第1回
ブートレッグ商売を始めたハイスクール生 は
こちら第2回
TMQケンとの出会い は
こちら第3回
Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場 は
こちら第4回
ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBI は
こちら第5回
ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物? は
こちら第6回
レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち は
こちらWizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー
第7回 ピンク・フロイドのブートレッグ、思い出のジャン&ディーン
聞き手:スティーヴ・アンダーソン
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《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスはいつ製造したのか覚えてますか? 以前考えられていたよりも前のことだったようですが。 オレは1973年にロンドンにいて、ローリング・ストーンズが
《Goats Head Soup》をリリースしたばかりで、その頃、UKツアーも始まっていた。
《Take Linda Surfin'》のオリジナル・プレスを1箱持って行って、ロンドン中で取引した。ということは、ラリーとオレが
《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスを作ったのは、1974年よりも前だ。オレの記憶だと、最初に製造したのは1972年後半か1973年のはじめだ。その時、アメリカの俳優、デニス・ウィーヴァーがカスタム・フィデリティーでレコードを作ってたんで、それで、もっとはっきりと時期を特定することが出来るんじゃないかな。
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《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスは黒ビニールだったのですか、カラー・ビニールだったのですか? 《Take Linda Surfin'》のオリジナル・プレスは全部、黒のビニールで、手書きのレーベルだ。
《Miracle Muffler》もそうだ。どちらも最初は、サンタモニカ・ブールヴァードのカスタム・フィデリティーでプレスした。カスタム・フィデリティーは大量に注文しないとカラー盤は作ってくれなかった。しかも、成型機の掃除代として250ドルの追加料金を取られた。オレたちは黒を選んだよ。注文は少しだけだったから。レコードは自分たちのガレージ・バンドのものだって、工場の人には伝えてあったからね。スタッフからは訝
{いぶか}しげに訊かれたよ。「ちょっと確かめたいことがあるんだが、キミたちはガレージ・バンドをやってるんだよね。そのバンドのテープを作ったんだよね。それから、何らかの理由で、テープをヨーロッパに持って行ってメタル・パーツを作ったのに、スタンパーだけをアメリカに持ち帰ったの? それを調整して、レコードをプレスするのを、この工場にやらせたいの? それがキミたちが当社に依頼したいことなのかな?」って。追い出されるのかなと思ってたら、オレたちが何の言葉も発しないうちに、「いいでしょう。引き受けますよ。何枚欲しいんですか?」って言われたよ。その日、そのスタッフに渡して帰ったスタンパーは、マニラ紙で包んであって、マトリクス・ナンバーしか書かれてなかった。作業が終わって返してもらった時には、スリーヴには誰かの手で 「Pink Floyd Bootleg」って殴り書きされていた。中身なんてどうでもよかったんだね。その後も何度もプレスしてくれたし。そうしてオレたちは、レコード・ビジネス全体がいかに腐ってるのかを学んでいった。レコードを作るのは簡単なことだった。中身を問う奴なんていなかった。未来は明るそうだった。
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《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスと比較すると《Miracle Muffler》はどうして入手困難なのでしょう? どうしてカラー・ビニールでプレスされてないのでしょう? タイミングの問題だと想うよ。
《Take Linda Surfin'》から
《Miracle Muffler》までの短期間に、ラリーとオレは南はサンディエゴから、途中のサンタバーバラを含み、北はサンフランシスコまで、レコード店への配給ルートを作り上げたんだ。
《Miracle Muffler》のオリジナル・プレスが州外に出回らなかったのは需要と供給の関係からだ。このレコードはベイエリアだけで山ほど売れた。あの頃は良かったなあ。レコード店がたくさんあった。ヒッピーもたくさんいた。ピンク・フロイド・ファンもたくさんいた。
《Take Linda Surfin'》の時には卸売りのコネクションは持ってなかったから、殆どは他のブートレッグ業者を相手にトレードしたり売ったりして、今度はそいつらが、いろんな場所でそれを売った。1973年には
《Take Linda Surfin'》を75枚、イギリスに持って行って、ロンドン中でトレードしたんだけど、その時は
《Miracle Muffler》は品切れ状態だったんだ。そうでなかったら、このレコードも持って行ったよ。
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あなたにどうしても訊いておかなければならないことなのですが、《Take Linda Surfin'》はカラー盤を作ったのに、《Miracle Muffler》はどうしてカラー盤を作らなかったのですか? 《Miracle Muffler》のカラー盤が見つからないってことが驚きだよ。ルイスで何度もカラー盤を製造したよ。
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本当ですか? どこにもないの? 1枚も見つかってないの?
● そうなんです。私のほうが間違ってるのかなあ。
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《Take Linda Surfin'》《Miracle Muffler》をプレスするのに使われたプレートは、元々は《Embryo》というブートレッグを作るために使われたものだと、昔から言われていますが、実際はどうなのでしょうか? 《Take Linda Surfin'》のスタンパーをカスタム・フィデリティーに最初に持ってった時には、ヨーロッパ式になっていて、アメリカでは使われた形跡はなかった。カスタム・フィデリティーがアメリカのプレス機にも合うように手を加えたんだ。ヨーロッパ式のスタンパーはランオフ・エリア
[ランアウト・エリア、マトリクス・エリアともいう]の後で少し隆起してるんだ。この縁
{ふち}はこっちの機械で使う前にスタンパーから取り除いておかなければならない。メタル・パーツをアメリカに持って来た奴が、スタンパーを2セット(同じマザーから作った同一のもの)持って来たんだろうっていうのが、最も論理的な説明かなあ。予備のスタンパーが必要になる場合もあるだろうから、こうしておいたほうが賢明なんだ。2セットのスタンパーのうち1セットはどこで使われたのかなあ。ルイスじゃないだろう。ムンレイはどうやって調整したらいいのか全然わかってなかっただろうから。レインボならあり得るか。そういうものの扱いは朝飯前だったし、いろんなブートレッガーの行き着く先だったから。もちろん、もう1セットのスタンパーは、カルトに入信したピーター・トソロを通してオレのところに来た。
100%そうだっていう自信はないが、
《Embryo》はレインボでプレスされたんだと思う。クロスビー&ナッシュの
《Very Stoney Evening》や他のたくさんのレコードを作った奴も同じレーベルを使っている。全部、レインボで製造したんだ。こいつや、こいつとレインボ、及び、レインボの経営陣との個人的な関係について面白い話を持ってるんだが、レインボはまだ存在してるので、大丈夫だと判断出来るようになるまでは話すべきではないだろう。酷い話だから。
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この人物の名前はわかってるのですか? 以前に話した通り、レインボの日々の操業はベアという名の女の人が監督してたんだ。工場の全てをだ。プレスのスケジュールを決めたり、会計なんかも全部、彼女が切り盛りしていた。ベアはまた、サンフェルダンド・ヴァレーにある、型にはまらないライフスタイルの(つまり、レズビアン)バーのオーナーでもあった。自宅では18輪トラックを運転してるかのような、小柄でずんぐりむっくりの中年だった。オレが会ったことない奴なんだが、自分より若い男のパートナーと自分の工場でブートレッグを作ってもいた。
ブートレッグの黎明期に、オレにはずっと謎のレーベルが1つあった。ここから出る製品はだいたいいつもダブル・アルバムで、ジャケットは印刷で、打ち抜き加工。折りたたみジャケットを開くと、それぞれのポケットに入ったレコードがある。とてもイカしてたいが、誰が作ってるのかは全然わからなかった。クロスビー&ナッシュの
《Very Stoney Evening》はその好例だった。他にもレッド・ツェッペリンの
《Going to California》やCSNYの
《Live In San Francisco》があった。こうしたレコードはハービー・ハワードから仕入れてはいたが、こいつは製造には全く関与してなかった。このレーベルとそれに関与してた人物は、素早く現れ、素早く消え去った。
オレがまだレインボでWizardo Recordsの製品を作ってる頃、ベアからメタル・パーツや、彼女が関わった「以前の事業」の残ってる在庫の購入を持ちかけられた。どんなものなのかを質問すると、彼女はひとこと言った。「ブートレッグよ」 2日後に、何があるんだろうと思ってベアの自宅に行ってみたところ、ビックリ仰天! 謎のブートレッガーの全カタログがあったんだよ。マザー、スタンパー、アートワーク、それから大量の売れ残りのレコード。リリースしてないものもあった。例えば、まだ日の目を見てないジョージ・ハリスンのサンフランシスコ公演を収めたダブル・アルバムとかがだ。どこから手に入れたのか訊くと、「年下の男のビジネス・パートナー」がいて、別のビジネスを始める際に、ひと財産を残していったのだということだったが、それ以上の詳しいことは話してくれなかった。
この時点で、オレはWizardoの事業を縮小して、学業休暇を取ることを計画してたので、この驚くべき宝の山を自分のコレクションに加えたいと一瞬思ったものの、ベアからそれを購入する理由は全くなかった。だが、買うであろう人物をひとり知ってたので、オレはアンドレアに電話をかけた。彼女は自分が全部を引き取るという契約を、24時間も経たないうちにベアと交わした。「発見者への謝礼」として、アンドレアはオレの個人コレクション用に全タイトルを1枚ずつくれた。その中にはピンク・フロイドが2枚あった。立派な見開きジャケットだったが、中身はよくあるBBC放送だったと思う。
アンドレアが全てを購入したが、逮捕されたのもその頃なので、計画通り再発したタイトルはないと思うよ。
笑える話があるんだ。デヴィッド・Bは「謎のブートレッガー」と電話で話したことがあるんだ。デヴィッドがケン・ダグラスのマケイン・レコード店の1つの経営を任されてた時、招かれざる電話がかかってきたんだ。マケインにブートレッグを売りたいって。デヴィッドは電話でその男にいろいろ質問した後、こいつが謎のブートレッグを作ってる奴だと確信した。デヴィッドはKornyfone
[ケン・ダグラスが関与していたレーベルの1つ、TAKRL]のレコードは卸してもらえるのか?と訊いたら、ブートレッガーはこう答えた。「Kornyfoneのレコードは最低だ。避けたほうがいい」 デヴィッドは電話を切ると、オレに、こいつはとんだ糞野郎だと言った。
《Very Stoney Evening》等の謎のダブル・アルバムの思い出話をもうちょっとすると、多くはカラー盤だったと思う。レインボにはカラー盤を作る設備はあったんだけど、機械を掃除するプロセスに時間がかかるってことで、あまり頻繁には作ってなかった。そういう状況が反映されて、殆どの顧客がすすんで払いたいとは思わないほどの高い料金になっていた。でも、中には高い料金を払った奴もいるんだよ。レインボの作るカラー・レコードは美しかった。ルイスが製造したカラー盤とレインボのカラー盤の違いは透明度なんだ。レインボのカラー盤は光にかざすと透明なんだけど、ルイスのカラー・ビニールにはいつも濁りがある。
レインボでのベアの立場を考えると、オレの推測なんだが、ベアは払いたくない料金があったとしても、成型機の洗浄代なんかどってことないって感じだったんじゃないかな。帳簿外でやってた可能性もあるだろう。だとすると、かなりの利益率だっただろう。
こうしたレコードのレーベルは大きく「1」「2」と書いてあるだけだ。これは当時のTMQのブートレッグと同じスタイルだ。レーベルの別バージョンには「All Rights Reserved - All Wrongs Reversed」というスローガンを初めて使ったものもあった。
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上記のブートレッグは、Wizardoの「社内用」コピーであり、インサートはあなたの手書きで、友人にプレゼントされたものだ、という触れ込みでネットで売られていました。これは本物ですか? 偽物ですか? 現在、「レア」と称する偽のインサートが市場にたくさん出回っていて、この件に関して論争があって…。 すっかり忘れてたよ。これはオレのブートレッグ・パートナーのラリー・フェイン(ラリー・ウィザード)が描いたものだ。こいつは後に、アジアでは有名な漫画家になった。
ググってみてくれ。同じスタンパーが何度も使い回されてたって話はしたよね。レコードがなくなる前に、白ジャケットに巻き付ける紙のカバーのほうがなくなっちゃった時には、テキトーなインサートを急いで印刷するなんてことがあったが、そんなに多くはない。そんなことをしたのは、1軒だけにしか行かない小さな注文を処理した時とかだったよ。その後、オレたちはスタンパーをアンドレアに譲り、彼女は違うインサートを作った。スタンパーはいろんな人に渡っていった。最後はどこに行ったのか知りたいよ。理由はとっくの昔に忘れたが、ウィリアム・スタウトにムカついてた時には、ラリーが5分後には忘れてしまうようなバカな風刺画を描いた。本当に5分で忘れ去られたほうがいいものだったんだけどねえ。こんなくだらないものまで集めてるコレクターがいるんだから、参っちゃうなあ。
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これはいかがですか? インサートではWizardoのロゴの下に「Omayyad」と印刷されています。本物ですか? フェイクですか?
フェイクだ。オリジナルのWizardoのインサートじゃないよ。
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《Screaming Abdab》に関して覚えていることはありますか? 《Dark Side of the Moon》をリリースした後、フロイドの新しい正式なアルバムが出るまでしばらくあった。1974年になってやっと、バンドは新マテリアルを演奏し始めた。ラリーがヨーロッパから入手した新曲のオーディエンス・レコーディングが酷かったのを覚えてるよ。音質が最悪だったんで、演奏してるのが
《Dark Side》じゃないってことくらいしかわからなかった。当時、このバンドへの関心は非常に高く、皆がバンドの新曲を聞きたいと思ってたので、音質が悪かったけど、とにかく
《The Screaming Abdab》っていうタイトルを付けて世に出した。
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《Libest Spacement Monitor》というタイトルの由来は何ですか? その記憶は消えちゃってるなあ。
《Libest Spacement Monitor》は、雑誌か新聞かシアーズ
[アメリカの通販大手]のカタログで見てカッコいいと思って、そこから切り抜いたものだと思う。レーダーのアンテナの写真もそうだ。何を意味してるのかはわからない。こんな回答だと皆をガッカリさせちゃうかもしれないけど、当時のガールフレンドはアシッドを大量にやっていて、フロイドも大好きだったんで、こいつがタイトルを付けた可能性もある。その娘
{こ}の名前、思い出せないなあ…。
《Spacement Monitors》の謎に答えようと頭を絞ってるんだけど、このぼんやりとした記憶が答えの一部にはなるかもしれない。それがリリースされた当時、皆が次のフロイドの正式なアルバムにはどんな音楽が収録されるんだろう?、タイトルは何だろう?って思いを巡らせていた。ラリーと会話をしてた時、こいつがキャピトル・レコードの誰かからフロイドの新譜のタイトルはかくかくしかじかだと聞いたって話してたような気もするから、
《Libest Spacement Monitor》がタイトル候補の1つだった可能性もある。ラリーと連絡を取って、この記憶があるかどうか訊いてみるよ。
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《Pictures Of Pink Floyd》というヨーロッパ製のレアなブートレッグがありました。リリースは1971年です。その片面には「Libest Spacement Monitor」と(ブートレッガーが)題した長いインプロヴィゼーションが収録されているので、あなたがこのブートレッグを持ってたんじゃないかと思ってました。 ワオ! 繋がるねえ。でも、おかしなことに、ヨーロッパ製ブートレッグも自分の作ったブートレッグもはっきりとした記憶がないんだ。オレがヨーロッパ製のブートレッグを持っていて、キミが考えてたように、オレがタイトルをコピーしたか、レコードを丸ごとコピーしたか、デヴィッド・Bか誰かにコピーするようにあげたかした可能性もあるだろう。ジミーが
《Liebest Spacement Monitor》というタイトルのピンク・フロイドのブートレッグの注文を受けて、ジミーがいつもそうだったように、ピンク・フロイドのブートレッグなんかどれも同じだろうと考えて、インサートを適当に印刷して、そこらにあったピンク・フロイドの過剰在庫にテキトーに貼り付けてた可能性もある。そんなことはあまり起こらなかったけど、発送部門にジミーのような人間は欲しくない。オレが一番気に入ってる説は、アシッドが大好きだったガールフレンドが思いついたってことかな。「今何時?」といった質問に対する回答として、よくそんな言葉が口からぺちゃくちゃ出てきたものさ。ヨーロッパ製のブートレッグのほうがオレのブートレッグより後に出た可能性はないのかな? オレには謎だ。
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偶然の一致が多過ぎます。《Pictures Of Pink Floyd》に端を発し、どこかの時点であなたの意識にひっかかったのだと私は思います。簡単に思いつくような言葉ではありません。しかも、何も意味していません。「Libest Spacement Monitor」といったものは存在しません。インサートの「Pink Floyd」というグラフィックは、《Screaming Abdab》のインサートから拝借したものです。なので、《Libest Spacement Monitor》は1975年前後にリリースされたのだと思います。 そうかもね。これはお袋の古いタイプライターの文字だ。ということは、オレがインサートの文字を打って、変な写真をペーストする作業もやったってことだ。ディーラーや問屋が面白いレコーディングを手に入れて、将来に出すレコード用にってオレに渡すことも時々あった。誰かがオレにテープを送る時に、「このレコードを作る際には、…というタイトルにしてくれ」なんて言ってた可能性もあるだろう。はっきり思い出せたらいいのにと思うよ。プレスはルイスかレインボのどちらかでやったと思う。パチパチ、プツプツが多い場合はルイスだ。そういうノイズが少なかったらレインボだ。
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《Midas Touch》に関する裏話はありますか? 《The Midas Touch》はWizardo Recordsが最初に作ったレコードの1つだ。リトル・ダブが作ったフロイドのブートレッグ
《Omayyad》の注文が、サンフランシスコの問屋から大量に入った時に、仲買人をやるより自分のバージョンを作ったほうが利益が大きいので、そうしたんだ。1曲追加しておくとか、ちょっと変更を加えてね。インサートは「マッド・ジャック」がデザインしたものだ。オリジナルは、魔女のジョーンによると「魔法の力」を持つという「茶褐色」の紙に印刷した。ジャック&ジョーンは最もクリエイティヴな時であっても、安定性が完全に欠如してクレイジーな状態からわずか1歩しかこっち側にいなかった。オレはジミーと一緒にジョーンの祭壇で人身御供にされてしまうんじゃないかと戦々恐々としていた。
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今でもコレクションの中にピンク・フロイドのブートレッグをたくさん持っているのですか? 今でもフロイドのブートレッグを大量に抱えてるよ。絶対に手放すことはないだろうね。
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レーベルの話に戻りましょう。あらゆるブートレッグ・レーベルの中で、Wizardoのリリースしたレコードのカタログが一番奥が深く、ボンゾ・ドッグやジェントル・ジャイアントといった知名度の点で劣って、売り上げが見込めそうにないバンドのブートレッグまで含まれています。これって、Wizardoがリリースしたアルバムはあなたの音楽への愛情を表現したもので、他の一部のブートレッガーがそうだったような、動機の100%が金儲けというわけではなかったってことですね。 アナログ・ブートレッグの時代には金儲けが全てじゃなくて、てっぺんから下っ端まで腐りきってる業界で楽しくやるのが主眼だった。イギリスではどうだったか知らないけど、古き良きUSAでは、メジャー・レーベルこそがレコード業界最大の海賊だった。CEOから倉庫の掃除係まで、あらゆる連中がアーティストから利益をぼったくってたんだから。メジャーなレコード会社が「オーバー・ラン」をやってたまさにその工場を、オレは自分のレコードをプレスするのに使ってたんだ。「オーバー・ラン」ていうのは帳簿外でレコードを製造することだ。「宣伝用」と称してね。そうすれば、アーティストに印税を払わなくて済むんだよ。もちろん、そこで作ったレコードは全部、販売するんだ。大手レーベルは、アーティストをあれやこれやの手を使って騙して、帳簿外で何十億ドルっていう利益を出していた。こうした笑っちゃう手口の話をオレはたくさん聞いた。リチャード・トンプソンから直接言われたことがあるよ。キャピトルからよりWizardoからレコードを出したほうが儲かっただろうなあって。昔は楽しかったよ。それに対して、後に韓国でCDを製造するようになった時には、金は入ってきたけど楽しさはなかった。滅茶苦茶な時代だったけど、思い出話をするならアナログ・ブートレッグ時代に限るよ。
オレはあまり知られてないアーティストをブートレッグを通して宣伝するのが好きだった。そうしたアーティストたちも(たいていは)ブートレッグが出ることを気に入っていた。連中はブートレッグをヒップ
[カッコいい]な要因だと思ってたのさ。ジャン&ディーン、キャプテン・ビーフハート、カーヴド・エア、リトル・リチャードをはじめ、他の多くのアーティストがオレに感謝の気持ちを述べてたよ。ディーンはロングビーチのレコード店でジャン&ディーンのブートレッグを見つけて超興奮したんで、自分でブートレッグを作り始めたくらいだ。ローリング・ストーンズもブートレッグが好きみたいだね。
1977年には、短期間だけど、スキーキー・ボーイとオレはビル・ワイマンの私的コレクション用にブートレッグを集めてあげたことがあった。ビルはローリング・ストーンズのものだけでなく、あらゆるブートレッグを欲しがったんで、それこそありったけあげたよ。そもそも、これはスキーキー・ボーイがボビー・キーズとストーンズのテープをトレードしてたことがきっかけなんだ。ボビー・キーズは1973年のヨーロッパ・ツアーでサックスをプレイしていて、演奏に参加したコンサートのオーディエンス・レコーディングを集めてたんだ。特に「オーディエンス・レコーディング」を集めてたっていうのがイカしてると思ったね。ボビーは自分がアクセス出来るオフィシャル・レコーディングには殆ど入ってない観客の反応を聞きたかったんだ。スキーキー・ボーイはストーンズの大ファンで、テープのトレードもやってたから、オレたちは1973年ツアーのレコーディングを大量に持っていた。酷い音質のものが大半だったが、そんなことはどうでもよく、ボビーは全部を欲しがった。
オレたちはハリウッドのAIRサウンドステージでボビーに会う手筈を整えた。彼はレオ・セイヤーの次のツアーのリハーサルに参加してたので、ランチブレイク中に会った。とてもいい人だった。オレたちはボビーが欲しがってた1973年のショウが入ってる約10本のカセットを持参した。ボビーはポケットに手を突っ込んで財布を取り出して、満面に笑みをたたえながら言った。「いくら払えばいいのかな?」 オレたちがお金なんかいりませんよと言ったら、ボビーからとても感謝された。リハーサルを見ていきたい?って訊かれたが、スキーキー・ボーイもオレもレオ・セイヤーのファンじゃなかったんで、丁重に断ってその場を離れた。
ボビーはオレたちのことをビル・ワイマンに話したんだと思う。というのも、AIRで会ってから間もなくして、スキーキー・ボーイのところに何者かから(ビル本人ではないと思う)、ビルのコレクション用にブートレッグを調達することは出来るかという問い合わせがあったからだ。オレたちはサンタモニカにあるパブリシストのオフィスに何度か大量のブートレッグを届けた。ブートレッグを受付の人に渡すと、いつも誠心誠意対応してくれて、ビルはレコードを大変気に入ってますと言ってくれたが、それ以上の情報はくれなかった。サンタモニカまでドライヴしても受付係にしか会えないのでそのうち飽きてしまい、ビルのためにブートレッグを調達するのをやめてしまった。オレの記憶が正しければ、スキーキー・ボーイはビルから礼状をもらったと思う。
お前らはブートレッガーにぼったくられてるってレーベルはアーティストに言う。レーベルはFBIにも同じことを言った。確かにアーティストからぼったくってはいたが、ブートレッグなんてバケツ1杯の水の中の小さな1滴だった。レーベルが「カットアウト盤」や「プロモーション盤」を利用してやってたものが本物の盗みだ。さっきも言った通り、「正規」のレコード業界は頭のてっぺんから爪先まで腐っていた。皆が金を儲けてたが、アーティストは行列の一番最後に並んでる存在で、パイ全体のうち非常に小さな取り分しかもらえなかった。頭のいいレコーディング・アーティストは、ブートレッグが自分の食い扶持にとって脅威でも何でもないことをわかっていて、最もハードコアなファンに対する追加の宣伝として見ていた。ミックかキースに訊いてみるといい。
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