2017年02月13日

今年は「コーネル 1977-05-08」の40周年

 多数出回っているグレイトフル・デッドの高音質ライヴ音源のうち、1977年5月8日、ニューヨーク州イサカ、コーネル大学バートン・ホール公演は、テープに関心のあるデッドヘッズの間で人気投票をすると、必ず1位かそれに準ずる上位に入るショウです。本当にベストなコンサートなのかどうかについては、いろんなショウのテープを聞けば聞くほど疑問が生じて来るのですが、超基本的必聴レコーディングだという点ではほぼ全員の意見が一致していると思います。1980年代後半に、デッドの人気がオーバーグラウンド化するとテープを集める人も増え、それと同時期に出回り始めたのが、数奇な運命をたどった「ベッティーボード」なのですが、コーネル大公演はその中に含まれていた代表音源です(拙ブログ『長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命』を参照されたし)。
 コーネル大学出版局からは、グレイトフル・デッドの伝説的コンサートの40周年にあたる2017年に、このショウを取り上げた本が出版されます。このプレリュード的な記事がコーネル大のサイトEzra Updateに昨年3月に掲載されました。


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大学構内に音楽を戻してくれたグレイトフル・デッド
文:メラニー・レフコヴィッツ


 音楽のないコーネル大を想像してみよう。

 「1977年だったから可能だったのです。必然だったと言えます。1973年の夏に行なわれたディープ・パープル公演の後に起こった暴動のせいで、キャンパス内でのコンサート開催は厳しく制限されるようになっていました。コーネル大コンサート委員会は、長年に渡るコンサートの赤字が積もって、ざっと10万ドルの負債を抱えていたのです」と委員会メンバーは言う。

 しかし、コンサート委員会のメンバーは一計を案じた。彼らは赤字を引き受け、利益を分配してくれるプロの音楽プロモーターと手を組んで、5月に開催されるスプリングフェストの一環として、共同でグレイトフル・デッドを呼んだのだ。結果、1977年5月8日に行われたこのショウは、デッド史上、最高のパフォーマンスとしてデッド伝説の1つになっただけでなく、キャンパス内でロック・コンサートを開催する実行可能性を維持する一助にもなった。

 「これは、大学構内でロック・コンサートが開催されることを熱望する多数の学生が、それを実現する方法を見出した物語です」と語るのは、デッドの歴史的名パフォーマンスに関する本『Cornell '77』を現在執筆中のピーター・コナーズだ。この本は来年(2017年)、コーネル大学出版局(CUP)から出版予定である。「グレイトフル・デッドは学生たちが窮地から脱するのを手助けしたのです」

 コーネル大学コンサート委員会は最近、デッドのショウに関する記録を同大学図書館に譲渡した。コナーズは書庫を調査したが、今のところは、ショウの写真3枚しか発見出来てない。グレイトフル・デッドが30年の歴史において行なった3,000回近いコンサートの中で、最高のショウの1つと評価されているのにだ。

 「比較的最近のものなので、メモラビリアの一部は大学の資料室というよりはむしろ、卒業生宅の地下室や押入れの中にあるのではないかと思っています」と大学記録保管員イヴァン・アールは言う(’02, M.S. '14)。

 グレイトフル・デッドのコンサートの記録は、コーネル大コンサート委員会とコーネル大での主なコンサートの歴史を集めた、新しいアーカイヴ・コレクションの最初の部分を成している。

 「保存作業をすることになって私たちはワクワクしています。コーネル大で行なわれたいろんなコンサートの資料をお持ちの方からは是非とも話をうかがいたいです」とアールは言う。



 デッドヘッズの間では「コーネル'77」として広く知られているデッドのショウは、コネチカット州ニューヘイヴン公演、ニューヨーク州バッファロー公演に挟まれて行われている。ジェリー・ガルシアがフロントマンを務めるこのバンドは、第1部と第2部において計19曲を演奏した後、〈One More Saturday Night〉で締めた。

 このコンサートを見に来た人々がバートン・ホールから出てくる頃には、5月上旬なのに天気が猛吹雪になっていたというのも、ショウの伝説的要素を増やしている。

 「些細なことかもしれませんが、コンサートに行った人に話を聞くと、ほぼ全員が天気のことを話します」とコナーズは語る。「会場に入る時には雪なんか全く降ってなかったのに、出て来た時には雪が降ってたんです。素晴らしいコンサートだったので、全体験のマジックは雪のせいで増量されました」

 バンドを追いかけているデッドヘッズと学生、地元のファンからなる観客の多くは、素晴らしいショウだったと言っているが、時とともに大きな伝説化したのは、バンドの承知のもとで高音質なカセットテープがファンの間で出回ったおかげだ。2012年には、このコンサートの音の記録は、国会図書館のNational Recording Registryに入った。

 コーネル大学出版局は、同大の歴史だけでなくアメリカの歴史においても重要なこのコンサートに関する本を、その40周年に合わせて2017年に出版する予定だ。

 「部長(当時)のディーン・スミスとの会話の中にもバートン・ホール公演のことが出てきたので、我々はコーネル大に関する興味深い話と、アメリカ史に関する重要な物語を抱えていると思いました」とコーネル大学出版局の編集部長マイケル・マクグランディーは語る。「ディーンはデッドヘッドなので、ピーターの本の企画を進めるのに大助かりでした。事実なのかデッド伝説なのかという疑問が生じると、ディーンはすぐに答えてくれました」

 コナーズは、グレイトフル・デッドのファンとして過ごした日々の思い出をまとめた本『Growing Up Dead』を2009年に出版している。このバンドがアメリカ文化において果たした役割が、デッドとこのショウを重要なものにしていると、コナーズは述べる。

 「単なるコンサートではありません」とコナーズは語る。「グレイトフル・デッドはひとつのバンド以上の存在でした。彼らはコミュニティーを作り上げました。1960年代の価値観を体現したのがグレイトフル・デッドだと、多くの人が考えています。1960年代のコミュニティーはまさにこうだったのだとも考えています。コーネル大がそれを引き出したのだと、私は思います」

The original article "How the Dead brought music on campus back to life" by Melanie Lefkowitz
http://ezramagazine.cornell.edu/Update/Feb16/EU.Grateful.Dead.77.html

   

 記事は以上なのですが、私が楽しみなのは、この本にはデッドヘッズ・コミュニティーの形成についても書いてありそうな点です。ハワード・ウィーナーは『Grateful Dead 1977: The Rise of Terrapin Nation』の中で、それが出来上がるのが1977年くらいだと述べていますが、4月に出るコーネル大学本にも、音源を聞いているだけではわからないことが、きっといろいろ書いてあるはずです。
 ちなみに、世界大学ランキングではコーネル大って東大よりはるかに上です。


2/17追記
 Cornell 5/8/77が今年5月に発売決定。


  
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2016年01月04日

ブレント・ミッドランドの未発表ソロ・アルバム

 以前、当サイトでは、数奇な運命をたどっているグレイトフル・デッドのライヴ・テープに関する話を紹介しました(「長い間失われていたグレイトフル・デッドのサウンドボード・テープの運命」)。その記事では、これらの音源の録音に携わった女性がブレント・ミッドランドと男女の関係になり、一緒に彼のソロ・アルバムをレコーディングしたことにも少しだけ触れていましたが、今回紹介する記事では、同じ著者がその部分をもっと詳しくリポートしています。
 日本語版の掲載に際し、参考になる音源のあるサイトのURLを、記事中に適宜加えておきました。

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ブレント・ミッドランドの未発表ソロ・アルバム
文:ディーン・ブドニック


 2015年はグレイトフル・デッド結成50周年だっただけでなく、暗い出来事の25周年でもあった。1990年7月26日に、グループのキーボード・プレイヤー、ブレント・ミッドランドが37歳という若さでヘロインとコカインの同時摂取によって亡くなった。ミッドランドはボブ・ウィア・バンドで活動した後、1979年にグレイトフル・デッドに加わった。ミッドランドはキース&ドナ・ゴッドショウがグループを離れた後にデッドのメンバーになって、ひとりでふたり分の役割をこなし、キーボードのスペースはハモンドB3の分厚いサウンドで満たし、他のメンバーの少々くたびれたヴォーカルには高音のハーモニーで甘みを付けた。
 2つのボックスセット《Spring 1990》《Spring 1990 (The Other One)》に収録されているミッドランドの晩年を、ボブ・ウィアはグレイトフル・デッドの「最もホットな時期」と称し、ビル・クロイツマンも自伝の中でこう語っている:「今までにいろんな奴の演奏を聞いたが、ブレントが最高のオルガン・プレイヤーだ。こいつは内面にたくさんのエネルギーを持っていて、それを毎晩、演奏にもたらしてくれた。(1990年春の)ショウにはエネルギーがあった。雷のような電気があり余ってるほどだった」

   

 キーボードとヴォーカルでの熱演の他、ミッドランドはバンドに合うスタイルを徐々に見出しながら、グレイトフル・デッドに対してオリジナル曲でも貢献した。〈Far From Me〉〈Easy To Love You〉といった初期の曲は、彼がラジオ受けの良さそうなマテリアルを作っていた時期の名残のようなナンバーで、多くのデッドヘッズの好みには合わなかったが、《Built To Last》に収録されている〈Blow Away〉〈Just a Little Light〉等の後期の作品は、ライヴで頻繁に演奏される人気曲になった。
 現在、グレイトフル・デッドのテープ庫の中には、ブレントの創造活動の、このもうひとつの面を証明する4箱分のテープが存在している。「ブレント・ソロ・プロジェクト」と記されたこのテープに収録されているのは、カリフォルニア州サンラファエルにあったデッドのフラント・ストリート・スタジオで1982〜83年に行なわれた作業だ。グループのレコーディング・エンジニアを長らく務め、当時はミッドランドと恋人同士の関係にあったベッティー・カンター=ジャクソンが、セッションのプロデューサーを務めていた。同じくデッドの音響スタッフのジョン・カトラーもエンジニアを務めた。



 「当時、ブレントと私は一緒に暮らしていて、彼はレコーディングしたいマテリアルを抱えていました」とカンター=ジャクソンは回想する。「私がフラント・ストリートの時間を押さえると言いました。でも、まずブレントがバンドを作ることが必要でした。彼が作りたかったのはグレイトフル・デッドのアルバムではなかったからです」
 実働している自分のソロ・バンドを持っていなかったミッドランドは、いろんなエリアを捜し回って、セッション用のプレイヤーを集めた。ある晩、ブレントはカンター=ジャクソンと一緒にビリー・サテライトというローカル・グループを偵察しにいった。このバンドにはギタリストが2人いたが、そのうちの1人、ダニー・チョーンシーは数年後に.38スペシャルに加入する。カンター=ジャクソンによると、彼女はチョーンシーが適任の人物と思ったが、ミッドランドは派手でない方のプレイヤー、モンティー・バイロムのほうが気に入ったらしい。
 バイロムは回想する:「不思議の国のアリスみたいな状況だったよ。当時、オレたちはキャピトルと契約する方向で話が進んでいるところだった。ある晩、ブレントとベッティーが客席にいたんだけど、正直言うと、オレはブレント・ミッドランドが何者なのか知らなかったんだ。グレイトフル・デッドの最新ラインナップはチェックしてなかったからさ。翌日、リハーサルをしている時に電話がかかってきて、電話の向こうの人間が「私はグレイトフル・デッドのブレント・ミッドランドです。あなたのギター・プレイをとても気に入りました。私のレコードでプレイしてもらえないかなあ」と言っていた。1週間もしないうちに、ブレントはオレたちのリハーサルにやってきて、ブラブラしたり、オレのバンドとジャムったりして、すぐに意気投合した。当時はブレントのことを大親友だと思っていた。クレイジーなリハーサルを始めた頃、オレはしばらくベッティー宅で暮らしていて、裸のジャニス・ジョップリンの写真の下にあるベッドで寝てたよ。
 ブレントはオレが出会った奴の中で最も才能豊かな人物のひとりだ。毎晩、あんな高音まで歌える奴んて会ったことない。グレッグ・オールマンとハウリン・ウルフを足して2で割ったような奴だったね。凄い男さ。オレが音楽ビジネスに入る足がかりとなったのが、あのプロジェクトだった」
 ドラマーのジョン・モーセリとベーシストのポール・マーシャルが参加して、プロジェクトのラインナップは完成した。ふたりともカリフォルニアのサイケデリック・ロック・シーンと深い結び付きを持っているミュージシャンだった。ミッドランドがモーセリと出会ったのは、1974年に両者がバットドーフ&ロドニーというフォーク・ロック・デュオのバックをやった時だった。4年後、ボブ・ウィアが《Heaven Help the Fool》を宣伝するためのツアー用の5人編成バンドを組む際、彼にミッドランドを推薦したのがモーセリだった。マーシャルは、1969〜71年にロサンゼルスを中心に活動していたストロベリー・アラーム・クロックの元メンバーで、彼と演奏活動をともにしていたこともあったモーセリが、彼の参加をミッドランドに提案した。
 ミッドランドはグレイトフル・デッドみたいなアルバムにはしたくないという意向を持っていたものの、彼がこのグループの中でああいう役割を担っていたことや、レコーディングに使っていた場所が場所だったので、さまざまなメンバーが時折、様子を見に来た。カンター=ジャクソンは、ジェリー・ガルシアがトラックの1つに参加したことを覚えているという。これまでに流出した音源の中には、これは含まれてないが、テープ庫の中にはまだまだたくさんのテープが眠っている。彼女によると、ジェリー・ガルシア・バンドの往年のベーシスト、ジョン・カーンも1曲で参加したという。
 バイロムとマーシャルは、ミッキー・ハートとフィル・レッシュがオブザーバーとして何度もセッションに立ち会っていたことを覚えている。バイロムは〈Maybe You Know〉のレコーディング中のワン・シーンをこう回想する:「はっきりと覚えているよ。ソロを弾いてる時にスタジオの向こうを見たら、フィル・レッシュがこの曲に合わせて、我を忘れたように跳びはねてたよ。ブレントとベッティーに愛と応援の気持ちを贈ってたんだね。オレたち全員にとって、これはとてつもなく大きなことだった」
 このギタリストは、記憶に残るシーンをさらにもう1つ回想する。1980年代初頭のような雰囲気のロックンロール・ナンバー〈Nobody's〉のレコーディング中の出来事だ:「1本2万ドルもするマイクロホンをいくつもフラント・ストリートに設置したんだ。ベッティーが、ブレントのおニューのハーレー・ソフテイルがトップ・スピードで走る音を録音したいと言い出したのさ。オレのギター・ソロの前に、この音を入れる予定だったんだ。クレイジーだったね。サンプリングとか、まだ存在してない時代だった。1度目にブレントが1ブロック走った時には、十分なRPMに達していなかったので、もう1度やったんだけど、この時は向こうのほうで事故って、バイクを大破させてしまったんだ。超心配して行ってみると、ブレントは無事で、「オレがここまで頑張ったのは、モンティーにギター・ソロを弾いてもらうためだからな」なんて言ってたよ」
 マーシャルは次のような思い出を語る:「ブレントとはとても仲良くなったんだ。あいつの家に泊まって、一緒に飯を食い、遊んだよ。楽しかったなあ。ブレントは食べ物とワインにおいていい趣味をしているスイートな奴で、素晴らしいキーボード・プレイヤー&シンガーだった。ドライで気の利いたユーモアのセンスも持っていた。
 一緒にレコーディングの作業していて楽しい奴だった。とても辛抱強く、集中力のある人間だったよ。オレは曲をとても気に入っていた。プロジェクトの何もかもがグレイトだった。精神もしくは気分を変容させる物質が常に大量にあったので、セッションの記憶はちょっと曇っちゃってるかもしれないし、あの時のプレイにも少し影響してるかもしれないけど、ジョンとブレントとモンティーは優秀で、いいトラックが録音出来た。修正が必要な箇所が1、2箇所あったとしたら、それはオレのプレイしたものだ」
 著作権に関する記録を見ると、ミッドランドが〈Inlay It in Your Heart〉〈Dreams〉〈See the Other Side〉〈Long Way to Go〉など、全曲のメロディーと歌詞を作ったことが確認出来る。マテリアルの多くは、当時のFMでよくかかっていたようなギラギラ系サウンドに乗せたラヴ・ソングで、ミッドランドのヴォーカルもケニー・ロギンズやマイケル・マクドナルドを彷彿させる。後にグレイトフル・デッドのレパートリーになった曲も2つある。〈Tons Of Steel〉《In The Dark》用にレコーディングされ、LPではB面のオープニングを飾った。前述の〈Maybe You Know〉は、デッド伝説においては、1986年4月21日のミッドランドがベロンベロン状態の時のバージョンで有名になってしまった曲だ。
 レコーディングのプロセスが1年もの期間に及んだのには、ミッドランドの完璧主義が反映されている。バイロムは次のように説明する:「オレはデッドのショウに通い始めたよ。ジェリーを抜かしたら、ブレントは一番働き者のメンバーだった。ある晩、サンタクララでブレントと一緒にB3のスツールに座っている時に、1曲のうちに3台のB3オルガンを取っ替え引っ替えするのを目撃したよ。1曲のうちにだよ。3台だよ。2台じゃなくて。スタッフがB3を転がしながら向こうに持って行くと、ブレントは言った。「これは不合格。別のものを持って来てくれ!」 確かにあいつの言う通りだったんだけど、完璧主義っていうのは音楽においては不幸の元なのさ。オレ自身、ちょっと完璧主義なところがあるんだけど、どこかのレベルで、それを止めなきゃいけない。完璧ではないものも受け入れなければいけない。そういうものにこそ味わいがあったりする。そうでなかったら、ジミ・ヘンドリクスのレコードなんてこの世に存在しないよ。それがブレントが抱えている唯一の不幸の種だった。こいつにとっては、ハーモニーの全てが完璧でなくてはならなかった。オレは思ったよ。「ブレント、ちょっとフラットしてたかもしれないけど、及第点だよ。オマエらしさがある」って。
 その後、レコード・プロデューサーになった身として、オレはこのセッションからいろんなことを学んで、後になって、それを仕事に生かしたよ。ブレントの抱えている恐怖心を見ることによって、自分の恐怖心をなくすことが出来た。今では、オレはさっさとレコードを制作する。ブレントのセッションでは、オーバーダブは歯を抜くようなものだった。あれ以来、オレはあんなふうにレコードを作ったことはない。そう感じてたのはオレだけじゃない。ベッティーも同じ意見だった。彼女も「十分いい、ブレント。本当に素晴らしい」って言っていた。でも、ブレントにとっては、グレイトフル・デッドのキーボード・プレイヤーではあったものの、アーティストになるのは新しい体験だったんだ。ブレントは、オレから見たら、あらゆる点でアーティストだったんだけど、自分で自分をアーティストと呼ぶのに抵抗があったんだろうね」



 バイロムは、ミッドランドとともに、レコーディングの作業と定期的に行なうその手直しの作業を1年間続けた後、遂に、先に進むことにした。ビリー・サテライトはドン・ゲーマン(ジョン・メレンキャンプやR.E.M.の作品も担当)のプロデュースのもと、キャピトル・レコード用にアルバム《Billy Satellite》を録音し、ジェファーソン・スターシップのツアーで前座を務めた。このグループはこのアルバムをリリースしたのみで解散してしまったが、2年後、バイロムが共作者としてクレジットされている〈I Wanna Go Back〉は、エディー・マネーのトップ15・ヒットとなった。

 

 ミッドランドも間もなく熱意と勢いを失った。カンター=ジャクソンは回想する:「私たちは別れてしまい、プロジェクトも瓦解してしまいました。私がミキシングをしたのですが、ブレントはミックスしたテープをどこかにやってしまい、自分でミックスしようとしたものの、同じものにはなりませんでした」
 オリジナル・ミックスも別バージョンも、今日、テープ庫の中にある可能性は極めて高い。こう思うと、モンティー・バイロムは今でも心が痛む。「あのレコードが暗い物置の中で静かに死を迎えるなんて、正しいことじゃない。未発表のままなのはとても残念だ。フェアじゃないよ。1982年ぽいサウンドだとしても、ブレントのたったひとつのソロ・レコードなんだから」


Copyrighted article "The Other Side: Brent Mydland’s Unreleased Solo Album" by Dean Budnick
http://www.relix.com/articles/detail/the_other_side_brent_mydlands_unreleased_solo_album
Reprinted by permission



 以上が1982年頃制作していたブレント・ミッドランドのソロ・アルバムの話ですが、私のほうからちょっと追加したいことがあります。





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2015年07月20日

グレイトフル・デッド FARE THEE WELL・WE ARE EVERYWHERE編

 フェア・ジー・ウェル(さよなら)公演という祭りが終わって2週間以上が過ぎた現在、我々は今度はグレイトフル・デッドやデッドヘッズ現象について、もう一度じっくり考える局面に来ているようです。
 一緒にチームを組んでメールオーダーとチケットマスターでグレイトフル・デッドのシカゴ公演のチケットをゲットしようとして取れなかった我々4人のうち、私は間もなくボブ・ディランつながりの友人のおかげでどうにかチケットを確保し(現物を手にしたのはショウ前日だったのでヒヤヒヤ)、ひとりは完全に諦めて自宅でネット中継を楽しむことに(テレビの前が特等席だよ)。しかし、ヘッド度が私の1万倍以上の残りふたり(ひとりは『あまちゃん』に出演)はいても立ってもいられず、無謀なことに、とにかくシカゴに行き、会場でチケットを探すことにしたのです。
 コンサートの規模が大きいほど現地まで行けばどうにかなるものなのですが、それでもなお、今回のようにクレイジーな状態だと、会場から漏れてくる音を聞きながら駐車場で他の負け組連中と一緒に寂しくダンスに興じることになる可能性は決してゼロではありません。彼らと比べたら、私なんか余裕のあるほうでした。
 で、しばらく通信が途絶えて行方不明になってしまった彼らとは、2日目の開演1時間ほど前に会場内で、偶然、会うことが出来ました。会場内ということは、無事、チケットのゲットに成功したということです。その時、ふたりが私に見せてくれたのがこのボードです。

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 話によると、彼らの友人(日本人)がこの看板を持っていたら比較的簡単にチケットを入手することが出来、もう必要なくなったので、ふたりに譲ってくれたとのこと。この看板にはミラクル・チケットを呼び寄せる魔法のパワーがあり、ふたりもその後、無事チケットをゲット出来たそうですが、東洋人の男女が漢字の書いてあるボードを持ってるのがエキゾチックでもの珍しかったのか、たくさんの見ず知らずの人から励ましの声をかけられ、写真もたくさん撮られたそうです。
 帰国後、私がFacebookのデッドヘッズ交流ページに上の写真を載せ、「このボードを持った日本人男女を写真に撮った方いませんか」と呼びかけたところ、見かけたよという反応が多数、写真も何枚か出て来ました。24時間も経たないうちに付いた「Liked(イイネ)」は300以上。こいつら、愛されてたようです。
 一方、私はというと、見渡す限りワイルド系アメリカ人だらけの中、ひとり静かに自分の席に座っていたのですが、近所の席の人から「キミ、外国から来たの?」と声をかけられない日はありませんでした。その後は「シカゴまで飛行機で15時間の長旅」「メールオーダーではチケット取れず…」「最初に見たショウは1991年6月14日ワシントンDCのRFKスタジアム」「東京のソニー・スタジオでミッキー・ハートに会った」「7月4日は何の日か知っている。アメリカ独立のいきさつは歴史の授業で勉強した」等の世間話です(さらにその後、アレが回って来るのはデッドのコンサートではお約束。副流煙だけでかなりイッちゃう体質なので、親切な申し出を断るのが大変)。日本人ばっかりの東京ドームにコンサートを見に行っても、誰とも一言も口をきかず帰宅するケースが殆どなのと比較すると、何てフレンドリーな歓迎ぶりでしょう。
 ファンでさえもグレイトフル・デッドは人気がアメリカ限定で、ビートルズやローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンと比べてグローバルな魅力に欠けることを認めてしまうのは自虐的ジョークだとしても、現実問題として、アメリカ以外に住んでる人にとっては「コンサートを見たきゃアメリカまで来い」という敷居の高いバンドです。かといって、ファンにはよそから来た者を邪魔扱いするような様子はこれっぽっちもありません。むしろ反対です。ショウを初体験して以来ずっと、本場アメリカのデッドヘッズが私のような人間をどう見ているのかずっと疑問だったのですが、ひとつの答えというか見解が書いてある記事(ちょっと情緒的)を見つけたので紹介します。「ディアスポラ」だというのです。自分に対してこの言葉が使われるとは夢にも思っていませんでした。この文を書いた人は私がFacebookに載せた「奇跡」ボードの写真や、コメントに添付されていた日本のバンドの動画を見て刺激されて、自分の意見を書きたくなったようです。彼のデッド史観も独特で面白いです。

   





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