アメリカの画家が1970年に《Aqualung》のジャケット用の絵を3枚描く仕事を軽い口約束で引き受けて、ギャラ1,500ドルを受け取ったものの、その後しばらくして、アルバムは名盤扱いされて再発に次ぐ再発となり、バンド側はポスターや関連グッズも作って売って儲けているのに、自分には一銭も入って来ないので画家は面白く思ってないらしいのです。画家側は再発による利益を少しくらい回してくれてもいいんじゃないのと主張しているものの、ジェスロ・タル側は絵を1,500ドルで買い取り、約束は果たしたということで、これ以上はビタ一文払うつもりはなく、今のところ画家側の泣き寝入り状態です。
こういう話、いっぱいあるんじゃないかなあ。
《Aqualung》のジャケットを描いた画家
バートン・シルヴァーマン・インタビュー
バートン・シルヴァーマン・インタビュー
聞き手:ファン・カルロス・ヴェラルド
バートン・シルヴァーマン(1928年にブルックリンで誕生)は、描く作品が画廊に展示されるレベルのプロになって60年以上になる芸術家で、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ワシントン等の都市を含む、全世界でも個展を開催している。芸術の世界では37の大きな賞を受賞し、作品はニューブリテン・アメリカ美術館、スミソニアン・アメリカン・アート美術館といった有名美術館でも展示されている。しかし、多くの者にとって、シルヴァーマン氏は、ロック史上、最も有名なレコード・ジャケット、ジェスロ・タルの《Aqualung》のアートワークを手がけた人物として知られている。
シルヴァーマンはかの有名なレコード用に3枚の絵を提供し、その結果、このアルバムは現代のポピュラー・ミュージックにおいて最も評価の高いジャケットを持つものとなった。
親切なことに、シルヴァーマン氏は『Aqualung My God』用に独占インタビューに応じ、イアン・アンダーソンの傑作がリリースされた1971年のあの3カ月のことを詳しく語ってくれることになった。
● あなたはご自身が現代のポピュラー・ミュージックで最も有名なアルバム・ジャケットを描いたアーティストだという自覚はありますか?
手短に答えるとノーです。私は自分がそういうふうに説明されていることに少々ビックリしています。私はポップ・ミュージックの歴史も、その時代に作られた名作アルバムや成功したバンドのことも全く知らないのです。あるアルバムがとても長い間人気を保っている様子は、時々、垣間見ます。私よりも20〜30歳若い人と会って、「あなたが《Aqualung》のジャケットを描いた人なんですか!」って言われた時とかね。娘の大学巡りにつきあった際、イェール大学の学生寮を少しチェックしていたら、学生の部屋の壁にあの絵を大きく引き延ばしたポスターが貼ってあるのを発見しました。娘が何気なく「あれを描いたの、うちの父よ」と言うと、寮から出ようとした時に、突然、学生が駆け寄って来たんです。あのポスターとペンを持って。そして、おどおどしながら、ここにサインをしてくださいって言うんです。
何年も前ですが、ボディーにあのジャケットが描かれているトラックが通り過ぎて行ったことがありました。娘が卒業旅行で世界を一周してロンドンに滞在していた時、ロックンロール・クイズのカードゲームを送ってくれたんですが、「ジェスロ・タルのアルバム《Aqualung》のジャケットを描いたのは誰?」っていう問題が載っていました。私はこのアルバムがこんなに長寿のものだとは全く知りませんでした。オーディオ・テープやCDの登場によって、さらにそれを知るに至り、最初に注文を受けた時の契約以外で使用された場合の報酬も受け取って当然じゃないかと思うようになりました。
● ということは、さまざまな関連グッズから発生する使用料について問題を抱えているのですね。支払われてはいないのですか?
1990年代半ばにクリサリス(後にワーナー・レコードになる)に問い合わせをしたら、争いごとになってしまいました。あれは握手を交わしただけの取り決めで、私の側では、アナログ・レコードのジャケットになる場合のみの取り決めだったことを証明することが出来ず、向こうも、そうではないことを証明することは出来ませんでした。文書としては残ってないので。私はアンダーソンに手紙を書いて助けを求めることにしました。無力で何も持たざる者たちの味方であるアンダーソンなら、実際に正義を実行するチャンスに飛びつくだろうと思ったからです。3つの会社のロゴが入った便箋に書かれた返事が届きました(全く整理のされてないファイルの中に手紙は残ってると思います)。アルバムがずっと売れ続けていることに自分が何らかの役割を果たしてると思ってるなんて、お前は何様だ、と腹を立てていて、私の「権利」の主張には無関心で、結局は、アクアラングという人物に自分の顔があるからこそ、アルバムが売れ続けているのだと言ってました。ということで、私は引き下がりましたよ。ソングライター、ポップスターの思い上がりに関して、ひとつ勉強になりました。
● ジャケットの絵を描く仕事はどのようにして得たのですか? 誰があなたに声をかけてきたのですか?
タルのマネージャーで、精神的指導者のような存在でもあったテリー・エリスです。比較的無名のバンドだったタルを、特にこのアルバムによって光のあたる場所に導いたことから、音楽的にも権限を持つようになったんです。ジャケットを作らせるのに誰がいいのか『American Illustrators』も調べていました。当時、それは殆ど全世界で(もちろん、冷戦時代だったので、東欧は別ですが)出ていた有名なアート本でしたから。彼は『Esquire』や『New Yorker』で私の作品を見て、ニューヨークの画廊でも私の絵を見ていました。皆からは、いい仕事だって言われました。ロンドンまでの旅費とホテル代は(私の記憶によると、なかなかいいホテルでした)向こう持ちで、アルバム用の絵を描いて1,500ドルもらえるんですから。この金額は今の価値に換算すると10,000ドルほどになるでしょう。バンドのメンバーに会い、リハーサルを聞きながらスケッチをしてくれってことでした(巨大なスピーカー・セットから、今までに聞いたことのないような大きな音が出て来たので、私はスタジオの外に、文字通り、吹き飛ばされてしまいましたよ)。ということで、ニューヨークにある私のスタジオで握手を交わして、3週間後にロンドンに行ったんです。
● イアン・アンダーソンのアイデアに基づいて作業をしたんですか?
いいえ。声を大にして言いますがノーです。テリーは全てを私に一任しました。イラストには何が含まれているか、どんなデザインにするかは、私の頭の中にあったことです。テリーが最終的にOKを出すかどうかが、唯一の判断基準でした。私がアンダーソンに会ったのはごく短時間であって、スケッチは全部、リハーサル・スタジオのスピーカーの隣でやりました。そのうちの1つを水彩画として仕上げたんですが、その絵は、現在、ある人物のプライベート・コレクションの中にあります。その後、私はホテルに戻って、グループの写真を見ながら、アイデアをあれこれ練り始めました。
● イアン・アンダーソンにポーズを取ってもらったのですか? それは肖像画だったんですか? それとも、イアン・アンダーソンが言ってるように、あなたは写真を基にして作業をしてたんですか? あの絵はアンダーソンの肖像なんですか? あの絵の中にイアンの顔を描きたかったんですか?
体を丸めた人物は想像上の人物で、自分の不幸を喜んでるような目つきのホームレスの男ってこんな感じじゃないかなっていうものを描いたんです。この人物像を描くのに、私は実際に自分のしかめ面を使いました。この男が戸口の前で、殆ど追いつめられながらも、周囲に対して威嚇している様を描きましたが、アルバムに入っている数曲と内容的にぴったりのようでした。ロンドンの12月の、テームズ川から凍てつく風が吹いてくるとても寒い日だったので、普段はストリートで無視された存在のこの男と好対照となるよう、やんわりとした皮肉としてスキーのポスターを使うことにしました。アンダーソンはこの人物のモデルではありませんが、髪の毛や輪郭は彼のステージ上でのペルソナを描いたものです。
● イアン・アンダーソンは、あの絵は気に入らなかったって言ってますが、それについてどう思いますか?
アンダーソンにはそう思う権利がありますが、私のあの絵があってこそ、アルバムは精彩を放っているのですよ。この人は、あの絵のプリント版を作って、自分のサインを入れて売って、昼飯代を稼ぎたくなるほど、あの絵が嫌いなんですねえ。何年も経ってから、ニューヨーク州ロング・アイランドの子供たちが、あの絵をもとしてハロウィーンの衣装を作ったなんて話も聞きました。
● アルバムの見開き部分はバンドが教会の中で演奏する絵ですが、そのアイデアを出したのはあなたですか? 裏ジャケットにある、 ホームレスの男が路上で犬と座っている絵には、どういう意味があるのですか? あなたのアイデアですか、それとも、そういう絵を描いてくれという注文があったのですか?
こういう絵を描いてくれなんていう指示は、誰からもありませんでした。見開き部分の、アンダーソンが古風なダンスをしている絵は、写真をもとに描いたんです。教会の中で大騒ぎのコンサートをやっている他の人物もそうです。私の記憶では、あれは私のアイデアです。裏ジャケットの絵は後から追加したものです。締め切りが近づいて、どんどん時間がなくなてきていたし、寒い部屋の中でどんどん悪化する風邪と戦ってもいました。裏ジャケットの絵は、この人物が世間に向かってわめき散らしてることの別の面なのです。絶望しながら、唯一の仲間である野良犬と一緒に暗いところで座っているのです。
私はロンドンのオフィスでテリーと握手を交わして、そこで3枚の完成した絵を渡しました。彼が絵を保管するということで合意しました。私はクリスマス休暇直前にロンドンを発ちました。
● 1971年以降にイアン・アンダーソンとは会ったことはありますか? 絵の件について話したことはありますか?
アンダーソンにもバンドにも会ってません。先にも書いたとおり、手紙をやりとりしただけです。
● 原画はホテルの部屋から盗まれたというのは本当なんですか?
これはまた全然違う話です。偶然、テリー・エリスの連絡先がわかったので、私はこんなメールを彼に送りました。
『Classic Rock Presents Prog』誌のマルコム・コウムから貴殿のメール・アドレスを教えてもらいました。この雑誌でアルバム《Aqualung》の特集を組むので、イラストに関する裏話を聞かせて欲しいという連絡が、私のところにありました。あのアルバムからは並々ならぬ歴史が生まれ、それについては私の思い出話などは必要ないでしょう。でも、あまり知られていない別の話があります。
好奇心をそそる出来事が2年前にありました。ジョージア州在住の男から接触されたのです。この人物はアルバムの原画を買い戻す気はないかと言ってきました。最初、私は驚きました。というのも、ジェスロ・タル・コレクションの一部として、今でもあなたが保管していると思っていたからです。私は多少程度の興味しかないふりをしました。たとえ本当に原画を取り戻すことが出来るとしても、大きな賭けだと感じたからです。私はきな臭さを感じました…。
手紙では、続けて、この人物と何度かやりとりをしたものの、交渉が決裂したことを説明しました。手短に言うと、この男はアメリカ人で、自分の母親がロンドンのホテルでメイドとして働いている時に、アートワークを発見し、とても気に入ったので、アメリカに持ち帰ったそうなのです。サンタクロースを信じるようなものですね。その後、彼の話は変わり、今度は、母親は絵をプレゼントとしてもらったなんて言い出しました。表ジャケットの絵と裏ジャケットの絵しか持ってないとのことでした。私が絵が「盗品」であるとネットに書き、あらゆる画商にも通知するぞと脅すと、交渉は決裂しました。私の絵と思しきものについて最後に耳にしたのは、この男はいくつかの小規模なオークション・ハウスで5,000ドルで売ろうとしていたということです。
私がエリスに書いた手紙を添付しておきましょう。彼は返事をくれました。絵をしっかり保管していなかったことを遺憾に思うと書いてありました。見開き部分の絵は彼のオフィスの壁にかけてあったのですが、消えてしまったそうです。スタッフに盗まれたのかもしれないとのことです。彼もまた、絵がこんなことになるとは思ってなかったようです。
● キャリアを振り返ると、これがあなたの最高傑作ですか? あなたはいくつもの賞に輝いていますが、《Aqualung》は最も代表的な、最も有名な作品だと思うのですが。
正直、これは気の利いたイラスト程度のもので、たまたまアルバム中の多くの曲と関連性を持ち、社会的正義への新たな共感と、その実現に向けた新たな戦いを必要とした当時の社会的・政治的スピリットと、たまたま合致しただけです。私は画家としてそこそこの評判をずっと保ち続けていますが、それは他人のではなく自分の「物語」を語っているからです。これが私には大切なことなのです。でも、私は得てしまったこの奇妙な「名声」に対して、ニコニコしていなければいけません。重要度ゼロのものとして始まったもののおかげで、一生ついて回る評判を、偶然、予期せずして得てしまうということが、時にはあるのです。
● 音楽的には《Aqualung》についてどう思いますか? 聞いたことはありますか? 気に入っていますか? 歌詞の意味は理解出来ますか? アンダーソンの言っていることに共感出来ますか?
もうしばらく聞いていません。私がアンダーソンと争っていることを知った弟子のひとりがCDをくれましたが、全然聞いていません。今は、彼の上から目線と偽善的な態度に腹を立てているのかもしれませんが、絵を描いた当時は気に入っていましたねえ。ずっとずっと昔のことです。
● 原画について誰かに訊くことは出来ないのですか? どこかで売りに出されてはいないのですか? あなたのブログ上で何か出来ないのですか?
例の絵はコピーの可能性もあります。でも、原画は今でもテリー・エリスのものなのです。彼も取り戻したいでしょうねえ。
Copyright (C) Burton Silverman
この写真を送るのを忘れていました。ロンドンで行なわれたリハーサル・セッションで描いたスケッチをもとに仕上げたアンダーソンの肖像画です。そんなに似てないでしょう。でも、これは私がこのミュージシャンにはパフォーマーとして興味を持っていたこと、そして、古風な方法で音楽を作ろうというアイデアを面白いと思っていたことを示しています。ワイルドな髪型とのコントラストがこの絵を興味深いものにしていると思います。
アンダーソンにはあまり「好意」は持っていませんが、この素晴らしいアルバムと、これが音楽の世界でずっと人気を保っているのに関与出来たことを、心の中では、とても光栄に感じています。最終的に、私の画家としての「シリアス」な作品を語った後に、まだ何か語るものがあるとしたら、やっぱりこれでしょうね。でも、そんなことは、私の子供たちが考えることですよね。
2011年1月にテリー・エリスに送った手紙
テリー・エリス様、
バートン・シルヴァーマンです。今でもなお人気のアルバム《Aqualung》のジャケットを描いたアーティストのことを、きっと覚えていらっしゃることと思います。『Classic Rock Presents Program』誌のマルコム・コウムから貴殿のEメール・アドレスを教えてもらいました。ここでは《Aqualung》を特集するとのことです。絵に関する裏話を聞きたくて、私に連絡をしてきました。
あのアルバムからは類まれなる歴史が生まれましたが、そのことについては、今回、私には特に語る必要のある思い出話はありません。しかし、世間には全く知られていない別の話があります。
興味をそそる出来事が2年前にありました。米ジョージア州に住んでいる男性から連絡がありました。アルバムの原画を買い戻す気はないかと。最初はビックリしました。というのも、原画はジェスロ・タル・コレクションの一環として、貴殿が今でもお持ちであると思っていたからです。原画を本当に取り戻すことが出来るとしても、大金をふっかけられると思ったので、そんなに興味がないふりをしました。それに、少々、きな臭さも感じたからです。
謎を解く手がかりを書いておきます。本当に私が描いた絵であることを確かめたいのとは別に、この人物がどのようにして作品を入手したのかも知りたいと思いました。「自分の母親がロンドンのホテルに滞在中に見つけて気に入ったので、自分のものにした」と言っていましたが、バカげていると思いました。私はそれが本当に自分が描いた絵なのか確かめるために、それを私のところに送らせようと、彼の話を信じたふりをしました。裏ジャケットの絵もあるが、今すぐは用意は出来ないと言っていましたが、こちらの話も同じく疑わしいと思いました。最初に話した時以降、何度か会話をしているうちに、この男の話が変わってきました。「絵をどうやって入手したってもう1度話してくれないか」とお願いしたら、今度は、彼の母親がプレゼントとしてもらったと言いました。誰から?と訊いたら。覚えてないと言いました。
絵が「盗品」であるとネットに書き、画商にも警告すると脅すと、交渉は決裂して終わりました。原画と思しきものについて最後に耳にした噂は、この男がいろんな小規模オークション・ハウスで5,000ドルで売ろうとしたということです。
ということで、貴殿にこの一件を解明していただきたいのです。ジェスロ・タルのマネージャーとしてのキャリアの方向性からすると、この絵はとても重要なメモラビリアだったでしょう。もしホテルの部屋でなくしてしまったか、置き忘れてしまったのなら、取り戻そうと大変な努力をしたことでしょう。
私の側では、こうした出来事に関して思い当たる節は何もありません。ということで、貴殿からはっきりとした情報をいただければ、
a) 絵に関する真実を解明すること
b) 違法に入手したものだとしたら、貴殿がそれを取り戻す手だてを講じること
に役立つと思います。
貴殿がこの件に関心をお持ちになることを希望します。ご返事をお待ち申し上げております。
敬具 バートン・シルヴァーマン
The original article "BURTON SILVERMAN-AN EXCLUSIVE INTERVIEW" by JUAN MARCOS VELARDO
http://aqualung-mygod.blogspot.jp/2014/02/burton-silverman-exclusive-interview.html
Reprinted by permission
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これには後日談もあります。今年の5月にThe Outlineに掲載された記事(バートン・シルヴァーマンの息子、スティーヴによるもの)によると、こうです:
見開き部分の絵は、しばらくオフィスの壁にかけてあったのですが、ある時、賊が入り、あれこれ盗んでいったものの、その絵はなぜか手つかず。その後、いつの間にか絵はどこかに消えてしまったのですが、バートンからの連絡を受けて保管庫を探したら、無傷の状態であったそうです。残りの2枚の原画は今でもなお行方不明なのだとか。
アートワークの権利に関しては、息子も協力して、少しでも認めてもらえるように動いてきたのですが、全く進展はないようです。