2020年11月13日

Wizardo回想録&インタビュー:第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBI

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら
第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場こちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第4回 ランナウェイズ、ストーンズの未発表曲、FBI



聞き手:スティーヴ・アンダーソン


 キム・フォウリーは魅力的な男だ。身長が6フィート[180cm]を超えてたこいつは、自分は背が高過ぎてロックスターには向いてないと思ってはいたが、その道を諦めてたわけではない。1958年、キムはジャン&ディーンと同じ高校に通っていた。このデュオが〈Jennie Lee〉で初のヒットを飛ばした時、キムは自分にもヒット・レコードを作ることが出来るはずだと感じた。だって、ジャン&ディーンに出来ることなんだから(大きく健康的なエゴは、常に、キムのオーバーサイズの人格の大きな一部だった)。そして、笑ってしまうことに、キムは実際、同年に、ジャン&ディーンよりも大きなヒット・レコードを作った。キムのグループ、ザ・ハリウッド・アーガイルズがリリースした〈Alley Oop〉というノヴェルティー・ソングは、同じ年に、チャートを第1位まで上昇したのだ。しかし、ジャン&ディーンはその後もヒット曲を出し続けることが出来たのだが、キム・フォウリーはその器ではなかった。
 キムは1960年代の大部分を再度ヒットを飛ばそうと企てて、うまくいったりいかなかったりしていたが、1970年代半ばには、他の才能を育てる「プロデューサー」と「プロモーター」の2役をこなすことに落ち着いていた。1960年代の女の子のバンド、ザ・シャングリラスがずっと大好きだったキムは、1970年代仕様にアップデートした「パンク」バージョンのバンドを作れば、同じくらい人気が出るかもと考え、3人の若い女性ミュージシャンを勧誘して、ハリウッドのスタジオでリハーサルをさせた。そうして誕生したのがザ・ランナウェイズだった。キムは彼女らを「スクール・ガール・ロックンロール」として宣伝し、マーキュリー・レコードとの契約を獲得した。何度かのメンバーチェンジを経た後にバンドは4人組となり、ファースト・シングル〈Cherry Bomb〉を宣伝するためにワールド・ツアーを開始した。バンドは驚くべき速さでトップに向かって突っ走り、キム・フォウリー本人も再び注目されるに至った。
 ランナウェイズはハリウッドのザ・スターウッドに出演予定だったので、オレは是非、このショウのブートレッグを出したいと思った。ということで、友人{ダチ}のマイクとオレはチケットを買った。マイクはベトナム戦争に行った兵役経験者で、並々ならぬレコード・コレクターだった。オレがジャン&ディーン・コレクションを築くのを助けてくれたのがこいつだった。とても穏和な性格で、どんな状況でも冷静でいることが出来た。しかも、とても屈強さも持っていた。つまり、こいつはブートレッグ作りには完璧な仲間で、こいつのいろんな才能のおかげでオレは何度助けられたかわからない。特に、ランナウェイズのコンサートでは。
 ランナウェイズのスターウッド公演は、まさにオレたちの予想通りの様相を呈していた。ソールドアウトの会場には客がスシ詰めになっていて、立ち見オンリーの客席の中は体と体が触れ合うくらいの混雑だった。録音するには非常に難しい状況だったが、マイクは体を張ってレコーダーとマイクロホンをしっかりと守ってくれた。ショウの最後に狂乱状態になるまでは。当時、ランナウェイズのコンサートは、フィナーレで血糊の入ったカプセルという小道具が登場した。こうした派手な演出のおかげで観客は狂乱状態になり、会場は大混乱。あちこちで体が宙を舞っていた。オレの周りでも大騒ぎが始まったと思った途端、自分の体が床から浮いたような感じがした。マイクが片方の手で群衆を押し退け、もう片方の手でオレをテーブルの上に載せてくれたのだ。オレは安全だったのだが、マイクロホンのケーブルはレコーダーから外れてしまった。ブートレッグにフィナーレが収録されてないのはこのせいなのだが、それ以外の点では、初期ランナウェイズのショウの熱気を捉えた非常にエキサイティングな記録となっている。

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 最初のランナウェイズのブートレッグが大成功したので、当然、2枚目も出すことになった。バンドの人気が高まると、コンサートを行なう会場も大きくなっていき、ランナウェイズは1977年にはサンタモニカ・シヴィック・センターでヘッドライン・ショウを行なうことになった。前座はチープ・トリックだ。マイクとオレはこのコンサートのチケットも買い、ランナウェイズとチープ・トリック、両方を録音した。この時も、ランナウェイズがブートレッグでも人気があることがわかった。オレのほうで商売が終わった後にメタル・パーツをアンドレアにあげたら、彼女は2つを合わせて2枚組バージョンを作ったが、こちらもファンには非常に好評だった。
 マイクとオレはランナウェイズが大好きで、コンサートを何度も見に行った。メンバーとは個人的は知り合いではなかったが、そうした状態も間もなく変わることになった。その年のもう少し後になって、リヴァーサイドのレインクロス・スクエアで行なわれたランナウェイズのコンサートで、全く予期せぬ驚きがあった。予期せぬ出来事が起きる時、それは時として超楽しい話になる。
 マイクから教えてもらったのだが、KROQラジオでランナウェイズのインタビューを聞いてたら、バンドがあのWizardo製ブートレッグ・レコードについて好意的な発言をしてたらしいのだ。インサートのアートワークについて、メンバーが冗談も言ってたとのことだった。「家出」した若い子が「ヤクを打ってる」という、ある意味、様式化した写真を『ペントハウス』誌からパクってジャケットに使ってたのだが、あるバンド・メンバーが、この写真がジョーン・ジェットに似てると言い出した。バンドがスターウッド公演を記録したブートレッグを認めてくれて、宣伝すらしてくれてたように思い、オレは大感激した。
 リヴァーサイドのレインクロス・スクエアでコンサートがあることを教えてくれたのもマイクだった。オレたちはチケットを買って、Wizardoからレコードを出すために3度目のライヴ・レコーディングをやろうと決めた。またメンバー・チェンジがあったこともマイクが教えてくれた。今度はベースが交代した。オレたちは会場に早く到着して、ウロウロ、ブラブラすることにした。マイクのホンダでリヴァーサイドに到着したのは、開演の2時間前だった。  
 到着して驚いたのだが、ここは約2,000席で、音響もバッチリの素敵なシアターだった。録音に適した一番いい場所を見つけようとウロウロしてると(自由席だったのだ)、マイクの姿がしばらく見えないなあと思ったら、「オール・アクセス」のバックステージ・パスをどこかから見つけて、2つ持って戻って来た。オレたちはただちにそれを服に貼り付けて、バックステージに向かった。
 腹が減ってたので、まずは軽食のサービスをチェックした。オレの記憶では、ご馳走が並べられてるというものではなく、ポテトチップやソフトドリンク等が置いてあるようなものだった。すると間もなく、バンドがもうすぐ到着するぞという声が聞こえてきたので、マイクとオレはバンドの会場入りを見ようと(新しいベース・プレイヤーも一目見るために)楽屋口に行った。オレたちはドアの隣の壁際を陣取った。数秒後、ドアが大きく開いて、まずはジョーン・ジェット、続いてサンディー・ウェスト、次にリタ・フォード、そして、新ベース・プレイヤーと思しきブロンド美女が入って来た。バンド・メンバーは皆、オレたちにもみくちゃにされながらも目は真っ直ぐ前を見て進んでたのだが、新人が立ち止まり、オレを見て、もう1度見て、言った。「ワオ、ジョンじゃないの。ここで何やってるのさ?」 オレは何が起こってるのかわからず狼狽した。オレはこの娘{こ}のことは知らないのに、この娘{こ}はオレのことを知ってるの? 予想外の事態だ。テープ・レコーダーとマイクロホンも持ってるので、本当にどうしよう? 幸い、マイクはオレが困った時に面倒を見てくれることに長けていた。この時は、素早くオレと謎の女の子の間に入ってくれた。オレがバックステージ・エリアからさっさと脱出しようとしてる時、マイクが「フレンドリー」な声で「ジョンを知ってるの?」と訊いてるのが聞こえた。オレは今起こったことを理解出来なかったが、マイクが真相を突き止めてくれるだろうと思っていた。その間、オレは安全な客席に向かって走っていた。群衆の中のほうが見つかりにくいと思ったのだ。

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 30分後、マイクがやっとオレのところに戻って来て、ビックリすることを話してくれた。オレたちはもう1度バックステージに行った。今度は、正式に招待されて。
 ラリーとオレがまだハイスクールに通ってた頃、ザ・Bトフ・バンドはさまざまな紆余曲折を経験した。いろんなミュージシャンや友人が臨時で入れ替わり立ち替わり参加したが、ラリーとオレは中心メンバーとしてだいたいいつもいた。ある時、「ギャラがでる仕事」が入ったので、きちんとりたリハーサルをやる必要が生じたのだが、ラリーの親父さん、お袋さんはこの目的のために、気前良くガレージを使わせてくれた。デイヴ・ジネットとかいう名のギタリストがドラマー(名前はとっくの昔に忘れてしまった)を連れて来た。ふたりはオレたちよりも年上で、本物のロックンローラーのように見えた。ドラマーはアフロヘアーに髭! オレたちは毎日、放課後にヒット曲の練習を始めた。新メンバーはラリーとオレが書いた曲を演奏するのも嫌がらなかったので、来{きた}るコンサートに向けてガレージで楽しく練習をした。Bトフ・バンドのショウの目玉は、皆に自分の楽器を持って来させて、客席で一緒に演奏してもらうことだったので、ギグによっては誰もが参加できる長いジャムが行なわれることがあった。ショウにチューバを持って来たツワモノもいた。そいつは最前列に陣取っていた。
 1960年代、70年代には、全ての町の全ての地区の全てのストリートに、ビッグになることを夢見る「ガレージ・バンド」が存在していた。タスティンの、ラリーん家{ち}のあるウッドローン・ストリートにはBトフ・バンドがあった。あらゆるガレージ・バンドと同様、オレたちもフル・ボリュームで練習した。何時間も。得意げに。
 ラリーにはウェンディーという妹がいた。時々、ウェンディーは彼女の友人{だち}と一緒に、オレたちがガレージで練習するのを見てたのだが、こいつらにはあまり注意を払ってなかった。だって、所詮、ラリーの妹の友達{だち}だろ…。こいつらの誰かと話をした記憶もない。「相手にするには幼すぎる」と思ってたのだろう。ウェンディーは少なくともしばらくの間は俳優の道に進み、映画『ポーキーズ』シリーズの1つに出演してると思う。彼女の友人{だち}のひとり、ヴィッキーも興味深いキャリアを歩んだ。
 その晩、リヴァーサイドのレインクロス・スクエアで行なわれるランナウェイズのコンサートで、マイクはオレを見つけると、新ベース・プレイヤーのヴィッキー・ティシュラーはウェンディー・フェインの友人{だち}だと教えてくれた。「ラリーん家{ち}のガレージでお前が練習してるのをよく見てたから、お前のことを覚えてるんだって」とマイクは語った。「だが、お前がブートレッガーだってことも知ってるぜ。お前がショウを録音するためにここに来てるってこともメンバー全員が知ってるんだけど、別にいいよだって」 それからマイクはこう続けた。「ヴィッキーの新しいステージ・ネームはヴィッキー・ブルーっていうんだ。お前にバックステージに来て欲しいってさ」 オレは何かの罠かもと考えた。控えめに言っても話が出来過ぎている。だが、オレはマイクを信頼し、こいつがその話を信じたのなら、チャンスに賭けてみる価値はあると思った。ということで、その晩、2度目となる、バックステージ訪問を行なった。
 マイクの言ってた話は正しかった。オレはヴィッキーのことがわからなかったが、ヴィッキーは確かにオレのことを覚えていた。何年も前に、ラリーん家{ち}のガレージでオレがBトフ・バンドの練習をしてるのを見たという話を、ヴィッキーはしてくれた。全てが超現実的に思え、なかなか理解することが出来なかった。ヴィッキーは、今はハリウッドで暮らしてるのと言い、オレに電話番号をくれた。ワオ! 超イカした出会いだぜ。マイクとオレはショウを録音するために客席に戻った。
 レインクロス・スクエア公演のライヴ・レコーディングは、Wizardoがリリースするランナウェイズのブートレッグの第3弾になる予定だったが、いろんな理由でそれは実現しなかった。しかし、マスタリングは済み、インサート・カバーのデザインも出来上がっていた。予定していたタイトルは「Stolen Property」[盗まれた財産]だった。使わなかったジャケット・デザインに関する裏話も面白いかもしれない。
 オレがヴィッキー・ブルーと会うよりずっと前、ジム・ウォッシュバーンはランナウェイズのオリジナル・ベーシスト、ミシェル・スティールと付き合っていた。彼女はバンドを早々にやめて、バングルズに参加した。賢い選択だと思う。詳しいことは忘れてしまったが、馴れ初めの話はジムから聞き、ミシェルのランナウェイズ時代の話は、ある晩、彼女のアパートメントで聞いた。ミシェルは思い出の品の入った箱を取り出して、その中身をオレに見せてくれたのだが、あるものがすぐに目に付いた。それは巨大な鮫の歯がついた銀のネックレスだった。それにまつわる話はあるのかと訊いたら、笑いながら言った。「それは私がバンドに入った日にシェリー・カリーから盗んだものよ。その日は、バンドを辞めようと思った日でもあるんだけど、単なる偶然の一致じゃないのよね」 彼女はオリジナル・トリオにシェリーが加わったばかりの頃の貴重な宣伝用写真を見せてくれた。ミシェルによると、ランナウェイズはこのラインナップではショウをやったこともレコーディングをやったこともないらしい。ウマが合わなかったんだと思う。キム・フォウリーも言っていた。「シェリーのエゴを扱うのは、犬がオレの顔に向かって小便をするがままにしとくようなもんだった」 つまり、そんなことがあったのだ。オレが何者だか知ってるミシェルは、Wizardoから発売予定の《Stolen Property》のジャケットに鮫の歯のネックレスの写真を使えばと提案してくれたのだが、オレもいいアイデアだと思った。
 しかし、残念ながらレコードが出ることはなかった。ランナウェイズのリヴァーサイド公演のバックステージでヴィッキー・ブルーから電話番号をもらった後、オレは数日まって電話をかけて、ハリウッドまで会いに行ったのを覚えている。ヴィッキーはガワー・ストリートにあるエドワード・G・ロビンソンの古い家で暮らしていた。朝の6:00になると、観光バスが次々にこの家の前に横付けになり、もうそんな時間であることを知らせた。気が散るなあ。ある土曜の晩には、ヴィッキーからキャピトル・レコード・スワップミートに連れてってよとお願いされた。この非衛生的な「コレクター」ミートは、毎週、キャピトル・レコードの駐車場で開催されていて、午前12:00頃から始まって、一晩中行われていた。毎週、何百人もの「レコード愛好家」が集まり、貴重なレコードや大量のブートレッグを見つけるにはパーフェクトな場所だった。オレは喜んでヴィッキーをそこに連れてったのだが、それは間違いだった。
 場所がハリウッドだけに、到着するが早いか、キャピトルにいたロック・ファン全員がヴィッキーに気がついてしまった。そして、こいつらの多くはオレにも気がついた。ブートレッグ・コレクターだったからだ。皆、こっちを指さしたり、写真を撮ったりし始めた。さらに悪いことに、その晩はカート・グレムザーがここに来ていたのだ。こいつはこの件を言いふらすに違いない。オレは世間を騒がせたくはなかった。マーキュリー・レコードの法務部がヴィッキーの交友関係について何か言ってくるかもしれない、というのがオレの心配だった。とにかく、ヴィッキーにとって(オレにとってもだけど)トラブルになることは絶対に避けたかったのだ。オレはこれ以上、虎の尻尾をひねらない方がいいと思って《Stolen Property》を永遠に棚上げした。
 レインクロス・スクエア公演はボツにしてしまったが、オレはランナウェイズのさらにいくつかのコンサートを録音し、リリースすることを考えた。伝説のゴールデン・ベア公演は特に出来が良かったし、バークリー公演も良かった。ファンのために、いつかこのコンサートをリリース出来たらなあと考えるのは楽しい。

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 ローリング・ストーンズは、つい先日、1973年のアルバム《Goats Head Soup》のリイシュー盤を発売することを公表した。これには未発表だった「新曲」が含まれてるとのことだが、そうした曲の1つ、〈Criss Cross〉はWizardoが1977年に発売したレアなEP盤(グリーン・ビニール)に収録されていた。
 この頃、オレはスキーキー・ボーイと一緒にアーヴァインのウッドブリッジにあるアンドレア宅で暮らしていた(アンドレアはラグナビーチの新居に引っ越していた)。巨大な家なのに家具は殆どなく、殆どの部屋は空っぽだった。リヴィング・ルームにはテレビが1台とローンチェアー[日光浴用折りたたみ椅子]が2つあるだけだった。この家は高級住宅街にあったので、近所の住人は隣にいる「クレイジーなヒッピー」は何者なのか疑問に思ってたことだろう。オレたちは連中とは口をきかなかった。まわりの連中にとっては資産価値を下げる存在だったかもしれないが、オレたちはとても楽しく暮らしていた。一度、スキーキー・ボーイの伯父さんのブレインがオーストラリアからやって来たことがあった。近所のオバチャン連中を驚かすために、ロマンスグレーのブレイン伯父さんにはオレたちお抱えのイギリス人執事として振る舞ってもらった。オレたちがからかいの対象としたオバチャンたちは、オーストラリア訛とイギリス訛の違いなんてわからなかったので、いつも感心していた。ブレイン伯父さんもそれを楽しんでいた。彼はオレのベッドルームにいきなり入って来ると(オレが呼んだ客人たちが裸だとわかってのことだ)、「失礼いたします、旦那様。警察署長からお電話です」と叫んだ。昔のテレビドラマ『バットマン』に出てくるアルフレッドのように。そのうち、ブレイン伯父さんはオーストラリアに帰国したのだが、一緒に過ごした時間は忘れられない。
 ある晩、スキーキー・ボーイとオレがローンチェアーに座ってテレビを見てると、日本の新作長編アニメ映画[サンリオ制作の『星のオルフェウス』。英題は『Metamorphosis (Winds of Change)』]がオレンジ・カウンティーで公開となることを宣伝するCMが現れた。オレたちはアニメなんてどうでもよかったのだが、広告の後ろで流れてた音楽に驚愕した。紛れもないローリング・ストーンズだ。しかも、聞いたことのない曲だったのだ。そして、コマーシャルの最後に、「ローリング・ストーンズの新曲をフィーチャー」という結び文句が登場した。ワオ! オレたちはすぐに新聞をひっ掴み、映画が上映される劇場を探した。
 映画のタイトルは覚えてないが、そんなものはどうでもよかった。気になってるのはフィーチャーされてるというストーンズの未発表曲だった。オレは信頼できるウーヘルのテープレコーダーとマイクロホンを荷造りして、劇場に向かった。オレは映画のどの部分でストーンズの曲が使われてるのか知らなかったので、客席でマイクロホンをセットすると映画を最初から最後まで録音した。約90分間、バックでテクノ・ミュージックが流れた後、CMに騙されたのかと思った頃、突然、紛れもないローリング・ストーンズのサウンドが流れて来た。ストーンズの未発表曲がこのゴミのような日本のアニメに使われてる理由は全くもって不明だが、確かに入っていた! 劇場はほぼ空っぽだったので、お目当の曲を素晴らしいステレオで録音することが出来たのだが、映画の最後のクレジットには曲のタイトルが出てこない。ただ「ローリング・ストーンズ、著作権登録1972年」とのみ書いてあった。
 オレたちは急いで帰宅して、約100回、レコーディングを聞いて、タイトルを〈Save Me〉に決めた。この言葉が一番頻繁に出て来るからだ。スキーキー・ボーイズとオレはフル・アルバムを出せるほどのマテリアルは持ってなかったので、このトラックと、さまざまなプロジェクトから漏れた3曲を収録した7インチのEPレコード用のマスターを作って、ルイス・レコードでグリーンのビニールにプレスして、ものの数日のうちにリリースした。製造したのは限定500枚で、売れ行きはとても良かった。
 新しい《Goats Head Soup》のリイシューでは、オレたちが〈Save Me〉と呼んだ歌には〈Criss Cross〉という「正式なタイトル」が付いている。興味深いことに、1980年代に誰かからもらったアセテートにもこの曲は収録されていて、その時のタイトルは〈Criss Cross Man〉だった。このアセテートはあるパーティー会場にジミー・ミラーが置き忘れたものらしい。とにかく、これは全部、同一の曲がさまざまなタイトルで変化{へんげ}したものだ。ミックスも同じようだ。ストーンズは、昔のアウトテイクをリリースする時には、たいてい音を追加して、きれいに磨きをかけてしまうのだが、〈Criss Cross〉についてはこの例から漏れ、棚からテープを下ろし、埃を吹き飛ばしただけのようだ。それに、映画の中に出て来た著作権登録の年が正しいなら、〈Criss Cross〉は 《Goats Head Soup》ではなく《Exile》のアウトテイクだろう。オレが言うのも何だが、タイトルとしては〈Criss Cross Man〉が一番気に入っている。昔のアセテート盤は今でも持っていて、どこかにあると思う。


   


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2020年11月12日

Wizardo回想録&インタビュー:第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生こちら
第2回 TMQケンとの出会いこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第3回 Wizardoレーベル発足と警部マクロード登場



聞き手:スティーヴ・アンダーソン



 ハイスクールの2年生の時に、オレはピンク・フロイドを教えられた。お袋の友人の息子がチャプマン大学に通ってたのだが、寮でマリファナを吸ってるところを見つかってしまった結果、新しい住処が見つかるまで臨時の居場所が必要となった。お袋はこいつに上の階のゲスト・ルームを提供したのだが、 お婆ちゃんには内緒ねとオレは口止めされた。この大学生が我が家に到着した際、レコード・コレクションも持って来て、その中にはピンク・フロイドの《Atom Heart Mother》が入っていた。マリファナも持って来たのは言うまでもない。こいつは喜んで、オレに両方を教えてくれた。オレはブッ飛んだ。レコードと葉ッパの両方に。

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 オレは《Atom Heart Mother》を借りると、それを持って急いでラリーん家{ち}に向かい、着くやいなや、ベッドルームのステレオでそれをかけた。ラリーもすっかりハマってしまった。こうしてオレたちはフロイドの大ファンになった。
 運の良いことに、近々、ピンク・フロイドがハリウッド・ボウルでコンサートを行なう予定だったので、演奏を録音するのがとても楽しみだった。このバンドをしっかり捉えるためにはステレオで録音する必要があると感じたオレは、友人の親父さんからコンコード製オープンリールを借りた。これは大きさこそオレのラジオ・シャック製レコーダーと同じくらいだったが、ハーフトラックのステレオだった。それから、このマシンに繋げられるように改造した[シュアの]SM-57も2本借りた。その日のショウのために優秀な録音機材を揃えたが、かなりの大きさになってしまった。
 ピンク・フロイドのハリウッド・ボウル公演にガールフレンドを連れて行くことが出来ないので(チケットを2枚しか入手出来なかった)、録音機をドレスの下に隠して会場に持ち込むといういつもの手は使えなかった。最終的に、オレは小さなバックパックの中に録音機を突っ込んで、その上から大きなジャケットを羽織り、脊柱後彎症のような格好をして、身をかがめ、足を引きずりながら歩いて進んだ。口から少しヨダレをたらすことも付け加えた。すると、警備スタッフはオレを病気持ちであるかのように避けた。完全に悪趣味だ。16歳のバカガキしかこんなことはしない。だが、これは完全に効を奏した。オレは会場にすんなり入っていった。誰もオレのチケットをチェックしなかった。ラリーとオレは美しいステレオでショウを録音することが出来たのだが、オレはこのレコーディングを自分ではリリースせず、ケンにあげて、彼がKornyfoneレーベルから《Crackers》というタイトルでリリースした。
 コンサートの時にはまだ、こうしようとは思ってなかったのだが、その2週間後、ラリーとオレは《Take Linda Surfin’》を作る際には、表ジャケット用にハリウッド・ボウル公演のプログラムに載ってた写真を利用した。「El Monkee」のロゴはゴールデン・ゲート・パークで買ったピーナッツの袋から拝借したものだ。

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 オレたちがブートレッガーとして駆け出しだった数年間に、ケンはすぐに最も重要なコネクション、及び、仕事仲間になった。リトル・ダブやマルコム・M、マイケル・Gといった西海岸のブートレッグ産業の重鎮たちにラリーとオレを紹介してくれたのもケンだった。オレはケンから20年に渡って優れたアドバイスと計り知れない援助を受け取った。ラリーとオレがブートレッグ製造ビジネスに参入するようになったのは、ケンのおかげなのだ。
 ケンは自分の友人がピンク・フロイドのスタンパー一式を売りたがってると、オレたちに持ちかけてきた。スタンパーは「ヨーロッパ製」で、アメリカのレコード・プレス機で使うには変換が必要とのことだった。もし興味があるなら電話番号を教えてやると言ったので、ラリーとオレは、即、番号を教えてもらった。ピンク・フロイドのレコードがWizardoの「正式な」リリースの第1号になると思うとウキウキした。以前に出したビートルズのブートレッグはハービー・ハワードが作ったものだから。
 ケンがくれた電話番号は、ピーター・トソロというグレンデイルに住んでるテープ・コレクターのものだった。ピーターによると、スタンパーを持っていて、ピンク・フロイドのコンサートを収録したダブル・アルバムのものだってことはわかってるのだが、どこで行なわれた公演なのかはわからないし、どの曲が収録されてるのかもわからないとのことだった。マザーもマスターも持ってない、スタンパーしか持ってないとも言っていた。つまり、実際にプレスしない限り、何が入ってるのか全くわからないレコードを、オレたちは買うことになるのだ。それに、スタンパーを壊してしまったら、もう替えはない。
 こうした可能性があるとなると、オレたちよりも思慮分別のある連中だったら絶対に見送るだろう。しかし、16歳で恐れ知らずのラリーとオレは、ピーターからスタンパーを100ドルで買うことを電話で即決した。オレたちは翌日、品物を受け取るためにグレンデイルまで行く必要にあった。というのも、ピーターはある宗教グループ(カルトと読み替えてもいい)に入信を済ませ、世俗的な所有物を売り払ったらすぐに「教化キャンプ」に向かう予定だったからだ。
 翌日はその年の最高気温を記録した日だった。エアコン付き小型車のシムカが、グレンデイルまでの長旅の間にオーバーヒートしないか心配だった。ラリーもオレもレコード製造のメタル・パーツに関しては何の経験もなく、どんなものを渡されるのかもわからなかった。ただ、スタンパーが「壊れやすい」ものだとは聞いてたので、ニトログリセリンでも載せて帰るかのように、シムカの後部座席にビリビリに破いた新聞を敷き詰めて、スタンパーを揺れの衝撃から守る準備をしておいた。(スタンパーは分厚くて重量があり、ハマーで叩いても壊れないくらいだった。大量の新聞をビリビリに破いたのは無駄だった)
 ピーターはとてもいい人だった。凄いテープ・コレクションを持っていて、ビートルズの〈What's the New Mary Jane〉のテープを聞かせてくれた。他所でこの曲を耳にする丸1年前にだ。こいつがどのようにしてフロイドのスタンパーを入手したのかも、テープ・コレクションがどうなったのかも、オレは知らない。さらには、ピーターがその後どうなったのかも知らない。彼は「スピリチュアル」な新しい人生へと向かって行った。ピーター・トソロと会ったのはその時が最初で最後だったが、Wizardo Recordsの誕生のきっかけとなったのが、こいつが持ってた謎のスタンパーだった。

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 《Take Linda Surfin’》《Miracle Muffler》のスタンパーを入手した後、次の仕事はプレス工場を探すことだった。インターネットがない時代には図書館が最高の味方だった。タスティンは例外として。タスティンの図書館には「親米的な本が200冊以上と6種の雑誌」があり、「共産主義のプロパガンダは皆無」だった。ということで、ラリーとオレはまともな図書館に行く必要があった。町の怖い地域にあるサンタアナ図書館にだ。そこに行けばロサンゼルスやハリウッドのような近所の共産主義者の生息地の『イエローページ』[職業別電話帳]があると思ったのだ。予想通り、こうした大都市の電話帳にはレコード工場の広告がたくさん載っていた。あとは選ぶだけだ。でも、どれを?
 オレたちは電話帳からプレス工場を3カ所選んだ。最初に選んだのはノース・ハリウッドのサンタモニカ・ブールヴァードにあるカスタム・フィデリティーだった。フロント・ドアを開けて、人を威嚇するような長いフロント・カウンターのある巨大ロビーを進む時、オレはビビリまくりだった。カウンターとは反対側には、ストリートが見える巨大なガラス窓が極端な角度でついていて、「どうやってキレイに拭くんだろう?」と思ったのを覚えている。大カウンターには男がたったひとりでいた。そいつはラリーとオレを見て、どんなご用件で?と訊いた。オレは唾をゴクリと飲み込んで、自分たちの「ガレージ・バンド」のレコードをプレスしてもらいたいんですという、あらかじめ練習しておいた話を始めた。説明が半分も終わってない時、突然、フロントドアが開くと、『警部マクロード』をやってる俳優、デニス・ウィーヴァーが猛烈な勢いで入って来た。テンガロン・ハットをかぶり、笑っちゃうほど派手なカウボーイ・ブーツ(色は鮮やかな赤)を履き、フル装備のカウボーイの出で立ちで登場したデニスは、ラリーとオレの前に割り込んで来た。その際、オレはつま先を踏まれた。「坊や、すまんな。大切な用事があるんだ」 ラリーはこの野郎、殺してやるといった顔をしてたが、オレはあまりに面食らって、全く言葉が出なかった。カウンターのところにいた男はミスター・ウィーバーに、今はこちらの人と話をしてるので、ちょっと待ってくれと説明したが、こいつは全く意に介さず、大声で、しかも、偽のカウボーイ風アクセントでまくし立てた。アルバム・ジャケットが届いて、中にレコードを入れる作業がしっかり出来てるのかと。ミスター・ウィーヴァーは自分をカントリー・シンガーだと思っていて、ファースト・アルバムをここ、カスタム・フィデリティーで作ったようだった。こいつは振り向いて、オレを見て言った。「オレは単なる映画スターじゃない。自分のレコード会社だって持ってるんだ!」 どうしてもそう言いたくなったのだろう。その社名はImpressive Recordsなのだとか。10分後にカウボーイ・デニスは帰り、ラリーとオレはカスタム・フィデリティーとの交渉を完了した。遂に、オレたちも自分のレコード会社を持つに至った。社名はWizardo Recordsだ。雑誌のいんちき臭い巻頭記事など必要ない。ビジネス・ライセンスも取ってない。全国放送の連続テレビ・ドラマも持ってない。大人もいない。オレたちが持ってるのは、1セットのスタンパーと、アメリカで最も儲かり、最も腐ったビジネス----音楽ビジネス----に参入したいという欲望だけだった。このビジネスは両腕を広げてオレたちを歓迎した。

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 レコードを作るために初めてカスタム・フィデリティーに行って、帰宅した時のことを覚えている。サンドイッチを作ろうとキッチンに入ると、親父とお袋はリビングのソニー製13インチのテレビで、何と『警部マクロード』を見ていて、お袋がデニス・ウィーヴァーっていいわねなんて語っていた。そっちに行って、ついさっきデニス・ウィーヴァーに会ったけど、くだらない奴だったよと言ってやろうと一瞬考えたが、思いとどまった。そんなことをしたら、学校ではなくてハリウッドに行ってたこと、レコードを作ろうとしてること、家の前になぜかとまってる謎の外車はオレのものだということも、話さなきゃいけなくなる。親父もお袋も、そこまでは知りたいとは思ってないだろう。

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 ピーター・トソロからピンク・フロイドの謎のスタンパーを購入したので、この先、どういうふうにビジネスを進めるのがベストなのかを考えなければならなかった。ダブル・アルバムではなく、1枚組のアルバムを2つ作ったほうがいいというのが、オレたちが出した結論だった。こうしたほうが利益は多く、前払い金は最小限に押さえられるからだ。どの曲が入ってるのかも、何年に録音されたのかも知らなかったので、テスト・プレスが出来るのを待ち、それを聞いてからジャケット・アートをデザインすることにしたのだが、レーベル・デザインだけはすぐに仕上げる必要があった。ラリーの寝室でマリファナを吸った後に、手書きのレーベルが誕生した。曲名の入る場所を空けておき、書き込む作業はリスナーに任せた。が、タイトルはどうしよう? タイトルも必要だ。
 オレはジャン&ディーンのレコード・コレクターだった。1970年代前半の音楽業界はジャン&ディーンの時代とはガラリと変わっており、彼らのレコードはもはや「ヒップ」とは思われてはおらず、ピンク・フロイドのようなバンドが「カッコいい」の最先端にいた。なので、もはやカッコよくない、昔のジャン&ディーンの曲名をパクって、それを超クールなピンク・フロイドの最新ブートレッグのタイトルにしてしまったら楽しいのではないかと、オレは考えた。そうしたら、昔のジャン&ディーンの歌〈Take Linda Surfin’〉が再びカッコいいものになる。立派なプロパガンダだ。ハ、ハ。笑えるだろ。ただし、タスティンのガキがマリファナでイッちゃってる状態でそう思ったってことは忘れずに。
 最初のプレスを聞いて、何の曲が入ってるのか判明したので、オレたちは曲目リストと、ハリウッド・ボウル公演のコンサート・プログラムに載ってたバンドの写真を、ハイスクールの友人、デイヴィス・ベイヤーリーに渡した。こいつはコンピューターが普及するはるか前の時代からグラフィックに取り組んでいた。こいつが巻き付け式のジャケットをデザインし、オレたちはそれを印刷した。オレは今でも、それを誇りに思っている。
 《Take Linda Surfin’》で一番苦労したのは、ディスクを挿入した後の白ジャケットに、巻き付け式のジャケットを貼り付ける作業だった。オレたちはスコッチ社のスプレー糊を使ったのだが、缶から霧状になって噴射された糊はそこら中に飛散した。「ジャケット糊付けパーティー」をラリーん家{ち}でやったのだが、仕舞にはガールフレンド同士がくっついてしまう事態になったのを覚えている。後になって聞いたことなのだが、この糊はガンの原因になるのだとか。裏庭で作業をやってたのに、家中に酷い悪臭が充満し、ラリーのお袋さんからは叱られた。あぁ、懐かしいなあ。
 ピーターから譲り受けたスタンパーはアメリカで作られたスタンパーよりも分厚く(しかも、銅の補強があった)、アメリカのプレス機では使えないものだった。イギリスのスタンパーは驚嘆すべき代物だった。アメリカで作られるスタンパーより10倍は長持ちするものだった。手持ちのスタンパーしかないので(マザーもマスターもない)、製造することの出来るレコードの量は、マスターがどのくらい長持ちするか次第だった。アメリカのスタンパーは非常に薄くて、とても壊れやすく、1,000枚ほどプレスしたら、取り替える必要があるのだが、イギリス製スタンパーは絶対に壊れない。作業終了後にそれを[Vicki Vinylの]アンドレアにあげたところ、こいつはそれで何年間もレコードを製造し続けたくらいだ。

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 スワップミートをブートレッグ用の儲かる市場と認識してたのは、ラリーとオレだけではなかった。ケンもそうだった。南カリフォルニアで行なわれてたオレンジ・ドライヴインより大きなスワップミートというと、ラミラダのスワップミートだけだった。ラミラダ・ドライヴインは、ケンとヴェスタが自分のレコード・チェーンをオープンする数年前に、週末に小売りビジネスをやってたところだった。ふたりは長年、そのスワップミートでファニー・ピッグ[The Smoking Pig]のレコードを売ってたのだが、たまにお店を休みした時には、オレンジ・ドライヴイン・スワップミートまでオレたちに会いに来て、商売の様子を気にかけてくれたり、助言してくれたりした。
 ある土曜日、ケンが突然現れたので、オレたちはビックリした。その時、ケンが教えてくれた優れた販売術は、そのまま、もしくは、少しアレンジを加えて、オレが家庭電化製品を売ってた時期にも使い続けた。オレは当局の捜査を妨害するために、7年間、大学への入退学を繰り返した後に仕事を変えていた。1970年代後半に、ブートレッグ・ビジネスから一時的に退散する必要ありと感じた時に始めたのが家電の販売で、これをやってた時にはブートレッグを作ってた時よりも稼ぎは多かった。だが、ブートレッグの楽しさと興奮に欠けてたので、これを自分のキャリアだとは考えたことはない。ケンからはたくさんの教訓を学んだが、「販売」テクニックを教授してくれたおかげで、オレは金をかなり稼がせてもらった。
 まさにその日、ケンが並べてあるブートレッグを見渡して、「一番売れないレコードはどれだ?」と訊くので、オレは答えた。「よくわかってるでしょう。あなたが「ジュニア・ブラインド」[視覚障害者のためのチャリティー団体?]用に作ったドノヴァンの《The Reedy River》ですよ」 《The Reedy River》は、ドノヴァンが放送メディアに出た時の演奏を、彼の隠れファンのケンが丁寧に編集して作った優れもののブートレッグだ。 デラックス仕様のブートレッグを出したイタリアのレーベル、Jokerがコピーしたのもこのレコードなのだ。素晴らしいレコードなのに、全然売れない。6カ月間に1枚も売れてない。ということで、ケンは言った。「お客さんが在庫の商品を全部見て「これで全部ですか?」と訊いてくることって何度ある?」 オレは答えた。「殆ど全てのお客さんがそう言いますよ」 「それじゃ、やるべきことはこうだ」とケンは言った。「ドノヴァンのブートレッグを棚からはずして、車のトランクに隠しておけ。次に誰かが「これで全部?」って訊いてきたら、「ええ」って答えてから、一瞬、間をおいて「ドノヴァンのレア盤以外は」って言うんだ。そのレコードは超レアだから、厳重に保管しておく必要があるんだと説明しろ。すると、その客は見せてくれないかと必ず言ってくる。そしたら、トランクから1枚取り出して売ればいい。このやり方でいつもOKさ」 オレはそんなにうまくいくはずないと思ったが、5分も経たないうちに、お客さんが、ここにあるもので全部ですか?と訊いてきた。その時、ケンを見たら、ニコニコしていた。
 1時間もしないうちに、《The Reedy River》は5枚全部売れてしまった。凄え! これに詐欺行為は全く関与してないと思う。《The Reedy River》は貴重なブートレッグだ。購入したお客さんたちも、気に入ってくれたし。
 ケンはオレを見て言った。「今度はリトル・ダブの作ったブラッド・スウェット&ティアーズのブートレッグをトランクにしまえ」 これは魔法のテクニックだった。あらゆるものに通用した。
 ケンとの関係を通じて、ラリーとオレはリトル・ダブを紹介してもらった。ダブはケンが《Great White Wonder》《LIVEr》を作った時、及び、オリジナルのTrade Mark of Qualityレーベルを作った時のパートナーなのだが、オレたちが初めてケンと会った時には、このパートナーシップを解消しようとしている真っ最中だった。財政的にどんな取り決めがなされたのかは全く知らないが、最終的にはレーベルが2つの別々のTMQになるという結果になった。一方はケンが経営し、他方はリトル・ダブが経営した。「木版画」スタイルのブタの絵をTrade Mark of Qualityの文字が囲んでいるオリジナルのロゴを継承したのはダブのほうだった。「ブタ」の絵はリトル・ダブの小切手帳からパクったものだ。当時、バンク・オブ・アメリカは顧客の小切手に載せる絵の案をいくつか用意しており、「ブタ」の絵はそうした選択肢の1つだった。ケンは自分のTMQレーベル用に新しいロゴを採用し、「木版画」のブタを、ウィリアム・スタウトが描いたブタのイラストに変更したが、Trade Mark of Qualityという名前はそのまま使用した。業界内では、ケンの新レーベルは「ファニー・ピッグ」と呼ばれ、リトル・ダブのレーベルはオリジナルTMQとして通用した。
 ケンとのパートナーシップを解消した後、リトル・ダブの新パートナーとなったのは自分の父親、ビッグ・ダブだった。ビッグ・ダブはずっと郵便局の職員として働いてたのだが、ある日、地下室に行った時に、自分の息子がブートレッグで稼いだ金、3万ドルを数えているのを目撃した。その瞬間、Trade Mark of Qualityはファミリー・ビジネスとなった。地下室(リトル・ダブのベッドルーム)はオフィス兼ブートレッグ問屋となり、TMQは以前よりもはるかに組織化された。ラリーとオレはレコードを購入するために、毎週、そこに巡礼した。取引は常に地下のオフィスにいるビッグ・ダブと行なった。オレはビッグ・ダブが大好きだった。ビッグ・ダブはラリーとオレのユーモアのセンスを気に入ってくれた。いたずらばっかりするオレは、いつも「馬の首」[ホースネックというカクテルがあるが、それと関係があるのかは不明。情報求]と呼ばれた。とても気前が良く、新リリースやテスト・プレス、まだ公表してないアートワークをいち早く見せてくれりもした。後に、オレのパートナーとなるジミー・マディンに紹介してくれたのもビッグ・ダブだった。ビッグ・ダブは当時のブートレッグ産業において大きな役割を果たしてたのだが、コレクターにはその存在を殆ど知られてなかった。レーダーによる捕捉を巧みに避けてたのだ。



   


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2020年11月08日

Wizardo回想録&インタビュー:第2回 TMQケンとの出会い

第1回 ブートレッグ商売を始めたハイスクール生はこちら


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Wizardoレーベル主宰 ジョン・ウィザード
回想録&インタビュー

第2回 TMQケンとの出会い


聞き手:スティーヴ・アンダーソン


 「オレたち」と同じスワップミートでブートレッグを売ってる奴を発見したのはラリーだった。蚤の市をウロウロしてたら、「テーブルいっぱいにTrade Mark of Qualityのブートレッグを並べてる男」がいたというのだ。自分の目で確かめようと思ってオレも行ってみると、ラリーの言う通りだった。テーブルいっぱいのTMQだ。しかも、見たことのないものがわんさか。この時点で、オレたちにコネがないのがTMQの供給ラインだった。そこで、オレはこいつが何者なのかを探ることにした。こいつはユリスと名乗った。ずんぐり体型で、オレと同じくらいの歳だろうか。ボサボサのブロンド髪で、ほんのわずかながらロシア語の訛があった。どうせ教えてくれないだろうなと思いながら、どこでこのレコードを入手してるのかと訊くと、「友人{ダチ}のケニーからさ」と教えてくれるじゃないか。でも、こいつはそれ以上は何も言わなかったので、ラリーとオレは、こいつの言う「ケニー」が誰なのか気になって仕方なかった。
 いくつかの週末が過ぎた。オレたちは商売を続け、ユリスも自分のブートレッグを売り続けた。こいつが売ってるのはTMQで、オレたちは他のレーベルのブートレッグだったので、こいつとオレたちは競合してたわけじゃない。ある土曜日に、ユリスは美しい赤の「Eタイプ」のジャガーXKEに乗って現れた。オレはユリスに訊いた。「このスゲエ車、どこで手に入れたのさ?」 こいつの言ったことは今でも覚えてる。「ケニーがブートレッグとの交換でXKEを2台手に入れて、その1台をオレがもらったのさ。ケニーはキャンディー・アップル・ブルーのものに乗ってるよ」 オレはビックリ仰天した。ブートレッグとの交換で夢のスーパー・カーを2台もゲット? 信じられない。オレはこの謎の「ケニー」って人物に会いたいとユリスに言った。すると、こいつは「あぁ、そうそう、ケニーはお前に会いたがってるんだ。次の土曜日にここに来るってさ」 ラリーもオレも喜んでいいのか恐れたらいいのかわからなかった。

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(The photograph copyright (c) Ken Douglas 2020)


 ドライヴイン・シアターで行なわれるスワップミートは、どこもだいたい同じレイアウトだった。駐車場には売り手のスタンドの列が50ほど出来ており、夜になると、同じ場所に映画を見に来た客が車をとめた。売り手は朝早くやって来て販売ブースを設営し、会場がオープンして一般の買い物客が入って来る時間になると、通路は車両通行禁止になった。オレンジ・ドライヴイン・スワップミートでラリーとオレが使用してたのは11番スペースだった(7列の11番スペースだったかなあ。確かなことは覚えてない)。
 ケニーことケン・ダグラスとの初対面は決して忘れることはないだろう。ケンがスワップミートでオレたちに会えるよう段取りをつけてくれたのはユリスだった。土曜日の午前11:00頃だ。客の質問に答えたり、ブートレッグを売るのに忙しくしてると、オレたちのブースのある列の端のほうが、突然、騒がしくなった。人々が何かに向かって歓声を上げたり、ジャンプしたりしていた。騒ぎの元は大きな黒のキャディラックだとわかった。しかも、歩行者専用の通路をこっちに向かってくる。車両は通行禁止なのに。キャデラックは時々とまると、パワーウィンドウが下がり、何かと交換で金が売り手に渡された。誰かが通路を車で通るだけでなく、買い物までしてるのだ!
 スワップミートで起こるあらゆることは既に目にしてると思ってたが、車に乗ってこんな常軌を逸した振る舞いをする奴は、たったひとりしか心当たりがなかった。伝説のブートレッガー、ケン・ダグラスだ。
 キャディラックがオレたちのブースの前に来てとまった。車内にいたのはケニー(助手席)と彼のレコード事業のパートナーのグレッグ(運転席)だった。ケニーは窓を下げると、疑い深い目でオレを見た。こいつは緑のアーミー・ジャケットと飛行機の操縦士用のサングラスを身につけていた。髪は長く、頬髭、口髭があった。こんなに感銘を受けたことはない。最初の会話はとても短かった。ケンから「お前がWizardoか?」って訊かれたので、オレは「そうです」と答えた。そして、TMQのレコードを買いたい旨を伝えると、はっきりとした返答はなかったが、電話番号を教えてくれた。その後、ケンとグレッグはスワップミート中をドライヴした。たぶん、買い物をしながら。これは、オレのそれまでの人生の中で目撃した最もカッコいい光景だった。本当にぶったまげた。
 その日、スワップミートを終えて帰宅する途中、ラリーとオレはチャプマン・アヴェニューにあるスリフティー・ドラッグ・ストアに立ち寄って、ふたりともアイスクリームを買った。それから、飛行機の操縦士用のサングラスも買った。
 あの土曜日、オレンジ・ドライヴイン・スワップミートまで会いに来てくれたケンとグレッグは、オレたちが並べていたCBM製ブートレッグに気がついた。デヴィッド・Dがリリースしたばかりの《The Rolling Stones 1972 Tour》にケンは特に興味を抱いてた。ストーンズの'69年のツアーを収めた《LIVEr》が大成功した後なので、これはコピーに値すると思ったのかもと、オレは推測した。ケンから電話番号をもらってるので、オレはすかさず彼に電話を入れた。最終的には、オレたちはケンのTrade Mark of Qualityのレコードを仕入れたかったので、CBMが出したばかりのストーンズのブートレッグをエサにすれば、もう1度会ってもらえるだろうと考えたのだ。ケンはエサに食いつき、翌日にロングビーチにある「ジ・エルボー・ルーム」というバーで会おうということになった。
 ケンに会えることになって、オレはワクワクした。ただ、唯一の問題は年齢だった。まだ16歳だったので、法律上問題なくバーに入れるようになるにはあと5年待たなければならなかった。オレは電話でこの件をケンに説明すると、「お前は16よりずっと年上に見えるぜ。それに、バーテンダーのディックはオレの友人{ダチ}なんで問題はないよ」ってことだった。「ディック」はカラフルな人物で(ケニーの人生に登場する多くの人と同じく)、本が1冊書けてしまうくらいたくさんの鳥肌ものの冒険譚がある奴なので、脱線して少しだけ紹介しよう。
 エルボー・ルームはロングビーチにある典型的な小さなバーだ。この種のバーはどこぞの国のパブとは違う。パブというのはもの寂しい場所であって、人は悲しみを酒で紛らわすためにそこに来る。楽しい時を過ごすためじゃない。しかし、エルボー・ルームのようなところは、オレの目には、無法者が顔を合わせるのにぴったりの場所のように見えた。オレはバーに行った経験は全くなかったが、21歳であることを立派に証明してくれるWizardoの顔写真入り身分証明カードを持っていた。コンピューターやプリンターなどない昔は、役所が発行した本物に見える写真入り身分証明カードを偽造するのは簡単なことではなかったので、オレは自分の偽IDをとても誇りに思っていた。しかし、その出番はなかった。ケンが言ってたように、彼の友人{ダチ}のディックがバーの向こうにいたからだ。
 エルボ・ルームに入ると、バーのところに1人だけ座っていた。背中を見ただけで、それがケンだとわかった。オレは隣の席に腰掛けると、ケンはオレを見て頷いた。ケンは適当に当たり障りのない話をするような奴じゃない。電話でも「もしもし、ケンです」なんて言わずに、いきなり話を始める。電話に自分が出てることくらい、まともな頭の持ち主ならわかるだろって感じで。バーテンダーのディックがぶらぶらしながら、ご注文は?と訊いてきた。酒を飲んだ経験も殆どなかったのだが、ビートルズのメンバーはラム&コークを飲んでたと本に書いてあったので、それを頼んだ。ディックが大きなグラスを手にとって、その中に並々とラムを注ぐのを、オレは怖々と見ていた。少なくとも12オンス[約360cc]はあっただろう。ディックは続いて「ガン」[注入器具]を手に取って、ラムの上にコークをほんの少しだけ注ぐと、それをオレによこした。オレはケンを見た。ケンは小さく賞賛の挙手をして、ディックにも聞こえるくらいの大きさでささやいた。「お前を気に入ったってことさ。飲み干さなかったら失礼ってもんだぜ」 ひぇ〜。でもまあ、大人を相手にゲームに興じてるんだ。オレは勇気を出して、世界最大のように思えたグラスからラムを飲み始めた。
 その後のことはあまり記憶がないのだが、ケンはオレにレコードに売ることに同意してくれた。ただし、レートは2種類あって、オレがスワップミートで小売りするレコードは1枚1.50ドルで、レコード店に卸すレコードは1枚1.00ドルで。あくまで「自主管理」ってことなのだが、オレは卸売り用の低い価格で買ったレコードは小売りしないと約束した。最近では、こんなビジネス協定は聞かない。信頼? そんなものは2020年には存在しないが、昔は、盗人の間にも名誉というものがあった。ケンはやさしいことに、ディックがこっちを見てないうちに、オレのグラスの中にあるラムの4分の3を飲み干してくれた。とてもありがたかった。ケンはCBMがリリースしたストーンズのブートレッグを1枚受け取ったが、音質が良くなかったので、最終的には、わざわざコピーするほどのものではないと判断した。ケンと次に会うのは、彼の自宅でということになった。遂に、Trade Mark of Quality(間もなくファニー・ピッグとして知られることになった)のレコードを、本人から直接、購入することになったのだ!
 あのミーティングの後も、10年間ほど、ディックはオレの人生に、時々、出たり入ったりした。ディックは年を取らない連中の1人だった。30歳から70歳までだったら、何歳でも通用しただろう。背は低くて、逞しい外見で、刑務所{ムショ}に入った経験のあるような話し方をする奴だった。オレの前ではとてもいい奴で、親しい友人だったが、状況に応じて極悪非道な人間にもなれる奴だという感じも常にした。
 ディックと初めて会ってから何年もした後、オレは鮮やかな赤のフィアット123スパイダー・コンバーチブルを購入すると、ディックはそれを運転したがった。その日、一緒に何をやってたのかは忘れてしまったが、オーシャン・アヴェニューをベルモント・ショアに向かってドライブしている時だった。町に向かう途中、美しい椰子並木のある素敵な道路を通ったのだが、そこはディックがハンドルを握るには絶好の場所だった。そして、次に起こったことはオレの脳裏に永久に焼き付いている。
 ディックが運転を始めて0.5マイル[800m]もしないうちに、ロングビーチ警察のパトカーがオレたちの後ろに現れ、約30秒後に赤ランプが点灯したので、ディックは道路の端のほうに車をゆっくりと寄せて停止させた。パトカーもオレたちの後ろに止まり、中から警官が出て来た。オレはこれからどうなるのか心配だった。ディックは無免許運転してたのだろうか? この手の輩はだいたい持ってないし。警官がディックの側に来たので、ディックは警官を見て言った。「何で止まんなきゃいけねえんだよ、クソバカ野郎」 オレは誰かが警官を「バカ野郎」呼ばわりするのを聞いたことがなかった。賢い行為ではないだろう。警官にとっても初めて耳にする言葉だったに違いない。こいつもディックを見ると、歯を食いしばりながら言った。「スピード違反だ、バカ野郎」 ディックは疑い深い目で警官を見て言った。「6つの州で殺人で指名手配されてるオレを、たかが交通違反の切符を切るためだけに止めたって言ってるのか? 地球で一番頭の悪いブタ野郎だぜ」 この時、オレたちは銃口を向けられ、車の外に出て、地面にうつ伏せになるよう命令された。数分もしないうちに、さらに10台のパトカーが現場に到着し、あたりは警官だらけになった。ディックとオレは手錠をかけられた。ディックは嬉しそうだった。笑ったり、警察の連中に汚い言葉を叫んだりして楽しんでいた。免許を携帯してなかったので、警察はこいつが誰だかわからなかった。ディックはさらに喜んだ。警官を困らせるために小躍りまでした。
 最終的に、ディックは何らかの容疑で逮捕された。殺人ではないと思うが…。この時が何度目かはわからないが、ブタ箱に連れていかれる時もまだ、ディックは笑いながら叫び声を上げていた。ディックはそういう奴だった。法に屈してる時でさえ、自分のペースで生きていた。オレはどうしたのって? 運の良いことに車にはドラッグはなく、有効な免許証と登録証を持ってたので、友達の選び方に関して長々と説教をされた後、無事、釈放された。




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