2017年07月21日

ボビー・ウィットロックが〈Layla〉のピアノ・コーダが嫌いな理由

 2010年に出版されたボビー・ウィットロックの回想録『A Rock'n'Roll Autobiography』は面白くて、夢中になって読みました。《All Things Must Pass》は当時の契約上、参加ミュージシャンのクレジットがわざと曖昧になっていたため、じっくり聞きながら「これはクラプトンでしょう」とか「このハイハット・ワークはリンゴの特徴だよ」とか考えていたのは、私だけではないはずです。ウィットロック回想録には曲ごとの詳細なパーソネルが記されており、長年の霧が一気に晴れました。今回紹介する最新インタビューを読んで興味を持った方には、はるかに詳しいことが書いてある『A Rock'n'Roll Autobiography』の一読をおすすめします。(《On Tour》のジャケットでロールスロイスの窓から足を出してるのはボブ・ディランじゃない説を唱えています)
 ウィットロックと同じ頃、デラニー&ボニー&フレンズのメンバーだったサックス奏者、ボビー・キーズの回想録『Every Night's a Saturday Night: The Rock 'n' Roll Life of Legendary Sax Man Bobby Keys』も傑作です。エリック・クラプトンとバンドを組むつもりでロンドンにやって来たら、ジョージ・ハリスンの家に連れて行かれ、何かおかしいなと思ってるうちに、自分抜きでデレク&ザ・ドミノスを作られてしまうが、ローリング・ストーンズに拾われるという波瀾万丈が生き生きと描かれています。

 





ボビー・ウィットロックが〈Layla〉のピアノ・コーダが嫌いな理由
聞き手:フランク・マストロポロ



 キーボーディスト/ギタリスト/シンガーであるボビー・ウィットロックは、デラニー&ボニー&フレンズに参加して以来、ロックファンに最も愛されているアルバムの数々でプレイしてきた。メンフィス出身のボビーは、スタックス・レコードでブッカー・T・ジョーンズやスティーヴ・クロッパーらの指導を受けた後、間もなく、彼のソウルフルなR&Bスタイルを欲しがるイギリス人ミュージシャンの間で引っ張りだこになった。
 エリック・クラプトンとともにデレク&ザ・ドミノスを結成したウィットロックは、《Layla and Other Assorted Love Songs》では9曲のオリジナル・ソングのうち、〈Bell Bottom Blues〉〈Keep On Growing〉といった人気曲を含む7曲を書いた。しかし、ベーシストのカール・レイドル、ドラマーのジム・ゴードン、客演ギタリストのデュアン・オールマンも擁したこのバンドは、たった1枚のスタジオ・アルバムを残しただけで解散。
 ウィットロックはクラプトンのソロ・デビュー作とジョージ・ハリスンの《All Things Must Pass》でプレイし、その後も、ローリング・ストーンズ、ジョン・レノン、ドクター・ジョンのセッションに参加した。以来、ウィットロックはソロ・アルバムも多数リリースしたが、1980年代と2000年代には子育てのために音楽活動は休業。
 2010年に『Bobby Whitlock: A Rock'n'Roll Autobiography』(エリック・クラプトンが序文を寄せている)を出版したウィットロックは、現在、ベテラン・シンガー/ギタリスト/プロデューサーそして妻であるココ・カーメルとともにレコーディング活動、演奏活動を行なっている。ふたりは公演ごとに毎回異なるゲスト・ギタリストをフィーチャーしながら、アメリカをツアー中だ。(ツアー日程はhttp://www.bobbywhitlockandcococarmel.comを参照のこと)


自伝を出版してから7年が経ちました。今、自伝を書くとしたら、どんな話を新たに付け加えたいですか?

 大発見があるんだ。オレの曾祖母は黒人だったってわかったんだよ。その人の両親も黒人。ハリスンお婆ちゃんは超黒い肌をしている白人みたいな見た目だったんで、一族の連中はいつも、彼女はチェロキー・インディアンだってことにしようとしてたんだけど、そんなことあり得ないと思ったオレの娘が、DNA鑑定を受けてみたんだよ。そしたら、オレの一族のルーツは東アフリカだった。お袋が亡くなる直前に遂に明かしてくれたんだ。「その通り。でも、そう言いたくはなかったの。言ったら、家族の中で争いになりかねないから」って。全員、オレたちはインディアンなんだって信じ込ませようとしてたんだ。実際はそうじゃないのに。オレがこれを知ったのは約1年前さ。啓示みたいだったね。突然、自分の人生の全体の辻褄が合った。白人はオレみたいに歌わない、オレみたいなプレイはしない。白人はキャデラックのウィンドウを黒くしないし、ヴェルヴェットとシルクの服に先の尖った靴なんていう格好をしない。そんなことやらないだろ。突然、全てがはっきりしたんだ(笑)。

始まりはスタックス・レコードでしたよね。そこではどんなことを学びましたか?

 2週間ほど前にメンフィスにいたんで、スタックス博物館に行ったんだ。ブッカーが使ってたオリジナルのオルガンがあったんで、それを弾いてみた。これがオレが弾いた最初のハモンドだよ。ブッカーはオレがスタジオの中に入り、壁のところに立ち、背中越しに見学するのを許してくれたんだ。ブッカーは時々、ひとりでスタジオに入ってハモンドを弾いてたんで、オレは彼の肩越しにドローバーの使い方を覗き見しながら、耳ではそれがどんな効果を出すのか聞いた。オレはブッカーの演奏を見ながらたくさんのことを学んだ。オレは誰よりもずっとドローバーを多様する。ドローバーを使うと色とスペースを増やすことが出来るんだ。こうした質感や微妙なニュアンスの変化が、曲の中では大切なのさ。

1969年にはデラニー&ボニー&フレンズに加入して、デラニー・ブラムレットから多くのことを学んだそうですね。

 オレがあいつから何を勉強したのか話してあげよう。こういうことはやっちゃいけない。こういうふうに人を扱っちゃいけない。これがあいつから学んだことだ。でも、音楽面では、あいつはロックンロールの名曲をいくつも書いた。ある時、あいつのところにいって訊いたたんだ。「どうやって曲を書くんだい? ああいうロックンロールの名曲は、どうやったら書けるんだい?」って。オレの曲をいくつか既に耳にしてたデラニーはこう答えた。「お前が書いたバラードのうち、どれでもいいから、それに違うビート、違うテンポ、違うフィーリングを乗せてやってみろよ」って。オレは「なんだ! それだけなの。簡単じゃんか」って言った(笑)。そして、オレは帰宅して〈Where There's a Will There's a Way〉を書いたんだ。これはオレがひとりで書いた最初のロックンロール・ソングだった。
 常に口を閉じ、目と耳は大きく開いて、あらゆる人間から学んだよ。オレの周りはタージ・マハール、リオン・ラッセル、J・J・ケール、ジョー・コッカー、ドアーズ、ママ・キャス等、凄い人だらけだった。みんな、しばらくデラニー&ボニー&フレンズの取り巻きだった。そこには何かがあったよね。

   

その頃、エリック・クラプトンのファースト・ソロ・アルバム《Eric Clapton》でプレイしてますよね。

 あれはたまたまそうなったものだ。計画なんかなかったよ。エリックは自分のヴォーカルに全然自信がなくて、デラニーは超自信満々だった。そこでデラニーがやったのは、デラニーが全曲を歌い、エリックがそれをお手本にして、デラニーが歌ったように歌うってことだった。そっくりに歌うんじゃなくて、ああいうフィーリングで歌えってことだったんだけどね。こういうことは、実際にやってみなきゃ手に入らない貴重なものだ。金じゃ買えない。でっちあげで作れるものでもない。
 エリックはこうしてアイデンティティーを確立した。こうして自分の声を持つに至った。声を聞けばエリックだってわかるよね。エリックは優れたシンガーだ。あの声は好きだよ。エリックとオレが一緒に歌うと絶妙なブレンドになるんだ。でも、あいつは生まれながらのギタリストであっても、生まれながらのシンガーじゃない。レイ・チャールズは生まれながらのシンガーだけどね。

1970年にはデラニー&ボニーを離れましたね。

 オレは最初にフレンズのメンバーになり、オリジナルのフレンズの中では最後に去った人間だ。最初はデラニーとボニーとオレがアコースティック・ギター1本の伴奏で歌うところから始まったんだぜ。バンドを去ることになった時、どこに行ったらいいのかわからなかったんで、スティーヴ・クロッパーに電話をかけたら、「エリックに電話をかけて、そっちに行って、しばらく一緒に遊びたいって言ってみろよ。デラニーのバンドを辞めたことも伝えろ。それで、エリックが何て答えたか、また電話をかけて教えてくれよ」だって。それで、オレはエリックに電話をかけて言ったんだ。「ヘイ、メーン。デラニー&ボニーを辞めたばかりなんだ。疲れちまったんで、骨休みが必要だ。少しの間、そっちに遊びに行っていいかな?」って。そしたら、エリックの返事は「いいよ、こっちに来い」だった。オレはすぐにクロッパーに電話をかけ直して、エリックの返事を伝えたら、「お前用の航空券がある」って言われて、次の日、本当にロンドン行きの片道の航空券を渡されたんだよ。そんな感じだった。
 オレがエリック宅に出向いたのは土曜日の午後のことだった。出てきたエリックが「お前、ここで何やってんだよ?」って言うんで、「お前が、こっちに来いって言ったから、オレはここに来たんだよ」って答えた。エリックはオレを中に入れて、泊まりたい部屋に泊まれと言ってくれた。結局、1年近く居候しちゃったね。エリックにとってはそれで好都合だったのかもしれないけど(笑)。

その間、あなたとクラプトンはジョージ・ハリスンの《All Things Must Pass》に参加してますが、普段よりレベルの高いことをしなければならないという感じでしたか?

 いや。エリックもいたし、オレも仲間のひとりということで、ジョージを大物ロックスターとかビートルズとかいう目で見ることはなかったよ。オレは演奏するためにそこにいたんだ。あのアルバムではパンプ・オルガンは全部オレが弾いたんだ。〈Behind That Locked Door〉以外のハモンドもオレ。この曲ではビリー・プレストンが弾いている。〈Beware of Darkness〉のグランド・ピアノはオレだ。〈My Sweet Lord〉はジョージとオレで歌ってる。オレは第2パートを歌っていて、他の全てのヴォーカルはジョージが重ねた。
 オレは大きな全体の一部に過ぎなかった。ジョン・レノンがセッションを聞きに入ってきた時も、そんなに感動はしなかった。いろんな人がオレたちの様子を聞きに来て、仕事を依頼してきた。オレたちのほうから頼んだわけじゃない。アルバムをレコーディングするためのバンドを作ってくれってエリックとオレに頼んできたのはジョージなんだ。というわけで、オレたちが《All Things Must Pass》の核となるバンドになった。

   

デレク&ザ・ドミノスでは〈Thorn Tree in the Garden〉を単独で書き、6曲をクラプトンと共作してますね。クラプトンと一緒に曲を書くプロセスはどんな感じだったのですか?

 ひとりで書く時には、宇宙にあまねく解き放たれている創造の原理を素直に受け入れているよ。エリックと一緒に曲を書いた時、エリックもそれを受け入れて作業をしていた。オレたちが書いた曲は全部、最初に〈I Looked Away〉を書いて以降ずっと、自然に出来たものさ。ある日、TVルームで雑談している時、オレは手に鉛筆とノートを持ち、エリックはギターを抱えながら、ギターや車、ロックンロールや女の子のことを話していた。エリックをオレを見て、「愛ってどうしてそう悲しいもんになっちまうのかなあ(Why does love got to be so sad?)、ボビー?」なんて言うから、オレは「どうしてそんなに長いタイトルになっちまうのかなあ?」って答えて、そんなきっかけがあって曲を紡いでいったのさ。エリックはずっとパティー[ハリスンの当時の妻、パティー・ボイド]のことばっかり話していた。あの三角関係の真っ最中で、どうにか意を遂げようとしていた。ふたりは最終的に結婚したけど、それも破局を迎えちゃったなあ。
 〈Tell the Truth〉はリビング・ルームで書いたんだ。今でもあの光景は覚えている。暖炉では火が煌々と燃えていた。オレたちは1日中、曲を書いていて、エリックは「そろそろ寝ようかな」って言ったんだけど、オレはまだ寝ないと決め、ずっと起きてたんだ。大声で歌ったり、あれこれやりながらね。突然、新しい1日が訪れた。新しい生活が始まった。歌詞がどんどん飛び出してきた。オーティス・レディングがステージに膝を突いて「Tell the truth!(真実を語れ!)」ってシャウトしてるようなイメージを考えていた。オレは最終ヴァース以外は全ヴァースとコーラスを書いた。
 エリックが古くてボロボロの茶色のローブを着て、朝食を食べに降りてきたんで、「昨晩、最高のロックンロール・ソングを書いたぜ」って言ったら、あいつは「知ってる。床を通して3番目のヴァースが伝わってきたよ」だって(笑)。エリックのベッドルームはリビングの真上だったんだ。書いてる時は、そんなこと考えもしなかった。
 曲作りに決まった方法というものはない。ジャムってたらいいトラックになったのが〈Keep on Growing〉だ。でも、最初はインストゥルメンタルだったんだよ。そしたら、トム・ダウド[プロデューサー]が「インストゥルメンタルを入れるスペースはないよ」って言う。2枚組じゃなくて1枚組になる予定だったからね。それで、オレが「ヘイ、メーン。20分くれよ」って言って、クライテリア[・スタジオ]のホワイエに出て行った。まだそんなに長くは生きてないオレは、少ない経験を振り絞ってオレの能力では最高スピードで曲を書き、最高スピードでメロディーも歌詞も歌えるようになってスタジオに戻り、マイクをセットしてもらって、歌い始めたんだ。第1ヴァースの半分くらいのところで、オレはエリックに言ったんだ。「オー、メーン。こっちに来て、一緒にサム&デイヴみたいに歌おうぜ」って。そうしてオレたちは歌い、たった1テイクでOKだったと思う。そうして〈Keep On Growing〉が出来たんだ。

〈Bell Bottom Blues〉の共作者として、最近ようやくクレジットされるようになりましたね。

 ハートウッド[サリー州にあるエリックの私邸]のTVルームのドアのところに立ってたら、エリックがギターを持ってやって来て、「これはどう思う、ボビー?」って言うと〈Bell Bottom Blues〉を歌い始めたんで、オレが「You won't find a better loser(これ以上見事な負け犬は見つからないよ)」っていうフレーズを思いつくと、「ダメ、ダメ」なんて返事が返ってきた(笑)。あのフレーズはエリックじゃない。それから、TVルームに入って、サビを書いたんだ。「Do you want to see me crawl across the floor to you? (オレが床を這ってキミのもとに行くのを見たいのかい?)/ Do you want me to hear me beg you to take me back? (オレを取り戻してくれとキミにお願いするのを聞きたいのかい?)/ I'll gladly do it(だったら喜んでそうしてやるさ)」これはオレが思いついたラインだ。そして、「I don't want to fade away / In your heart I want to stay(オレは消え去りたくない/お前の心に残りたい)」はエリックのラインだ。なので、オレはエリックにメールを書くことにしたんだ。eメールのアドレスは持っていた。それで、オレはエリックにメールを書いて、この話をしたんだ。「こうだったの、覚えてる?」って。そしたら、3分もしないうちに「お前の言う通りだ。事実を正しく反映させたものにしようと思う」っていう返事が届いたよ。そして、実際にそうしてくれた。以来、〈Bell Bottom Blues〉のクレジットは「Written by Eric Patrick Clapton and Robert Stanley Whitlock」になったのさ。

〈Layla〉でジム・ゴードンが弾いているピアノ・コーダは全然気に入ってないんですよね。(〈Layla〉のコーダの真の作曲者に関する訳者の見解は、ずっと下の「おまけ」をクリック)

 《Layla》のレコーディングが終わったんで----そう思ったんで----イギリスに戻ったんだけど、ジムがエリックを熱心に説得して、あのコーダを入れさせたんだ。オレは嫌で嫌で仕方なかった。我慢がならなかったね。発情期の猟犬40匹分の勢いで反対したよ。オレはあれは入れたくなかったね。オレは全く関与してない。オリジナル・シングルにも入ってない。オレが猛反対したから、オリジナル・シングルには入れず、アルバムだけああなった。でも、そのうち、ナッシュヴィルのあるDJがアルバム・バージョンをかけ始めたんだよな。

クラプトンは何て言ってましたか?

 何も。オレと同意見なんだけど、数年前に道端で音楽について立ち話をした時には、妥協する必要があったんだって言ってた。ワーナー・ブラザーズを喜ばせる必要があった。100%賛成ではない方向性の曲もやったりしなきゃいけなかったんだ。でも、オレは自分の音楽とその基準に、生まれてこのかた妥協したことはないよ。

デレク&ザ・ドミノスは、あれだけ成功したにもかかわらず、どうしてすぐに解散してしまったのですか?

 ドミノスはあらゆることを1度しかやらなかった。小規模なイギリス・ツアーを1度だけ、スタジオ・アルバムを1枚作っただけ、アメリカ・ツアーも1度だけ。全部1回だけだ。
 ジム・ゴードンは一緒に仕事をするのが難しい奴だった。これでもよく言ってるほうだぜ。普通なら、人でなしに対処する時の言葉は「お前とかかわるのは金輪際ごめんだ」だろう。ジム・ゴードンとカール・レイドルには既に計画があった。カールはリオン・ラッセルと仕事をすることになっていた。ジムはトラフィックと何かをすることになっていた。デレク&ザ・ドミノスはエリックとオレのバンドであって、あいつらは単なるドラマーとベース・プレイヤーだった。そんなに献身的じゃなかったね。エリックとオレは相当頑張ったけどさ。
 その後、エリックはヘロインのほうを頑張ってしまい、それがバンドの終わりだった。そういうふうに終わったんだ。エリックはああいうふうに最低のところまで落ちなければいけなかった。這い上がって、今のような充実した人生を送るためには、どん底を見る必要があったんだ。あいつは何事においても道楽半分じゃ済まさない奴だった(笑)。

ココが優れた音楽的パートナーになるだろうと、どのようにしてわかったのですか?

 ココはデラニーと結婚してたんだが、電話で2度ほど話しただけで、会ったことはなかったんだ。デラニーが曲をいくつか送ってきたんで、その中の1つを聞いてたら、この声が聞こえてきたんだよ。超強力な演奏の中でも、この声は光ってたんだ。デラニーに電話をかけて、言ったんだ。「あのヴォーカルをやってる人こそ、お前が一緒に歌ってもらう必要のあるシンガーだ」って。もちろん、あいつは誰にも歌わせたりはしない。デラニーが「あいつはオレの女房なんだ」って答えたんで、「彼女がオレの奥さんだったら、絶対に一緒に歌うね」って言ってやった。ココとオレとの仲は、まずは見知らぬ同士として始まり、その後、親友になり、つき合うようになり、5年の婚約期間を経て結婚したんだよ。一緒になって17年さ。生まれてからずっと一緒にやってきたって感じがするくらいさ。いろんなバンドで活躍してきたけど、常に、ココとオレという基本形に戻る。オースティンのザ・サクソンていうところで、やりたい時に、月2回のペースでプレイしてるんだ。ここはオレたちの定宿みたいなものなんだけど、ここでやってることをもうちょっと発展させて、もう少し遠くまで行って、もう少し大きな場所でプレイしようよって、少し前に話し合ったんだ。

今行なってるツアーについて教えてください。セットリストにはどんな曲があるのですか?

 セットリストってものはないんだ。何をやるかは流れ次第さ。ピアノの上にたくさんの曲名が書いてある紙が置いてあるけど、それは曲のリストに過ぎない。変更される場合がありますってやつさ(笑)。ボビー&ココのサマー・ツアーじゃなくて、スパークリー・シューズ・ツアーってタイトルにしましょうっていうのは、彼女の提案だった。マイケル・ジャクソン・シューズ、ワインレッドのシューズ、青のシューズ、黒のシューズを、あいつがオレに買ってくれたからだ。どれも素敵なものばかりだ。それなりの気持ちが自分の中にないと、そういう靴は履けないよね。
 今までに起こったことはどれも成功とは言えない。ここに至るまでの建築用ブロックだ。今こそが成功だ。それがココとのコンビで起こってることなんだ。ボビー&ココこそ、オレたちの現在だ。そうなるべくしてなってる状態さ。

   

The original article "Bobby Whitlock on Eric Clapton and Derek and the Dominos and Why He Hates the Piano Coda of 'Layla'(Q&A)" by Frank Mastropolo
http://www.rockcellarmagazine.com/2017/07/06/bobby-whitlock-interview-eric-clapton-layla-coco-carmel-george-harrison/#sthash.iwCJ5GwK.fW2ugipi.dpbs
Reprintd by permission





おまけ
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