2021年10月28日

映画『HELP!』に出演したインド人ミュージシャン

ビートルズ、ジョージ・ハリスンとのエピソード

文:パンディット・シヴ・ダヤル・バティッシュ


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 ロンドン北部のハイゲイトの近く、フィンスベリー・パークのバーチントン・ロードにある自宅の電話が鳴りました。私はBBCの移民用番組編成部に招かれて、バーミンガムで毎週行なっているインド人とパキスタン人ミュージシャンによるビデオ撮影のために、作曲と指揮を担当していたのですが、そこから帰って来て30分もしない時でした。
 電話に出るのは私の娘、スレンドラのいつもの役割だったので、彼女が受話器を取り、いつものように「ハロー」と言いました。この時の電話の主は、私の他ならぬ旧友、ミスター・ケシャヴ・サテでした。ケシャヴは娘に良いニュースを伝えました。『Help!』というタイトルのビートルズの映画が現在制作中で、特別な場面でBGMを演奏するインド人ミュージシャンが数人必要だとのことでした。娘が、うちのパパは何を演奏するのを求められているのかと質問すると、ミスター・サテは、ヴィチトラ・ヴィーナがいい、フルートとシタールのミュージシャンとは既に連絡を取って了解を取り付けているからと答えました。スレンドラはミスター・サテに、少しお待ちくださいと言うと、私のところに来て、全てを話しました。私は受話器を取り、サテジー[「ジー」は親しさを表す愛称]に感謝した後、そのセッションに参加することが出来たら嬉しいですと言いました。

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 2日後、私は典型的なイギリスのスタジオにいました。映画『Help!』の監督が他のアシスタントたちと一緒にいて、私たち約4人のミュージシャンを待っていました。インド音楽の演奏が必要なシーン用にセットが組まれていました。
 インドの映画スタジオで仕事をした経験はたくさんありましたが、こちらの映画の世界の環境にはビックリしました。マイクやスタンド、照明など、たくさんの機材がありました。必要なビートで大きなクリックを出しながら、光も点滅する大きなメトロノームもありました。
 私たちがチューニングを済ましたばかりの頃、イギリス人ミュージシャンの1人がやって来て、「長丁場の仕事になりそうだ。今はティー・タイムだから、作業はやめよう。そういう決まりなんだ」って言いました。私は彼の言葉にビックリしました。インドでは、いったんスタジオに入ったら、昼食の時間までずっと働かないといけません。私たちはカフェテリアに行って、お茶と軽食をとりました。
 他のミュージシャンと会って話したこの時間は、とても面白く、刺激的でした。新しい友人も出来て、この仕事をやっていて良かったという誇りを、生まれて初めて感じました。私たちがくつろいでいるか、皆が気をつかってくれているようでした。
 スタジオに戻りました。さっき友人になったばかりの他のミュージシャンが私たちの楽器を見に来ました。私のヴィチトラ・ヴィーナのヘッドの鳩の装飾が特に彼らの興味をそそっていました。典型的なイギリス風のウィットで、彼らの1人はこの楽器に近づいて、その出来映えを誉め始めました。別の瞬間には、彼は鳩の顔の近くに立って、手の上に載せたエサでこの鳥を呼び寄せるふりをしました。これには、私たち全員が大笑いしました。
 スタジオ・セッションは丸1日続きました。ヴィチトラ・ヴィーナの音で奏でられてるビートルズは、私がこの時にやった演奏です。「カーリー」女神のシーンでBGMとして使われたラーガもそうです。ミスター・サテとシタール奏者のミスター・モティハール、そしてフルート奏者も、映画の監督が必要に応じて使うことが出来るよう、別々にいくつか録音していました。その日の最後に監督が来て私たちに感謝し、インド音楽がもっと必要になったらまた呼びますと約束してくれました。私たちも監督に感謝し、他のミュージシャンとも別れの挨拶して別れました。
 これがアルバムに収録された曲の1つです。何らかの理由で、ミュージシャンの名前は含まれてはいませんでしたが。



 数カ月が経ちました。映画『Help!』は大成功し、制作スタッフも高く評価されました。私たち4人のインド人ミュージシャンはブッシュ・ハウスにあるBBCスタジオで会った時に、撮影の時の話をしました。ビートルズと仕事をしたおかげで、私たちは西洋で名声と人気を得ただけでなく、インド人コミュニティーの中でも敬意を払われるようになりました。
 数ヶ月後のある日、バーチントン・ロードの自宅の電話が再びなりました。今回は映画監督からではなく、ビートルズの事務所のスタッフでした。どのような用件ですかと質問すると、ビートルズのミスター・ジョージ・ハリスンが私と会いたい、奥さんのパティー・ハリスンにディルルバのレッスンをしてもらいたいということでした。ハリスン夫妻がこの楽器を1台欲しがっているので、インドから取り寄せて欲しいとも言っていました。娘のスレンドラが、イギリスに送ってもらうとなるとしばらく時間がかかりますと言うと、構わないという返事でした。ボンベイにある楽器店に電話を注文し、それが確定され次第お知らせしますと、スレンドラは言いました。

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 15日もしないうちに、ディルルバが3台、トゥークスベリーにある知り合いの家に到着しました。彼が特別にインドから楽器を持って来てくれたのです。私はそれを回収に行き、夕方には戻って来ました。翌日、ミスター・ハリスンに楽器が到着したことを知らせると、私に自宅まで来てもらいたいので迎えの車を行かせると約束してくれました。
 翌日、約束の時間にドライバーが到着し、ドアをノックしました。末っ子のラヴィがドアを開けて、彼を中に案内し、階段を上がって2階まで連れて来ました。ドライバーは非常に礼儀正しい人物で、私と会って握手し、末っ子ラヴィがきちんと応対出来たことをほめ、そういうふうに迎えられてとても感激したと言いました。私はディルルバを持ち、妻と子供たちに行ってきますと言うと、彼と一緒に出発しました。ミスター・ハリスンの家はロンドンの南のサセックス州にあり、着くまでしばらく時間がかかりましたが、ドライバーは私を飽きさせず、共通の話題をあれこれ持ち出して、おしゃべりをするのに忙しい状態でした。おかげで、長い移動中の良い暇つぶしになりました。
 サセックス州に入り、いろんな小道やストリートをジグザグしながら進み、遂に、ドライバーがハリスン邸はあそこだよと言いながら指さしました。前から見た眺めは壮観でした。フロント・ドアの左側には全体にペイントが施されてるロールスロイスがありました。大きなボディーに施されてるアートワークにとても驚きました。私は好奇心からドライバーに質問しました。誰の車ですか?って。すると、「ビートルズのメンバーのミスター・ジョン・レノンのですよ」と答えました。「美しいロールスにあんなことやるなんて!」とも言ってましたけどね。

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 ドライバーは正門から入り、大きな応接間に案内してくれました。やや暗い広間の大きさを見た時には、私は畏敬と驚愕の念を抱きました。部屋にはさまざまな東洋のカーペットが敷き詰められていて、シーンとしていました。ここを衝立で区切って小さなスペースをたくさん作れば、いろんなグループがそこに入って、それぞれの活動を邪魔されずに行なうことが出来るだろうって思いました。
 私がドアから入るのを見たミスター・ハリスンは、立ち上がって、手を組んでこっちにやって来て、インド・スタイルでナマステと挨拶し、私と握手を交わしました。とても美しい若いレディーが後ろに立っていて、彼女はミセス・パティー・ハリスンと紹介されました。将来、私の生徒となってディルルバを習うことになるのは、彼女でした。

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パティーとディルルバ(インドのマハリシのアシュラムにて)


 私は部屋の奥まった部分に通されて、ふたりから、どうぞお座りくださいと言われました。外の部分には3人の人が座っていて、低い声で喋っていました。私は彼らが誰なのか質問すると、ミスター・ハリスンは、グループのメンバーだと教えてくれました。つまり、ジョンとポールとリンゴだったのです。すると、ミスター・ハリスンは声を少し大きくして彼らに声をかけ、私を紹介してくれました。彼らはとてもいい人で、ニコニコしながら私に手を振ってくれました。そして、また真面目な会話に戻りました。
 私はハリスン夫妻と席に着き、カバーからディルルバを取り出しました。つい先日、ボンベイから飛行機で来た古い友達が特別に運んでくれたんですよと話しながら。パティーは畏敬の念を持ってこの楽器をじっと見ていました。ふたりが楽器に触れるのを終えた後、私はそれを手に取って短いフレーズを演奏して、どんな音が出るのかを披露しました。パティーは音に驚嘆していました。ミスター・ハリスンからは、パティーが習いたいと思ってるうちに私がこの楽器を持って来たことを感謝されました。
 その日以降、パティーはディルルバのレッスンを開始しました。とても飲み込みの早い生徒で、私が教えた基本フレーズをすぐに覚えてしまいました。左肩で楽器をしっかり支えながら、両手をうまく使えるようになりました。私がパティーのために演奏した練習用のフレーズを数日後にはマスターし、私が教えたのと同じくらい正確に演奏しました。
 一方、レッスンの予定日にはいつも、例のドライバーが私を迎えに来ました。私の家に来た時には末っ子のラヴィが出迎えているのですが、そのお礼にと、息子に古い銀の腕時計を持って来てくれたこともありました。私がハリスン家に通ったのは短期間でしたが、その間、この若くて素敵な夫婦は気立てが良く、とても礼儀正しかったです。彼らの家で大歓迎してもらえたことを私は忘れることが出来ません。この思い出はずっと大切にします。

The original article "My Episode with the Beatles and George Harrison" by Pt. Shiv Dayal Batish
http://raganet.com/Issues/3/beatles.html

   
 
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2019年02月04日

インドのレコード収集家インタビュー

 Scroll.inというインドのサイトでステキな記事を見つけたので、紹介したいと思います。いろいろな問い合わせに親切に応じていただいたナレシュ・フェルナンデスさんは、このサイトを設立メンバーのひとりで、自らインドのジャズのレコードのコレクションをしているとのことです。


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インドのレコード収集家インタビュー

 50年以上に渡ってレコードの収集とコレクターのコミュニティー作りに努力してきたムンバイ在住の科学者、スレシュ・チャンドヴァンカールが、自身のコレクター人生について振り返る。「この情熱の正体はいったい何なのか? どこから生じているのか?」

文:ルドラディープ・バタチャルジー


 目覚まし時計は午前5時にセットされているのだが、私は数分早く起きてしまった。今、この瞬間、世界の別の場所では、痛む膝を抱えたサウラシュトリア人(インド南部)と、31歳にして頭がハゲているニュー・サウス・ウェールズ人(オーストラリア東南部)が----どちらも絶滅危惧種だ----面白い内容になる違いない次の試合のためのウォーミングアップをしている頃だろう。
 しかし、このクリケットのテストマッチを見たいという誘惑をきっぱりと拒み、それに屈しなかった私は、列車を3回乗り換えながら移動し、4時間後にはバドラプールから遠く離れた郊外の町にいた。そして、スレシュ・チャンドヴァンカールの案内で階段を上って行くと、まさに彼の根城と言うべきところに到着した。
 チャンドヴァンカールは60代後半の華奢な体格の人物で、いつも肩からカバンをさげている。いかなるスポーツにも全く興味を持っていないようなのだが、「歩くのは好きだよ」とは言っている。彼がこの家を購入したのは1990年代後半で、「その時は、ここには何もなかったよ。家からはいろんな山が見えた」とのことなのだが、現在、山々は単調な高層アパートの連なりによって完全に隠れてしまっている。しかし、この家は今もなお平穏な雰囲気を保ち、大好きなレコードとともに素敵な時を過ごすための空間と静寂を、その住人に与えている。チャンドヴァンカールは、50年近くかけて蓄積してきた人がうらやむほど大量のSP盤、LP盤のコレクションを有している人物なのだ。
 「ここにあるレコード盤1枚1枚に物語があるのです」とチャンドヴァンカールは語るが、こうした物語にはムンバイにある伝説的なフリー・マーケット、チョール・バザールに由来するものが多いことに、私は気がついた。一番気に入った話は、ゾノフォーン(Zonophone)社が1900年代初頭に製造した、アリ・バクシュというあまり知られてないシャハナイ(シャナイ、シェナイ)奏者の音楽を収録したSP盤にまつわるものだ。

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アリ・バクシュの演奏を収録したゾノフォーン社製SP
(写真:スレシュ・チャンドヴァンカール)


 チャンドヴァンカールはこのレコードに興味津々だった。後にこの楽器と同義となるほどの名手となった甥、ウスタッド・ビスミラ・カーンに技を伝えたバクシュと同一人物なのだろうか? このことをずっと知りたいと思っていたチャンドヴァンカールは、ビスミラ・カーンがコンサートを行なうためにムンバイにやって来ることを知ると、音楽家をやっている友人で、この名手とは知り合いという人物と即座に連絡を取って熱心に頼み込み、遂にカーン大先生への謁見が叶うことになった。



 幸運なことに、チャンドヴァンカールは会見の数日前にマイケル・キニアの新著『The Gramophone Company's Indian Recordings, 1908-1910』を入手したのだが、この本で自分が買ったバクシュのSP盤に関する情報をチェックして驚いた。確かに、このレコードに関する情報も載っていたのだが、キニアの調査では、アリ・バクシュはタリム・フサイン(もしくはホセイン)という音楽家の別名と記されていたのだ。ということは、この演奏家はあのアリ・バクシュとは同名異人なのだろうか?
 「私はこの発見については黙っていることにしました」とチャンドヴァンカールは語る。カーンとの会見の当日、彼は巨匠がムンバイに来た時には定宿としているバイクラのホテルに到着した。「カーン師匠が自分の服を洗濯するのを許してくれるホテルはここだけだったのです*」 謎のレコードと手でゼンマイを回す方式のレコード・プレイヤーを抱えて部屋に入ると、そこには祈りの後、バニヤンとルンギという姿でベッドに座ってくつろぎ、他のゲストとおしゃべりをしているカーンがいた。

* 高級ホテルではランドリー・サービスの利用を求められ、部屋の中に洗濯物を干すのは許されなかったので、巨匠となっても自分の服は自分で洗濯するのを好んでいたカーンは、そうすることが出来るよう、あえて安いホテルに宿泊していたのだそうです。(Scroll.in編集者の説明)


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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 チャンドヴァンカールは機材をセットし、巨匠からOKの合図があった後、レコード盤の溝に針を置いた。シャハナイの引き締まった音が部屋を満たすと、巨匠の演奏を聞きに集まっていた人々からはざわめきが生じたのだが、カーンは目を閉じたまま、集中して聞いていた。3分の曲が終わった時も、カーンは何も言わず、ただ、裏面もかけてくれとだけ言った。チャンドヴァンカールはそれに応じ、2曲目を再生した。皆が巨匠の反応を待ち、部屋は静まりかえっていた。カーンはしばらく考えた後、顔を上げて言った。「Yeh hamare mamu nahin hain」(これは私の叔父ではない)
 チャンドヴァンカールはそういう回答だろうと思ってはいたが、悪魔の弁護人を演じた。「カバーにはアリ・バクシュと書いてありますと言ったのですが、カーンは語気を強めて「カバーが何て言ってるかは知らないが、この音楽からは1つも叔父の音が聞こえてこないね」って答えました」


 
 バドラプールにあるチャンドヴァンカールの自宅の壁には、伝説のシンガー、ガウハール・ジャーンの写真が飾ってあり、そのすぐ下にはレコードがあった。これにも物語があるのではないかと私は思い、質問した。実際、この写真とレコードには、チャンドヴァンカールの少年時代とレコードへの情熱の始まりまでさかのぼる物語があった。「叔父のひとりがゼンマイを手で回す方式の蓄音機を持っていたんですが、私はそれに触ることさえ許されませんでした」 チャンドヴァンカール少年は、遠くからこの機械を眺め、そこから流れてくる音を聞いて魅了されていたのだ。
 プネで小規模な紙のリサイクル業者をやっていた父親は、彼がレコードに興味を持っていることに気づき、廃品のレコードの買い取りも始めた。「父はキロ単位でレコードを買い取っていました。1キロあたり25パイサ(0.25ルピー)とかで。でも、小さな問題があったのです」 こうしたレコードを再生する蓄音機がなかったのだ。そこで、チャンドヴァンカール少年は壁に釘を打ち込んだ。「釘にひっかけたレコードを片方の手で回し、もう片方の手でピンを持ってレコード盤の溝に沿って動かしました。そうして出てきた音は、どんなにかすかなものでも聞いてやろうって思っていました」 息子の「狂気」を見た父親は、ちゃんとした蓄音機を買ってやることにした。
 物理学で修士号を取って、タタ基礎研究所で職を得て----「職に就いたのはこれが最初で、定年まで勤め上げました」----1976年にムンバイに引っ越す頃には、チャンドヴァンカールは1,000枚ほどのコレクションを抱えていた。「最初の数年間は下宿生活を送っていたのですが、その時もレコードを持って行きました」 彼はドンビヴリで借りた部屋に引っ越し、次に、コラバにあるタタ基礎研究所の職員宿舎に引っ越し、定年までそこで暮らした。その間もコレクションは増え続けた。

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チャンドヴァンカールのコレクションの中には《The Voyager Golden Record》の40周年記念リイシューもある。
(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 殆どのコレクターと同様、チャンドヴァンカールも最初は自分ひとりでこの趣味に没頭していた。ところが、ある日「こんなことをやっているのは自分ひとりではないことがわかりました」 インドにおけるレコーディング黎明期のディスコグラフィーをまとめたオーストラリアの研究家、キニアによって、自分はもっと大きなコミュニティーの一部であるという認識はさらに深まり、より明確な方向性を得た。
 マラティで発行されている新聞に掲載された短い記事でキニアーについて読み、興味を抱いたチャンドヴァンカールは、新聞社に問い合わせて、オーストラリア人と連絡を取りたいとお願いしてみた。詳しい連絡先を教えてもらった彼は、キニアに手書きの手紙を送った。「返事が来るとは思っていなかった」ので、それが届いた時には驚喜した。
 数ヶ月後、キニアは本執筆用の調査のためにインドにやって来て、ボンベイではチャンドヴァンカール宅に滞在した。自宅にキニアが逗留してくれたのは、いろんな点で幸運だった。チャンドヴァンカールは若い頃からチョール・バザールに通い続けていたが、この一風変わったオーストラリア人のほうが自分よりこのエリアについて詳しく知っていたのだ。彼は笑いながら回想する。「キニアはチョール・バザールの私の知らない道全部を案内してくれました」
 しかし、キニアの最大の貢献はものの見方が大きく変化したことだった。「私が彼から学んだのは、レコードの収集には、音楽を聞いて、カバーやレーベルを眺める以上の意味があるということです」 キニアは、インド中のコレクターをひとつにまとめてインド・レコード・コレクター協会(Society of Indian Record Collectors)を設立したことでも重要な役割を果たした。「彼から「どうして皆で集まらないのですか?」って言われた時に、私は「私たちは敵同士なのに、どうして集まらなきゃいけないのですか?」と答えました。あの頃は、私たちは互いをそう思っていたからです」

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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 インド・レコード・コレクター協会の第1回ミーティングは、1990年6月にタタ基礎研究所の職員宿舎で開催され、キニアも出席した。最初はリスニング・セッションが開かれた。「ゲストに歌手や楽器の演奏家を招いたこともありましたが、殆どの場合、おしゃべりに興じていました。3時間のうち音楽を聞いたのは5、6曲だけで、それよりも、おしゃべりのほうが中心でした」 協会は『The Record News』という情報満載の会報の発行も開始した。編集長はチャンドヴァンカールだった。
 キニアと出会ったことが、チャンドヴァンカールのコレクター人生の最初の大きなターニング・ポイントだったが、次の進化のステップは約10年後に到来した。2001年に、音の記録の保存に関与している2つの大きな国際的組織----国際音声・視聴覚アーカイブ協会録音コレクション協会----が共同で大英図書館で大会を開くと聞いて、この貴重な機会に出席することにしたのだ。
 ロンドンで、自分がインドから来た唯一の大会参加者だとわかったチャンドヴァンカールは、この状況を最大限に活用して世界中のコレクターと会い、ネットワークと活動範囲を広げ、2012年に仕事を引退してからは、彼はこの種の会合には定期的に出席している。その結果、今では、チョール・バザールに行った時には、自分にとって興味のあるものだけでなく、他のコレクターにとって価値がありそうなものも拾っておくようになったという。「人を助けてあげたら、今度はこちらが助けてもらえるのです。私の考え方は完全に変わりました」

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(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 チャンドヴァンカールは世界中を旅しながら、自分以上に「クレイジー度」の高いコレクターとも出会った。子供のマーケット向けに作られたSP盤を専門に収集しているアメリカ人コレクターの自宅を訪問した話を、彼はしてくれた。ニューヨークで暮らす、88歳にしてまだまだ元気なこのコレクター氏の「ベッドルームが6室あるアパートメント」に入ると、彼がそれまでに苦労して収集した「25,000〜35,000枚のレコード」が生産国別に念入りに並んでいた。「このコレクションは将来どうなるのかと質問したのです。すると、自分が死んだら国会図書館に行きますという回答でした」
 「この言葉は私が取るべき方向を示していました」 インドにはこうした記録を保存する機関が殆どないこと、そして、インドにいるコレクター諸氏一般が高い意識に欠けていることを嘆きながら、チャンドヴァンカールは語った。「私は自分のコレクションをどこに渡したらいいのか知っています。しかし、殆どの人は知りません。彼らの持っているレコードはゴミ置き場に積み上げられることになるでしょう」


ブロードキャスト・レーベルからリリースされたケサルバイ・ケルカルの歌


 チャンドヴァンカールは現在まで20年近く、ヴィンテージ・レコードをデジタル化し、一般大衆がそれらを聞けるようにすることを目的とした複数のプロジェクトに、熱心に関与してきた。2004年には、ブロードキャスト(存続期間は短かったが、グラモフォン・カンパニーに対抗しようとしたイギリスのレコード・レーベル)がリリースしたレコードのデジタル化を行なうために、サンギート・ナタク・アカデミーから助成金を得て、そして、00年代の後半には、心臓切開手術を受けた後の病床の中でだが、大英図書館が消滅危惧アーカイヴ・プロジェクトの一環として助成金を出す計画があることを知った。大英図書館は最終的に、チャンドヴァンカールが手塩にかけて行なっているプロジェクトの2つに資金を提供した。
 2016年、大英図書館はそのウェブサイトに、ヤング・インディア・レコード・レーベル・コレクション、及び、オデオン・レーベル・インド亜大陸・レコーディング・コレクションとして掲載した。チャンドヴァンカールはその後も、サンギート・ナタク・アカデミーと文化省のために、HMV以外のさまざまな小規模レーベルがリリースしたレコードのデジタル化プロジェクトに取り組んだが、この2つの機関が大英図書館のような計らいをする様子は全くない。
 現在、チャンドヴァンカールは別のプロジェクトに取り組んでいるのだが、今回も資金を出しているのは大英図書館だ。「音の記録の収集を個人で行なっているインドのコレクターの調査」というタイトルのこのプロジェクトは、それまでに彼が行なってきたこととはかなり趣を異にしている。「これまではずっと機械で再生した音楽を聞いて、それを分析し、理解しようと努めてきました。レーベルやジャケットを眺めながら、過ぎ去った時代の人工遺物を扱ってきました。でも、今は生きている人間を調べてみたくなったのです」

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映画制作者、V・シャンタラムが創設したヤング・インディア・レーベル
(写真:ルドラディープ・バタチャルジー)


 つまり、チャンドヴァンカールは目を自分の内面に向けているのだ。彼が抱いている問いは、自分のような人間を収集へと駆り立てるものは、いったい何なのかということである。「この情熱の正体はいったい何なのか? どこから生じたのか? 何がそんなに魅力的で、75,000枚ものレコードを集めてしまうのか? 自分の死後、コレクションがどうなってしまうのかを考えずに、どうしてこんなに大量のレコードを集めてしまうのか? 私はこうした人間の心理を理解したいと思っています」
 チャンドヴァンカールがこのプロジェクトに取り組んで1年弱になるが、答えよりも、厄介な疑問のほうが数多く生じてしまっているようだ。「私のレコードに対する興味は、それに触ることを許されなかった子供時代に始まりました。今、私はレコードに触ることを許されていますが、その先には何があるのでしょうか? 情熱は私をどこに連れていこうとしてるのでしょうか?」
 彼の心を悩ませ続けているものが他にもある。「そもそも、こんなことをやっていて悟りがもたらされるのでしょうか? そう考えてしまうのは、多くのミュージシャンに言われたからです。自分が創造したり演奏したりしているものは本物の音楽ではありません。本物の音楽とは2つの音の間に存在する間{ま}なのです。そういう音楽を聞くことが出来た場合のみ、トランス状態になることが出来るのです、と。アミール・カーンが歌っている時には、少し長めの間{ま}がありましたが、その間{ま}の中にも音楽が存在していました」
 チャンドヴァンカールは音楽を聞いても楽しくない状態になってしまったのだろうか?
 「それは絶対にありません。音楽を楽しむのを止めてしまったことなどありませんが、たぶん、オーバードーズ{聞き過ぎ}なのでしょうね。私は人生の50年を音楽を楽しむことに費やしてきました。あらゆる種類の音楽を聞いてきました。カジュアルな音楽ファンではありません。でも、全ての音楽を聞くことは出来ません。そんなことは不可能ですよ。(少し間{ま}を置いて)いかなるジャンルでも、誰の人生でも、こういう問題は生じるのだと思います」




The original article "How a Mumbai scientist helped bring together India's obsessive record collectors" by Rudradeep Bhattacharjee
https://scroll.in/magazine/906432/how-a-mumbai-scientist-helped-bring-together-indias-obsessive-record-collectors?fbclid=IwAR16jO6Oh7h_ZRemsSx957EQNLEMFLr8pu1Ap-t-zZ5PJXF55pHoeXBriH4
Reprinted by permission


   

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2019年02月03日

インド、デリーのレコード屋に関する動画

 YouTubeでステキな動画を発見。





 私も2015〜2016年にこの2店に行きました。その時のレポートがこれ:
・インド盤を求めてリキシャに揺られ
http://heartofmine.seesaa.net/article/416437989.html
・デリーのレコード屋New Gramophone Houseでボブ・ディランのインド盤を発見
http://heartofmine.seesaa.net/article/436532643.html

 また行きたいなあ。
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