2019年06月28日

マハリシの瞑想道場に潜入したKGBスパイ、ユーリ・ベズメノフ

 1970年にカナダに亡命したソ連のスパイ、ユーリ・ベズメノフの発言が、まさに現代の世界を言い当てているとして、最近、脚光を浴びてるようです。ググったら次のような記事が出てきました。

・34年前にロシアが企んだ“米国崩壊計画”、すべて現実化していた! 元KGBスパイが明かした「長期的イデオロギー破壊工作」とは!?
https://tocana.jp/2018/08/post_17904_entry.html

・元KGBが暴露した超効果的な“国民の洗脳方法”がヤバすぎる! 善良な左翼は「使えるバカ」、一方アメリカの洗脳方法は…!?
https://tocana.jp/2018/03/post_16371_entry.html

・国家転覆の方法 by 元KGB工作員ユーリー・ベズメノフ(トマス・シューマン)
https://ameblo.jp/millnm/entry-12184863749.html

 上記の記事は、恐らく、ベズメノフが1984年に答えたインタビュー↓を元にして書かれたもののようですが、私が聞き逃さなかったのは49:55付近から語られている内容です。なんと、ビートルズが1968年に行ったマハリシ・マヘシ・ヨギのアシュラム(瞑想道場)にベズメノフも潜入調査に行ったと証言しています。



 こんなことを言ってます:

 KGBはマハリシ・マヘシ・ヨギにも興味を持っていた。まあ、単なる巻き添えのようなんだけどね…。こいつは優れた宗教指導者、大ペテン師、いかさま師----どちら側から見るかによって、さまざまな解釈が出来る人物だ。ビートルズのメンバーがインドのハリドワールにあるこいつの道場{アシュラム}で瞑想の修行を行ない、ミア・ファロウやハリウッド出身の他の役に立ちそうな愚か者どもも彼の学校にやって来て、マリファナとハシシ、そして瞑想というクレイジーな思想で精神が完全に酔った状態で、アメリカに帰って行った。
 瞑想とは、言い換えると、自国の社会・政治的問題から自分を切り離し、自分の殻の中に閉じこもり、世界の問題を忘れてしまうことだ。KGBは愚かなアメリカ人のための洗脳センターとなってる素晴らしい学校に興味をそそられた。私はアメリカのどういう種類の重要人物がこの学校で勉強してるのかをチェックするために、KGBによって派遣されたんだ。


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● この写真の左の人物があなたですよね。

 そうだ。左に写ってるのが私だ。私はその学校に入学しようとしたんだが、残念なことに、マハリシ・マヘシ・ヨギの要求する金額が高過ぎた。入学したいなら500米ドル払えと言われたよ。でも、私の任務はこの学校に入学することではなかった。どういう種類の人間がアメリカからこの学校にやって来るのかを調べることだった。影響力のある、良い家柄の、オピニオン・リーダー的な人物が来て、インド哲学に関するクレイジーな話を頭に叩き込まれて帰国していることがわかった。
 インドの人々は彼らを役に立つ愚か者と見なしていた。KGBがそういう連中を極めて騙されやすい、誤って導かれた人間だと見なしてたことは、言うまでもない。例えば、国会議員の奥さんや、ハリウッドの有名人といったVIPは、その学校で訓練を受けると、世論を操作する者にとって、普通の人よりもはるかに役に立つ人間になるんだ。KGBはそれをよく理解している。この種の宗教修行を偽物と見抜く力がある。


● 彼らはどうして操作されやすいのでしょうか?

 さっきも言ったように、マハリシ・マヘシ・ヨギがアメリカ人に教えてることを注意深く見ればわかる通り、内省的な瞑想をやり過ぎると、問題の殆どが----今日の緊急を要する問題も----瞑想さえしてれば解決出来ると考えてしまうようになる。ボートを揺らすな。かかわるな。座って、瞑想しろ。そうすれば、宇宙の波動によってとかいう変てこりんなロジックで、全てが自然と解決する。
 これこそまさに、KGBとマルクス=レーニン主義者がアメリカにしたいプロパガンダだ。アメリカが抱える真の問題から自分の意見や注意、精神的エネルギーを逸らして、問題なんかない、世界なんかないって思い、存在しない調和を考えるようになってしまう。自意識のある、健康的な、健全な肉体を持って、現実に注意してるアメリカ人より、こうした間抜けなアメリカ人がたくさんいるほうが、ソ連にとっては都合がいい。
 マハリシ・マヘシ・ヨギはKGBの協力者名簿には載ってないが、こいつはアメリカ社会の混乱には大きな貢献をしている。本人にそのつもりがあるのかどうかは知らないけどね。しかも、マハリシだけじゃない。愚かで単純な国民から金を巻き上げるために、何百人ものグルがアメリカにやって来ている。これが今のトレンドさ。瞑想が流行。引きこもろう、が今の流行りなんだ。
 KGBがマハリシに興味を抱き、私がハリドワールに行く費用を負担し、私にあんな奇妙な任務をさせたくらいなんだから、KGBの連中は私の調査報告にうっとりしてたよ。アメリカを混乱させるのにはあの種の洗脳が非常に効果的で有用と、KGBは確信してたね。


   


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2019年06月08日

ジョージ・ハリスンとグレアム・ナッシュもその場にいた《Phil Spector’s Christmas Album》フォト・セッション

 今頃、この記事を紹介するのはタイミングをはずした感がパないですが、今年のクリスマス・シーズンが来たらもう1度読んでください。
 フィル・スペクターがプロデュースしたクリスマス・ソングを集めた《A Christmas Gift For You From Phil Spector》は1963年のクリスマス・シーズン用に発売されたレコードですが、フィルが《Let It Be》やジョン、ジョージのソロ作をプロデュースしたのが縁で、1972年にはアップル・レーベルから再発されることになりました。その際、タイトルは《Phil Spector’s Christmas Album》となり、新しいジャケットも制作されました。今日、紹介するのは写真家が語るそのフォト・セッション秘話です。
 《Phil Spector’s Christmas Album》はビートルズのメンバーが参加してないのに、アップル・レーベルということで中古盤屋では高値が付いていた記憶がありますが、少し前に(といっても、21世紀になったかならないかの頃)どこかの倉庫からデッドストックが大量に発掘され、それが中古市場に出回って値段は暴落。私はこのタイミングで、未使用状態のイギリス盤を2,000円前後で手に入れました。


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ジョージ・ハリスンとグレアム・ナッシュもその場にいた《Phil Spector’s Christmas Album》フォト・セッション(1972年)

文:クライヴ・アロウスミス



 聞き慣れたリヴァプール訛の楽しそうな声が受話器から聞こえてきた。「クライヴ、フィル・スペクターの《Christmas Album》のジャケット写真をキミに撮ってもらいたいんだ」 聞き慣れた声の主はジョージ・ハリスンだった。もちろん、喜んで承諾した。クリスマス・ツリーを背景にフィルの写真を撮影してもらいたいとのことだった。ジョージとフィルが親しくなったのはビートルマニア全盛の頃だ。その頃はフィルも「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる音楽プロダクションで有名だった。

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 2人の才能豊かな伝説の音楽家と仕事が出来るのは本当にありがたいことだと、私は感じていた。撮影はロンドンのスタジオで行なわれた。ジョージとフィルは一緒に到着し、フィルは少しなよなよふらふらしているようだったが、ジョージにドレッシング・ルームに連れて行かれて、そこで、スタイリストにサンタクロースの衣装を着せてもらった。その間、ジョージは隅に座って、数珠を持ちながらハリー・クリシュナのお経を唱えていた。

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 撮影セットには、クリスマスの飾り、クリスマス・ツリー、カラフルな照明、さまざまな神像等、ありとあらゆるクレイジーなものが用意されていた(写真をよく見てただきたい)。私は星がキラキラ輝いてるような効果を出すフィルターを使って、さらにクレイジーなキッチュ感を出そうと考えた。サンタクロースの格好をしたフィルの写真を他にも何枚か撮影した。その時、私はブランデーのボトルを手離せなかった。ジョージとフィルと一緒に仕事をしているということで、超緊張していたからだ。ジョージとは知り合いだ。大好きな人物だ。しかし、ジョージは今でもなお、元ビートルズのジョージ・ハリスンなのだ。私は最初の20分は大丈夫だったのだが、そのうち心を落ち着かせてくれるものが必要となってきた。
 私はセット作りと照明の調整で忙しかった。それに夢中になっていた私は、ミスター・スペクターの体調がすぐれていないことにあまり気づいていなかったのだが、実は、サンタクロースの衣装を着るだけでも相当苦労していたようなのだ。私はマルチカラーのクリスマスの照明をフィルムに収めたかったので、それがフラッシュライトで帳消しにされてしまわないようなやりかたで撮影する必要があった。フラッシュを使うとなると、これには絶妙なタイミングを要する。フィルはプロデュースの巨匠なので、写真撮影の技術的側面も十分理解してくれるだろうとは思っていた。実際、私は技術面の会話をすることで、自分とフィルの間の緊張がいくらか解{ほぐ}れるのを期待していたのだ。
 私の助手たちがフィルを支えながらセットに連れて来て、木の前に立たせた。この時、フィルの体調が少々レイドバックしているどころの話ではないのに私は気づいていなかったのだが、知らぬが仏とはまさにこのことだった。私は「フィル、メインライトのフラッシュが炊かれてから、(半分暗い状態で)私が10秒数えます。そうすると、キラキラ状態をフィルムに収めることが出来るんです」と指示を出した。シナリオ通りだ。フィルも「ああ」と言ったので、全てが順調だと思っていた。

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 照明が消えて、私は数を数え始めた。「千、2千…」 口から「3」という言葉が出かかったまさにその瞬間、バタンと派手な音がした。超恐ろしいことに、フィルが前に倒れたのだ。極めて不思議なのだが、手を前に出して身をかばおうともせず、人形のように顔からバタンと倒れていた。薄暗い中、私はフィルのそばに駆け寄った。ジョージも私のすぐ後ろにいた。私はスタジオの床の上にあるフィルの顔の横に自分の顔を置いて、様子をうかがった。その間、アシスタントがスタジオのメインライトをつけた。目の前の光景は奇っ怪を超越していた。「フィル!!!大丈夫??」と私は叫んだ。意味深長な一時停止以上の時間が経った後、彼の目はゆっくりと開き、口はこう言った。「大丈夫だ」 しかし、彼の不明瞭なしゃべり方のせいで、この言葉は子犬のワルツのように聞こえた。
 フィルが続けようと言ったので、ジョージと私は笑い始めた。この笑いは、フィルの言葉からよりも、私の側の安堵から出た割合ほうが多かったに違いない。フィルは誰かの支えなしに立っていることが難しいようだったので、私のアシスタントが床に厚板を打ち付けて、さらに、それに箒を打ち付けて、ブラシのほうにフィルが寄りかかれるようにして体を支えた。私は試行錯誤の後、どうにかジャケット写真をものにした。このとてもキッチュなアルバム・ジャケットに使われた写真をだ。
 後日、私がこの撮影のことを、当時の愛妻、ローズマリーに話すと(彼女はクリスマスツリーやセットを整えるのを手伝ってくれた)、彼女は私にこんなことを思い出させてくれた。私が撮影中の殆どの時間、(真偽のほどは不明なのだが)ミック・ジャガーが被っていたという白いトップハットを被っていたというのだ。それは写真の中ではフィルの後ろにあるのだが、ジョージがこの帽子を持って来て、持って帰った。それから、私は撮影中、妻のおしゃべりの相手をあのグレアム・ナッシュにお願いしていたらしい。フィルが倒れたという恐ろしい出来事のおかげで記憶が全部吹き飛んでしまったため、私はこのことは覚えていないのだが…。
 フィルの人生がこの後、下降線をたどっていったことについては悲しみを感じ、彼の手にかかって命を失った若い女性の家族に対しても哀悼の意を表する。フィルの人生が順風満帆でない兆候は1972年にもあった。名声は酷いやり方で世界を歪めてしまう。人間は簡単に傲慢の中に捕まってしまう。私は酒とドラッグをやめて、あの時代に死なないで済んだ自分をラッキーだと思う。ジョージ・ハリスンへの感謝の気持ちは小さくはない。その日、ジョージがお経を唱えているのに気づいた私は、「それはオレの助けにもなるのかなあ?」と訊いてみた(その時、私はかなり酔っぱらっていて、正常な判断が出来る状態ではなかった)。すると「もちろんだよ、クライヴ」という言葉が返ってきた。翌日には、ジョージのアシスタントが、お祈り用の数珠と宝石がちりばめられたバガヴァッド・ギーターの本、そして、「Hareはハリーと読んでください」という手書きのメモを持って、拙宅の玄関先に現れた。これがきっかけとなって、私は精神的インスピレーションを求めて東洋に目を向けるようになった。
 その点で、私はジョージから多大な恩を受けている。チベット仏教を信仰し、 キョングラ・ラト・リンポチェ師と出会うことにつながる道を歩むことになったのも、ジョージのおかげだ。ジョージはとても心の広い人物だった。あの時は、私とフィルを手助けしようと頑張ってくれた。ソーホーのスタジオでジョージとフィルと過ごしたあの奇妙な日が、私の人生を良い方向に変えた。ジョージに神の祝福があらんことを。そして、私からは永遠の感謝の気持ちを贈りたい。

The original article “Back To Mono – The Phil Spector Christmas Album photo session with George Harrison and Graham Nash (1972)” by Clive Arrowsmith
https://clivearrowsmith.org/2018/12/24/back-to-mono-the-phil-spector-christmas-album-photo-session-with-george-harrison-and-graham-nash-1972/
Reprinted by permission

  
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2019年06月02日

ジョージをラヴィ・シャンカールに引き合わせた夫婦

 今週の金曜日(6/7)からラケーシュ・チョーラシアの日本ツアーが始まります。ラケーシュは、ビートルズの〈The Inner Light〉でインドの横笛(バーンスリー)を演奏しているハリプラサド・チョーラシアの甥で、彼もバーンスリーの演奏家です。公演の日程やチケット等はこのWebページを参照してください:

https://www.flute-rakesh-japan2019.com/

 今日はインドとビートルズに関連した記事を紹介します。


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ジョージをラヴィ・シャンカールに引き合わせた夫婦
文:アヌ・クマル


 ジョージ・ハリスンのシタール熱が最高潮に達したのは、1966年6月にラヴィ・シャンカールと会った時だった。ビートルズのメンバーとシタール奏者との会見は、ロンドンのヘムステッドにあるアヤナ・デヴァ&パトリシア・アンガディ宅で実現した。カルナータカ州ベルガウム地区出身のアヤナと妻パトリシア(旧姓フェル=クラーク)は、1946年にエイジアン・ミュージック・サークル(以下AMC)を設立し、自宅をその事務所としていた。ここは元はパトリシアの実家だったのだが、20年以上に渡って、AMCはインド出身のミュージシャンが集まる拠点として機能しており、インド人音楽家が西洋(まずは主にイギリス)に紹介され、演奏する機会を得たのは、AMCの尽力のおかげだった。
 アンガディ夫妻が世話をしたアーティストには、ラヴィ・シャンカールの他に、アリ・アクバル・カーン、ヴィラヤット・カーン、アラ・ラカ、チャトゥール・ラルらがおり、バイオリニストのユーディ・メニューインや作曲家のベンジャミン・ブリテン、バレエ・ダンサーのベリル・グレイといった大物アーティストがAMCにかかわっていたおかげで、この組織は立派な社会的地位と信用を得て、活動範囲も広まった。

ロンドンのインド人

 アヤナ・デヴァ・アンガディはカルナータカ州北部のジャカヌール村出身で、ロンドンには1924年にやって来た。一説によると、彼がイギリスにやって来たのは、インドの公務員試験の受験準備のためだったという。しかし、レイ・ニューマン著『Abracadabra: The Complete Story of the Beatles' Revolver』にも引用されている息子シャンカラの発言によると、アンガディがロンドンに来たのは「数学の学位を取るため」だったらしい。彼はボンベイ大学では数学を学ぶ学生だった。
 しかし、アンガディは急進的左翼のグループと関わり始め、まずはトロツキストになり、次にCLR・ジェイムズの革命的社会主義者同盟に参加した。1930年代〜1940年代前半の反共産主義のヒステリアの中では、アンガディはラジ・ハンサというペンネームを使って理想のための論考を執筆した。CLR・ジェイムズによると、スターリンを支持していなかったラジ・ハンサは「モスクワ裁判」----政敵を粛清するためにスターリンが利用した裁判とは名ばかりの茶番劇----の話題を無理矢理取り上げさせるために、グレート・ブリテン共産党の集会やもっと真剣度の高い左翼集会を混乱させたことで有名だった。
 1993年にアンガディが死去した際にマスコミに掲載された死亡記事には、故人の人生に関するもっと詳しい情報が載っていた。『オブザーヴァー』紙に掲載されたレジナルド・マッシーによる記事は、アンガディーが別のペンネームも持っていたことを明らかにしている。彼はジャヤ・デヴァという名前で政論に関する本を出しており、第2次世界大戦中、日本が枢軸国の1つとして優勢だった1943年には『Japan's Kampf』という本を出版した。左翼系出版人ヴィクター・ゴランズによって出版されたこの本を、アンガディは1939年に出会った女性、パトリシア・フェル=クラークに捧げている。ふたりは彼女の両親に反対を押し切って1943年に結婚した。

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ラジカルな夫婦

 パトリシア・フェル=クラークはアヤナ・アンガディより10歳年下だった。1913年生まれの彼女は、幼少の頃は自宅で家庭教師がつき、少し大きくなったら私立学校に通い、そして最後はヨーロッパのフィニッシング・スクール[良家の子女が社交界にデビューするための仕上げ教育をする私立学校]に行くという、イギリスの上流階級のやり方で教育を受けていた。彼女は極めて才能のあるアーティストであり、エイジアン・ミュージック・サークルの設立メンバーとなった他に、後には小説を書いたり、学校で演劇や音楽を教えたりもした。
 政治活動に熱心だったアンガディは殆ど定職に就くことはなく、階級や人種も異なっていたため、フェル=クラークの家族からは気に入ってもらえなかった。ふたりが結婚した時には、彼女の親族からは、昔の子供時代の家庭教師以外は誰も式に出席しなかった。
 ふたりがエイジアン・ミュージック・サークルを自宅で開始したのはその3年後だった。フェル=クラークの家族もその頃にはふたりの結婚を認めており、屋敷の最上階を彼らの居住空間、兼、AMCの本部として使い、ここから次の25年間、彼らは人生の次のミッションを展開した。ヨガの導師{グル}BK・アイアンガーは、AMCの後援で、その裏庭で初めてのセッションを行なっている。
 ジョージ・ハリスンがAMCとのコネを作ったのは1965年のことだった。映画『Help!』の撮影中(公開は1965年)に初めてシタールに遭遇したジョージは、レイ・ニューマンの本によると、ロンドンのインド雑貨の店で比較的安価なシタールを購入し、それを使ってアルバム《Rubber Soul》に入っているレノンの曲〈Norwegian Wood〉のために簡単なフレーズを弾いた。
 逸話によると、アビイ・ロード・スタジオでこの曲をレコーディングしている時に弦の1本が切れてしまい、直す必要が生じたらしい。そして、次に何が起こったのかについては2通りの話が存在する。インド大使館に問い合わせたところ、AMCが弦の交換に関して力になってくれるかもと教えてくれた、というのが1つ目の話だ。一方、ニューマンの本では、サークルに問い合わせてみるようアドバイスを与えたのはプロデューサーのジョージ・マーティンとなっている。彼は以前、ピーター・セラーズの《Goodness Gracious Me》のレコーディング・セッション用に、AMCとアンガディに助けを求めたことがあった。

友情を育む

 ハリスンはAMCから必要な援助をしてもらい、間もなく、そこの常連になった。アンガディ夫妻はアビイ・ロードで行なわれているビートルズのレコーディング・セッションに招待され、パトリシア・アンガディはそこでハリスンとレノンをスケッチしたと言われている。アンガディ夫妻がハリスンとパティー・ボイドと一緒に写っている写真は、これが唯一のものである。下の写真にあるように、パトリシアは自宅でパティーとジョージの絵を描いた。

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 1965年夏、大成功に終わった全米ツアーの際に、ハリスンとビートルズの他のメンバーはザ・バーズのデヴィッド・クロスビーとロジャー・マッギンからラヴィ・シャンカールの音楽を紹介されていた。ちょうどこの頃、ロサンゼルスでは、ドン・エリスとハリ・ハル・ラオがヒンドゥスターニ・ジャズ・セクステットのメンバーとして演奏活動を開始していたが、エリスとハリスンが会った可能性は低い。しかし、後になってシャンカールとハリスンの間で育まれたコラボレーションを、エリスはよく知る者となる。ハリスンとシャンカールが1974年にカリフォルニアを訪れた直後に、エリスはハリスンに記念すべきインタビューを行なっている。



 そして、ビートルズがアメリカから帰国してしばらく経った後の1966年6月に、遂にその時がやって来た。アンガディ宅でのディナーにハリスンがポール・マッカートニーと一緒にやって来た時、ラヴィ・シャンカールも特別ゲストとしてそこに居合わせていたのだ。ジョージとラヴィの初対面は、その後、大きな伝説にまでなった友情の始まりとなった。実際にジョージにシタールを教えたのは別のシタール奏者だった(時の経過で名前はわからなくなってしまった)と考える音楽史研究家も多いのだが、ジョージがヒンドゥー教や瞑想、そして、その後のアルバムでのシタールの導入など、さまざまなインド的モチーフを実験的に用いたのは、シャンカールとの交遊関係のたまものである。

時代の終焉

 ハリスンの興味をよく反映している曲は、ヒンドゥスターニ古典音楽のリズムでシタールで演奏されている〈Love You To〉であり、エイジアン・ミュージック・サークルのアニル・バグワットがタブラで伴奏を務め、アルバムにもクレジットされている。AMCのミュージシャンが再び参加しているのは、1967年に発表されたアルバム《Sgt. Peppers' Lonely Hearts Club Band》に収録されているハリスン作の〈Within You, Without You〉だ。インドの楽器を演奏しているミュージシャンはクレジットされておらず、誰が参加しているのかはずっと不明のままだったが、2017年6月にリヴァプール大学の研究者によって遂に突きとめられた。マイク・ジョーンズ博士によると、故アンナ・ジョシと故アムリット・ガジャールがディルルバ、ブッダデヴ・カンサラがタンプーラ、ナトワール・ソニがタブラを演奏しているとのことだ。最後のふたりは80代で存命だ。
 アヤナ・アンガディが1970年前半に故郷の町、ジャカヌールに帰ると、間もなく、AMCは解散してしまった。レジナルド・マッシー著『Azaadi: Stories and Histories of the Indian Subcontinent After Independence』によると、アンガディはこの町で地方開発プロジェクトに取り組み、1993年にこの地で没している。
 一方、パトリシア・アンガディは4人の子供とともにロンドンにとどまった。彼女は小説家としての新しい人生を見つけ、70歳の時に処女作『The Governess』を書き、1987年発表の『The Highly Flavoured Ladies』(1987年)は高い評価を得た。時間的には100年の隔たりがあるが同じ家で暮らした2つの家族を描いたこの小説は、パトリシア・アンガディが自宅で送っていた共同生活を彷彿させる。その後すぐに発表された『The Done Thing』は半自伝的なものだった。生まれながらにして昔風の、心を押し殺した無口な少女が、インド人らしき登場人物と恋に落ち、結婚20年目にして本当の自分を見つけて解放されるという話だ。
 『Playing for Real』(1991年発表)等のパトリシア・アンガディの小説は「大部分は鋭い筆致でよく書けているが、感傷的な話も多数含まれている」という評判だ。彼女は2001年に亡くなった。彼女の回想録は未発表のままだが、エイジアン・ミュージック・サークルに関連した話がたくさん含まれているに違いない。

The original article "George Harrison Ravi Shankar Asian Music Circle Music Beatles History" by Anu Kumar
https://scroll.in/magazine/881709/how-an-indian-man-and-his-english-wife-introduced-george-harrison-to-ravi-shankar-to-create-history?fbclid=IwAR0t0j6iB6-CoUcGisFfEJdGCpkcBb4BXpB9UJEtMLgq72xrWFBgGBsCdN8
Reprinted by permission

  
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