2016年05月30日

フィル・ラモーン:天才の耳 ヒット・レコード制作とステキなセックスとの共通点

 グレン・バーガーの『Never Say No To A Rock Star』が出る前に、このなかなか味わいのある文もどうぞ。


フィル・ラモーン:天才の耳
文:グレン・バーガーPhD.


 ヒット・レコードを作ることとステキなセックスをすることには大きな共通点があるのだ。まあ、続きを読んでくれたまえ。

 1975年11月、私の親方であるフィル・ラモーンは、ある人物とレコードを共同プロデュースするという機会を得た。彼は既に超一流エンジニアとしての地位は確立していたが、プロデュースの世界には足を踏み入れようとしているところで、ビリー・ジョエルと組んでヒットを飛ばしまくるのは、まだ数年先のことだった。この共同プロデュースの仕事は彼の旧友、ミルト・オウクンからのプレゼントだった。オウクンはピーター・ポール&マリーのトップ・ヒットを含む、数多くのフォークのレコードのプロデュースや音楽監督を務めた重要人物で、ラモーンはその多くでエンジニアとして働いていた。
 オウクンはビル&タフィー・ダノフという夫婦が率いるバンドを呼んでいた。彼らはファット・シティーというバンドで活躍していたが、その後、ジョン・デンヴァーのためにヒット・ソング書いた。〈Take Me Home, Country Roads〉という不朽の名曲がそれだ。ふたりはデンヴァーの計らいで、彼とミルト・オウクンが経営するレーベル、ウィンドソングと契約した。(オウクンはデンヴァーの成功にも大きく関与していたのだ)

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 ビル&タフィーはジョン・キャロル、マーゴット・チャップマンという2人のカワイイ顔した若手と手を結び、グループを結成してスタジオにやって来た。ラモーンはエンジニアと共同プロデュースを担当することになっていたのだが、こんなグループにかかわったところで出世の役には立たないだろうと、早いうちに感じていたに違いない。レコーディングの仕事を、元弟子であるリック・ブレイキンと私に丸投げしてしまったのだ。
 殆どの時間、ラモーンはどこにもいなかった。彼はコークを手に入れたり、のんびりしたり、男まさりのストライザンドをなだめたり、シカゴの次のコンサートの準備をしたりしていたのだ----一方、全ての作業をしたのは私たちだった。
 ラモーンは時たま、クレジットに値する仕事をやってますというアリバイ作りのために、コントロール・ルームにひょっこり顔を出した。
 オウクンもあまり仕事をしなかった。彼はプロデューサー席に座ってビルボード誌を読んでいたが、大した問題ではなかった。現場は基本的にはビル・ダノフが仕切っていた。4人のバンド・メンバーは全員、とても有能だった。ベースのラッセル・ジョージ、ドラムのジミー・ヤング、サックスのジョージ・ヤングといった最高のスタジオ・ミュージシャンもいたので、ベテランにとっては楽勝だろう。でも、私にはこのレコードは我慢がならなかった。私が関与したレコードの中で最大の駄作の1つだと思ったのだ。白人のヴォーカル・カルテットが1970年代のカントリー・ロックを歌ってるこんなアルバム、当時の私のヒーローだったジョン・レノンやブライアン・イーノとは全然違う。フィルとミルトが無関心なのは、ふたりもこれが失敗作だと思ってるからなのだろう、と私は想像した。
 音楽がクソだとレコーディングは退屈なものになるが、たとえ音楽がクソでなくても、レコーディングの作業は永遠に続く退屈なのだ。このレコーディングで私が学んだのは、超つまんない時に、自分がやらなきゃいけないことをしっかりこなしながら、適当にのんびりすることだった。
 ラモーンが形式的にスタジオの見回りに来たので、私はちんたらしてなどいられなくなった。ラモーンは止まることなく、大声で指示を出した。こいつは今、不必要な混乱状態を作り出して、消火栓に小便をかけるほどの真っ当な理由しかないことのために、オレたちに仕事をさせようとしてるんだ、と私は思った。
 ラモーンは偉そうな声で命令した。「お前の仕事はこれだ。ペダル・スティール・ギターを持って来い。それをファズ・ボックスとフランジャーに通せ。“skyrockets in flight”(ロケット花火が飛んでいる)って歌うところで、ペダル・スティールにビューンて降下する音を出させろ。そうすりゃ、ナンバー1レコードの出来上がりだ」
 何? この時代遅れの音楽からナンバー1レコードを作るだって? そんなバカなと思ったものの、ラモーンからの指示だったので、私たちはその通りにした。アーティストも同様だった。ペダル・スティールのダニー・ペンドルトンに来てもらって、エフェクターに通して、「ロケット花火」の箇所に効果音を加えた。
 アルバム全体で、ラモーンの貢献はこれが全てだった。



 で、あの曲、〈Afternoon Delight〉はというと、ナンバー1レコードになった。1970年代最大のヒット曲の1つにもなったのだ。このバンド、スターランド・ヴォーカル・バンドはグラミーで最優秀新人アーティスト賞など、2冠に輝いた。
 ラモーンは天才の耳を持っていた。電話の最中でも、廊下の向こうから何かを聞いて、ヒット曲になることがわかる出来る人間だった。耳のためのちょっとしたキャンディーを加えるといいこと、リスナーの心を掴み、レジのところに引っ張ってくるには、正しいひっかかりが必要なことをわかってたのだ。スタジオで働いていた最初の3年間で、私はフィルがプロデュースして、グラミーの最優秀新人賞に輝いた2枚のレコードの作業を担当した。1枚はフィービー・スノウ。そして、これだ。
 ペダル・スティールが要だったのだ。あの1節でラモーンはプロデューサーのクレジットを得たのだ。このバンドは一発屋で、さらに3枚アルバムを出したが、鳴かず飛ばずだった。
 ラモーンのマジックとは何だったのか? ラモーンが持ってた特質とは、バーナード・メランドの言う審美意識だった。ウィリアム・ブレイクふうに言うと、一粒の砂の中に宇宙を見る、つまり、普通のものの中に美を見いだす能力だ。養おうと思えばそうすることの出来る、この能力こそ、人生の精神的目標の1つなのだ。我々の世界に存在するあらゆるものが素晴らしい。私達は、限られた視野を突破するなら、全てのものをそういうものとして体験することが出来るのだ。私の耳には退屈な音楽しか聞こえていなかったのだが、ラモーンには荒れ地の中にダイアモンドがあるのが聞こえていたのだ。
 それで、これが素晴らしいセックスとどういう関係があるのかって? 私の精神療法の患者のゲイでない男性の多くが、遅かれ早かれ、最近パートナーとのセックスに飽きてきたと言うようになるのだ。
 彼らは生活をともにしている人間の中にある、永遠の女性美よりも、小さな欠点のほうばかりを見てしまうのだ。ここにちょっと肉がついてきたとか、胸の形が変だとか。一生涯、同じ人とステキなセックスライフを送るのに重要なのが、審美意識なのだ。ラモーンは、これが本当だってことを証明した。美は対象の中に存在するので、それを知覚する必要があるのだ。
 そういう能力が開発されていないと、自分が見逃しているものが何かもわからない。
 あの頃の私はとても鈍感で、あのダサいヒット曲が実は変態の歌だと気が付いたのは、何年も経ってからだった。真っ昼間にセックスをするという歌だったのだ。

The original article "Phil Ramone's Ears of Genius" by Glenn Berger PhD.
http://www.huffingtonpost.com/glenn-berger-phd/phil-ramones-ears-of-geni_b_9439254.html
Reprinted by permission


    
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