2022年12月28日

イギリス史におけるサヴィル・ロウ3番地の役割

 7年前の記事なんですが面白いので紹介します。私は軍事には全くの門外漢なので、階級名等が違ってる場合は教えてください。


イギリス史におけるサヴィル・ロウ3番地の役割
6層の歴史

文:Dr.グレッグ・ロバーツ


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メイフェア、サヴィル・ロウ3番地


 ロンドンのメイフェア地区にある第2級指定建築物に分類されるマンションハウスは、改装されてアバークロンビー&フィッチという子供用衣料品店になるのを阻止しようという運動が失敗に終わったことで、先頃[2014年末〜15年1月]ニュースになりました。今日はこの番地の歴史を皆さんに紹介しましょう。この偉大な建物の歴史を知ると、ここにアメリカの企業が入ってしまうなんてはまさに皮肉です。というのも、この建物にはイギリスの歴史と非常に興味深く重要な繋がりがあるというのが真実だからです。この建物は1733年に建てられて以来、イギリスの軍事史、文化史の発展に貢献した人物が住んでいました。さあ、中に入ってみましょう。

1. ジョン・フォーブス提督(1714〜1796)

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ジョン・フォーブスはウェルズリー=ポールの義父にあたる


 13歳で海軍に入ったジョン・フォーブスは、数々の出世を遂げて、1781年から死ぬまで艦隊の提督として活躍しました。この時代には、多くの軍人が体が不自由な状態となって戦地から帰還したので、体の障害は高位の官職に就くのに障壁とは考えられていませんでした。フォーブスは歩くことが出来ず、社交界に姿を見せることは殆どありませんでしたが、それでもイギリス海軍全体を指揮することが出来ていました。実際、サヴィル・ロウ3番地の自宅でミーティングを開いてそうしていたのです。フォーブスは1760年頃までここで暮らしました。

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ビング提督の処刑 (1757)


 フォーブスがイギリスの歴史に対して行なった最重要の貢献は、ビング提督裁判への関与です。ビングは1756年にミノルカ島を失ったことで有罪となった人物です。敗北を防ぐために「最善を尽くさなかった」ことで、裁判にかけられ有罪となりました。ビングに死刑が宣告された時、寛大な措置を求める嘆願が出されましたが、ジョージ3世は怒って聞く耳持たずの状態でした。フォーブスはビングの死刑執行令状に署名することを拒んだ唯一の提督でしたが、1757年3月14日に彼が銃殺部隊によって処刑されるのを止めることは出来ませんでした。しかし、この出来事が一般大衆の心に残した影響は大きかったので、軍務中の海軍将校がこの罪で死刑になったのは、これが最後でした。巨大な圧力に勇敢にも屈しなかったことで、フォーブスは高潔で哀れみ深い人物としてその名を知られ、海軍の人員をより公正に扱うことのお手本となりました。
 1784年にフォーブスの双子の娘、キャサリンは海軍三尉、ウィリアム・ウェルズリー=ポウルと結婚し、サヴィル・ロウ3番地で挙げた式には、ゲストとして後にウェリントン公爵になるアーサー・ウェルズリーも来ました。ウェルズリー=ポウルは1797年にこの建物を相続しましたが、貸し出すことにしました。

2. ロバート・ロス少将(1766〜1814)

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 ウェルズリー=ポウルの最も有名な賃借人はロバート・ロスでした。ロスは有名なイギリスの少将で、大西洋を渡ってアメリカ合衆国に軍を進めたことで最もよく知られています。アイルランドで誕生したロスはアレクサンドリアの戦い(1801年)から帰還した後、1805年までサヴィル・ロウで暮らし、その後も、コルナの戦い(1809年)に参戦し、半島戦争中(1808〜14年)はアーサー・ウェルズリーの下で軍務に就きました。ロスは1814年2月27日のオルテスの戦いで重傷を負ったにもかかわらず、イギリス軍の遠征部隊を指揮してアメリカを攻撃することに同意しました。

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今日では信じられないことですが、イギリス軍はホワイトハウスを焼き払いました
(1814年)


 ロスはブレイデンスバーグでアメリカ軍を総崩れにした後(1814年8月27日)、ワシントンDCに軍を進め、ホワイトハウスを含む政府の建物を全て破壊しました。アメリカの地を踏んだイギリスの軍人の中で、ロスが最も記憶に残る人物なのは、おそらくこの活躍のためでしょう。

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ロス少将の死


 しかし、ロスにとってこれでめでたしではありませんでした。彼は1814年9月12日にノース・ポイント近郊でアメリカ軍の狙撃兵によって殺されました。ロスが埋葬されているのはノヴァスコシアのオールド・ベリイング・グラウンドですが、彼の名が刻まれた墓碑はロンドンのセント・ポール大聖堂にあります。

3. ウェリントン公爵(1769〜1852)

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 アーサー・ウェルズリーがインドでの8年間の軍務から帰国した後、最初に滞在したのがブラックヒーズにあるウェルズリー=ポウル家でした。当時はまだ結婚しておらず、ロンドンに家を持っていなかったからです。ウェルズリーは1814年に再び軍務に就くことになっており、ナポレオンの降伏と島流しの後の半島戦争からは勝利の帰還を果たしました。爵位を与えられてウェリントン公爵になったばかりの人物が、ウェルズリー=ポウルの屋敷ではなくサヴィル・ロウを選んだというのは、とてもインパクトがありました。大きな戦功をあげた英雄の姿を一目見ようと、何千もの人々が外に集まって、徹夜までするようになったのです。ウェリントン公爵は1カ月間サヴィル・ロウで暮らした後、パリに戻ってしまいました。

4. ウィリアム・ウェルズリー=ポウル(1763〜1845)

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 ウェルズリー=ポウルは1797年から1842年までサヴィル・ロウ3番地の所有者でした。彼は造幣局長の任期中に新しい銀貨の導入を統括しているのですが、 1817年から1971年に10進法制が導入されるまで、長らく流通していた銀貨がそれです。

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 シリング[1971年まで用いられた英国の補助通貨単位。1ポンドの20分の1。12ペンス。新制度では1ポンドは100ペンスとなり, シリングは廃止]こそ、イギリスの独自性を示す最大のシンボルの1つでしょう。ウェルズリー=ポウルの支援があって、見ればすぐにそれとわかるセント・ジョージとドラゴンのモチーフが出来上がりました。今日もなお使用されているこのモチーフはベネデット・ピストルッチがデザインしたものです。

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5. 山高帽(1849年)

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これぞイギリス----山高帽


 英国紳士といったらステレオタイプ的に真っ先に思い浮かぶのが、山高帽をかぶっている姿でしょう。サヴィル・ロウ3番地は、山高帽発祥の地としての栄誉を求める権利を有しています。ウィリアム&トーマス・ボウラーが1850年に山高帽の最初のプロトタイプを作った人物と言われていますが、この帽子はイギリスの軍人/政治家のエドワード・コウクによるデザインにちなんで作られたというのが一般的な認識です。コウクは、乗馬に出かけた際、狩猟管理人の帽子が木の低い枝にぶつかって落ちるのを見るのにうんざりして、この帽子を考案しました。町にいる時には、コウクはサヴィル・ロウ3番地で暮らしていました。

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山高帽は社会階級を上へと移動


 山高帽は最初はヴィクトリア期の労働者階級でとても人気があるものでしたが、中流階級の実業家の標準的ユニフォームになり、1960年代には、貴族階級にまで広まりました。

6. ザ・ビートルズ(1969)

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 1969年1月30日に、ビートルズはサヴィル・ロウ3番地のアップル・レコード本部の屋上で、最後のコンサートを行ないました。ビートルズは前年6月に50万ポンドを払ってこの建物を購入して、その後の18カ月のうちの大部分をそこで過ごしたと言われています。かの有名な屋上コンサートもこの時期に行なわれました。

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 今でもなお、サヴィル・ロウ3番地はビートルズ・ファンが訪れる観光地となっており、彼らがこの建物を使っていたことを示す青い看板を見つけて上げる叫び声がずっと絶えません。

最後に

 この記事用の調査をしている際に、ネルソン提督の愛人、レディー・ハミルトンに関する記述も見つけました。彼女もかつてサヴィル・ロウ3番地に住んでいたことがあるというのです。しかし、ロス大将よりも前にここを賃借したのでない限り、彼女をこの時間軸のどこに入れてよいのかわからないので、このブログ記事には含めませんでした。しかし、サヴィル・ロウを大切にすべき理由は、ビートルズがいたからだけではありません。このイギリスの重要なファッション地区からアメリカのアパレル・メーカーを追い出すためだけでもありません。この建物がイギリス的なるもの全般----冷静沈着な性格(フォーブス)、軍事行動(ロスとウェリントン)、イギリスの通貨(ウェルズリー=ポウル)、まさにイギリス的な帽子(ボウラー・ハット、山高帽)、そして、ビートルズ----とつながりをもっているからです。
 実際に、サヴィル・ロウ3番地は、私たちが心に抱いている「イギリス的なるもの」にとって非常に重要な、さまざまな人物やシンボルを提供しています。
 2009年にキア・ホールディングスが2,000万ポンドを払ってこの建物を手に入れましたが、その運命はまだどうなるかわかりません。未来は誰にもわかりません。

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デモの様子
歴史を知ってたら、かぶるのは山高帽だろうに!



The original article "3 Savile Row----Its role in British history" by Dr. Greg Roberts
http://www.wickedwilliam.com/3-savile-row-role-british-history/?fbclid=IwAR01FFfDLru1r7ipCkb0hrII35UlmCXxdIxBUj10ACMnXP_kz47djETo1mM
Reprinted by permission

   
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2022年10月07日

【書評】ジェイ・バーゲン著『LENNON, the MOBSTER & the LAWYER----The Untold Story』



 《Roots》裁判でジョン側について、悪徳業界人モーリス・レヴィと戦い(マフィアとの繋がりもあったらしい)、ジョンを勝利に導いた正義の弁護士の回想録です。ジョンとのつきあいは裁判を担当することになった1975年2月から最終的な判決が下った1977年1月までですが、自分の記憶だけでなく、ジョンが裁判所で行なった証言の公式的な記録や業務日誌に基づいて書いているので、「いつ」「どこで」という情報が充実。正確さと精度も高いと思います。普段から、裁判の書類を書いているからか、指示代名詞の使い方が曖昧でなく、非常に読みやすい文体です。


本物と偽物の区別法を指南するこの動画面白い。拙宅にあるのは偽物。


 レヴィがAdam VIIIというTV通販会社から売り出した《Roots》には法律的正当性あると主張して、ジョンとキャピトル/EMIを訴えてきたので、ジョンらは被告だったのですが、それを返り討ちにしたのがこの裁判でした。ジョンが《Roots》の発売を承知していたのかどうかが主な争点でしたが、このレコードには正当性がないことを証明するプロセスで、法律云々、契約云々についての議論だけでなく、ジョンが収録曲を選んだ理由を述べたり、ジャケットの重要性を説明したり、レコーディングに参加したミュージシャンが証人として呼ばれたり、裁判所の中で皆でジョンのソロ・アルバムを聞いて、その音楽性を話し合ったりしているのです。裁判ではそんなことまで話題にするのかと驚くとともに、ジョンが自身のアーティストとしての哲学や自分の作品群の自己評価も語っているのはとても興味深いです。
 私が面白いと感じたのは:
・1975年までグランド・セントラル・ステーションに行ったことがなかった。
・〈Bony Moronie〉は、母親が見に来た唯一のパフォーマンスで披露した思い出深い曲。
・《Two Virgins》のヌード写真は、自分は常に衆人環視の状態でプライバシーなど皆無であることと、服を脱いだら皆と同じ人間であることを示しており、このジャケットは誇りに思っている。



・《Roots》の裏ジャケットに別のアーティストのレコードの宣伝が載ってるなんて言語道断。
・ジョンはボブ・グルーエンに頼んで裁判の様子を盗撮してもらった(その写真あり----ピンボケだけど)。
 ----などなど、1ページに1つのペースで興味深いことが書いてあるのですが、一番笑ったのはジョンではなく、ローリング・ストーンズに関することです。
 1976年1月、ジョン側の証人として、バーゲンがロサンゼルスからニューヨークに呼び寄せておいたジェシ・エド・デイヴィスは、2日後に裁判で証言するという超大切な仕事があるというのに、《Black And Blue》のレコーディングでニューヨークにいたロニー・ウッドからお誘いの電話がかかって来て、結局、2晩連続オールナイトで飲み(そういう人だったんですね)。プエルトリコ人売春婦2人と盛り上がって、ミック・ジャガーに電話し、朝方になって、女の子たちをホテルにお持ち帰り。それでもジェシ・エドは法廷で立派に証言を行ない、めでたしめでたしだったのですが、しばらくして、1978年にカーラジオから〈Miss You〉が流れてきた時、プエルトリコの女の子云々の箇所で、バーゲンは2年前のこの出来事を思い出したそうです。真夜中の迷惑電話を名曲に変えてしまうなんて、ミック、なかなかの詩人です。今後は「dyin' to meet you!」を聞くたびに、ジェシ・エドの姿が脳裏に浮かぶことになるでしょう。



 数多くの回想録の例に漏れず、この本も自分に都合の良いことしか書いていないようです。バーゲンはジョンと知り合って間もない頃に、グランド・ファンク・レイルロードvs最初のマネージャー、テリー・ナイトの裁判をマネージャー側の弁護士として担当して勝訴したことを自慢しています(バンド側の弁護士はジョン・イーストマンでした。そうです、リンダ・マッカートニーのお兄さんです。今年の8月10日に死去)。確かに、金銭的に勝ったのは元マネージャーのほうですが、この記事のように、違った見方をする人もいます(バンドが本当の名声と名曲を獲得するのは敗訴後のことでした)。



 また、最後の最後の著者紹介のページでは、ボブ・ディランvs最初のマネージャー、アルバート・グロスマンとの係争にグロスマン側の弁護士として関わったことにも触れていますが、詳細は皆無です。この係争は、ボブの旧友が有能な弁護士を紹介し(ボブのミネソタ時代の旧友、ルイ・ケンプの回想録『Dylan and Me』を参照のこと)、1960年代のままの契約条項のせいで袂を分かって久しいのに金が延々とグロスマンに流れ続けている状態をストップさせたことで知られています。結局、本格的な法廷闘争になる直前に、グロスマンがロンドンに行く飛行機の中で心臓発作で亡くなったために、適当な落としどころを見つけて和解となりましたが、こちらも話し合いのプロセスでボブの音楽を論じていたり、笑える逸話に満ちあふれているのだとしたら、その詳しい内容を知りたいところです。

   
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2022年04月02日

ポール・マッカートニーの本『Lyrics』をファクトチェックする

 あ〜、そういえばポールの1万円超の高額歌詞本も出ましたね。でも、私を含め、みんな映画『GET BACK』を見るのに忙しくて、こっちは存在を忘れてたか、買ったとしても本棚に直行か積ん読になっちゃってるようです。このレベルの不備なら、中身をしっかり読んでたら、すぐに気がついてあれこれ騒ぐだろうし。反省!
 ポールのリリースがビートルズの映画とぶつかっちゃったのは、《McCartney》と『Let It Be』の時もそうでしたね。



ポール・マッカートニーの本『Lyrics』をファクトチェックする

文:リッチー・ウンターバーガー


 『Paul McCartney: The Lyrics』は非常に優れた本である。期待をはるかに超える良書である。ロックの歌詞本というと、たいていは、あまり関係のない写真とともに歌詞を印刷しただけの代物なのだが、この2巻セットの、大枚をはたくだけの価値のある高額本には、マッカートニー本人による、自作の歌に関する詳しい回想もたくさんフィーチャーされている。写真もたくさん掲載されているが、とても興味深く、貴重なものや世界初公開のものまである。
 私は以前にもこの本についての書評を書いたが、今回の投稿は『Paul McCartney: The Lyrics』の単なる書評ではなく、テキストの一部のファクトチェックを行なったものだ。確かにこれは良書なのだが、完璧ではない。
 私は以前に書いた書評で「大量ではないものの、私がビックリするような事実関係の誤りが編集プロセスを素通りしてしまっている」と記したが、私の他にもたくさんのビートルズ・ファンがそういう誤りを見つけている可能性が高い。編集段階でそれがしっかり修正されていたならば、話のエッセンスや重要な点が損なわれることはなかったのに…。そういうクオリティーを保つために、そんなに大変とは言えない努力をするのは、マッカートニーや出版者にとってはあまり重要でなかったのだろうか?
 ポールが出来事の一部を誤って覚えていたり、何がいつ起こったのか順番を間違えたりしていても、私は驚かない。ものによっては50〜60年前の出来事なのだから。私が驚いているのは、大手の出版社が、こんなに大きくて立派なプロジェクトだというのに、ファクトチェックにあまり気を配っていないことなのだ。単なる有名ミュージシャンではなく、大物政治家や社会運動に関する本であったら、ファクトチェックはやらなければけないいつもの日課なのだろうが、ポールはそんじょそこらの政治家よりも世界を変えるのにずっと大きな貢献した人物だ。
 この出版社は、私や、間違いに気づいたであろう他の人間に、テキストを読んでくれと頼むことを怠ってしまった。私は何も、自分が特別な人間だなどと言っているのではない。数千人のファンも間違いに気づいただろうし、実際に本書を読めば気づくレベルのものなのだ。
 内容訂正的な脚注が欲しい人用に、私の目に留まった誤りをこの場でいくつか指摘しておこう:

64ページ: 1964年1月にパリで〈Can't Buy Me Love〉をレコーディングしたことを回想して、ポールはこう語っている。「皮肉なのは、パリに来る直前にフロリダに行って、そこでは愛とは言わないまでも、欲しいものをたくさん金で買うことが出来た」
 ビートルズのレコーディング・セッションの歴史に詳しくない人には、このヒット曲がロンドンではなくパリで録音されたというのが間違いのように思えるかもしれない。確かに、ビートルズはレコードの殆ど全てをロンドンで録音しているのだが、〈Can't Buy Me Love〉は、パリで約3週間のロングラン公演を行なっている合間に、1964年1月29日にその地でレコーディングした。


 この誤りは『The Lyrics』に登場する時間的な誤りの1番目のもので、多くの人にとっては些細な間違いだろうが、間違いは間違いである。それから、ビートルズはこのセッションの前にはフロリダに行っていない。ジョージ・ハリスンだけはアメリカに行ったことがあったが、その旅ではフロリダには行っていない(1963年後半に中西部で暮らす姉に会いに行った)。
 ビートルズは確かにフロリダ州マイアミに行ったが、それは〈Can't Buy Me Love〉をレコーディングした2週間後の、1964年2月中旬のことだ。初めてアメリカに行って『エド・サリヴァン・ショウ』に出演し、ワシントンDCとニューヨークのカーネギー・ホールでコンサートを行なった後に、彼らは短い休暇でマイアミを訪れている。彼らはこの月、『エド・サリヴァン・ショウ』に3回出演したが、その最後のものはマイアミで演奏したものだ。
 時間的に近いが、重要度が全然違う出来事の順番が、マッカートニーの頭の中で逆になってしまっているのは驚きである。グループのキャリアにとっては、初のアメリカ訪問のほうが、パリ公演よりずっと有名かつ重要だろう。この逆転に気づくビートルズ・ファンは何百万人もいるはずだ。スターの行動については、実際にそれを行なった当人よりもファンの方が詳しいということはよくある。これもそんな事例だろう。

91ページ: お気に入りのエレキギターはエピフォン・カジノだ。ロンドンのチャーリング・クロス・ロードにあるギター・ショップに行って、店員に言ったんだ。「フィードバックを起こすギターはある? ジミ・ヘンドリクスが出している音が大好きだからさ」って。オレはジミの大ファンだ。ロンドンにやって来て間もない頃の初期のギグを見ることが出来て、とてもラッキーだった。空が炸裂したようだった。
 ギター・ショップの店員が言った。「これが最もフィードバックするものです。ホロー・ボディーなので、ソリッド・ボディーのギターより大きな音が出ます」って。オレはそれを持ってスタジオに行った。ビグスビーのトレモロ・アームも付いてたから、フィードバック状態でプレイし、それをコントロールすることが出来た。そういうプレイに完璧なギターだった。ホットな音を出せる優れもののギターだった。そうして、これはオレのお気に入りのエレクトリック・ギターになって、〈Paperback Writer〉のイントロ・リフや、ジョージの曲〈Taxman〉のソロで使った。長年に渡って、たくさんの曲でこのギターを使っている。今でも弾いてるよ。あのエピフォン・カジノは人生の伴侶だ。


 いい話だ。しかし、マッカートニーがヘンドリクスを見たのは、最も早くて1966年9月下旬だろう。ジミがニューヨークからロンドンにやって来たのがこの頃なのだ。ジミはその直後に何度かギグを行なった後にエクスペリエンスを結成したが、ポールがジミを見たのは、私の推測なのだが、9月よりもう少し後のことと思われる。〈Paperback Writer〉をレコーディングしたのは少し前で、《Revolver》のセッションを行なっていた4月13、14日のことだ。〈Taxman〉はその約1週間後に録音している。なので、ポールはこうした曲でエピフォン・カジノを使用した段階では、まだジミは見ていない(演奏を耳にしたこともない)だろう。もしくは、後にレコーディングした曲の中に、ヘンドリクス風を念頭に置いてカジノを使用したものがあるのかもしれない。
 間違いの指摘ではないのだが、ポールが〈Paperback Writer〉のイントロ・リフでカジノを使ったと語っているのは興味深い。ジョージ・ハリスンではなくマッカートニーが曲の少なくとも一部でリード・ギターを弾いていることを意味しているからだ。
 アンディー・バビウクが著した『Beatles Gear』(徹底した中身で信頼出来る)によると、マッカートニーがエピフォン・カジノを購入したのは1964年12月で、ヘンドリクスがロンドンで知られた存在になるより2年近く前のことだった。この楽器を入手した動機に関しては、『Guitar Player』誌1990年7月号に掲載されたポールの発言のほうが詳しい。「[英ブルース・ロックの雄、ジョン・メイオールが]夜遅く、たくさんのレコードをオレに聞かせてくれたんだ。ジョンはDJタイプの人で、彼の家に行くと、ソファーに座らされて、飲み物を持ってきてくれて、これをチェックしろって言うと、オーディオ・セットのほうに行って、何時間もB・B・キングやエリック・クラプトンを大音量でかけた。エリックのプレイの出どころを教えてくれてたんだね。夜のちょっとした授業だった。それに刺激を受けたオレは、その後、エピフォンを買いに行ったんだ」

105ページ: 他のメンバーに言ったんだ。「〈With a Little Help from My Friends〉を歌う歌手を「この人しかいません。ビリー・シアーズです!」って紹介する箇所では、ライブラリーにある観客の笑い声を使おう」って。

 これは超些細な間違いだが、笑うオーディエンスの音が聞こえるのはもっとずっと前の箇所で、タイトル・トラック〈Sgt. Pepper〉の第1ヴァースの後だ。
〈Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band〉の随所でオーディエンス・ノイズは聞こえてくるが、最後のほうでビリー・シアーズが出て来た後は、笑い声ではなくざわめきと大歓声だ。もちろん、几帳面なポールがここに入れるように最初に提案したのは笑い声だった可能性もあるが、ビートルズが最終的に使用したのは別の種類のオーディエンス・ノイズだった。

179ページ: 説明文には、〈For No One〉は1965年3月、オーストリアのアルプスで映画『Help!』の撮影中に書かれたとあるが、明らかに真実とは違う。この時点では、アルバム《Help!》のレコーディングすら終了していないのだ。この時点で存在している曲を《Help!》にも、1965年後半の《Rubber Soul》にも入れず、1966年の《Revolver》まで持ち越したなんて、あり得そうにない。ポールが1965年3月にこの曲を書き始め、完成に長い時間がかかった可能性もあるだろうが、この説明文も他の情報源もそうは言っていない。
 バリー・マイルズがマッカートニーの全面的な協力を得てまとめた本『Paul McCartney: Many Years from Now』(1997年)によると、この曲は「1966年3月に、ジェインと一緒にスイスのクロスタースにスキー旅行に行った時に書かれた」とあるので、ポールはこのスキー旅行と混同しているのだろう。同書の中でポールは「とても素敵なところだった。そこで〈For No One〉を書いたのを覚えている」と証言しているのだ。

  

185ページ: 〈From Me to You〉について、ポールはこんなことを語っている。「ロイ・オービソンとツアーをやってた時に、オレたちはこの曲を書いたんだ。全員が同じツアー・バスに乗っていて、お茶と食事のためにどこかにとまった。ジョンとオレはお茶を飲んだ後、バスに戻って曲を書いた。バスの通路を歩いていくと、後ろの席にはロイ・オービソンが黒い服に黒いサングラスって格好で座っていて、ギターを弾きながら〈Pretty Woman〉を書いていたっていうのは、21歳のオレには特別な光景だった。和気藹々とした雰囲気で、互いに刺激しあっていた。いつの時代でもこういうのって素敵だよ。ロイがオレたちにこの曲を披露しすると、オレたちは「いい歌だ、ロイ。イカしてるよ」って言い、今度はオレたちが「それじゃ、これを聞いてくれよ」って言って、ロイに〈From Me to You〉を披露した。これって歴史的瞬間だよね」

 素晴らしい話なのだが、オービソンとのイギリス・ツアーが行なわれたのは1963年5月18日〜6月9日である。ビートルズが〈From Me to You〉をレコーディングしたのは、ツアーの2カ月以上前の1963年3月5日のことだ。再び『Paul McCartney: Many Years from Now』を参照すると、もっと確実な日付が書いてある。バリー・マイルズは、この曲が作曲されたのは「1963年2月28日、ヨークからシュリューズベリーに移動するツアー・バスの中で」と書いている。ビートルズにとって初の全英ツアーだったヘレン・シャピロ・ツアーでの出来事だった。
 その後に行なわれたツアーで、レノンとマッカートニーが作曲中の歌をオービソンに披露したというのは、極めてあり得ることである。既に書き、レコーディングを済ませているだけでなく、ツアー中ずっとイギリスのチャートで第1位になっており、毎晩演奏していることも考えると、〈From Me to You〉もロイに歌って聞かせた可能性は高いだろう。『Many Years from Now』の中で、ポールは〈From Me to You〉についてこうも語っている。「その後、ロイ・オービソンとやった別のツアーのバスの中で、ロイがバスの後ろの席に座って〈Pretty Woman〉を書いているのを目撃した」 ポールの頭の中では、あるツアー中に〈From Me to You〉を書いたことと、数カ月後の別のツアーでオービソンが〈Pretty Woman〉を書いているのを目撃したことが、合体してしまったようだ。
 ちなみに、ロイ・オービソンが〈Oh Pretty Woman〉を録音したのは1964年8月1日のことである。こんなに強力なナンバーを1年以上も寝かせておくなんてあり得ないのではなかろうか。証明する術{すべ}はないのだが、あの時は、ロイは曲を書き始めていただけで、完成するのに長い時間がかかったという可能性もあるだろう。




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