2018年04月21日

骸骨レコード:ソ連時代、こうして違法レコードを聞いた

 今日、4月21日はレコード・ストア・デイでしたが、私は『Dylan & The Dead』を買いました。昨今のアナログ・レコード・ブームを反映して、いろんなサイトが立ち上げられていますが、中でもVinyl Me, Pleaseにはアナログ・レコードにまつわるいい話が数多く掲載されており、旧ソ連時代のレントゲンのフィルムに音溝を刻んで作った「骸骨レコード」に関する話は、なかなか秀逸です。50代の人がこういう体験を持ってるらしいので、そんなに昔のことではないようです。ビートルズかボブ・ディランの曲が入ってるものがあったら欲しいなあ。


 
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骸骨レコード:ソ連時代、こうして違法レコードを聞いた

文:ドナ=クレア・チェスマン



 死に直面した時、歴史は価値を増します。
 祖母がサウス・ブルックリンの病院に担き込まれたという知らせが届いた晩、母は母国語であるロシア語で、これからお話することを私に聞かせてくれました。堂々巡りで、なかなか先に進まない話でしたが、奇跡的に言葉に詰まらず、母は祖母----つまり、自分の母親、私を10代まで育ててくれた人物----と共有していた過去を、私にも興奮しながら話してくれたのです。
 まずは病院のロビーの椅子に座りながら、その後はレストランで食事をしながら、そして最後にはコーヒーを飲みながら、私は母と一緒に、彼女がソ連で過ごした少女時代へと時間をさかのぼっていきました。時をやり過ごし、不安を静めるために始めた会話でしたが、それはソ連時代の違法レコードの取引の歴史に変わりました。

 1963年にキエフの都会で誕生した母の証言によると、ロシアには既にレコードが存在していたそうです。主にシングル盤でした。母は、幼い頃、小さな国営アパートメントでシングル・レコードに合わせて踊っていました。「1968年か69年だったかしら」 当時人気のあった子供用の曲を歌いながら、母は語ります。法律に違反してたから大きな声では言えないのですが、素敵な思い出なのだそうです。母が聞いていた音楽は非合法的に入手したものでした。'60年代〜'70年代には、正規のルートで手に入るレコードといったら、政府から許可をもらって国営の店で売っているものだけでした。
 母の説明によると、こうです。「認可された音楽っていうのはソヴィエトの音楽なの。ロシア国内の音楽ね。数も少なかったわ。アーティストもそんなにたくさんはいません。テレビで演奏を披露するのを許されていたのは、ほんの一握りのアーティストだけだったわ」
 ソヴィエト政府に公認されていない音楽を聞きたいと思ったら、レコード店に足を運ぶ以上のことをしなければなりませんでした。笑ってエスプレッソを吹き出しそうになりながら、母は説明してくれました。違法レコードが流通する闇の経済があったのです。「音楽マフィファね」 母は遠い過去に思いを巡らせていました。
 違法レコードのシンジケートはラジオとともに始まりました。母の思い出によるとこうです。「ヴォイス・オブ・アメリカやBBCといった、ロシアのラジオでは放送禁止の音楽を流す番組があったの。こうした放送を受信するためにラジオを調整するのには、あるやり方があったのよ。何時にトライしたらうまく行くとか、皆、知ってたわ。私のお父さんがテーブルについて、他の家族もお父さんと一緒にテーブルについてたのを覚えてる。ラジオのつまみをひねると、突然、声が聞こえてきたの」
 ラジオの近くにマグネトフォンのテープ・レコーダーを置きました。シンガーに対してマイクを向けるようにして。不明瞭な音で聞こえてきたローリング・ストーンズのシングルをこうしてテープに録ってる間、皆はシーンとしていました。でも、録音しただけでは、戦いはまだ半分も済んでいません。密かに手に入れた音楽をレコード盤に刻みたい場合、人脈と自由になる金が必要でした。シングル1枚を作るのに、平均的月収の半分以上を渡さなければならなかったのです。
 「そういうことをやってくれる人を知ってる誰かと知り合いになる必要があったのよ」 ソ連には、おみやげとしてメッセージや認可された音楽をディスクに録音する認可を受けているレコーディング・スタジオがありました。「例えば、いたいけな女の子がスタジオに行って、ママのために誕生日のメッセージを録音したい場合、そういうのは表だって出来たことなの。そういうのは合法で、スタジオにとってクリーンな金儲けだったわ」 しかし、それなりの金額の賄賂を渡すと、同じ人間がマグネトフォンで録音したものをレコード盤に刻んでくれたのです。
 しかし、問題は材料のプラスチックが不足していることでした。スタジオで働いていても、材料を得ることは不可能でした。そこで、解決法として登場したのがエックス線写真用のフィルムでした。
 母の説明は続きます。「皆、貧しかったから、どうにかして金を稼ぐ方法を探していたのよ。診療所から密かに持ち出すことが出来たのがそれなの。しかも、自分たちが間違ったことをしているなんて考えなくていいものでしょ。だって、古いエックス線写真なんて誰が必要なの? このフィルムをこっそり持ち出して売ったのよ。レコードを照明にかざすと、骨が透けて見えたわ」
 「フィルムを切って、レコード盤と同じ大きの円盤状にしたの。英語に訳すと「骨の上」っていう名前だったわ。音楽は骨の中に書かれてたの。レコーディング・スタジオでは、何でも録音してくれたわ。金さえ払えばね。でも、自分でそこに行くことはなかったわ。それをしてくれる誰かを知ってなきゃいけなかった。その人があれこれやってくれたの」
 この骸骨レコードを作ってもらうのに必要な金額は、気前のいい業者だったら、25ルーブルでした。母の記憶によると、1970年代には、平均的な月収は100ルーブルくらいだったそうです。1曲作ってもらうのに給料の4分1が消えます。これにはクリニックやスタジオで働いている人に渡す賄賂は含まれていません。レコードの取引には価格の吊り上げはつきものでしたが、母はこの半端なシステムから利益を得たことが----そんなつもりはなかったのですが----1度あったそうです。
 「お父さんがアメリカに向かおうとしている途中、イタリアから私にフリオ・イグレシアスのレコードを送ってくれたの。それを聞いてたら、お母さんが私に向かって叫ぶのよ。うちのプレイヤーでかけてレコード盤を痛めたくはないって。レコードはとても高い値で売れたの。それで、お母さんは、それをレコードの業者に売りに行っちゃった。だから、私がそれを聞いたのは1度だけよ」
 母が強調したのは、当時、そういうことは極めて非合法だったということでした。「刑務所行きだったわね。罪状は、英語で言うと、違法レコードの頒布、反ソヴィエト・プロパガンダの宣伝かしら」 外国の音楽には、認可されているもの以外は全て、「反ソヴィエト的プロパガンダ」というレッテルが貼られていました。当時、厳しい罰則があり、全てのレコードの取引を絶対にバレないように行なう必要がある状態で、人々はどうやってこのシステム利用していたのか、私はどうしても訊きたくなりました。
 母は声を張り上げて笑いました。「どう説明しようかしらねえ。私たちはとても奇妙な世界の中で暮らしてたの。2つの世界があったのよ。表の世界では、学校に通って、共産主義を信じていて、共産党の集会にも出かけて、共産主義者として生きてたわ。でも、もう1つの裏の世界では、みんな反共産主義的な話し合いをしてたの。キッチンの中で、ささやき声で。こんな言葉もあったわ。英語にすると「台所で話す」って意味かしら。アパートメントはとても小さかったので、皆、小さなキッチンに集まって、とても静かに、音楽を聞いてたの」
 1970年代後半になって、ペレストロイカの時代になると、ソ連の国境コントロールが緩くなり、音楽を密かに輸入する方法が出来上がりました。ソ連に観光客が来るようになると、レコードの業者はそういうホテルを下調べしておいて、高価なロシア産キャビアの缶詰との交換で最新アルバムを手に入れたのです。このシステムは世界中で知られるようになりました。ソ連を訪問する観光客は、音楽を持って行けば、ある程度高く売れることを知っていました。
 しかし、1980年代のペレストロイカの最中でさえ、非合法のレコード取引するというギャング映画的なスリルはモスクワやサンクトペテルブルク、それから、母の生まれ故郷のキエフといった大都市に限られていました。「それ以外の地域の人は何も聞けなかったのよ」 母はそういう立場の人を不憫に思いながら、説明しました。「いろんな音楽に興味を持つことが出来たのは、大都市の学校に通ってる若い人だけね。それ以外の人は、別の世界にいたの。ソ連の大多数の人は、音楽なんて聞いてなかったわ」
 母は言いました。たとえ英語とロシア語という言葉の障壁があっても、ああして聞いた曲にはずいぶん魅了されたと。母はビートルズの〈Yesterday〉をハミングで歌い始めました。そして、胸に手を置いて言いました。「今でも覚えているわ。あの歌が私の青春。[アメリカの]歌はまた違ったわ。〈Hotel California〉は魔法のよう。また別の美しい世界だったわ。ソ連での生活とはかけ離れた世界よ。歌詞を知らなくても、それがわかったわ」
 母がソ連を離れたのは1989年のことでした。アメリカに着くやいなや、カルチャーショックに襲われたそうです。「気絶しそうになったわ。アメリカには、お金で買えるものがこんなにたくさんあるんですもの」 母は深呼吸して、目を丸くしながら語ります。雑貨店にCDが並んでることはもちろん、現代のインターネットのオンディマンド・サービスで音楽が流れてくることにも、ビックリ仰天しています。
 アメリカに移住するまでの人生経験で、音楽はああいうプロセスで買うものだという観念が頭にこびりついていた母にとっては、消費社会アメリカにおける供給過多状態は理解を超えるものでした。「音楽がなかったら[ソ連での]生活はもっと酷いものだったでしょう」
 母の締めくくりの言葉はこうでした。「今でも、音楽を自分の人生から切り離すことは出来ません」


"Here's What It's Like To Have Listened To Illegal Vinyl In Russia" by Donna-Claire Chesman
https://www.vinylmeplease.com/magazine/heres-what-its-have-listened-illegal-vinyl-russia/?utm_content=buffer43312&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=Twitter+buffer
Reprinted by permisson


参考サイト
レントゲン写真製!冷戦時に作られた幻の”肋骨レコード”が美しい【旧ソ連】
https://matome.naver.jp/odai/2140436541870533901

ロックが禁止されていたソ連で「退廃的音楽」を入手するための「骨レコード」とは?
https://gigazine.net/news/20151216-bone-record-soviet-union/


 
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2018年01月30日

イギリスの有名ブートレッガー「ミスター・トード」が死去

 これはレッド・ツェッペリンのファンサイト「Led Zeppelin News」に1月26日付で掲載された記事ですが、ミスター・トードというと、ボブ・ディランのブートレッグもたくさんリリースした人物です。ゴスペル曲のみで構成されたコンサート(1979年11月16日サンフランシスコ公演)を収録した史上初のブートCD《Contact With The Lord》や、1981年ヒューストン公演のサウンドボード・テープを収録した《You Can't Kill An Idea》を1990年にリリースした後、ボブ専門レーベル、Wanted Man Musicも作りました。今から四半世紀以上前に、ゴスペル期再評価の最初のきっかけを作ったのがミスター・トードといっても過言ではありません。



イギリスの有名ブートレッガー「ミスター・トード」が死去
文:ledzepnews


 ミスター・トードのニックネームで知られているブートレッガーで、2007年の海賊盤裁判で注目を浴びたロバート・ラングレイが、今月上旬にこの世を去った。
 ブートレッグ情報サイト「Collectors Music Reviews」もラングレイ死去のニュースを報じているが、死因は明らかになっていない。
 2007年にジミー・ペイジが証人として出廷して話題となった裁判では、ラングレイに懲役20カ月の判決が下っている。
 ラングレイは、2005年5月にスコティッシュ・エキシビション&カンファレンス・センターで開催されたレコード・フェアに警察の捜査が入った際に逮捕された。その際、彼が権利者に無許可で違法に販売していた大量のブートレッグが、警察によって発見された。
 この人物が£11,500相当のレッド・ツェッペリンのブートレッグの他、£1,790相当のローリング・ストーンズのブートレッグ、£885相当のビートルズのブートレッグを所持していたことが警察の捜査で判明したと、BBCニュースは報じている。
 ラングレイは、初めのうちは、3件の商標権侵害、2件の著作権侵害については否認し、抗弁していたが、ペイジが出廷して彼に不利な証言するに至り、遂には有罪を認めた。
 ザ・スコッツマン紙の記事によると、ペイジはジュディス・ハッチンソン地方検察官にこう語ったらしい:

「ファン同士で音楽をトレードするまでは問題ないですが、何かと交換するつもりはなく、それを商品化するやいなや、法律的にも道徳的にもルールを侵していることになります。…そうしたレコーディングの中には、ブンブンいってるだけで、音楽が聞こえないものもあります。もしこうしたものが正規にリリースされるとしたら、正しいことではありません」

 ペイジが出廷したことは、当時、マスコミで大きく報じられた:


 クリントン・ヘイリンがブートレッグ産業の歴史について著した本『Bootleg!』には、ラングレイの発言がフィーチャーされている。彼は「ミスター・トード」の名前でインタビューに答え、1990年代初頭はブートレッグCDを製造するのに大変苦労したと、ヘイリンに語っている。
 彼が作ったボブ・ディランのCDブートレッグ第1作目はこんな感じの出来になってしまった:

「初めて作ったCDは酷い代物だった。究極的に酷かった」とラングレイは語る。「《They Don't Deserve It》は届いてみたら滅茶苦茶だったよ。工場に送ったのは75分間の音源だったのに、戻ってきたら、あちこちがカットされて72分になっていた。…ボリューム・レベルも滅茶苦茶で、送ったテープとは全然違っていた。イスラエルに行って、韓国に行って…。戻ってきたら、裏ジャケットは、こういうデータを載せてくれって業者に渡した、[ミセス・トードが]タイプ打ちした原稿をそのまま印刷したものだった。白い紙にね」

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 ラングレイはこの本の中でこんな話もしている。彼のブートレッグCDレーベル、Silver Raritiesは、CDの製造工場を探しにドイツに行ったのがきっかけで、1991年8月に誕生したもので、その後、新たにディラン専門のブートレッグ・レーベル、Wanted Manも立ち上げられた。
 イギリスでCDをプレスしてくれる工場を発見することが出来たおかげで、ラングレイは事業を拡大することに成功したのだが、ヘイリンはこのあたりの事情をこう説明している:

「彼は聖杯に出くわした。持って行った音源が何であれ、つべこべ言わずに製造してくれるプレス工場が、イギリスにあるのを発見したのだ。しかも、自分の代わりにあらゆるリスクを引き受けてくれる仲介人も見つけたのだ。イギリスの約半数の卸業者のために前代未聞の値段とスピードでCDをプレスしてあげたことで、彼は誰も逆らうことの出来ない人物になった。
 しかし、これが一時的な状態で、いつかは過ぎ去ってしまうだろう、自分が撒いた憎しみの種が7倍になって返って来るだろうとは、ミスター・トードは夢にも思っていなかった。著作権保護制度の隙間の蝶番{ちょうつがい}がはずれていた非常に短い間、イギリスはヨーロッパのブートレッグ製造の中心地となっており、ミスター・トードは、こうなりたいと夢に見ていた成り上がりの荘園領主のように、そこの主となっていたのだ」



The original article "The legendary bootlegger known as 'Mr. Toad' has died" by Ledzepnews
http://ledzepnews.com/2018/01/26/robert-langley-mr-toad-bootleg-dead/
Reprinted by permission

   



おまけを読む
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2017年04月09日

ストックホルムで北欧盤をハンティング

ノーベル文学賞

 春休みにボブ・ディランのストックホルム公演(4月1、2日)を見に行ってきました。毎年1発目のコンサートはいろんな点で注目されるわけですが、今年に限っては、直前にニュー・アルバム《Triplicate》がリリースされ、参加ミュージシャンのクレジットにスチュ・キンボールの名がなかったことから、コンサート常連の間では選曲とバンドの人事の点で普段より注目度がアップ。しかも、ノーベル賞騒ぎのおかげで、ファン以外からも大きな興味を持たれていました。
 会場となったウォーターフロントはラディソン・ブルー・ホテルに併設されており、ノーベル・アカデミーの担当者が4月1日の午後2時頃に会場に来て、ホテルの3階の部屋で「出前」の授与式が行なわれたそうです。アカデミーの面々は、コンサートの際には前から4列目か5列目の席(スチュの前あたり。私のすぐ左のブロック)にいたのを目撃されています。
 4月1日夕方の時点では、会場の様子を取材、あわよくばメダルをもらった直後のボブの姿を写そうとするテレビカメラやパパラッチがいましたが、私の知る限り成功はしていません。美人パパラッチはボブ・バスから目を離しませんでしたが、テレビカメラのほうは会場前でいろんな観客に話を聞いて回っており、私もインタビューされてしまいました。名前と年齢、出身国の後、来た理由を訊かれたので「ノーベル賞がらみの大騒動の後なので、今回のツアーはストックホルムで見るのが一番面白いだろうと思いました」と答え(単なる野次馬)、ロック界では他に誰がノーベル文学賞に値するかという質問には「キング・クリムゾンの歌詞を書いたピート・シンフィールド」と答えましたが(ロバート・ハンターって答えたほうがよかったか…パティー・スミスとは絶対に答えたくはなかった)、このやりとりがスウェーデンのテレビで放送されたかどうかは不明です(ネットかどこかで見つけたら是非教えてください)。

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(ボブ・バスから目を離さない美人パパラッチ)


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(インタビューを受けるイスラエルから来たファン。
後ろに見える黒いバスがボブのツアーバス)


 で、コンサートのほうは既にビデオ、オーディオ、写真、評がたくさん出回っているので、私が書くまでもないでしょう。それよりも、ストックホルムに着いて初めて知ってビックリしたのが、ニューヨークやロンドンでは壊滅状態のレコード屋が健在だということです。全部をのぞくことは出来ませんでしたし、購入したレコードも4枚のみでしたが(なのでタイトルにはちょっと偽りあり)、私の1,000倍くらい真剣にレコードの収集をしている諸兄姉にストックホルムにもっと興味を持ってもらえるよう、私が見聞きしたことを、忘れないうちに小さな記事としてしたためることにしました。


スウェーデン雑感

 そもそも、スウェーデンてあまり人気ないのでしょうか? 日本からの直行便は基本的にないし、『地球の歩き方』では『北欧編』として近所のノルウェー、デンマーク、フィンランドと一緒にまとめられている状態で、その他のガイドブックもあまり存在しません。どっちの方向を見てもステキな風景&建物だらけで、おとぎの世界みたいなラヴリーな国なのに…。物価が高いのは確かにネックですけどね(セブンイレブンでサンドイッチとジュースを買うだけで1,000円くらい。地下鉄の初乗りは500円くらい。ひえ〜〜〜〜)。ガイドブック自体が数少ない上に、マニアックなレコード屋を紹介している記事など、なおさらありません。
 ホテルから1軒目のレコード屋に到着するまでの道すがら、案内人であるペールさん(昨年のボブの日本公演で知り合った)にスウェーデン全般のことを訊いてみました。前日の夜に到着して、中央駅からホテルに向かうタクシーの中で、いきなり運ちゃんから言われたのが「東京にはホアはたくさんいるのかい? 売春婦のことだよ。最近、ストックホルムには主にルーマニアから大量の売春婦が流入してるんだ。この通りには結構多いんだぜ」ってことでした。まずは治安の面に関して質問したら、こんな回答でした:

 いわゆる昔のニューヨークのような危なさはないし、特に危険な地域もないけど、ルーマニアから来た孤児は一応注意したほうがいいかなあ。親はいないの。子供だけで来て、ストリートでたむろしたり寝たりしてるんだ。子供だから政府も追い返すことが出来なくて…。


 スウェーデンが一時はやめてた徴兵制を再開する予定とのニュースも最近、入ってきました。世界中で鷹派的な考えが蔓延してきていますが、北欧のおとぎの世界、スウェーデンよ、お前もか、というのが私(平和ボケの典型)の感想です:

 ロシアが脅威なんだよ。ゴットランド島を狙ってるんだ。ここを押さえればバルト海を軍艦が自由に行き来出来るからね。日本にとってもロシアは脅威なの? ある意味すごいよな。西の端っこじゃスウェーデンの脅威で、東の端っこじゃ日本の脅威になってるんだから。どれだけデカい国なんだよ。オレも19歳の時に兵役に参加して、北のほうの町で訓練を受けたんだ。(ニコニコしながら屈託なく話す)なかなか楽しい経験だったなあ。


 ガイドブックによるとスウェーデンの人は、みんな、英語が得意なんだとか。ペールさんもしかり。私の泊まったバックパッカー用安ホテルの従業員も英語で普通にOK:

 教育制度のおかげでもあるかもしれないけど、英米の映画が吹き替えられず、英語のまま、スウェーデン語の字幕付きで上映されることのほうが多いからっていうのもあると思うよ。映画を見てるうちに英語を覚えちゃう。それに、いろんな取扱説明書とかは、英語のものしかない場合も多く、必要に迫られてってこともあるかもしれない。


 さて、次の質問がメインだったりします。年金世代のスケベ爺さんから是非調査してきてくれとリクエストされたことです。かつての日本では、スウェーデンはフリーセックスの国であるという伝説が語られていました(60歳以上のジジババ世代だと特に)。フリーセックスが何を意味するのかはいまいち不明なのですが、映画『パッチギ』にも、オダギリジョー扮するちょっと進んだ青年がフリーセックスにあこがれてスウェーデンに向かって旅立つシーンがありました。フリーセックスは本当なのでしょうか、それとも、黄金の国ジパング的な伝説なのでしょうか?:

 一部は正しく、一部は間違ってる。当然、その頃なのでヒッピー・ムーヴメントの影響もあるでしょう。でも、その前に、スウェーデンはカトリックじゃなくてプロテスタントの国で、しかも、伝統的に、みんなそんなに信仰熱心じゃないんだよ。毎週日曜日に教会に通ってる人なんてあまりいないし。だから、男女のつき合いに宗教的な縛りはない。セックスは結婚してから、なんていうものない。婚前交渉OK。つきあったり結婚したりするのに、まずは相手のご両親に挨拶して承諾を得てから、なんていう手順も必要なく、つきあうかどうか、結婚するかどうかは女の子本人が自分の意志で決めることが出来るんだ。ここでは男も女も平等だ。そういう点が、他の文化の人からは、かなりフリーに見えたのかもね。

 
 なるほど! そうこうしているうちに1軒目のレコード屋に到着しました。ボブ・ディランのオッカケや家族旅行で地球のあちこちに行ってるペールさんは世界のレコード屋事情についてこう語ります:

 あれほど面白いレコード屋がたくさんあったロンドンやニューヨークは今や壊滅状態だけど、東京とストックホルムはまだ健在なんだよ。



   




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