2019年01月12日

グレイトフル・デッドのブートレッグLP:東海岸と西海岸

 今年はロックのブートレッグ50周年(それから、ポール・マッカートニー死亡説も)ですが、それを記念したイベントは何かあるのかな? ご存じでしたら教えてください。
 ブートレッグの歴史をまとめた本に、1995年に発売されたクリントン・ヘイリン著『The Great White Wonders: Story of Rock Bootlegs』があります。シェイクスピアが劇場での上演にこだわり、作品の書籍化には消極的だったので、勝手に出版する連中が現れた話や、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で1900年前後にシリンダー型蓄音機で非公式録音を行なってたスタッフがいたという逸話から始まる本書は、1996年には『Bootleg: The Secret History of the Other Recording Industry』、2003年には『Bootleg!: The Rise & Fall of the Secret Recording Industry』というタイトルで、2度、増補改訂がなされ、全体としては、初版時には存在していなかったネット経由の音源交換の黎明期までを網羅しています(自分用にKindleのフォーマットで勝手に邦訳版を作って持ってるんですが、紙の本として正式に出してくれる出版社ないかなあ?)。が、ヘイリンの趣味からははずれるグレイトフル・デッドに関する記述は、誠に残念ながら殆ど皆無。ファンによるコンサートの録音を解禁し、トレードされるテープが無料の宣伝となって人気爆発という話、かなり面白いんですけどね。今回はテープ・トレードが主流になる前の、グレイトフル・デッドのブートレッグ事情に関する記事を紹介します。

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このブログで紹介したグレイトフル・デッドの音源に関する記事

・グレイトフル・テーパーズ:ファンによるコンサート録音の歴史
http://heartofmine.seesaa.net/article/461500041.html
・コンサートの録音には猛反対だったグレイトフル・デッド
http://heartofmine.seesaa.net/article/451712660.html
・長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命
http://heartofmine.seesaa.net/article/395238664.html
・今年は「コーネル 1977-05-08」の40周年
http://heartofmine.seesaa.net/article/446967757.html




グレイトフル・デッドのブートレッグLP:東海岸と西海岸

文:Corry342


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《The Grateful Dead At The Hollywood Palladium》

1971年8月6日ハリウッド・パラディアム公演。西海岸で出回っていた多くのデッドのブートレッグと同様、1枚組見開きジャケットのアルバムだった。


 グレイトフル・デッドは観客がショウを録音するのを許可していたことで名高く、このポリシーはインターネット文化の先駆と見られている。しかも、インターネットが文化になる以前から、それを行なっていたのだ。デッドがショウの録音を奨励していたからこそ、ファンの間では、出来るだけたくさんのショウを見るために何日も続けて数百マイル移動するといった情熱も生まれた。コンサートの録音に対する寛大な方針は、元をたどるとジェリー・ガルシアがブルーグラスをプレイしていた頃にさかのぼることが出来るあろうが、時間が経ってみると、意外なことに、これが成功の重要な鍵となったのだ。
 しかし、この話には裏がある。グレイトフル・デッド側は、ファンがコンサートを録音するのを許可し、音楽を自由に交換するのを奨励する以外の選択肢はないと感じた末に、やむなくそうした感もあるのだ。そして、グレイトフル・デッドのテープの売買は悪という意識が出来上がったおかげで、我々の殆どがデッドの未発表音源を最初はブートレッグLPで聞いていたという歴史的事実を、古株のデッドヘッズほど語らない。特に東海岸ではそうだ。ブートレッグ・レコードの売り上げは極少量だが、昔は、どんなバンドであっても、超熱心なファンはブートレッグを追い求めていたものであり、ブートレッグはグレイトフル・デッドの人気拡大にも大きな役割を果たしていた。特に東海岸の都市においてはそうだった。
 グレイトフル・デッドは出身こそ西海岸なのだが、出世は東海岸のほうで果たした。デッドヘッズ文化はまずは東海岸で根付き、その後、西に向かっていったのだ。西海岸では人気がなかったというのでは決してない。愛され方が違っていたのだ。サンフランシスコでは----オレゴン州でも----デッドは、少なくともジェリー・ガルシアは、すぐに戻って来るから、またコンサートで会えるという意識だったのだが、東海岸のグレイトフル・デッド・ファンにとっては、どの都市をとっても年に1、2度しかプレイしないし、必ずしも同じところに戻って来てはくれなかった。ということで、ショウをたくさん見るためのデッドヘッズの移動キャラヴァンが生まれたのだ。最初は小規模だったが、後に大規模になっていった。そうなる前の時代においても、長距離の旅をしてでもデッドのコンサートは見る価値があるとファンに思わせるのに、ブートレッグ・レコードが大きな役割を果たしていた。旅も最初は東海岸の現象だったのだ。


 ジェシ・ジャーノウ著『Heads: A Biography of Psychedelic America』(Da Capo Press, March 2016)は、グレイトフル・デッドを取り巻く地下経済----ブートレッグ・レコードを含む----を詳しく取り扱った最初の本である。


『Heads』

 1960年代後半にカセット・レコーダーというものが発売されたが、持っている者は殆どいなかった。とにもかくにも、カセットで録音したものは出回っていなかった。それに、カセット・レコーダーを持っていたとしても、未発表音源の入手の役には立たなかったであろう。録音する者は皆、オープンリール・レコーダーを使っており、当時のカセットは酷い音質だったからだ。しかし、オープンリール・レコーダーは使い勝手が悪く、カジュアルに音楽を聞くのには向いていなかった。だから、殆ど全てのロック・ファンはレコードのほうを好んだ。少数の熱心なテーパーがグレイトフル・デッドのコンサート会場にオープンリール・デッキを持ち込み----プロモーターも彼らを止める理由を持っていなかった----オーディエンス録音を始めた。こうしたテープはオーディオ・マニア仲間の間で共有され、一部の者はブートレッグ・レコードを作ろうと考えた。
 こうしたブートレッグの歴史は、特に東海岸では滅多に語られなくなってしまったのだが、この殆ど失われてしまった歴史に光を当てて豊かなコンテクストで語ったのが、2016年に発売されたジェシ・ジャーノウ著『Heads: A Biography of Psychedelic America』(Da Capo Press)だ。この本はグレイトフル・デッドを取り巻く地下経済の様子を詳しく紹介し、それが21世紀のオルタナティブなエコシステム的財政につながる道をいかにして作り出したかを述べている。当初は合法だったLSDの取引から物語は始まるが、それが地下に潜る頃には、今度はグレイトフル・デッドのブートレッグ市場が大きくなった。ジャーノウはブートレッグ・アルバムを誰が製造・販売していたのかに初めて着目した人物だ。私はジャーノウにメールで個人的に質問して、グレイトフル・デッドのブートレッグが東海岸で登場したのはいつ頃なのか訊いた。そして、次のような回答を得た:

 デッドのブートレッグLPが東海岸に現れ始めたのは、1969年末に『Rolling Stone』誌で《Great White Wonder》が取り沙汰されたよりも後の、1970〜71年です。デッドのブートレッグが本格的に出回るようになったのは1971年のことですが、バンドがアンダーグランドの存在からアメリカ中のアリーナで演奏するようなバンドになった時期と重なるのは、偶然ではありません。私はこの時期のデッド・ファンの世界を本当に面白いと感じています。バンドの人気が爆発しつつある頃で、1971年10月に《Skullfuck》がリリースされて「デッドヘッズ」という言葉が使われるようになるよりも前です。テープ・トレード等がデッドの世界で当たり前のこととなるよりも前です。デッド・フリークが彼らの呼称だった頃です。
 『East Village Other』(ニューヨークのアングラ紙)の記事によると、デッドのブートレッグは《Skullfuck》のリリース直前の夏に急増したようです。特に人気のあったショウは1970年10月4日のウィンターランド公演です。ジャニス・ジョップリンが亡くなった晩に行われていたショウを収録したブートレッグは、音源がFM放送で高音質だったのでよく売れました。FM放送を利用するというのはブートレッグ製造の極めて標準的な手順で、今日、アナログ・リバイバルという呼称とともにリリースされているブートレッグの新しい波でも同様です。ライヴ・コンサートの放送はデッドやその周辺のバンドが道を切り開いたようなものなので(貴殿も既に指摘していますね)、ブートレッグ現象のこの側面に関しては、ある意味、自業自得と言えます。黎明期のブートレッグの多くは白レーベルで、誰のどのコンサートなのかという情報は皆無でした。そうしたことを特定することが出来るようになったのは、ずっと後のことです。
 マーティー・ワインバーグが自家製ブートレッグLP第1号を世に出したのも、1971年の春か夏のことでした。マーティーはデッドのコンサートを高音質で録音していたテーパー第1号でもあります。彼はブロンクス・ハイスクール・オブ・サイエンスに通う天才少年で、10代にしてオーディオ工学研究会のメンバーでした。彼はモノラルのUHER製ポータブル・オープンリール・レコーダーをフィルモア・イーストにこっそり持ち込み、ガルシア側に立ちました。彼のテクニックは後のテーパーが開発した手法とはかなり違っていましたが、東海岸のデッドヘッズの間では彼のテープは伝説になりました。私の知り合いで、デッドのカバー・バンドの最古参、カヴァルリーのギタリストだったジョン・ジアスによると、マーティーのテープは素晴らしい音質だったということです。でも、マーティーの友人の殆どはオープンリール・デッキを持っていなかったので、1970年秋のコンサートからお気に入りのジャムを収録したレコードを製造したのです。ポートチェスターのキャピトル・シアター公演(一部はフィルモア・イースト公演)を収録したこのブートレッグは500枚製造され、半分は無料で配り、もう半分は売ったそうです。再プレスはしませんでしたが、ニューヨークの複数のラジオ局で放送され、マーティーはWBAIの番組『レイディオ・アンネイマブル』(ホストはボブ・ファス)にゲストとして招かれ、出演したこともありました。NYCで最もヒップなこの番組は、イッピーの最初の集合場所となり、ボブ・ディランも何度か電話で出演を果たしています。


 『Heads』は、グレイトフル・デッド文化のさまざまな要素が1つのネットワークになっていった様子を、見事にまとめている。デッドヘッズはある種の「コミュニティー」だったと何となく語る者が多数を占める中、その蓋を開けてネットワークの詳しい構造を見たのはジャーノウが初めてだ。

1960年代のブートレッグ・レコード

 1960年代のブートレッグの歴史は霧に覆われてはいるが、とても重要だ。最初のブートレッグは、ジャケットは白で、レコーディングに関する情報が何も記されていないものが殆どだった。フィーチャーされているのはボブ・ディランやローリング・ストーンズといった最も人気のあるアーティストのみで、ロンドンやニューヨーク、ロサンゼルスといった音楽が盛んな大都市にあるヒップな独立系のレコード店でしか手に入らなかった。しかし、ブートレッグは、こうしたレコードを手にすることの出来た少数のラッキーな者にとっては、天啓に等しいものだったのだ。世界で最も人気のあるソロのロック・アーティスト、ボブ・ディランは1966〜68年には殆ど何もリリースしていなかったのだが、ニューヨーク州ウッドストックの近所の小屋の地下室でザ・バンドとともにレコーディングしたラフだがパワフルな未発表曲の、10曲ほどのデモを収録したブートレッグが登場すると、皆が驚いた。ロック・ファンはそのような音楽が存在することを全く知らなかったからだ。このアルバム《Great White Wonder》は『Rolling Stone』誌でもレビューされた。
 《Great White Wonder》がどれだけ売れたかは誰も知らないが、正規盤だったらゴールド・レコードに認定されるほどだった(25万枚)と大げさな数字を言う者も多いが、実のところはその10分の1だっただろう。しかし、購入者は皆、大都市に住んでいる者ばっかりだったので、このレコードは大いに注目を浴びた。もともと違法なアルバムゆえ、他のブートレッガーがオリジナル盤の中身をパクるのを止める術{すべ}は皆無だったため、音質の劣化したコピー盤(タイトルとジャケットが違うこともあった)を掴まされた者もたくさんいた。この後、《Royal Albert Hall》や《Play Fucking Loud》等のさまざまなタイトルで、もっと驚きのブートレッグがリリースされた。このレコードはボブ・ディラン&ザ・ホークスが1966年にイギリスで行なったコンサートをプロの手でレコーディングしたもので、全盛期の若きアーティストによる8曲の名曲が収録されていた。ブートレッグの商売ではよくあることなのだが、アルバムはロイヤル・アルバート・ホール公演を謳っていたが、実際には数日前にマンチェスターのフリー・トレード・ホールで録音されたものだった。わざと嘘をつくことで音源提供者の特定は難しくなり、それが誰なのかは今日でも謎のままである。
 ブートレッグ・レコードの歴史は永遠の謎だった。こうした謎のレーベルを作った者は違法行為を行なっていただけでなく、アーティストから怒りを買ってもいたので、彼らが身を隠したままであるのも当然だった。しかし、ブートレッグ・アルバムは、こうした得体の知れないアルバムが入手可能な大都市で暮らすロック・ファンに大きな衝撃を与えた。レコード産業に与えた衝撃も大きかった。アーティストはリリースされるもののクオリティーを自ら管理出来ないことに懸念を表明し、演奏が荒かったり録音状態が良くなかったりするものがしばしば出てしまうことに困惑した。一方、レコード会社はアーティストとの契約関係をブートレッガーに蔑ろにされ、ブートレッガーがポピュラー音楽を配給して利益を得ることを脅威と感じた。ストーンズのライヴ・アルバムやボブ・ディランの《Basement Tapes》等、多くのアルバムが、ブートレッグの登場を未然に防いだり、既存のものを駆逐したりするためにリリースされた。
 ブートレッグの歴史のヴェールの向こう側の様子を多少暴いたのが、クリントン・ヘイリン著『The Great White Wonders: Story of Rock Bootlegs』(1995年)だった。ヘイリンはイギリスを代表するロック研究家で、1960年代に活躍した主なブートレッガーを何人か探しだし、ある特定のレコードの製造に関する興味深い話を語っているので、ロック・ファン必読の書と言える。しかし、ヘイリンひとりで全ての話を語れるわけではない。彼の話の中心はロンドンとロサンゼルスの(比較的)「大物」のブートレッガーたちだ。ヘイリンの語る歴史の中では、当然と言えば当然なのだが、Rubber Dubber、Trademark Of Quality、Swinging Pigといった有名ブートレッグ・レーベルが優先されている。最も注目され最も影響力のあったブートレッグ・レコーディングは、ローリング・ストーンズやボブ・ディランといったアーティストのものだったので、それが物語の重要な部分となっており、グレイトフル・デッドは殆ど関心が寄せられていない。デッドのブートレッグはヘイリンの語る歴史においては周辺的な存在となってしまっているのだ。しかし、幸いにも、ジャーノウの本は我々がこのギャップを埋めるのに大いに役立っている。

グレイトフル・デッドのブートレッグの東海岸での流通

 1970年頃のカリフォルニア州北部では、グレイトフル・デッドは、まだまだ比較的少数だが熱狂的なファンに愛されていたのだが、サンフランシスコ・エリアのデッドヘッズはグレイトフル・デッドが数ヶ月おきにコンサートを行なってくれるのに慣れていた。デッドのコンサートがない間も、ニュー・ライダーズかガルシア/サンダーズを小さい会場で見ることが出来たので、ベイエリアで暮らすファンはもっとたくさんのデッドのショウを見ようと気苦労することはなかった。間もなく次のショウがあることはわかっていたからだ。
 しかし、東海岸では事情は異なっていた。《Workingman's Dead》《American Beauty》のリリース、及び、間断なく行なうツアー活動のおかげで、デッドは北東部でも人気バンドになった。しかし、ブルックリンやケンブリッジ、プリンストンのファンにとっては、デッドがいつ再び来てくれるのかも、以前プレイした会場で再びプレイしてくれるのかも定かではなかった。なので、デッドのショウの「オッカケ」は西海岸ではなく、まずは東海岸で始まったことなのだ。同時に、東海岸の新しいデッド・ファンはグレイトフル・デッドの音楽を、手段は選ばず、もっとたくさん欲しがった。記憶のはっきりしている人々なら、デッドの音楽をどうやって手に入れたかを覚えているだろう。ブートレッグLPによってだ。
 デッドのアンダーグランド・テープの文化が「音楽は自由に交換されるべし」というスローガンとともに定着したのは1970年代半ばだったが、以来、我々はそうした需要がどのようにして高まったのかを忘れている。まず、人々はカセットデッキを導入する以前には、ブートレッグ・レコードを買っていたのだ。これが意味しているのは、デッドもワーナー・ブラザーズもこうしたレコードの売り上げから利益を得ていないということである。ブートレッグを購入していた者の殆どは、数年後にはテープ・コレクターになっているので、ジャーノウの取材を受けた者は皆、自分史を語る際にはこうした時代があったことも正直に述べている。こうした失われた時代を重大な時期として捉えているのが、ジャーノウの調査とその著書なのだ。デッドのブートレッグ・アルバムという種がなかったら、アンダーグラウンドなテープ・ネットワークもなかったであろう。サイケデリックな地下経済全体が、全く異なる様相を呈していたことだろう。ジャーノウによると、デッドの初期のファンは次のところでブートレッグを手に入れていたらしい:

 一部のレコード店では、仕入係がコネクションを持っていました。多くの場合、スーツケースや車のトランクから現物を取り出して、という形の流通で、確固たる配給システムはなかったと思います。なので、場所は極めて限られていたでしょう。ニューヨークでは、時々、コンサート会場の外で売られていました。ゲイリー・ランバートの話によると、マンハッタンの2番街のフィルモア・イーストから道を渡ったところでブートレッグが売られているのを見たのが、彼のブート初体験だったそうです。グレイトフル・デッドのテーピングを始めた別の人物、ジェリー・ムーアの場合、コンサートの録音を始めようと思い立ったのは、ブートレッグのディーラーがグリニッジ・ヴィレッジのある片隅にいると聞いて、ブロンクスからわざわざ出向いたものの、その日はそこにいなかったので超がっかりしたからだそうです。それで、自分でショウの録音を始めたのだとか。
 ブートレッグを入手するには郵送という手もありました。私の知ってるところは『Dead In Words』です。これはノース・カロライナで発行されていたグレイトフル・デッドのファンジン第1号で、『Dead Relix』より1年ほど早く出ていたものです。いくつかあったブートレッグ専門誌の1つでした。ディラン専門のもの、ビートルズ専門のものもありました。後にグレイトフル・デッドのテープの有名トレーダーになって、バンドのテープ庫の管理人にまでなったディック・ラトヴァラも、『Dead In Words』誌を通して彼にとって初となるデッドのライヴ・テープを手に入れたんです。その後、ジェリー・ムーアとレス・キッペルがテープ・クラブ「Dead Relix」を作り、1973年には『Rolling Stone』誌に取り上げられました。そして、1974年後半に雑誌『Dead Relix』を創刊し、フリーのテープ・トレードという概念を全国に広め始めたのです。


 ジャーノウの調査でも、アナログ時代にグレイトフル・デッドのブートレッガーが何人いたのか不明である。
 
 今となっては数を推測する術はありません。資料も断片的にしかなく、誰が何を作っていたのかは突き止めるのは困難です。中にはデッドヘッズが作ったものもあるようですが、多くの場合、曲のタイトルが間違っていたり、全くなかったりします。それに、ブートレッグは好まれていない形態のデッドヘッズ・フォーク・アートなのです。好ましい形態というものがあればの話ですが。私は、白レーベルのブートレッグに、以前の持ち主がたくさんのイラストや曲目を描き込んだものを見つけるのが好きです。このサイトにはブートレッグのカタログがあります。下ごしらえのレベルで、リリース年は極めて曖昧なのですが。
http://deadboots.qwattro.com/ [2019/1/12の時点では存在しないページ]


 ブートレッガー同士のつながりはあったのか? ひとりでやっていたのか?

 両方です。マーティー・ワインバーグにインタビューしたところ、彼はコンサート会場の外でブートレッグLPを売ってる輩は見たことないって言ってました。でも、彼も見に行ってたいくつかのショウで、そういう輩がいたことは確かです。『East Village Other』紙の記事によると、イッピーとつながっていて、東海岸でブートレッグを製造しているグループがあったようです。なので、互いに知り合いだったでしょう。私にはそれ以上のことはわかりませんが、これはいい記事です。コメント欄にはLightIntoAshesという人物による優れた注釈が付いています。
http://deadsources.blogspot.com/2013/11/august-26-1971-bootleg-battle.html


 グレイトフル・デッドのブートレッグLPに関するジャーノウのユニークな考察は、『Heads』に書かれているたくさんの優れた洞察の1つに過ぎない。ジャーノウは、語られるのことの多い物語や昔のジャーナリズムをそのまま紹介するのではなく、当時のシーンにかかわっていたさまざまな当事者を追跡取材しており、その分野はブートレッグ製造だけに限らない。『Heads』において、シーンの前提とされているのは、地下経済の支点の位置にいたのがグレイトフル・デッドだったということである。最初はLSD、次はブートレッグ・アルバム、次はテープ、次はTシャツ、そして次が、駐車場に出現する蚤の市「シェイクダウン・ストリート」になっていったのだ。こうした完全に未知の領域を上手に道案内してくれるジャーノウ著『Heads』は、どんなに推薦してもし足りない。この本は、多くのグレイトフル・デッドやデッドヘッズに関する「陳腐で当たり前な話」をさまざまな種類の事実とフィクションに分類している。まさにデッドヘッズ必携の本だ。

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 私が初めてブートレッグを買ったのは、パロアルトのダウンタウンのワールド・インドア・レコード(405 Kipling at Lytton)でだ。この広告で宣伝されているのはジミ・ヘンドリクスのレコード。



北カリフォルニアでのグレイトフル・デッドのブートレッグ

 西海岸では事情はいくぶん異なっていたのだが、カリフォルニアにはジャーノウのような人物はいないので、私が自分の知ってるなけなしのことを話すしかあるまい。1970年代前半、私はブートレッグLPをよく買っていた。グレイトフル・デッドの非公式リリースを入手出来るところはこの方法以外にはなかったと断言することが出来る。大学に通うようになると何人かと出会い、ネットワークの中に顔をつっこみ始めたが、最初の頃は自分ひとりだけだった。手書き文字のジャケット、もしくは、何も書かれてない白いジャケットの謎のアルバムは、私にとっては新しい秘密の世界への唯一の入り口だったのだ。
 高校の友人は、兄が買ったボブ・ディランのブートレッグを持っていた。後に《Bob Dylan Live 1966》として正規にリリースされた(わざと、ロイヤル・アルバート・ホール公演のものとして「リリース」された)このブートレッグのおかげで、私のディランの理解が爆発的に向上したので、他のアーティストにもこうした謎のレコーディングがあるのではないか?と考えないではいられなかった。
 ヘイリンはいくつかのアメリカ製ブートレッグ・アルバムの謎に満ちた誕生と、南カリフォルニアを拠点としていた2人の重要人物について詳しく語っている。この2人の重要人物とは「ダブ」と「ケン」だ(あれから20年も経っており、彼らの本名はネットを調べればすぐに出てくる)。ダブとケンはかの有名な《Great White Wonder》を製造し、ダブはローリング・ストーンズの《LiveR Than You'll Ever Be》の製造に関与した。ストーンズがデッドのPAを使って行なった1969年11月9日のオークランド・コロシアム公演、夜の部を録音したのはダブだ。1969年の終わりに、ダブとケンはチームを組んで、史上初のブートレッグ「レーベル」、Trademark Of Quality(TMQという略称も有名だ)を作った。Trademark Of Qualityは首尾一貫してさまざまなグループのハイクオリティーのレコーディングを世に出し、不透明極まりないブートレッグ業界においては、まさに品質の商標だった。
 友人が持っていたディランのブートレッグを見た後、常に注意を怠らないようにしていた私は、1974年前半に、遂に、パロアルトとバークリーでそういう店を見つけた。パロアルトには独立系のレコード店があり、ブートレッグは「輸入盤」のセクションにあった。それらがイギリスからの輸入品でないことは明らかだったが、そこに存在することで経営者にはささやかな「いいわけ」が与えられていた。一方、バークレー最大かつ最良の独立系レコード店、ラスプーチンズでは、ブートレッグは「中古盤」セクションに入っていた。多くの場合、明らかに中古の品ではなかったが、そこにあることで店にはある種の「いいわけ」が与えられていた。正規盤の新品が4〜5ドルだった時代に、値段が3ドル前後のブートレッグは魅力的な商品だった。
 ブートレッグの困った点は、特にグレイトフル・デッドのブートレッグの場合、中身が何かを特定するのが大変だったことだ。「ジャケット・アート」があったとしても、それは手書き文字の場合が多く、しかも、「Grateful Dead Live」のようなことしか記されていなかったので、あまり役には立たなかった。曲目が載っていることもあったが、こちらもあまり役には立たなかった。例えば、グレイトフル・デッドの歌で「We Can Share」って何?という場合なら、〈Jack Straw〉かな、と推測することが出来よう。しかし、「Only Love Can Fill」や「I Wash My Hands」となると困ってしまう。どんなブートレッグにせよ、購入にはリスクの要素が存在する。それがミステリアスな魅力を増やしていることも確かなのだが…。
 他にも、蚤の市(「スワップミート」とも呼ばれている)等でもブートレッグが入手可能だったらしいが、当時はそのようなものの存在を私は知らなかった。ビル・グレアムが仕切っているデッドのコンサートの会場外では、ブートレッグが売られているのは見たことはない。

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《The Grateful Dead Live At Fillmore West》

 グレイトフル・デッドのブートレッグの中で、比較的いつでも入手可能だったアルバムがあった。ジャケットが付いていて、曲目も正確で、しかも、音質は抜群だった。何年も経った後なのだが、このブートレッグがTrademark Of Qualityがリリースしたものだとわかった時も、特には驚かなかった。この2枚組アルバムは、1971年7月2日に開催されたフィルモア・ウェスト閉館記念公演でのグレイトフル・デッドの演奏をほぼ完全収録したものだった。TMQの場合、KSAN/KSFXの放送ではなく、KMET-fmの生中継を音源としていたのだが、高音質だった。スペイシーなカバー曲も収録しているこのアルバムは、デッドのもっとも有名なブートレッグの1つであり続けている。私にとっては超重要アルバムだった。異なる曲、異なるヴァージョンからなる別の宇宙が、音源情報も正確な状態で記録されていたからだ。カセットがどういうものなのかを知る前に、カセット・トレードで欲しい物がこうして決まっていったのだ。
 しかし、グレイトフル・デッドのブートレッグは他にもたくさんあったが、中身の詳細は明らかではない。それらは考古学的には謎のままで、いわば隠された世界のミステリアスな護符みたいな存在である。しかも、真の本質を知る手がかりは殆どない。そういうデッドのブートレッグは、2つのカテゴリーに分類することが出来るようだった。ひとつは、白ジャケットにタイトルがステンシル印刷され、レーベルは曲名がいくつか書いてあるような代物だ。もうひとつは、見開きジャケットになっているものだ。1枚組であっても、「見開きジャケット」のアルバムにはタイトルとアートワーク、写真がついていた。今日、そうしたアルバムを見ると、使用されている写真は全部、1971年に撮影された同じフィルム・ロールのものだとわかるが、もちろん、当時はわからなかった。私が「見開きジャケット」のアルバムが好きだったのは、ジャケットに書かれている情報が多かったからだ。それに、予算の限られているティーンエイジャーにとっては、良いものを掴む公算が高いからだ。今日、さまざまな情報から判断すると、グレイトフル・デッドの「見開きジャケット」ブートレッグは西海岸の現象だったようだ。少なくとも、グレイトフル・デッドの「見開きジャケット」ブートレッグは、流通している他のブートレッグLPとは別に製造されたもののようだ。他のバンドにはそうした作り方のアルバムは存在しないからだ。

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 西海岸の「見開きジャケット」仕様のデッドのブートレッグの最もよく見かける最高の例は《Hollywood Palladium》と呼ばれているアルバムだ。ジャケットに記されているクレジットは極めて正確で、立派なアイテムとなっている。このアルバムに収録されているのは1971年8月6日のハリウッド・パラディアム公演で、〈St. Stephen〉の名演奏をフィーチャーしている。《Live/Dead》収録曲をオルガン抜きで演奏している名演聞いて、私は魅了された。オリジナル・リリースではオルガンは必要不可欠のように感じていたので、なおさらだった。それに加えて、オーティス・レディングのナンバー〈Hard To Handle〉の熱いバージョンも収録されている。これは《Bear's Choice》のバージョンよりはるかに優れている(私は《Bear's Choice》を聞いた後にこのブートレッグを買ったのだが、いきなりブートレッグ・バージョンを聞いたとしたら、さぞかし驚きだったに違いない)。
 さらに驚きなのは、曲と曲の間にボブ・ウィアがステージで発した言葉だ。テーパーに対して、マイクがステージに近過ぎるので、良い音質で録音出来ないぞと言っているのだ。グレイトフル・デッドのメンバーが、非公式的ながらも、ブートレッガーの仕事を認め、アドバイスを与えているのである。ウィアの真意はわからないが、これはグレイトフル・デッドがブートレッガーに与えた祝福の言葉のようにも受け取ることが出来よう。伝説によると、ウィアに声をかけられたテーパーは、このレコードの音源となった有名なオーディエンス・テープを録音した人物ではないということだが、自宅のベッドルームで何度もこのLPを聞いてる間は、そんなことは知らなかった。このショウは《Road Trips Vol 1, #3》としてリリースされたが、ある年齢以上の者にとっては、パラディアム公演といったら〈St. Stephen〉と〈Hard To Handle〉に尽き、溝がすり減るほどレコードを聞いたものだった。

 

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《The Grateful Dead Hollywood Palladium I》(TMOQ 71064)
 1971年8月6日のハリウッド・パラディアム公演を収録したものとしては、これがオリジナルかもしれない。私はこのLPは聞いたことがないのだが…。


 《Hollywood Palladium》アルバムはいろんなジャケットで登場しており、全部が同一のブートレッガーによって製造されたものとは言えないだろう。恐らく、カオス状態の業界ゆえ、コピー盤も存在するはずだ。しかし、証拠によると、アルバムの最初のバージョンはケンのTrademark Of Qualityが製造したもののようだ。何しろ、高音質のオーディエンス・テープが目立った特徴なので、そう考えてもハズレではないだろう。最初に出た《Palladium》がTMQが作ったものだとしたら、1970年代前半に、グレイトフル・デッドの西海岸ブートレッグをカルフォルニアのブートレッグ業界のメインストリームの中に置いたのは、このアルバムだ。
 もちろん、他にもたくさんのブートレッグがあるが、その多くは、'71年7月2日フィルモア・イースト公演や、パシフィカ・レイディオ(KPFA、WBAIなど)で全国的に放送された70年5月2日ビンガムトン公演など、既に存在するテープの別バージョンだ。白ジャケットのブートレッグを手に入れて、そこに入ってる〈Dancing In The Street〉が既に持っているものだったりした時にはガッカリだったものだが、良い点もあった。数十年間に渡って、パシフィカ放送分にニュー・ライダーズのセットも含まれていたのを知っていたのは、音質は悪いのだが、そのブートレッグを持っていたからなのだ。
 ニュー・ライダーズの見開きジャケット・ブートレッグもあった。私はビンガムトン公演を収録したブートレッグ、1971年の大晦日公演、デッドのメンバーがゲスト出演した1973年3月18日のフェルト・フォーラム公演(WNEW-fmで放送された)のブートレッグも持っていた。ジェリーがバンジョーで参加しているアコースティック・ゴスペル・セットと、ウィア、キース&ドナ、ガルシアとランブリン・ジャック・エリオットのゲスト参加をフィーチャーしたこの2枚組アルバムも、私に秘密の世界を垣間見せてくれたのだ。テーパーの世界が存在することは殆ど知らなかったが、それが私の前に現れた時への準備は既に出来ていた。

The Amazing Kornyfone Record Label (TAKRL) と《Make Believe Ballroom》

 1970年代中盤には、私には「西海岸ブートレッグ」や「東海岸ブートレッグ」という認識は殆どなく、ブートレッグはレコード店にある変なレコードくらいにしか思っていなかった。それでもなお、いくつかのパターンがあった。あちこちでよく見かける「レーベル」があることに気づいてはいた。私にとってブートレッグは未公認音源を手に入れる唯一のルートであり、デッドの他にも、いろんなグループのブートレッグを集めていたのだが、1975年前半に、ブートレッグ店に新顔が登場していることに気づき始めた。白ジャケットだが、紙が挿入されており、そういうアルバムは皆、The Amazing Kornyfone Record Labelという名前を名乗っていた。
 通称TAKRLは、理想的なブートレッグ・レーベルだった。ヘイリンによると、TAKRL(及び、いくつかの関連レーベル)はTMQのケンの独創的な産物だった。本拠地こそ南カリフォルニアだったが、TAKRLレコード私が欲しいもの全てを供給してくれた:

・TAKRLのアルバムはFMやボードといった優れた音源から作られている。
・TAKRLのアルバムはレコーディングが行なわれた日付等を詳しく正確に記している。
・TAKRLのアルバムは最もカッコいい、最も魅力的な音楽を中心にリリースしている。人気のグループが大ヒット曲を機械的に演奏しているライヴ・テープを単に焼き直しているのとは違う。

 私や友人が持っていたTAKRLの名盤の中でも、ボブ・ディランの《Blood On The Tracks》のアウトテイクを収録したアルバムは《Royal Albert Hall》並の驚きだった。バッファロー・スプリングフィールドのアウトテイクを収録したアルバムには、数々の驚きのトラックと並んで〈Bluebird〉のロング・バージョンも入っていた。リトル・フィートのライヴを収録したブートレッグもあった。噂によると、ローウェル・ジョージ本人がミックスしたものらしかった。当時のリトル・フィートは、人気の点ではまだ、ナイトクラブならかろうじていっぱいにすることが出来る程度だったが、ヒップでクールなバンドだった。TAKRLのブートレッグにはジギー・スターダスト&ザ・スパイダーズ・フロム・マーズのサンタモニカ・シヴィック・オーディトリアム公演のものもあった。当時は、彼らはアメリカでは人気の出る前の、非常にエキゾチックなイギリスのバンドだった。
 そんな中で、TAKRLブートレッグの一番のお気に入りが1975年後半にリリースされたのだ。グレイトフル・デッドの1975年8月13日、グレイト・アメリカン・ミュージック・ホール公演は、ショウが行なわれた数週間後に、ファイナル・セット以外の全セットがKSAN(サンフランシスコ)、KMET(ロサンゼルス)、WNEW(ニューヨーク)等で放送されたのだ(恐らく、他の都市でも)。郊外にある自宅のベッドルームでグレイトフル・デッドの復帰コンサートを聞くのは、カレッジに進学する直前の私には電撃的な体験だった。そして、その年の年末には、TAKRL製の素晴らしいブートレッグがラスプーチンズに入荷した。このグレイト・アメリカン・ミュージック・ホール公演を収めた《Make Believe Ballroom》というタイトルの2枚組アルバムだ。この頃、私は学生寮でテープを持っている人物と出会い、別の宇宙があることを知ったのだが、そこにアクセスすることは出来ないでいた。しかし、《Make Believe Ballroom》のおかげで、ラジオで聞いたコンサートを何度も繰り返し聞くことが出来た。これこそまさに、ファンが求めていたものだった。《Make Believe Ballroom》が多くのなりたてのデッドヘッズに愛され、当時、盛んにトレードされている音源だったことを、私は知っている。
 1970年代後半は、ブートレッグがまだまだ幅を利かせていたが、デッドヘッズの間ではカセットがそれに取って代わりつつあるようだった。私も数年も経たないうちにカセット・デッキを手に入れ、もはやブートレッグ・アルバムを集める必要はなくなった。見開きジャケットを特色とした西海岸のブートレッガーは完全に消え去っていた。東海岸のデッドヘッズの間で何があったのかはジャーノウの本が説明している。ケンとTAKRLも1970年代後半には(ヘイリンによると)目立つような活動はしなくなってしまった。ブルース・スプリングスティーン周辺等ではブートレッグ・ブームはあったが、グレイトフル・デッドの世界はテープのほうに移行していた。デッドのライヴ・テープは売ってはならぬという「総意」が出来上がると、この禁止ルールが出来たのはブートレッグLPの流通が原因であるのに、この非公式音源流通のシーンが出来るきっかけを作ったのはブートレッグだったということを、我々は都合良く忘れてしまったのだ。
 ブートレッグLPは限界の多いメディアだった。アーティストにとって不当で、著作権所有者にも不当だった。製造には金がかかるので、コピーを作る側がその費用を負担するのは無理だった。私も、他人が創造したものを誰もが許可なく売っていいとは思っていない。少なくとも、現代の著作権法の範囲内では。殆どのデッドヘッズも同意見だろう。しかし、ある年齢以上の者は、音源トレードのネットワークがまだ存在せず、白ジャケットに手書き文字で何か書いてある謎のレコードの誘惑が魔法の世界への唯一の入り口だった時代を覚えている。今はそれを認めていなくてもだ。




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2018年09月05日

グレイトフル・テーパーズ:ファンによるコンサート録音の歴史

 ちょうど30年前に『Audio』誌に掲載された面白記事を発見したので、ここで紹介します。グレイトフル・デッドのファンがバンドの音楽を愛しすぎてコンサートの録音に情熱を燃やし、遂にはバンド側が正式に録音者用のセクションまで用意するまでに至った紆余曲折は、このブログでも手短に紹介してますが、アメリカのオーディオ雑誌にグレイトフル・デッドのショウの録音の歴史に関するこんな本格的な記事が掲載されてたなんて知りませんでした。しかも、書いたのは10年くらい前に六本木の炉端焼の店で一緒に食事をしたオジサンじゃないですか〜。
 SDカードやコンパクト・フラッシュ等にデータを記録するデジタル・レコーダーどころか、DATもまだ市販されてない頃に書かれた記事ですが、ひとつ言えることがあります。グレイトフル・デッドは日本とは殆ど縁がなく、こちらでは人気もなかったバンドですが、テーパーズ・セクションやテープ・トレードの世界を席巻していたのはメイド・イン・ジャパンの製品です。この記事では主にハード面の日本のメーカーが言及されていますが、カセット時代、DAT時代を通して、記録媒体として好んで使われていたのはMaxell、TDK、Sony、Denon等、日本のメーカーのテープでした。グレイトフル・デッドの重要なシーンを支えていたのは日本の製品なのです。海の向こうでそんなことを思いながら録音していた人、テープを聞いてた人は、あまりいないと思いますが…。
 この記事から30年経った今、テーパーたちの努力はインターネットに蓄積されています。記事の要所要所に、関連音源を聞くことの出来るリンクを作っておきましたので、是非クリックしながら読んでください。



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昨年夏、友人たちとコンサートを楽しむ著者、マイケル・ナッシュ(ヒゲのオジサン)



グレイトフル・テーパーズ
ファンによるコンサート録音の歴史

文:マイケル・ナッシュ(写真:フィリップ・グールド)


 「ヘイ、そこでマイクを持ってるキミ」 グレイトフル・デッドのギタリスト、ボブ・ウィアはステージ上から呼びかける。不埒な輩を叱ろうとしているのか? 「いい音で録音したかったら、40フィート(12メートル)ぐらい下がるといいよ」
 ベーシストのフィル・レッシュも加わる。「後ろの方がずっといい音だよ」
 1971年8月。グレイトフル・デッドのコンサート会場で、ファンによるライヴ録音が定着し始めたのがこの頃だ。デッドはハリウッド・パラディアム2回連続公演の2晩目の演奏をしていたところで、これは奨励の言葉だった。ミュージシャンがファンに、コンサートを録音するのに最適なポジションをアドバイスしているのだ。こんなことがあったということを、どうして我々は知っているのか? それはもちろん、テープに記録されているからだ。[これを聞け→2トラック目〈Bertha〉6:54〜]
 あのハリウッド公演から16年経った今、ファンからもバンドからも正式に認められた存在へと進化を遂げたテーパーたちは、指定されたエリアからコンサートの録音を行なっており、彼らの生息場所、テーパーズ・セクションは、多種多様なマイクロホン、風防スポンジ、アクリル版や他の遮音材、アナログ及びデジタルのレコーディング機器が並ぶハイテク大会となっている。こうしたものは全て、デッドの演奏をしっかり記録するためだ。しかも、金なんか取らない。このテーマに関してジェリー・ガルシアはこんな発言をした。「オレたちの演奏が済むやいなや、今度はそれはファンのものだ」
 1965年にフィルモア・オーディトリアムでプレイしていた頃からグレイトフル・デッドと行動をともにしており、現在はサウンド・ミキシングを担当している音響の魔術師、ダン・ヒーリーはこう言う。「オレたちは、哲学的には、音楽は皆のものだという立場なんだ。金銭的動機からやることは、これに反した策謀だ。この世界、金だけじゃないだろう。オレは金が欲しくてここにいるんじゃない。続けているのも金のためじゃない。金のために今やってることを思いとどまるなんて、今後もないだろう」
 コンサートの録音を許すことはレコードの売り上げ減少につながるというのが音楽業界一般の主張だが、デッドはというとニコニコしているだけだ。「ライヴの録音が何かに損害を与えているなんて証拠はこれっぽっちもない。どちらかというと、状況を良くしてるね」とヒーリーは言う。彼は、コンサート・テープがバンドの音楽をもっと広い層に広めてきたとも指摘する。
 デッドはこれまでに、恐らく歴史上どのツアー・バンドよりも多い、2,000回以上のコンサートを行なっており、1987年にバンド史上最も商業的に成功したアルバム《In The Dark》がリリースされてプラチナ・アルバムに輝いて以来、人気はさらに増え続けている。
 グレイトフル・デッドのコンサートほど素晴らしいものはない、というのはデッドヘッズの口癖かもしれないが、熱心なテーパーなら、優れたレコーディングはそれに肉迫するものだ、とも言うだろう。1つの良質のテープは、デッドの音楽をいたるところに広めるネットワークを通して拡散されると、文字通り数千人のファンを生み出す可能性を持っている。音楽とその進化を研究し、後世のためにそれをアーカイヴすることに興味があるのであれ、「音楽がバンドをプレイしている」瞬間を追体験することに興味があるのであれ、その役割を満たすためにテープが存在しているのだ。

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花とデッドのステッカーで飾られたマイク・スタンド


 グレイトフル・デッドの音楽が絶え間なく前進しているように、テーパーのテクノロジーも常に進化を遂げている。たくさんの高級マイクロホンが林立する以前から、dbxノイズ・リダクションやPCMデジタル・プロセッサーが登場する以前から、会場にテーパーズ・セクションが設けられるようになる以前から、さまざまなフィールド・ワークが行なわれていたのだ。
 デッドをテープ上に記録した最初のテーパーのひとりが、スティーヴ・ブラウンだ。彼は1965年にパロアルトのバーでこのグループ(その時点ではザ・ウォーロックスとして知られていた)を初めて見て、一目惚れならぬ「一音惚れ」したのだという。当時、地元のラジオ局職員とレコードの宣伝係という二足の草鞋{わらじ}を履いていたブラウンは、その後も2年ほど、バンドのライヴに足を運び続けた。
 その後、ブラウンは海軍に入り、太平洋沿岸に配置された軍艦の船内娯楽システムのためにテープを作る仕事をするようになったのだが、非番の週末には、定期的に、サンディエゴから北上して、サンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムやアヴァロン・ボールルームで行なわれるコンサートを見に行った。その中には、当然、グレイトフル・デッドも含まれていた。1968年春のある週末、ブラウンは海軍で使用していたオープンリール・デッキ----Uher 440----を持ち出して、ウィンターランドに密かに持ち込んだ。その晩の出演者はクリームだった。彼はバルコニー席の1列目のど真ん中でUherのコンデンサー・マイクを突き出して、モノラルで演奏を録音した。
 翌朝、ブラウンは、グレイトフル・デッドがその日ヘイト・ストリートでフリー・コンサートを行なうという噂を聞いた。手元にあるテープ・デッキは、クリームのコンサートで電池を殆ど使い果たしてしまっていたが、ブラウンはとにかくその現場に出かけていった。噂通りバンドが登場し、演奏を開始した。彼はマイクロホンを持つ手を変えながら、バッテリーがご臨終となる前に、最初の4曲----〈Viola Lee Blues〉〈Smokestack Lightning〉〈(Turn On Your) Lovelight〉〈It Hurts Me Too〉----を録音した。[これを聞け→
 1週間もしないうちに、太平洋沿岸の多数の水兵たちは、海軍の娯楽システムの第4チャンネルから鳴り響くワイルドでサイケデリックなバージョンの〈Viola Lee Blues〉を耳にすることになった。ブラウンは笑いながら言う。「そんなことやってたからオレたちは戦争に負けたんだよ」
 ヘイト・ストリート公演をテープに収めた人はブラウンしかいないようなので(5号リールを9.5cm/sで回していたので、20年を経た現在でも音質はまずまず)、この4曲のテープを持っているなら、その音源は彼だ。
 1968年3月3日に行なわれたこのコンサートは、ブラウンが録音した最初で最後のグレイトフル・デッドのショウだったが、彼は1970年代前半に、バンドのレコード・レーベル、ラウンド・レコードの発足に手を貸した。彼がこのレーベルのために働いていた間は、ファンがライヴ・テープを持っていることに何の懸念もなかったとのことだ。

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1971年からデッドのコンサートを録音しているベテラン・テーパー、ボブ・メンキ。ベイエリアの自宅にて。


 ブラウンがデッドを録音した翌年、ボブ・メンキは兄と一緒にブラインド・フェイスのコンサートに行った。兄はこのショウにCraigの5号リール用オープンリール・デッキを持って行った。彼らは翌年夏にクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのコンサートでも同じことをやった。
 「このアイデア、いいねと思ったんだ」とメンキは回想する。1年もしないうちに、彼はSonyのポータブル・カセット・デッキ、TC-40を購入して、最初のコンサートを録音した。数カ月後の1971年7月にラジオで放送されたビル・グレアムのフィルモア・ウェストのさよならコンサートが、メンキがグレイトフル・デッドに接する初めての機会となり、この時、彼はショウをラジオから録音し、次の必然的なステップとしてデッドのコンサートに行ってみようと決意した。もちろん、Sonyのデッキを抱えてだ。
 8月に、メンキは次の16年間に録音することになる200回近いグレイトフル・デッドのコンサートのうちの第1回目のものを録音した。結果、決して最新技術ではなかったが、楽しく聞くことの出来るレベルのテープをものにした。しかし、当時においては、コンサートを録音するのは楽ではなかった。録音行為は基本的に禁止だったのだ。デッドがレコーディング契約を結んでいたワーナー・ブラザーズが、録音に対していい顔をしていなかったからだ。それでもなお、機材を会場内に持ち込んで、見つからないようにしながら事に及べば、録音に成功する可能性は高かった。
 1972年8月、Sonyのポータブル・ステレオ・レコーダー、124にグレード・アップしたメンキは、バークリー・コミュニティー・シアターの前列でこの新ユニットを試そうとしたが、1曲目で見つかってしまった。彼はこの時こそ意気消沈したが、懲りずにこの新しい趣味を続けた。
 メンキによると、当時は、東海岸と西海岸にわずかな数のテーパーしか存在せず、しかも、皆が基本的にはSonyのポータブル・デッキを使っていたらしい。次の数年間に、録音禁止の方針が徹底されるようになると、テーパーたちは巧妙な手段を使って録音機材を会場の中に持ち込むようになった。テープ・デッキを女性の太股に縛り付ける、乳母車の中で寝ている赤ん坊の下に隠す、ストリートに面したトイレの換気口にマイクを入れておいて、会場内に入ってからそれを回収するといった工夫や、入り口にいる警備員の気を逸らすトリックの話は、それこそ豊富に存在する。メンキはというと、デッキをタオルに包んでボーイスカウト用のバックパックの中に入れて、封を切ってない食べ物でそれを覆っておいた。メンキはこう回想する。「常に1歩先を行く必要があったね」
 1974年に、メンキはSony 152を使い始めると、「コンサートの録音はさらに本格的なものとなった」。ステレオのワンポイント・マイク、入力レベルの調整つまみ、ドルビー・ノイズ・リダクション、使用するテープのタイプによって切り替えることの出来るイコライザーがついていた152は、テーパーたちにとっては大きな恩恵だった。小さなデッキではないので隠すのは難しくなったが、音質が向上していたので、皆、すぐにこれを買い求めた。
 1974年には、グレイトフル・デッドのコンサートに来た観客も向上した音を聞いていた。ダン・ヒーリーとサウンド・デザイナー/エンジニアのロン・ウィッカーシャムが「ウォール・オブ・サウンド」という巨大サウンド・システムを完成させていたからだ。641個のスピーカーを有するこの音響システムは、コンサートPAとしては最も野心的なもので(あまりに大きいので、最終的には、使い続けることが出来なくなった)、コンサートの音響を幾何級数的に向上させたことで、普通のデッドヘッズと同様にテーパーたちも喜ばせた。実用性とコストを別とすると、このシステムは音響の点で最高だった。

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指向性を高めるための工夫。手製ながら効果は絶大。


 1974年後半から1976年前半まで、グレイトフル・デッドはツアー活動を休止して、さまざまなレコーディングやソロ・プロジェクトを行なっていたのだが、メンキと仲間たちも、ジェリー・ガルシア・バンドや、ボブ・ウィアをフィーチャーしたグループ、キングフィッシュのクラブ・ショウを録音することで腕を磨いていた。ガルシアのステージ・モニターの隣にマイクを置いて素晴らしい録音が出来るという大勝利も経験したが、仕事に真面目なローディーにマイク・ケーブルをちょん切られるという不運も味わった。メンキの記憶に残る特に幸運な体験は、1975年9月に、デッドがゴールデン・ゲート・パークで行なった無料コンサートの時に味わった。誰かがヴォーカル用モニターをステージの端からこっちに向けたのだ。メンキは感度の異なる2本のSony製コンデンサー・マイクを使って、1本をこのモニターに向けて、他方は楽器に向けてみた。その結果は「アンビエンスが全く入ってない、ボード・テープみたいな音になったね」[これを聞け→
 1976年にデッドが活動復帰を果たすと、録音人口も徐々に増え始めた。Sonyも152の次に153、158を発売し、メンキも1977年に後者を購入した。マイクもSonyの上位レベルのECM-270、ECM-280を購入した。加えて、ハイバイアスのクローム・テープ(初登場は1971年)を使うようになっていた。メンキの作るテープは徐々に音質が向上した。

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ライヴ・コンサートでは音源ははるか遠くにあるので、それぞれのマイクロホンの向きを正しい角度に調整するのが大切


 1977年3月のウィンターランド公演の録音中に、メンキと仲間は、バルコニー席の1列目に、便利なことに交流電源のコンセントがあることを発見して驚喜した。同年6月、デッドが次にウィンターランド公演を行なった時には、10号リールのかかるオープンリール・デッキを2台運んできて----Tandberg 10XとRevox A77----その電源プラグをコンセントに差し込んだ。新たに導入したAKGのダイナミック・マイク、D-224Eを棒の先に付けて、バルコニーから突き出した。その結果、音質の点でさらに少し前進した。[これを聞け→彼らは翌年も時々オープンリール・デッキを使い続け、メンキによると、1978年12月に友人がNagraのデッキと外部から電源を供給するNeumannのマイクの組み合わせで録音したテープが最高の出来だったという。
 1979年に、Sonyはフィールド・レコーディングのマニア用に作られた初のカセット・デッキ、TC-D5を発売した。この新モデルは158よりはるかに小型であり、グレイトフル・デッドのテーピング・シーン全体に恩恵をもたらし、テーパーの数はさらに増えた。TC-D5は当初の発売価格は700ドルだったので、安易に購入出来るものではなかったが、これが標準的機材となるのに時間はかからなかった。メンキもただちに1台購入し、1年後には(他の大勢のテーパーたちと同じく)メタル・テープに対応することの出来る新バージョン、TC-D5Mに買い換えた。
 1979年には、Nakamichiのマイク、700を使い始めた。指向性カプセル、もしくは、無指向性カプセルを付けることの出来るこのコンデンサー・マイクは、メンキによると、高い周波数の感度が向上し、会場の後ろのほうから録音する場合、それまで使っていたAKGよりも高音質だった。以来、Nakamichiが彼のお気に入りのマイクになった。メンキはパッシヴ・プリアンプを自作して、低音を6dBブーストしていたが、デッドの音響システムが低音をもっとたくさん出すようになると、このユニットは使わなくなった。

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デッドのコンサートでは殆ど毎回、高価なハイテク・マイクロホンの森がテーパーズ・セクションに出現する


 テーパーの数が増加するにつれて、デッドのコンサートに機材を持ち込む際のいざこざも増加したが、一部のテーパーが、コンサートを録音しない観客の権利を蹂躙するケースが増えてきたことは、さらに深刻な問題だった。初期のテーパーは常に目立たないように行動し、自分の場所を正当な方法で確保し、録音に興味がない人にも敬意を払っていた。しかし、残念なことに、テーパーの数が増えてくると、全員が礼儀正しい奴とは限らなくなった。メンキによると、この頃から、東海岸ではマイスタンドの林立が問題になり始め、徐々に手に負えない状況になっていったという。一方、メンキはSony/Nakamichiの組み合わせに落ち着いていた。
 メンキの録音仲間であるジェイミー・ポーリスは、同じようなシステムを使っていたが、まだまだ改善の余地があると感じていた。ナショナル・セミコンダクター社で電気工学技師をやっているポーリスは、1971年に東海岸で初めてデッドのコンサートを見て、1973年には彼の言う「粗末なポータブル」でいくつかのショウを録音したが、熱心に録音を始めたのは、1979年に居をカリフォルニアに移してからだった。以来、彼は機材の選択から手法まで、さまざまな実験を行なっている。
 ポーリスが最初の頃にまず悟ったのは、どんな機材をどのように使ったらいいのかを知る最良の方法は、とにかくコンサート会場に行って実験することだ、ということだった。彼が位相と振幅の違いの研究を開始し、ありとあらゆる組み合わせで、音を拾うパターンや、2本のマイクを開く角度を変えてみた。
 しばらく行なっていた実験は、自作のパッシヴ・ミキサーを通して3本のマイクを2チャンネルにブレンドすることだった。例えば、指向性の強いマイク2本と、無指向性マイク1本を使ってみたらどうなるか、という実験だった。ポーリスによると、その結果、SN比は多少損なわれるが、それでもマイクが2本だけの時よりも良い音がするとのことだった。



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2017年07月11日

コンサートの録音には猛反対だったグレイトフル・デッド

 グレイトフル・デッドのライヴ音源人気投票ナンバー1の座に君臨するようになって久しい1977年5月8日コーネル大学公演ですが、今年5月にやっと正式に発売されました。それまでの紆余曲折については拙ブログでもいくつか記事を掲載しています:

今年は「コーネル 1977-05-08」の40周年
長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命

 コーネル公演とその前後の計4公演を収録したCD11枚組の「箱物行政」には、コーネル大学出版局が出した『Cornell '77』(ピーター・コナーズ著)という書籍も付属し、それには1970年代後半のグレイトフル・デッドの状況から、コーネル大学のロック・シーン、ファンによるコンサートの録音とテープ・トレード文化、当日の演奏曲、コーネル公演をバンドのスタッフとして録音した人物と、彼女が残した高音質テープの行方、「コーネル公演テープはCIAによるヒッピーの洗脳実験で、実は公演自体がなかった」説まで、さまざまなことが書かれています。
 当然、私が興味を持ったのはコンサートの録音とテープ・トレードに関する部分です。約30年前に、そっち方面からこのバンドに興味を持ちましたから。デッドに関する入門書等では「フリーの精神に溢れたグレイトフル・デッドは、コンサートの録音と、ライヴ・テープの流通を気前良く許可・奨励。テープが無料の宣伝となって人気が拡大」といったストーリーをよく見かけますが、100%嘘ではないものの、実際にはもっと複雑な過程を経て、1984年10月27日のバークリー・コミュニティー・シアター公演から正式に録音者用セクションが設けられました。『Cornell '77』では1970年代前半からコンサートを録音してきた超ベテラン・テーパー(1974年のボブ・ディラン&ザ・バンドのナッソー・コロシアム公演のテープでも有名な人)の談話が紹介されています(p.45〜46):
グレイトフル・デッドがコンサートの録音を奨励していたなんて神話があるが、嘘っぱちもいいところだよ。奨励なんて全くしてなかったね。少なくとも、初期の頃は全然だ。録音をやめさせようと最大限の努力をしたけど、結局、やめさせられなかったっていうのが実のところさ。基本的に、バンド側が戦争に負けて、どこかに妥協点を見いだしたんだ。そして、そのうちに方針が変わって、「オレたちは昔から録音を奨励してたよ。もちろん、今も大賛成さ!」ってなった。ファンがコンサートを録音するのはバンドにとって重要なことだったってわかったのさ。だったら、もっと早くから賛成してくれたらよかったのに。録音がバンドを成長させたんだよ。オレが言いたいのは、デッドをビッグな存在にしたのは確かに音楽なんだが、シーン全体を超巨大に膨らましたのはテーパーたちだってことさ。

 1980年代になると、ウォークマン等の普及で会場にマイクと録音機を持ち込む輩が増加し、録音者と非録音者の間で互いに邪魔だのうるさいだのといったトラブルが頻発し、乱立するマイクスタンドのせいでミキサーからステージが見えないこともしばしば。その解決策として正式に、録音者セクションをミキサーの後ろに設けて録音者を隔離しました。そこからはだいたい入門書の通りです。でも、セクションより良い音が届く前の方の位置で録音しようとする輩が、その後もあとを絶ちませんでした。
 グレイトフル・デッドが録音を奨励していなかった面白い証拠を2つ挙げて起きましょう。まず、1970年5月16日テンプル大学公演。〈New Speedway Boogie〉の最後の40秒間にはバンドのスタッフらしき人物が録音を止めるように命じている様子が収録されています。イギリス訛の英語を話していることから(「tape」を「タイプ」と発音しています)、この人物は元ローリング・ストーンズのスタッフで、オルタモント事件後はアメリカにとどまってデッドのツアー・マネージャーになったサム・カトラーの可能性が高いです。ローリング・ストーンズの《Get Yer Ya-Ya's Out》の冒頭でバンドを「greatest rock'n'roll band」と紹介しているのがサムです。同じ声じゃないですかね。


 もう1つが、1980年10月31日のニューヨーク、ラジオ・シティー・ミュージック・ホール公演のビデオ《Dead Ahead》に収録されている寸劇です。まだ、録音者用セクションがない頃のことです。



 アル・フランケン扮するヘンリー・キッシンジャー元米国務長官(キッシンジャー本人は2017年の今でも存命です!)が、グレイトフル・デッドのコンサートを隠し録音しようとして見つかり、ビル・クロイツマンに叱られています。アル・フランケンは伝説的テレビ番組『サタデー・ナイト・ライヴ』で有名になったコメディアン/コメディー作家なんですが、何と今は上院議員をやってます。大出世! この↓ミック・ジャガーの真似も大爆笑です!(デッドとは関係ないですが)



 あともう1つ、この本で注目すべきは、筆者が一番好きなコーネル音源は、サウンドボード録音とオーディエンス録音をミックスさせたものだと告白している点です(ただし、今回の箱物行政を聞く前の時点なので、今は意見が変わってる可能性もあります)。サウンドボード・テープは客の歓声が殆ど入ってなくて臨場感に欠けるというのは、デッドがバリバリの現役時代から存在していた批判であり、デッドの音響スタッフは、ミキシング・ボードからの信号を、そこに立てたマイクで拾った会場のノイズとミックスさせて、ウルトラ・マトリクス・ミックス・テープを作っていました。といっても、こういう音源が存在するのは87〜91年頃で、その他の期間はありません。しかし、コンピューター時代になり安価で高性能のDTMシステムが普及した今、手間暇さえ厭わなければ、シロウトでもボード音源とオーディエンス音源をデスクトップでうまい具合に同期させて絶妙なミックスを作ることが出来ます。グレイトフル・デッドのファンは暇なのか、こうしたミックス(デスクトップ・マトリクス・ミックス)を作って、音源交換サイトにアップロードしてくれる親切な人がいます。コーネル音源もとっくにそうした処理の対象になっています。youtubeにあるこれがそうです。皆さんも聞いてみてください。



 コーネル音源は、グレイトフル・デッドのテープを数多く聞けば聞くほど、これがベストではないだろうと感じるショウなのですが、人気投票となるとなぜか必ず1位になるという不思議な現象が起きます。私にもコーネルより好きなショウがたくさんあります。同じ1977年から選ぶとしたら11月6日ニューヨーク州ビンガムトン公演です。私はこのコンサートに関しても、手間暇を厭わないクレイジーなデッドヘッドが作ったデスクトップ・マトリクス・ミックスのほうが純サウンドボード音源より好きです。是非ご賞味あれ。


P.S. コーネル大について調べていて気づいたのですが、菅直人元総理の著書の英訳本『My Nuclear Nightmare: Leading Japan Through the Fukushima Disaster to a Nuclear-free Future』がコーネル大学出版局から出て、今年3月には同大学で講演会をやったそうです。
https://sagehouse.blog/tag/naoto-kan/

   
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