2017年10月17日

ガーディーズ・フォーク・シティー四半世紀の歴史

 ガーディーズ・フォーク・シティーというと、ボブ・ディランの経歴を扱った本の最初のほうに出てくるフォーク・クラブですが、今はもうありません。グリニッジ・ヴィレッジは、リンカーンが大統領をやってた時代に建てられたアパートメントに今でも人が暮らしているような場所ですが、他の大都市と同様に徐々に再開発が進んでおり、ガーディーズのあったところも、ビルそのものが建て替えられてしまい、もはや跡形もありません。在りし日の姿は、以下の記事のように、当時を知る人の思い出話を聞くしかない状態になって久しいです。


Gerdes.jpg



ボブ・ディランにとっての初の大きなギグと
ガーディーズ・フォーク・シティーの四半世紀


文:フランク・マストロポロ


 1960年のグリニッジ・ヴィレッジはフォーク・ミュージックの爆心地だった。1950年代のビート詩人はガスライト・カフェ、カフェ・ビザール等のヴィレッジのコーヒーハウスをフォーク・シンガーに明け渡した。多くのミュージシャンがケトル・オブ・フィッシュやフォークロア・センターに集まってい。前者はバー、後者はイジー・ヤングの経営する店で、本やレコード、楽器を販売していた。
 ヤングの夢はヴィレッジのナイトクラブでフォーク・ミュージックを紹介することだった。1960年前半、ヤングと広告マンのトム・プレンダーガストは、西4丁目11番地にあるレストラン、ガーディーズのオーナー、マイク・ポーコにある契約を持ちかけた。イタリア系移民のポーコは工場労働者やNYCの学生に食事を提供しており、もともと、夜には時々、ボンゴ・プレイヤーやギタリスト、アコーディオン・プレイヤーがそこで演奏していた。ヤングのアイデアはこうだった:バンジョーの5番目のチューニング・ペグにちなんでフィフス・ペグというフォーク・ミュージック用のクラブを作る。ヤングは入場料をもらい、ミュージシャンにギャラを払う。そして、バーとレストランの儲けはポーコの懐に入る。
 フィフス・ペグは1960年1月26日にオープンした。数ヶ月間は、ヤングがエド・マカーディー、トミー・メイケム、クランシー・ブラザーズ、ソニー・テリー、ブラウニー・マギー、キャロライン・ヘスター、シスコ・ヒューストンといったフォーク音楽の大スターのコンサートを開いて満員にしていたが、ポーコは間もなく気づいた。パートナーなんていなくても、利益を出せるぞと。そして、体よくヤングを辞めさせた後、1960年6月1日にオープンしたのが、ガーディーズ・フォーク・シティーだった。
 月曜日にはフーテナニー・ナイトが行なわれていた。ギャラこそ出なかったが、ミュージシャンはそれぞれ3曲ずつ歌い、観客の前で演奏を披露するという貴重な経験を積むことが出来た。トム・パクストンは言う:「演奏するのに金を払わなくてよかったなんてビックリだ」
 1961年4月11日、ボブ・ディランはガーディーズでプロとして初のギグを行った。そして、1961年9月29日付ニューヨーク・タイムズ紙に載ったロバート・シェルトンによる激賞記事のおかげで、20歳のボブは広く注目され、その数週間後にコロムビア・レコードと契約を結んだ。
 1969年になると、ヒッピーとドラッグ、ロック・ミュージックが文化全般に浸透し、ヴィレッジ住人からの圧力で、ポーコはフォーク・シティーをいったん店じまいして、場所を西3丁目130番地に移さなければならなかった。1970年に新たにオープンしたフォーク・シティーには、ラリー・コリエルやエルヴィン・ジョーンズといったジャズの巨匠、NRBQやストーリーズといったロック・バンド、マーティン・ムルやアンディー・カウフマンといったコメディアンが、エミルー・ハリスやザ・ローチェズといったフォークやフォーク・ロックのミュージシャンに混じって出演した。
 1980年にポーコは引退し、フォーク・シティーを新しいオーナーに売却したが、1,500ドルだった家賃がそのうち3倍近くになると、クラブは賃貸契約を維持出来なくなり、1986年に遂に店じまいとなった。以下は、フォーク界の人気アーティストに語ってもらったガーディーズの思い出話である。

イアン・タイソン(イアン&シルヴィア):ガーディーズはフォークの場所だった。アパラチアン・タイプのフォーク・ミュージックを聞くことが出来たよ。新しい場所だった。ニューヨークの、ヴィレッジの雰囲気があったね。



バフィー・セイント=マリー:とても打ち解けた雰囲気で、新参者にも心地よかったわ。ブルーグラス、ブルース、イギリスのフォーク・ソング…いろんな人がいろんな音楽を演奏していた。私はソングライターだったから、パーフェクトな環境ね。オーディエンスは私と同い年くらいで、20代前半だったけど、大人の人もいたわ。ブロードウェイ・ショウにも通っていて、ジャズなんかも好きなニューヨーカー・タイプの人たちもね。最近だと、音楽フェスティヴァル以外では殆ど見られない幅広い年齢層だったわ。

パトリック・スカイ:入ると、このくらい長いバーがあったよ。バーの向こうの端っこにある階段を下に行くと、きれいに片づけられたエリアがあって、そこでは出演者が自分の出番に備えていた。



トム・パクストン:怖いところでもあったよ。最初は近所の何の変哲もないバー&グリルだったんだ。バーとテーブル席のエリアは高さが4〜5フィートの壁で分けられていた。フーテナニー・ナイトのような時にはたくさんの人が来て、バーのところは混雑してた。バー・エリアにいた連中は、いくぶん、舞台から隔てられてたように感じていた。ステージで起こってることにはあまり気にとめず、おしゃべりを続けてたんで、パフォーマーにとっては本当に辛かったんじゃないかな。邪魔な雑音がずっと聞こえてくるわけだから。

ハッピー・トラウム(ニュー・ワールド・シンガーズ):常にタバコの煙が一面にもうもうと立ちこめてたよ。目からは涙が出てくるし、服は臭くなるし、出演者として来た時には、観客より3フィートくらい高いところにいたから、煙が全部、天井に近いそこに来ちゃうんだよ。バー・エリアからはひっきりなしに騒音が聞こえてきた。レジの音やグラス同士がぶつかる音、ウェイトレスが厨房に客のオーダーを伝える声とかさ。



トム・パクストン:皆、月曜の晩のフーテナニーのことを話すだろ。凄かったんだぜ。もう、ぎゅうぎゅう状態。そのくらい混んでたよ。



イアン・タイソン:当時はオープンマイクっていう名前じゃなかったけど、そのことだよ。リストに名前を書いて、震えながら待つ。自分の晩が来たらステージに上がって歌う。うまくやり遂げて、皆に気に入ってもらえたら、レコード契約の話がたくさん舞い込んでくる。金は必要ない。ビールも安かったと思う。そんな感じだった。

トム・パクストン:フーテナニーは楽しかったなあ。マイクが1本あって、3曲歌った。ブラザー・ジョン・セラーズかドミニク・チアニーズに紹介されたらステージに上がって、3曲歌って、とっとと降りる。ステージ機材やモニター云々なんてない。誰もまだモニターなんて発明してないし。クランシー・ブラザーズだろうがトミー・メイケムだろうが関係ない。3曲歌ったら降りる。それでうまくいってた。それで、どんどんステージは進行した。

ハッピー・トラウム:月曜夜はガーディーズに行くしかなかったね。ブラザー・ジョン・セラーズって奴がいたなあ。ショウマン・タイプの黒人ゴスペル・シンガーで、とてもエネルギッシュな伝道師みたいなパフォーマーだった。こいつがしばらくフーテナニーの司会を務めていたんだが、ギル・ターナーは後を引き継いだ。ニュー・ワールド・シンガーズのリード・シンガーだったからだ。月曜夜にはよく行った。最初のうちは、ステージに上がって3曲歌うのは、簡単で楽しかったけど、1962年頃になると、人でごった返すようになった。バフィー・セイント=マリーやジュディー・コリンズやピーター・ポール&マリーの姿も見えた。ビールを1杯飲むか2ドルくらい払えば、中に入って優れたフォーク・シンガーをたくさん見ることが出来た。

トム・チェイピン(マウント・エアリー):キングストン・トリオやザ・ライムライターズのような半袖シャツを着て行ったよ。ニューヨークじゃ、オレたちは「フォーク・ピープル」の視点からしたら怪しい連中だったんじゃないかな。フォーク・ナチス(笑)。そういう面もあった。今でも少しはある。中に入ってフーテナニーの演奏をする。観客っていったって、そいつらも歌いに来た連中なんだけどね(笑)。でも、運が良かったら、バスに乗ってツアーに出るなんてこともあった。

バフィー・セイント=マリー:1960年代前半は、まさに自分の居場所だと感じたわ。カレッジを出たばかりの私は、男の人と飲んだこともなかったし、バンドや音楽ビジネス、有力なマネージャーやプロモーターとのコネも全くなかったの。ただ音楽があっただけ。聞いて、演奏して、皆と分かち合って…素晴らしかった。千客万来の雰囲気で、オーディエンスも大学生くらいの年齢の、スレてない人たちだったわ。自分の音楽だけじゃなくて、子供の頃には聞いたことのないあらゆる音楽を聞いたの。私がギターの腕前を上げたのは一生懸命練習したからじゃなくて、ジョン・ヘラルドやジョン・ハモンド・Jr、オープンマイクの晩にやって来たいろんなミュージシャンを見てやる気をもらったおかげよ。演奏すればするほど、ますます好きになったわ。誰が来るかはわからなかったわ。

トム・パクストン:オレは軍隊にいたんだけど、ニューヨークに到着して最初にオフが取れた晩、フォーク・シティーに直行してエド・マカーディーを見たよ。この人からは駆け出しの頃に大きな影響を受けた。オレはエドの歌が気に入った。バンジョー・プレイヤーのサンディ・ブルが前座だった。出演者と話が出来る場所だった。ということで、エド・マカーディーに話しかけて、知り合いになって、友達になったよ。

バジー・リンハート:デヴィッド・ブロンバーグがよく歌ってた。彼はフォークとブルースとロックを紡いで、ハッピー&アーティー・トラウム等の人を連れてきた。毎回違うことをやってたよ。

パトリック・スカイ:ジョーン・バエズやディック&ミミ・ファリーニャ、いろんな人がそこで歌ってた。ドク・ワトソンがカントリー・ミュージックをそっと持ち込んだ。ケトル・オブ・フィッシュかガーディーズで座ってれば、知ってる奴がやって来るさ、なんてよく言ってたな。

トム・パクストン:ギル・ターナーとハッピー・トラウムと会ったのを覚えてるよ。彼らは〈Blowin' in the Wind〉をレコーディングした史上初のシンガーだ。ドク・ワトソンやジーン・リッチーと会ったのもここだ。キャロライン・ヘスターもね。ジュディー・コリンズとも会った。皆、そこで歌ってた。

イアン・タイソン:ニューヨーク・シティーに初めて行った時さ。カナダからやって来たオレは、グリーンブライアー・ボーイズやピーター・ポール&マリー、レン・チャンドラー、ジャック・エリオット等、いろんなシンガーと会った。シスコ・ヒューストンと会ったのもそこでだ。たぶん、ヨーロッパから戻って来た後、亡くなる数日前だったんじゃないかな。

トム・パクストン:フーテナニーはマイク・ポーコにとっては大当たりだった。月曜に店を満杯にして、しかも、ギャラを払う相手は司会とバーテンダーだけ。あいつにとっては金のなる木だった。

ハッピー・トラウム:マイクの悪口は言ったことないね。とてもスイートな奴で、こいつを好きにならなかった奴は知らない。音楽については何も知らなかったなあ。特に、店を始めた当初はね。でも、理解の早い人間だったから、時が経つにつれて、どんどん知識は増えていった。マイクは「リトル・ボブ・ディラン」が好きだった。彼はボブをこう呼んでいた。ボブもマイクのことを気に入ってたと思うよ。オレはマイクとはたくさんの交友があったとは言えないけど、オレが店に到着するといつも、ニコニコしながら「ハイ」って挨拶してくれたなあ。強いイタリア語訛が抜けないところも、皆から愛されていた理由の1つだった。オレはマイクがとても好きだったよ。オレにはいつもとても良くしてくれたし。

トム・パクストン:デイヴ・ヴァン・ロンクは死ぬほどおかしな奴で、マイク・ポーコのことをこんな風に言ってたよ。奴は金の話をするまでは完璧な英語をしゃべるって。

デヴィッド・ブロンバーグ
:心のあたたかい、気前のいい奴だった。大好きだったよ。




ジュディー・コリンズ:楽しかったわ。1961年4月11日、どこかの店からハシゴしてガーディーズに来たの。ブロードウェイ・セントラル・ホテルで1晩30ドルの部屋を予約してね。私はヘッドライナーだったの。もうビックリ。歌い始めてまだ2年くらいしか経ってない頃だったのに、ヘッドライナーをやらせてもらえて、とてもワクワクしたわ。ガーディーズ・フォーク・シティーは昔からあるピザ屋で、黒ネコがここに住んでたの。
 皆が私の歌を聞きに来てくれたわ。私がレコードを聞いて知ってた人も大勢いました。ピーターとポールとマリーもいました。ピーター・ポール&マリーになる前のことです。その晩にはデイヴ・ヴァン・ロンク、ランブリン・ジャック・エリオット、シスコ・ヒューストンもいました。シスコ・ヒューストンは2カ月ほど後にガンで亡くなってしまいましたが、まさにヴィレッジ・ファミリー全員がいたわけ。ロバート・ズィママンとして知ってた人も来てたわ。この人は間もなく名前をディランに変えるんだけど、その時はまだそうしてなかったわ。しかも、私のオープニングを務めてくれたのが(笑)13歳のアーロ・ガスリーって子。ね、凄いでしょ。




パトリック・スカイ:他のたくさんのパフォーマーと会えたという意味でも、そこでプレイすることが出来て光栄だった。演奏するより、友達に会って話したりするほうが楽しかったりして(笑)。

バフィー・セイント=マリー:ヴィレッジのサリヴァン・ストリートのアパートはしばらく引き払わなかったので、ニューヨークに戻って来た時にはガーディーズに立ち寄って、出演者をチェックしたの。ソニー・テリー、ブラウニー・マギー、ボブ・ディラン、ジム&ジーン・グローヴァー、キャロライン・ヘスター、ゲイリー・デイヴィス師(一緒にイギリス・ツアーをやりました)、エド・マカーディー、オデッタ、ドック・ワトソン、クランシー・ブラザーズと会ったわ。いろんな種類のオリジナルな音楽を聞いたの。そういう立場にいることが出来てれて、本当にラッキーだったわ。



デヴィッド・ブロンバーグ:4丁目にあった店ではロニー・ジョンソンに会ったよ。20世紀で最も影響力の大きいギター・プレイヤーだと思うな。これはオレにとって重要なことなんだ。ジョン・リー・フッカーにも会ったよ。アーロ・ガスリーと初めて会ったのも、あの店でだ。



バフィー・セイント=マリー:私が初めてあそこで演奏したのはオープン・マイクの晩だったわ。誰でも歌って良かったんで、私もそうしたの。皆は私の演奏を気に入ってくれたんだけど、〈Universal Soldier〉〈Now That the Buffalo's Gone〉はちょっとショックだったみたい。過激なプロテスト・ソングだから、それも無理ないわ。アメリカ先住民問題に関する歌も、あの頃は珍しかったでしょ。でも、なんでもありっていうのが、コーヒーハウスの時代、初期フォーク・ミュージックの時代のいいところだったのよ。
 あの晩か別の晩に、ボブ・ディランが私の歌を聞いていて、私に話しかけてきたの。ガスライトにサム・フードに会いに行けと言われたわ。その後、私は何度もそこで歌ったわ。ニューヨーク・タイムズ紙のジャーナリスト、ロバート・シェルトンもガスライトで私の演奏を見て、記事を書いてくれたの。それから私のキャリアが始まったのよ。でも、本当の始まりは、ガーディーズでボブに、ガスライトに行けって勧められたことね。後になって、私はそういう愛の手渡し行為をカナダからやってきたソングライター、ジョニ・ミッチェルにやったの。私が彼女のデモテープを[マネージャーの]エリオット・ロバーツに聞かせて、やっと契約することが出来たのよね。エリオットがジョニのキャリアを大ブレイクさせたでしょ。全てはガーディーズで始まったんだわ。



トム・パクストン:超楽しかったなあ。たくさんの連中がいた。ある晩、ヴァン・ロンクと一緒にビールを飲んでたんだ。あいつもオレも自分の出番が終わっていたと思う。そしたらハンチング帽をかぶってハーモニカを抱えた痩せた小僧がステージに上がって、ウディー・ガスリーの歌を3曲歌ったんだよ。ディランさ。オレたちふたりとも、とても感動した。「ワオ! あいつ、とてもいいね」って言った。オレたちはボブをこっちに呼んできて、会話に興じて、友達になった。

ハッピー・トラウム:オレたちはディランにぞっこん惚れ込んだ。初めて聞いたその瞬間からね。まだ自分で曲を書いてなくて、トラディショナルなフォーク・ソングばっかり歌ってたけど、他の誰とも違うレベルのように感じたよ。オレの記憶では、〈Hard Rain's A-Gonna Fall〉を初めて聞いたのはガーディーズ・フォーク・シティーでだ。ディランがステージに登場した時、観客は12人くらいしかいなかった。「書いたばかりの新曲があります」って言って歌い始めたんだけど、椅子から転げ落ちるくらいビックリしたよ。忘れられない思い出だ。
 ボブが〈Talkin' Bear Mountain Picnic Massacre Blues〉を歌ったのも覚えてるよ。とてもユーモアたっぷりにね。当時は、パフォーマンスの中にユーモアがたくさんあった。今じゃ見れないけど、昔はステージ上でおかしなことばかりやっていた。概して人に好かれる奴ではだったけど、よく理解出来ないとか、声が好きじゃないとかいう人がたくさんいたなあ。でも、オレたちはボブの歌を聞くたびに完全に圧倒された。オレたちはあいつのこと気に入ってたし、友達だった。

デヴィッド・ブロンバーグ:3丁目に引っ越した後の店では、入ると左側にバーがあった。とても狭かった。バーを通り過ぎると----ゆうに15〜20フィートはあった----バーよりはるかに大きなリスニング・ルームがあった。



バジー・リンハート:ブリーカー・ストリートの近所に住んでたオレは、ヴィレッジを散歩していて、店の前を通りかかったら、中は満員だった。「何かやってるの?」って訊いたら、「ボブ・ディランの誕生パーティーだ」って言うから、中に入ったんだ。カメラを持ってりゃよかったな。フィル・オークスの隣にはアレン・ギンスバーグが座ってて、その隣にはボブ・ディランがいた。あの晩はベット・ミドラーも来てた。誕生日を祝って曲をプレゼントしたんだよ。ムーギー・クリングマンが店にあった小ぶりのグランド・ピアノを弾いた。ベッド・ミドラーとオレは〈Friends〉を歌い、天才ギタリストのエリオット・ランドールが一緒に演奏してくれた。
 一緒にたくさんジャムったよ。出演してるのが親しい友人だったら、ステージに招かれて演奏に加わえてもらえるような場所だった。午後にしっかりリハーサルをやれば、ステージで特別なことも出来た。



トム・チェイピン:オレは弟のスティーヴと一緒にマウント・エアリーっていうバンドをやってて、アルバムも作ったんだぜ。アルバムが出る時に、スティーヴがどこかでライヴをやるべきだって言い出して、フォーク・シティーへの出演を取り付けてきた。オレとスティーヴに、ボブ・ヒンクル、エリック・ワイスバーグってメンバーだった。マウント・エアリーは無名のバンドだったけど、映画『脱出』(原題『Deliverance』)が封切られて、オレたちは知らなかったんだが、エリック・ワイスバーグが演奏してる〈Dueling Banjos〉がナンバー1になっていた。それで、フォーク・シティーのあるブロックを1周するほど、会場待ちの人の列が出来ちゃったんだぜ(笑)。やる音楽はフォークだっていうのにさ。ある晩には、兄のハリーが来て----'72年のことさ----一緒に演奏してくれた。翌日の晩にはジョン・デンヴァーが来てくれた。たまたまニューヨークにいたんだよ。エリック・ワイスバーグはジョンのレコード全部でプレイしてるし、オレたち兄弟は1、2年前にジョン・デンヴァーのコンサートのオープニングを務めたこともあったから、ラブリーで素晴らしい5日間だった。マウント・エアリーの全盛期は、実際(笑)、あの週のフォーク・シティー公演だったね。1カ月くらいして、エリック・ワイスバーグが言ってたよ。「自分のバンドを持たなきゃなあ」って。ということで始めたのがエリック・ワイスバーグ&デリヴァランスだったのさ。



バジー・リンハート:少なくとも7年間は毎年、大晦日にプレイしてたよ。元日はクラブは休みで、オレは楽屋でギターを片づけていた。どこかの時点で、クラブにはフル・バンド分のギャラを払う余裕がなくなってしまったんだ。最後の数年間は、毎年元旦にマイク・ポーコがきついイタリア語訛でこう言ってたよ。「バジー、オレはとても嬉しいよ。毎年、クラブを失う寸前になっているが、お前が大晦日に来て、ピンチを救ってくれる」って。いい奴だったなあ。

ハッピー・トラウム:ガーディーズがヴィレッジの他のフォーク・クラブと違ってたのは、酒を出してたことだ。コーヒーだけじゃなくてね。ガスライトはコーヒーやアイスクリームの類だけだった。ストリートから人を引っ張り込み易いってことで、元コーヒーハウスが変身してフォーク・クラブになったところが殆どだった。

トム・パクストン:ガーディーズに出演することで箔がついたんだ。つまり、プロってことさ。今でも覚えてるけど、マイクは週6晩で最低賃金の90ドルを払ってたよ。金曜と土曜には3ショウ、他の日は2ショウをやったから、なかなかのハードワークだったけどね。

ハッピー・トラウム:ここに出演したってことは、ヴィレッジのシーンの輪の中に入ったってことさ。ここはしばらくの間はとても重要な会場だった。月曜夜のフーテナニーは、エージェントやマネージャー、レコード会社重役、コンサート・プロモーターの集まる場所になったんだ。こうした連中が、突然、先を争って来るようになって、ツアーやレコードの契約が出来そうな奴を物色していた。アルバート・グロスマンやジャック・ホルツマン、メイナード・ソロモン等、フォーク・ミュージックのビジネス・サイドのほうにいた連中と会うのも珍しいことじゃなかった。それから、ジャーナリストもさ。ロバート・シェルトンはいつもいた。しばらくの間は、食肉市場みたいな状態だった。新作を試してみる場所というよりは競争の場になっていた。

デヴィッド・ブロンバーグ:4丁目にあった店のほうが重要だった。プレイするのに重要な会場だった。



トム・パクストン:間もなく、ビター・エンドがピーター・ポール&マリー等のアクトがキャリアを開始する場所になった。マイク・ポーコより多額のギャラを平気で払っていたし。だから、フォーク・ミュージックの粒よりのパフォーマーがそこで演奏していたのは、非常に短い期間だった。マイクはギャラをそんなにたくさんは払えなかったんだ。

ジュディー・コリンズ:イジー・ヤングのフォークロア・センターと同様に、社交センターになってたわね。皆が集まる場所。ヴィレッジには素敵なクラブがいくつかあって、皆がなんやかんやの用事でそこに通ってたわ。ここは、あらゆる種類の作家や歌手、変人(笑)、クレイジーな人、全員が集まるとても社交的な芸術コミュニティーだったわ。エキサイティングな場所で、音楽を聞きに行くには素敵なところでした。私はそんな環境で成長したの。


The original article "Musicians Recall Dylan's First Big Gig and 25 Years of Music History at Gerde's Folk City" By Frank Mastropolo
http://bedfordandbowery.com/2017/09/musicians-recall-dylans-first-big-gig-and-25-years-of-music-history-at-gerdes-folk-city/


参考資料:Popspotsによる写真検証のページ
http://www.popspotsnyc.com/gerdes_folk_city/


追加情報:今月に入って入ってきたニュースですが、何と、ガーディーズがチェルシー・マーケットの地下で再開されるらしいですよ。ニューヨークを訪れる音楽ファンのための新たな観光名所になるかどうか、様子を見守りましょう。

http://www.brooklynvegan.com/legendary-nyc-venue-gerdes-folk-city-returning-in-chelsea-market/




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2017年10月15日

《Trouble No More》:予習(3) 1980年9月〜81年11月

 2004年に出版された音源集大成本『Tangled』では、「ディランのキャリアの中で最もデータが混乱しているのが《Shot Of Love》のレコーディングである。2カ月以上に渡ってロサンゼルス・エリアの複数のスタジオで行なわれているという事情に加え、レコーディング・シートがしっかり揃っていないのだ。マイケル・クログスガード(正しい発音不明)、クリントン・ヘイリン両氏がテープ・ボックスや契約書類にアクセスしているが、どちらの調査にも欠損がある」と書かれているのですが、両氏の「アクセス」というのは今から25年も前に行なわれたもので、あれから調査も研究も進んでいます。先週届いたISIS 194号に掲載されていたヘイリンのインタビューには面白いことが書いてありました:

・ボブはサンタモニカのリハーサル・スタジオを1977年から5年間のリース契約で借りていて、固定バンドとともにそこに毎日入って、ベースメント・テープス期のように、自由気ままに歌いたい曲を歌っていた。
・《Shot Of Love》のレコーディングでは、マルチトラック・テープと、それをミックスした2トラック・テープと、スタジオ内の音をライヴでずっと拾っていた2トラック・テープ等、さまざまな段階のテープが存在。
・25年前のクログスガードの調査では、リハーサルのテープとレコーディングの諸テープをしっかり区別しなかったためにデータの混乱を招いてしまった。
・ボブは〈Ptoperty Of Jesus〉を16回演奏したのではなく、16種類のミックスを作った。


 まあ、四半世紀前のヘイリンの調査も同様なんですけどね。ここまで言ってるからには、11月に出るヘイリンの新著『Trouble In Mind』では、このあたりのデータも正されているのでしょうか。この本が拙宅に届くのは《Trouble No More》より後になりそうですが…。
 ちなみに、ヘイリンは調査結果を『The Recording Sessions 1960-1994』として発売し、クログスガードはThe Telegraph誌、The Bridge誌で発表し、当時はクログスガードの記事のほうがはるかに高く評価されました。現在、クログスガードの調査結果はここに掲載されています。

   
1980年9〜10月ランダウン・スタジオ
D4-10. Caribbean Wind (Rehearsal 09-23-1980)
D4-03. Making a Liar Out of Me (Unreleased song 09-26-1980)
D4-15. Every Grain of Sand (Rehearsal 09-26-1980)
D4-04. Yonder Comes Sin (Unreleased song 10-01-1980)
D4-07. Rise Again (Unreleased song 10-16-1980)

 9月23日、ボブのピアノ、フレッド・タケットのギター、ジェニファー・ウォーンズのバック・ヴォーカル(プラス犬)で演奏された〈Every Grain Of Sand〉は《BS 1-3》に収録されていました。それとは確実に違う演奏が《Trouble No More》で聞けることになるのでしょう。
 D4-03も超楽しみな曲の1つでしたが、10月11日に先行公開されました。


1980年秋ツアー
D2-15. Caribbean Wind (11-12-1980)
D2-14. The Groom's Still Waiting at the Altar (11-13-1980)
D3-14. City of Gold (Unreleased song 11-22-1980)
D4-08. Ain't Gonna Go to Hell for Anybody (Unreleased song 12-02-1980)

 1980年11月のフォックス・ウォーフィールド公演にはロジャー・マッギン、マイケル・ブルームフィールド、ジェリー・ガルシア、マリア・マルダー等が日替わりゲストとして飛び入り参加していることで有名ですが、D2-14ではカルロス・サンタナが飛び入りしてます。マイケル・ブルームフィールドが飛び入りした〈The Groom's Still Waiting at the Altar〉はブルームフィールドの《From His Head to His Heart to His Hands》に収録されました。
 〈City Of Gold〉に関しては、拙ブログではこんな話↓を紹介しています。

ザ・ディキシー・ハミングバーズ〈City Of Gold〉秘話
http://heartofmine.seesaa.net/article/439253997.html

 デヴィッド・グリスマンが飛び入りしてマンドリンを弾いてる12月4日の〈To Ramona〉も収録して欲しかったなあ。グリスマンはボブにマンドリンのレッスンをしたのですが、レッスン料は未払いのままだとぼやいてます(『If You See Him Say Hello』で読めます)。

   
1981年3〜5月《Shot Of Love》レコーディング
D4-12. Shot of Love (Outtake 03-25-1981)
D4-11. You Changed My Life (Outtake 04-23-1981)
D4-14. Dead Man-Dead Man (Outtake 04-24-1981)
D4-09. The Groom's Still Waiting at the Altar (Outtake 05-01-1981)
D4-13. Watered-Down Love (Outtake 05-15-1981)

 前2作はどちらも1週間程度で一気にレコーディングしていますが、《Shot Of Love》はロサンゼルスのスタジオを渡り歩きながら、3カ月もだらだら作業をしています。フレッド・タケットによると、最新設備のあるスタジオではなくヴィンテージな響きのところを探していたのですが、ボブの気に入る場所はなかなか見つからなかったのだとか。未発表トラックが大量に残され、《The Bootleg Series Vol.1-3》やシングルB面、ブートレッグにネタを提供しました。正規筋からだけでも、これまでに次の曲がリリースされています:

3月26日〈Angelina〉
3月31日〈Caribbean Wind〉
4月23日〈You Changed My Life〉〈Don't Ever Take Yourself Away〉
4月27日〈Need A Woman〉
5月1日 〈Let It Be Me〉


 ただし、記事の最初の方で紹介したヘイリンのインタビューによると、リハーサルのテープとレコードを作るつもりで行なったセッションのテープが混同されていると思われるので、《Trouble No More》をきっかけにデータがしかるべき状態で整理され、ライヴ以外のテープを中心としたアルバムのリリースが望まれます。

   

1981年5〜6月ランダウン・スタジオ
 ヨーロッパ・ツアーに向けたリハーサルが行われているはずなのですが、今回のアルバムではこの時の音源は収録されないようです。
1981年アメリカ小ツアー
D2-12. Watered-Down Love (06-12-1981)

 《Shot Of Love》のレコーディング終了後、ヨーロッパ・ツアーの直前に、4公演が行なわれています。
1981年ヨーロッパ・ツアー初日
D2-11. Dead Man, Dead Man (06-21-1981)

1981年6月27日ロンドン公演
D7-01. Gotta Serve Somebody (06-27-1981)
D7-02. I Believe In You (06-27-1981)
D7-03. Like A Rolling Stone (06-27-1981)
D7-04. Man Gave Names To All The Animals (06-27-1981)
D7-05. Maggie's Farm (06-27-1981)
D7-06. I Don't Believe You (06-27-1981)
D7-07. Dead Man-Dead Man (06-27-1981)
D7-08. Girl From The North Country (06-27-1981)
D7-09. Ballad Of A Thin Man (06-27-1981)
D8-01. Slow Train (06-27-1981)
D8-02. Let's Begin (06-27-1981)
D8-03. Lenny Bruce (06-27-1981)
D8-04. Mr. Tambourine Man (06-27-1981)
D8-05. Solid Rock (06-27-1981)
D8-06. Just Like A Woman (06-27-1981)
D8-07. Watered-Down Love (06-27-1981)
D8-08. Forever Young (06-27-1981)
D8-09. When You Gonna Wake Up (06-27-1981)
D8-10. In The Garden (06-27-1981)
D8-11. Band Introductions (06-27-1981)
D8-12. Blowin' In The Wind (06-27-1981)
D8-13. It's All Over Now, Baby Blue (06-27-1981)
D8-14. Knockin' On Heaven's Door (06-27-1981)

 ロンドン6公演のうち、一番曲数が少なかった2晩目の公演がCD7枚目&8枚目に収録されるようです。珍曲としては、7月1日ロンドン公演最終日に〈Here Comes The Sun〉を歌ってるのですが(もちろんビートルズの曲です)、本当に思いつきだったようで滅茶苦茶。さすがに、これは収録されませんでした。



 そういえば、コンサートで歌ってるのに収録されなかった曲には、ディオンのナンバーとして有名な〈Abraham, Martin & John〉もあります。銃弾で亡くなった人物----リンカーン、キング牧師、ケネディー大統領----へのトリビュート・ソングですが、1980年秋のツアーから歌い始めた曲なので、特にジョン・レノン追悼という意味はないようですが…。1981年に3回演奏されている〈Let It Be Me〉も今回は未収録です。オリジナル曲ではないからでしょうか。
1981年ヨーロッパ・ツアー続き
D2-01. Slow Train (06-29-1981)
D1-04. When You Gonna Wake Up? (07-09-1981)
D2-03. Gotta Serve Somebody (07-15-1981)
D3-13. Jesus Is the One (Unreleased song 07-17-1981)
D2-10. Shot of Love (07-25-1981)



 7月10日オスロ公演、7月25日アヴィニョン公演はボード音源でお馴染みのコンサートです。
1981年秋アメリカ・ツアー
D2-13. In the Summertime (10-21-1981)
D2-07. Solid Rock (10-23-1981)
D3-15. Thief on the Cross (Unreleased song 11-10-1981)
D2-16. Every Grain of Sand (11-21-1981)

 秋のアメリカ・ツアーでは11月10日ニューオリンズ公演はSBDテープが出回っており、〈Heart Of Mine〉は《Biograph》に、〈Dead Man Dead Man〉は《Live 1961-2000》に収録。11月12日ヒューストン公演もボード音源が出回っています。
 1981年のアメリカ・ツアーに関しては、当ブログで実際にコンサートを見た人のヴィヴィッドな思い出話「1981年秋、ゴスペル期最後のツアー」を紹介しています。
 さあ、あと3週間ほどでリリースです。超楽しみです。

追記:10月16日にゴスペル・ツアー最終日(1981年11月21日フロリダ州レイクランド)の〈Blowin' In The Wind〉の動画が1分だけ公開されました。DVDに入るんですかね?




   

posted by Saved at 11:54| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

《Trouble No More》:予習(2) 1979年5月〜1980年5月

 さて、本題のゴスペル期に入ります。《Trouble No More》収録曲を古い順に並び替えてみるという試みの続きです。
《Slow Train Coming》レコーディング・セッション
D3-08. Trouble in Mind (Outtake 04-30-1979)
D3-07. Ain't No Man Righteous, No Not One (Unreleased song 05-01-1979)
D3-09. Ye Shall Be Changed (Outtake 05-02-1979)
D3-05. Gotta Serve Somebody (Outtake 05-04-1979)
D3-06. When He Returns (Outtake 05-04-1979)
 「D3-08」は「Disc 3の8曲目」という具合に読んでください。

 基本的なセッションは4月30日〜5月4日に行なわれ、オーバーダブ・セッションは5月4〜11日に行なわれました。演奏がゆるゆるな《Desire》《Street Legal》と比べたら、カシッとしたサウンドなので、時間をかけてきっちりプロデュースしたものと思いきや、《Desire》より短時間で仕上げちゃってます。拙ブログでは8月にこんな記事を掲載しました:

ボブ・ディランのマッスル・ショールズ・セッション秘話
http://heartofmine.seesaa.net/article/452898769.html

 〈Ye Shall Be Changed〉は、以前《Biograph》で発表されたものも収録日が同じなのですが、同じ演奏ではなく、テイク違いであることを希望します。全体的に言えることですが、《Trouble No More》はスタジオ・レコーディングの部分が量が足りないです(実際に聞いたら別の意見を持つかもしれませんが…)。せめて、完成盤に収録されている曲1つ1つに対して、少なくとも1つはスタジオ・アウトテイクを収録してもらいたかったなあ。

1979年8月《Slow Train Coming》発売



1979年9〜10月ツアー・リハーサル
D3-11. Stand by Faith (Unreleased song 09-26-1979)
D3-04. Gonna Change My Way of Thinking (Rehearsal 10-02-1979)
D4-01. Slow Train (Rehearsal 10-02-1979)
D4-02. Gotta Serve Somebody (Rehearsal 10-09-1979)

 ホーン・セクション入りだというD4-01、02に注目。ゴスペル期のボブのアシスタントだったデイヴ・ケリーは、こんなことを言ってるのです:
 その時点ではメンバーはもっと多かったんだけど、途中で何人か減ったね。最初は4〜5人のホーン・セクションもいたんだよ。有名なホーン・プレイヤーのジム・ホーンや、もっと有名なロサンゼルスのセッション・メンとかね。ステージの一方にはホーン・セクション、もう一方には女性シンガーたちを配す予定だったんだ。パーカッショニストのラス・バブーもいた。彼はジャクソン・ブラウンのギタリスト、デヴィッド・リンドレー等、多数のレコードに参加している奴だ。いろいろと変なことをやってたね。ソースパンのふちを叩いたりとかさ。本物のパーカッショニストだ。リハーサルではこんなことがあったんだ。ツアーに出る約1週間前に、ボブはこんなふうにソファーに座っていて、急に「ホーン・セクションや女性コーラスについて、君はどう思う?」なんて言い出したんだ。びっくりしたよ。「両方は雇えないよ。財政的にばかにならない」って言っていた。たしかに10人も余計にいるわけだしね。どう言ったらいいのかわからなかったんだけど、「女性コーラスがいるおかげでサウンドが豊かになっているが、ホーン・セクションはあまり活躍してない」とだけ答えておいた。で、次の日スタジオに行ったら、ホーン・プレイヤーはいなかった。ボブが私の意見を聞いてそう決意したとは思わないけど、ゾッとしたよ。自分の発言に気をつけた方がいいと思ったね。ボブは人の意見を聞くんだよ。ただし、先に自分でどうするか決めてると思う。ツアー中も、私だけでなく他の多くの人ともそんなことがあった。こっちに自分の意見を振ってきて、それに確信が持てたら実行に移すんだよ。

 インタビュー全体はここをを参照してください:

ゴスペル期アシスタントが語るディラン
http://heartofmine.seesaa.net/article/298295287.html

 ツアーのリハーサルからギタリストとしてバンドに加わったフレッド・タケットのインタビューはこの本↓に掲載されています。1999年にポール・バレル&フレッド・タケットとして来日した際に、東急田園都市線沿線の丘の上の隠れ家みたいなライブハウスで話をうかがいました。



1979年10月20日サタデー・ナイト・ライヴ
〈Gotta Serve Somebody〉〈I Believe In You〉〈When You Gonna Wake Up〉

 DVDにはこのシーンは入るのでしょうか? YouTubeの動画を貼ろうと思ったら、10月11日の時点で全然見当たりません(消すなよ!)。
1979年11月1〜16日サンフランシスコ公演
D2-05. Saving Grace (11-06-1979)
D2-09. Pressing On (11-06-1979)
D1-02. Gotta Serve Somebody (11-15-1979)
D1-01. Slow Train (11-16-1979)
D1-07. Precious Angel (11-16-1979)
D2-04. Ain't No Man Righteous, No Not One (Unreleased song 11-16-1979)

 1979〜80年前半のツアーはしばらくの間は人気がなく、アナログ・ブート時代は《History》という20枚組の箱物に11月16日の公演が収録されていたのみで(私はレコード屋で1度見たきりで、入手してません。高額だったし)、1980年11月〜翌年のコンサートを収録したアルバムのほうが先に出回っていたくらいです。文字情報として記録されている評判は芳しくないし、音源もないしで、1980年代中はまさに「暗黒時代」という扱いでした。ゴスペル・オンリー時代の演奏の再評価が進んだのは、1990年代にCDブート・ブームが到来し、ウォーフィールド公演のオーディエンス録音がリリースされた後なので、極めて最近のことです。
 11月18、19日サンタモニカ公演は抜群な音質のマイク・ミラード音源があるので、特に収録されてなくてもOKです。マイクはレッド・ツェッペリンやローリング・ストーンズのロサンゼルス公演のオーディエンス録音で有名な人で、彼がボブ・ディランのコンサートを録音していたという情報は今までになかったので、ボブの音源発掘は超ビックリでした。ミラード音源については次の過去記事を参照してください:

伝説のコンサート・テーパーの悲しい末路
http://heartofmine.seesaa.net/article/391621874.html

ボブ・ディランの非公式音源流通事情
http://heartofmine.seesaa.net/article/431755220.html

 ツアーは続きます。

D1-08. Covenant Woman (11-20-1979)
D2-06. Blessed Is the Name (Unreleased song - 11-20-1979)
D1-11. Solid Rock (11-27-1979)
D1-12. What Can I Do for You? (11-27-1979)


 1978年のサンディエゴでファンがステージに投げた十字架を拾ったという話をしたのは、11月27日公演です。

1979年11月28日 サンディエゴ(ボーナスCD)
B1-01. Gotta Serve Somebody
B1-02. I Believe in You
B1-03. When You Gonna Wake Up?
B1-04. When He Returns
B1-05. Man Gave Names to All the Animals
B1-06. Precious Angel
B1-07. Slow Train
B1-08. Covenant Woman
B2-01. Gonna Change My Way of Thinking
B2-02. Do Right to Me Baby (Do Unto Others)
B2-03. Solid Rock
B2-04. Saving Grace
B2-05. Saved
B2-06. What Can I Do for You?
B2-07. In the Garden
B2-08. Blessed Be the Name
B2-09. Pressing On
 「B1-01」は「Bonus Disc1枚目の1曲目」と読んでください。

 どうせなら、ボブ登場前に女性コーラスが披露した披露した歌も収録して欲しかったです。CDの収録時間に余裕あるんですから。D7とD8が入れ物として用意された1981年のロンドン公演に関してもしかり。
D1-05. When He Returns (12-05-1979)
D4-05. Radio Spot January 1980-Portland-OR show
D1-13. Saved (01-12-1980)
D1-06. Man Gave Names to All the Animals (01-16-1980)
D1-14. In the Garden (01-27-1980)
D1-10. Do Right to Me Baby (Do Unto Others) (01-28-1980)
D1-09. Gonna Change My Way of Thinking (01-31-1980)

 1980年1月のツアー開始は大雪に見舞われ、日程に変更がありました。例のミラード音源と一緒に1月12日オレゴン州ポートランド公演のテープが発見されたことがきっかけで、当時の状況をよく知る人から情報を得ることが出来て、1月10日にはもともとコンサートの予定はなく、1月11日の公演が16日に延期されたために、12日の公演が1980年のコンサート初日だったことが判明しました(ここ参照)。1月17、18日はオーディエンス・テープが見つかっておらず、失われたショウとなってるだけに、どっちかの公演から1曲ずつでも収録してくれたらうれしかったのですが…。


1980年2月11〜15日《Saved》セッション
D3-10. Covenant Woman (Outtake 02-11-1980)
D3-16. Pressing On (Outtake 02-13-1980)

 コンサートでは既にお馴染みの曲ばっかりなので、レコーディングは短期間で済んでいます。ツアー先からマッスル・ショールズに直行して、いつも演奏していたように演奏したようです。アウトテイク、もっとあるだろうに!(この記事を参照のこと)

1980年2月27日グラミー授賞式

〈Gotta Serve Somebody〉


 これもDVDに収録されるかなあ? ジョン・レノンは日本滞在中にテレビでこのシーンを見て、かつて「リーダーには従うな。駐車メーターから目を離すな」と歌ってた人が「誰かに仕えろ」と歌っているのでガッカリして、後に返歌として〈Serve Yourself〉を書いたらしいです。
1980年4月17〜20日トロント公演
D5-01. Gotta Serve Somebody (04-18-1980)
D5-02. I Believe In You (04-18-1980)
D5-04. When You Gonna Wake Up? (04-18-1980)
D5-06. Ain't Gonna Go To Hell For Anybody (Unreleased song 04-18-1980)
D6-01. Slow Train (04-18-1980)
D6-04. Saving Grace (04-18-1980)
D6-09. Pressing On (04-18-1980)
D3-12. I Will Love Him (Unreleased song 04-19-1980)
D5-03. Covenant Woman (04-19-1980)
D5-07. Cover Down, Pray Through (Unreleased song - 04-19-1980)
D5-08. Man Gave Names To All The Animals (04-19-1980)
D5-09. Precious Angel (04-19-1980)
D6-05. What Can I Do For You? (04-19-1980)
D6-07. Band Introductions (04-19-1980)
D6-08. Are You Ready? (04-19-1980)
D5-05. When He Returns (04-20-1980)
D6-02. Do Right To Me Baby (Do Unto Others) (04-20-1980)
D6-03. Solid Rock (04-20-1980)
D6-06. In The Garden (04-20-1980)

 トロント公演は正式にレコーディングされ、ビデオ撮影もされました。《Solid Rock》というタイトルのライヴ・アルバムを作ろうとした意図があったのですが、ボツになったようです。20日の公演を収録した高画質、高音質のビデオは四半世紀前あたりから広く流布してます(もっと画質の良い状態でDVDに収録されるのでしょうか?)。



 4月20日に楽屋を訪問したロニー・ホーキンスによると「黒人女性がディランの後をついて回って、聖書を手にしながら神を讃えていた」そうですが、フレッド・タケットによると「それはクライディー・キング(バックvo)のことじゃないかなあ」とのことです。
D2-02. Ain't Gonna Go to Hell for Anybody (Unreleased song 04-24-1980)
D2-08. Are You Ready? (04-30-1980)
D4-06. Cover Down, Pray Through (Unreleased song 05-01-1980)
D1-03. I Believe in You (05-16-1980)

 キリスト教ネタの曲「しか」演奏しなかったゴスペル・ツアーは5月21日オハイオ州デイトン公演で終了です。1980年11月のサンフランシスコ、ウォーフィールド公演からは「昔の曲」も含むセットリストになりました。(次回に続く)


   
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