デッドヘッズの間では「コーネル'77」として広く知られているデッドのショウは、コネチカット州ニューヘイヴン公演、ニューヨーク州バッファロー公演に挟まれて行われている。ジェリー・ガルシアがフロントマンを務めるこのバンドは、第1部と第2部において計19曲を演奏した後、〈One More Saturday Night〉で締めた。
記事は以上なのですが、私が楽しみなのは、この本にはデッドヘッズ・コミュニティーの形成についても書いてありそうな点です。ハワード・ウィーナーは『Grateful Dead 1977: The Rise of Terrapin Nation』の中で、それが出来上がるのが1977年くらいだと述べていますが、4月に出るコーネル大学本にも、音源を聞いているだけではわからないことが、きっといろいろ書いてあるはずです。 ちなみに、世界大学ランキングではコーネル大って東大よりはるかに上です。
2015年はグレイトフル・デッド結成50周年だっただけでなく、暗い出来事の25周年でもあった。1990年7月26日に、グループのキーボード・プレイヤー、ブレント・ミッドランドが37歳という若さでヘロインとコカインの同時摂取によって亡くなった。ミッドランドはボブ・ウィア・バンドで活動した後、1979年にグレイトフル・デッドに加わった。ミッドランドはキース&ドナ・ゴッドショウがグループを離れた後にデッドのメンバーになって、ひとりでふたり分の役割をこなし、キーボードのスペースはハモンドB3の分厚いサウンドで満たし、他のメンバーの少々くたびれたヴォーカルには高音のハーモニーで甘みを付けた。 2つのボックスセット《Spring 1990》《Spring 1990 (The Other One)》に収録されているミッドランドの晩年を、ボブ・ウィアはグレイトフル・デッドの「最もホットな時期」と称し、ビル・クロイツマンも自伝の中でこう語っている:「今までにいろんな奴の演奏を聞いたが、ブレントが最高のオルガン・プレイヤーだ。こいつは内面にたくさんのエネルギーを持っていて、それを毎晩、演奏にもたらしてくれた。(1990年春の)ショウにはエネルギーがあった。雷のような電気があり余ってるほどだった」
キーボードとヴォーカルでの熱演の他、ミッドランドはバンドに合うスタイルを徐々に見出しながら、グレイトフル・デッドに対してオリジナル曲でも貢献した。〈Far From Me〉〈Easy To Love You〉といった初期の曲は、彼がラジオ受けの良さそうなマテリアルを作っていた時期の名残のようなナンバーで、多くのデッドヘッズの好みには合わなかったが、《Built To Last》に収録されている〈Blow Away〉〈Just a Little Light〉等の後期の作品は、ライヴで頻繁に演奏される人気曲になった。 現在、グレイトフル・デッドのテープ庫の中には、ブレントの創造活動の、このもうひとつの面を証明する4箱分のテープが存在している。「ブレント・ソロ・プロジェクト」と記されたこのテープに収録されているのは、カリフォルニア州サンラファエルにあったデッドのフラント・ストリート・スタジオで1982〜83年に行なわれた作業だ。グループのレコーディング・エンジニアを長らく務め、当時はミッドランドと恋人同士の関係にあったベッティー・カンター=ジャクソンが、セッションのプロデューサーを務めていた。同じくデッドの音響スタッフのジョン・カトラーもエンジニアを務めた。
「当時、ブレントと私は一緒に暮らしていて、彼はレコーディングしたいマテリアルを抱えていました」とカンター=ジャクソンは回想する。「私がフラント・ストリートの時間を押さえると言いました。でも、まずブレントがバンドを作ることが必要でした。彼が作りたかったのはグレイトフル・デッドのアルバムではなかったからです」 実働している自分のソロ・バンドを持っていなかったミッドランドは、いろんなエリアを捜し回って、セッション用のプレイヤーを集めた。ある晩、ブレントはカンター=ジャクソンと一緒にビリー・サテライトというローカル・グループを偵察しにいった。このバンドにはギタリストが2人いたが、そのうちの1人、ダニー・チョーンシーは数年後に.38スペシャルに加入する。カンター=ジャクソンによると、彼女はチョーンシーが適任の人物と思ったが、ミッドランドは派手でない方のプレイヤー、モンティー・バイロムのほうが気に入ったらしい。 バイロムは回想する:「不思議の国のアリスみたいな状況だったよ。当時、オレたちはキャピトルと契約する方向で話が進んでいるところだった。ある晩、ブレントとベッティーが客席にいたんだけど、正直言うと、オレはブレント・ミッドランドが何者なのか知らなかったんだ。グレイトフル・デッドの最新ラインナップはチェックしてなかったからさ。翌日、リハーサルをしている時に電話がかかってきて、電話の向こうの人間が「私はグレイトフル・デッドのブレント・ミッドランドです。あなたのギター・プレイをとても気に入りました。私のレコードでプレイしてもらえないかなあ」と言っていた。1週間もしないうちに、ブレントはオレたちのリハーサルにやってきて、ブラブラしたり、オレのバンドとジャムったりして、すぐに意気投合した。当時はブレントのことを大親友だと思っていた。クレイジーなリハーサルを始めた頃、オレはしばらくベッティー宅で暮らしていて、裸のジャニス・ジョップリンの写真の下にあるベッドで寝てたよ。 ブレントはオレが出会った奴の中で最も才能豊かな人物のひとりだ。毎晩、あんな高音まで歌える奴んて会ったことない。グレッグ・オールマンとハウリン・ウルフを足して2で割ったような奴だったね。凄い男さ。オレが音楽ビジネスに入る足がかりとなったのが、あのプロジェクトだった」 ドラマーのジョン・モーセリとベーシストのポール・マーシャルが参加して、プロジェクトのラインナップは完成した。ふたりともカリフォルニアのサイケデリック・ロック・シーンと深い結び付きを持っているミュージシャンだった。ミッドランドがモーセリと出会ったのは、1974年に両者がバットドーフ&ロドニーというフォーク・ロック・デュオのバックをやった時だった。4年後、ボブ・ウィアが《Heaven Help the Fool》を宣伝するためのツアー用の5人編成バンドを組む際、彼にミッドランドを推薦したのがモーセリだった。マーシャルは、1969〜71年にロサンゼルスを中心に活動していたストロベリー・アラーム・クロックの元メンバーで、彼と演奏活動をともにしていたこともあったモーセリが、彼の参加をミッドランドに提案した。 ミッドランドはグレイトフル・デッドみたいなアルバムにはしたくないという意向を持っていたものの、彼がこのグループの中でああいう役割を担っていたことや、レコーディングに使っていた場所が場所だったので、さまざまなメンバーが時折、様子を見に来た。カンター=ジャクソンは、ジェリー・ガルシアがトラックの1つに参加したことを覚えているという。これまでに流出した音源の中には、これは含まれてないが、テープ庫の中にはまだまだたくさんのテープが眠っている。彼女によると、ジェリー・ガルシア・バンドの往年のベーシスト、ジョン・カーンも1曲で参加したという。 バイロムとマーシャルは、ミッキー・ハートとフィル・レッシュがオブザーバーとして何度もセッションに立ち会っていたことを覚えている。バイロムは〈Maybe You Know〉のレコーディング中のワン・シーンをこう回想する:「はっきりと覚えているよ。ソロを弾いてる時にスタジオの向こうを見たら、フィル・レッシュがこの曲に合わせて、我を忘れたように跳びはねてたよ。ブレントとベッティーに愛と応援の気持ちを贈ってたんだね。オレたち全員にとって、これはとてつもなく大きなことだった」 このギタリストは、記憶に残るシーンをさらにもう1つ回想する。1980年代初頭のような雰囲気のロックンロール・ナンバー〈Nobody's〉のレコーディング中の出来事だ:「1本2万ドルもするマイクロホンをいくつもフラント・ストリートに設置したんだ。ベッティーが、ブレントのおニューのハーレー・ソフテイルがトップ・スピードで走る音を録音したいと言い出したのさ。オレのギター・ソロの前に、この音を入れる予定だったんだ。クレイジーだったね。サンプリングとか、まだ存在してない時代だった。1度目にブレントが1ブロック走った時には、十分なRPMに達していなかったので、もう1度やったんだけど、この時は向こうのほうで事故って、バイクを大破させてしまったんだ。超心配して行ってみると、ブレントは無事で、「オレがここまで頑張ったのは、モンティーにギター・ソロを弾いてもらうためだからな」なんて言ってたよ」 マーシャルは次のような思い出を語る:「ブレントとはとても仲良くなったんだ。あいつの家に泊まって、一緒に飯を食い、遊んだよ。楽しかったなあ。ブレントは食べ物とワインにおいていい趣味をしているスイートな奴で、素晴らしいキーボード・プレイヤー&シンガーだった。ドライで気の利いたユーモアのセンスも持っていた。 一緒にレコーディングの作業していて楽しい奴だった。とても辛抱強く、集中力のある人間だったよ。オレは曲をとても気に入っていた。プロジェクトの何もかもがグレイトだった。精神もしくは気分を変容させる物質が常に大量にあったので、セッションの記憶はちょっと曇っちゃってるかもしれないし、あの時のプレイにも少し影響してるかもしれないけど、ジョンとブレントとモンティーは優秀で、いいトラックが録音出来た。修正が必要な箇所が1、2箇所あったとしたら、それはオレのプレイしたものだ」 著作権に関する記録を見ると、ミッドランドが〈Inlay It in Your Heart〉〈Dreams〉〈See the Other Side〉〈Long Way to Go〉など、全曲のメロディーと歌詞を作ったことが確認出来る。マテリアルの多くは、当時のFMでよくかかっていたようなギラギラ系サウンドに乗せたラヴ・ソングで、ミッドランドのヴォーカルもケニー・ロギンズやマイケル・マクドナルドを彷彿させる。後にグレイトフル・デッドのレパートリーになった曲も2つある。〈Tons Of Steel〉は《In The Dark》用にレコーディングされ、LPではB面のオープニングを飾った。前述の〈Maybe You Know〉は、デッド伝説においては、1986年4月21日のミッドランドがベロンベロン状態の時のバージョンで有名になってしまった曲だ。 レコーディングのプロセスが1年もの期間に及んだのには、ミッドランドの完璧主義が反映されている。バイロムは次のように説明する:「オレはデッドのショウに通い始めたよ。ジェリーを抜かしたら、ブレントは一番働き者のメンバーだった。ある晩、サンタクララでブレントと一緒にB3のスツールに座っている時に、1曲のうちに3台のB3オルガンを取っ替え引っ替えするのを目撃したよ。1曲のうちにだよ。3台だよ。2台じゃなくて。スタッフがB3を転がしながら向こうに持って行くと、ブレントは言った。「これは不合格。別のものを持って来てくれ!」 確かにあいつの言う通りだったんだけど、完璧主義っていうのは音楽においては不幸の元なのさ。オレ自身、ちょっと完璧主義なところがあるんだけど、どこかのレベルで、それを止めなきゃいけない。完璧ではないものも受け入れなければいけない。そういうものにこそ味わいがあったりする。そうでなかったら、ジミ・ヘンドリクスのレコードなんてこの世に存在しないよ。それがブレントが抱えている唯一の不幸の種だった。こいつにとっては、ハーモニーの全てが完璧でなくてはならなかった。オレは思ったよ。「ブレント、ちょっとフラットしてたかもしれないけど、及第点だよ。オマエらしさがある」って。 その後、レコード・プロデューサーになった身として、オレはこのセッションからいろんなことを学んで、後になって、それを仕事に生かしたよ。ブレントの抱えている恐怖心を見ることによって、自分の恐怖心をなくすことが出来た。今では、オレはさっさとレコードを制作する。ブレントのセッションでは、オーバーダブは歯を抜くようなものだった。あれ以来、オレはあんなふうにレコードを作ったことはない。そう感じてたのはオレだけじゃない。ベッティーも同じ意見だった。彼女も「十分いい、ブレント。本当に素晴らしい」って言っていた。でも、ブレントにとっては、グレイトフル・デッドのキーボード・プレイヤーではあったものの、アーティストになるのは新しい体験だったんだ。ブレントは、オレから見たら、あらゆる点でアーティストだったんだけど、自分で自分をアーティストと呼ぶのに抵抗があったんだろうね」
バイロムは、ミッドランドとともに、レコーディングの作業と定期的に行なうその手直しの作業を1年間続けた後、遂に、先に進むことにした。ビリー・サテライトはドン・ゲーマン(ジョン・メレンキャンプやR.E.M.の作品も担当)のプロデュースのもと、キャピトル・レコード用にアルバム《Billy Satellite》を録音し、ジェファーソン・スターシップのツアーで前座を務めた。このグループはこのアルバムをリリースしたのみで解散してしまったが、2年後、バイロムが共作者としてクレジットされている〈I Wanna Go Back〉は、エディー・マネーのトップ15・ヒットとなった。