既に聖地になりかけていたCBGBでプレイした最初のイギリスのパンク・バンドである彼らは、目覚ましいやり方でアメリカのパンク・シーンを作り、それを強固なものにした。このバンドが池に投げ込まれた石となり、周囲にさざ波が広がっていったのだ。パンクにとって、1974年、75年、76年は何に成長するのかよく分からない発酵状態の期間だった。
1960年代には、ザ・フーやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージーズが、それぞれが独自の貢献をしながら、パンクの基岩を作っていた。
1972年にはニューヨーク・ドールズがビジュアル的にレベル・アップして、音楽的には粗削りなサウンドという限界の中でどんちゃん騒ぎをしていた。1970年代前半は、ELPやジェネシス、イエス、キング・クリムゾンといったプログレッシヴ・ロックの、これ見よがしのテクニックの絶頂期だったのだが、ドールズはこうしたシステムに対して粗削りのショックを与えた。
1974年にはラモーンズが登場した。彼らはザ・フーやストゥージーズ、ドールズを崇拝し、リード・ギターなんか必要ねえよ、2分より長い曲なんて必要ねえよ、そして時には、1ヴァース以上の歌詞なんか必要ねえよ、というコンセプトをさらに蒸留、純化した。
しかし、共通点のない風変わりなバンドと、世界中にいる彼らの他から疎外されたファンを、ひとつの真のムーヴメントに変えたのは、1976年半ばにイギリスで起こったパンクの爆発だった。1964/65年に起こったオリジナルのブリティッシュ・インヴェイジョン以来、いつものことなのだが、イメージとパッケージングに関して、イギリス人はアメリカ人よりも明らかに優れた理解力を持っている。
CBGBには開店以来ずっと通っていたから分かるのだが、ラモーンズとテレヴィジョンとブロンディーとパティー・スミスには、コマーシャル性がないこととレコード契約を得ようと必死だったこと以外は、何の共通点もなかった。
この頃には、オレのバンド、プラネッツはニューヨーク・シティーではかなり人気を確立し、メジャー・レーベルからも関心を持たれていた。だから、オレがザ・ダムドをチェックしにCBGBに行ったのは、ファンだったからではなく、「ライバル」をチェックするためだった。実際、オレは喧嘩腰だった。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ニューヨーク・ドールズ、ラモーンズは皆、ニューヨーク・シティーのバンドだった。だから、オレの町こそパンクの爆心地なんだ。ザ・ダムドのファースト・シングル「ニュー・ローズ」(当時ですらパンクの名曲扱いだった)は大好きだが、その人気上昇中の成り上がりのイギリスのバンドに対し、その晩のオレは「来るなら来い」と頑なな気分になっていた。
彼なりのパンク史観が手短にまとめられているここまでは私にも理解できますが、この後、ザ・ダムドのステージに関して延々と熱く語られると、全くのお手上げ状態です。パンク・ムーヴメントに詳しい方、訳してください。きっといいこと書いてあると思いますよ。
今回は、まだパンクが誕生する前の話です。
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