2019年05月05日

普通のベンガル人主婦が40年前に作った《Disco Jazz》が今では幻の名盤に

 これは欲しいぞ。再発に期待か。

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普通のベンガル人主婦が40年前に作った《Disco Jazz》が今では幻の名盤に
文: ネイト・ラビ


 ミセス・ルパ・センは、どこからどう見ても、普通のベンガル人主婦だ。彼女の自虐的な発言からインタビューは始まったが、その微笑みの中には誇りがあった。「世間が今頃になって私の音楽に興味を持つなんて、いったいどういう風の吹き回しなのかしら? 私なんて死んだ化石でしょうに」
 インターネットには、思いもよらないやり方で新しいファンを作り、人を結びつける力がある、特に私のような音楽マニアにとっては、と答えてはみたが、確かにこれは難しい質問だ。
 リリースから40年近く経った今、カナダの大平原にある町、カルガリーで一時のノリで宅録で作ったレコードに、音楽コレクターというオタクの世界がどうしてそんなに注目しているのだろうか?



 このレコードはたった4曲しか収録されておらず、Ovularというドイツのマイナー・レーベルから発売されたものだが、《Disco Jazz》というタイトルは野心的だ。芸術作品にこれほど度胸のあるタイトルを付けた例は、トルストイの『戦争と平和』以来、恐らく皆無であろう。ディスコ・ミュージックのエネルギーが爆発し、長いジャズ風インストゥルメンタルと洗練されたドラム・ブレイクで微妙な味付けが施されている音楽を聞くと、心は虜にされ、体は思わず動いてしまう。
 2017年に再発されて以来、《Disco Jazz》は評論家たちからは「聖杯{ホーリーグレイル}」「超重要」「聞き逃し不可」と絶賛されている。Boomkat等の音楽マニアのウェブサイトでも紹介され、アーカイヴ系のリリースで評価の高いシカゴを拠点としたレーベル、Numero Groupから3月29日に「再々発」されたものも世界中で大成功を収めて売り切れてしまい、新たな発売日が間もなく発表されることになっている。LPのオリジナル盤は数百ドルで取引されている。
 一体、何が起こっているのか? なぜこんな大騒ぎに? この再発見されたインドのお宝レコードにはどんな裏話があるのだろう?
 私はこのレコードを聞いて、ジャケットで素晴らしい笑顔を見せている女性クリエイターの身にどんなことが起こったのか知りたくなった。まだ存命なのだろうか? レコードがリリースされてからは、何があったのだろう? 今でも歌手をやっているのだろうか? 数カ月が過ぎた後、ようやくある人物が私に接触してきて、聞きたい答えを教えてくれた。ルパは元気に生きている。しかも、コルカタで暮らしている。




音楽の旅

 Skypeカメラの中で、ルパ・セン(結婚前の姓はビスワス)は伝染性の強い微笑みで挨拶した。息子のデバヤン、姪のアネカも一緒だ。彼らは、必要な場合には、言葉の橋渡しをしてくれることになっていた。
 ルパ・センは典型的な中流階級で育ったが、1970年代のコルカタにおいては「極めてリベラル」なベンガル人少女だった。家庭には音楽があった。「母のサビタが私の最初の先生{グル}でした。古典音楽の歌い方を習いました」 しかし、1970年代の若者はビートルズやトム・ジョーンズ等、海の向こうの音楽を求めるようになった。そして、もちろん、アシャ・ボスレやラタ・マンゲシュカールの声もいたるところで聞こえた。「私の夢は映画のプレイバックを歌うことでした」

 

 彼女は町中の小さな公演で歌ったのだが、テレビの多チャンネルもFMラジオもYouTubeもない時代においては、多数のオーディエンスに声を届ける方法はオール・インディア・レイディオ(AIR)しかなかった。センは1978年にカルカッタにある局に行き、オーディションを受けた。「最初は不合格でしたが、もう1度挑戦しました。2回目のオーディションの後に、AIRが私がポップ・ソングを歌うのを放送したのです」 ポップの世界で仕事をすることに不安を抱いていたルパは、カルカッタ大学に入学して生物学の勉強を開始したが、「あちこち」で歌い続け、休暇にカナダに家族旅行に行った際に、音楽の世界が遂に開かれた。



「1981年8月に、カルガリーで暮らしている兄、ティラック・クマル・ビスワスの家に行ったのです。兄が私が歌手をやってることを皆に話してたので、到着した日に、兄の家で歌を披露しなければなりませんでした」 地元のインド人コミュニティーのメンバーも何人か招待されており、ルパの歌を気に入った彼らから「皆の前でもやってくれ」とお願いされた。
 数日後、カルガリー大学のボリス・ルビケイン・ホールが歌と音楽のライヴ・コンサート用に押さえられ、集まった約1,000人の観客の中には、インド音楽の中にとどまらない活躍をしているサロード・プレイヤー、アーシシュ・カーン(アリ・アクバル・カーンの息子)もいた。ルパはその晩、3時間、歌を披露し、大満足したカーンは彼女の兄に声をかけた。「兄とアーシシュは長年の知り合いで、親友でした。数日後、アーシシュは兄の家に来て、皆でジャム・セッションを始めました。ローカルTVでも一緒に演奏しました。その番組の後、アーシシュはレコーディングをしたいと私の家族に持ちかけました」



 ビスワス家の人々は1週間後に夏期休暇旅行のパート2としてイギリスに向かうことになっていたので、カーンは善は急げと、地元のスタジオ・ミュージシャンをリチャード・ハロウ(ドラマー/プロデューサー)のホーム・スタジオに集めた。ザ・リヴィング・ルームという名で知られているこのスタジオには、ハロウと、地元カルガリーのギタリストで、カーンの弟子でもあるドン・ポウプがいた。ポウプは10代の頃からインドの古典音楽に興味を持っており、翌年には、カーンのフュージョン・プロジェクト、サード・アイ・バンドのメンバーとしてインド・ツアーに参加した。彼が急にやることになったこのレコーディング・イベントで師匠のサポートをしたことは言うまでもない。
 翌週、ルパは毎日3時間スタジオ入りして、カーンの奥さん、サロジが書いた歌詞を歌った。歌詞は複雑なものではなく、《Disco Jazz》のオープニング・トラック〈Moja Bhari Moja〉(楽しい、とても楽しい)のように、とにかく踊って楽しもうという時代のスピリットにフィットしていた。

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 《Disco Jazz》はそんじょそこらの1980年代のディスコ・レコードではない。クラブ・ダンス・ミュージックのフォーマットとサウンド、構成を利用しながら、1つ上のレベルの、厳密にはジャズとは言えないが、全く独自の音楽となっている。
 高尚扱いされていないジャンルに属してはいるが、《Disco Jazz》の音楽性は素晴らしい。評論家たちがこのレコードに夢中になる理由もわからなくはない。速いテンポのドラム・ビートとファンキーなベースはボトムをしっかり支え、それによって作られた広いスペースでは、ポウプの弾く陶酔のリズム・ギターや熱いソロ、そして、波のように打ち寄せ、旋回するようなシンセサイザーが飛び交っている。音の隙間を埋めているのは、アーシシュの弟、プラネシュ・カーンの叩く素敵なタブラのビートだ。しかし、楽器の主人公は、この時とばかりにエレクトリック化して増幅したカーンのサロードだ。《Disco Jazz》を当時の他のディスコ・ミュージックとは一線を画したものにしているのは、この思いがけないエキゾチックなサウンドと、歌がベンガル語で歌われているということだった。
 ルパ・センのヴォーカルは高速で行き交う諸楽器の音の上に舞い上がり、煌{きら}めき、空高く滑空する。口を尖らせて色っぽく歌うのと同じくらい、スキャットもうまい。だが、特筆すべきは、彼女がスタジオの中で極めて自然な状態であることだ。地元で小さなライヴ・コンサートをやっていたことが、1つの理由だろう。しかし、ルパはスタジオで一流のミュージシャンに囲まれて恥ずかしさを捨てて、自分の運命の中に足を踏み入れたのだった。
 ルパ・センは回想する。「スタジオに入ったのはこれが初めての体験でしたが、私はとても興奮していました。私たちは全てライヴで録音しました」 ルパはカルガリーのTV番組にも出演した。緊張しなかったのだろうか? 「いいえ。私は皆から注目されるのを楽しんでいました。カーンさんやドン・ポウプと一緒のステージに立てたんですよ。大感激でした」



 レコーディングが済んだので、ルパ・センは荷造りをしてイギリスに飛び、他の家族のもとを訪れた。カルガリーでの出来事はわくわくする体験だったが、あまりに短かった。「ミュージシャン全員と友達になりました。皆、インドに来たら私ん家{ち}に来てくれます」
 レコーディングの後、センの2人の兄弟がLP製造の資金を出してくれたので、1982年10月にインドでアルバムがリリースされた。「カルカッタの店にも並びました。でも…、同じ頃、ナズィア・ハサンのレコードもリリースされたのです」
 このパキスタンのカラチ出身の若きシンガーは、フェロズ・カーンのヒンディー映画『Qurbani』(1980年)でデビューして、アジア全体でセンセーションを巻き起こしていた。ルパ・センの《Disco Jazz》が発売された頃、ナズィア・ハサンと彼女の弟の《Disco Deewane》はインド亜大陸だけでなく、アジア全体、そしてイギリスでも大ヒットしていた。伝説によると、ボンベイだけでも発売と同時に約10万枚売れたという。
 一方、《Disco Jazz》はというと、メジャー・レーベルからの発売ではなく、宣伝もしてもらえなかったので、なかなかラジオでかけてもらえなかった。「レコードが店頭に並んでるのを見てとてもワクワクしましたが、悲しいことに、ナズィアの大ブームのせいでそれも難しくなりました」 ルパ・センははカルカッタ周辺で行なわれたいろんなショウで〈Ke jeno aakashe rong e rong tuli diya〉(誰かが空に筆でいろんな色を加えたかのように)----ルパの先生であるスディン・ダスグプタの作詞作曲----や〈Aami jodi hotam mago vhor belakar phakhi〉(お母さん、もし私がモーニング・バードっだったら)を歌ったが、彼女が明るいスポットライトに当たる時は数十年遅くなってしまった。



 近年、自分のレコードが注目を集めるようになったのだが、ルパ・センの気持ちは複雑だ。「皆から注目されるのが好き」な人間として、自分のレコードが新たなファンを獲得していることは嬉しく感じている。フェイスブックや他のソーシャル・メディアにもページを開設した。「でも、誰かからレコードをリリースしていいか許諾を求められたことはありません。私のレコードを出したレコード会社からは1ルピーも受け取っていません。レコードには私の名前と写真が載り、歌声も入っているのにです」
 プロの歌手としてスターになるという夢は実現することが叶わなかったようだが、ルパ・センは自分がものにすることの出来た人生はそれで良しとしている。後悔も苦い思い出もない。「人生はコインのようなものだと思います。ルパ・ビスワスは1つの面です。別の面には別の重要なこと、別の良いことがあります」
 ルパ・センは、長年、『アージカル』紙の音楽と美容のコラムニストとして活躍し、学生に数学と理科を教え、家庭を切り盛りし、絵や園芸、刺繍という趣味も持っている。「それに、今でも歌いますよ」

The original article "The Bengali homemaker whose 'Disco Jazz' album has become a 'holy grail' after 40 years of anonymity" by Nate Rabe
https://scroll.in/magazine/919299/the-bengali-homemaker-whose-disco-jazz-album-has-become-a-holy-grail-after-40-years-of-anonymity
Reprinted by permission

   
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2014年09月25日

テリー・ボジオ、ブレッカー・ブラザーズを語る

 再結成とか何周年記念とかが大流行している今日この頃ですが、昨年《Heavy Metal Bebop》のラインナップというコンセプトで再結成されたブレッカー・ブラザーズ・バンドが、11月に来日します。残念ながら弟マイケル・ブレッカーは既に故人であるため、代わりに兄ランディーの奥さん、アダ・ロヴァッティが参加しているのですが、このアルバムでプレイしている他のメンバー、ニール・ジェイソン(b、vo)、バリー・フィナティー(g)、テリー・ボジオ(dr)は健在です。
 ブレッカー兄弟というと、1970年代からありとあらゆるジャンルのスタジオ・セッション(別名、小遣い稼ぎのバイト)を超節操なくこなしてきましたが、SMAPがここまでビッグな国民的アイドルになるのに、彼らの一助も小さくはなかったような気がします。まずは、6枚目のアルバム《SMAP 006〜SEXY SIX》の中の、香取慎吾の歌う〈歯が痛い〉にマイケル・ブレッカーが参加し(このアルバムの1曲目は〈East River〉へのオマージュです)、その後のいくつかのアルバムでもブレッカー兄弟を含むニューヨークのAチームが起用され続けたことで、これまでジャニーズとは全く縁がなかったジャズ/フュージョン誌等が取り上げざるをえなくなり、専門性の高いCD屋もSMAPのアルバムを置く必要が生じました。新譜紹介コーナーの論調も最初のうちこそ「●●が参加してるので仕方なく」でしたが、新アルバムをリリースするごとに徐々に、「今度は誰」という積極的な興味を示しているものへと変化していきました。現在では、SMAPのコンサートはお父さんを含む家族全員で楽しむファミリー・イベントになっており、このお父さん層の意識や行動の変革に、ニューヨークの一流アーティストの起用は多かれ少なかれ好影響を与えたのではないでしょうか。

  

 昔は、アイドルというと音楽性は二の次で、まともな文化的営為の扱いはされていませんでしたが、21世紀に入ると、ジャニヲタだけを相手にしているのではない、優れた評論本が登場するようになりました。今年の春に出た『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(市川哲史・著----歴史に残る名著!)では、SMAPを始めとするジャニーズ事務所勢の趨勢に丸々1章がさかれ、鋭い分析と評価がなされています。このような読み応えのある本の存在は、彼ら(&プロダクション・チーム)が批評に値するほどレベルアップした証拠です。あくまで私の個人的な音楽史観の中ではですが(世間と意見が違うことが多いので、一応こう断っておきます)、彼らが現在のようになった重要なきっかけのひとつを与えてくれたのが、ブレッカー・ブラザーズだったと思います。

  

 かなり道草してしまいましたので、そろそろ本題に戻りましょう。11月にブレッカー・ブラザーズ・バンドのメンバーとして来日するテリー・ボジオには、ビリー・シーンとのコラボ盤《Nine Short Films》のリリース時に電話インタビューしたことがあります。話題の中心は新譜についてでしたが、このチャンスを利用して、フランク・ザッパのバンドにいた頃のことや、その後の活動のことも訊いたことは言うまでもありません。ブレッカー・ブラザーズのことも訊きました。時間にしたら3〜4分で、量的にはこの前置きより短いのですが、自分だけで秘蔵してるのももったいないので、これを機会に紹介したいと思います。
 このインタビューは2002年に行なわれたものですが、当時、テリー・ボジオはなぜか日本と縁が薄く、1989年にジェフ・ベックと来て以来、ずっとご無沙汰が続いてました。誰もが驚愕するあの超巨大ドラムセットを日本で保管し、毎年のように来てくれるようになるまで、あと5年かかりました。



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posted by Saved at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | Jazz/Fusion | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする