2017年09月12日

来年はレナード・バーンスタインの生誕100周年

 米ハフポストにて、多数のアーティストや関係者の最新インタビューをタイムリーに届けているマイク・ラゴーニャが、レナード・バーンスタインの99歳の誕生日に、バーンスタインの子供達(ジェイミー・バーンスタイン、アレクサンダー・バーンスタイン、ニーナ・バーンスタイン=シモンズ)のインタビューを掲載。生誕100周年に向けて大きなイベントが行われるようですが、バーンスタイン・ファンが多数存在する日本でも、何か行なわれるのでしょうか?

 




来年はレナード・バーンスタインの生誕100周年
聞き手:マイク・ラゴーニャ


 作曲家/指揮者/教育者/社会活動家/ヒューマニストであるレナード・バーンスタインが誕生したのは99年前の今日(8/25)でした。世界を股にかけて大活躍したこの人物の功績の中には、指揮者として初のアメリカ出身の巨匠になったことと、それと同時に、クラシック音楽と他の音楽ジャンルの間にある隔たりを縮めようと努力した教育者となったことが挙げられます。バーンスタインの『青少年コンサート』はCBSテレビの看板番組となりました。
 最も人気の作品というと《ウエスト・サイド物語》や《オン・ザ・タウン》《キャンディード》等が挙げられますが、《ミサ》や、ケネディー暗殺後に作曲した《交響曲第3番:カディッシュ》も同じくらい重要な作品です。そして、彼がコロムビア響とレコーディングした名盤によって、ジョージ・ガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》は不朽の古典となりました。
 社会にも関心のあったベーンスタインはヴェトナム戦争に積極的に反対し、公民権運動にも深くかかわりました。1989年には、ジョージ・H・W・ブッシュ政権の全米芸術基金に対する政策への抗議を表明するために全米芸術勲章の受賞を拒否しました。
 ケネディー・センター・フォー・パフォーミング・アーツは9月22日(金)から『レナード・バーンスタイ・アット・100』というイベントを開催し、以後、2年間かけて、全世界6大陸で伝説的音楽家を記念して1,000以上のイベントが行なわれることになっています。

1年後の2018年8月25日は皆さんのお父上の100歳の誕生日ですが、そのお祝いは既に始まっています。家族としての視点は少しわきに置いといて、レナード・バーンスタインが文化に対してどんな貢献をしたとお考えですか?

ジェイミー・バーンスタイン:音楽の素晴らしい才能を持っていたおかげで、さまざまな方面で活躍をしました。指揮者としては、交響曲への深い理解と情熱を世界中の音楽ファンと共有し、オーディオ、ビデオの記録を通して名曲の定番となる名演奏を世界に残しました。作曲家としては、前代未聞の広さの守備範囲を誇りました。交響曲、ミュージカル、バレー、オペラ、映画音楽などです。音楽だけでもこんなにあります。レナード・バーンスタインを唯一無二の存在にしているのは、以上の音楽的貢献に加えて、CBSテレビの『青少年コンサート』やハーヴァード大でのノートン・レクチャーなど、教育者としても重要な貢献をしたことです。父は死ぬまで人権や社会正義のために戦う闘士でした。

アレクサンダー・バーンスタイン:レナード・バーンスタインの中にあった才能と情熱がユニークに結びついて、全世界の人々に影響を与えたアメリカ音楽の巨人を生み出しました。幅広いジャンルとスタイルでさまざまな作品を創造した作曲家として----それがレナードのスタイルでしたが----ジャジーなサウンドをクラシックのコンサート・ホールに、交響曲の構造と感性をブロードウェイのステージに持ち込むことに成功しました。アカデミズムの世界では調性{トナリティー}など見向きもされてない時に、レナードはそれを擁護しました。アメリカ出身の指揮者として初めて世界中で巨匠として認められたレナードは、多くの後進のためにドアを開きました。「アメリカの音楽教師」としては、あらゆる年齢層からなるテレビ視聴者に「クラシック音楽」がエキサイティングなものであることを伝えました。この教育的遺産はアートフル・ラーニング[artfullearning.org]に受け継がれています。そして、社会活動家としては、進歩的理念のさらなる進展に興味を持っていました。

ニーナ・バーンスタイン=シモンズ:ガーシュインもそういう人だったかもしれませんが、「高等文化」と「大衆文化」との間の橋渡しをし続けた人は、後にも先にもレナード以外には思いつきません。前者はコンサート・ホールやバレーのことを言っていて、後者はブロードウェイのステージやハリウッド映画のことです。1943年の《オン・ザ・タウン》といったショウを見たら、複雑なオーケストラ音楽に合わせたダンスの長いシーケンスが間抜けなコメディー・ナンバーと一緒に並べられているのです。これは斬新なことでした。私たちの父は、音楽を「クラシック」や「ポピュラー」に分類することに意味はないと思っていました。良いものは良いのです。特に劇場用の音楽においては、ストーリーを盛り上げる音楽であったら、どのスタイル、どのジャンルのものであろうと関係なかったのです。だから、交響曲の中にジャズがあり、《ミサ》の中にロックンロールがあるのです。《オン・ザ・タウン》の中には、ジョージ・アボットほどの大ディレクターの言うところの「ああいうプロコフィエフみたいな要素」があるのです。

皆さんの意見としては、レナード・バーンスタインの最も重要なレコーディングは何ですか? それを選んだ理由は? 皆さんが好きなレコーディングは何ですか? それに関してどんな思い出をお持ちですか?

ジェイミー:私は個人的には、父がニューヨーク・フィルハーモニックを弾き振りしたベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第1番》が好きです。父が家でこの曲を練習しているのが聞こえてきて、それでこの曲が好きになってしまいました。ニューヨーク・フィルハーモニックとレコーディングしたベルリオーズの《幻想交響曲》も好きです。私たち兄妹も父とニューヨーク・フィルの1968年のヨーロッパ・ツアーに同行したんですよ。まだ子供の頃の話です。訪れる都市で毎回この交響曲を聞いたおかげで、この曲を一生好きになってしまいました。私たちの頭の中には全ての音が入ってます!

アレクサンダー:マーラーのレコーディングですね。最初のものも後のものも重要かつ優れています。《ラプソディー・イン・ブルー》もいいですね。父のお得意のナンバーです。オーケストラとはツーカーの関係でした。それに、父の骨の随にはガーシュインがいました。自作曲を臆せずレコーディングしたことにも敬服しています。《チチェスター詩篇》や《セレナード》はよく聞いています。個人的には特に、ベートーヴェンの《3番》と《6番》とブラームスの《4番》----ニューヨーク・フィルハーモニックと一緒にやったもの----が好きですね。ティーンエイジャーの頃、1年ほど、父とはギクシャクしていた時期があったのですが、《田園》を聞いて再び通じ合うことが出来ました。

ニーナ:父は全レコーディングの中でも、ウィーン・フィルハーモニックの弦楽パートとレコーディングしたベートーヴェンの《弦楽四重奏曲第14番 Op.131》をいちばん誇りに思っていました。これは最晩年に作曲された弦楽四重奏曲の1つで、拍子やテンポの変化がワイルドで、ムードも突然揺れ動くので、どの室内楽アンサンブルにとっても難しい曲なのです。フル・オーケストラの弦楽器セクションで弦楽四重奏団と同じくらい引き締まったサウンドを出すことが出来たのは、並々ならぬ成果です。聞いていてワクワクします。



バーンスタイン家で子供時代を過ごすというのはどんな感じだったのですか? 家の中にはどのくらい音楽があったのですか? お父さんとしてのレナード・バーンスタインにはどのような思い出がありますか?

ジェイミー:音楽は私たちの「存在の基盤」でした。鳥にとっての空気、魚にとっての水のようなものでした。父に関する楽しい思い出は、いちばん近くのキーボードに向かっている姿です。たいがい、ライブラリーのハープシーコードに向かって、私たちが話題にしていることをネタに、その断片を弾くんです。マーラーの交響曲からテレビCM、ビートルズの最新アルバムに入ってる歌まで、何でもです。



アレクサンダー:子供時代は最高でしたよ。パーティー、ゲーム、友人、旅行、楽しいことがいっぱいあっりました。父は兄弟と親しくしてたから、親戚の人がいっぱいいました。友人のベッティー・コムデンとアドルフ・グリーンはいつもいました。他の人もです…。母が優雅に、強烈なユーモアのセンスで、家事や食事、旅行の切り盛りをしていました。両親は互いをとても愛していましら。レナード・バーンスタインは旅行に出ることが多かったのですが、家にいる時には、子供たちをよくかまってくれました。
 家の中で流れている音楽はたいてい父の音楽でした。書いたばかりのものを私たちに弾いてくれたり、ニュー・アルバムのテスト盤を聞いたりしていました。でも、ビートルズのニュー・アルバムを聞いたり、友人が来ている場合には、夕食の後にピアノの連弾をすることもありました。クリスマスにはいつも、私たちはクリスマス・キャロルを歌いました。

ニーナ:子供時代は、私たちの家は、世界で一番才能があって、一番おかしな人たちが集まる場所になってるように感じました。私たちの母、フェリシア・モンテアレグレは人をもてなす優れた才能の持ち主で、我が家にやって来た人全員を楽しくもてなし、特別な気分にさせました。父のコンサートがない晩には、よくディナー・パーティーがありました。ディナーの後、父はピアノに向かって、ショパンの〈マズルカ〉から昔の皆が知らない曲まで何でも弾きました。アドルフ・グリーンとベッティー・コムデンも一緒にです。ふたりは父と同じレコードを聞いて育った口でした。皆、こんな晩は終わって欲しくないと思いました。
 父にとって、音楽とは仕事やエンターテインメントというだけではなく、体の一部にもなっていました。スイッチを切ることが出来ないものです。音楽はずっと、父の中で生き、呼吸をしていました。家の中が静かであっても、父は頭の中で音楽を聞いていました。次のコンサートのためにスコアの研究をしていたか、さもなければ、作曲をしていたからです。
 ある時、私が自室で学校の宿題をやってると父が入ってきました。ラジオからはクラシック音楽の専門局が流れていました。すると父は「ラジオなんかつけていて、よく宿題に集中できるな!」って言うんです。私は、真剣に聞いてるわけじゃない、ラジオがついてるとリラックス出来るんだ、みたいなことを答えました。その後、父からアクティヴ・リスニングの重要性に関する講義をみっちり受けることになりましたけどね。音楽の持つ「リラックス」効果については、父はストラヴィンスキーの《春の祭典》は全然リラックス出来ないって言ってました。父の言いたいことはよくわかったので、私はラジオをオフにしました。

レナード・バーンスタインの劇場用作品、歌、室内楽作品、コンサート用音楽を含む、1960〜1974年の作品を集めたCD25枚組ボックスセットが、ソニー・クラシックスからリリースされました。その中にはマルサリス兄弟やアンドレ・プレヴィン、デイヴ・ブルーベック等のアーティストがバーンスタインの音楽を演奏したトラックを集めた2CDのコンピレーションも含まれているのだとか。皆さんはこのアルバムを編むのにどのくらい関与したのですか? 今回、作品全体を見て、レナード・バーンスタインやその作品に関する新発見はありましたか?



ジェイミー:このコンピレーションを生み出す作業には私たちは関与していませんが、ソニーがそれを見事にやってくれました。あまりよく知られていないお宝音源もあります。例えば、バリーの戯曲版『ピーター・パン』のために書いた付随音楽とか。

アレクサンダー:ボックスセットの編纂には私たちは関与していませんが、出来上がりには大興奮です。父特有のサウンドを聞けるのと同時に、作品の見た目のヴァラエティーにも驚きです。これもパラドックスなのですが、父の音楽は演奏するのは難しいものの、楽しむのは簡単なんです。

ニーナ:編集には全く関与していません。ジャズのレコーディングは私にとっては新しいものでした。



《ウエスト・サイド物語》は、映画もミュージカルも、アメリカ文化において確固たる地位を築いており、世代を超えて愛されています。今でもなおこの作品が重要性を失っていない理由の1つは、まずは『ロミオとジュリエット』的なテーマがあるからでしょうけど、皆さんは、バーンスタインとスティーヴン・ソンドハイムのこのコラボレーションが人々に愛され続けている理由は、何だと思いますか? このコラボレーションの裏にはどんな話があったのですか? 共同作業の制作プロセスはどんな感じだったのでしょうか?

ジェイミー:この質問に答えるには丸々本1冊が必要でしょう。この作品が愛され続けている理由は、もちろん、テーマとなっているマテリアルでしょう。残念なことに、シェイクスピアの時代と同様、現代においても、いたるところに憎しみと不寛容が存在します。父の書いた音楽はまさにスリリングです。ジェット団をビーバップ・ジャズで表し、シャーク団をラテンのリズムで表すなんて絶妙です。音楽は言葉と同じくらい刺激的にストーリーを語ります。ジェローム・ロビンスの振り付けも同様です。動きによって物語を語っています。音楽と会話とダンスを大胆に織り合わせることで、敵意に満ちた世界の中で懸命に生きている人々の愛の物語を語っているのが、《ウエスト・サイド物語》が他のブロードウェイ・ミュージカルと違う点ですね。

アレクサンダー:まず、コラボレーションには4人の作者が関与していました。脚本、ダンス、歌がつなぎ目がわからないほど密接に絡み合っています。バーンスタイン/ソンドハイム作の歌にはエネルギーが溢れ、音楽性も本物です。とても大胆です。オペラみたいな時もあれば、完全にラテンの時もあれば、ジャズ風の時もあります。

ニーナ:実際、ソンドハイムは制作の比較的に後の段階でチームに入りました。オリジナルのコラボレーターはバーンスタインとジェローム・ロビンス----最初はミュージカル・ショウを作りましょうということでした----とアーサー・ローレンツだったんです。ショウが成功したのは全員が「同じショウ」を書いていたからだと、ずっと言われています。複数の書き手が1つの作品に対して異なる指針やヴィジョンを持っていることが、ショウの出来に悪影響を与えてしまうということが多々あります。《キャンディード》はその1例だと思います。リリアン・ヘルマンは現代のアメリカ社会・政治について遠回しに書いていたのですが、父はヨーロッパへのラヴレターを書いていたのです。
 《ウエスト・サイド物語》では、人種対立が起きている非道な地域における悲痛な恋の物語というヴィジョンを、作家全員が共有していました。ロビンスの振り付けは、バーンスタインの音楽を視覚的に表現したものです。そして、ローレンツの書いたジャズ風の粋なダイアログは、私たちをあの世界に直行で連れていってくれまし。私たちはそうだと100%信じています。

皆さんのお父上はコラボレーションを楽しんでいましたか?

ジェイミー:はい。父は誰かとコラボレーションをするのが好きでした。それによって何度もミュージカルの劇場----ブロードウェイ、オペラ、バレー----に引き戻されました。

アレクサンダー:父はコラボレーションが好きでした。ミュージカルの作曲を続けた理由の1つがそれだと思います。指揮の先生だったクーセヴィツキーや多数の評論家等、大勢の人の願いに反してね。父は何であれ、ひとりだけで作業をするのは辛かったようです。

ニーナ:父はミュージカルの作曲であれ、レコーディングであれ、コラボレーションで成功した人間です。実際、コンサートで演奏するのは全部、オーケストラとのコラボレーションだったと言えます。

レナード・バーンスタインが現代の最大の作曲家であることについて話しましょう。どういうプロセスで作曲していたのですか?

ジェイミー:ソファーで寝ているのかなあと思ったら、実際には頭の中で音楽を作ってたなんてこともありました。その後、ピアノに向かって、さらに作業を進めて、楽譜に書き留めていました。夜遅い時間が一番はかどっていたようです。あまり寝ていませんでしたね。

アレクサンダー:父の作曲プロセスは大きな謎です。ソファーに寝ころんで、半分眠っている時に、曲やメロディーが降りてくるって言ってました。「ゾーン」に入り込んで集中して、数時間後、気づいたら原稿が何ページも出来ていました。



ニーナ:私たち兄妹の記憶にあるのは、音楽が父に簡単に降りてきて、作曲プロセスが楽しかった時のことですね。私が作曲中の父のことを覚えているのは《ミサ》を書いてる時です。この時は、音楽は簡単に出来たのですが、とても複雑な構成の作品で、テーマも論争を招きそうなもので、社会政治的に不安定な時代における信仰の危機を扱っていました。その上、従来の筋というのに欠けていました。スティーヴン・シュワルツと一緒に書いたわずかな部分以外は、ひとりで書いたんですけどね。大胆なことをやっているという自覚があって、一般大衆にはウケないだろうなあという不安を抱えていました。《ミサ》がケネディー・センター・フォー・パフォーミング・アーツのこけら落とし用の曲になるということで、さらにプレッシャーが増えました。重要な仕事だったのです。
 父が作曲する様子を覚えている次の曲が《ペンシルヴェニア通り1600番地》です。どうなったかは皆さんご存じでしょう。私たちの多くが知っての通り、ゴージャスなスコアが出来上がりました。でも、アラン・ジェイ・ラーナーの脚本のまずさをカバーするには足りませんでした。
 父は最後の大作《静かな場所》でかなり悩みました。メロディーは簡単には出てきませんでした。父は私たちの母親の死をまだ悲しんでいて、家族の死を新作オペラのテーマに選んでしまったことで、メロディーを思いつくたびに苦しみも新たになりました。最終的に、苦しみの末に心が浄化される美しいオペラになりましたが、作曲のプロセスは苦悶そのものでした。



少し話題に出てきましたが、《ミサ》にはスティーヴ・シュワルツによる追加マテリアルが含まれています。ポール・サイモンも歌詞で貢献しています。「人の半分はドラッグでイッちゃっていて、もう半分は次の選挙を待っている。人の半分は溺れていて、もう半分は間違った方向に泳いでいる」という箇所です。《ミサ》は、リリース当初は若い世代にメッセージを発しているようでした。このプロジェクトについて思い出や深い話はありますか?

ジェイミー:《ミサ》は時代を先取りした作品で、ようやく世界が追いついたような感がします。生誕100周年の頃に世界中で《ミサ》の上演が予定されているので、私たちはとてもワクワクしています。この作品は、いろんな理由で、父の最も個人的なものです。オーケストラやコーラス、ブロードウェイ・スタイルの歌手、ロック・バンド、マーチング・バンド、子供のコーラスを起用しているだけでなく、信仰や人類について辛辣な疑問を提示し、強く反戦を表明してもいるという、父の雑食性も反映しています。

アレクサンダー:初演の晩まで、猛烈な勢いでこの曲の作業を行なっていました。確かに父は若い世代に向けてメッセージを発していましたが、それはいつもやっていたことですよ。何をやるにせよです。演奏者、キャスト、ダンサーは、皆、若い人で、父は若者が大好きでした。作品に対する賛否両論にはがっかりしていました。この曲はヴァチカンでも上演されたのですが、父がそれを見ることが出来ればよかったのになあと思います。今では、世界中いたるところで演奏されていますけどね。



ニーナ:1970年にはジェイミーは18歳、アレクサンダーは16歳でした。父にとって彼らは、文化的には、いわゆるウェザーメン(1970年代に活動したアメリカ合衆国の極左テロ組織)みたいなものでした。父も母も常に社会運動に関わっていました。ヴェトナム戦争に抗議するためにワシントンに行った時には、ジェイミーとアレクサンダーも連れて行きました。外国での戦争と、国内での公民権闘争によって、行動することを強いられていた若者たちの感性から、《ミサ》が影響を受けていることは確かです。

レナードが一番、指揮したかったのはどのオーケストラだったのですか? コンサートの準備はどのようにやっていたのですか? 演奏がレコードになる時や、LPを制作するためにスタジオにいる時には、準備の仕方が違っていたのですか?

ジェイミー:長年指揮してきたニューヨーク・フィルハーモニックが「ホーム・チーム」でしたが、世界中が知っている通り、ウィーン・フィルハーモニックとも特別な関係がありました。他にも、殆ど毎年、夏にタングルウッドで指揮していたボストン・シンフォニーやイスラエル・フィルハーモニックも好きでした。

アレクサンダー:お気に入りのオーケストラはいろいろありました。理由もいろいろです。もちろん、ニューヨーク・フィルハーモニックは音楽監督まで務めた「彼の」オーケストラです。ボストン・シンフォニーは父の「ホームタウン」オーケストラで----タングルウッドのこっちはセルゲイ・クーセヴィツキーのオーケストラですね----ウィーン・フィルハーモニック…。こことは最初はぎくしゃくしてたのですが、そのうち本気の恋になりました。最高の演奏のいくつかはこのオーケストラとやりました。イスラエル・フィルハーモニックは1948年よりも前に、まだパレスチナ・オーケストラという名前だった頃に指揮しました。たくさんの歴史があります。学生オーケストラともね。父は若いミュージシャンと演奏する時が一番幸せでした。

ニーナ:父はこの手の質問を、どの子が一番好きか選べって言われるようなものだって言って、うまくごまかしていました。如才のない回答ですね。でも、実際、父は全てのオーケストラを平等に愛していました。作曲家に関しては、マーラーとの相性は有名ですね。他にもコープランド、ストラヴィンスキー、プロコフィエフが得意でした。

 


自分の作品ではどれを一番気に入っていましたか? 他の人の作品ではどんなものを気に入っていましたか? レナードが好きだった現代、過去の作曲家は誰ですか?

アレクサンダー:「一番好きなもの」は選ぶことが出来ませんでした。一番好きな子は誰?って訊かれるのと同じだって言ってました。「今この瞬間に指揮しているものだ」と答えることもありました。自分の作品であれ他の人の作品であれね。好きな作曲家はハイドンからセロニアス・モンク、マーラー、アーヴィング・バーリン、ストラヴィンスキーまで、全領域に渡っていました。現代の作曲家ではアーロン・コープランド、ルーカス・フォス、ネッド・ロアムが好きでした。

ジェイミー:グスタフ・マーラーの大ファンかつ代弁者だったのは有名ですね。父はあのオーストリアの作曲家には神秘的なほどの縁を感じていました。音楽面からだけではありません。マーラーもニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者だったんですよ。短い間でしたが。何十年もの間マーラーに背を向けていたウィーン・フィルに、再びマーラーを取り上げさせたのは父です。ウィーン・フィルとレコーディングしたマーラーの交響曲は、父の人生最大の業績です。

バーンスタインの作品のうち、どれが現代の人間にも感銘を与え、今後の時の試練にも耐えうると思いますか? 人々のレーダーに引っかかってなくて、もっと注目されてしかるべきと感じる作品はありますか?

ジェイミー:《ウエスト・サイド物語》は永遠に愛され続けるでしょう。皆、同意見だと思います。《キャンディード》はミュージカル・ファンにもオペラ・ファンにも愛されていて、100周年の期間中には世界中で驚くほどたくさんの回数上演されます。オーケストラ作品は知名度が下がりますが、《セレナード》は再発見されてきています。これは私が大好きな曲です。《前奏曲、フーガとリフ》というジャズに影響を受けた作品も好きです。

アレクサンダー:全作品が時間を超越した存在だと思います。《ワンダフル・タウン》といった「古臭い」曲でさえ、何度聞いてもフレッシュです。《セレナード》はもっと注目されてもいいでしょう。《静かな場所》(オペラ作品)もです。《ミサ》は遂に理解されるようになりました。バーンスタイン・バージョンの『ピーター・パン』の曲も好きですね。

ニーナ:100周年イベントの期間に《ミサ》がたくさん演奏されることになり、嬉しいです。この作品には苦渋の時期がありました。《ミサ》は音楽的にもテーマ的にも時代を先取りし過ぎていたと、私たちは思っています。当時はジャンルをミックスする人はいませんでした。今でもそんなにたくさんいないですけどね。当時としてはラジカルだったんです。物語形式でない点もラジカルでした。この作品はカトリックの典礼に従ってはいましたが、それ以外の点では、若い司祭が、落ち着かず、あれこれ要求の多い会衆に対する責任の重みにつぶされかかってるというのが、唯一の「物語」でした。
 壮大な規模の作品です。オーケストラ、マーチング・バンド、ロック・バンド、ブルース・バンド、少年合唱隊、大人の合唱隊、「ストリート」の合唱隊、そして、ダンサーも必要です。たくさんの人にギャラを払わなければなりません。そんな作品が上演されるというのは、プロデューサーたちが一般ウケするほうに賭けているってことですから、とても嬉しいです。

レナードにとって特に大変だった作品はどれですか? そういうハードルをどう乗り越えていたのですか?

アレクサンダー:あまりに大変でハードルを乗り越えることが出来なかったミュージカル用のコラボレーションもありましたよ。《ザ・スキン・オブ・アワ・ティース》《ジ・イクセプション・アンド・ザ・ルール/ザ・レース・トゥ・ウルガ》は心が折れていましたね。こうした失敗の後、再び指揮を始めることが出来たのは神の賜物でした。《ペンシルヴェニア通り1600番地》は産みの苦しみをたくさん味わった作品でした。でも、作品全てにそれぞれ異なる困難があって、それぞれ違うやり方でそれを克服したのだと思います。

ニーナ:コンサートの映像を見ていて最も面白いのは、ピアノ協奏曲では父がピアノを弾きながら指揮をしていることです。もの凄い技です。でも、1970年代からピアノに関する自信が衰え始めてきたのです。指の動きが鈍くなってきたって言ってました。それで、ニューヨーク・フィルハーモニックとモーツァルトのピアノ協奏曲を2曲ほどやったのを最後に「弾き振り」からは撤退しました。



晩年に、やりたいと思っていたものの、亡くなるまでに間に合わなかったことはありますか?

ジェイミー:最後の10年間は、ホロコーストについて取り上げたオペラを一緒に作ってくれるコラボレーターを見つけようと頑張っていました。実現しませんでしたけどね。

アレクサンダー:亡くなる前に、ホロコーストに関する作品をどうやったら作れるか、模索していました。

ニーナ:ホロコーストに関するオペラを書きたいという強い希望を持っていました。他言語で歌われるオペラをです。でも、台本作家が見つからないまま、時間切れになってしまいました。

レナード・バーンスタインが皆さんに残した最大のアドバイスって何でしょう? 創造性についてとか、音楽についてとか…。

ジェイミー:「思い出を大切にしなさい」とはよく言われました。それが、私が回想録を書き上げた理由と関係があるのかもしれません。回想録は来年、ハーパー・コリンズ社から出ます。

アレクサンダー:私はミュージシャンではありませんが、音楽を好きになることは父から教え込まれました。あらゆる種類の音楽をです。父は創造性というものをよく理解していて、すぐに答えが出ない質問をしてきました。これが一生かかってやる学習にとって大切なことだからでしょう。演奏/仕事/楽しみは全部ひとつなのです。父は音楽を作るのは孤独な活動ではないと心から思っていました。音楽は人生の他の全ての部分と繋がっているのです。他の芸術とも、教育、学習とも、政治とも、人と人の間に橋を架けることとも繋がっているのです。

ニーナ:私が父からはっきり聞いたことかどうかはわかりませんし、父の人生が生き方のお手本になるかどうかもわかりませんが、「聞く時は積極的に、読む時は批判的に、探すなら真実を、愛す時は情熱的に、分け与える時は気前よく、いたるところで美を見出せ」が父のアドバイスだったと思います。

● このアドバイスをしっかり聞きましたか?

アレクサンダー:いろんな点でイエスです。教育に関する限りはね。それから、社会正義に関しても。

ニーナ:しっかり聞けたと思いたいです。

全てのジャンルの新人アーティストには皆さんはどんなアドバイスをしますか? 特に、将来クラシックの道に進みたいという人には、どんなアドバイスをしたいですか? 皆さんのお父上だったら、新人アーティストにどんなアドバイスをするでしょうか?

ジェイミー:20世紀半ばには、いわゆる「クラシック」の作曲家は12音階の音楽----つまり、何調でもない、メロディーもない曲です----しか書いてはいけないことになっていました。父は12音階の手法を完璧に使いこなす能力を持っていて、それをところどころで使ってはしたが、全部をそれで作曲することは拒みました。メロディーを書くことが好きで、しかも、それが得意だったからです。でも、メロディーを書くのをやめるのを拒否したせいで、音楽アカデミーの世界からは死ぬまで拒絶されました。やめていれば、その殿堂に入れてもらえたかもしれませんが、父はメロディーを書くことを絶対にやめませんでした。20世紀が昔になった今、「クラシック」はもはや12音階という拘束服は着ておらず、レナード・バーンスタインの音楽が日に日に認められれるようになってきています。なので、努力奮闘している若いアーティストには、偉い連中に負けるな、自分のやり方を信じてるんだったらそれを捨てるなと言いたいです。

アレクサンダー:父は「世界の中で音楽を作れ」と言いました。つまり、孤立してはいけない、教えろ、自分の芸術活動の外側の世界を知れ、いろんなものを読め、文を書け、コミュニケーションをはかれ、人を愛せってことです。

ニーナ:アドバイスは以上のこと全部ですね。クラシックのミュージシャンにはとても辛い時期でしょう。ファンにとっても、音楽を聞くには長時間の集中力が必要です。『青少年コンサート』のDVDを見れば、若い耳を鍛えることが出来るでしょうが、長時間の未編集の「無味乾燥」の講義の入ってる番組を見るには、どんなに集中力があっても足りないでしょう。
 父が生きていたら、コンサートに足を運ぶ人が減少していることにうろたえるかもしれません。でも、クラシック音楽の道を進もうとしている人に、父は言うでしょう。プラスαの情熱を持って演奏することでこのトレンドをひっくり返せって。 「エル・システマ」プロジェクト(子供のための音楽教育プロジェクト)が世界中で定着していることを知ったら、父は喜んだことでしょう。これに関しては、ジェイミーが詳しいことを教えてくれますよ。



皆さんは、今はどんなプロジェクトを行なっているのですか?

ジェイミー:私の本が来年出ます。

アレクサンダーアートフル・ラーニングです。芸術とその諸プロセスがあらゆる学習の中心であるという父のヴィジョンは、今や、アメリカ中の学校で実践されています。学生も教師もとても熱心に取り組み、内容を深く理解しています。テストの点数もアップし、素晴らしいデータが得られていますが、私に言わせれば、やっと数字に表れてきたという感じです。

生誕100周年イベントの中で一番楽しみにしているのは何ですか?

ジェイミー: グラミー・ミュージアムによるレナード・バーンスタインに関する巡回展です。9月半ばに、まずケネディー・センターで行なわれます。待ちきれません。それから、ロサンゼルスでグスターヴォ・ドゥダメルが《ミサ》を指揮します。

アレクサンダー:選べませんよ。ミュージカルやバレーが新しいプロダクションで上演されるし、交響曲も演奏されるし…。

ニーナ:私はグラミーのバーンスタイン展が楽しみです。私はクララおばさんのピアノは見たことがありません。全ての始まりを作った伝説のアップライト・ピアノです。父に関するFBI資料もあるそうです。それから《ウエスト・サイド物語》のカラオケ・ルームも。


The original article “Leonard Bernstein's 99th: Conversations With Jamie Bernstein, Alexander Bernstein, And Nina Bernstein-Simmons” by Mike Ragogna
http://www.huffingtonpost.com/entry/leonard-bernsteins-99th-conversations-with-jamie_us_599ee5bde4b0a62d0987ad3f
Reprinted by permission
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