2016年10月03日

新しいオルタモント本

 ジョエル・セルヴィン著『Altamont: The Rolling Stones, the Hells Angels, and the Inside Story of Rock's Darkest Day』が去る8月に発売されました。事件当時はローリング・ストーンズのツアー・マネージャーをやっていて、事件後は事後処理のためにひとりアメリカに残され、そのまま見捨てられていたところをグレイトフル・デッドに拾われて、今度はこっちのツアー・マネージャーになるという数奇な運命をたどったサム・カトラーがfacebookに書き込んだ読後の感想が「やっと公平な視点の本が出た。よくぞ書いてくれた」ということなので、早速お取り寄せ。約200点におよぶ参考文献をもとに丁寧にまとめられた本書は、1969年10月にデッドのマネージャー、ロック・スカリーがロンドンにやって来たところから始まって、時折、登場人物/バンドの紹介や背景説明をはさみながら、基本的には時系列通りに話が進む労作でした。オルタモントに至る道という大局を見失うことなく、トリビア的知識(あくまで「私のレベル」でね)も大量に含んでおり、飽きることはありません。



 例えば、こんなことはご存知でしたか?

・〈Gimme Shelter〉のゲスト・ヴォーカリスト、メリー・クレイトンはレコーディングに呼ばれた時、妊娠しててお腹がかなり大きかった。
・後に大監督になるジョージ・ルーカスは下っ端のカメラクルーとして撮影隊に参加しており、丘の上から望遠レンズでステージを撮影するのが主な仕事だった。コンサートが終わって皆が帰路につく幻想的なカットがルーカスの手によるもの。

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・殺されたメレディス・ハンターと一緒に来ていた白人の女の子は、過去に白人男子に嫌な思いをしていたので、もっぱら黒人の男子とばかり付き合っていた。
・ジェファーソン・エアプレインのセットでポール・カントナーと言い争ってたのが、へルズ・エンジェルズ・サンフランシスコ支部の中心メンバー、スイート・ウィリアム。(1968年冬にアップルに押しかけたのはこいつ。拙ブログのこちらこちらの記事も参照のこと)

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・ビル・ワイマンはイベント当日の昼間に連れと一緒にサンフランシスコ市内で買物を楽しんでおり、会場に到着したのは日没の直前。
・〈Under My Thumb〉後の混乱の中、新曲〈Brown Sugar〉を演奏しようと提案したのは、新入りのミック・テイラー。

 ミュージシャン以外の、ストーンズのスタッフやデッドのスタッフ、ストーンズのアメリカ・ツアーに関わったさまざまな人(ビジネス系の人)も過不足なく紹介しており、この本を読んだ後にあらためて映画『Gimme Shelter』を見ると(2012年10月にフジテレビの深夜枠で放送された字幕説明入りのものがオススメ)、ストーンズの演奏シーン以外の、これまで早送りしちゃってた部分の面白さが格段にアップします。まさに「へえ」のオンパレード。(この映画については、拙ブロフでこんなこぼれ話も紹介してます)
 ただし、気になることもいくつか。それこそ200点ほど記されている参考文献リストにグレイトフル・デッドのフィル・レッシュ自伝『Searching For The Sound』とビル・クロイツマン自伝『Deal』が載っていません。前者は2005年春、後者は2015年5月に発表されたものなので、スケジュール的に間に合わないことはないと思います。参考にする価値なしという判断だったのでしょうか? フィルの元カノで、初期デッドの写真をたくさん撮影したロージー・マッギーの回想録『Dancing with the Dead--A Photographic Memoir: My Good Old Days with the Grateful Dead & the San Francisco Music Scene 1964-1974 (English Edition)』なんていう超マニアックな本はリストに載っているので、グレイトフル・デッドが筆者の視界に入ってなかったわけではないようです。その場にいた重要人物本人の発言を敢えて紹介しなかったのは、どういう理由からなのでしょう? ショウ当日、ヘリポートでミック・ジャガーがデッドのメンバーと会うシーンは、フィルが自分の記憶に頼って書いたものより、後に発売された『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト!<40周年記念デラックス・エディション>(DVD付)』のDVDに収録された動画のほうが、やや正確ですけどね。
 ということで、フィルの本とビルの本からオルタモント関連の発言をピックアップして、視点のさらなる「公平」性を図りたいと思います:
フィル・レッシュ自伝『Searching For The Sound』 第11章より

 バンドはトラックの中で縮こまりながら、私達全員が感じていること----このギグでは演奏出来ない----に合理的説明を加えようとした。私が考えた言い訳はこうだ:音楽が皆をステージのほうに引き寄せてしまうと、フロントラインのフリークたちはそれに押されて前に出てしまう。すると、エンジェルズの魔の手が待っている。これだと暴力のサイクルは終わらない。そんなものは断ち切ったほうがいい。苦痛を長引かせるのはやめよう。私達が知らなかったのは、ストーンズが映画用の照明効果が最大限になるよう、日が没するのを待っていたということである。しかし、それが明らかになった頃には暴力はますます激しくなり、私達は完全に怖じけずいてしまい、リスクを冒してもステージに上がりたいという気持ちはなくなっていた。ということで、ストーンズのロード・マネージャーのサム・カトラーが事情を説明するためにやって来た際には、彼に対してこのことを認めたわけではないが、私達は口をそろえてきっぱりと出演を拒否したのだった。
(中略)
 今、私はグレイトフル・デッドが演奏しなかったことを後悔している。ついさっき行なった前言を翻すことになってしまうが、もし演奏していたら、音楽の力でイベントのリズムを少しは修正出来たかもしれない、絶え間ない暴力の洪水のスピードを遅くし、もしくは止めることが出来たかもしれないと思うのだ。事態がどう転ぶかなんて誰にもわからないのだから。最終的な分析をすると、私達は、憎悪の流れを逆にして、それを愛へと変えるために、音楽の力とコミュニティーのスピリットを信じて立ち上がることが怖じけづいて出来なかったのだ。立派な態度だったとは言えない。

ビル・クロイツマン自伝『Deal』

(第4章より)
 ギグがない時には、自分たちでそれを作り出した。無料で、ただ演奏したくて演奏したのだ。あの頃は、出来るだけたくさん一緒に演奏したいっていうやむにやまれぬ気持ちがあり、フリー・コンサートはやらずにはいられないことだった。ビジネスじゃなく冒険だった。(中略)フリー・コンサートを行なう時には、神のご意志であるかのような恩寵とともに全てがまとまった。
 無料のロック・コンサートっていう概念は年月を経るに従って変わっちまったが、次の点ははっきりさせておきたい。オレたちがフリー・コンサートをやった時には、スポンサー企業は一切存在してなかった。密約もなし。リベートもなし。ただスリルだけがあった。プレイしたかったからプレイしたのだ。こうしたギグは、演奏開始の数時間前に、メンバーのひとりがやりたい気分になって、決まったこともあった。

(第7章より)
 マスコミが押しかけた記者会見にミック・ジャガーが登場して、ストーンズはツアーの締めくくりにゴールデン・ゲート・パークでフリー・コンサートを行なう予定だと発表したので、もう後戻りは出来なくなった。こうしたイベントはこんなに前もって発表すべきでないことくらい、ミックだってわかっていたはずだ。密かな要素ってものが、オレたちが数々のフリー・コンサートを成功させてきた秘訣の1つだった。宣伝しちまっては、公園でそれを行なうちゃんとした許可を確保することなど、もはや出来ないのだ。
(中略)
 この日のラインナップはサンタナ、フライング・ブリトー・ブラザーズ、ジェファーソン・エアプレイン、クロスビー・スティルス&ナッシュ、グレイトフル・デッド、そしてローリング・ストーンズだったのだが、オレたちはそのリストから消えることにした。それについてちゃんとした話し合いが行なわれたのかどうかは覚えてないが、オレたちは演奏するのは無理だった。あのステージに出て行くなんて出来なかった。あんな敵意に満ちた状況で演奏するなんて無理だ。単に生存本能に従ったまでさ。
 ローリング・ストーンズはその時点でステージに出て行くべきだったのだが、あたりが暗くなるまで、さらに数時間待った。ここで連中の真の動機が明らかになった。コンサートを撮影して、ツアーのドキュメンタリー映画のクライマックスとして使おうって算段だったのだ。結局、このイベントはフリー(無料)じゃなかった。ストーンズ側はここから利益を得ようと計画してたのだ。それがこのイベントを覆っていた暗い影と関係してたのかもしれない。オレたちの経験じゃ、フリー・コンサートが成功したのは他の下心がない時のみだった。演奏するもしないも自由だった。どちらにしても身が危険にさらされることはなかった。

 上記2書および他のさまざまな記事では、ローリング・ストーンズが観客を何時間も待たせたという論調ですが(Wikipediaも)、『Altamont』はこの認識に少し修正を施しています。ストーンズがステージに登場したのは予定時刻を少し過ぎたくらいで、1969年ツアーの他のコンサートと比べたら、客を待たせてないほうです(ビル・ワイマンの会場着が日没直前だったので、早目にステージに出たくても出れなかったでしょう)。客が長時間待つことになったのは、ストーンズのせいというよりは、デッドが演奏しなかったからです。
 そもそも12月上旬のサンフランシスコの日の入はだいたい17:00で、映画『Gimme Shelter』には「午後6:20、メレディス・ハンターの死亡確認」というシーンもあるので、遅くとも19:00にはコンサートは終了していたでしょう。昼間に出演したクロスビー・スティルズ・ナッシュ&ヤングはセット終了直後にロスに飛び、UCLAのポーリー・パヴィリオンでコンサートを行ない、グレイトフル・デッドは日没直前にステージを終了し、晩にはフィルモア・ウェストでのコンサートが予定されてました。デッドはこんなことがあった後なので演奏する気になれず、こっちもキャンセル(そう言い出したのはクロイツマン)。当然のことながら、ビル・グレアムは大激怒したそうです。
 最後の最後に、今回のオルタモント本の決定的な間違いを発見してしまいました。p.306に「ロック・スカリーは映画には全く登場してない」と書いてありますが、してます。こんなに大きく映ってます。証拠↓:

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2016年01月26日

ロニー・ウッド、新著『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』について語る

 しばらく前に豪華本出版社ジェネシス・パブリケーションズからロニー・ウッドの新著『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』の案内が届きましたが、グレイトフル・デッドの80枚組箱、ボブ・ディランの18枚組箱等、高額箱物行政への出費が相次いでいたため、こっち(£295----6万円以上)はかなり後ろ髪を引かれながらも注文には至らず。そしたら、いつの間にか貧乏人用の廉価版が出てるじゃありませんか。これなら買えます。
 今回発見したインタビューはロニー・ウッドの1965年の日記をもとにした新著のプロモーションを兼ねたものですが、1960年代のロックの大進化の要因の1つをマネージャーの存在に帰してるところが興味深いです。この記事の準備を始めた途端に飛び込んで来たのが、ジョルジォ・ゴメルスキーやロバート・スティグウッドといった名物マネージャーの訃報です。年末以降、ミュージシャンの訃報も相次いでおり、生き残り組の人々もボックスセットや自伝等を発表して、人生の総決算に取り組んでいます。ひとつの時代が終わる感がハンパない今日この頃です。



ロニー・ウッド、新著『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』について語る
聞き手:マイク・ラゴーニャ




ロニー、『How Can It Be? A Rock & Roll Diary』は、音楽史において非常に面白い年だった1965年のスナップショット的な内容ですね。何に触発されて書いたのですか? このプロジェクトはどのような経緯で始まったのですか?

 お袋がいなかったら、この本はなかっただろうなあ。お袋は亡くなる前にこれをオレの兄貴に渡していたらしい。そして、兄貴たちからも「これ見ろよ。お袋がお前のためにとっといてくれたんだぞ」って亡くなる前に言われたんだ。オレは超驚くのと同時に、50年前の思い出が突然蘇ってきた。「凄えや!」って思ったね。たった数年前の出来事みたいだった。詳しいことを思い出すのに、そんなに時間はかからなかったよ。出来事を正確に思い出すことが出来た。家の横に車をつけて、ギグ用ワゴンの後ろに荷物を積んで、イングランドのあちこちを回るクラブ・サーキットをしたんだ。主にザ・バーズ(The Birds)ってバンドで修行してた頃の話さ。オレの周囲では、キース・ムーンとか、友人{ダチ}が突然、ヒット・レコードを出すようになってさ----〈I Can't Explain〉とか----こいつら、オレたちをからかいに来るんだよ。クラブにやって来て、「オレたちナンバー1だぜ!」って騒ぐんだ。美しい友情なんだけど。

確かに友情なんでしょうが、もっといいパフォーマーになろうとか、もう少ししっかり音楽の世界で足固めをしようとか、互いに刺激し合ってた面もあったんじゃないですか?

 もちろん。オレたちの頭の中ではいつも、出来る限り良いミュージシャンになろう、向上し続けよう、勉強し続けようという意識があった。アメリカのバンドから学んだり、ジャズやブルースやロックンロールの輸入レコードを聞いたり。

あなたのバンドのザ・バーズ(The Birds)とアメリカのバンドのザ・バーズ(The Byrds)との間で法的問題が発生した話を、面白く読みました。この問題が生じた時、あなた自身はどういう見解を持ってたのですか?

 あっちが名前を盗んだって訴えようっていうのは、オレたちのマネージャーが決めたことさ。酷い売名行為で、マネージャーにとっては裏目に出ちゃったんだけど、そのおかげでオレたちはメロディー・メイカー紙の第1面に載ることが出来たんだ。酷{ひで}えやり方で表紙を獲得したよ。数年前にマッギンと会ったんだけど、ザ・バーズ(The Byrds)が初めてイギリスの土を踏んだ時に起こされた裁判のことを覚えてたよ。「ちょっと待った、それ、お前だったのか!」って言われたから、「そうなんです」って答えた。マッギンはふざけてオレの首を絞める真似をして、許してくれたよ。

少し前に、キース・ムーンは友人{ダチ}だっておっしゃってましたよね。

 ああ。

どういう関係だったのですか? どのくらい親しかったのですか?

 超いい奴だったよ。オレにとっては保護者みたいなもんだった。オレが正しい連中と交じっていられるようにしてくれた。オレが自分の力じゃどうにもならない場合には、キースがオレの面倒を見てくれたり、オレの面倒を見てくれる奴をよこしたりしてくれたんだ。オレと一緒にいる女の子の面接をして、「OK。合格だ。ロニーと付き合ってよろしい。だが、オレが気に入らないと思った時には、帰らせるからな」なんて言うんだよ。楽しい奴だったなあ。

ジミ・ヘンドリクスとも友達だったんですよね?

 ああ。数週間、同じアパートメントで暮らしたこともある。パット・アーノルド----P・P・アーノルド----が大家さんだった。ジミはバセット犬を飼ってて、こいつがそこら中で大小便をやらかしちゃうもんだから、「お前はもう出てけ!」と言われてた。ジミが「ツアーに出なきゃいけなから、オレの犬、お前がもらってくれないか?」って言うんで、「いいよ」って答えた。だから、オレはジミから犬を相続したんだ。ジミはとてももの静かで、おとなしい奴だった。とても謙虚な奴だった。歌声はあまりいいとは思わなかったけどな。「心配するな、ジミ。ギターで十分埋めわせ出来てるから」って言ってやったよ。

(笑)知りませんでした。いい話ですね。あなたはジェフ・ベックやエリック・クラプトンとも交流があるんですよね。それより前にはなかった芸術が孵化しつつあった頃に、こうした人々と交流するなんて、さぞかし楽しかったでしょう。当時の革新的なミュージシャンと交流してたんですから。あなたもそのひとりなわけですが。

 楽しかったね。エリック・クラプトンの話をしようか。革新的なギター・プレイヤーだってことは置いといて、あいつはオレの最初の結婚相手で、息子ジェシーの母親となったクリッシーと付き合ってたことがあるんだぜ。エリックとオレはこのくらい親密なんだ。息子としてみたら、オレと付き合ってた頃のクリッシーの話を読むのは興味津々だろうなあ。エリックとオレはいつも互いにからかいっこしてたんだ。「オレの女を盗みやがって!」とかさ。いつも友好的だったよ。オレたちは恩恵をギブ&テイクしていたからね。オレのギター・プレイに大きな影響を及ぼしてることの他に、私的な関係においてもオレはこいつには一目を置いていた。ヒーローとしてリスペクトしながら、親しくしてもらえてるんだから、ちょっと奇妙な関係さ。こいつら全員、オレより数歳年上だから、いつも思ってたよ:「オレの時代もそのうちやって来る。今はこいつらが有名で人気があってナンバー1かもしれないけど、心配無用だ。そのうちオレの番も来る」って。ジェフ・ベックもそうだった。こいつはヤードバーズにいた。ロッド・スチュワートもそうだった。ジョン・ボールドリーのところでそれなりに成功してたけど、回りの連中は少し年上だった。オレはこいつらから学んだよ。オレの時代も来るって。でも、ずっと、そういう気持ちの下側に、ストーンズに入りたいって気持ちもあったんだ。

その目標に対してどうやって備えていったのですか? 一連の出来事がストーンズに繋がっている道だったと思いますか?

 もちろん。一連の出来事は踏み石だった。ジェフ・ベックがヤードバーズを辞める前に、オレはシェフィールドでこいつと友達になっていた。シェフィールド・モジョってクラブでね。打ち解けて友情を育んでから言ったんだ。「いつの日か一緒にやろう」って。そしたらジェフも「ヤードバーズは永遠には続かないから、いつか何かやろうな」って言ってくれた。しばらく、この話はそのままになってたんだけど、ジェフがヤードバーズを辞めた時に、電話をかけて「これからどうすんのさ?」って訊いたんだ。そしたら「何をやったらいいのかわかんないんだけど、あのバンドからは抜け出す必要があった。あまりに窮屈でさあ。ところで、オレと一緒にバンドをやるっていうのはどう?」なんて言うから、オレは「いいね」って答えた。あれも1つの踏み石だった。で、このバンドが解散する間際には、既にロッド・スチュワートと強い絆が出来てたし、オレたちはスモール・フェイセスが大好きだったから、スティーヴ・マリオットが辞めた時に、ロニー・レインに電話をかけたんだ。そして、ふたりでこのバンドをフェイセスに変えちゃったんだ。ロニー・レインから「オレたちどうしたらいいのかわかんないよ。助けてくれないか」って言われたので、「いいよ」って答えたんだ。それだけ。これも踏み石だった。丁度この頃、オレは知らなかったんだけど、ストーンズからロニー・レインに打診が来てたんだって。オレがストーンズに入る気あるかどうかって。ブライアン・ジョーンズが亡くなってミック・テイラーが加入する前の話さ。そしたら、ロニー・レインが「あいつならフェイセスで超ハッピーにしてるよ」って答えちゃったんだよ。オレに一言も言わずにだぜ。オレは5年間、このニュースを知らなかった。でも、これは結果的に、災い転じて福ってやつだ。

  

ついこの間、フェイセスの1970〜75年のアルバムを集めたボックスセット《You Can Make Me Dance, Sing, Or Anything》がリリースされました。多くの人は、この一連のアルバムを、あなたやロッド・スチュワートの音楽的成長を記した重要な作品だと考えています。この時期を振り返ってみると、フェイセスは音楽文化にどのような貢献をしたと思いますか?

 白人のガキがソウル・ミュージックに進出する自由を獲得したことだ。オレたちはデヴィッド・ラフィンやテンプテーションズ、インプレッションズのカバーをやってたし。それから、マディー・ウォーターズのブルースを楽天的なパーティー・フィーリングとミックスしたことだ。コンサートの後、ファンを丸ごとホテルに招いて、たっぷり盛ってやったり、音楽のレッスンをしたりした。オレたちは何かを感じたかったんだ。

新著にはあなたが1965年に行なった冒険が記されています。この年はロック史上、特に面白い時期でした。音楽は急激に発展を遂げていましたが、その原因としてどんなことが起こってたと思いますか?


 才能のある連中を育てていたマネージャーがたくさんいたんだよ。ロバート・スティグウッドとか。ザ・バーズ(The Birds)はレオの後、こいつがマネジメントしてたんだ。キット・ランバートって奴にも会った。こいつはザ・フーや他のいくつかのバンドの世話をしてた。それからブライアン・エプスタインだ。こういう連中が才能のある奴らを抱えてたのさ。家族みたいなものだった。オレたち全員、互いに親しくしていた。ちょっと違うことをやってるが、常にもっと良くなるように頑張ってるという共通の繋がりもあった。

この本はあなたがこの年に行なったさまざまなトラベルのドキュメンタリーにもなってます。この頃を振り返って、新たに思い出したことはありますか?

 ある日の午後をウィルソン・ピケットと過ごしてたって話があるだろ。ウィルソンに会ったことなんて忘れちゃってたから、「ワオ!」だった。初めて会ったのは、数年前にニューヨークでボビー・ウーマックと一緒に楽屋に行った時じゃないかと思ってたよ。ところが実は、50年前に会ってたんだよ。〈Midnight Hour〉の頃だろ。凄いよなあ。

ロニー、新人アーティストにはどんなアドバイスをしますか?

 野心の要素を捨てるなってことだね。頑張ることをサボっちゃいけない。聴衆に手応えがなくても、心が折れちゃいけない。オレは昔、そういう連中を壁の花って呼んでいて、そいつらを壁から引っ剥がして、ステージ前まで来させようと頑張った。出番が終わる頃には、数百人を自分の音楽に改宗させたかなあ。その連続だった。マネージャーもオレたちのために毎晩頑張っていた。オレは1966年にも日記をつけてたので、それも読み返してみたいんだよね。1965年のものよりずっと小さいし、面白さもずっと少ないと思うんだけど、筆致は変わってないはずさ。これも発掘しなきゃいけないなあ。どこかにあることはわかってるんだ。マネージャーのシェリーが持ってると思う。彼女は1965年の日記を初めて見た時に、「これはちょっとしたお宝だわ。大勢の人に見てもらわなきゃ」って言ってたよ。



50年後、B面の〈How Can It Be?〉をマーク・ノップラーのスタジオでレコーディングしましたね。様子はどんな感じでしたか?

 スタジオに入って、ちょっとこの曲を復習して、ちょっとアップデートしてみようかなって思ったんだ。基本的に、この曲は単なる端曲だ。日記全体の雰囲気もそうだ。1960年代のあの年をチラッと見るようなものだ。あの頃起こってたことは、次に起こる出来事への糸口みたいなものだった。それから10年もしないうちに、オレはストーンズのメンバーになったけど、そんなことになるとは、あの頃には考えてもなかったんだから。

ストーンズのメンバーになってからは、17歳の頃を思い出したりしましたか?

 ああ。ストーンズ初期の歌を練習したのを覚えてるよ。1974年にはストーンズのリハーサルに参加し、1975年にはツアーに出た時には、全冒険をやり遂げたような変な感覚があった。さて、オレを夢中にさせた曲を全部演奏しよう。それには自分の音を与えよう。だが、レコードではブライアンかミック・テイラーがプレイしてるオリジナルのパートにも敬意を払わなきゃね。

1965年のロニー・ウッドにはどんなアドバイスをしますか?

 何も変更するな。そのまま続けろ。頑張って進み続けろ。そうすれば、常に正しい時には正しい場所にいることになる。

[テープ起し担当:ガレン・ホーソーン]


Copyrighted article "A Conversation with Ronnie Wood" by Mike Ragogna
http://www.huffingtonpost.com/mike-ragogna/how-can-it-be-chats-with_b_8608838.html
Reprinted by permission
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2015年06月16日

《ブラッセルズ・アフェア1973》解説でこのブログの記事が引用されました

 ローリング・ストーンズの《ザ・マーキー・クラブ ライヴ・イン1971》のデラックス・エディションは《ブラッセルズ・アフェア1973》のCD付きで発売されましたが、《ブラッセルズ》の解説では以前ここで紹介した「ヨーロッパ'73」に関する記事が紹介されています:

ミック・ジャガーとの日々:ヨーロッパ'73ミキシング秘話
http://heartofmine.seesaa.net/article/249475992.html

 注目していただき、大変嬉しいです。5年間に付いたコメントが10コもないという誰からも相手にされてない日陰者系のブログとしては大快挙!

   
posted by Saved at 15:43| Comment(0) | TrackBack(0) | Rolling Stones | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする