て自分の体を使ってやらなければならなかった。
 ジャコに注目したのは、観客を手中に収めるのがうまかったからだ。殆どジャコのコンサートみたいになっていた。他のミュージシャンをないがしろにするような行動をしてたってことじゃないよ。ジャコは人の心を掴むのがうまく、それにカッコよかったのさ。「こいつはオレたちと同類だ。長髪で上半身裸だし」みたいな感じだったね。
 ジャコが発するエネルギーは、年上の友人や、オレたちが一目を置いていた人たち、ヴェニス・ビーチ・トライブに含まれる人たちを彷彿させた。スケーターやサーファー、ミュージシャンの多くは似たような雰囲気を持っていたが、中でもジャコは独特な存在だった。「あいつ、カッコいいぜ!」 コンサート会場にはいろんなタイプの連中がいた。年上の奴、保守的な奴、パンク・ロッカー、ヘヴィー・メタル系、ジャズ・ファン、ロック・ファンが回りにいた。そういう雰囲気もとても良かったよ。パーティーさ。

あの当時、ジャコとパット・メセニーは新しいやり方で音楽的冒険を行なっていました。聴衆が彼らに魅了されたのは、自分がどういう音楽を聞いてるのかよく分からなかったからでもあるでしょう。

 オレもそう思うね。パットは《Offramp》でそれをやった。ギター/シンセサイザーの領域を探検したんだ。当時はその分野はあまり探検されてなかったから、皆、ポカーンさ。でも、オレはそうならなかった。大好きだった。11年生の時に学校をサボってパーム・スプリングスに行って、プールサイドに大型のラジカセを持ち込んで、パット・メセニーの《Offramp》を聞いたよ。いろんな音楽を聞いてトリップしたなあ。でも、ジャコこそ革新者だと思ったよ。エディー・ヴァン・ヘイレンみたいなね。エディーの最も有名なギター・ソロ曲の〈Eruption〉を初めて聞いた時、凄いんだけど何だかわからなくて戸惑ってしまった。ギターなのかシンセサイザーなのかキーボードなのかわからなかったんだ。エディーはハマリングオンのテクニックを使ってるんだけど、全然違うように聞こえた。それでいて、ヘヴィーでメタルだった。「いったい何の楽器を使ってるんだ?」って思ったよ。
 ジャコを聞いた時も同じだった。フレットレス・ベースでゴロゴロ鳴るような超ユニークな音を出していただろ。〈Teen Town〉ていう曲があるけど、基本的にはキック・ドラムとハイハットがリズムを刻んでいて、飾りで少しキーボードとサックスが入るだけで、この曲の大部分はベースが占めてるんだ。これはステートメントだったよ。ベースがメロディーを弾いていて、しかも、ソロでもあるんだから。パワーと激しさを持っていた。オレには超強力な瞬間だったね。その後、〈Portrait Of Tracy〉を聞いた時には、さらにクレイジーになった。ベース・ソロの作品なんだけど、ハーモニクスとメロディーで出来てるんだ。当時は、ハーモニクスっていったら、もっぱら楽器をチューニングをする時に使うものだった。でも、ジャコはそれで曲を作ってしまったんだ。エディー・ヴァン・ヘイレンのギターから受けたのと同じ衝撃をジャコから受けたよ。頭を掻きながら「こいつはどうやってるんだろう?」って悩んだね。何をやってるのかわからないという状態には、いいことがあるんだよ。後になると、それによって特別性が増すのさ。初めてライヴでそれを見る時には、エイリアンか何かに遭遇して「ありゃ何だ? こいつはどこから来たんだ?」って気分になるんだ。

  

ジャコはハービー・ハンコックと〈Liberty City〉を録音しましたが、一緒に演奏する人が誰であってもガッチリと手を組み、その人を盛り立てるアレンジを作り出す才能も持っていましたね。

 偉大なコラボレーターでもあったね。皆にジャコとわかるような技を駆使しながらも、他のミュージシャンもしっかり立てるやり方で演奏することが出来る人だった。

 

でも、ジャコとコラボしたミュージシャンにとっては、笛吹きオジサンについて行くような感じだったのではないでしょうか。ジャコが作ったパートによって曲調が設定され、他のミュージシャンがうまく解釈しながらそれについていってると、ジャコは予想外の音を挿入して、コラボ相手のヴィジョンを補完しました。

 コール&レスポンス的なアプローチをしてたんだと思うね。つまりコミューニケーション。特に当時のジャズの世界で行なわれていたようなミュージシャン同士の会話だ。ハービーやジョー・ザヴィヌルがあるフレーズを弾くと、ジャコがそれに合わせて入るとか、そんなことをずっとやってたんだね。柔軟性コンテストというか、互いに人の一枚上をいく競争のようになってた時もあった。ジャコは競争心旺盛だったから。ジャコがベース・プレイヤーとして素晴らしい会話をしていたことは確かだね。そうすることを恐れていなかった。自信は建物の屋根を突き抜けるほどあっただろう。自分が受けたさまざまな影響をベースを通して皆と共有することに誇りを思ってた人だったんだから。ここはヘンドリクスのフレーズ、ここはチャーリー・パーカー。ジェリー・ジェモット等、いろんなヒーローから拝借したファンキーなベース・ラインも聞こえてくる。ジェリーは当時トップのセッション・ベース・プレイヤーで、アリサ・フランクリンやB・B・キング、それこそたくさんの人のセッションに参加していた。ジャコはジェリーのフレーズも拝借している。ジャコの弟が言ってたんだけど、テレビを見ている時でさえもベースを持っていて、テレビから聞こえてくるベース・ラインを拝借していた。いろんなテレビ・コマーシャルからもね。それを〈Slang〉っていうベース・ソロの中に投げ込んでいたらしい。この曲はいつもちょっと違うだろ。ジャコは自分の中にあるもの全部を他のプレイヤーと、それからオーディエンスと共有していたんだ。

  

映画のプロジェクトはどういうふうに始まり、進展していったのですか? ジャコの息子のジョンと作業をしたんですよね?

 そう。長い話なので、ショート・バージョンを話そう。ジャコの長男のジョニー・パストリアスに初めて会ったのは、1996年のことだった。スイサイダル・テンデンシーズと、オレのもう1つのバンド、インフェクシャス・グルーヴズのツアー中に、フロリダで共通の友人を介してちょっと話をしたんだよ。インフェクシャス・グルーヴズはもろにジャコの影響を受けているオルタナティヴ・ファンク・バンドで、エピック・レコードからアルバムを3枚出している。ジャコからの影響が主な原動力だったんだけど、あちこちにセックス・ピストルズやメタリカ、スレイヤーの影響もあって、まさにそういうスタイルのミクスチャーで、とても楽しかった。でも、何よりもベースがインフェスシャス・グルーヴズの音楽の創造力の主な源だったんだ。ジョニーはそれがわかっていた。1996年に共通の友人がオレたちを会わせてくれた時には、本当にウマがあったよ。オレがジョニーに言った最初の言葉のひとつが、いつか自分の親父の映画を作る必要があるよ、だった。ジョニーの親父の影響力は巨大かつ広範囲だ。ジャコに心酔しているゴスペルのベース・プレイヤーもいる。ジャコがこの星で最もカッコいいベース・プレイヤーだと思っているヘヴィー・メタルのミュージシャンもいる。ロックの連中だってそう。それこそいろんなタイプのミュージシャンがジョニーの親父をリスペクトしているんだ。「語らなければいけない物語があるだろ」ってオレが言ったら----皆がビックリするような特別なものだからね----ジョニーは「ああ、そうだな。いつかはやるよ」って言っていた。
 それからしばらく経って、ジョニーがいろんな人にインタビューを開始したのを知ったんだけど、オレの目には映画が完成しそうにないほどノロノロしてるように見えた。単にオレがそう思ったってだけのことなんだけど、音楽であれ映画であれ、バンドをやってレコードを作ってる友人もいるし、映画を作ってる友人もいるので、事がどういうふうに運ぶのかはわかっている。十中八九、完成には漕ぎ着けないだろうと判断出来る理由がたくさんあったんだ。映画作りは超複雑な作業で、それに一生をかけてる人はたくさんいる。この映画が実現するためには、誰かが制作の管理をしなきゃいけない、少なくとも資金調達等の面で、ということにオレはある時点で気づいたんだ。それで、オレはプロジェクトの資金を調達し、プロデューサーとして制作の管理をすることで、かかわることになったのさ。そしたら、ギアが入ったよ。6年前まではこんな調子だったけど、それ以後はオレがプロジェクトをしっかり管理している。
 幸運なことに、素晴らしいスタッフが揃った。このプロジェクトには3人の監督がいたんだけど、1人目の奴は1カ月しか続かず、次のスティーヴン・キジャックは1年かかわってくれた。その後、ここ4年間はポール・マーチャンドが務めている。ポールは編集者でもあって、いつも素晴らしいセグメントを作ってくれた。彼はマッド・サイエンティストみたいな奴なんだ。スクリーンに魔法をもたらしてくれるクリエイティヴなマッド・サイエンティストだ。ジョニーとポールとオレで作業をした時もあれば、オレだけだったこともある。1年半前に、ポールがマーティン・スコセッシと仕事をするんで半年ほどこっちを離れていた間に、オレはそれまでに作ったカットを見直して、メモを取り、インタビューのいくつかを詳しく検証してみた。ブーツィーのインタビューを最初から最後までじっくり見て、貴重な発言を発見した。
 こういう映画には長いプロセスが必要だ。1、2年で出来るものじゃない。たくさんの宝物がある。1年ごとにこれでもう終了かと思ったら、別のお宝が出てくる。2年前はジョニ・ミッチェルの協力を得ることが出来た。ジョニは最初の4年間はプロジェクトの中にはいなかったんだけどね。3年前にはジェリー・ジェモットの協力を得ることが出来た。映画制作の前半の期間には関与してなかったんだけどさ。ジェリー・ジェモットとジョニが関与してくれたおかげで、映画の方向性がガラッと変わり、はるかに良いものになった。大きなインパクトがあったね。生きてりゃ、学ぶことが多いよ。人生ってそういうプロセスだろ。

この映画を作ったことで、ジャコのどんなことを発見しましたか?

 皆、それぞれの物語を持ってるということだ。初期段階のうちにわかったのは、全部の話は紹介出来ないということだった。これとは別に9時間の映画になってしまうから。たくさんの人に取材した。知らない人もやって来て、話をしてくれた。悲しい話の時もあれば、超笑える話の時もあった。ジャコは優れたユーモアのセンスの持ち主だったからね。彼のユーモアのセンスについては常に聞かされた。ジャコはよく人にいたずらを仕掛けたんだ。いたずらの王様だった。最も酷い状態だった時でさえも、ジャコはいつも、人を笑顔にしようとしてたんだ。オレが学んだのは、ジャコがもの凄いユーモアのセンスの持ち主で、常に人を幸せにしたがっていたってことだ。
 特に昔は、ジャコは家庭を超大切にする人で、子供のためなら何でもやった。年が上の子2人、ジョンとメアリーをよくツアーにも連れていった。ジャコはまた、あらゆるレベルで向こう見ずな男だった。ツアー・バスの屋根の上に立ってサーフィンの真似をしたり、海でボディー・サーフィンをやったり。泳ぐのも超得意で、運動神経抜群だった。映画の中ではそういうシーンも少し入っている。若い時から才能豊かだったことがわかる。でも、ジャコの精神状態についても、たくさん知ることになった。以前と同じ目でホームレスの人を見れなくなってしまったよ。人がホームレスになってしまうのにはたくさんの理由があるってわかったからさ。ドラッグの乱用のようなものだけじゃない。他にもいろいろな理由がある場合がある。ジャコは双極性障害を抱えていて、それで心身を病んじゃったんだ。そんなことも知ったよ。
 オレにとって、この映画は興味深い旅だった。自分に影響を与えた超重要な人物についてだけでなく、ジャコが人生で抱えていた問題についても知るに至った。今は1970年代とは状況が違う。昔は双極性障害について知ってる人は少なかったけど、今では薬で治療することが出来るんだ。いくつかの薬を正しい量飲めば、問題なく生活することが出来る。既にたくさんの人がそうしている。ジャコのことについて考えなかったことは一瞬もない。夜中に目が覚めても、考えてしまった。ジャコがそこにいて、何かを話してくれる、オレと何かをわかちあってくれているような感じだったよ。監督のポールもそういう状態だったと思う。何かが起こるのは理由があるからだ。もうやるべきことはやりきったと思う瞬間が何度もあったけど、実際はそうじゃなかった。そうして6年後、特別な映画が出来た。オレは鼻が高いよ。

ジャコはベース・プレイの歴史にどんな点を加えたと思いますか?

 どのスタイルのどのベース・プレイヤーに、ベーシストのトップ5は誰かって訊いても、ジャコは常にその中に入っている。トップ1、トップ2ではなくても、絶対にトップ5には入っている。ゲディー・リーやスティング、ヴィクター・ウッテンといった、オレたちがリスペクトし、高く評価し、大好きなプレイヤーに訊いてみても、ジャコの名前は必ず出て来る。凄いよね。オレにとっては、ジャコはジミ・ヘンドリクスと一緒にトップに位置する。たいていの連中が、ジャコをジミヘンにたとえている。ふたりをツイン・タワーと呼んでる奴もいる。
 ジャコのレガシーは、そのうち、作品に焦点を当てて語られることにもなるだろう。ジャコはベースを自分の楽器として使っていたけど、優れた作曲家でもあった。多くの連中が「ジャコはフレットレスのプレイヤーだった」って言ってるけど、フレットレス・ベースだけだったわけじゃない。〈Birdland〉ではフレットレス・ベースを弾いてるが、フレットレスと同じくらいフレット付きのベースも弾いていて、どんな人とも演奏することが出来たんだ。
 デヴィッド・ボウイはジャコと仕事をしたかったんだけど、願いは叶わなかった。イアン・ハンターがジャコと作った《All American Alien Boy》に触発されたんだろう。これは名盤だ。〈All American Alien Boy〉というトラックでは、ジャコはギターを弾いている。そして、この曲でロック史上最高のベース・ソロも弾いている。あまり知られてないんだけどさ。メタリカのスタジオで、これからイアン・ハンターに会いに行くんだぜって皆に言ったら----5年前にインタビューした時のことなんだけどさ----「オレもイアン・ハンター大好きだぜ。すげえじゃん。《All American Alien Boy》はいいアルバムだ」なんて言うんで、オレは皆に教えなければならなかった。「ジャコがあのアルバムでプレイしてるの知ってる?」って言うと、「マジ? 知らなかったよ」っていう反応だった。ジャコがあのアルバムに参加してるってことを知らない人もいる。実は、フレディー・マーキュリーとブライアン・メイも参加してて、ロックンロールの有名ミュージシャンのオールスター・キャスト状態なんだよ。ジャコのレガシーは、既に、その現実の大きさ以上に拡大しているのかもしれない。彼はこの世にいた短い間に音楽シーンに大きな衝撃を与え、その大きな部分がジョニ・ミッチェルとのコラボだと思う。《Hejira》は超美しいアルバムだ。ジャコはジョニの音楽のことを大して知らなかったんだけど、誰かとコラボするのが好きだから、「OK。それじゃ、音楽を作ろう!」って感じだったんだ。でも、出来上がったものは、それをはるかに超えてたよね。それが1970年代だった(笑)。

  

今の音楽の中にもジャコの影響は見てとれますか?

 面白いことを話そう。1980年代に大ヒットしたポップ・ソングがあった。カジャグーグーってバンドに〈Too Shy〉って曲があっただろ。この曲のイントロはジャコ・パストリアスの影響をモロに受けている。あのバンドのベース・プレイヤーだったニック・ベッグスにもインタビューしたんだ。あれは100%、ジャコの影響が出ている瞬間だと語ってくれた。彼が関与している他のたくさんの曲もそうなんだとか。これは当時、ナンバー1になった曲だ。それから、ポール・ヤングの〈Everytime You Go Away〉も、ジャコの影響だらけの大ヒット曲だ。オレが勝手に言ってるだけなんだけど、デュラン・デュランの〈Rio〉もジャコの影響と思しき瞬間のある曲だ。

  


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2014年03月23日

録画録音機器の会場への持ち込み方教則ビデオを作っていたエアロスミス

 先日アップした伝説のテーパーの話は大好評で、今日までにFacebookで300回以上「Like」され、ツイッターでは該当ページのURLを含むツイート数が200を超えています。私としては、ボブ・ディランの《地の轍》のレコーディング・セッションのエンジニアの回想録や、アメリカのフォーク・ミュージック・シーンとインドのストリート・ミュージシャンの話を一番読んでもらいたいのですが、残念ながらこっちの読者数は殆ど増えてないようです。
 コンサートの録音に関して、面白いビデオがあったことを思い出しました。エアロスミスが約30年前に作った〈Let The Music Do The Talking〉です。1980年代前半、エアロスミスは、ジョー・ペリーが脱退したため新ギタリストを入れて活動を続けていましたが、人気も評価もグループ史上どん底(それでも、1970年代を代表する名バンドだったので、コンサートをやればそこそこ人は集まっていました)。1985年にリリースされたジョーの復帰作第1弾《Done with Mirrors》も、ジョーの姿が見えるPV〈Let The Music Do The Talking〉(ジョー・ペリー・プロジェクトの曲をエアロでリメイク)も、世間的にはそんなに大きなニュースにはならず、低迷はまだまだ続きます。しかし、RUN-D.M.C.によって〈Walk This Way〉がラップとして取り上げられた1986年あたりから風向きが変わり、〈Dude (Looks Like A Lady)〉〈Rag Doll〉等のヒットを連発して2回目の黄金期が到来するのは、その翌年のことでした。



 さて、〈Let The Music Do The Talking〉のPVの大まかなストーリーはこうです:若者のグループが体や持ち物に機材を仕込み、入口のボディーチェックを擦り抜けて、コンサートの撮影・録音を開始。超怖そうな用心棒に見つかるが、首尾よく逃走。アジトに戻ってみんなでビデオを見ていると、スティーヴンとジョーも現れて、連中を叱るどころか一緒に仲良く鑑賞。
 発表当時は最後のオチを見て笑っているだけでしたが、30年間の後知恵というものを持って再び見てみると、あの頃は気づかなかったことに気づきます。あの女の子が使っているレコーダーは、スイスのNagra社が業務用に開発した小型録音機です。Nagra社は映画の音声録音用のポータブル録音機で有名ですが、このビデオに映ってるものには、諜報機関によって要人の会話等をこっそり録音するためにも使用されたという歴史があり、現在、ワシントンDCの国際スパイ博物館で展示されています。

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詳しい性能等は次のページで見てください:
http://megascoop.com/nagra/nagra_sn.html

 コンサート・テーパーによってこれが実際に使用されたのかというと、少なくとも私はそんな例は聞いたことありません。1980年代前半にはソニーが発売した銘機WM-D6があったので、中古でも数十万円はするNagraに手を出す必然性は殆どなかったと思います。Nagra SNシリーズは使えるテープが特殊で高価、一般人にはどこで売ってるのかさえわかりませんでした。どこでも買えるカセットテープが使えるD6のほうが実用的でした。
 こんなビデオを作ったエアロスミスですが、実際には、ファンによるコンサートの無許可録音には結構厳しいらしいです。どんなに巧妙に録音機を隠していても、スティーヴン・タイラーには客席で録音している奴がわかると聞きます。

   


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2013年04月14日

【参考資料】ザ・プラネッツのデモテープ

 3月のエントリーの『NY Rock'n'Roll Life【16】ヴァン・ヘイレンにメジャー契約を阻まれたぜ』で気になっていたのがザ・プラネッツのデモテープです。ビンキー曰く、ヴァン・ヘイレンをこれから売り出そうとしていたプロデューサーのテッド・テンプルマンが聞いて驚異に感じたというこのデモ、iTunesで販売が開始されました。日本からは購入出来るかわかりませんが、サンプル音源は聞けますよ。

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https://itunes.apple.com/us/album/infamous-warner-brothers-demos/id542005669

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