2017年05月21日

1978年7月1日ニュルンベルク公演の思い出

 来年は1978年のワールド・ツアーの40周年なので、オフィシャル筋から何か動きがあることを期待します(正式に録音した武道館公演2ショウ分を完全収録したCD4枚ボックスセットとかさ)。イギリス公演に関しては以前ここで『【ISIS Selection 03】1978年ワールド・ツアー』という記事を掲載しましたが、今回はドイツ公演を仕切ったプロモーターの話と、ニュルンベルク公演を見に行った人の回想です。
 ここで言及されているニュルンベルク公演の音の記録に関しては、パリ公演を録音した人が同じ機材を持ち込み、ボブのセットとクラプトンのセットを素晴らしい音質で記録しています。


ドイツの名物プロモーター、フリッツ・ラウが1978年ツアーを回想

『Fritz Rau: Buchhalter der Traeume』(カトリン・ブリグル&ジークフリート・シュミット=ジョース共著。タイトルを直訳すると「フリッツ・ラウ:夢の会計士」)より、マンフレッド・ヘルフェルトが抜粋・英訳。



 フリッツ・ラウはロサンゼルスでディランの新マネージャー、ジェリー・ワイントローブと交渉していた。ラウはワイントローブの自宅のディナーに招かれ、そこでディランと初対面を果たした:

 私達がワイントローブ宅に招かれて滞在していると、突然、ボブ・ディランが部屋に入って来ました。かなり無愛想という評判は知っていたので、私は思いました。ディランはどんなことを話すのかな? きっとツアーの契約を再確認するだけなんだろうな、と。
 ところが、全くそんな話は出てきませんでした。「フリッツ、あなたと1963年のアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティヴァルについて話したいんだ」
 その年、まだスーパー・スターではなかったディランは、ヨーロッパをヒッチハイクして回り、コペンハーゲンで開催されていたブルース・フェスティヴァルを見ていました。ディランは遠いシルエットのようにしか知らなかったブルース・アーティストの生演奏を、生まれて初めて聞いたのです。
 ソニー・ボーイ・ウィリアムソンの小さなブルースハープからコンサートが始まったのは賢い選択だったのかどうか、という話をボブは始めたのですが、私はディランのミリオン・ダラー・ツアーの話をするほうに関心があり、さっさとそっちに話題を持っていきました。
 ドルトムントのウェストファーレンハレ、ベルリンのドイチュランドハレ、そして、ニュルンベルクの、かつては「帝国党大会広場」という名前だったツェッペリン広場でコンサートを企画していると伝えたところ、ディランは頭を横に振って言いました。「ニュルンベルクは場所としては良くないと思う」
 そして、ボブはレニ・リーフェンシュタールの映画『意志の勝利』や、アルベルト・シュペーアの巨大建築について話し始めました。ボブは全てを知っていました。「帝国党大会広場」がどういう意味かもです。
 ボブはじっと考えていました。大変な決断だったでしょう。しかし、突然、ほほ笑みながら首を縦に振りました。私達があの場所でコンサートをやってもらいたい理由を、ボブは本能的に理解してくれたのです。
(p.209)



 ベルリン公演はマスコミによる前評判が芳しくなく、ショウの後にもディランと(黒人の)バック・シンガーが不評で、ボブはとても傷ついていた:

 ボブはベルリンを大絶賛してたのです。ベルリンは魅力的で、半年くらいここで暮らしたいとまで言ってましたが、コンサートの後はこの考えを捨ててしまいました。この町に心底傷つけられたからです。
 ニュルンベルクへの移動中、ボブは殆どしゃべらず、何かをじっくり考えているようでした。1978年にここで行なった野外公演は、私達の努力に見合う超ハイライトでした。私達は前年にも、サンタナ、シカゴ、ウド・リンデンベルク等が出演した野外コンサートをやったんです。昔、ヒトラーが使った演壇の上にステージを建てました。破壊されずに、まだ建ってましたから。でも、シュペーア教授のアグレッシヴな建築からは良い「バイブレーション」が感じられませんでした。そういうわけで、ボブの時にはその正反対の側にステージを作ったのです。
(p.210-211)

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 レイク、チキン・シャック、クラプトンが素晴らしいセットを披露した後、ブルース・ピアニストのチャンピオン・ジャック・デュプリーがボブの1つ前のアクトだった:

 ボブは興奮していました。スタッフがチャンピオン・ジャック・デュプリーのピアノをステージの外に移動している間、ボブはバックステージで椅子に座りながら言いました。「フリッツ、オレもステージに立たなきゃいけないんだよな…」 文句の言葉というより、助けを求めた懇願でした。でも、ボブのためのお膳立ては全て出来ています。ボブがレザー・ジャケットを着て、シャツのエリをピンと立て、ステージに向かうスロープに入った瞬間、雲に覆われてどんよりとしていた空に裂け目が生じ、沈む夕日がこの人物を照らし始めました。 (p.214-215)

 ディランのステージは続きました。顔の前に小さなハーモニカを掲げ、3〜4曲ソロで歌うと、若い黒人のバック・シンガー、キャロライン・デニスを前に立たせて、ゴスペル・ソング〈A Change Is Gonna Come〉を1曲歌わせました。

ボブはこんなふうにキャロラインを紹介した:

 どうもありがとう! このグループには若手の女性シンガーがいます。皆さんに彼女の歌を聞いて欲しいんです。OK? この子がこれから歌うのは、古いサム・クックの歌です。サム・クックはご存じですよね。この人はキャロライン・デニスと言います。歓迎してください。

 まだベルリンでの酷評を克服出来ていなかったディランは、自分が連れてきたミュージシャンを私たちにしっかり紹介したいと思っていたのでしょう。バック・コーラスの面々もです。
 その後、エリック・クラプトンが飛び入りしました。太陽は沈んでいきました。日暮れと、それにともない長くなった影によって、どんどん夜のドラマチックな雰囲気が高まっていきました。かつてヒトラーが使った巨大な演壇は暗闇に飲み込まれていく一方、ディランのステージはフラッドライトで輝いていました。
 私たちは〈Forever Young〉の第2ヴァースの間に打ち上げるよう、花火の準備をしていました。ディランがステージから降りてきた時、私は涙を流していました。ディランは世界チャンピオンのように、自分を応援するファンのために戦い、持ってる力を全て出しきっていたのに、ヘトヘトの状態でどこかに歩き去るのではなく、私のところに歩いてきて腕を掴むと、言いました:「どうしたんだ、フリッツ? 万事うまくいってたぜ!」
 翌朝、私たちは電車でパリに移動しました。2晩目にディランからホテルの私の部屋に電話があり、こう訊かれました。「フリッツ、ニュルンベルクでは何があったんだい? あの時は、よく理解してなかったからさあ」と。私は答えました。「ニュルンベルクで何があったのか、ベルリンで何があったのか、是非とも訊いてくれ。ふたつはつながってるんだから」

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 そして、ヒトラーの演壇の反対側にステージを設置した理由と、8万人のドイツ人がヒトラーに背を向けて、ディランとその音楽のほうを向いていたことを、私は再度説明しました。
 ディランは一瞬、返事をためらいました。じっと思い出しているかのようでした。そして、「あぁ。そうだったかもしれないね…たぶん」と言うと、電話を切りました。
(p.216-217)






The Original Article "Bob Dylan's 1978 German tour -- Impressario Fritz Rau remembers" by Manfred Helfert
http://bobdylanroots.blogspot.jp/2011/05/bob-dylans-1978-german-tour-impressario.html
Reprinted by permission


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2017年05月04日

1960年代を分断した事件〜ニューポート1965(イライジャ・ウォルド・インタビュー)

 1965年のニューポート・フォーク・フェスティヴァルを検証・考察した『Dylan Goes Electric!』の著者、イライジャ・ウォルドのインタビューは、2年前、この本が出た直後にこちらに掲載しましたが、新たなインタビューがThe Bridge誌57号に載ったので紹介します。自著の補足をしながら、ディラン以外の視点からもニューポートを見てみる必要性とその面白さについて語っています。



1960年代を分断した事件〜ニューポート1965
『Dylan Goes Electric!』の著者、イライジャ・ウォルド・インタビュー

聞き手:シド・アストベリー


もしあなたが1965年のニューポートにいたら、ディランのロックバンドとの初舞台にブーイングをしましたか、それとも、拍手をしましたか?

 正直言うと、まごついた口だったと思います。多くの人はブーイングも喝采もせず、それに対してどういう意見を持とうか必死に考えていたのです。そうだったと思いますよ。ブーイングしている自分も、拍手喝采している自分も、容易に想像出来ます。私ははっきりとした意見を持つ傾向があるので、どっちの可能性もあります。

今回の本の狙いは、読者にブーイングするか拍手喝采をするか判断をつかなくさせることですね。

 その通りです。後知恵で「これは素晴らしい瞬間だった」とか言うのはとても簡単です。後知恵が悪いとは思いませんが、この話はニューポートやピート・シーガー側に立って考えていない人によって語られる傾向があります。多くの人にとって、この話は物語の不愉快な部分、退屈な部分なのです。私が強調したかったのは、ディランはそう感じてはいなかったということです。あれから半世紀を経た現在、ディランはアメリカーナのアイコンであり、伝統を大変リスペクトしています。

この物語ではシーガーは常に悪役として登場しています。体制側の人間で、斧でケーブルを切断しようとした人で、ディランのアンチテーゼですね。

 シーガーはポップ・フォークのレコードでナンバー1を獲得した第1号ですし(1950年代にウィーヴァーズの〈Goodnight Irene〉で)、常に自作曲も書いていました。執筆の時点では知らなかったことなので本の中身に反映することが出来なかったのが、ふたりはシーガーが亡くなるまで(2014年)ずっと連絡を取り合っていたということです。時々、一緒にディナーを食べていたのだとか。ある人からこんな話を聞きました。ピート・シーガーが亡くなる1年前にシーガー宅にいたら、電話が鳴りました。ディランからだったそうです。彼らの関係が続いてたとは、私は知りませんでした。

  

味方ではなく敵同士だと思ってしまいますよね。

 デイヴ・ヴァン・ロンクについての本(『The Mayor Of MacDougal Street』2005年出版)を書いている時も、同じことを感じました。1960年代末にアンソニー・スカデュトがあの本を書いて以来(『Dylan』1972年出版)、デイヴは、自分とディランとの関係が「ディランはヴァン・ロンクの歌を盗み、ヴァン・ロンクは腹を立てている」とまとめられてしまっていることが、嫌でたまらなかったのです。デイヴはずっと、ディランは天才だと思っていました。自分がディランの才能を最初に認めた人間であることを、ずっと誇りに思っていました。互いの曲を取るなんてことはオレたち全員がよくやってたことなので、ディランがオレの曲を取ったかどうかを世間がいちいち取り沙汰するのは、ディランが億万長者になったからだろうと、ずっと指摘していました。

  

ディランがフォークの現人神扱いされるようになっていて、ファンの一部が裏切られたと感じた点で、ニューポートは発火点でしたね。

 大勢のくだらない連中が、ビートルズのようなステキな声を持つカワイイ男の子を気に入っているという状況の中で、ディラン・ファンはずっと、自分たちは変な声で歌う変な人物の良さがわかる少数派の人間だと思っていました。憤りの多くはディランというよりもむしろ、その年、新しいロックスターを見ようとニューポートに押しかけた連中に対して向けられていました。会場をうろついて、ディランはいつ登場するのかなあなんて言ってた連中が、正直言って、金曜日も土曜日も目障りだったのです。エレクトリック化したということだけでなく、こういう「くだらない」連中を連れてきてしまったことにも、腹を立てたのです。私がここで「くだらない」という言葉を使ったのは、ディラン・ファンの事態の見方を表現するためです。たとえてみれば、アーケイド・ファイア(現在のインディー・ロック・バンド)がケイティー・ペリーとタブル・ビルの公演をするようなものです。ファンは怒るでしょう。ニューポートの後、ディランとファンの関係は変わってしまいました。気心の知れたお友達関係は終わりました。

ニューポートがディランを変えたのですか? 意識して、ファンから遠ざかったのですか?

 それは前の年にも起こっていました。1964年がいかに恐ろしい1年だったか、我々はあまりに簡単に忘れてしまいます。ディランは本当に怖かったんだと思います。世代の声に祭り上げられてしまい、しかも、その世代のリーダーの多くが殺されていたのです。あの頃のディランが極度に被害妄想的だったと、たくさんの人が証言しています。ジョン・レノンに起こったことを考えると、ボブの考えもあながち間違ってはいませんでした。

ニューポートがトラウマとなって、本来のシャイな性格に戻ってしまったのですか?

 これもデイヴ・ヴァン・ロンクがずっと言ってたことですが、駆け出しの頃にニューヨークで行なってたショウは、後にやってたショウとは似ても似つかないものとのことなんです。私にはわかりませんけどね。ディランが複雑な人物であることは明らかです。この本で私がやろうと努力したことの1つが、ディランを理解しようと努めないことでした。私にはディランは理解出来ません。他の誰かにそれが出来るのかどうかもわかりません。たぶん出来ないと思いますけど。

ピート・シーガーは後に「地獄のこっち側での最も破壊的な音楽」と語っています。ポップ・ミュージックに対して砦を守る存在として、新世代の政治的良心であるよう、ディランを信頼していたので、ディランと同じくらいニューポートがトラウマになってしまったのではないでしょうか?

 ディランよりもはるかにそうなってしまったと言えます。ディランのせいというよりもむしろ、夢の崩壊によってですが。実際に、夢は崩壊したのです。あの瞬間以降、人々はシーガーのことを過去に生きる人扱いしています。あの年のニューポートより前は、シーガーは公民権運動の声、反戦運動の声、若者たちのヒーローでした。ニューポートは若者たちが突然「30歳以上は信用するな」という態度になる大きな転換点でした。シーガーはとっくに30を越えていました。マッカーシーの赤狩りに反対し、30年間戦ってきた人々と肩を並べて行進したいという態度ではなくなってしまったのです。シーガーは殆ど一晩のうちに、若い世代の革命の声から、その邪魔をする年上の連中のひとりになってしまったのです。



ディランの細身のズボン、サングラス、レザージャケット、ロックスター的な振る舞いというのも重要だったんじゃないですか。ディランはあの晩、対決するつもりでステージに立ったんじゃないですか? その後のヨーロッパ・ツアーでは観客を怒らせたいという様子すらありました。

 そんなに考えてやったことではないと思います。それまで、ディランはエレクトリック・バンドとステージに立った経験はありませんでしたが、ニューポートに行ったら、優れたエレクトリック・バンドもたまたま来てたので、一緒にステージに立って、自分の曲を試しに演奏し、ライヴでうまく行くかどうか様子を見ることにした。私の受けた印象だと、ディランは単にそうしただけです。あまり準備はしてません。どういう具合になるか知りたかっただけで、実際、いろんなレベルにおいてうまくいってません。うまくいかなかったのはブーイングのせいだとは言ってません。音響に問題があって、曲と曲の間には2分ものポーズがありました。几帳面な観客を前にしてです。滅茶苦茶な状態でした。イングランドに到着する頃には、かなり整い、やりたいことの焦点が定まっていました。その時点では、観客を挑発してやろうと思っていたでしょうね。

ビートルズも旧秩序を一掃するのにディランと同じくらい大きな役割を果たしてるんじゃないですか?

 いいえ。ビートルズは、ディランがロックも大人用の知的な音楽になりうるという考えを作り出す以前の存在です。過去に立ち返って思い出すのは非常に困難ですが、ディラン以前は、ロックは楽しいものにはなりえても、シリアスなものではなかったのです。それに、男女による違いがはっきりしていました。ビートルズは女の子が好きな音楽で、男の子はアコースティック・ギターを持ったボブ・ディランのようなシリアスな音楽が好きでした。もちろん、そういうのが好きな女の子も、ビートルズが大好きな男の子もたくさんいましたけどね。でも、基本的に、ビートルズは絶叫する女の子の音楽でした。でも、世の中は変わってしまい、多くの人がそれを覚えていません。私がこのことをラジオで話せば、いつもの女性リスナーが電話をくれて、「そうです。《Sgt. Pepper's》の頃は、ある部屋では女の子たちがモータウンをかけて踊ってて、男の子たちは別の部屋でトリップしながら《Sgt. Pepper's》を聞いてましたよ」と語ってくれることでしょう。後知恵から、誰もが、ディランはビートルズの真似をしたかったんだと語っていますが、《Bringing It All Back Home》のジャケットを見てください。ディランの周囲にはロッテ・レーニャのブレヒト・アルバム(《Sings Berlin Theatre Songs By Kurt Weill》)、エリック・フォン・シュミットのアルバムの他、その年の最もホットなポップ・レコードが転がっています。ジ・インプレッションズの《Keep On Pushing》です。ディランも、現代アメリカで最先端のヒップな人間になるためにはインプレッションズを聞かなければならないと考えるアメリカ人だったんですね。

 

1968年にはジャニス・ジョップリンがニューポートのヘッドライナーを務めました。バックはヘヴィーメタルの先駆的なバンド、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーです。1965年のニューポートの後、フォークはどうなってしまったのでしょう?

 ジャニス・ジョップリンは伝統主義者でした。ニューポートに出演することが出来て大変喜んでいました。彼女は他の出演者と同じことをやりました。パーティーに顔を出し、他のミュージシャンの演奏を聞きました。ディランがやったような大名旅行はしていません。彼女は心からニューポートを楽しんでいました。フォーク界はというと、その直後に起こったのは世代交代です。ジョニ・ミッチェル、レナード・コーエン、サイモン&ガーファンクルがビッグ・ネームになりました。多くの人々にとっては、それがフォークでした。ウッドストック・フェスティヴァルを見ればわかる通り、3日間のうち、1日目はフォーク・ミュージックです。ジョーン・バエズが観客と一緒に〈We Shall Overcome〉を歌って、その日は終了です。ニューポートそのものです。ウッドストック出演者の4分の1がニューポートに出演経験のあるミュージシャンです。フォークは消えてません。若くてイケてるルックスの、大学に通った経験のある白人によって担われるようになっていました。若くてイケてるルックスの、大学に通った経験のある白人だって炭坑労働者やミシシッピ州のブルース・シンガーと同じ世界の中にいるという考えからは、フォークは切り離されていました。



1960年代といったらヒッピー、ドラッグ、ロック・ミュージック、フリー・ラヴですが、これらは皆、1965年以降に登場したものですね。ディランの1965年のニューポート・ライヴを「1960年代を分断した夜」と考えるのは適切なことでしょうか?

 ヴェトナム戦争前は、白人の中産階級出身の大学生で、革命を支持しているとしたら、自分を別の人間----労働者や黒人----と結びつけて考えていました。しかし、ヴェトナム戦争が始まると、自分自身が国外に送られて死ぬか刑務所に入るか、という危険にさらされることになりました。これは文化的にも重大な変化です。突然、若い世代は、炭鉱労働者や黒人を本物の苦しんでいる民衆のモデルとして見ることを止めてしまいました。苦しんでいる民衆のモデルは、長髪とドラッグ、ヴェトナムで死ぬ可能性を抱えた自分たちになりました。これは非常に重大な変化です。彼らではなくて我々なんですから。

ディランはフォーク・ミュージックへの信仰を失っていませんでした。1965年ニューポートの約30年後にソロ・アコースティックでフォーク・ソングをレコーディングして、《Good As I Been To You》をリリースしました。

 極めて首尾一貫しています。デルタのブルースマンや炭鉱労働者たちが歌っていたものが本物のフォーク・ミュージックだと、ディランはずっと思っています。《Another Side Of Bob Dylan》までにはフォーク・ミュージックを歌うのはやめていたという発言がありましたが、それはつまり、ディランはああいう歌をフォーク・ソングとは呼んでいなかったということです。「皆から、あいつはフォーク・シンガーじゃないって言われるようになるまで、僕は何回、自分はフォーク・シンガーじゃありませんて、言わなきゃならないのかなあ」なんていう発言もありました。ジョーン・バエズは本物のフォークではなく、アーント・モリー・ジャクソンこそ本物のフォーク・ミュージックだと思っていた『リトル・サンディー・レヴュー』誌の連中の中から、ディランは出てきたんですよ。奇怪な曲作りの鉱脈を深く深く掘り下げることを、ずっと続けています。そういうものに対する信仰を失っていません。

  

ディランがシナトラの曲を歌っても、ブーイングではなく貴重な声援が飛びます。ディランはまだ何らかの使命を背負っているのでしょうか? 好きなことをやっているだけなのでしょうか?

 私は、ディランがこれまでに行なった選択の全てを、楽しんできたわけではありませんが、ディランは次の段階に移行する時、これまで愛していたものを全く捨てない傾向のある人物です。ディランが興味を抱いていること全てと関わっているレベルは、驚くべきことの1つです。シナトラに関しては、何が動機かは全くわかりません。シナトラは、ディランが20〜30代だった時に50〜60代だった人の音楽なのに、ディランがそれを大好きというが、一部の人には理解し難いようですね。シナトラは歳を取るとわかる傾向のある音楽ですが、その点では、ディランも皆と同じということです。

  

なぜディランは今もなお演奏活動を続けているのでしょう?

 『Chronicles』はありのままを腹蔵なく語っている魅力的な本だと思いました。実はそうではなくて、私が騙されてる可能性もありますが…。でも、とにかく、私はそういうふうに読んだのです。『Chronicles』から私が読み取ったのは「オレがやってて気持ち良く感じるのは、ステージに立って音楽を演奏することなんだ。長年、オレは大層なことに、自分が神秘主義詩人だと思ってたけど、最近、そうじゃないって気づいたんだ。オレの仕事はステージに立って歌を歌うことなんだ。しかも、それが得意なことなんだ」ってことです。私はこう理解しました。ディランはそうしているのが一番心地良いんでしょう。ツアーを続けている理由は、バンドと一緒に1、2時間ステージに立つのが一番気持ちいいからでしょう。


The original article "Conversation with: ELIJAH WALD" by Sid Astbury
The Bridge・Spring 2017・No.57 p.59
Reprinted by permission
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2017年04月11日

『ジューダス! ロック史上最も有名な野次』発売

 ロックンロール叢書の電子書籍第1弾『ポール・マッカートニー死亡説大全』を出版して以来、5年も経過してしまいましたが、第2弾の本『ジューダス! ロック史上最も有名な野次』をやっと出すことが出来ました。今回は1966年5月17日にイギリス、マンチェスターで行なわれたボブ・ディランのコンサートに関する本です。生粋のマンチェスターっ子で、実際にこのショウを見たCP・リーが、自らの思い出だけでなく、関係者やコンサートを見た他の人々の証言も集めて紹介しながら、ボブが「ジューダス!」と野次られたことについて社会文化史的考察を行なっています。
 価格は2017年4月における英語版の販売価格と同じ、775円となっております(Kindle Unlimitedで読み放題です)。



CPのウェブページです:
http://cplee.co.uk/

 マンチェスターで生まれ育ち、実際にコンサートを見て、1971年にはブートレッグを手に入れていたCP・リーとは雲泥の差がありますが、私もボブ・ディラン・ファンの端くれとして、違う経緯をたどってフリー・トレード・ホール公演の音源に接してきました。私が知っていて、CPが書き漏らしていることも少しあるので、まずはそれから(私の信仰告白も含めて)つきあってください。
 私がボブ・ディランのファンになったのは、ビートルズのレコードを買い始めた少し後くらいなので、中学2年生の頃です。初来日公演の半年「後」くらいだったので、近所のレコード屋には帯に「来日記念盤」と記されたアルバムが並んでいました。香月利一・著『ビートルズ辞典』を読んで、海賊盤という怪しいものが存在することを知ったのも同じ頃です。ビートルズの日本公演のレコードが存在すると知ったが最後、どうしても欲しくなったので(好奇心>尊法精神)、この本を持って近所の楽器店兼レコード屋に行ったところ、お店のオジサンから「うちはちゃんとしたレコード店なので、こういうものは扱ってません」と叱られてしまいました。しかし、音楽雑誌の後ろの方のページに海賊盤を扱っていると思しき怪しいレコード屋の広告があることに気づき、実際にそこに行くまでそんなに時間はかかりませんでした。当時は、郊外で暮らす貧乏人のガキにとって、都内に行くのは年に数回の特別なイベントで、学校が休みのシーズンに九段会館で行なわれていたビートルズの映画コンサートに行って、その帰りに西新宿7丁目に寄るというのが、残りの中学時代と高校時代の買い物ルートになりました。
 1970〜80年代にはボブ・ディランに関する本や雑誌は日本には殆どありませんでした。あっても、評伝か、歌詞を文学的に解釈する本だけで(こういうふうに受容してきたので、ノーベル文学賞にも違和感は覚えませんでした)、親切なレコード・ガイドなど1冊もありません。しかし、そのうち、1966年のイギリス公演ではロック・バンドと一緒に演奏して客から野次られたことや、その様子が収録されている海賊盤があるということを、どこかで読んで知りました。1970年代後半はロックが歴史というパラダイムで認識され始めた頃で、アメリカの評論家が選んだロックの名盤トップ200をまとめた本『これが最高!(Critic's Choice Top 200 Albums)』が出たのですが(現在よくある歴史的名盤特集の第1号だと思います)、それにこのコンサートが収録されている海賊盤《In 1966 There Was》が載ってるじゃありませんか。海賊盤なのに《Sgt. Pepper's》や《Blonde On Blonde》《Exile On Main St.》《Born To Run》等と同じリストに含まれているのです。海賊盤でエントリーしているのは、これ1枚でした。私の好奇心は大いに刺激されてしまい、次に新宿に行く時にはこれを買おうと心に決めたことは言うまでもありません(こうしてすぐに本道からそれてしまうのは、私の人生における悪い癖です)。
 そうして、地元の中学を卒業する直前に(ポール・マッカートニーが大麻不法所持で逮捕されて国外退去処分になった直後)、西新宿7丁目にあったKINNIEという伝説的ブートレッグ・ショップ(現在、この場所には演歌と落語の専門店が入っています)で3980円で買ったのが、PHOENIXというメーカーが製造した《Tough Songs》というアルバムです。名盤本に掲載されていたタイトルのものはなく、裏ジャケットに記されている曲目を見て、これかなあ?と思って購入し、帰宅して聞いてみたら大当たりでした。「ジューダス!」「お前なんか信じない。嘘つきめ」という野次と返答(この野次と返答、次に聞こえるオフマイクの発言「バカでかい音でプレイしろ」の解釈にも長い歴史があります)も生々しく収録されていましたから。このレコードはボブ・ファンの必修教材で、この頃は誰もが(もちろんCPは例外です)ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール公演だと信じていました。

  

 この定説が覆される大きなきっかけは、未発表トラック入り高額ボックスセットの先駆的リリース《Biograph》(1985年)のブックレットに、「実際にはマンチェスター公演だが、観客とディランとの驚くべきやりとりは数日後のアルバート・ホール公演のもの」と書いてあったことです。どういう経緯でこのような中途半端な情報がオフィシャル筋から出たのかは今でもなお謎ですが、その後間もなくして、「やりとり」と切れ目なく繋がっている〈Ballad Of A Thin Man〉と〈Like A Rolling Stone〉の2曲もマンチェスターではないか(だって他の曲と同じ音質だもん)という説が有力になりました。しかし、この段階でも「説」の域を出ず、真相は依然として不明。1989年に伝説的ブートレッガーThe Swingin' Pigが発売した同音源のアルバム《Royal Albert Hall 1966》では、依然として、エレクトリック・セットの全曲がアルバート・ホール公演というクレジットのままでした。一方、マンチェスター公演のアコースティック・セットも1980年代半ばに流出し、1986年に初めてブートレッグがリリースされましたが、こちらはマンチェスター以外の説は出てこなかったと思います。

   

 ということで、音源全体がマンチェスター公演であると「確定」したのは、1998年にブートレッグ・シリーズの第4集として《Live 1966 "Royal Albert Hall"》がリリースされた際なのですが、この公演のリリースは一度1994年くらいに予定され、キャンセルになるという経緯がありました。そんなゴタゴタの直後の1995年にリリースされたブートレッグCD《Guitars Kissing & The Contemporary Fix》(クレジットはマンチェスター)は、イギリスで一部マスコミに対して配布された試聴用サンプルカセットを音源としたようだという噂を私は聞きました。サンプルカセットはコピーされ、この海賊盤が出る前年にはボブ・ファンの間で広く出回っていました。
 さて、やっと本書『ジューダス! ロック史上最も有名な野次』の話に入りますが、CP・リーがオリジナル版『Like The Night』を出版したのが1998年。正規盤《Live 1966 "Royal Albert Hall"》のリリースとほぼ同時です。歴史的コンサートがやっと正規に発売されたということで大きな話題になり、その直後のタイミングで「オレがその野次の主だ」という人物が現れました。出版を数ヶ月待てばよかったのに!と当時感じたことを覚えています。この件を盛り込んだ増補改訂版『Like The Night 2』が出たのは2004年のことですが、昨年11月にCPが自費出版した電子書籍バージョンは基本的にはこれを電子データ化したものです。
 マンチェスター公演に関しては、さらに運命のひとひねりがありました。2005年に公開されたマーティン・スコセッシ監督の映画『ノー・ディレクション・ホーム』に、ボブがマンチェスター公演で〈Like A Rolling Stone〉を演奏する映像が収録されたのです。「ジューダス!」と叫ぶ人物の顔までは映っていませんが、その叫びが発せられた直後のボブの様子はしっかり映っています。これまでにさまざまな本や雑誌で書かれ続けてきた(私も前世紀に書いた記憶があります)「ボブは野次に腹を立てて反撃。バンドに音量アップを指示」という伝説は否定されました。怒っていません。ニコニコ。余裕綽々です。「ジューダス!」の後の、ボブの「お前なんか信じない」「お前は嘘つき」はバンドの誰かとジョークを飛ばし合っているような感じです。野次への反撃ではなさそうです。しかも、その後の「どデカい音でやろうぜ(Play fuckin' loud)」では、ボブの口の動きと音が微妙に合っていません。「loud」の「lou」のところまでは一致してそうですが、最後に「d」を発音するとしたら、あんな口の形にはなりません。「イー」と言ってそうです。
 この発言の主に関しては今でもなお諸説紛々としており、ドラマーのミッキー・ジョーンズは前世紀から一貫して「ボブではない」と断言しています。あの時、ボブからあんな言葉が出たという記憶はないし、そもそもボブはあんなしゃべり方をしないというのがその根拠です。が、昨年秋にロビー・ロバートソンが発表した自伝『Testimony』ではボブの発言だと書いてありました。あの時、ボブと面と向かっていたロビーがこう証言しているので説得力がありそうですが、彼がはっきりボブだと言ったのは、私の記憶では今回が初めてで、今まではずっと「オレではない」という答え方でした。ということで、さまざまな人の証言や映像(これが決定的!)から判断して、私は今のところは「ボブではない誰か」説を支持しています。



 という経緯があっての今回の電子書籍『ジューダス!〜ロック史上最も有名な野次』の発売に至ったのですが、その準備中に著者のCPと面白いQ&Aをしたので、ここでインタビュー形式で紹介したいと思います。

1819年に民衆のデモを当局が武力で鎮圧して死傷者が多数出るという事件が起こった場所にフリー・トレード・ホールが建てられたとのことですが、どうしてフリー・トレード(自由貿易)という名前がついたのですか?

 産業革命で力をつけた新興中産階級が行なっていた運動は参政権を求めるものでしたが、政府が国内の地主(貴族)を保護するために穀物法を作り、輸入穀物に高い関税をかけて値段を人為的に高くコントロールしていたことに反対もしていました。それで抗議デモでは「穀物法撤廃! 自由貿易(フリート・レード)賛成!」といったスローガンを掲げていたのです。そこから、この名前がつきました。

「Play fuckin' loud」は誰の発言だと思いますか?

 いろんな説があることはわかっていますが、この件についてはあまり意見を言わないことにしています。ああいうふうに「号令」を発せられるのは座長のボブしかいなかったのではないかと、私は思います。

チケットの値段は一番高い席で「20/-」とのことですが、「20シリング」という読み方でいいんですか? ということは1ポンドだったんですか?

 正解です。昔の貨幣制度では1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンスでした。

比較のために教えてもらいたいのですが、当時はレコードはいくらだったんですか?

 LPは平均1ポンド12シリング6ペンス、シングル盤は6シリング8ペンスでした。ちなみに、私が1966年の夏休みにやったアルバイトは週給9ポンドでした。

昔の£1は今ではいくらの価値があるかを計算してくれるサイト:
https://www.measuringworth.com/ppoweruk/


ボブの他にイギリスの「伝統主義者」から激しい反発を受けたフォーク・シンガーはいるんですか?

 答えはシンプルにノーです。ディランほど劇的に方向転換をしたアーティストはいませんでした。

ドノヴァンはどうだったんですか?

 ドノヴァンはもともとポップ・アーティストで、まとっている雰囲気もディランとは全然違いました。それに、ツアーはしていませんでしたし。〈Sunshine Superman〉が出た頃には、ディランが音楽を変えた後で、ファンはそれを尊重するようになっていました。まさに時代は変わるです。しかも、急速に。あのエレクトリック・ツアーから半年も経たないうちに全てがすっかり変わり、1967年になると、あんなことなかったかのようでした。少なくともメインストリームではそうです。
 でも、ロンドンのエンプレス・オブ・ロシア・フォーク・クラブでは、1980年代になってもまだ、エレキギターを使っていいかどうかでもめていたのを覚えています。

   
 
クリントン・ヘイリンは『Bootleg!』のまえがきで、マンチェスターにあったエロ本/ブートレッグ店、オービット・ブックスの話をしています。あなたが《Live At The Albert Hall》を買ったのもここですか?

 オン・ジ・エイス・デイっていう店です。オービットが出来たのは数年後でした。

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 ロックンロール叢書は暇だけはたくさんある私が個人的にやってる資金ゼロの企画です。メインストリームなファンの眼中には入れてもらえない超くっだらね〜ことにエネルギーをかけてこだわってるマニアックな本を紹介したいと思い、第1弾は「荒唐無稽な死亡説」、第2弾である今回は「野次」の本を出しました。第3弾はあれかなあ…と数年前から考えているものがあるので、次回もお楽しみに。今度は5年も待たせないつもりです。

   

posted by Saved at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする