2022年09月23日

歴史に埋もれた史上初のロック・フェスティヴァル

 こんなイベントがあったなんて、私は知りませんでした。1965年のニューポートのボブがロック・フェスの先触れだったというマリア・マリダーのフェス観が興味深いです。


アメリカ初のロック・フェスティヴァル:ドラッグ、ヘルズ・エンジェルズ、ドアーズ
文:コリー・アーウィン


 あの頃に行われたもっと規模の大きなイベントと比べると影の薄い存在だが、1967年6月10〜11日に北カリフォルニアのタマルパイス山では、アメリカ初のロック・フェスティヴァル、ザ・ファンタジー・フェア&マジック・マウンテン・ミュージック・フェスティヴァルが開催されている。開催地は当然の選択だった。サマー・オブ・ラヴが近所のサンフランシスコで花盛りを迎えており、ヒッピー・カウンターカルチャーが喜んでこのイベントに合流した。地元のラジオ局、KFRCがイベントのホストを務め、チケット(1枚2ドル)の売り上げから生じた利益は地元のチャリティーに寄付された。
 それまでは、野外で行なわれる音楽フェスティヴァルというと、ジャズかフォーク中心のおとなしいイベントだった。ジム・クゥェスキン・ジャグ・バンドのメンバーとしてファンタジー・フェアに出演したマリア・マルダーは、『ローリング・ストーン』誌にこう語っている。「いろんなロック・フェスティヴァルが行なわれるようになった先触れが、[ボブ・]ディランがニューポートで[1965年に]初めてエレクトリックで演奏したことね。オルタナティヴなライフスタイルの人たち----ヒップスターやジャズ・マニア等----は既にニューポートにやって来てたけど、やや小綺麗できちんとした雰囲気であって、まだ'50年代の名残があったわ」 しかし、ファンタジー・フェアは、アメリカ初のロック・フェスとして、その後のフェスティヴァルの青写真を劇的に変えることになった。

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 まず、風光明媚なフェスティヴァル会場へのアクセスは限られていた。参加者は近所のマリンに車をとめて、レンタルしたスクールバスでイベント会場まで行かなければならなかった。そのバスの路線には「トランス・ラヴ・ライン」という名前が付いていた。騒ぎが起こらないように協力を求められたのが、その辺りを拠点とするヘルズ・エンジェルズだった。
 「連中は雇われてたわけじゃない」 共同プロデューサーのトム・ラウンズは後になって発言している。「あいつらの縄張りだったから、あいつらの支援が必要だった。連中を警備として使う意図は主催者側にはなかったと思うよ。ちょっと怖そうな人として、その場にいてもらおうとは思ったけどさ(笑)。敵意を見せるためとかじゃなく、連中がそこにいることで「OK。ここにも決まりと秩序ってものがあるからな」って主張になってたよ」
 ファンタジー・フェアは、巨大な仏像の風船と占星術で使う象徴を描いたバナーを含むさまざまな装飾で、そのテーマを強調した。地元のさまざまな商売人がブースやテントがずらりと並んで、食べ物やアクセサリー、手製のろうそく、服、マリファナ用キセルなど、想像しうるありとあらゆるものを売っていた。
 「このフェアの元になっていたのが、時代物のコスチュームを着てやって来て、ジャグラーや曲芸師、古い詩を朗読したりする連中のいるルネッサンス・フェアだ」と指摘するのはジェファーソン・エアプレインのベーシスト、ジャック・キャサディーだ。「コミュニティーにいる多種多様な才能の持ち主が、いろんなやり方で自分の才能を披露することが出来るというのが、フェスティヴァルの魅力の1つだ」
 「子供たちが段ボールに乗って丘を滑っていたり、さまざまなグッズやお香を売ったり、顔にペインティングを施したりしてる人がいたり、森の中ではマリファナを吸ってる人がいたり…それが最も素晴らしいことでした」と写真家のエレイン・メイスは『マリン・マガジン』誌に語った。「警官もいたるところにいたけど、誰も気にかけてなかったわ。そんなの前にはなかったことです」

ファンが撮影した映像



 こうした外見にもかわらず、ファンタジー・フェアはあくまで音楽フェスティヴァルだった。主催者はジェファーソン・エアプレイン、キャンド・ヒート、ディオンヌ・ワーウィック、ザ・バーズ、スティーヴ・ミラー・ブルース・バンド、そして、ザ・ドアーズ(ファンタジー・フェアは、当時、ザ・ドアーズがロサンゼルス以外で行なった最大規模のギグの1つだった)といったエレクトリックなラインナップを登場させた。
 「ザ・ドアーズを見て、音楽っていうより演劇だって思ったのを覚えてるよ」 この時、ザ・バーズのメンバーだったジョン・ヨークは後にこう語った。「ジム[・モリスン]はハムレットかマクベスのようだった。観客が次に何が起こるのか見たくなるエネルギーを生み出すキャラクターみたいなものを、ジムは作ってたんだ」
 しかし、残念なことに、ザ・ドアーズのシンガーはいつもの調子ではなかった。
 「モリスンはベロンベロンに酔っぱらっていた。ステージの端には照明を支える柱が2本立ってたんだけど…」 サンフランシスコの音楽シーンを長い間見てきた評論家のジョエル・セルヴィンは、後にこう回想している。「このまわりをグルグルしてた。ある瞬間、そこにいたと思ったら、次の瞬間には消えていた。約15フィート[約4.5m]の高さのステージから落ちてしまったんだよ。でも、戻って来て、何事もなかったかのように、この曲を歌い終えたけどね」

ザ・ドアーズ



 ザ・ドアーズの演奏は週末の思い出深い瞬間の1つだった。ザ・バーズは裏方をドラマーとして出番をこなした。「そいつはオレたちが何てバンドか知らなかった。ギターとベースはいるがドラムがいない4人組がステージにいるって認識しかなかっただろう」とヨークは語った。裏方は余分なドラムスティックがみつからなかったので、コーヒー・テーブルの壊れた足を使って演奏した。「オレたちの歌なんて知らなかったから、音楽を聞いて適当に合わせて演奏した。しかも、こいつの演奏にガッカリした奴はひとりもいなかった」
 しかし、彼らの上を行って、フェスで最もトリッピーな演奏をしたのはキャプテン・ビーフハートだった。マジック・バンドの2曲目の間に、フロントマンであるキャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ブリートは何かに襲われた。
 「ドンは完全に固まってしまったんだ」とドラマーのジョン・フレンチは語る。「そして、ドンはクルッと振り向くと、歩いて舞台裏に引っ込んだ。倒れたとか、落ちたとかじゃない」 フレンチによると、強烈なアシッドのフラッシュバックが起こってたらしい、「[ステージから]客席を見下ろすと、女の子の顔が魚に変わり、その口から泡を吹いていたんだって」 ファンタジー・フェアで幻覚を見たのはキャプテン・ビーフハートだけではなかった。誰に聞いても、ドラッグが盛んに使用されていたという。「少なくともアシッドはやってたね」とサルヴェイションというバンドのアート・レスニックが言う。「だって、サマー・オブ・ラヴのサンフランシスコだぜ。ドラッグやら何かやで、オレは演奏したことすら覚えてないんだから」



 ファンタジー・フェアは参加者からはほめたたえられ、地元のマスコミにおいては大成功と書き立てられた。『サンフランシスコ・クロニクル』誌は「ワイルドなサウンド、ワイルドな色、スカイダイバー、余興、ヘイト=アシュベリーからやって来た風変わりな格好のヒッピーたち、カリフォルニアのTシャツ・ボーイズ、キスをする若者たち…皆のために何かがあった」
 新境地を切り開き、今日の音楽フェスティヴァルでの使用されている様々な要素を確立しているにもかかわらず、ファンタジー・フェア&マジック・マウンテンは殆ど忘れ去られてしまっている。一般的には、1週間後に行なわれたモンタレー・ポップ・フェスティヴァルと、1969年に行なわれたウッドストックがこの時代に行なわれた歴史的に最も重要なフェスティヴァルの扱いを受けている。
 「[ファンタジー・フェアは]オレたちの当時のあり方、感じ方を象徴する週末イベントだった」とシンガー・ソングライターのペニー・ニコルズは後に説明した。「モンタレーが開催される頃には、自分たちは皆、自分たちは重要な存在なんだって自覚するようになってたね」

The original article "America’s First Rock Festival: Drugs, Hells Angels and the Doors"
https://ultimateclassicrock.com/fantasy-fair-magic-mountain-festival/


   
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2019年01月18日

娘の語るママ・キャス物語と自分の父親

 私もザ・ママス&ザ・パパスのメンバーの名前はジョン・フィリップスよりもママ・キャスのほうを最初に覚えました。ジョン・フィリップスについては「ミック・ジャガーとの日々:ヨーロッパ'73ミキシング秘話」も参考にしてください。





娘の語るママ・キャス物語と自分の父親

文:シーラ・ウェラー



 「太った娘{こ}」としてバンド活動をするのは簡単ではなかったが、キャス・エリオットの型破りのキャリアは我々の文化を揺さぶった。オーウェン・エリオット=クージェルは母親の努力奮闘と、自分の父親探しについて、マスコミに初めて語った。



 フォークロックをサイケデリック・カウンターカルチャー前夜の音楽に変えたのが、1965〜68年に活躍したポップ・グループ、ザ・ママス&ザ・パパスである。〈Monday, Monday〉や〈Go Where You Wanna Go〉、そして時代を代表する〈California Dreaming〉等のヒット曲で、彼らはアメリカが1960年代前半のしきたりをまだ完全には振り落としてない頃に、電波に砲撃を加える存在だった。女の子はゴーゴー・ブーツを穿き、男の子は初期ビートルズよりも髪を長く伸ばし始めていた。ザ・ママス&ザ・パパスのメンバーには、『スリーピー・ハローの伝説』に出てくるイカボット・クレーンみたいな、おかしな帽子をかぶった2人の男性(背の高いリーダー、ジョン・フィリップス、そして、テノールのデニー・ドハーティー)と、セクシーな唇を持ったブロンド美女(ミシェル・フィリップス)、そして、最も目を引く存在であるキャス・エリオットがいた。こんなルックスのグループは皆無だった。
 こんなサウンドのグループも皆無だった。デニーの心がうずくような無邪気な声と、キャスの年に似合わぬ渋めのアルトが、ひと昔前の学校の卒業記念パーティーで披露してもおかしくない緻密でクリーミーなハーモニーに興趣を添えている。彼らは自分のファースト・ネームの前にパパ、ママを置いて(これはキャスのアイデアだ)、内輪のジョークに満ちあふれた金持ちヒッピー・ファミリーの雰囲気をプンプンさせていた。
 ジョン・フィリップスはエゴが強く、人をコントロールしたがる性質から、自分がリーダーだという意識があった。ジョンは過去にもグループを作ったことがあり、軍隊経験を持ち、何か大きなことをやってやろうという精神があり、モンタレー・ポップ・フェスティヴァルを立ち上げたメンバーのひとりでもあった。しかし、結成当初からはっきりとしていたのだが、ザ・ママス&ザ・パパスのスターは、一番最後に加入した人物、ママ・キャスだった。彼女は最もあり得ないやり方でスター街道を進んでいった。
 女性ポップ・シンガーは太ってちゃいけない、ブスじゃいけない。そんな子が芸能界で最もゴージャスなブロンド美人の隣に立つなんておこがましい。そんな厳しい時代の中で、ママ・キャスはデブとブスの両方だった。しかも、音楽産業が他の業界以上に男性社会だった時代に、ママ・キャスはリーダーのジョン・フィリップス以上のカリスマ性を発揮して、有名で注目される存在になった。ファンはママ・キャスの微量の皮肉を含むあたたかみのある声と、生まれつき持っていたと思しき度胸が大好きだった。「私の母が最も有名だったのは、見た目で一番わかりやすかったからだと思います」 ママ・キャスの娘であるオーウェン・エリオット=クージェル(51歳)はNextTribeに語った。

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ジョニ・ミッチェル、デヴィッド・クロスビー、エリック・クラプトンと一緒に写ってるのがママ・キャスの娘オーウェン。


スターらしくないスター

 ママ・キャスは自信たっぷりの人物だと思われていた。彼女はよく他人を励ましていた。そんな必要がなさそうな人をもだ。「会った瞬間から、キャスが大好きでした」とミシェル・フィリップスは、先頃、筆者に語った。「[歌う時には]いつも私を励ましてくれました。『頑張って! あなたならできる! 私にはそれがわかる! いつも私がついてるわ!』って。キャスは私を守ってくれました。ジョンに対しては、私の味方をして、きっぱりと言ってくれました。「ジョンにああいうふうにこき使われるままじゃいけないわ! あなたはミシェルよ! あんな奴を恐れちゃダメ!」って。私がジョンと会って結婚したのは高校生の頃だったので、とても不安に感じてたのです」 ミシェルはその後、ジャック・ニコルソンと恋仲になり、次はウォーレン・ビーティーと長年付き合い、結婚寸前までいっているので、そんなに繊細なタイプではなさそうだ。「[でも、ジョンからは]よく見くびられていたので、キャスは私が自尊心を持つことが出来るよう、助けてくれました。無理矢理にです」
 キャスはローレル・キャニオンのサロンの主で、アドバイスを与えるほうの人間だった。グレアム・ナッシュはイギリスから乗ってきた飛行機から降りるやいなや、ママ・キャスのところに相談に行った。ジョニ・ミッチェルもキャスの親友のひとりだった。クロスビー・スティルス&ナッシュはキャスの家で結成されたという説もある。ママ・キャスは皆から愛されており、屈辱的な痛みを抱えながらも、そういう権威を誇示していた。



 オーウェン・エリオット=クージェルは、これまで、自分の母親についてあまりマスコミに語ったことはなかったが、今やっと「ママの時代」が来たと感じている。オーウェンはキャス・エリオットを太った女性ポップスターの草分け的存在と見ている。「私のママがいなかったら、アデルのようなシンガーもいなかったでしょう。コメディーの世界でいうと、『サタデー・ナイト・ライヴ』のエイディー・ブライアントもいなかったでしょう」
 今日では、肥満女性には熱烈なファンが存在し、肥満女性を恥ずべき存在と見ることにマスコミも反対している。女優のガボレイ・シディベは大人気だし、クリッシー・メッツも、人気テレビドラマ『This Is Us 36歳、これから』で彼女が演じているケイト・ピアソンと同様、大きな自信と助言力のある女性だ。彼女のアドバイスに、誰もがハッと姿勢を正す。彼女は兄弟から頼られ、夫のトビーも彼女に心底惚れている状態だ。このドラマの言いたいことは「肥満はこの素晴らしい女性にとってマイナスにはならない。妊娠の期間もね。あしからず」である。加えて、有名なヨガ・インストラクターのデイナ・フォルセッティといった人々も、体を見せびらかす女性スポーツ界における「見た目」のパラダイムを変えた。こうした女性たち全ての先駆けとなったのがキャス・エリオットだと言えるだろう。
 体型コンプレックスをはねのけて女性ポップ・アイコンとなったことの他にも、キャスは、今日では許されているが、当時は許されていないことをやった。自分からシングル・マザーになることを選び、子供を自分ひとりで養うために働く母親にもなったのだ。
 「女手一つで逆境と闘って勝った人間です。時代を先取りしてました。キャスが50年前にやったことを、今の女性がするようになっています」とオーウェンは語る。現在、オーウェンは夫でレコード・プロデューサーのジャック・クージェルと2人の子供たち(ゾー(19歳)、ノア(16歳))と一緒にロサンゼルスで暮らしている。「思い返すと、ママは自ら手本となって、私や他の人々に教えたのだと思います。そんなことお前には出来ないよって誰かから言われても、そんなことはねのけろって」

ブロードウェイ

 キャス・エレン・ナオミ・コーエンはバルチモアで暮らす中流のユダヤ人家庭に生まれた。高校卒業の半年前に退学してニューヨークに行き、ブロードウェイの世界に挑戦したが、ミュージカル『I Can Get It For You Wholesale』のミセス・マーメルシュタイン役は、新進気鋭のユダヤ系のシンガー/女優のバーブラ・ストライザンドに奪われてしまった。バーブラも、スターになるのに正当派の美女である必要はないというルールを確立するのに貢献した人物だ。その後、キャスはマンハッタンのナイトクラブ、ザ・ビター・エンドのクローク係の仕事をしながら歌い、芸能関係者の注意を引こうと努力していた。コート用ハンガーとチップの25セント硬貨を扱いながら、キャスはこのクラブでフォーク・シンガーのデニー・ドハーティーに会い、「彼を酔いつぶさせたそうですよ」(オーウェン談)。
 キャスはドハーティーに報われない恋心を抱いて、ヴァージン諸島まで追いかけて行き、彼を説き伏せてこれから結成しようとしているグループの中に入れてもらった。「ジョン[・フィリップス]はこんなことをやりたいっていうはっきりとしたアイデアを持っていました。ピーター・ポール・マリーのようなグループです。ママはああいう[スレンダーな]女性のルックスには当てはまりませんでしたが…」とオーウェンは言う。しかし、才能と根気が体型に勝った。このグループは最初はザ・ニュー・ジャーニーメンと名乗っていたが、ジョンは後に(キャスのアイデアも加味して)もっとヒップでウィットに富み、魅力を内包した名前、ザ・ママス&ザ・パパスに変更した。
 「ママはThe Little Engine That Could(=諦めずに頑張る人)でした」とオーウェンは言う。「体重はママが一生苦しんだことでした。人からデブと思われ、デブと呼ばれて、常に侮辱され、傷ついていました。でも、その苦しみを口に出したことはありません。演奏する時には、その痛みを隠していました。でも、私にはわかります。それに苦しんでたって。子供の頃からおデブちゃんとからかわれ、その後の人生でも体重は心の傷でした。そのせいでブロードウェイ・ショウのオーディションに落ちたこともありました。ザ・ママス&ザ・パパスでカーネギー・ホールやハリウッド・ボウルに出演したというのに、ショウの後は、ひとりで家に帰り、寂しい晩を過ごしていたのです。他のメンバーはパートナーがいたのに」

肥満との戦い

 オーウェンも自分の体重については敏感に意識している。「私も30〜40ポンド太り過ぎてます。すぐに直す方法がないことはわかっています」 筆者は2006年に、『ヴァニティー・フェア』誌用にミシェル・フィリップスに関する記事を書く準備として、オーウェンと食事をしたのだが、その時は、元気そうに見えた。オーウェンは、親友かつ「心の姉妹{ソウル・シスター}」でもあるカーニー・ウィルソンが----3人グループ、ウィルソン・フィリップスのメンバー。ミシェル・フィリップスの娘、チャイナ・フィリップスも参加していた----肥満と戦い、バイパス手術等の処置まで行なうのを見ていた。今日、人権意識ははるかに進化したとはいえ『This Is Us 36歳、これから』みたいな状態ではない。実生活においては、「まだまだ、太っていると肩身が狭いわ」。
 キャスは25歳の時に、シングル・マザーになることを希望した。当時としては大胆な選択だ。ボヘミアン・サークルの中でもだ。「ママは他の何よりも私が欲しかったのです」とオーウェンは言う。「私は1966年夏にママのお腹の中にいたのです」 音楽系のマスコミがゴシップを書き立てる新しい時代のスターだったにもかかわらず、キャスは妊娠をうまく隠し通した(皮肉にも、彼女の太った体型が役に立った)。それだけでなく、赤ん坊の父親が誰なのかも、当時も、そして、その後の数十年間も隠してしまった。
 オーウェンは1967年4月に誕生した。「ママが私のために選んでくれた名前からして、愛すべき存在が欲しかったことは明らかです。私をオーウェンと名付けたのは、私がママだけのもの(her 'own')だったからです。ママからはオーウェンスキと呼ばれました。大きなベッドに座って、一緒にフットボールの試合を見ました。ママは選手たちに夢中になってました。「あのカワイイお尻を見てよ」ってよく言ってました。母性愛に満ちていました。母性の持つ取り柄について歌った曲〈Lady Love〉を録音してるんですが、オープニングでは「まだ赤ん坊の娘に捧げます」って言ってるんですよ」 この歌でママ・キャスは、愛しい娘さえいればどんな困難でも乗り越えられると歌っている。「私には絶対に手放すことの出来ない、大切な人を持っている。私を自由にしてくれるこの子がいる…この娘{こ}は心配だらけの私の心を癒すのに、タイミングよく産まれてくれた。今、私は絶対に手放すことの出来ない、大切な人を持っている」
 ザ・ママス&ザ・パパスでツアー活動をしていた時も、シングル・マザーとしての生活はストレスが多かったが、1968年にグループが解散してソロ・アーティストになってからは、なおさらだった。「私の幸せは100%がママの責任になりました」とオーウェンは語る。「私をベビーシッターに預けなければならず、私がその人になついてるのを見ると、心が痛んだそうです。あるベビーシッターは仕事を辞めてしまいました。私がママより自分のほうに良い受け答えをするのをママが気に病んでることがわかったからです」
 ママ・キャスはファンから愛されていたが、オーウェンは最近になって昔のバラエティー番組のビデオを見た時のことをこう話す。「たわいないものだったんだでしょうけど、ママがああいう太り過ぎに関する「冗談」を、いじられ役に徹して一緒に笑いながら堪え忍んでいたことを思うと、心が痛みました」 実際、「ママは断食ダイエットをしてました」 5日間水だけで暮らし、次の2日間はステーキを食べるといったことをやっていた。エスクワイア誌には、250ポンド(113kg)あった体重が170ポンド(77kg)まで減ったと語っている。これだけの体重を急激に落とすなると大量の筋肉を失うことになる。これは危険だ。
 急激な食事制限と過密スケジュールの結果、1974年4月に、ママ・キャスはジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショウ』のセットで倒れてしまい、その後にも入っていた仕事に影響が出ないことを願いながら、病院で治療を受けた。キャスは続けなければならなかった。自分の中にはいくつもの曲があり、金も稼ぐ必要があった。3カ月後、キャスはロンドン・パラディアムでコンサートを行った。彼女はヘッドラーナーで、1晩に2公演というスケジュールだった。一流の会場だったので、この瞬間が運命を左右するように感じられた。最初の晩はチケット売り切れになっていなかったので、観客を魅了し、良い評判を得るという大変な仕事となった。そして、キャスは見事にそれをやり遂げた。



 7月28日、パラディアムでの最後の晩に、彼女は客席を総立ちにさせた。カムバックのようだった。コンサートの直後に、彼女は7歳の娘には会えなくて寂しい旨の手紙を書き、次に、ロサンゼルスにいるミシェル・フィリップスには電話をかけて、かつて自信を持つよう励ました人物にコンサートの成功を伝えた。「大喜びしていましたよ」(ミシェル談) その晩、ママ・キャスはミック・ジャガー主催の大パーティーに出席したのだが、その後、なかなか眠りにつけなかった。
 翌日、キャスはホテルのスイートルームで心臓発作を起こした。断食ダイエットのせいで、心臓近くの脂肪組織を囲む筋肉が少なくなっていたのが原因だった。キャスは32歳の若さでこの世を去った。ローレル・キャニオンの音楽シーンと多数のファンが彼女の死を深く悼んだ。
 「祖母宅のダイニング・ルームのテーブルのところに座ってると、祖母から「あなたのお母さんはもう帰ってこないのよ」と言われたのを覚えてます。私は何が起こったのか理解できず、立ち上がってテーブルから離れました。私は長年に渡って、何度も認知行動療法を受けました。そして、自制心がいかにして子供を守るか知りました」
 オーウェンはキャスの妹、レアと暮らすことになった。当時、レアは、ジェイムズ・テイラーやジョニ・ミッチェルのバックでドラムを叩いていたラス・カンケルと結婚して、3歳の息子、ナタニエルがいた。
 「他にもたくさんのスターが眠っているロサンゼルスのマウント・シナイ・メモリアル・パークで葬式が済んだ後になってやっと、ママの死を実感しました。誰の車で一緒に帰りたいか、おばあちゃんか、レアおばちゃんか、って訊かれた時、事態を把握しました。新しい生活に慣れなきゃ。もうママはいないんだって。この後の身の振り方を決定しなければならない、とても悲しい、瞬間でした」

父親は誰なのか
 伯母のレアは、離婚した後、オーウェンとナタニエルを連れてハリウッドを離れて、マサチューセッツ州の伝統的でアカデミックな町、ノーザンプトンに居を移したので、オーウェンは子供時代の大半をここで送った。「ノーマン・ロックウェル的な(=アメリカの田舎の庶民が送るような)世界でした」 しかし、彼女が直面したロックウェル的でない問題の1つが「父親はいったい誰?」ということだった。知る者は誰もいないようだった。ママ・キャスはこの件を完全に秘密にしていた。恐らく、その機が来たら話すつもりだったのだろう。
 オーウェンは東海岸の高校を卒業した後、ロサンゼルスに戻ったが、彼女の中では「父親は誰か?」という疑問は消えていなかった。19歳の誕生日の晩に、ママ・キャスのかつてのバンドメイト、ミシェル、ジョン、そしてデニーがディナー・パーティーを開いてくれた。ロサンゼルスの煌めく夜景を見下ろすサンセット・ストリップの丘の上の日本食のレストランで、ミシェルは言った。「オーウェンのお父さんが誰なのか見つけてあげられなくてごめんなさい」 すると、その瞬間、デニーとジョンは、キミは知らないけど、オレたちは知ってたよなあという表情で互いを見た。男ふたりも20年間秘密を隠してきたのだ。
 父親はチャック・デイだと彼らは明かした。チャックはバンドのベース・プレイヤーだった。「デニーが言ったんだと思います」とオーウェンは語る。チャックを探そうと密かに計画したのはミシェルだった。彼女はアシスタントに頼んで、印税が待っています的なことをほのめかしながら、「チャック・デイ」を探していますという広告を『ミュージシャン』誌に載せた。「印税というのは父に姿を現してもらうための餌でした」とオーウェンは笑いながら語る。
 チャック・デイの友人から電話連絡があったので、広告の真の理由を告げ、オーウェンと父親の対面の場が設けられた。デイはベイエリアで暮らしていた。オーウェンがサンフランシスコに行くための航空券はミシェルが買ってくれた。「父はスウェーデンとスコットランドのハーフでした」とオーウェンは言う。体調も良好というわけではなかった(今はもう、この世にはいない)。父と娘の対面は「ぎこちなかったけど、感動はしました。この人から愛されてるとわかって、心を動かされました。でも、やっぱり、この人は知らないオジサンでした…。父親なんて必要ありませんでしたし。幼い頃はラス[・カンケル]がパパでした。私を抱きしめてくれて、父親としての仕事を全部こなしてくれました」
 ママ・キャスが太り過ぎを恥ずかしいことだとするような風潮にめげずに、才能に見合った成功を追求してスターになったのは正しいことだったと、オーウェンは感じている。そして、ママ・キャスがシングル・マザーとして自分を育てたのも正しいことだったと感じている。
 「ああいう母親の娘であることを誇りに思っています」とオーウェンは語る。オーウェンは短期間、シンガーとして活躍した後、現在は、ザ・ママス&ザ・パパスの音楽を再発する際の新しい契約を管理して、メンバー4人全員の子供、孫のためにグループの遺産を守っている。「理由は何であれ、苦しい日には、ママが「お前にはこれは出来ない。あれも無理だ」という意見を聞いても無視し、克服したことを思い出すことにしています。ママは私にとってはヒーローです」


The original article "Fat-Shaming, Single Motherhood: Mama Cass’ Daughter Shares the Untold Story" by Sheila Weller
https://nexttribe.com/cass-elliots-daughter/



   



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2014年05月12日

ポール・カントナー B級SF映画を語る

 今回紹介するポール・カントナーのインタビューは米ハフポストのマイク・ラゴーニャのページに2012年8月に掲載されたものです。同年11月の来日公演に合わせてこちらでもアップ出来れば良かったのですが、私の仕事が遅いため、今になってしまいました。

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 当時リリースした最新盤《Tales From The Mothership》から始まって、インタビュー後半は昔のB級SF映画で盛り上がっています。ポール・カントナーはジェファーソン・スターシップの音楽を「サイエンス・フィクション・ロック」と定義していますが、コンピューター・グラフィックなど存在していなかった1950年代に作られたこれらの映画が、彼の原点なのかもしれません。
 インタビューの最後に、少しだけ新プロジェクトの話をしているのですが、昨年末にリリースされた下のアルバムがそれなのでしょうか?







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