情報公開法によって開示されたデイヴ・ヴァン・ロンクに関するFBI文書
文:アーロン・J・レナード(トゥルースアウト)
Newly Unearthed FBI File Exposes Targeting of Folk Singer Dave Van Ronk
text: Aaron J. Leonard, Truthout
女性教師のひとりが、1年生のオレが〈Star Spangled Banner〉の歌詞を3番まで全部覚えてることを知ってたいそう喜んで、「Oh thus be it ever when free men shall stand」と歌いながら、オレを教室から教室へと連れ回したなんてこともあったなあ----デイヴ・ヴァン・ロンク
監視対象者は、マクドゥーガル・ストリート116番地のガスライト・カフェでギタリスト/シンガーとして雇われている。「NYO(FBIニューヨーク支部)は現在、対象に関する略式のレポートを制作中」----1963年3月のFBI報告書
筆者による覚え書き:以下の文は、情報公開法に則って2016年6月に行なった要求によって国立公文書館から得た、デイヴ・ヴァン・ロンクに関するこれまで未公開だったFBI資料に基づいたものである。この資料を入手したのは、1940年代から1950年代にかけての第2次赤狩りの期間中に、フォーク・シンガーたちに対して行なわれた弾圧に焦点を当てた本のための調査中のことだった。
アメリカ合衆国に関する人気のあるおとぎ話は、現在のトランプ時代はさておいて、アメリカは世界で比類なき、自由を守る国だというものである。歴史の教科書は我が国の言論の自由、信教の自由、表現の自由を、我々が世界に比類なく有している権利として誉めちぎっている。アメリカでは意のままに創造活動に勤しむことが可能だ----この国にはプッシー・ライオットや艾未未{アイウェイウェイ}のような、政府から弾圧を受けている芸術家はいない。芸術活動をしていることで警察に追い回されたり、投獄されるアーティストはいない、と我々は思いたい。
もちろん、現実は正反対だ。ピート・シーガーが要注意人物としてマークされたり、レニー・ブルースが幾度も逮捕されたことから、ザ・ディキシー・チックスが放送禁止になったことまで、この国には芸術を抑圧する伝統がある。FBIがフォーク・シンガー、デイヴ・ヴァン・ロンクを執拗にマークしていたことが、今回開示されたFBI資料から判明したことで、我が国には昔から政治的抑圧という伝統が存在することを、あらためて確認しよう。
FBIの要注意人物リスト
デイヴ・ヴァン・ロンクは紆余曲折の人生を送った。熱狂的なジャズ・ファンから始まって、バンジョー・プレイヤーになり、そしてフォーク・シーンの中心的存在となった。その際、彼はボブ・ディランやジョニ・ミッチェル、トム・パクストンといったアーティストの仲間、友人になり、たくさんの後進ミュージシャンにとっては指導教官的な存在となった。死後になって、イライジャ・ウォルドによってまとめられて世に出た自伝『The Mayor of MacDougal Street』(邦題:グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃―デイヴ・ヴァン・ロンク回想録)と、その後にコーエン兄弟が制作した映画『インサイド・ルーイン・デイヴィス』がなかったならば、ヴァン・ロンクは歴史的記憶のひびから洩れて、消え去ってしまっていたかもしれない。彼が1950年代後半と1960年代前半のフォーク・リヴァイヴァルという歴史的に重要な瞬間において大きな影響力を持っていた人物として、ピート・シーガーやウディー・ガスリー、リー・ヘイズ、シス・カニンガム、その他、20年前に活躍した人々によってもたらされた左翼的フォークの子孫として当然の地位を確保しているのは、こうした作品のおかげである。
ヴァン・ロンクは政治に強い関心を持った人物だったが、プロ歌手として重点的に扱っていたのは、ボブ・ディランやフィル・オークスが歌っていた「プロテスト・ソング」というよりはむしろ、伝統音楽のほうだった。これは主に芸術的な理由からだった。彼はこう書き記している:「それ(プロテスト・ソング)はオレのスタイルに合ってなかったし、人を納得させることの出来るレベルで歌えるとも感じていなかった」 彼の回想録が自分の政治的見解や、自分が関与していた国内の闘争、彼が連携していた多数の組織にそんなにスペースをさいていないのは、恐らくこういうわけだからであろう。
それとは対照的に、このほど開示された1963年の報告書によると(最初の報告書が作成されたのは1957年12月だった)、FBIはヴァン・ロンクの政治活動を事細かに追っていた。その結果、ヴァン・ロンクがどういう団体と関係があったかわかっただけでなく、FBIが彼に関して報告する複数の情報提供者を抱えていたことも判明した。例えば、セントルイスで行なわれた社会主義労働者党(SWP)の支部ミーティングに関して、FBIは次のような報書を受け取っているのだ。そこでは、メンバーのひとりがヴァン・ロンクと出会ったことを語っていた:
この人物は、最近、セントルイスのガスライト・スクエアに現れた歌手と接触したと語った。歌手の姓はロンクもしくはランクという。ニューヨーク・シティー出身の若者で、SWPの中でも少数派の声を代表しているようである。というのも、ファレル・ドブス[このグループのリーダー]に対してやや批判的だったからだ。SWPは労働組合関係の組織に普及にもっと力を入れるべきだと感じているようだった。(FBIセントルイス支部、8/6/63)
このミーティングについて報告している情報提供者が誰なのかは特定することは出来ないが、明らかなのは、FBIがSWPについてだけでなく、ヴァン・ロンクの移動や見解に関しても独自の見識を有していたことだ。
ヴァン・ロンクがSWPのメンバーだったのは、比較的短期間だった。報告書が説明しているように、彼は[ティム・]ウォールフォース・グループの一員だったのだが、この派閥はSWPの活動は徹底していないと感じており、その結果、除名されていた。ヴァン・ロンクを含む離脱組の者たちは、第4インターナショナル・アメリカ委員会を結成し、さらに後にワーカーズ・リーグを結成した。
ヴァン・ロンクがFBIのセキュリティー・インデクス(要注意人物リスト)に加えられたのは、短期間とはいえSWPのメンバーだったからだ。1963年4月16日付の報告書には、フォーク・シンガー兼ギター・プレイヤーのヴァン・ロンクをFBIのセキュリティー・インデクス----国家の緊急時には拘束すべき人物のリスト----に加えるべきと書かれている。このブラックリストに加えられたがために、FBIはヴァン・ロンクがここに載っている限り、引っ越すたびにその住所を探し求めることとなった。記録によると、1963年と1964年に、FBIはヴァン・ロンクがウェイヴァーリー・ストリートの住所に住んでいることを確認するという「口実」で、彼の電話応答サービスに電話をかけ、彼の住む建物の管理人と話をし、近所の人間に聞き込みを行なっている。詮索は何年間も続いた。シェリダン・スクエアに引っ越した後も、FBIは、今度もまた、彼が実際にそこに住んでいることを確認したいという口実で、新たな管理人に聞き込みを行なった。ヴァン・ロンクがセキュリティー・インデクスから削除されたのは1972年のことだった。セキュリティー・インデクス自体が廃止予定となったからだ。
失われた海員証
映画『インサイド・ルーイン・デイヴィス』には、デイヴィスがマーチャント・マリーン(米国保有商船隊:半民半官の運送会社で、アメリカ海軍の支援にもあたる)で海員として働くために組合員証を更新しようとしたところ、書類が受理されなかったというシーンがある。このエピソードは、ヴァン・ロンク本人が『Mayor of McDougal Street』の中で語っている話に基づいている。マーチャント・マリーンで働いていた時期があるのだが、海員証の入った財布が盗まれてしまった後、自分の全運命をフォークシンガーになることに賭けようと決意したと語っているのだ。ヴァン・ロンクによると、「新しい書類を得て、再び船に乗ることが出来るようになるのに、半年か1年くらいかかりそうだった。さらに、オレがああいう政治思想と左翼系の友人を持ってたせいで、書類を発行してもらえる奇跡すらわずかしかなかった」
現在では事実であることが判明しているのだが、ヴァン・ロンクが抱いていた不安は根拠の確かなものであった。FBIは彼をブラックリストに加えるかどうか判断するために経歴を調査した際、レコードも何枚か聞いた。1963年2月15日付のFBIメモによると、そうしたことで彼らが知ったのは、「アルバムの1枚のジャケットは、この監視対象者が、過去において、マーチャント・シーマンだったことを反映している」ということだった。
これを発見したFBIは、情報として沿岸警備隊情報部に伝えると、情報部部長は、FBI長官であるJ・エドガー・フーヴァーに宛てた1963年7月11日付の手紙の中で、「聴聞手続を通して、対象[ヴァン・ロンク]に書類の発行を拒否することが望ましいことを証言してくれる人物を用意することが出来ないか」と打診した。すると、フーヴァーは7月22日付の書簡で、対象[ヴァン・ロンク]がSWP本部に入るのを確認した特別捜査官の派遣を申し出ている。最終的に、聴聞会は行なわれず、ヴァン・ロンクも既に気持ちを切り替えていたのが、この件で彼は自分がマークされているという確信を抱いた。イライジャ・ウォルドはトゥルースアウトに宛てたeメールで「新しい海員資格証を発行してもらえないだろうと思ったのは単なる被害妄想ではなかったという証拠を見たら、デイヴは喜んだことだろう」と書いている。FBIと沿岸警備隊は実際に聴聞会をやろうとしていたのだ。
兵役不適格という診断
ヴァン・ロンクに関するFBIファイルは、政府がこういうふうに個人のプライバシーを侵害していたという例を記している。この資料は、ヴァン・ロンクの徴兵用健康診断の報告書まで調べるという、FBIの徹底ぶりを示すものとして見ることも出来よう。1964年5月22日付の報告書には、次のことが記されている:
診察した内科医の出した診断結果は「目は遠視。喘息の病歴あり。とても神経質でピリピリしている。たくさんの恐怖症や不安を抱えている。手を広げると震える(酷い)、冷たく湿った手をしている。会話をする際、言葉がたどたどしく、時々、吃音もある。不適切。酷いノイローゼ」 よって、肉体的理由及び精神医学的理由から、兵役には不適格。
さまざまな症状は、わざとそう見せかけたものだったことが判明している。ヴァン・ロンクの元妻であるテリー・ソルは、トゥルースアウトに送ってくれたメールにおいて次のように回想しているのだ:
デイヴはクイーンズのリッチモンド・ヒルの友人と一緒に、同時に、入隊前の健康診断に行って、4F(兵役不適格)という判断が下されるために、デイヴは精神的な問題を表すよう練習をしていた。ふたりは検査場に行く前に、マリファナを大量に吸引し、デイヴは手が震えたり、どもったりする練習をした。
しかし、彼は本当の健康問題を抱えていた。特に、ぜんそくの経歴があり、緊急処置室に運ばれたことも何度かある。
FBI側は、入隊時の健康診断書を額面通りに受け取った----もしくは、そう受け取ることを選んだ----ようである。その後のセキュリティー・インデクス登録延長用紙において、彼らがヴァン・ロンクに直接接触していないことが繰り返し書いてあるのは、こういう理由なのかもしれない。1964年4月14日付のこうした報告書には、以下のように書かれている:
過去に尋問したこと(日時)なし
再尋問 なし(理由)精神的不安定、かつ、フォークシンガーという職業ゆえ、対象へ尋問するとFBIにとって問題となる可能性あり。
言い換えると、ヴァン・ロンクが有名人であるので、FBIに対して挑戦的態度を取り、FBIが意図していることを暴露されたら困ると考えていたのだ。
政治と芸術
デイヴ・ヴァン・ロンクは芸術と政治は別物であるという意見の持ち主で、「政治的な歌」を書いたり広めたりはしないアーティストだった。「家具職人で左翼思想の持ち主だったら、左翼の家具を作らなければいけないのかい?」とも彼は書いている。しかし、このような区別をFBIはしなかった。ヴァン・ロンクがさまざまな左翼組織と関係していたことから、FBIはただちに彼のファイルが作り、彼がトロツキー派のフォークシンガーであると考えていた。冷戦の名残を考えると、ヴァン・ロンクを重要なターゲットとしたのは、彼がフォークシンガーで、大勢のファンに対して影響力を及ぼす可能性があったからであろう。
ヴァン・ロンクのキャリアが始まったのは、ザ・ウィーヴァーズがブラックリストに載って全国のステージから閉め出されて、まだ5年しか経ってない頃だった。彼らが犯した罪は、〈Goodnight, Irene〉や〈Kisses Sweeter Than Wine〉といった歌を歌ったことではなく、メンバーが1940年代に共産党と関係を持っていたことである。資本主義という支配的パラダイムに異議を唱える組織と関係を持っている輩は----たとえ、その関係が過去のものであっても----最も大切なものであるはずの自由に値せずというのが、FBIや他の政府組織の判断だった。1950年代においては、ピート・シーガー、シスコ・ヒューストン、バール・アイヴズ、ジョシュ・ホワイト、シス・カニンガム等のアーティストは、キャリアの選択に直面した。つまり、共産主義者と過去に関係していたことは誤りだったと公の場で認めるか----ホワイトとアイヴズはそうした----ファンと接することを禁じられるか、どちらかしかないということだ。
その点で、後にピーター・ポール&マリーとなるグループが結成されようとしている頃、ヴァン・ロンクがそのメンバーにと誘われていることは、言及に値する。もし彼がメンバーになっていたとしても----このグループの人気を考えると----政治思想のせいで追い出されていただろうことは、想像に難くない。もちろん、ヴァン・ロンクは、このグループに加入するかわりに、もっと低いレベルの知名度で頑張った。
ここには差異がある。ヴァン・ロンクはフォーク・シンガーとしての活動を邪魔されたわけではないのだ。ピート・シーガーが仲間内で小さな会場でプレイすることしか「許され」ず、全国的知名度を持ったキャリアを台無しにされたのとは大きく違う。アメリカが経済的に、政治的に強い状態だからといって、勾留やもっと激しい弾圧という手段に訴える必要がなかったわけではない。アメリカはそういう選択肢も捨ててはいなかった。ヴァン・ロンクがまさにそのケースだった。何かあったら勾留しようとマークされ、常に監視され、仕事を得るのを邪魔する陰謀の対象となっており、実際に何度も迷惑を被っていた。政治的活動家であるテリー・ソルは、トゥルースアウトに送ってくれたeメールの中で、こういう雰囲気があったことを語ってくれた:
長年に渡って、FBIは近所の人に私たちのことを訊いて回っていました。電話も盗聴されていたと思います。一度、長い通話が終わった直後に、再度、受話器を持ち上げたら、私が少し前にしてた会話が聞こえてきたなんてことがありましたから。後に、デイヴと別れた後、私は短期間、証券会社で働いてたんですが、ある日、従業員は全員、明日、指紋を採取する予定ですと告げられました。私はどうしたらいいのか考えましたが、決心が下せないまま、指紋が採取される予定の日に出社すると、朝のうちに解雇されました。その週のうちに、その建物の管理人が、FBIが自分やビルで暮らしている他の人に私について訊いていたよと教えてくれました。アパートの家主はFBI職員に、私のことをとてもいい人ですと話したそうです。
ヴァン・ロンクとソルはFBIに監視されていることを知っており、それは見えるところ、見えないところの両方で、いつ落ちて来るかわからないダモクレスの剣のように、不安な要素となっていた。ヴァン・ロンクが海員証を再発行してもらうのを諦めたことが示すように、それは生き方を決める条件になっていた。実際、全体的にどんな影響があったのか、及び、このような監視がなかったら一体どうなってたかは、まさにここで解明したいことではあるが、答えようのない疑問である。
ヴァン・ロンクが監視されていたのは「古き悪しき時代」だったからだとも、今はアーティストは
罰せられることなしに言いたいことを言える時代だとも、言わないことが大切だ。現在では弾圧の手段も様変わりして、別の勢力が抑圧的な役割を果たしているのだ。ある種のメディアや政府機関、極右系の組織が暗黙の境界線を押しつけてくるような例を、今では目にする。その結果、アーティストが大企業によってキャリアを邪魔されるケースもある。ザ・デキシー・チックスは、リーダーのナタリー・メインズがイラク戦争に公然と疑義を唱えたために、クリア・チャンネル(コンサート、ラジオ、テレビ業界を仕切る大企業。現在ではiHeart Media)によってラジオから締め出される等の反対キャンペーンをされて、カントリー界でのキャリアを傷つけられた。ジョーン・バエズは、ヴェトナム戦争に反対していたのは数十年も前のことなのに、米陸軍から負傷兵支援のコンサートをキャンセルされた。ラッパーのコモンはアサタ・シャクール(1973年に警察官殺害の罪で終身刑となるも、脱獄してキューバに亡命。現在もFBIの指名手配犯リストに載っている)に対して同情を示す歌を歌ったことで、フォックス・ニュースで酷評され、大学からは学位授与式でスピーチする予定をキャンセルされた。こうしたたくさんの出来事は----目に見えないところでも様々な動きがあることは言うまでもない----アメリカ合衆国において芸術的自由、政治的自由が稀薄であることをはっきりと物語っている。
The original article “Newly Unearthed FBI File Exposes Targeting of Folk Singer Dave Van Ronk” by Aaron J. Leonard, Truthout
https://truthout.org/articles/newly-unearthed-fbi-file-exposes-targeting-of-folk-singer-dave-van-ronk/
Reprinted with permission