2016年03月01日

マッカートニー死亡説を報じたDJ近況

 Facebookでこんなほほえましい写真が回ってきました。今年の2月下旬にザ・フーが《Hits 50》ツアーでデトロイトを訪れた際に撮影されたもののようです(2/27、ジョー・ルイス・アリーナで撮影?)。

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 ピート・タウンゼントと一緒にうつってるお爺ちゃんは、1969年10月12日(日)午後に視聴者からの電話を受け、ポール・マッカートニー死亡説をFM電波に乗せて紹介して大騒動のきっかけを作った張本人、ラス・ギブです。
 ラスはDJとして活躍するかたわら、デトロイトでライブハウスも経営しており、まさにこの日の出演者はザ・フーでした。

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2014年02月23日

NY Rock'n'Roll Life【26】ケニー・ジョーンズにも電話インタビューしたぜ!

 私がザ・フーを知った時には、ドラマーは既にケニー・ジョーンズでした。《Face Dances》が発売される前に、ケニーのいるラインナップで1979年にツアー活動を開始し、同年12月にはカンボジア難民救済コンサートに出演し、そのライヴ盤が出て、ビデオがNHK『ヤング・ミュージック・ショー』で放送されました。モンタレー・ポップ・フェスティバルかどこかでの〈My Generation〉を除くと、私が動くザ・フーを見たのはこの時が初めてです。現在、このコンサートは忘れられてしまってるようで、CD化もDVD/ブルーレイ化もされていませんが、youtubeにはザ・フーのセットの完全版がアップされてます。



 さて、ビンキーは先日のイアン・マクレガン・インタビューに続き、ケニー・ジョーンズにも電話インタビューを行ないました。ケニーは、ボックスセット《Here Comes The Nice》が大好評なスモール・フェイセス時代の話に加えて、キース・ムーン死去の直後にザ・フーに参加した経緯についても語っています。
 私はまだ入手していませんが、以下のページでは、《Here Comes The Nice》をいち早く入手した方が、その中身を写真つきでレポートしています。是非ご覧あれ。

無駄遣いな日々:
SMALL FACES / HERE COME THE NICE (THE IMMEDIATE YEARS BOX SET 1967-1969)
http://cdsagashi.exblog.jp/21995397/
SMALL FACES / HERE COME THE NICE (THE IMMEDIATE YEARS BOX SET 1967-1969) DISC3 & 4
http://cdsagashi.exblog.jp/22001071/

 





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2013年12月01日

NY Rock'n'Roll Life【23】1971年、5,000人以上を前にしたギグと不毛なロンドン滞在

 Huffington Postにアップされているビンキーの記事、まだほんの一部しか訳してません。ここでは私の好きなミュージシャンにまつわる記事しか紹介してないのですが、彼の本当に重要な証言はニューヨークのパンクシーンに関するものではないかと思います。ザ・ダムドのCBGB初見参に関する記事はこんな感じで始まります:
 既に聖地になりかけていたCBGBでプレイした最初のイギリスのパンク・バンドである彼らは、目覚ましいやり方でアメリカのパンク・シーンを作り、それを強固なものにした。このバンドが池に投げ込まれた石となり、周囲にさざ波が広がっていったのだ。パンクにとって、1974年、75年、76年は何に成長するのかよく分からない発酵状態の期間だった。
 1960年代には、ザ・フーやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージーズが、それぞれが独自の貢献をしながら、パンクの基岩を作っていた。
 1972年にはニューヨーク・ドールズがビジュアル的にレベル・アップして、音楽的には粗削りなサウンドという限界の中でどんちゃん騒ぎをしていた。1970年代前半は、ELPやジェネシス、イエス、キング・クリムゾンといったプログレッシヴ・ロックの、これ見よがしのテクニックの絶頂期だったのだが、ドールズはこうしたシステムに対して粗削りのショックを与えた。
 1974年にはラモーンズが登場した。彼らはザ・フーやストゥージーズ、ドールズを崇拝し、リード・ギターなんか必要ねえよ、2分より長い曲なんて必要ねえよ、そして時には、1ヴァース以上の歌詞なんか必要ねえよ、というコンセプトをさらに蒸留、純化した。
 しかし、共通点のない風変わりなバンドと、世界中にいる彼らの他から疎外されたファンを、ひとつの真のムーヴメントに変えたのは、1976年半ばにイギリスで起こったパンクの爆発だった。1964/65年に起こったオリジナルのブリティッシュ・インヴェイジョン以来、いつものことなのだが、イメージとパッケージングに関して、イギリス人はアメリカ人よりも明らかに優れた理解力を持っている。
 CBGBには開店以来ずっと通っていたから分かるのだが、ラモーンズとテレヴィジョンとブロンディーとパティー・スミスには、コマーシャル性がないこととレコード契約を得ようと必死だったこと以外は、何の共通点もなかった。
 この頃には、オレのバンド、プラネッツはニューヨーク・シティーではかなり人気を確立し、メジャー・レーベルからも関心を持たれていた。だから、オレがザ・ダムドをチェックしにCBGBに行ったのは、ファンだったからではなく、「ライバル」をチェックするためだった。実際、オレは喧嘩腰だった。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ニューヨーク・ドールズ、ラモーンズは皆、ニューヨーク・シティーのバンドだった。だから、オレの町こそパンクの爆心地なんだ。ザ・ダムドのファースト・シングル「ニュー・ローズ」(当時ですらパンクの名曲扱いだった)は大好きだが、その人気上昇中の成り上がりのイギリスのバンドに対し、その晩のオレは「来るなら来い」と頑なな気分になっていた。

 彼なりのパンク史観が手短にまとめられているここまでは私にも理解できますが、この後、ザ・ダムドのステージに関して延々と熱く語られると、全くのお手上げ状態です。パンク・ムーヴメントに詳しい方、訳してください。きっといいこと書いてあると思いますよ。
 今回は、まだパンクが誕生する前の話です。


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