2017年10月26日

ラッツォという名の男

 ローリング・サンダー・レヴューの追っかけ取材をして『On The Road With Bob Dylan』を書いた人を紹介したおもしろ記事を発見したので紹介します。この人が担当したマイク・タイソンやアンソニー・キーディスの本は邦訳が出てるのに、ボブの本が出てないのは残念です。サム・シェパードの本のほうは出てるのに。




ラッツォという名の男
〜ボブ・ディラン、アービー・ホフマン、ハワード・スターン、マイク・タイソンと交流したクイーンズ生まれの男〜

文:デヴィッド・ハーシュコヴィッツ



 1975年11月8日、ヴァーモント州バーリントン市にあるシェルバーン・インの敷地内でラリー・スローマンは悟った。スローマンは格好はボロボロ、臭いのほうもそれ相応の状態でホテルに車を横付けしたが、ボブ・ディランのローリング・サンダー・レビュー一行は部屋を引き払い、今や皆でバレーボールの試合に興じているところだった。スローマンはローリング・ストーン誌からディランのコンサート・ツアーの記事を書くという任務を仰せつかっていた。殆ど寝ずにドラッグ満タン状態で車でツアー・バスを追いかけたり、いかがわしいバーで閉店まで酒を飲んだり生活が、体に応え始めていた。スローマンはクリーンナップの期限をはるかに過ぎていた。
 ディランがツアー活動を再開したことは、1975年には大ニュースだった。ボブは元恋人のジョーン・バエズと仕事上で縒りを戻し、ランブリン・ジャック・エリオットやジョニ・ミッチェル、ロジャー・マッギン、アレン・ギンズバーグ、サム・シェパードといったキャスト陣と撮影クルーを集めて、映画『レナルド&クララ』を撮影していた。この映画は完成してみたら4時間もの長さになっており、限られた場所でしか上映されず、レビューは散々。訴訟の後遺症で永久にお蔵入りになってしまった。比較的小さな会場でプレイしながら、殺人の廉で服役しているルービン・「ハリケーン」・カーターの釈放を嘆願するというコンセプトでディランとクルーは巡業をしていたのだが、最後の最後の瞬間まで会場を秘密にしておくという神出鬼没のツアーだったので、マスコミは当然、事の成り行きに関して出来る限りたくさんの情報を欲しがっていた。
 スローマンはツアーを取材していいという誘いをディランから個人的に受けていた。ディランとはフォーク・ロック・シーン時代からの知り合いだったのだが、ツアーが始まってみると、ディラン本人から招待されていたにもかかわらず、マネジメントのほうはあまり協力的でないことがわかった。実際、インサイダーでもありアウトサイダーでもあるという立場のせいで、スローマンはツアー一行にとっては、気まぐれディランが自分たちに押しつけてきた邪魔者、必要悪という特別なカテゴリーに入れられてしまったのだ。スローマンは後に、この歴史的ツアーを多少誇張気味にリアル・タイムでレポートした『On the Road With Bob Dylan』の中で「オレはジョークのオプションになってしまった」と書いている。まさに、報道許可証{プレスパス}を持った「いけ好かない野郎」と思われていたのだ。
 ある日、ジョーン・バエズは衛生上問題が大ありの格好をしたスローマンが悪臭を放つレンタカーから出てくるのを見たのだが、その姿があまりにむさ苦しく、ドブネズミみたいだったので、周りの仲間にこう叫んだのだ:「ねえ、ラッツォがいるわよ」 もちろん、『真夜中のカウボーイ』の中でダスティン・ホフマンが演じた借り物の時間の中で生きている服がボロボロのホームレスの男のことを言っていた。
 そうとわかってたスローマンだが、わざと「オレのことをラッツォって言ったのは、ダスティン・ホフマンに似てるからかい?」と訊くと、ジョーンは言った:「違うわよ。ラッツォ・リッツォみたいだからよ」



 まさにその時だった。自分のアイデンティティーはこれで決まりだと、スローマンが悟ったのは。
 「オレはラッツォだったのだ」とスローマンは書いている。「オレはそれに気づいたのだ。ハイウェイ沿いのホテルとは名ばかりのところで、大量のパンチをうまく受けながら、傷をなめながら、ほつれた夢をボロボロのスーツケースの中に詰めながら。いいじゃないか。所定のやり方でツアーの取材が出来ないのなら、ファンでもあり物書きでもあり薬屋でもあり道化師でもある、スピリチュアルなマスコットのような存在になろうじゃないか」



 あれから40年以上を経ているが、スローマンのフェイスブック・ページに掲載されている数々の写真は、この特技がいかに功を奏してきたかを示している。マイク・タイソンとルディー・ジュリアーニの間に挟まれている写真。ニック・ケイヴとのツー・ショット。1980年代にチャールズ・ブコウスキと一緒に撮った写真。B・B・キングの店の楽屋でキンキー・フリードマンと。ニューヨーク・レンジャーズのメンバーと。そして、ハワード・スターンやボブ・ディラン、アンソニー・キーディス、デヴィッド・ブレイン、ジョージ・ロイス、レナード・コーエン等と。さらに多くの人物との写真があってもおかしくない。ニューヨークで暮らしているマスコミ関係者で、スローマンと同じくらい数多くのパーティーに行ったことのある人なら、ソーシャル・メディア的な意味での「フレンズ」----そのようにお膳立てされたイベントでちょっとスナップショットを撮影した人----と一緒に写ってるこうした写真を山ほど持っていることだろう。しかし、スローマンの場合は事情が違う。スターンやタイソン、キーディス、ブレインと本を書いただけでなく、彼のありえないような内容の履歴書にはハイ・タイムズ誌やナショナル・ランプーン誌の編集長という経歴もある。ショウビズ界の超大物たち、文化的権威、ノーベル賞受賞者がこぞって「ラッツォ」と呼ばれる68歳の男の大親友なのだ。もはやクイーンズ地区のユダヤ系中流家庭に生まれた少年でも、汚い身なりであくせく生きている男でもない。「ラッツォ」は時空を超越した存在なのだ。



 「オレの親父はドアのノックの音に常にビクビクしているようなユダヤ人だった。ナチスが復活するのを恐れてたんだよ。音を立てるな、静かにしてろ、注意を引くな、っていう感じだった」 一家は名前をスロニムスキーからスローマンに変えた。スローマンは学校では良い成績を修めて両親を納得させておき、その裏でこっそり、カウンターカルチャーへの興味も満たすという戦略を取った。成績さえ良ければ、万事OKだったのだ。イースト・ヴィレッジでは既にヒッピー・シーンが始まっており、その魅力はどんどん大きくなっていった。「かなり一貫性のない人生を送ってたね。一方では、余剰品のアーミー・ジャケットを着て、髪を長くして、ヴェトナム戦争に反対するデモ行進に参加して、体制に対して出来る限り反抗していたんだけど、他方では、クイーンズ・カレッジのΦΒΚに属している成績超優秀な学生だったんだ」 クイーンズ出身の好奇心旺盛な少年には吸収すべきものがたくさんあった。物書きの才能を教師たちから注目されていた彼は、当然、エド・サンダース・ピース・アイ・ブックストアやイースト・ヴィレッジ・アザーのオフィスに引き寄せられていった。後者はカウンターカルチャーの様子や、アービー・ホフマン率いる急進的政治集団、イッピーの派手な活動を随時報道していたアングラ新聞である。
 スローマンはホフマンについてはこう語る:「あいつはオレが人生のお手本にしたユダヤ人の第1号だった。それ以前は、お手本といったらレンジャーズのミッキー・マントルやアンディー・バスゲイトとか、スポーツ選手ばかりだったけど、突然、社会に反逆するユダヤ人がオレのヒーローになったんだ。オレが見たことのない類のユダヤ人だった。クイーンズ地区のユダヤ系の友人の誰とも違ってたよ」
 そして、スローマンはふたりが最初に出会った時の話を始めた。スローマンはホフマンから言われた:「来い。これからウォール・ストリートに行くんだ。これを記事にしろよ」
 証券取引所にヒッピーの一団が到着した。ホフマンを先頭にして彼らがドアから入ろうとすると、警備員に止められ、「どちらにご用ですか」と訊かれた。
 「見学者用ギャラリーです」とホフマンが答えたが(ここから取引の様子が見える)、警備員から「皆さんは入れません」と言い返されたので、ホフマンはこう言った:「お前は、オレたちがユダヤ系だから入れないって言うんだな」
 話の締めくくりをスローマンはこう語る:「警備員が「そ、そういうわけじゃないんですが…」というと、連中はこいつの後をついてギャラリーに行った。そして、ホフマンと一味の連中は取引場の上からドル札の雨を降らせて、歓喜の雄叫びを上げた。ブローカーたちは床を這いずり回って札を集めてたよ。そして、外でアビーが地元紙のインタビューに答えていると、パトカーのサイレンが聞こえてきた。オレが超感銘を受けたのが次のところさ。サイレンが聞こえてくるやいなや、アビーはキャブを呼び止めて乗り込み、後に残した連中に警察の相手をさせておいたんだ。オレたちはイースト・ヴィレッジにあるアビーのアパートメントに直行して、その晩のニュース・リポートを見た。もう、畏敬の念を抱いたね」


 
 スローマンは「真面目過ぎ」かつ「バランスを取るのがあまりに上手」だったために、ヒッピー・ムーヴメントにチューン・インすることも学校をドロップアウトすることもなかった。軍隊に徴兵されるようなリスクを進んで冒すこともなかった。彼は1年間、VISTA(貧困地区奉仕団)に参加した後、奨学金を得てマディソンにあるウィスコンシン大学社会学部に進学し、社会的逸脱行為と犯罪について学んだ。スローマンは修士号を獲得したが、学者として生きていくつもりはなかった。カウンターカルチャーはまだまだ強力で、音楽は当時の政治への主な窓口だった。スローマンは学生新聞の音楽担当の編集部員となり、物書きになろうと考え、ローリング・ストーン誌に記事を売り込み始めた。
 ニューヨークに戻ると、街は変わってしまっていた。イースト・ヴィレッジにはスピードとヘロインが蔓延し、トンプキン・スクエア・パークの常連だった人物は、人肉で作ったシチューをホームレスに振る舞った廉で告発された。ヴェトナム戦争は終わった。スローマンはプリンス・ストリートのアパートメントに引っ越した。ここにはジェリー・ルービンが住んでいたのだが、カリフォルニアに引っ越すために引き払ったのだ。
 何人もの友人がドラッグ中毒になり、そのやりすぎの結果、命を落とす者までいた時、スローマンは文化革命の最前線で社会学者のようなやり方で生きた。ライフスタイルにおいてはその洗礼を受けながらも、知的には距離を取っていた。「常にそういう遠慮はあったね。社会から逸脱した連中の世界を覗くようになったけど、その中には入らなかったよ」 片足は地にしっかりつけ、別のほうの足はスペイシーなカウンターカルチャーに突っ込んでるという絶妙なバランスは、スローマンにとって功を奏した。「常に距離を保っていて、社会学的な観点から参加しているオブザーバーになってたよ。頭の中のどこかで親父が言ってるんだ。「お前は逮捕されるぞ。お前は自分の人生を滅茶苦茶にしてるんだぞ」って」 
 ある晩、スローマンはブルース・ギターの名手、マイク・ブルームフィールドに薦められて、キンキー・フリードマン&ザ・テキサス・ジューボーイズのコンサートを見に行った。スローマンがブルームフィールドと会ったのは、マディソンでベン・シドランとテレビの深夜番組を作っている時だった。ブルームフィールド等のゲスト・ミュージシャンにインタビューして、彼らが演じるスキットを書くのが、スローマンの仕事だった。スローマンはカッコイイ同胞には興味を抱いてしまうたちだった。「ブルームフィールドからキンキー・フリードマン&ザ・テキサス・ジューボーイズを見ろって言われたので、マクシス・カンザス・シティーに出演した時に見に行ったのさ。素敵な雰囲気だったよ。ステージ上にいる奴らが気の利いたセリフを言いながら互いを罵りあっていた。それが連中お得意のネタだったんだけどね。そのうち、オレもその気になって、イディッシュでヤジを飛ばしたり、「〈Tea for Tsuris〉をやれ!」などと、カントリー・ソングをリクエストしたりした。ショウが終わった後、「ブルームフィールドがよろしく言ってたよ」と伝えるためにバックステージに行って、実際にそうしたら、ロード・マネージャーをやってるブルームフィールドの弟から「ヤジを飛ばしたのお前だろ? 最高のヤジだったよ。キンキーに会いに来い」と言われたんだ。それから後の話は皆が知っての通りさ」



 まさに、フリードマンの書いた探偵小説シリーズに登場する人物として「ラッツォ」を知る多くの人の頭の中でリンクしているのは、当時のスローマンとフリードマンである。スローマンが実生活において実の母親を捜そうとしていたことは、フリードマンの『God Bless John Wayne』の筋にもなっている。スローマンの両親はどちらもマンハッタンで暮らすアシュケナージ系ユダヤ人であり、父親は衣類メーカーのセールスマンで、母親は帳簿係だった。スローマンは幼い頃に母親から----父親は大変悔いることになるのだが----お前は養子なんだと告げられた。父親が1992年に亡くなった後に書類を調べたところ、本当の両親もユダヤ人であることが判明した。最近行なったDNA検査で明らかになったのは、98.5%南ヨーロッパ系だということだった。「29%イタリア系で、40数%バルカン系だったんだ」 彼はショックを受けた。「最初、オレは思った。自分はユダヤ人じゃないのかも。だとしたら、今までのことは全部、見せかけだったってことじゃねえか!って」 オレはすぐに「バルカン系ユダヤ人」てググったよ。そしたら、どうやら、スペイン系ユダヤ人は皆、スペインから追い出された後、バルカン半島やイタリアに行ったらしい。全然知らなかったよ。ということは、オレはスペイン系ユダヤ人てことだ!」



 ディランの本を出した後、スローマンはマリファナの文化史に関する『Reefer Madness』を書いた。その後、1982年には『Thin Ice: A Season in Hell with the New York Rangers』を出した他、ハイ・タイムズ誌やナショナル・ランプーン誌の編集部員、映画出演、ジョン・ケイルとの作曲等の活動をしている。



 しかし、スローマンが有名な存在になったのは、1990年代に『Private Parts』に関与したことがきっかけだった。この頃、ハワード・スターンはマスコミで最もホットなキャラクターになっていた。ラジオ番組のおかげで彼は一般大衆にとってはスターに、性的な冗談や遠慮のない意見に異を唱えるモラリストたちにとっては悩みの種となった。何百万もの人が彼の朝の番組にダイヤルを合わせていた。スローマンも最初はそうしたリスナーのひとりであり、彼が台本を書く仕事場では必ずスターンの番組が流れていた。「毎日、オフィスの席に座ってハワードの番組を聞いてたよ。ある日、ハワードが本を書きたいって話してたんで、その本、オレが担当したいよって言ったんだ」 スターンの代理人を知ってたスローマンのライティング・パートナーが、スターンのスタッフに話を持ちかけた。「ライターの名前はラッツォだ」と聞かされたスターンのマネージャーは、「ラッツォか。いいじゃないか」
 ラッツォはゴーストライターになる予定で、スターンの資料に目を通していた。「1年間に渡って本の作業をしてたんだけど、1年間、毎日、ハワードは放送で「ロビン、ラッツォが来てくれて本を書いてくれてるんだ」と言ってたよ」



 スターンはラッツォをからかいながら、本の宣伝もしていたのだ。ラッツォは番組のキャラクターになり、スターンと一緒にナンセンスなコメントを作るために呼ばれるようになった。この本はナンバー1ベストセラーになった。
 スローマンは名声を得た。そんなに大金が転がり込んできたわけではないが、ラッツォはPCリチャーズのセールスマンや地元のイタリア料理店からVIP待遇をしてもらえるくらいには有名になった。ハワード・スターン・ショウに出てたラッツォ? でしたら、そのコンピューターなら別の支店に在庫がございますよ、お取り寄せいたしましょう。ハワード・スターン・ショウに出てたラッツォ? もう店仕舞いの時間なのですが、あなたのために何か特別にご用意いたしましょう。

 そして、次がマイク・タイソンだ。
 「あいつが口を開くたびに、こっちはうっとりさ。創造性と生まれながらの頭の良さという点で、あいつは殆どのスポーツ選手より数段上だった。いい本になると思ったよ。検閲はなし。そのままだ」
 1992年に、タイソンは強姦の廉で有罪となっている。「オレは本能的に、あいつはあの女性をレイプなんかしていないって感じたんで、獄中のタイソンに手紙を書いたんだ。「こんなことで負けないでください。私が自分の人生の辛い時から抜け出すのを助けてくれた本を同封します。ニーチェの自伝『この人を見よ』です」って。こうも書いておいた:「きっと気に入っていただけると思います。私はハワード・スターンの本を書き終えたばかりです。もし、あなたが自伝を書く作業を私に手伝わせたいと思ったら、連絡をください」って。でも、返事はなかったなあ」
 数年後、タイソンのチームは彼に自分の人生を語らせることにしたのだが、その仕事をすぐにラッツォには回さず、まずは15人のライターをオーディションした。「オレは面接部屋に座り、仕事のやり方を説明した。最後の2人にまで絞り込まれた時、スタッフはオレたちを飛行機でロスに連れてって、マイクに会わせたんだ。フォー・シーズンズ・ホテルで面会ってことになって、初対面の時にオレは言ったんだ。「あなたはいい人{ナイスガイ}だって聞いてます。私の妻が、昔、タトゥーズ[タイソンがよく通ってたナイトクラブ]で働いていて、あなたからチップを100ドルもらったって言ってました」って。そしたら、マイクは「ああ。オレが金を持ってた頃の話だ」って言うんで、オレは言ったんだ:「覚えているかどうかわかりませんが、私はあなたが服役してる時に、ニーチェの自伝を送ったんです」って。そしたらマイクの反応は「あの本、覚えてるぜ! ニーチェって面白い奴だなあ。1900年に死んだんだろ。最初にセックスした時に梅毒もらって、晩年には気が狂っちまったんだってな」だった。
 面接が終わってラッツォは部屋を出ようとしていた。「ドアのところまで来たら、マイクから声をかけられた。「ヘイ、ラッツォ。どうしてオレにあの本を送ってくれたんだい? オレが超人だとでも思ったのかい?」って。オレはこう答えた。「いや。マイク、あの本を送ったのは、落ち込んでるんじゃないかと思ったからです。あの本を読めば少しは元気になれるんじゃないかと思ったんですよ」と。そしたら、マイクは言った。「ありがとな、ラッツォ」 その日はそこまでだった。まあ、結局、オレは雇ってもらえたんだけど」



 次の幕は、スローマンにとって人生が一周した出来事だ。1990年代前半に書いた脚本から映画が制作されたおかげで、映画俳優組合から年金がもらえることになったのだ。スローマンの本『The Secret Life of Houdini: The Making of America's First Superhero』をもとにして、現在、新たに映画が制作されてもいる。アメリカのスパイであるマジシャンが、自分の努力奮闘のせいで殺されてしまうという話だ。しかし、何にも増してスローマンがワクワクしているのは、新たに音楽のキャリアも始まったことだ。「一番興奮したことの1つが、1980年代にジョン・ケイルと曲を作ったことだ。オレは歌詞を書いたんだ。本を出して、それがバーンズ&ノーブルの店頭に並ぶのは当たり前だ。でも、ボトムラインでジョン・ケイルがオレの書いた歌詞を歌うのを聞いた時には、マジで背筋がゾクゾクしたよ。ディランのツアーが終わった後、曲を書き始めたんだ。それを自分で歌うなんて思ってもいなかった。自分ていう概念すらなかったし」



 しかし、イースト・ヴィレッジにあるKGBバーでレイディオ・アワーというショウをやってる間に、全てが変わり始めた。「マーク・ジェイコブソンと一緒にショウをやるようになって、ブルックリンのいろんなインディーズ・バンドとコネが出来たんだ」 特に意外なことではないが、このショウが当たり、スローマンはケイジド・アニマルズのヴィン・カッチョーネ等、音楽シーンの人たちと交流するようになり、彼が歌詞を書いたケイルの名曲〈Dying on the Vine〉をレコーディングしたらと、カッチョーネから勧められたのだ。「まだ自信はなかったんで、伝説的プロデューサーのハル・ウィルナーに歌を聞かせて、感想を訊いたんだ。そしたら、「ラッツォ、何を待ってるんだい?」だって。『The Art of the Schnorr』(「間抜けの技術」の意)というタイトルになる予定の本のためのリサーチをしていことをジョークのネタにしている人物にふさわしく、スローマンは曲を2つ備蓄していた。「ケイルにはあげなかったんだ。オレの取り分がたった40%だって言うからさ」 スローマンはこの曲をずっと手元に持っていた。現在、スローマンは組んだばかりのバンドと数回、ショウケース・ギグを行ない、友人であるニック・ケイヴとデュエットしているビデオも制作する予定だ。
 スローマンは今でもなおラッツォというペルソナを楽しんでいる。ただし、小綺麗なバージョンになっていて、ヤギ髭と昔風の色付きメガネがトレードマークとなっている。今やラッツォは、エキセントリックなスタイルは名前の通りだが、オシャレな男なのである。ある晩、彼のコレクションの中から慎重に選んだスモーキング・ジャケットを着て出てきたかと思うと、特別なイベントでは、ハワイの友人特製のタイダイ・スーツ(「結構な値段なんだぜ」----ラッツォ談)で登場したりする。
 文化の最前線で活躍する最もダイナミックな人々と友人となった作家、役者、作曲家、雑誌編集者として40年あまりに及ぶキャリアを経た後、ラッツォにとって、これまでの経験の全てを糧としながら自分自身に焦点を当てる時がやっと到来した。ロック・バンドのフロントマンを務める67歳のユダヤ人を世界は必要としているのだろうか? 答えはもちろんイエスだ。

This story originally appeared in English in Tablet magazine, at tabletmag.com, and us reprinted in translation with permission.

The original article "A Mensch Named Ratso: The life and high times of a Queens kid who found his way to Bob Dylan, Abbie Hoffman, Howard Stern, and Mike Tyson" by David Hershkovits
http://www.tabletmag.com/jewish-arts-and-culture/247146/larry-ratso-sloman?utm_source=tabletmagazinelist&utm_campaign=a11c27f59b-EMAIL_CAMPAIGN_2017_10_18&utm_medium=email&utm_term=0_c308bf8edb-a11c27f59b-206970289
Reprinted by permission
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2017年10月17日

ガーディーズ・フォーク・シティー四半世紀の歴史

 ガーディーズ・フォーク・シティーというと、ボブ・ディランの経歴を扱った本の最初のほうに出てくるフォーク・クラブですが、今はもうありません。グリニッジ・ヴィレッジは、リンカーンが大統領をやってた時代に建てられたアパートメントに今でも人が暮らしているような場所ですが、他の大都市と同様に徐々に再開発が進んでおり、ガーディーズのあったところも、ビルそのものが建て替えられてしまい、もはや跡形もありません。在りし日の姿は、以下の記事のように、当時を知る人の思い出話を聞くしかない状態になって久しいです。


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ボブ・ディランにとっての初の大きなギグと
ガーディーズ・フォーク・シティーの四半世紀


文:フランク・マストロポロ


 1960年のグリニッジ・ヴィレッジはフォーク・ミュージックの爆心地だった。1950年代のビート詩人はガスライト・カフェ、カフェ・ビザール等のヴィレッジのコーヒーハウスをフォーク・シンガーに明け渡した。多くのミュージシャンがケトル・オブ・フィッシュやフォークロア・センターに集まってい。前者はバー、後者はイジー・ヤングの経営する店で、本やレコード、楽器を販売していた。
 ヤングの夢はヴィレッジのナイトクラブでフォーク・ミュージックを紹介することだった。1960年前半、ヤングと広告マンのトム・プレンダーガストは、西4丁目11番地にあるレストラン、ガーディーズのオーナー、マイク・ポーコにある契約を持ちかけた。イタリア系移民のポーコは工場労働者やNYCの学生に食事を提供しており、もともと、夜には時々、ボンゴ・プレイヤーやギタリスト、アコーディオン・プレイヤーがそこで演奏していた。ヤングのアイデアはこうだった:バンジョーの5番目のチューニング・ペグにちなんでフィフス・ペグというフォーク・ミュージック用のクラブを作る。ヤングは入場料をもらい、ミュージシャンにギャラを払う。そして、バーとレストランの儲けはポーコの懐に入る。
 フィフス・ペグは1960年1月26日にオープンした。数ヶ月間は、ヤングがエド・マカーディー、トミー・メイケム、クランシー・ブラザーズ、ソニー・テリー、ブラウニー・マギー、キャロライン・ヘスター、シスコ・ヒューストンといったフォーク音楽の大スターのコンサートを開いて満員にしていたが、ポーコは間もなく気づいた。パートナーなんていなくても、利益を出せるぞと。そして、体よくヤングを辞めさせた後、1960年6月1日にオープンしたのが、ガーディーズ・フォーク・シティーだった。
 月曜日にはフーテナニー・ナイトが行なわれていた。ギャラこそ出なかったが、ミュージシャンはそれぞれ3曲ずつ歌い、観客の前で演奏を披露するという貴重な経験を積むことが出来た。トム・パクストンは言う:「演奏するのに金を払わなくてよかったなんてビックリだ」
 1961年4月11日、ボブ・ディランはガーディーズでプロとして初のギグを行った。そして、1961年9月29日付ニューヨーク・タイムズ紙に載ったロバート・シェルトンによる激賞記事のおかげで、20歳のボブは広く注目され、その数週間後にコロムビア・レコードと契約を結んだ。
 1969年になると、ヒッピーとドラッグ、ロック・ミュージックが文化全般に浸透し、ヴィレッジ住人からの圧力で、ポーコはフォーク・シティーをいったん店じまいして、場所を西3丁目130番地に移さなければならなかった。1970年に新たにオープンしたフォーク・シティーには、ラリー・コリエルやエルヴィン・ジョーンズといったジャズの巨匠、NRBQやストーリーズといったロック・バンド、マーティン・ムルやアンディー・カウフマンといったコメディアンが、エミルー・ハリスやザ・ローチェズといったフォークやフォーク・ロックのミュージシャンに混じって出演した。
 1980年にポーコは引退し、フォーク・シティーを新しいオーナーに売却したが、1,500ドルだった家賃がそのうち3倍近くになると、クラブは賃貸契約を維持出来なくなり、1986年に遂に店じまいとなった。以下は、フォーク界の人気アーティストに語ってもらったガーディーズの思い出話である。

イアン・タイソン(イアン&シルヴィア):ガーディーズはフォークの場所だった。アパラチアン・タイプのフォーク・ミュージックを聞くことが出来たよ。新しい場所だった。ニューヨークの、ヴィレッジの雰囲気があったね。



バフィー・セイント=マリー:とても打ち解けた雰囲気で、新参者にも心地よかったわ。ブルーグラス、ブルース、イギリスのフォーク・ソング…いろんな人がいろんな音楽を演奏していた。私はソングライターだったから、パーフェクトな環境ね。オーディエンスは私と同い年くらいで、20代前半だったけど、大人の人もいたわ。ブロードウェイ・ショウにも通っていて、ジャズなんかも好きなニューヨーカー・タイプの人たちもね。最近だと、音楽フェスティヴァル以外では殆ど見られない幅広い年齢層だったわ。

パトリック・スカイ:入ると、このくらい長いバーがあったよ。バーの向こうの端っこにある階段を下に行くと、きれいに片づけられたエリアがあって、そこでは出演者が自分の出番に備えていた。



トム・パクストン:怖いところでもあったよ。最初は近所の何の変哲もないバー&グリルだったんだ。バーとテーブル席のエリアは高さが4〜5フィートの壁で分けられていた。フーテナニー・ナイトのような時にはたくさんの人が来て、バーのところは混雑してた。バー・エリアにいた連中は、いくぶん、舞台から隔てられてたように感じていた。ステージで起こってることにはあまり気にとめず、おしゃべりを続けてたんで、パフォーマーにとっては本当に辛かったんじゃないかな。邪魔な雑音がずっと聞こえてくるわけだから。

ハッピー・トラウム(ニュー・ワールド・シンガーズ):常にタバコの煙が一面にもうもうと立ちこめてたよ。目からは涙が出てくるし、服は臭くなるし、出演者として来た時には、観客より3フィートくらい高いところにいたから、煙が全部、天井に近いそこに来ちゃうんだよ。バー・エリアからはひっきりなしに騒音が聞こえてきた。レジの音やグラス同士がぶつかる音、ウェイトレスが厨房に客のオーダーを伝える声とかさ。



トム・パクストン:皆、月曜の晩のフーテナニーのことを話すだろ。凄かったんだぜ。もう、ぎゅうぎゅう状態。そのくらい混んでたよ。



イアン・タイソン:当時はオープンマイクっていう名前じゃなかったけど、そのことだよ。リストに名前を書いて、震えながら待つ。自分の晩が来たらステージに上がって歌う。うまくやり遂げて、皆に気に入ってもらえたら、レコード契約の話がたくさん舞い込んでくる。金は必要ない。ビールも安かったと思う。そんな感じだった。

トム・パクストン:フーテナニーは楽しかったなあ。マイクが1本あって、3曲歌った。ブラザー・ジョン・セラーズかドミニク・チアニーズに紹介されたらステージに上がって、3曲歌って、とっとと降りる。ステージ機材やモニター云々なんてない。誰もまだモニターなんて発明してないし。クランシー・ブラザーズだろうがトミー・メイケムだろうが関係ない。3曲歌ったら降りる。それでうまくいってた。それで、どんどんステージは進行した。

ハッピー・トラウム:月曜夜はガーディーズに行くしかなかったね。ブラザー・ジョン・セラーズって奴がいたなあ。ショウマン・タイプの黒人ゴスペル・シンガーで、とてもエネルギッシュな伝道師みたいなパフォーマーだった。こいつがしばらくフーテナニーの司会を務めていたんだが、ギル・ターナーは後を引き継いだ。ニュー・ワールド・シンガーズのリード・シンガーだったからだ。月曜夜にはよく行った。最初のうちは、ステージに上がって3曲歌うのは、簡単で楽しかったけど、1962年頃になると、人でごった返すようになった。バフィー・セイント=マリーやジュディー・コリンズやピーター・ポール&マリーの姿も見えた。ビールを1杯飲むか2ドルくらい払えば、中に入って優れたフォーク・シンガーをたくさん見ることが出来た。

トム・チェイピン(マウント・エアリー):キングストン・トリオやザ・ライムライターズのような半袖シャツを着て行ったよ。ニューヨークじゃ、オレたちは「フォーク・ピープル」の視点からしたら怪しい連中だったんじゃないかな。フォーク・ナチス(笑)。そういう面もあった。今でも少しはある。中に入ってフーテナニーの演奏をする。観客っていったって、そいつらも歌いに来た連中なんだけどね(笑)。でも、運が良かったら、バスに乗ってツアーに出るなんてこともあった。

バフィー・セイント=マリー:1960年代前半は、まさに自分の居場所だと感じたわ。カレッジを出たばかりの私は、男の人と飲んだこともなかったし、バンドや音楽ビジネス、有力なマネージャーやプロモーターとのコネも全くなかったの。ただ音楽があっただけ。聞いて、演奏して、皆と分かち合って…素晴らしかった。千客万来の雰囲気で、オーディエンスも大学生くらいの年齢の、スレてない人たちだったわ。自分の音楽だけじゃなくて、子供の頃には聞いたことのないあらゆる音楽を聞いたの。私がギターの腕前を上げたのは一生懸命練習したからじゃなくて、ジョン・ヘラルドやジョン・ハモンド・Jr、オープンマイクの晩にやって来たいろんなミュージシャンを見てやる気をもらったおかげよ。演奏すればするほど、ますます好きになったわ。誰が来るかはわからなかったわ。

トム・パクストン:オレは軍隊にいたんだけど、ニューヨークに到着して最初にオフが取れた晩、フォーク・シティーに直行してエド・マカーディーを見たよ。この人からは駆け出しの頃に大きな影響を受けた。オレはエドの歌が気に入った。バンジョー・プレイヤーのサンディ・ブルが前座だった。出演者と話が出来る場所だった。ということで、エド・マカーディーに話しかけて、知り合いになって、友達になったよ。

バジー・リンハート:デヴィッド・ブロンバーグがよく歌ってた。彼はフォークとブルースとロックを紡いで、ハッピー&アーティー・トラウム等の人を連れてきた。毎回違うことをやってたよ。

パトリック・スカイ:ジョーン・バエズやディック&ミミ・ファリーニャ、いろんな人がそこで歌ってた。ドク・ワトソンがカントリー・ミュージックをそっと持ち込んだ。ケトル・オブ・フィッシュかガーディーズで座ってれば、知ってる奴がやって来るさ、なんてよく言ってたな。

トム・パクストン:ギル・ターナーとハッピー・トラウムと会ったのを覚えてるよ。彼らは〈Blowin' in the Wind〉をレコーディングした史上初のシンガーだ。ドク・ワトソンやジーン・リッチーと会ったのもここだ。キャロライン・ヘスターもね。ジュディー・コリンズとも会った。皆、そこで歌ってた。

イアン・タイソン:ニューヨーク・シティーに初めて行った時さ。カナダからやって来たオレは、グリーンブライアー・ボーイズやピーター・ポール&マリー、レン・チャンドラー、ジャック・エリオット等、いろんなシンガーと会った。シスコ・ヒューストンと会ったのもそこでだ。たぶん、ヨーロッパから戻って来た後、亡くなる数日前だったんじゃないかな。

トム・パクストン:フーテナニーはマイク・ポーコにとっては大当たりだった。月曜に店を満杯にして、しかも、ギャラを払う相手は司会とバーテンダーだけ。あいつにとっては金のなる木だった。

ハッピー・トラウム:マイクの悪口は言ったことないね。とてもスイートな奴で、こいつを好きにならなかった奴は知らない。音楽については何も知らなかったなあ。特に、店を始めた当初はね。でも、理解の早い人間だったから、時が経つにつれて、どんどん知識は増えていった。マイクは「リトル・ボブ・ディラン」が好きだった。彼はボブをこう呼んでいた。ボブもマイクのことを気に入ってたと思うよ。オレはマイクとはたくさんの交友があったとは言えないけど、オレが店に到着するといつも、ニコニコしながら「ハイ」って挨拶してくれたなあ。強いイタリア語訛が抜けないところも、皆から愛されていた理由の1つだった。オレはマイクがとても好きだったよ。オレにはいつもとても良くしてくれたし。

トム・パクストン:デイヴ・ヴァン・ロンクは死ぬほどおかしな奴で、マイク・ポーコのことをこんな風に言ってたよ。奴は金の話をするまでは完璧な英語をしゃべるって。

デヴィッド・ブロンバーグ
:心のあたたかい、気前のいい奴だった。大好きだったよ。




ジュディー・コリンズ:楽しかったわ。1961年4月11日、どこかの店からハシゴしてガーディーズに来たの。ブロードウェイ・セントラル・ホテルで1晩30ドルの部屋を予約してね。私はヘッドライナーだったの。もうビックリ。歌い始めてまだ2年くらいしか経ってない頃だったのに、ヘッドライナーをやらせてもらえて、とてもワクワクしたわ。ガーディーズ・フォーク・シティーは昔からあるピザ屋で、黒ネコがここに住んでたの。
 皆が私の歌を聞きに来てくれたわ。私がレコードを聞いて知ってた人も大勢いました。ピーターとポールとマリーもいました。ピーター・ポール&マリーになる前のことです。その晩にはデイヴ・ヴァン・ロンク、ランブリン・ジャック・エリオット、シスコ・ヒューストンもいました。シスコ・ヒューストンは2カ月ほど後にガンで亡くなってしまいましたが、まさにヴィレッジ・ファミリー全員がいたわけ。ロバート・ズィママンとして知ってた人も来てたわ。この人は間もなく名前をディランに変えるんだけど、その時はまだそうしてなかったわ。しかも、私のオープニングを務めてくれたのが(笑)13歳のアーロ・ガスリーって子。ね、凄いでしょ。




パトリック・スカイ:他のたくさんのパフォーマーと会えたという意味でも、そこでプレイすることが出来て光栄だった。演奏するより、友達に会って話したりするほうが楽しかったりして(笑)。

バフィー・セイント=マリー:ヴィレッジのサリヴァン・ストリートのアパートはしばらく引き払わなかったので、ニューヨークに戻って来た時にはガーディーズに立ち寄って、出演者をチェックしたの。ソニー・テリー、ブラウニー・マギー、ボブ・ディラン、ジム&ジーン・グローヴァー、キャロライン・ヘスター、ゲイリー・デイヴィス師(一緒にイギリス・ツアーをやりました)、エド・マカーディー、オデッタ、ドック・ワトソン、クランシー・ブラザーズと会ったわ。いろんな種類のオリジナルな音楽を聞いたの。そういう立場にいることが出来てれて、本当にラッキーだったわ。



デヴィッド・ブロンバーグ:4丁目にあった店ではロニー・ジョンソンに会ったよ。20世紀で最も影響力の大きいギター・プレイヤーだと思うな。これはオレにとって重要なことなんだ。ジョン・リー・フッカーにも会ったよ。アーロ・ガスリーと初めて会ったのも、あの店でだ。



バフィー・セイント=マリー:私が初めてあそこで演奏したのはオープン・マイクの晩だったわ。誰でも歌って良かったんで、私もそうしたの。皆は私の演奏を気に入ってくれたんだけど、〈Universal Soldier〉〈Now That the Buffalo's Gone〉はちょっとショックだったみたい。過激なプロテスト・ソングだから、それも無理ないわ。アメリカ先住民問題に関する歌も、あの頃は珍しかったでしょ。でも、なんでもありっていうのが、コーヒーハウスの時代、初期フォーク・ミュージックの時代のいいところだったのよ。
 あの晩か別の晩に、ボブ・ディランが私の歌を聞いていて、私に話しかけてきたの。ガスライトにサム・フードに会いに行けと言われたわ。その後、私は何度もそこで歌ったわ。ニューヨーク・タイムズ紙のジャーナリスト、ロバート・シェルトンもガスライトで私の演奏を見て、記事を書いてくれたの。それから私のキャリアが始まったのよ。でも、本当の始まりは、ガーディーズでボブに、ガスライトに行けって勧められたことね。後になって、私はそういう愛の手渡し行為をカナダからやってきたソングライター、ジョニ・ミッチェルにやったの。私が彼女のデモテープを[マネージャーの]エリオット・ロバーツに聞かせて、やっと契約することが出来たのよね。エリオットがジョニのキャリアを大ブレイクさせたでしょ。全てはガーディーズで始まったんだわ。



トム・パクストン:超楽しかったなあ。たくさんの連中がいた。ある晩、ヴァン・ロンクと一緒にビールを飲んでたんだ。あいつもオレも自分の出番が終わっていたと思う。そしたらハンチング帽をかぶってハーモニカを抱えた痩せた小僧がステージに上がって、ウディー・ガスリーの歌を3曲歌ったんだよ。ディランさ。オレたちふたりとも、とても感動した。「ワオ! あいつ、とてもいいね」って言った。オレたちはボブをこっちに呼んできて、会話に興じて、友達になった。

ハッピー・トラウム:オレたちはディランにぞっこん惚れ込んだ。初めて聞いたその瞬間からね。まだ自分で曲を書いてなくて、トラディショナルなフォーク・ソングばっかり歌ってたけど、他の誰とも違うレベルのように感じたよ。オレの記憶では、〈Hard Rain's A-Gonna Fall〉を初めて聞いたのはガーディーズ・フォーク・シティーでだ。ディランがステージに登場した時、観客は12人くらいしかいなかった。「書いたばかりの新曲があります」って言って歌い始めたんだけど、椅子から転げ落ちるくらいビックリしたよ。忘れられない思い出だ。
 ボブが〈Talkin' Bear Mountain Picnic Massacre Blues〉を歌ったのも覚えてるよ。とてもユーモアたっぷりにね。当時は、パフォーマンスの中にユーモアがたくさんあった。今じゃ見れないけど、昔はステージ上でおかしなことばかりやっていた。概して人に好かれる奴ではだったけど、よく理解出来ないとか、声が好きじゃないとかいう人がたくさんいたなあ。でも、オレたちはボブの歌を聞くたびに完全に圧倒された。オレたちはあいつのこと気に入ってたし、友達だった。

デヴィッド・ブロンバーグ:3丁目に引っ越した後の店では、入ると左側にバーがあった。とても狭かった。バーを通り過ぎると----ゆうに15〜20フィートはあった----バーよりはるかに大きなリスニング・ルームがあった。



バジー・リンハート:ブリーカー・ストリートの近所に住んでたオレは、ヴィレッジを散歩していて、店の前を通りかかったら、中は満員だった。「何かやってるの?」って訊いたら、「ボブ・ディランの誕生パーティーだ」って言うから、中に入ったんだ。カメラを持ってりゃよかったな。フィル・オークスの隣にはアレン・ギンスバーグが座ってて、その隣にはボブ・ディランがいた。あの晩はベット・ミドラーも来てた。誕生日を祝って曲をプレゼントしたんだよ。ムーギー・クリングマンが店にあった小ぶりのグランド・ピアノを弾いた。ベッド・ミドラーとオレは〈Friends〉を歌い、天才ギタリストのエリオット・ランドールが一緒に演奏してくれた。
 一緒にたくさんジャムったよ。出演してるのが親しい友人だったら、ステージに招かれて演奏に加わえてもらえるような場所だった。午後にしっかりリハーサルをやれば、ステージで特別なことも出来た。



トム・チェイピン:オレは弟のスティーヴと一緒にマウント・エアリーっていうバンドをやってて、アルバムも作ったんだぜ。アルバムが出る時に、スティーヴがどこかでライヴをやるべきだって言い出して、フォーク・シティーへの出演を取り付けてきた。オレとスティーヴに、ボブ・ヒンクル、エリック・ワイスバーグってメンバーだった。マウント・エアリーは無名のバンドだったけど、映画『脱出』(原題『Deliverance』)が封切られて、オレたちは知らなかったんだが、エリック・ワイスバーグが演奏してる〈Dueling Banjos〉がナンバー1になっていた。それで、フォーク・シティーのあるブロックを1周するほど、会場待ちの人の列が出来ちゃったんだぜ(笑)。やる音楽はフォークだっていうのにさ。ある晩には、兄のハリーが来て----'72年のことさ----一緒に演奏してくれた。翌日の晩にはジョン・デンヴァーが来てくれた。たまたまニューヨークにいたんだよ。エリック・ワイスバーグはジョンのレコード全部でプレイしてるし、オレたち兄弟は1、2年前にジョン・デンヴァーのコンサートのオープニングを務めたこともあったから、ラブリーで素晴らしい5日間だった。マウント・エアリーの全盛期は、実際(笑)、あの週のフォーク・シティー公演だったね。1カ月くらいして、エリック・ワイスバーグが言ってたよ。「自分のバンドを持たなきゃなあ」って。ということで始めたのがエリック・ワイスバーグ&デリヴァランスだったのさ。



バジー・リンハート:少なくとも7年間は毎年、大晦日にプレイしてたよ。元日はクラブは休みで、オレは楽屋でギターを片づけていた。どこかの時点で、クラブにはフル・バンド分のギャラを払う余裕がなくなってしまったんだ。最後の数年間は、毎年元旦にマイク・ポーコがきついイタリア語訛でこう言ってたよ。「バジー、オレはとても嬉しいよ。毎年、クラブを失う寸前になっているが、お前が大晦日に来て、ピンチを救ってくれる」って。いい奴だったなあ。

ハッピー・トラウム:ガーディーズがヴィレッジの他のフォーク・クラブと違ってたのは、酒を出してたことだ。コーヒーだけじゃなくてね。ガスライトはコーヒーやアイスクリームの類だけだった。ストリートから人を引っ張り込み易いってことで、元コーヒーハウスが変身してフォーク・クラブになったところが殆どだった。

トム・パクストン:ガーディーズに出演することで箔がついたんだ。つまり、プロってことさ。今でも覚えてるけど、マイクは週6晩で最低賃金の90ドルを払ってたよ。金曜と土曜には3ショウ、他の日は2ショウをやったから、なかなかのハードワークだったけどね。

ハッピー・トラウム:ここに出演したってことは、ヴィレッジのシーンの輪の中に入ったってことさ。ここはしばらくの間はとても重要な会場だった。月曜夜のフーテナニーは、エージェントやマネージャー、レコード会社重役、コンサート・プロモーターの集まる場所になったんだ。こうした連中が、突然、先を争って来るようになって、ツアーやレコードの契約が出来そうな奴を物色していた。アルバート・グロスマンやジャック・ホルツマン、メイナード・ソロモン等、フォーク・ミュージックのビジネス・サイドのほうにいた連中と会うのも珍しいことじゃなかった。それから、ジャーナリストもさ。ロバート・シェルトンはいつもいた。しばらくの間は、食肉市場みたいな状態だった。新作を試してみる場所というよりは競争の場になっていた。

デヴィッド・ブロンバーグ:4丁目にあった店のほうが重要だった。プレイするのに重要な会場だった。



トム・パクストン:間もなく、ビター・エンドがピーター・ポール&マリー等のアクトがキャリアを開始する場所になった。マイク・ポーコより多額のギャラを平気で払っていたし。だから、フォーク・ミュージックの粒よりのパフォーマーがそこで演奏していたのは、非常に短い期間だった。マイクはギャラをそんなにたくさんは払えなかったんだ。

ジュディー・コリンズ:イジー・ヤングのフォークロア・センターと同様に、社交センターになってたわね。皆が集まる場所。ヴィレッジには素敵なクラブがいくつかあって、皆がなんやかんやの用事でそこに通ってたわ。ここは、あらゆる種類の作家や歌手、変人(笑)、クレイジーな人、全員が集まるとても社交的な芸術コミュニティーだったわ。エキサイティングな場所で、音楽を聞きに行くには素敵なところでした。私はそんな環境で成長したの。


The original article "Musicians Recall Dylan's First Big Gig and 25 Years of Music History at Gerde's Folk City" By Frank Mastropolo
http://bedfordandbowery.com/2017/09/musicians-recall-dylans-first-big-gig-and-25-years-of-music-history-at-gerdes-folk-city/


参考資料:Popspotsによる写真検証のページ
http://www.popspotsnyc.com/gerdes_folk_city/


追加情報:今月に入って入ってきたニュースですが、何と、ガーディーズがチェルシー・マーケットの地下で再開されるらしいですよ。ニューヨークを訪れる音楽ファンのための新たな観光名所になるかどうか、様子を見守りましょう。

http://www.brooklynvegan.com/legendary-nyc-venue-gerdes-folk-city-returning-in-chelsea-market/




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2017年10月15日

《Trouble No More》:予習(3) 1980年9月〜81年11月

 2004年に出版された音源集大成本『Tangled』では、「ディランのキャリアの中で最もデータが混乱しているのが《Shot Of Love》のレコーディングである。2カ月以上に渡ってロサンゼルス・エリアの複数のスタジオで行なわれているという事情に加え、レコーディング・シートがしっかり揃っていないのだ。マイケル・クログスガード(正しい発音不明)、クリントン・ヘイリン両氏がテープ・ボックスや契約書類にアクセスしているが、どちらの調査にも欠損がある」と書かれているのですが、両氏の「アクセス」というのは今から25年も前に行なわれたもので、あれから調査も研究も進んでいます。先週届いたISIS 194号に掲載されていたヘイリンのインタビューには面白いことが書いてありました:

・ボブはサンタモニカのリハーサル・スタジオを1977年から5年間のリース契約で借りていて、固定バンドとともにそこに毎日入って、ベースメント・テープス期のように、自由気ままに歌いたい曲を歌っていた。
・《Shot Of Love》のレコーディングでは、マルチトラック・テープと、それをミックスした2トラック・テープと、スタジオ内の音をライヴでずっと拾っていた2トラック・テープ等、さまざまな段階のテープが存在。
・25年前のクログスガードの調査では、リハーサルのテープとレコーディングの諸テープをしっかり区別しなかったためにデータの混乱を招いてしまった。
・ボブは〈Ptoperty Of Jesus〉を16回演奏したのではなく、16種類のミックスを作った。


 まあ、四半世紀前のヘイリンの調査も同様なんですけどね。ここまで言ってるからには、11月に出るヘイリンの新著『Trouble In Mind』では、このあたりのデータも正されているのでしょうか。この本が拙宅に届くのは《Trouble No More》より後になりそうですが…。
 ちなみに、ヘイリンは調査結果を『The Recording Sessions 1960-1994』として発売し、クログスガードはThe Telegraph誌、The Bridge誌で発表し、当時はクログスガードの記事のほうがはるかに高く評価されました。現在、クログスガードの調査結果はここに掲載されています。

   
1980年9〜10月ランダウン・スタジオ
D4-10. Caribbean Wind (Rehearsal 09-23-1980)
D4-03. Making a Liar Out of Me (Unreleased song 09-26-1980)
D4-15. Every Grain of Sand (Rehearsal 09-26-1980)
D4-04. Yonder Comes Sin (Unreleased song 10-01-1980)
D4-07. Rise Again (Unreleased song 10-16-1980)

 9月23日、ボブのピアノ、フレッド・タケットのギター、ジェニファー・ウォーンズのバック・ヴォーカル(プラス犬)で演奏された〈Every Grain Of Sand〉は《BS 1-3》に収録されていました。それとは確実に違う演奏が《Trouble No More》で聞けることになるのでしょう。

10/19追記:違う演奏でした!


 D4-03も超楽しみな曲の1つでしたが、10月11日に先行公開されました。


1980年秋ツアー
D2-15. Caribbean Wind (11-12-1980)
D2-14. The Groom's Still Waiting at the Altar (11-13-1980)
D3-14. City of Gold (Unreleased song 11-22-1980)
D4-08. Ain't Gonna Go to Hell for Anybody (Unreleased song 12-02-1980)

 1980年11月のフォックス・ウォーフィールド公演にはロジャー・マッギン、マイケル・ブルームフィールド、ジェリー・ガルシア、マリア・マルダー等が日替わりゲストとして飛び入り参加していることで有名ですが、D2-14ではカルロス・サンタナが飛び入りしてます。マイケル・ブルームフィールドが飛び入りした〈The Groom's Still Waiting at the Altar〉はブルームフィールドの《From His Head to His Heart to His Hands》に収録されました。
 〈City Of Gold〉に関しては、拙ブログではこんな話↓を紹介しています。

ザ・ディキシー・ハミングバーズ〈City Of Gold〉秘話
http://heartofmine.seesaa.net/article/439253997.html

 デヴィッド・グリスマンが飛び入りしてマンドリンを弾いてる12月4日の〈To Ramona〉も収録して欲しかったなあ。グリスマンはボブにマンドリンのレッスンをしたのですが、レッスン料は未払いのままだとぼやいてます(『If You See Him Say Hello』で読めます)。

   
1981年3〜5月《Shot Of Love》レコーディング
D4-12. Shot of Love (Outtake 03-25-1981)
D4-11. You Changed My Life (Outtake 04-23-1981)
D4-14. Dead Man-Dead Man (Outtake 04-24-1981)
D4-09. The Groom's Still Waiting at the Altar (Outtake 05-01-1981)
D4-13. Watered-Down Love (Outtake 05-15-1981)

 前2作はどちらも1週間程度で一気にレコーディングしていますが、《Shot Of Love》はロサンゼルスのスタジオを渡り歩きながら、3カ月もだらだら作業をしています。フレッド・タケットによると、最新設備のあるスタジオではなくヴィンテージな響きのところを探していたのですが、ボブの気に入る場所はなかなか見つからなかったのだとか。未発表トラックが大量に残され、《The Bootleg Series Vol.1-3》やシングルB面、ブートレッグにネタを提供しました。正規筋からだけでも、これまでに次の曲がリリースされています:

3月26日〈Angelina〉
3月31日〈Caribbean Wind〉
4月23日〈You Changed My Life〉〈Don't Ever Take Yourself Away〉
4月27日〈Need A Woman〉
5月1日 〈Let It Be Me〉


 ただし、記事の最初の方で紹介したヘイリンのインタビューによると、リハーサルのテープとレコードを作るつもりで行なったセッションのテープが混同されていると思われるので、《Trouble No More》をきっかけにデータがしかるべき状態で整理され、ライヴ以外のテープを中心としたアルバムのリリースが望まれます。

   

1981年5〜6月ランダウン・スタジオ
 ヨーロッパ・ツアーに向けたリハーサルが行われているはずなのですが、今回のアルバムではこの時の音源は収録されないようです。
1981年アメリカ小ツアー
D2-12. Watered-Down Love (06-12-1981)

 《Shot Of Love》のレコーディング終了後、ヨーロッパ・ツアーの直前に、4公演が行なわれています。
1981年ヨーロッパ・ツアー初日
D2-11. Dead Man, Dead Man (06-21-1981)

1981年6月27日ロンドン公演
D7-01. Gotta Serve Somebody (06-27-1981)
D7-02. I Believe In You (06-27-1981)
D7-03. Like A Rolling Stone (06-27-1981)
D7-04. Man Gave Names To All The Animals (06-27-1981)
D7-05. Maggie's Farm (06-27-1981)
D7-06. I Don't Believe You (06-27-1981)
D7-07. Dead Man-Dead Man (06-27-1981)
D7-08. Girl From The North Country (06-27-1981)
D7-09. Ballad Of A Thin Man (06-27-1981)
D8-01. Slow Train (06-27-1981)
D8-02. Let's Begin (06-27-1981)
D8-03. Lenny Bruce (06-27-1981)
D8-04. Mr. Tambourine Man (06-27-1981)
D8-05. Solid Rock (06-27-1981)
D8-06. Just Like A Woman (06-27-1981)
D8-07. Watered-Down Love (06-27-1981)
D8-08. Forever Young (06-27-1981)
D8-09. When You Gonna Wake Up (06-27-1981)
D8-10. In The Garden (06-27-1981)
D8-11. Band Introductions (06-27-1981)
D8-12. Blowin' In The Wind (06-27-1981)
D8-13. It's All Over Now, Baby Blue (06-27-1981)
D8-14. Knockin' On Heaven's Door (06-27-1981)

 ロンドン6公演のうち、一番曲数が少なかった2晩目の公演がCD7枚目&8枚目に収録されるようです。珍曲としては、7月1日ロンドン公演最終日に〈Here Comes The Sun〉を歌ってるのですが(もちろんビートルズの曲です)、本当に思いつきだったようで滅茶苦茶。さすがに、これは収録されませんでした。



 そういえば、コンサートで歌ってるのに収録されなかった曲には、ディオンのナンバーとして有名な〈Abraham, Martin & John〉もあります。銃弾で亡くなった人物----リンカーン、キング牧師、ケネディー大統領----へのトリビュート・ソングですが、1980年秋のツアーから歌い始めた曲なので、特にジョン・レノン追悼という意味はないようですが…。1981年に3回演奏されている〈Let It Be Me〉も今回は未収録です。オリジナル曲ではないからでしょうか。
1981年ヨーロッパ・ツアー続き
D2-01. Slow Train (06-29-1981)
D1-04. When You Gonna Wake Up? (07-09-1981)
D2-03. Gotta Serve Somebody (07-15-1981)
D3-13. Jesus Is the One (Unreleased song 07-17-1981)
D2-10. Shot of Love (07-25-1981)



 7月10日オスロ公演、7月25日アヴィニョン公演はボード音源でお馴染みのコンサートです。
1981年秋アメリカ・ツアー
D2-13. In the Summertime (10-21-1981)
D2-07. Solid Rock (10-23-1981)
D3-15. Thief on the Cross (Unreleased song 11-10-1981)
D2-16. Every Grain of Sand (11-21-1981)

 秋のアメリカ・ツアーでは11月10日ニューオリンズ公演はSBDテープが出回っており、〈Heart Of Mine〉は《Biograph》に、〈Dead Man Dead Man〉は《Live 1961-2000》に収録。11月12日ヒューストン公演もボード音源が出回っています。
 1981年のアメリカ・ツアーに関しては、当ブログで実際にコンサートを見た人のヴィヴィッドな思い出話「1981年秋、ゴスペル期最後のツアー」を紹介しています。
 さあ、あと3週間ほどでリリースです。超楽しみです。

追記:10月16日にゴスペル・ツアー最終日(1981年11月21日フロリダ州レイクランド)の〈Blowin' In The Wind〉の動画が1分だけ公開されました。DVDに入るんですかね?




   

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