2016年02月02日

エレファンツ・メモリーのベーシスト、ゲイリー・ヴァン・サイオック、ジョン&ヨーコを語る

エレファンツ・メモリーのベーシスト、ゲイリー・ヴァン・サイオック、ジョン&ヨーコを語る

聞き手:ボブ・ウィルソン(L4LM)


 ジョン・レノンがニューヨークに渡って反体制派の活動家と交流していた頃の様子はジェイムズ・A・ミッチェル著『The Walrus and the Elephants: John Lennon's Years of Revolution』に詳しいですが、その日本語版『革命のジョン・レノン: サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』が発売されたのと時を同じくして、Live For Live Music(L4LM)にはこんなインタビューが掲載されました。

   

 エレファンツ・メモリーは1970年代前半に、ジョン・レノンがニューヨークに引っ越した直後にしばらく一緒に活動していたローカル・バンドで、アルバム《Sometime In New York City》や数々のテレビ出演、ワン・トゥ・ワン・コンサートでレノンのバックを務めています。下の写真のジョンの後ろのベーシストがゲイリー・ヴァン・サイオックです。

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どういう経緯でエレファンツ・メモリーに加入したのですか? このバンドはどういういきさつでジョン&ヨーコとプレイするようになったのですか?

 エレファンツ・メモリーに入った時、オレはまだ24、5だった。こいつらは政治的にはラジカルで、ストリート・テイスト溢れるバンドだった。オレはヴィレッジ・ヴォイス紙に載ってたメンバー募集の告知を見て応募して、マクシズ・カンザス・シティーでオーディションを受けたんだ。実際のショウがそのままオーディションだったよ。それで、加入ってわけさ。オレには〈The Fife Piper〉っていうヒット曲もあったし、セーレム州立大の音楽学部にも通ってた。エレファンツには1枚ゴールド・レコードがあって、アンダーソンやフィルモアといったニューヨーク・シティーのシアターで演奏して有名になったていた。

ジョン&ヨーコはどのようにしてあなたがたのことを知って、数年間、演奏活動をともにするくらい気に入ったのでしょう?

 ジョン&ヨーコはグリニッジ・ヴィレッジのバンク・ストリートのアパートメントで暮らしていて、オレたちはその1.5ブロック先でレコーディングやリハーサルをやってたんだ。イッピーのジェリー・ルービンがギグをよく見に来ていて、こいつがオレたちのことをふたりに話してくれたんだ。ハイ・タイムズ・マガジンのトム・フォーティンもよく来ていた。ジェリー・ルービンがWLIR用にレコーディングしたライヴ・テープをふたりにあげたんだ。運命の介在っていうのは奇妙なもので、ある晩、ジョンはヨーコと一緒にマグナ・グラフィック・スタジオに来たんだ。ふたりはひょいと現れた。こっちはず〜っと待ち続けてたんだけどね(笑)。ジョンは白のスーツを着てた。《Abbey Road》のジャケットを着てたものかもしれないな。その時はただ、楽しく会話をしただけ。ヨーコはプラスティック・オノ・エレファンツ・メモリーの頭文字を取るとP・O・E・Mになるのを気に入ってたね。

ジョンが《Abbey Road》のスーツを着てひょいとやって来て、隣にはヨーコがいて、しばらく会話をして、その次は?

 夜10時から朝4時くらいまでジャムったんだ。皆で演奏出来ないだろうかって、ジョンがお願いしてきたんだよ。〈Dizzy Miss Lizzy〉とかエルヴィスの歌とかリトル・リチャードの歌とか、たくさんの名曲を演奏した。そして、終わった時に、ジョンが言ってきたんだ。オレたちもバンドに入れてくれないかって。オレは思った。これが現実に起こってることなのかなあって。

答えを出すのにどのくらい時間がかかりましたか?

 オレはためらったほうの口だった。アップルの本拠地はニューヨークじゃないだろ。地元のレーベルのほうがいいんじゃないかと思ったんだ。それに、オレはアンクル・ベンズ・ライスとかのCM音楽を担当して、いい金を稼いでたんだ。ジョン&ヨーコと活動をするとなると、ツアーにも出なきゃいけなくなって、そしたら、オレはコマーシャルの仕事をやめなきゃいけない。その頃には既にウィル・リーがニューヨークに来ていた。次に引っ張りだこのプレイヤーになったのはこいつだった。

ジョン&ヨーコと一緒にプレイするのはどんな感じでしたか? あれこれ注文の多いタイプでしたか? エレファンツ・メモリーらしさを出すゆとりを与えてくれましたか?

 オレたちを信頼してくれた。これ以上ステキなことはないよ。ジョンはオレたちに白紙委任状をくれたんだ。あんなにやさしい人はいない。メンバーの誰かが文句を言ってたって記憶は全くない。オレたちは経験豊富なスタジオ・ミュージシャンであって、デヴィッド・ピールのようなストリート・ミュージシャンじゃない。別にデヴィッドの悪口を言ってるんじゃないよ。ただ区別をしてるだけさ。デヴィッドのことは大好きだし。

  

ジョン&ヨーコが合流して、実際の演奏活動はどのようにして開始したのですか?

 2週間、毎日午後7時にレコード・プラントに通った。1日に1曲ずつ録音していった。どんな曲でも、ジョンはせいぜい3テイクしかやりたがらなかった。フレッシュさを保ちたかったんだろう。《Some Time In New York City》はそういうふうにしてレコーディングしたんだ。

レコーディング中、ジョン&ヨーコは人目を引く存在だったんじゃないですか?

 カーリー・サイモンが立ち寄った。彼女はしばらくエレファンツ・メモリーにヴォーカリストとして在籍してたんだ。ルドルフ・ヌレエフも来た。ジャッキー・ケネディーも。

ジョン&ヨーコが1週間、マイク・ダグラス・ショウを占拠したことがありました。番組収録に参加して、様子を間近で観察していて、どうでしたか?

 ジョンがチャック・ベリーに会ったのは、あの時が初めてだったんだ。オレたちはフィラデルフィアのベン・フランクリン・ホテルに泊まってたんだけど、宿泊費が凄いことになっていた(笑)。チャックは、ビートルズが彼の曲を使ったのに印税が支払われてないことに少し怒ってたんだけど、すぐに機嫌を直してしまった。2人のスーパースターが一緒にいるのを見るのは壮観だったね。チャックはジョンのアイドルだから、ガキのようだった。ワクワクしたね。



チャック・ベリーに関して他にどんな思い出がありますか?

 チャックが主導権を握ってて、リハーサルではあるキーだったのに、本番じゃ別のキーで演奏しちゃったんだ。ジョンはそういうのに慣れてなくて混乱してた。でも、ジョンは超いい人だから、最後までそれでやってくれたよ。チャックはエレファンツ・メモリーを気に入ってくれて、一緒にツアーをやったくらいさ。ジョンは労働ビザを持ってなかった。オレたちはチャックと《Bio》ってレコードを録音した。ウェイン・「テックス」・ゲイブリエルがこのアルバムではリード・ギター・ソロを弾いてるんだ。チャックが自分のスタジオ・トラックで誰かにそんなことやらせたのは、この時だけだよ。〈Woodpecker〉ってインストゥルメンタル曲だった。チャックはオレたちとジャムるのが好きだった。

 

ジョンは自分のバンドを取られてしまって面白くなかったんじゃないですか?

 ノー・プロブレムだったよ。ジョンがやったのはテレビやチャリティー・コンサートやそういう類いのものだけだった。労働ビザを持ってなかったからね。オレたちがアンダーソン・シアターでチャック・ベリーとボ・ディドリーと一緒にコンサートをやった時には、ジョン&ヨーコは2列目で見てたんだよ。

政治活動家との交流がジョン&ヨーコにとって深刻な問題になり始めたのはいつからなんですか? 反戦を訴える抗議活動をやったり、マイク・ダグラス・ショウに急進的な活動家を呼んでしまったりしたことが、当局の機嫌を損ねたのでしょうか?

 1972年にはジョンは多くの政治活動家と関係を持っていた。ジョン&ヨーコと一緒に活動をしていた時期には、ほぼずっと、オレの電話も盗聴されてたんだ。FBIがオレの電話を盗聴するために、オープンリール式の録音システムをオレが住んでる建物に持ち込んでいた。「クリック音」が聞こえてたよ。ああいう帽子をかぶったGメンがオレたちを尾行していた。ボブ・グルーエンまで追いかけてたんだぜ。今となっては、Gメンに目を付けられてた時代のことは笑っちゃうけどね。こいつらはジョンが気に入らず、ジョンを国から出て行かせようとあらゆることをやっていた。

当時、あなたがたに対して他にもどんな謀略が行なわれてたんですか?

 あの頃は仕事が忙しくて、仕事を一生懸命やってたから、そっちのことはあまり気にかけてはいなかったよ。でも、デンヴァーでは銀行強盗として逮捕されるなんてことがあったんだ。すぐに釈放されたんだけど、何かうさん臭さを感じたね。仕組まれてたことのようだった。

ワン・トゥ・ワン・コンサートの(リハーサルの)ブートレッグが出回りましたが、どういう経緯で音源が漏れたのかご存じですか?

 全然知らない。バタフライ・スタジオにはモービル・トラックがあって、リハーサルから何から全部録音してたんだ。オレの想像なんだけど、そこにいた誰かが外部の奴にテープを渡したんじゃないかな。



ワン・トゥ・ワン・コンサートは、ジョンがビートルズ解散後に行なったコンサートを唯一フルで収録した歴史的な価値の高い記録です。それに関与することが出来たことを、どう感じますか?

 DVDとCDが出たけど、今は廃盤だ。再リリースしてほしいよ。ヨーコがぐずぐずしてるんじゃないかな(笑)。5年おきの活動周期のようだから。

  

ヨーコのアルバム《Approximately Infinite Universe》のレコーディングの様子をお聞かせください。

 《Approximately Infinite Universe》はヨーコの最高傑作だ。ジョンもずっとコントロール・ルームにいた。単なるポップ・レコードじゃない。ベテランのスタジオ・プレイヤーが集まって作ったまさに名盤というべきアルバムだ。

最近はヨーコとよく顔を合わせますか?

 たまにだね。2010年にはマイケル・エプステインが作った映画『LENNONYC』のプレミア上映の時に会ったよ。オレとヨーコの間には何の問題もない。

マイケル・サントとローラ・リニーがセントラル・パークにジョンを記念した平和の像を立てようと努力してますが、あなたもそれに賛同していますか? そこにはまだ、今のところ、そのようなものはありませんが、単にジョンをアイコンにするのではなくて、平和運動を記念するものなので、ジョンも気に入ってくれると思うんですけどね。

 そのアイデアは本当にいいと思うけど、ちょっと論争の的になってるようだね。オレは実現して欲しいと思ってる。

あなたがジョンと親しく音楽活動をともにしてる間、ジョンとビートルズの元メンバーとはどんな関係でしたか?

 マスコミはレノンとマッカートニーが大ゲンカしてるように報じてたなあ。ヴィレッジ・ヴォイス紙は両者がいがみ合ってるように書いてたし。《Sometime In New York City》をレコーディングしてる時、ポールから2、3度電話がかかってきて、そんな時は全ての作業が中断さ。ふたりは1時間以上、談笑してたよ。兄弟で言い争いになったって、兄弟は兄弟だ。

エレファンツ・メモリーは1973年に行なわれたクルーズでジェリー・ガルシア・バンドと共演しています。その時の思い出話をお聞かせください?

 あれはS・S・ベイ・ベル号上で行なわれた「ヘルズ・エンジェルズ・パイレーツ・パーティー」だった。このボート上の音楽イベントに、メンバーは自分の奥さんも連れてった。ウィリー・ネルソンも乗船して演奏した。マンハッタン島を10周したよ。このシーンは『Hell's Angels Forever』っていうドキュメンタリー映画(1983年公開)にも収録されている。「ドゥービー」を吸って超楽しかった。ヘルズ・エンジェルズがスポンサーで、連中はオレたちを丁重にもてなしてくれたよ。

エレファンツ・メモリーがジョン&ヨーコと別れた理由は何ですか?

 エレファンツ・メモリーと別れたっていうより、ジョンとヨーコが別れたんだよ。ジョンは「失われた週末」ってやつに突入したんだ。ニクソンが大統領に再選された時、ジョンはガッカリして、心が折れちゃったんだ。ジョンから手紙をもらったよ。インターネットでその偽物を見かけるけど、オレはオリジナルのものを額に入れて取ってある。ジョンがロサンゼルスにいる時に、アップルは10万ドル相当の機材を回収ようとしてたんだ。ジョンはオレに気を落とすなって言った。「象の記憶(エレファンツ・メモリー)と同じくらい人生も長いんだから」って言いながら。

Copyrighted article "John Lennon's Bassist Gary Van Scyoc Discusses Life With John And Yoko"
http://liveforlivemusic.com/features/john-lennons-bassist-gary-van-scyoc-discusses-life-with-john-and-yoko/
Reprinted by permission


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2016年01月09日

カルカッタでジョージを怒らせた私

カルカッタでジョージを怒らせた私
〜3番目のビートルズとのほんのちょっとの出会い


文:C・Y・ゴピナート


 ジョージ・ハリスンが怒り心頭状態なのは、私を睨みつけるその表情からわかりました。口をギュッと結び、とても腹を立てているようでした。
 私達はカルカッタにある古いアパートメント・ビルの8階のエレベーター・フロアで立っていました。1976年のことでした。ジョージの後ろでは、彼が泊まっていた部屋のドアが閉まっていました。私達の前には旧式のエレベーターの格子ドアがありました。エレベーターはクランクが回る音を立てながら、1階からゆっくりと、各階で停止しながら上がってきます。私達のいる階に到着するまで、少なくとも5分はかかるでしょう。私は5分間、ジョージを独り占めです。彼にお願いしたいことがひとつだけありました。

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【ジョージとウダイ・シャンカール 1974年に撮影されたもののようです】


 私はジュニア・ステイツマンという若者向けの新聞の記者をやっていて、その日の朝はいつも通り平穏に始まりました。ところが、午前11時くらいに、突然、編集長の部屋に呼び出されたのです。デスモンド・ドイグはアイルランド人で50代でしたが、30歳以上の人が誰もいないこのオフィスの中で、精神的には最も幼い人物でした。彼はとてもシリアスな雰囲気を装っていましたが、それはとても興奮している証拠でした。彼はそういう気持ちを隠せない人だったのです。
 「噂によるとですね〜」 デスモンドはメロドラマ風に言いました。「ジョージ・ハリスンという人物が、今、まさにこの町のどこかにいるそうなんです。しかも、噂によると、明日にはもういなくなってしまうのだとか。ヴァラナシに行くのではとささやかれています。本日のキミの仕事は、この人物を捜し出してインタビューし、生涯のスクープをものにすることです」
 スタートはこんな感じでした。

 カルカッタは大きな町ではありません。皆が皆を知っている状態です。まだインターネットもショート・メッセージ・サービスもWhatsAppもなかった時代ですが、私は目ぼしい数カ所に電話をかければ重要な情報にヒットすると思っていたのです。まずは、活躍中のロック・ミュージシャンたちに電話をかけることにしました。
 電話をかけるには、まず、親紙であるザ・ステイツマンの電話交換手を呼び出さなければなりませんでした。その日、当番だったオペレーターは、ステキな声のシンシアただひとりでした。私は毎回ここを通すことで、自分の電話の優先度をアップさせていました。シンシアはやさしい人でした。それに、私はシンシアに気に入られているようでした。
 彼女に繋いでもらって電話をかけた先は、伝説的グループ、グレイト・ベアのドラマー、ノンドン・バグチ;同バンドのギタリスト兼シンガー、故ディリップ・バラクリシュナン;別のグループのベーシスト、ルー・ヒルト;ジャズのマエストロ、ルイス・バンクス;別のジャズ演奏家、A・ブラガンザでした。彼らの多くは明らかにラリっていました。朝寝してるところを起こしてしまった人もいました。しかし、ジョージ・ハリスンが町に来ているのに、誰もそれを教えてくれなかったことに、少し傷ついている様子だったのは、皆共通でした。
 「ナイトクラブにかけてみたら。ジョージがどこかに来る予定が入ってるかもしれないよ」と記者仲間が入れ知恵してくれました。グッド・アイデアだ! 私はトリンカ、ムーラン・ルージュ(フランスのではなくて、ベンガル人が勝手に真似したものです)、モカンボに電話をかけました。しばらくして、こんなことしても何の埒も明かないことに気づきました。
 昼時になっても、私はジョージ・ハリスンを見つけるという目標に一歩も近づけていませんでした。取材が得意な記者という私の仕事は危機にさらされていました。鋭い取材を行なうジャーナリストという自尊心、威厳、評判も同様でした。私はランチを食べようと、しょんぼりした気分で下のスタッフ用食堂に行きました。

 ひとつだけ空いていた席に座ると、反対側にいたのは気難しいインド舞踊評論家でした。メインの新聞の記事執筆者の中でも、このインド舞踊評論家は一番の嫌われ者でした。彼は人をバカにした態度で大袈裟なことを言う、簡単な言葉で言うと、嫌な奴でした。
 「大したプリマドンナだよ!」 カレースープをズーズーすすりながら、こいつは文句を言ってました。
 「誰がですか?」と私は何の気なしに訊きました。
 「あの一家全員さ!」とこいつは語り始めました。「ひとりが音楽家で、もうひとりが舞踏家だからって、自分らは背後からお天道様に照らされている存在だ、約束なんか守る必要ないって思ってるのさ。だが、私の辞書では約束は約束だ」
 「約束をすっぽかした音楽家と舞踏家のいる一家って誰なのですか?」と私はぼんやりしながら訊きました。
 「シャンカール家の連中だよ!」こいつはお椀の中にパンを叩きつけ、そこらじゅうにスープを飛び散らかしました。
 「ラヴィ・シャンカールですか?」 私は突然、シャキッとなった。ジョージ・ハリスンがラヴィ・シャンカールを師として慕い、彼からシタールを習っていることは、皆が知っていました。
 「いや」と舞踏評論家は腹を立てながら言いました。「キミらジャーナリストは何も知らないんだね。ラヴィ・シャンカールはカルカッタじゃなくて、ヴァラナシで暮らしているよ。私が言ってるのは、兄のウダイ・シャンカールのことだよ。舞踏家の」
 「その人があなたの約束をすっぽかしたんですね?」
 「その通り」 舞踏批評家はしかめ面で言いました。「特別な来客があるので、今日は会えませんなんて言ってきやがった」
 「その特別な来客とは誰なのですか?」と私はすかさず訊きました。
 「さあね。バカな外国人がサラスワティの粘土像を買うために、明日、ヴァラナシに行くんだとさ」
 「特別な来客」が誰なのか、ピンと来ました。遂にジョージ・ハリスンを捕まえたと思いました。ジョージはラヴィ・シャンカールの兄の家にいるのだ。

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 私はデスクに戻って、シンシアの助けを少し借りて、ウダイ・シャンカール宅に電話をかけました。ミスター・ウダイ・シャンカール宛の手紙を持ってるので、ご自宅にうかがえば受け取っていただけますか?と私が言うと、イエスとの返事でした。そして、ミスター・ハリスンとかいう方宛の手紙も持っているのですが、そのようなお名前の方もいらっしゃいますか?と訊いたところ、電話はガチャンと切られてしまいました。
 と、殆ど同時に、電話交換手のシンシアの声がしました。彼女は朝中ずっと電話の中身を聞いていて、全てを知っていたのです。「ということは、あなた、ジョージ・ハリスンに会いに行くのよね?」と彼女が訊いてきたので、私はそうだと打ち明けました。「ねえ、難しいとは思うんだけど、哀れなシンシアのためにサインをもらってきてくれないかしら。今日はこんなにたくさんあなたのお手伝いをしたんだから」
 お安い御用だと私は言いました。

 約1時間後、私はカメラマンと一緒に苔だらけの古い建物の中にいました。その8階にはウダイ・シャンカールが暮らしているベンガル風コンパウンドがありました。『不思議の国のアリス』に登場するヤマネのように、半分寝ている80代の老人が、エレベーターを動かしていました。彼は中に人がいようがいまいが、全ての階に停まるのです。
 5分後、8階に到着し、私はウダイ・シャンカール宅のドアのベルを鳴らしました。ガタンという音を立てながらドアが開くと、料理人が言いました。「どんな御用ですか?」
 すると、彼の後ろに、現代で最も素晴らしいリード・ギタリストの1人の、あの有名な痩せた顔が見えました。ビートルズ3番目のメンバー、ジョージ・ハリスンでした。この瞬間、ジョージは不安げな顔をしました。マスコミの人間に見つかるのが彼お気に入りの悪夢であることは、明らかでした。
 ジョージは記者である私と、同行したカメラマンに発見されてしまったのです。
 私は料理人に、ウダイと面会の約束があると伝えました。すると、信用されたのか、ドアが開いたので、私は中に入りました。と、その時、ジョージはさっと家の外に出て行きました。私の横を通り過ぎて。私の後ろでドアが閉まりました。しかし、スクープ・インタビューの相手がこんなに近くにいるのに、みすみす逃してはなるものかと思い、私はUターンして、外に出ました。
 ドアが私の後ろで閉まりました。ここにいるのはジョージ・ハリスンとサイ・ゴピナートだけです。ふたりで超遅いエレベーターを待っているのです。
 ジョージ・ハリスンを見ると、エレベーターの格子ドアを睨みつけていました。パジャマとクルタを着ていて、長い髪が背中まで伸びていました。ここで私は1つのことを確信しました:スクープ・インタビューは無理そうだな。私はシンシアを思い出しました。今頃は、ジョージ・ハリスンのサインが手に入るかもって、友達全員に吹聴してるだろうなあ。
 私は取材用ノートの何も書いてないページを開いて、ジョージのほうに差し出しました。
 「サインをいただけませんか、ミスター・ハリスン」と私が言うと、ジョージはこっちに怖い顔を向けました。「キミ、マスコミの人間だよね…」 ジョージはこう言うと、むこうを向いてしまいました。
 ジョージ・ハリスンが私に向かって発したのは、この一言だけでした。

追記:私が書いた記事『ジョージ・ハリスンは真夜中にガンジスのほとりで何をやっていのか?』はジュニア・ステイツマン紙に掲載されました。ジョージの死後、2013年にマーティン・スコセッシがジョージの伝記映画『Living in the Material World』を作りましたが、私が1974年に書いたこの記事にカメラがズームインしている箇所があります(0:47〜0:54)。



 電話交換手のシンシアには、ジョージ・ハリスンのサインをあげました。そして、彼女は今でも、それをジョージが書いたものだと信じています。


Copyrighted article "How I got George Harrison all peeved in Calcutta in 1976" by C Y Gopinath
http://scroll.in/article/801227/how-i-angered-george-harrison-in-calcutta-in-1976
Reprinted by permission

   


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2015年12月29日

〈ヘイ・ジュード〉PVでタンバリンを叩いてるのは私です

 以前拙ブログではこの写真の右下に映ってる女性に関する話を掲載しましたが(「1968年8月セントラル・パーク、迷子のザ・フーとビートルズ速報」)、他のデータ等と照合すると時間的に矛盾があります。8月7日に行なわれたザ・フーのコンサートで、9月4日に行なわれた〈Hey Jude〉のPV撮影の話が出来るはずがありません。たぶん、著者の頭の中で2つかそれ以上の思い出が混ざりあってしまったのでしょう。あれからもう40年以上経ってますから。

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 ところで、今回紹介するのは、同じ写真の中でタンバリンを叩いてる男の人の話です。

   




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