2023年04月24日

【新刊】『ライク・ア・ローリング・カセット カセットテープと私 インタビューズ61』著・湯浅学

 湯浅学がいろんな人(主にミュージシャン)にカセットテープに関する思い出話を聞いている本です。カセットテープというと、グレイトフル・デッドとボブ・ディランが大好きな私(と悪友たち)としては、DATに移行するまで、コンサートの録音と音源のトレードがその主な利用法だったわけですが、この本にはその話題は殆どありませんでした。
 録音とテープ・トレードもファンの間じゃ重要な文化だったんだけどなあ。変な連中しかやってなかったけどさ。
 ただ、高田漣が、オジサンにあたる人がライ・クーダーの名古屋公演をはじめ、その方面で開催されたいろんなコンサートを録音したカセットテープをいろいろ残してることを話題にしてました。

ライク・ア・ローリングカセット: カセットテープと私 インタビューズ61 - 湯浅 学
ライク・ア・ローリングカセット: カセットテープと私 インタビューズ61 - 湯浅 学

ギターというモノ/ギタリストというヒト プルースト、ベイトソン、ソンタグ、高田渡 - 高田漣
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Concert for Modern Times [Analog] - 高田漣
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2020年11月28日

Wizardo回想録&インタビュー:第7回 ピンク・フロイドのブートレッグ、思い出のジャン&ディーン

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBIこちら
第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?こちら
第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたちこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第7回 ピンク・フロイドのブートレッグ、思い出のジャン&ディーン


聞き手:スティーヴ・アンダーソン



《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスはいつ製造したのか覚えてますか? 以前考えられていたよりも前のことだったようですが。

 オレは1973年にロンドンにいて、ローリング・ストーンズが《Goats Head Soup》をリリースしたばかりで、その頃、UKツアーも始まっていた。《Take Linda Surfin'》のオリジナル・プレスを1箱持って行って、ロンドン中で取引した。ということは、ラリーとオレが《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスを作ったのは、1974年よりも前だ。オレの記憶だと、最初に製造したのは1972年後半か1973年のはじめだ。その時、アメリカの俳優、デニス・ウィーヴァーがカスタム・フィデリティーでレコードを作ってたんで、それで、もっとはっきりと時期を特定することが出来るんじゃないかな。

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《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスは黒ビニールだったのですか、カラー・ビニールだったのですか?

 《Take Linda Surfin'》のオリジナル・プレスは全部、黒のビニールで、手書きのレーベルだ。《Miracle Muffler》もそうだ。どちらも最初は、サンタモニカ・ブールヴァードのカスタム・フィデリティーでプレスした。カスタム・フィデリティーは大量に注文しないとカラー盤は作ってくれなかった。しかも、成型機の掃除代として250ドルの追加料金を取られた。オレたちは黒を選んだよ。注文は少しだけだったから。レコードは自分たちのガレージ・バンドのものだって、工場の人には伝えてあったからね。スタッフからは訝{いぶか}しげに訊かれたよ。「ちょっと確かめたいことがあるんだが、キミたちはガレージ・バンドをやってるんだよね。そのバンドのテープを作ったんだよね。それから、何らかの理由で、テープをヨーロッパに持って行ってメタル・パーツを作ったのに、スタンパーだけをアメリカに持ち帰ったの? それを調整して、レコードをプレスするのを、この工場にやらせたいの? それがキミたちが当社に依頼したいことなのかな?」って。追い出されるのかなと思ってたら、オレたちが何の言葉も発しないうちに、「いいでしょう。引き受けますよ。何枚欲しいんですか?」って言われたよ。その日、そのスタッフに渡して帰ったスタンパーは、マニラ紙で包んであって、マトリクス・ナンバーしか書かれてなかった。作業が終わって返してもらった時には、スリーヴには誰かの手で 「Pink Floyd Bootleg」って殴り書きされていた。中身なんてどうでもよかったんだね。その後も何度もプレスしてくれたし。そうしてオレたちは、レコード・ビジネス全体がいかに腐ってるのかを学んでいった。レコードを作るのは簡単なことだった。中身を問う奴なんていなかった。未来は明るそうだった。

《Take Linda Surfin'》のファースト・プレスと比較すると《Miracle Muffler》はどうして入手困難なのでしょう? どうしてカラー・ビニールでプレスされてないのでしょう?

 タイミングの問題だと想うよ。《Take Linda Surfin'》から《Miracle Muffler》までの短期間に、ラリーとオレは南はサンディエゴから、途中のサンタバーバラを含み、北はサンフランシスコまで、レコード店への配給ルートを作り上げたんだ。《Miracle Muffler》のオリジナル・プレスが州外に出回らなかったのは需要と供給の関係からだ。このレコードはベイエリアだけで山ほど売れた。あの頃は良かったなあ。レコード店がたくさんあった。ヒッピーもたくさんいた。ピンク・フロイド・ファンもたくさんいた。《Take Linda Surfin'》の時には卸売りのコネクションは持ってなかったから、殆どは他のブートレッグ業者を相手にトレードしたり売ったりして、今度はそいつらが、いろんな場所でそれを売った。1973年には《Take Linda Surfin'》を75枚、イギリスに持って行って、ロンドン中でトレードしたんだけど、その時は《Miracle Muffler》は品切れ状態だったんだ。そうでなかったら、このレコードも持って行ったよ。

あなたにどうしても訊いておかなければならないことなのですが、《Take Linda Surfin'》はカラー盤を作ったのに、《Miracle Muffler》はどうしてカラー盤を作らなかったのですか?

 《Miracle Muffler》のカラー盤が見つからないってことが驚きだよ。ルイスで何度もカラー盤を製造したよ。

本当ですか?

 どこにもないの? 1枚も見つかってないの?

● そうなんです。私のほうが間違ってるのかなあ。

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《Take Linda Surfin'》《Miracle Muffler》をプレスするのに使われたプレートは、元々は《Embryo》というブートレッグを作るために使われたものだと、昔から言われていますが、実際はどうなのでしょうか?

 《Take Linda Surfin'》のスタンパーをカスタム・フィデリティーに最初に持ってった時には、ヨーロッパ式になっていて、アメリカでは使われた形跡はなかった。カスタム・フィデリティーがアメリカのプレス機にも合うように手を加えたんだ。ヨーロッパ式のスタンパーはランオフ・エリア[ランアウト・エリア、マトリクス・エリアともいう]の後で少し隆起してるんだ。この縁{ふち}はこっちの機械で使う前にスタンパーから取り除いておかなければならない。メタル・パーツをアメリカに持って来た奴が、スタンパーを2セット(同じマザーから作った同一のもの)持って来たんだろうっていうのが、最も論理的な説明かなあ。予備のスタンパーが必要になる場合もあるだろうから、こうしておいたほうが賢明なんだ。2セットのスタンパーのうち1セットはどこで使われたのかなあ。ルイスじゃないだろう。ムンレイはどうやって調整したらいいのか全然わかってなかっただろうから。レインボならあり得るか。そういうものの扱いは朝飯前だったし、いろんなブートレッガーの行き着く先だったから。もちろん、もう1セットのスタンパーは、カルトに入信したピーター・トソロを通してオレのところに来た。
 100%そうだっていう自信はないが、《Embryo》はレインボでプレスされたんだと思う。クロスビー&ナッシュの《Very Stoney Evening》や他のたくさんのレコードを作った奴も同じレーベルを使っている。全部、レインボで製造したんだ。こいつや、こいつとレインボ、及び、レインボの経営陣との個人的な関係について面白い話を持ってるんだが、レインボはまだ存在してるので、大丈夫だと判断出来るようになるまでは話すべきではないだろう。酷い話だから。

この人物の名前はわかってるのですか?

 以前に話した通り、レインボの日々の操業はベアという名の女の人が監督してたんだ。工場の全てをだ。プレスのスケジュールを決めたり、会計なんかも全部、彼女が切り盛りしていた。ベアはまた、サンフェルダンド・ヴァレーにある、型にはまらないライフスタイルの(つまり、レズビアン)バーのオーナーでもあった。自宅では18輪トラックを運転してるかのような、小柄でずんぐりむっくりの中年だった。オレが会ったことない奴なんだが、自分より若い男のパートナーと自分の工場でブートレッグを作ってもいた。
 ブートレッグの黎明期に、オレにはずっと謎のレーベルが1つあった。ここから出る製品はだいたいいつもダブル・アルバムで、ジャケットは印刷で、打ち抜き加工。折りたたみジャケットを開くと、それぞれのポケットに入ったレコードがある。とてもイカしてたいが、誰が作ってるのかは全然わからなかった。クロスビー&ナッシュの《Very Stoney Evening》はその好例だった。他にもレッド・ツェッペリンの《Going to California》やCSNYの《Live In San Francisco》があった。こうしたレコードはハービー・ハワードから仕入れてはいたが、こいつは製造には全く関与してなかった。このレーベルとそれに関与してた人物は、素早く現れ、素早く消え去った。
 オレがまだレインボでWizardo Recordsの製品を作ってる頃、ベアからメタル・パーツや、彼女が関わった「以前の事業」の残ってる在庫の購入を持ちかけられた。どんなものなのかを質問すると、彼女はひとこと言った。「ブートレッグよ」 2日後に、何があるんだろうと思ってベアの自宅に行ってみたところ、ビックリ仰天! 謎のブートレッガーの全カタログがあったんだよ。マザー、スタンパー、アートワーク、それから大量の売れ残りのレコード。リリースしてないものもあった。例えば、まだ日の目を見てないジョージ・ハリスンのサンフランシスコ公演を収めたダブル・アルバムとかがだ。どこから手に入れたのか訊くと、「年下の男のビジネス・パートナー」がいて、別のビジネスを始める際に、ひと財産を残していったのだということだったが、それ以上の詳しいことは話してくれなかった。
 この時点で、オレはWizardoの事業を縮小して、学業休暇を取ることを計画してたので、この驚くべき宝の山を自分のコレクションに加えたいと一瞬思ったものの、ベアからそれを購入する理由は全くなかった。だが、買うであろう人物をひとり知ってたので、オレはアンドレアに電話をかけた。彼女は自分が全部を引き取るという契約を、24時間も経たないうちにベアと交わした。「発見者への謝礼」として、アンドレアはオレの個人コレクション用に全タイトルを1枚ずつくれた。その中にはピンク・フロイドが2枚あった。立派な見開きジャケットだったが、中身はよくあるBBC放送だったと思う。
 アンドレアが全てを購入したが、逮捕されたのもその頃なので、計画通り再発したタイトルはないと思うよ。
 笑える話があるんだ。デヴィッド・Bは「謎のブートレッガー」と電話で話したことがあるんだ。デヴィッドがケン・ダグラスのマケイン・レコード店の1つの経営を任されてた時、招かれざる電話がかかってきたんだ。マケインにブートレッグを売りたいって。デヴィッドは電話でその男にいろいろ質問した後、こいつが謎のブートレッグを作ってる奴だと確信した。デヴィッドはKornyfone[ケン・ダグラスが関与していたレーベルの1つ、TAKRL]のレコードは卸してもらえるのか?と訊いたら、ブートレッガーはこう答えた。「Kornyfoneのレコードは最低だ。避けたほうがいい」 デヴィッドは電話を切ると、オレに、こいつはとんだ糞野郎だと言った。
 《Very Stoney Evening》等の謎のダブル・アルバムの思い出話をもうちょっとすると、多くはカラー盤だったと思う。レインボにはカラー盤を作る設備はあったんだけど、機械を掃除するプロセスに時間がかかるってことで、あまり頻繁には作ってなかった。そういう状況が反映されて、殆どの顧客がすすんで払いたいとは思わないほどの高い料金になっていた。でも、中には高い料金を払った奴もいるんだよ。レインボの作るカラー・レコードは美しかった。ルイスが製造したカラー盤とレインボのカラー盤の違いは透明度なんだ。レインボのカラー盤は光にかざすと透明なんだけど、ルイスのカラー・ビニールにはいつも濁りがある。
 レインボでのベアの立場を考えると、オレの推測なんだが、ベアは払いたくない料金があったとしても、成型機の洗浄代なんかどってことないって感じだったんじゃないかな。帳簿外でやってた可能性もあるだろう。だとすると、かなりの利益率だっただろう。
 こうしたレコードのレーベルは大きく「1」「2」と書いてあるだけだ。これは当時のTMQのブートレッグと同じスタイルだ。レーベルの別バージョンには「All Rights Reserved - All Wrongs Reversed」というスローガンを初めて使ったものもあった。

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上記のブートレッグは、Wizardoの「社内用」コピーであり、インサートはあなたの手書きで、友人にプレゼントされたものだ、という触れ込みでネットで売られていました。これは本物ですか? 偽物ですか? 現在、「レア」と称する偽のインサートが市場にたくさん出回っていて、この件に関して論争があって…。

 すっかり忘れてたよ。これはオレのブートレッグ・パートナーのラリー・フェイン(ラリー・ウィザード)が描いたものだ。こいつは後に、アジアでは有名な漫画家になった。ググってみてくれ。同じスタンパーが何度も使い回されてたって話はしたよね。レコードがなくなる前に、白ジャケットに巻き付ける紙のカバーのほうがなくなっちゃった時には、テキトーなインサートを急いで印刷するなんてことがあったが、そんなに多くはない。そんなことをしたのは、1軒だけにしか行かない小さな注文を処理した時とかだったよ。その後、オレたちはスタンパーをアンドレアに譲り、彼女は違うインサートを作った。スタンパーはいろんな人に渡っていった。最後はどこに行ったのか知りたいよ。理由はとっくの昔に忘れたが、ウィリアム・スタウトにムカついてた時には、ラリーが5分後には忘れてしまうようなバカな風刺画を描いた。本当に5分で忘れ去られたほうがいいものだったんだけどねえ。こんなくだらないものまで集めてるコレクターがいるんだから、参っちゃうなあ。

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これはいかがですか? インサートではWizardoのロゴの下に「Omayyad」と印刷されています。本物ですか? フェイクですか?


 フェイクだ。オリジナルのWizardoのインサートじゃないよ。

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《Screaming Abdab》に関して覚えていることはありますか?

 《Dark Side of the Moon》をリリースした後、フロイドの新しい正式なアルバムが出るまでしばらくあった。1974年になってやっと、バンドは新マテリアルを演奏し始めた。ラリーがヨーロッパから入手した新曲のオーディエンス・レコーディングが酷かったのを覚えてるよ。音質が最悪だったんで、演奏してるのが《Dark Side》じゃないってことくらいしかわからなかった。当時、このバンドへの関心は非常に高く、皆がバンドの新曲を聞きたいと思ってたので、音質が悪かったけど、とにかく《The Screaming Abdab》っていうタイトルを付けて世に出した。

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《Libest Spacement Monitor》というタイトルの由来は何ですか?

 その記憶は消えちゃってるなあ。《Libest Spacement Monitor》は、雑誌か新聞かシアーズ[アメリカの通販大手]のカタログで見てカッコいいと思って、そこから切り抜いたものだと思う。レーダーのアンテナの写真もそうだ。何を意味してるのかはわからない。こんな回答だと皆をガッカリさせちゃうかもしれないけど、当時のガールフレンドはアシッドを大量にやっていて、フロイドも大好きだったんで、こいつがタイトルを付けた可能性もある。その娘{こ}の名前、思い出せないなあ…。
 《Spacement Monitors》の謎に答えようと頭を絞ってるんだけど、このぼんやりとした記憶が答えの一部にはなるかもしれない。それがリリースされた当時、皆が次のフロイドの正式なアルバムにはどんな音楽が収録されるんだろう?、タイトルは何だろう?って思いを巡らせていた。ラリーと会話をしてた時、こいつがキャピトル・レコードの誰かからフロイドの新譜のタイトルはかくかくしかじかだと聞いたって話してたような気もするから、《Libest Spacement Monitor》がタイトル候補の1つだった可能性もある。ラリーと連絡を取って、この記憶があるかどうか訊いてみるよ。

《Pictures Of Pink Floyd》というヨーロッパ製のレアなブートレッグがありました。リリースは1971年です。その片面には「Libest Spacement Monitor」と(ブートレッガーが)題した長いインプロヴィゼーションが収録されているので、あなたがこのブートレッグを持ってたんじゃないかと思ってました。

 ワオ! 繋がるねえ。でも、おかしなことに、ヨーロッパ製ブートレッグも自分の作ったブートレッグもはっきりとした記憶がないんだ。オレがヨーロッパ製のブートレッグを持っていて、キミが考えてたように、オレがタイトルをコピーしたか、レコードを丸ごとコピーしたか、デヴィッド・Bか誰かにコピーするようにあげたかした可能性もあるだろう。ジミーが 《Liebest Spacement Monitor》というタイトルのピンク・フロイドのブートレッグの注文を受けて、ジミーがいつもそうだったように、ピンク・フロイドのブートレッグなんかどれも同じだろうと考えて、インサートを適当に印刷して、そこらにあったピンク・フロイドの過剰在庫にテキトーに貼り付けてた可能性もある。そんなことはあまり起こらなかったけど、発送部門にジミーのような人間は欲しくない。オレが一番気に入ってる説は、アシッドが大好きだったガールフレンドが思いついたってことかな。「今何時?」といった質問に対する回答として、よくそんな言葉が口からぺちゃくちゃ出てきたものさ。ヨーロッパ製のブートレッグのほうがオレのブートレッグより後に出た可能性はないのかな? オレには謎だ。

偶然の一致が多過ぎます。《Pictures Of Pink Floyd》に端を発し、どこかの時点であなたの意識にひっかかったのだと私は思います。簡単に思いつくような言葉ではありません。しかも、何も意味していません。「Libest Spacement Monitor」といったものは存在しません。インサートの「Pink Floyd」というグラフィックは、《Screaming Abdab》のインサートから拝借したものです。なので、《Libest Spacement Monitor》は1975年前後にリリースされたのだと思います。

 そうかもね。これはお袋の古いタイプライターの文字だ。ということは、オレがインサートの文字を打って、変な写真をペーストする作業もやったってことだ。ディーラーや問屋が面白いレコーディングを手に入れて、将来に出すレコード用にってオレに渡すことも時々あった。誰かがオレにテープを送る時に、「このレコードを作る際には、…というタイトルにしてくれ」なんて言ってた可能性もあるだろう。はっきり思い出せたらいいのにと思うよ。プレスはルイスかレインボのどちらかでやったと思う。パチパチ、プツプツが多い場合はルイスだ。そういうノイズが少なかったらレインボだ。

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《Midas Touch》に関する裏話はありますか?

 《The Midas Touch》はWizardo Recordsが最初に作ったレコードの1つだ。リトル・ダブが作ったフロイドのブートレッグ《Omayyad》の注文が、サンフランシスコの問屋から大量に入った時に、仲買人をやるより自分のバージョンを作ったほうが利益が大きいので、そうしたんだ。1曲追加しておくとか、ちょっと変更を加えてね。インサートは「マッド・ジャック」がデザインしたものだ。オリジナルは、魔女のジョーンによると「魔法の力」を持つという「茶褐色」の紙に印刷した。ジャック&ジョーンは最もクリエイティヴな時であっても、安定性が完全に欠如してクレイジーな状態からわずか1歩しかこっち側にいなかった。オレはジミーと一緒にジョーンの祭壇で人身御供にされてしまうんじゃないかと戦々恐々としていた。

今でもコレクションの中にピンク・フロイドのブートレッグをたくさん持っているのですか?

 今でもフロイドのブートレッグを大量に抱えてるよ。絶対に手放すことはないだろうね。

レーベルの話に戻りましょう。あらゆるブートレッグ・レーベルの中で、Wizardoのリリースしたレコードのカタログが一番奥が深く、ボンゾ・ドッグやジェントル・ジャイアントといった知名度の点で劣って、売り上げが見込めそうにないバンドのブートレッグまで含まれています。これって、Wizardoがリリースしたアルバムはあなたの音楽への愛情を表現したもので、他の一部のブートレッガーがそうだったような、動機の100%が金儲けというわけではなかったってことですね。

 アナログ・ブートレッグの時代には金儲けが全てじゃなくて、てっぺんから下っ端まで腐りきってる業界で楽しくやるのが主眼だった。イギリスではどうだったか知らないけど、古き良きUSAでは、メジャー・レーベルこそがレコード業界最大の海賊だった。CEOから倉庫の掃除係まで、あらゆる連中がアーティストから利益をぼったくってたんだから。メジャーなレコード会社が「オーバー・ラン」をやってたまさにその工場を、オレは自分のレコードをプレスするのに使ってたんだ。「オーバー・ラン」ていうのは帳簿外でレコードを製造することだ。「宣伝用」と称してね。そうすれば、アーティストに印税を払わなくて済むんだよ。もちろん、そこで作ったレコードは全部、販売するんだ。大手レーベルは、アーティストをあれやこれやの手を使って騙して、帳簿外で何十億ドルっていう利益を出していた。こうした笑っちゃう手口の話をオレはたくさん聞いた。リチャード・トンプソンから直接言われたことがあるよ。キャピトルからよりWizardoからレコードを出したほうが儲かっただろうなあって。昔は楽しかったよ。それに対して、後に韓国でCDを製造するようになった時には、金は入ってきたけど楽しさはなかった。滅茶苦茶な時代だったけど、思い出話をするならアナログ・ブートレッグ時代に限るよ。
 オレはあまり知られてないアーティストをブートレッグを通して宣伝するのが好きだった。そうしたアーティストたちも(たいていは)ブートレッグが出ることを気に入っていた。連中はブートレッグをヒップ[カッコいい]な要因だと思ってたのさ。ジャン&ディーン、キャプテン・ビーフハート、カーヴド・エア、リトル・リチャードをはじめ、他の多くのアーティストがオレに感謝の気持ちを述べてたよ。ディーンはロングビーチのレコード店でジャン&ディーンのブートレッグを見つけて超興奮したんで、自分でブートレッグを作り始めたくらいだ。ローリング・ストーンズもブートレッグが好きみたいだね。
 1977年には、短期間だけど、スキーキー・ボーイとオレはビル・ワイマンの私的コレクション用にブートレッグを集めてあげたことがあった。ビルはローリング・ストーンズのものだけでなく、あらゆるブートレッグを欲しがったんで、それこそありったけあげたよ。そもそも、これはスキーキー・ボーイがボビー・キーズとストーンズのテープをトレードしてたことがきっかけなんだ。ボビー・キーズは1973年のヨーロッパ・ツアーでサックスをプレイしていて、演奏に参加したコンサートのオーディエンス・レコーディングを集めてたんだ。特に「オーディエンス・レコーディング」を集めてたっていうのがイカしてると思ったね。ボビーは自分がアクセス出来るオフィシャル・レコーディングには殆ど入ってない観客の反応を聞きたかったんだ。スキーキー・ボーイはストーンズの大ファンで、テープのトレードもやってたから、オレたちは1973年ツアーのレコーディングを大量に持っていた。酷い音質のものが大半だったが、そんなことはどうでもよく、ボビーは全部を欲しがった。
 オレたちはハリウッドのAIRサウンドステージでボビーに会う手筈を整えた。彼はレオ・セイヤーの次のツアーのリハーサルに参加してたので、ランチブレイク中に会った。とてもいい人だった。オレたちはボビーが欲しがってた1973年のショウが入ってる約10本のカセットを持参した。ボビーはポケットに手を突っ込んで財布を取り出して、満面に笑みをたたえながら言った。「いくら払えばいいのかな?」 オレたちがお金なんかいりませんよと言ったら、ボビーからとても感謝された。リハーサルを見ていきたい?って訊かれたが、スキーキー・ボーイもオレもレオ・セイヤーのファンじゃなかったんで、丁重に断ってその場を離れた。
 ボビーはオレたちのことをビル・ワイマンに話したんだと思う。というのも、AIRで会ってから間もなくして、スキーキー・ボーイのところに何者かから(ビル本人ではないと思う)、ビルのコレクション用にブートレッグを調達することは出来るかという問い合わせがあったからだ。オレたちはサンタモニカにあるパブリシストのオフィスに何度か大量のブートレッグを届けた。ブートレッグを受付の人に渡すと、いつも誠心誠意対応してくれて、ビルはレコードを大変気に入ってますと言ってくれたが、それ以上の情報はくれなかった。サンタモニカまでドライヴしても受付係にしか会えないのでそのうち飽きてしまい、ビルのためにブートレッグを調達するのをやめてしまった。オレの記憶が正しければ、スキーキー・ボーイはビルから礼状をもらったと思う。
 お前らはブートレッガーにぼったくられてるってレーベルはアーティストに言う。レーベルはFBIにも同じことを言った。確かにアーティストからぼったくってはいたが、ブートレッグなんてバケツ1杯の水の中の小さな1滴だった。レーベルが「カットアウト盤」や「プロモーション盤」を利用してやってたものが本物の盗みだ。さっきも言った通り、「正規」のレコード業界は頭のてっぺんから爪先まで腐っていた。皆が金を儲けてたが、アーティストは行列の一番最後に並んでる存在で、パイ全体のうち非常に小さな取り分しかもらえなかった。頭のいいレコーディング・アーティストは、ブートレッグが自分の食い扶持にとって脅威でも何でもないことをわかっていて、最もハードコアなファンに対する追加の宣伝として見ていた。ミックかキースに訊いてみるといい。


   




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2020年11月22日

Wizardo回想録&インタビュー:第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら
第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBIこちら
第5回 ルイス・レコードとエルトン・ジョンのブートレッグを作った超危険人物?こちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第6回 レインボ・レコードとカラー盤、ブートレッグ嫌いのアーティストたち


聞き手:スティーヴ・アンダーソン



あなたが昔、利用していた他の工場についても教えてください。レインボ・レコードとか。

 レインボ・レコードはサンタモニカにあった。フリーウェイ10号線を降りて、フリーウェイ5号線から海まで延々と続く工場の建物の間に、レインボ・レコードがあった。サンタモニカ・シヴィック・センターから遠くはなかったので、そこでコンサートをたくさん録音しては、後になってそのレコードをレインボでプレスした。この工場はシンダーブロック[石炭殻を用いた軽量ブロック]で作られた大きな2階建てのビルの中にあった。このビルは恐らく1950年代に建てられたものだと思うけど、レコードのプレス機はもっと新しくて、1960年代に製造されたものだった。手動の機械だったが、とても高音質のレコードが出来た。

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 1970年代のレインボ・レコードの一番いいところが駐車場だ。南カリフォルニアのあらゆる都市と同じく、サンタモニカも自動車が多過ぎて駐車スペースが足りなかったんだが、レインボは工場のビルの屋上に駐車場を作ることでこの問題を解決していた。急なドライヴウェイを上がって屋上に出ると、そこはだだっ広い平らな屋根で、ここにとめてくださいなんていうスペースの指示はなかった。車をとめた後、駐車場の一番北のところまで歩いて行き、そこにある小さな建物のドアから中に入ると急な階段があって、それをおりるとレインボのロビーがあった。
 レインボの屋上はペンキで駐車スペースが記されてはいなかったが、どこにでも車をとめていいわけではなかった。1960年代後半に、グレン・キャンベルは『ザ・グレン・キャンベル・グッドタイム・アワー』というテレビ番組を持っていた。放送時間は忘れてしまったが、何らかの理由で、毎回、ショウの最後にはレインボ・レコードの屋根のシーンが流れた。屋根のあちこちにセットや背景幕、支柱があったので、グレン・キャンベル・ショウの中を縫うように進んで車をとめなければならなかった。現実世界とは思えない。ディズニーランドの乗り物のようだった。オレは8mmカメラを持って来て、ラリーが屋上のセットのまわりを走ってる映画を作った。そのフィルム、今はどこにあるのかなあ?
 以前、レコード産業は腐ってたって話をしたけど、レインボも他社と同様、腐っていた。つまり、皆が腐ってたってことだ。全員がだ。ブートレッグ(と音楽の海賊行為)の歴史の中でレインボがどんな立場だったかがよくわかる話を2つしよう。
 「正規の」レコード会社が契約アーティストから利益をぼったくる最たるやり方の1つが、「プロモーション盤」や「カットアウト盤」を作ることだ。ラジオ局や評論家に送られるプロモーション用レコードからは、アーティストは印税をもらえない。同じく、在庫過剰のため、ジャケットを「カットアウト」した上で割引価格で小売り業者に売られるレコードからも、アーティストは印税をもらえない。帳簿外で独立系のプレス工場にカットアウト盤やプロモ盤を作らせれば莫大な利益を上げられることにレコード会社が気づくまで、長い時間はかからなかった。つまり、こういうカラクリがあるんだよ。あなたがレコード会社だとしよう。そして、キャット・スティーヴンスのような売れっ子アーティストを抱えている。そいつには《Tea For The Tillerman》のような大ヒット・アルバムがある。10万枚売れた時点で、キャト・スティーヴンスに告げるんだ。売れ行きが止まっちゃったので、そろそろ在庫はカットアウトにして値下げして売って、倉庫のスペースをあけましょうって。でも、そんなの嘘だ。レコードはまだ売れている。そんな時に、レインボに行ってさらに10万枚製造して、カットアウトとして問屋に売るんだ。レコード会社はキャット・スティーヴンスに印税を払わないから、同じくらい儲かる。税金もなし。しかも、帳簿外で。レコードが本当に売れなくなるまでこのプロセスを繰り返す。キャット・スティーヴンスの場合、レコードが売れなくなるなんてことはない。レインボはもっぱらキャピトルのためにカットアウト盤やプロモーション盤を製造して経営を続けてきた。1970年代半ばにキャピトルはビートルズのベスト盤《Rock'N'Roll Music》をリリースした。その頃、レインボがオレのメタル・パーツを誤って破損してしまったため、弁償したいと言ってきたことがあった。オレは現金ではなく、ビートルズのニュー・アルバムを2箱分もらったよ。中のアルバムは全部、ジャケットに「Promotional - Not For Sale」っていうスタンプが押してあった。キャピトルがやってるのと同じように、オレもそれを売り払った。
 ジミー・マディンがオレのブートレッグ・パートナーだった頃、ジミーは全タイトルを1つのプレス工場で製造して、経営体制を集中させようとした。ジミーはアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ第3回を参照のこと]の部長をしてた頃からレインボ・レコードのことを知ってたので、ビジネス契約の話し合いを行なうために、レインボの社長のジャック・ブラウンとのミーティングの約束を取り付けてくれと言ってきた。オレはこの件に大きな懸念を抱いていた。いろんなブートレッガーがレインボでレコードをプレスしてるのは知ってたが、その殆どは「1回限り」であって、1タイトル作ったら次は別の工場に行くという具合だった。新たにアルバムを30枚も持ってって、レインボ・レコードで大規模なブートレッグの製造を行ないたいと社長に告げるとなると、話は違うだろう。ドアの外に放り出されることになるかもとオレは思ったが、とにかくミーティングの約束は取り付けた。財布の紐を握ってたのはジミーだったので、彼が勧める通りにやってみることにした。
 ジミーはオレよりかなり年上で、グレイの髪がバーコード状態になってたが、着てるスーツが古くてシワがあっても堂々としていた。ジャックとミーティングをするためにレインボに到着した時にも、ジミーはそういう格好をしていた。案内された2階にあるジャックの巨大なオフィスには、1950年代にレインボが発足した当時からの調度品があった。巨大な木製の机の向こうで葉巻を吹かしてる大柄の男がジャックだった。オレたちは彼の机の前にある人工皮革のソファーに腰を下ろすように言われた。既にビビッてはオレは、緊張しながら口上を開始した。私どもは小さなレコード会社でして、現在、まだ約30タイトルしかリリースしていませんが、最新の設備があって、料金が手頃なプレス工場を探しています…と。オレのプレゼンは順調に進み、ジャックも相づちを打ちながらオレの話を聞いていた。と、突然、オレの話を遮って質問してきた。「リリースしたのはどんな種類のレコードですか?」と。気まずい沈黙。ゲーム終了って思ってジミーのほうを見ると、こいつはジャックに向かっていたって冷静に言った。「今更、どうしてそんなこと質問するんだよ?」 またまた長い沈黙。オレはジャックがすぐにでも警察に電話をかけるんじゃないかと思ったが、彼は笑い始めた。すると、ジミーも笑い始めた。オレも笑い始めた。ジャックは葉巻をワイルドに振りながら大声で笑った。「オレっていったい何を考えてたんだ?」とでも言うかのように。オレたちはクスクス笑いながら握手をした。そして、Wizardoはまさにその翌日にはレインボでレコードのプレスを開始した。レインボとオレたちは、その後、何年間も、良いビジネス関係を維持した。

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あなたは当時、大量のブートレッグ・コレクションを持っていたそうですが、好きなバンドのブートレッグだけを買っていたのですか? アーティストは関係なく、持っていないものなら何でも買っていたのですか? ビニールの色やレーベルの違いも重要だったのですか? つまり、多くのコレクターと同様、あらゆるバージョンを揃えるために、同じ内容のブートレッグを何枚も買っていたのですか? それとも、タイトルごとに1枚あれば満足だったのですか? 『Hot Wacks』を抜かしたら、あなたは世界初のハードコアなブートレッグ・コレクターなので、どういう方針で収集していたのか、是非聞かせて欲しいのですが…。

 ラリーとオレがブートレッグを集め始めたのは《Get Back To Toronto》を手にした日だね。それから1週間もしないうちに、お気に入りのアングラFM局 (KYMS)が《LIVEr Than You'll Ever Be》を流したんだ。DJが「スーパーマーケットの裏や薄暗い路地でしか買えないブートレッグ・レコードの1つです」って話してたよ。オレたちは虜になった。ラリーもオレも、地元のセイフウェイ[スーパーマーケット・チェーン]の裏ではブートレッグは手に入らないことは知っていた。それ以外のことは全然わからなかった。ウィンの楽器店には《Get Back To Toronto》しか置いてなかった。言うまでもなく、大きなデパートのレコード売場のカウンターにはブートレッグは置いてなかった。なので、オレンジ・カウンティー中にどんどん出現してるカラフルなヘッドショップや小さな独立系のレコード店なら置いてあるかもと考えたんだが、ラリーとオレの暮らすタスティンはそういう店は皆無だった。長髪や音楽、レコード、その他の共産主義的活動は、タスティンにおいては御法度だった。12歳の時、タスティンの警官から『ライ麦畑でつかまえて』を没収されたことがある。「キミがポルノを読んでるのを、お父さん、お母さんはご存じのかな?」って怒り心頭だった。トホホ。ちょっと脱線しちゃったね。
 ラリーもオレも自動車を運転出来る年齢じゃなかったから、なかなか見つからないブートレッグ・レコードを探して、自転車のペダルを必死にこいで走り回らなければならなかった。楽しかったなあ。フランス製の10段変速の自転車を持っていて、お宝を見つけたらそれを入れるためのバックパックを背負ってた。自転車で行ける限りの、あらゆるサイケデリックなレコード店やヘッドショップをあたったよ。こうした遠出のおかげで、最初のブートレッグは全部、手に入れることが出来た。《LIVEr》《Great White Wonder》《Isle of Wight》など、見つけたものは全部買った。こうした非正規盤には驚き、魅了された。全部、持ってなきゃいけないと感じてた。一生治らない中毒だ。
 オレのブートレッグ・コレクションは初版が中心だった。全アーティストが対象だった。このビジネスの中にいたので、作ってる奴から新譜を直接手に入れるのは簡単だった。殆どのリイシューやビニールの色違いには関心がなかった。最初にリリースされたバージョンのみを集めていた。ヨーロッパ製のブートレッグについては、リカルドとフェリーっていう2人のオランダ人に頼っていた。彼らがいなかったら入手困難だったものを、たくさんオレに流してくれた。アンドレアは時々ヨーロッパに行くたびに、驚きの土産を持ち帰った。あるイタリアのブートレッガーの全カタログをお土産に持って帰って来たこともあった。存在してるとは知らなかったものをね。当時、ブートレッグを収集する際、「本拠地」にいるっていう強みも確かにあっただろう。今でもこうしたブートレッグは全部持ってるよ。
 ブートレッグ界の初期に活躍してた無名のヒーローの中で、マルコム・Mはオレの一番のお気に入りだ。マルコムはケンの友人で、オレらがロングビーチ大学[カリフォルニア州立大学ロングビーチ校]に通ってた頃に会った。マルコムがブートレッグ・ビジネスを始めたのは、たぶん、そういう人間関係があったせいだと思う。バッファロー・スプリングフィールドの《Roots》、ジェファーソン・エアプレインの《Winterland》、グレイトフル・デッドの《Fillmore》など、オレが大好きだったアルバムをたくさん作った。マイケルはルイスのプレスは糞だと思ってたので、自分の出すレコードの殆どをレインボで製造していた。マルコムは6フィート[180cm]を超える高身長で、立派なもみあげとオシャレな口ひげを持っていた。カールした髪を前は短く、後ろは長くしていて、頭頂部は薄かった。マイケルは、オレにとっては、1970年代のカッコ良さの頂点だった。
 ブートレッガーは皆、自分のことをクールだと思っていた。ブートレッガーであること自体がとにかくクールなんだからって理由でね。でも、全てのブートレッガーの中でもマルコムは一番カッコよかった。しゃべり方がカッコよかった。ジェイムズ・キャグニーのスタイルで、口の半分でしゃべるんだけど、こいつは流暢に自然に首尾一貫してやっていた。先祖代々、そういう血が流れてるんじゃないかなって思ったくらいさ。でも、お袋さんに会ったら、ごく普通のしゃべり方だったので、それはマルコムだけのものだった。しかも、素敵だった。マルコムはとても興味深い奴で、こいつの声だったら何時間でも聞いていられる。
 マルコムはロングビーチの、ケンとヴェスタの家から遠くないところにアパートメントを持っていた。オレはマルコムのところに遊びに行くのが好きだった。それもこれも、こいつが一番カッコいいブートレッガーだったからなのだが、最大の理由はブートレッグ・コレクターの第1号だったらだ。リビングルームはこいつのブートレッグ・コレクションでいっぱいだった。棚や箱に入りきらない大量のレコードが床の上にいくつもの長い列を作っていた。そんなのは見たことがない。オレはこうしたレコードをぱらぱらめくって、見たことのない凄いブートレッグを見つけるのが好きだった。マルコムは超カッコいい奴だった。ある日、オレが部屋の隅にある「新入荷」の山を忙しくチェックしてると、こいつは何気なく「帰宅する時、封筒に入った金をレコードのどれかに隠しといたんだけど、見つからないんだよ。見つけたら教えてくれ」なんて言う。冗談を言ってるんだと思ってたのだが、約20分後、《Ballsy Blues》というタイトルのジャニス・ジョップリンのブートレッグを見つけ、それを拾い上げたら封筒が落ちて、100ドル札70枚が床に散らばった。最近では7,000ドルなんてそんなに大金ではないが、あの時は、自宅のリビングで7,000ドルもレコードの中に入れてなくすなんて相当ビックリした。それもマイケルのカッコいいところだった。
 たいていのブートレッガーと同様、マルコムも強い冒険心の持ち主だった。冒険心は基本的には持ってるといい性質だが、マイナス面は、慎重さを欠いてる場合、人生の悪い選択を招いてしまいかねないってことだ。オレを含む殆どのブートレッガーと同じく、マルコムもマルコムなりに人生の選択を誤ることがあった。こいつの人生はジェットコースターだった。ある週、金持ちだったと思うと、次の週は乞食だった。でも、マルコムはいつもカッコよかった。

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ある時期、Wizardoのインサートは見た目がだいたい同じになりました。誰のせいですか?

 ジャケットのあのスタイルのアートワークは、皆のジャックとジョーンが作ったんだ。こいつらはハリウッドの芸能人の取り巻きで、皆の知り合いのようだった。ジョーンは魔女で、ジャックはさすらいのタクシー運転手(当然もぐり)で、チャールズ・マンソンがマリファナを宅配をやる時には、こいつの車によく乗っていた。ジャックとジョーンは古いセシル・B・デミル監督のの防音スタジオで結婚式を挙げた。オレがこいつらと会ったのは、ハリウッドの古株、ジミー・マディンを通してだった。ジミーは長年、Wizardoの隠れたパートナーを務めてくれた人物だ。1950年代には自分のテレビ番組を持ってる有名なサックスプレイヤーで、1960年代にはアメリカン・インターナショナルの音楽部長となり、その後、ナイトクラブのオーナーとなった。何かの風の吹き回しでビッグ・ダブと知り合いになり、ブートレッグの製造に興味を示したのだが、ビッグ・ダブの息子のリトル・ダブはジミーと関係を持とうとしなかったので、オレのところに電話をかけてきて、財政面の支援者は必要ないかと訊いた。その後のことは、俗に言う、皆さんご存じの通りだ。最初の10枚くらいをリリースした後、ジミーもオレもジャック&ジョーンの屁人ぶりにウンザリして、電話番号も変えて、インサートのアートワークも変えたんだ。
 インサート作りに関しては、ブートレッガー全員が超怠け者だが、一番怠け者なのがオレだった。何らかの理由で、インサートはさっさと作られることが多かった。「やべえ。ツェッペリンのブートレッグを明日出荷しなきゃいけないのに、インサートを印刷するのを忘れてた」とかさ。その結果、オレのブリーフケースには、方眼紙とゴム糊、ペンナイフ、擦ると下の紙に文字が移るレタリング・シート、雑誌から切り取った写真やらがわんさか入っていた。印刷機の前でインサートをこしらえるためにだ。雑誌からは写真と一緒に、インサート用にリサイクル出来そうなグラフィック・アートやテキストも切り取っておいた。この好例がパティー・スミスのブートレッグ《Turn It Up》だ。「Turn It Up」の文字は『ナショナル・ランプーン』誌に載ってたマクセルの広告からパクったものだ。Wizardoのブートレッグの多くのインサートは『ナショナル・ランプーン』誌に載ってたグラフィックからパクったものを使っている。あの頃のオレがどんなものを読んでたか、バレてしまうなあ。

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 ハイスクール時代、オレにはスービー(SueBee)っていうブロンド美人のガールフレンドがいた。蜂蜜のようにスウィートだからスービーだったのだが、彼女は3人の友達と一緒にザ・ドゥービー・シスターズというアカペラ・グループをやっていた。面白いことに、彼女らがこの名前を選んだのは、もうちょっと有名なザ・ドゥービー・ブラザーズというグループの活躍がオレの耳に届くようになる数年前のことだった。シスターズは時代を先取りしてたと言える。このグループはしばしば、Bトフ・バンドと一緒に歌ってたが、そのことで彼女らを責めないでくれ。ザ・ドゥービー・シスターズの他のメンバー、マーシー・ブロウスタインも、オレがタスティンの実家で暮らしてた頃のご近所さんだ。


   




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posted by Saved at 11:01| Comment(0) | Music Industry | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする