ザ・フーの隠れた名曲〈Heaven And Hell〉のエンディングについて過去に↓こんな記事を載せましたが、今回出たCD10枚組箱物行政《Who's Next : Life House》のCD6枚目に入ってる同曲は、これまでに発表された中で、グラスの割れる音が最も大きくはっきり入っています(私の知る限りでは)。
40年前の今週の1978年5月25日、オレはラッキーなことに、シェパートン・スタジオでシークレット状態で行なわれたザ・フーの映画撮影を見に行くことが出来た。このコンサートは『The Kids Are Alright』用のシーンを撮影するために企画されたものだった。〈Won't Get Fooled Again〉が終わった後、オレは感極まって気がついたらステージ上に飛び上がってたのだが、そのシーンが撮影されて映画に使われただけでなく、その後、DVDやYouTubeにも登場するようになるなど、その瞬間は思いもよらなかった。
この顛末を話そうか。
まず、オレは1969年からずっと、ザ・フーの大ファンだった。〈Pinball Wizard〉はオレが持っていた最初のシングルの1つだった。1975年10月にはウェンブリーのエンパイア・プールで、1976年5月の大雨の一般公休日にはチャールトンでコンサートを見ている。どっちも最高だった。アルバムは全部好きだ。特に 《Quadrophenia》《Who's Next》《The Who By Numbers》はパワーと感情が詰まっていて、オレの心に訴える、人生の指針的な作品だった。この頃、ザ・フーはレッド・ツェッペリンの次に好きなバンドだった。 1977年に、ザ・フーは後に『The Kids Are Alright』というタイトルになる、キャリアを総括するドキュメンタリー映画の制作を開始しており、1977年12月には、この目的でロンドンのキルバーン・ステイト・シアターで小規模なコンサートを抜き打ちで行なうことを決定した。オレの大親友、デックは、自分の姉貴、イヴォンヌの当時の彼氏を通じて、どうにかこのギグに入り込むことが出来た。仲介してくれたのはスティーブ・マーゴという人物だった。彼はザ・フーの大ファンで、1978年8月には、これまた有名なザ・フー・ファンの「アイリッシュ」・ジャック・ライオンズ、及び、その他1、2名と一緒に、ロンドンのICAでザ・フー博覧会を開催することになる。 ギグは急に発表され、当時、オレん家{ち}には電話がなかったんで(今思うと滑稽だろ)、デックはこのギグがあることをオレに知らせることが出来なかったのだ。というわけで、オレは見逃してしまったのだが、全てが失われたわけではない。 ザ・フーの面々は、その日に撮影した映像に満足出来ず、もう1度、ギグをやって映画用の素材を撮影しようと決めたのだ。間もなくロンドンでギグをやって、ドキュメンタリー映画用に撮影するという情報をスティーヴ・マーゴから聞いたのは、5月上旬のことだった。秘密裏に計画は進められていたのだが、遂に情報が伝わってきた。1978年5月25日の朝、ハイド・パーク・コーナーで待ち合わせだという指示があった。
その頃、レッド・ツェッペリンは、ロバート・プラントの息子が亡くなるというアクシデントがあって、1977年のアメリカ・ツアーが予定より早く終了してしまった後、活動が鈍っていたのだが、5月には、クリアウェル・カッスルに集まってリハーサルを行なったというマスコミ報道があり、その年の後半には、ストックホルムのアバのスタジオに出向いて、《The In Through The Out Door》をレコーディングした。5月上旬に、オレのところに『Sounds』誌のライター、ジェフ・バートンから連絡があった。「Wax Fax」というコラム記事に書いてあったツェッペリンに関する疑問に回答したのを見てのことだった。『Sounds』誌はレッド・ツェッペリンの結成10周年を記念して、9月に3週間かけて特集を組みたいとのことだった。 オレが依頼された仕事は、10年間の歴史を綴り、オフィシャル・リリースとブートレッグをカバーする大ディスコグラフィーを作成することだった。 オレはロング・エーカーにある『Sounds』誌のオフィスで何度かミーティングを行ない、メモラビリアやアルバムをたくさんの持参して、写真に撮ってもらった。もちろん、当時はスキャナーなどない。 その後、オレの1978年夏は8月上旬締め切りのこの仕事に占領されてしまった。特集の原稿全部を手書きで書いて、4週に分けて載った時には大成功だった。自分の書いた文が活字になったのは、この時が初めてで、しかも、原稿料までもらえたのだ。この年は、この後にも楽しいことがたくさんあった。7月には素晴らしいコンサートを2回見た。デヴィッド・ボウイのアールズ・コート公演と、ボブ・ディランのブラックブッシュ公演だ。 話をもとに戻そう。オレはツェッペリンの記事を書くという仕事を抱えていたにもかかわらず、ザ・フーのステージをもう1度生で体験することが出来たらどんなに興奮するだろうということに注意を向けてしまったのだ。 ということで、5月25日(木)になった。オレたちは時間通りにバスでロンドンからシェパートン・スタジオに運ばれた。カフェテリアで18世紀の衣装を着た俳優、女優たちに混じってワインを飲み、食事をした後、ザ・フーのミニ・ライヴを見るためにスタジオ2のサウンドステージに連れていかれた。
今回の撮影は、去る12月にキルバーン・シアターで撮れた映像が精彩を欠いていたので、その撮り直しをするためにジェフ・ステイン監督が計画したものだった。全キャリアを網羅したドキュメンタリー映画『The Kids Are Alright』に、現代のシーンを挿入するという目的でだ。映画は翌1979年、大西洋の両側の劇場で公開された。 ザ・フーのコンサート・ツアーを再現するための特別なステージが組まれたスタジオに案内されたオレたちは、畏怖すら感じていた。約200人の観客の中にはザ・フーのマニア、勝手に押しかてきた客、ジャーナリスト、ミュージシャンが入り交じっていた。ミュージシャンの中には若き日のクリッシー・ハインドがいた。それから、この後間もなく世界的に有名な写真家になるロス・ハルフィンもいた。これは彼が初めて撮影したロック・コンサートの1つだったのだ。 オレが1つ前に見たザ・フーのライヴは、1976年5月にチャールトン・アスレチック・フットボール場で行なわれた『The Who Put the Boot In』ショウだった。あの時は、オレは雨でびしょ濡れの65,000人のファンのひとりだったが、今回は自分の数フィート前でピート・タウンゼントがパワー・コードを弾きまくって〈Baba O'Reily〉を演奏しているのだ。これはザ・フーの中だけではなく、ロック全体で、オレの一番好きな曲の1つだ。その後、ジョン・エントウィッスルの〈My Wife〉、そして〈Won't Get Fooled Again〉のスリリングな演奏が続いた。 最初の計画では、この3曲だけを演奏することになっていたのだが、くつろいだ雰囲気に気を良くしたタウンゼントは、ダルトリー、ムーン、エントウィッスルにステージを続けようという合図を送り、準備なしに〈Substitute〉をやり始め、間を置かずに〈I Can't Explain〉を演奏した。 ザ・フーのステージは〈Summertime Blues〉〈Magic Bus〉〈My Generation〉〈My Wife〉(もう1度)と続いた。オレたちはザ・フーが映画のためにわずか数曲を撮影するのを見るつもりだったのが、今や、ミニ・グレイテスト・ヒッツ・コンサートに居合わせるという恩恵に浴していた。そして、この素晴らしいパフォーマンスの締めくくりとなったのが、再度披露された〈Won't Get Fooled Again〉だった。こんなに近くで演奏の一部始終を見れるなんて、まさにロックンロール・ドリームだった。最高の瞬間としか言いようがない。
そして、あの出来事が起こった。
〈Won't Get Fooled Again〉が終わり、バンドが拍手と喝采に浴している時、ビールとワイン、そして、目の前で繰り広げられたパフォーマンスを見てどっと分泌されたアドレナリンが合わさったオレは、カメラ用のトラッキングに登り、ピート・タウンゼントに向かって大きくジャンプした。次に、その過程で偶然目にとまったロジャー・ダルトリーに向かって小さく数歩進んだ。いつものギグでは、こうしたステージ・ラッシュをするとギブソン・レスポールでぶん殴られる可能性が高いし、実際に、1969年のウッドストックでは、アービー・ホフマンがステージに出て来た時に、ピートからどういう扱いを受けたかは知っていた。しかし、ステージに飛び上がった時には、結果をあれこれ予測している暇などなかった。幸運なことに、タウンゼントはオレをあたたかくハグしてくれたし、ダルトリーは、はしゃいで振り回して手をぶつけてしまったオレを一笑に付してくれた。その時は気づかなかったのだが、ステージに乱入したのがオレひとりでなかったことは、述べておく価値があるだろう。映画では、オレが突入する直前に、女の子が悠然とロジャーに近づき、抱きついているのを見ることが出来る。 このアクションの背後で、キース・ムーンは顔いっぱいに悪魔の笑みを浮かべていた。ロサンゼルス的ライフスタイルによる肉体的な疲れを見せてはいたが、遂に、一番カッコよく活躍することのできる場----ザ・フーのステージ----に戻ってきたのだ。 ギグが終わって午後の明るい日差しの中に出た時には、自分たちがキース・ムーンが人前で行なった最後のコンサートを目撃したとは、全く思っていなかった。オレの信念のジャンプが映画の完成版で使われるとも、全く思っていなかった。
シェパートンのグランドでは、ラッキーな少数の観客が行なうべき仕事がもう1つあった。4つの列になってザ・フーのそれぞれのメンバーの後ろに並んでくれと言われたのだ。ザ・フーの次のアルバム《Who Are You》のカバー・デザインになるかもしれないとのことだった。アルバム・タイトルの説明となるよう、オレたちがバンドのクローンを演じているというのが狙いだった。ということで、オレたち全員が列を作るように言われ、オレはキース・ムーンの後ろに並んだ。結局、これをジャケットに使うというアイデアはボツになったが、あれから何年も経った後、ジェネシス・パブリケーションズから出版されたロス・ハルフィン撮影のザ・フー写真集には、このセッションのアウトテイクが2枚ほど収録されていた。この写真ではオレはなぜか列からはみ出してる。右のほうで青いジャンパーを着てる奴がオレだ。これもその日の思い出の1つだ。
1978年8月1日に、デックとオレはロンドンのICAで開催されたザ・フーズ・フー博覧会のオープニングに出席した。ピート・タウンゼントとキース・ムーンもやって来た。映画のプロデューサーであるジェフ・ステインはオレを見ると、オマエがステージに上がったシーンは映画の最後に入ってるぞと教えてくれた。ザ・フーズ・フーはステージ衣装、楽器、ビデオ等を展示した超イカした博覧会で、この手のものとしては時代を先取りしてるものだった。オレはピートとキース、両方とおしゃべりをして、一緒に写真も撮ってもらった。キースは健康そうで、展示されているかの有名な〈Pictures Of Lily〉ドラム・キットについて鼻高々に語ってくれた。これはオレとキースのツーショット写真だ。背が見えるのはイアン・デュリーだ。
新アルバム《Who Are You》は8月にリリースされ、オレはそれを発売日当日に買った。〈New Song〉〈Sister Disco〉〈Love Is Coming Down〉、そしてタイトル・トラックといった名曲が収録されている素晴らしいアルバムだった。今、聞いても素晴らしい。 9月7日(木)の晩、テレビで『ニュース・アット・テン』を見ていたら、キース・ムーンが死体となって発見されたというニュースをアナウンサーが伝えた。キースがここ数年間、たくさん問題を抱えていたことは秘密でも何でもなかったが、それでも大ショックだった。 ツェッペリンと違い、ザ・フーはバンドとして存続することを選んだ。彼らにとっては正しい選択だったと思うが、もはや同じバンドではいられない。 翌年5月にザ・フーはロンドンのレインボウ・シアターで抜き打ちショウを行なったのだが、オレはそれを見逃してしまった。なので、デックとオレでフランスのフレジュスに行って、さらに何度かやる映画の宣伝用ギグを見ようかと、漠然とした計画を立てたのだが、結局は実現しなかった。 1979年6月に映画『The Kids Are Alright』がベッドフォードの映画館にやって来た。オレが映っているらしいことは知っていたので、デック、トム、フィル等、皆で一緒に、ベッドフォードのグラナダ・シネマ(残念ながら、とっくの昔に閉館)に行った。最高の映画で、素晴らしいシーンがいくつもあった。最後までオレの姿は全然出て来なかったが、締めくくりのエンドロールのところで、ピート・タウンゼントの腕の中に飛び込むオレ(その後、指でロジャ・ダルトリーの目を突きそうになっている)が遂に映ると、、シネマの中では大きな歓声が起こった。もちろん、カットされずに完成版に残ったオレも大満足だった。