2018年05月31日

映画の最後でピート・タウンゼントとハグしているのはオレだ

 レッド・ツェッペリン・マニアとして有名で、『全曲解説シリーズ』『セレブレーション』を書いた人ですが、こんな大快挙も成し遂げていました。当日はポール・マッカートニー&ウィングスの《London Town》のTシャツを着ていたという事実も判明。あ〜、丁度、あのアルバムが出た時代ですね。ツェッペリン・ファンがザ・フーのコンサートにウィングスのTシャツを着て行って、何をやらかしたかというと…。

 





映画の最後でピート・タウンゼントとハグしているのはオレだ

文:デイヴ・ルイス



 40年前の今週の1978年5月25日、オレはラッキーなことに、シェパートン・スタジオでシークレット状態で行なわれたザ・フーの映画撮影を見に行くことが出来た。このコンサートは『The Kids Are Alright』用のシーンを撮影するために企画されたものだった。〈Won't Get Fooled Again〉が終わった後、オレは感極まって気がついたらステージ上に飛び上がってたのだが、そのシーンが撮影されて映画に使われただけでなく、その後、DVDやYouTubeにも登場するようになるなど、その瞬間は思いもよらなかった。

who-four.jpg


 この顛末を話そうか。

 まず、オレは1969年からずっと、ザ・フーの大ファンだった。〈Pinball Wizard〉はオレが持っていた最初のシングルの1つだった。1975年10月にはウェンブリーのエンパイア・プールで、1976年5月の大雨の一般公休日にはチャールトンでコンサートを見ている。どっちも最高だった。アルバムは全部好きだ。特に 《Quadrophenia》《Who's Next》《The Who By Numbers》はパワーと感情が詰まっていて、オレの心に訴える、人生の指針的な作品だった。この頃、ザ・フーはレッド・ツェッペリンの次に好きなバンドだった。
 1977年に、ザ・フーは後に『The Kids Are Alright』というタイトルになる、キャリアを総括するドキュメンタリー映画の制作を開始しており、1977年12月には、この目的でロンドンのキルバーン・ステイト・シアターで小規模なコンサートを抜き打ちで行なうことを決定した。オレの大親友、デックは、自分の姉貴、イヴォンヌの当時の彼氏を通じて、どうにかこのギグに入り込むことが出来た。仲介してくれたのはスティーブ・マーゴという人物だった。彼はザ・フーの大ファンで、1978年8月には、これまた有名なザ・フー・ファンの「アイリッシュ」・ジャック・ライオンズ、及び、その他1、2名と一緒に、ロンドンのICAでザ・フー博覧会を開催することになる。
 ギグは急に発表され、当時、オレん家{ち}には電話がなかったんで(今思うと滑稽だろ)、デックはこのギグがあることをオレに知らせることが出来なかったのだ。というわけで、オレは見逃してしまったのだが、全てが失われたわけではない。
 ザ・フーの面々は、その日に撮影した映像に満足出来ず、もう1度、ギグをやって映画用の素材を撮影しようと決めたのだ。間もなくロンドンでギグをやって、ドキュメンタリー映画用に撮影するという情報をスティーヴ・マーゴから聞いたのは、5月上旬のことだった。秘密裏に計画は進められていたのだが、遂に情報が伝わってきた。1978年5月25日の朝、ハイド・パーク・コーナーで待ち合わせだという指示があった。

Barton-20.jpg


 その頃、レッド・ツェッペリンは、ロバート・プラントの息子が亡くなるというアクシデントがあって、1977年のアメリカ・ツアーが予定より早く終了してしまった後、活動が鈍っていたのだが、5月には、クリアウェル・カッスルに集まってリハーサルを行なったというマスコミ報道があり、その年の後半には、ストックホルムのアバのスタジオに出向いて、《The In Through The Out Door》をレコーディングした。5月上旬に、オレのところに『Sounds』誌のライター、ジェフ・バートンから連絡があった。「Wax Fax」というコラム記事に書いてあったツェッペリンに関する疑問に回答したのを見てのことだった。『Sounds』誌はレッド・ツェッペリンの結成10周年を記念して、9月に3週間かけて特集を組みたいとのことだった。
 オレが依頼された仕事は、10年間の歴史を綴り、オフィシャル・リリースとブートレッグをカバーする大ディスコグラフィーを作成することだった。 オレはロング・エーカーにある『Sounds』誌のオフィスで何度かミーティングを行ない、メモラビリアやアルバムをたくさんの持参して、写真に撮ってもらった。もちろん、当時はスキャナーなどない。
 その後、オレの1978年夏は8月上旬締め切りのこの仕事に占領されてしまった。特集の原稿全部を手書きで書いて、4週に分けて載った時には大成功だった。自分の書いた文が活字になったのは、この時が初めてで、しかも、原稿料までもらえたのだ。この年は、この後にも楽しいことがたくさんあった。7月には素晴らしいコンサートを2回見た。デヴィッド・ボウイのアールズ・コート公演と、ボブ・ディランのブラックブッシュ公演だ。
 話をもとに戻そう。オレはツェッペリンの記事を書くという仕事を抱えていたにもかかわらず、ザ・フーのステージをもう1度生で体験することが出来たらどんなに興奮するだろうということに注意を向けてしまったのだ。
 ということで、5月25日(木)になった。オレたちは時間通りにバスでロンドンからシェパートン・スタジオに運ばれた。カフェテリアで18世紀の衣装を着た俳優、女優たちに混じってワインを飲み、食事をした後、ザ・フーのミニ・ライヴを見るためにスタジオ2のサウンドステージに連れていかれた。

IMG_9253.jpg


 今回の撮影は、去る12月にキルバーン・シアターで撮れた映像が精彩を欠いていたので、その撮り直しをするためにジェフ・ステイン監督が計画したものだった。全キャリアを網羅したドキュメンタリー映画『The Kids Are Alright』に、現代のシーンを挿入するという目的でだ。映画は翌1979年、大西洋の両側の劇場で公開された。
 ザ・フーのコンサート・ツアーを再現するための特別なステージが組まれたスタジオに案内されたオレたちは、畏怖すら感じていた。約200人の観客の中にはザ・フーのマニア、勝手に押しかてきた客、ジャーナリスト、ミュージシャンが入り交じっていた。ミュージシャンの中には若き日のクリッシー・ハインドがいた。それから、この後間もなく世界的に有名な写真家になるロス・ハルフィンもいた。これは彼が初めて撮影したロック・コンサートの1つだったのだ。
 オレが1つ前に見たザ・フーのライヴは、1976年5月にチャールトン・アスレチック・フットボール場で行なわれた『The Who Put the Boot In』ショウだった。あの時は、オレは雨でびしょ濡れの65,000人のファンのひとりだったが、今回は自分の数フィート前でピート・タウンゼントがパワー・コードを弾きまくって〈Baba O'Reily〉を演奏しているのだ。これはザ・フーの中だけではなく、ロック全体で、オレの一番好きな曲の1つだ。その後、ジョン・エントウィッスルの〈My Wife〉、そして〈Won't Get Fooled Again〉のスリリングな演奏が続いた。
 最初の計画では、この3曲だけを演奏することになっていたのだが、くつろいだ雰囲気に気を良くしたタウンゼントは、ダルトリー、ムーン、エントウィッスルにステージを続けようという合図を送り、準備なしに〈Substitute〉をやり始め、間を置かずに〈I Can't Explain〉を演奏した。
 ザ・フーのステージは〈Summertime Blues〉〈Magic Bus〉〈My Generation〉〈My Wife〉(もう1度)と続いた。オレたちはザ・フーが映画のためにわずか数曲を撮影するのを見るつもりだったのが、今や、ミニ・グレイテスト・ヒッツ・コンサートに居合わせるという恩恵に浴していた。そして、この素晴らしいパフォーマンスの締めくくりとなったのが、再度披露された〈Won't Get Fooled Again〉だった。こんなに近くで演奏の一部始終を見れるなんて、まさにロックンロール・ドリームだった。最高の瞬間としか言いようがない。

そして、あの出来事が起こった。

shep-2.jpg


 〈Won't Get Fooled Again〉が終わり、バンドが拍手と喝采に浴している時、ビールとワイン、そして、目の前で繰り広げられたパフォーマンスを見てどっと分泌されたアドレナリンが合わさったオレは、カメラ用のトラッキングに登り、ピート・タウンゼントに向かって大きくジャンプした。次に、その過程で偶然目にとまったロジャー・ダルトリーに向かって小さく数歩進んだ。いつものギグでは、こうしたステージ・ラッシュをするとギブソン・レスポールでぶん殴られる可能性が高いし、実際に、1969年のウッドストックでは、アービー・ホフマンがステージに出て来た時に、ピートからどういう扱いを受けたかは知っていた。しかし、ステージに飛び上がった時には、結果をあれこれ予測している暇などなかった。幸運なことに、タウンゼントはオレをあたたかくハグしてくれたし、ダルトリーは、はしゃいで振り回して手をぶつけてしまったオレを一笑に付してくれた。その時は気づかなかったのだが、ステージに乱入したのがオレひとりでなかったことは、述べておく価値があるだろう。映画では、オレが突入する直前に、女の子が悠然とロジャーに近づき、抱きついているのを見ることが出来る。
 このアクションの背後で、キース・ムーンは顔いっぱいに悪魔の笑みを浮かべていた。ロサンゼルス的ライフスタイルによる肉体的な疲れを見せてはいたが、遂に、一番カッコよく活躍することのできる場----ザ・フーのステージ----に戻ってきたのだ。
 ギグが終わって午後の明るい日差しの中に出た時には、自分たちがキース・ムーンが人前で行なった最後のコンサートを目撃したとは、全く思っていなかった。オレの信念のジャンプが映画の完成版で使われるとも、全く思っていなかった。

Who1Dave.jpg


 シェパートンのグランドでは、ラッキーな少数の観客が行なうべき仕事がもう1つあった。4つの列になってザ・フーのそれぞれのメンバーの後ろに並んでくれと言われたのだ。ザ・フーの次のアルバム《Who Are You》のカバー・デザインになるかもしれないとのことだった。アルバム・タイトルの説明となるよう、オレたちがバンドのクローンを演じているというのが狙いだった。ということで、オレたち全員が列を作るように言われ、オレはキース・ムーンの後ろに並んだ。結局、これをジャケットに使うというアイデアはボツになったが、あれから何年も経った後、ジェネシス・パブリケーションズから出版されたロス・ハルフィン撮影のザ・フー写真集には、このセッションのアウトテイクが2枚ほど収録されていた。この写真ではオレはなぜか列からはみ出してる。右のほうで青いジャンパーを着てる奴がオレだ。これもその日の思い出の1つだ。

さらに。

 信じられないことに、シェパートンの話はこれで終わりではなかった。スティーヴ・マーゴは翌日の撮影セッションにも招かれていることを教えてくれた。しかも、一緒に行きたくないかと誘ってくれたのだ。もちろん行きたいさ!
 ということで、5月26日(金)、デックとオレ、そして、デックの姉貴のボーイフレンドのジャックは、セント・ジョンズ・ウッドでスティーヴに会って、彼の運転する自動車でシェパートン・スタジオ・コンプレックスに行った。オレたちは再びスタジオ2のサウンドステージに入ることを許された。オレたちの前のステージにはザ・フーのメンバーがいた。この時はカメラ・クルー1名、数人のテクニシャン、ロード・クルー、ザ・フーのスタッフを前にしてだ。サウンドマンのボブ・プリデン、照明のエキスパートのジョン・ウォルフ、ザ・フーのマネージャーのビル・カービッシュリーもいた。その時は、いつか自分がビルを彼のオフィスでインタビューして、ザ・フーやレッド・ツェッペリン、ジミー・ペイジやロバート・プラントの話を聞く時が到来するとは、思ってもいなかった。アイリッシュ・ジャックもその場にいた。
 この日の撮影の目的は、キース・ムーンのドラム・ソロと(ピートとジョンが再び入る直前の)ロジャーの絶叫の部分のレーザー光線のシーケンスを完全なものとすることだった。キースがソロを演奏する中、ロジャーが飛び交うレーザー光線を浴びながら行進する、と同時に、カメラがパン・インするのを、何テイクも繰り返すのをオレたちは見た。畏敬の念を抱きながら。ザ・フーの映画撮影をこんなに間近で見た体験から40年が経つが、このシーンは、オレがラッキーにも目撃することの出来た最もスリリングなライヴ・ミュージックの瞬間の中でも、トップのほうに位置する。
 翌日、オレはWHスミスの店員の仕事に戻り、次の数週間は『Sounds』誌のレッド・ツェッペリン特集の原稿に取り組んだ。5月25日のシェパートン体験のレビューも、急いで約2,000語の長さで綴ったので、来週あたりに屋根裏部屋から見つけだして、形を整えてからここにアップしよう。

オレの1978年のザ・フー体験談はまだ終わっていない。

 1978年8月1日に、デックとオレはロンドンのICAで開催されたザ・フーズ・フー博覧会のオープニングに出席した。ピート・タウンゼントとキース・ムーンもやって来た。映画のプロデューサーであるジェフ・ステインはオレを見ると、オマエがステージに上がったシーンは映画の最後に入ってるぞと教えてくれた。ザ・フーズ・フーはステージ衣装、楽器、ビデオ等を展示した超イカした博覧会で、この手のものとしては時代を先取りしてるものだった。オレはピートとキース、両方とおしゃべりをして、一緒に写真も撮ってもらった。キースは健康そうで、展示されているかの有名な〈Pictures Of Lily〉ドラム・キットについて鼻高々に語ってくれた。これはオレとキースのツーショット写真だ。背が見えるのはイアン・デュリーだ。

keith-1.jpg


 新アルバム《Who Are You》は8月にリリースされ、オレはそれを発売日当日に買った。〈New Song〉〈Sister Disco〉〈Love Is Coming Down〉、そしてタイトル・トラックといった名曲が収録されている素晴らしいアルバムだった。今、聞いても素晴らしい。
 9月7日(木)の晩、テレビで『ニュース・アット・テン』を見ていたら、キース・ムーンが死体となって発見されたというニュースをアナウンサーが伝えた。キースがここ数年間、たくさん問題を抱えていたことは秘密でも何でもなかったが、それでも大ショックだった。
 ツェッペリンと違い、ザ・フーはバンドとして存続することを選んだ。彼らにとっては正しい選択だったと思うが、もはや同じバンドではいられない。
 翌年5月にザ・フーはロンドンのレインボウ・シアターで抜き打ちショウを行なったのだが、オレはそれを見逃してしまった。なので、デックとオレでフランスのフレジュスに行って、さらに何度かやる映画の宣伝用ギグを見ようかと、漠然とした計画を立てたのだが、結局は実現しなかった。
 1979年6月に映画『The Kids Are Alright』がベッドフォードの映画館にやって来た。オレが映っているらしいことは知っていたので、デック、トム、フィル等、皆で一緒に、ベッドフォードのグラナダ・シネマ(残念ながら、とっくの昔に閉館)に行った。最高の映画で、素晴らしいシーンがいくつもあった。最後までオレの姿は全然出て来なかったが、締めくくりのエンドロールのところで、ピート・タウンゼントの腕の中に飛び込むオレ(その後、指でロジャ・ダルトリーの目を突きそうになっている)が遂に映ると、、シネマの中では大きな歓声が起こった。もちろん、カットされずに完成版に残ったオレも大満足だった。

 これがオレの信念のジャンプだ。みんな、見てくれ。

 1979年8月、ツェッペリンの2回目のネブワース公演の1週間後、オレたちはウェンブリー・スタジアムに行ってザ・フーを見た。出演バンドにはAC/DC(まだボン・スコットがいた)、ザ・ストラングラーズ、ニルス・ロフグレンもいた。ケニー・ジョーンズがドラムを叩いているザ・フーも良かったが、前の方では客同士の小競り合いがたくさん起こり、少々きつい日だった。
 1978年以後も何度もザ・フーのコンサートを見ている。2002年にはワットフォード・タウン・ホールで、2004年にはロンドン・フォーラムで、2010年にはロイヤル・アルバート・ホールで《Quadrophenia》ショウを、そして、2015年3月23日には02アリーナで。
 現在ではふたりザ・フーになってしまったが、彼らが全盛期に作った作品群は、今でもなお、ロックとはこういうものだということを明確に定義しているものだ。今のところ最後に見たショウとなっている02アリーナ公演も、ザ・フーの持つ粘り強い耐久性を証明するものだった。
 シェパートン体験に関しては、40年前のあの信念のジャンプ以来ずっと、何度も語っては人を楽しませている。ザ・フーの伝説的ファンで、シェパートンの魔法のような午後にも居合わせていたアイリッシュ・ジャックとは、今でも連絡を取り合っている。現に、今週も連絡を取った。
 今、思い返すと、このジャンプはライヴ・パフォーマンスが持ちうる衝撃が見事に結晶化した瞬間だった。
 あれは完全に無計画、無意識でやった行動だった。もし計画していたのなら、オレはマッカートニー/ウィングスの《London Town》Tシャツではなく、ザ・フーのそれを着ていただろう。
 オレはザ・フーの素晴らしいパフォーマンスに完全に圧倒され、その瞬間、感謝の気持ちを示す必要性が生じた。そして、思った。バンドのいるステージ以上にそれをするのに適した場所はないだろうと。
 オレのフェイスブック友達のマイケル・スタークは、オレがピートをハグしてるこの写真を「史上最高のファンとのふれあい写真」と評した。
 まあ、誉め言葉かな。
 これは1978年のある日の午後の出来事だった。あれから40年後の今でも、思い出は全く消えない。YouTubeにマルチアングルの動画が存在するのも、ずっと忘れらない理由の1つだろう。
 オレはフィルムに記録されるべき正しい時に正しい場所にいた。1978年5月25日の午後、この21歳のベッドフォードのキッドは、まさにオーライトだったのだ。

Shepperton-6.bmp



アイリッシュ・ジャックの記事はここを参照:
http://thewhoconvention.com/Exhibition_1978/Exhibition26.htm

- - - - - - - - - -

1978年5月25日シェパートン・スタジオ〈Won't Get Fooled Again〉
40年前の今週、デイヴ・ルイスはザ・フーと同じステージの上にいた



 オレが登場するのは10:42。



 マルチアングル・バージョン。オレの登場は11:05。


The original article "THE WHO AT SHEPPERTON 40 YEARS GONE THE WHOLE STORY" by Dave Lewis
http://www.tightbutloose.co.uk/tbl-news/fate-of-nations-25-years-gone-lz-news-led-zeppelin-at-earls-court-may-23-24-25-turning-the-clock-back-43-years-the-who-at-shepperton-40-years-gone-the-whole-story-dl-diary-blog-update/
Reprinted by permission


   
posted by Saved at 00:00| Comment(0) | The Who | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月18日

1966年5月17日マンチェスター公演チケット

 5/17にネット上で新たに出回ったチケットの画像です。

Manchester.jpg


 このコンサートの詳しいことはこちらの電子書籍でどうぞ。kindle unlimitedに参加しているので、会員の方は無料です。

 
posted by Saved at 23:39| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月21日

骸骨レコード:ソ連時代、こうして違法レコードを聞いた

 今日、4月21日はレコード・ストア・デイでしたが、私は『Dylan & The Dead』を買いました。昨今のアナログ・レコード・ブームを反映して、いろんなサイトが立ち上げられていますが、中でもVinyl Me, Pleaseにはアナログ・レコードにまつわるいい話が数多く掲載されており、旧ソ連時代のレントゲンのフィルムに音溝を刻んで作った「骸骨レコード」に関する話は、なかなか秀逸です。50代の人がこういう体験を持ってるらしいので、そんなに昔のことではないようです。ビートルズかボブ・ディランの曲が入ってるものがあったら欲しいなあ。


 
X-ray1.jpg


骸骨レコード:ソ連時代、こうして違法レコードを聞いた

文:ドナ=クレア・チェスマン



 死に直面した時、歴史は価値を増します。
 祖母がサウス・ブルックリンの病院に担き込まれたという知らせが届いた晩、母は母国語であるロシア語で、これからお話することを私に聞かせてくれました。堂々巡りで、なかなか先に進まない話でしたが、奇跡的に言葉に詰まらず、母は祖母----つまり、自分の母親、私を10代まで育ててくれた人物----と共有していた過去を、私にも興奮しながら話してくれたのです。
 まずは病院のロビーの椅子に座りながら、その後はレストランで食事をしながら、そして最後にはコーヒーを飲みながら、私は母と一緒に、彼女がソ連で過ごした少女時代へと時間をさかのぼっていきました。時をやり過ごし、不安を静めるために始めた会話でしたが、それはソ連時代の違法レコードの取引の歴史に変わりました。

 1963年にキエフの都会で誕生した母の証言によると、ロシアには既にレコードが存在していたそうです。主にシングル盤でした。母は、幼い頃、小さな国営アパートメントでシングル・レコードに合わせて踊っていました。「1968年か69年だったかしら」 当時人気のあった子供用の曲を歌いながら、母は語ります。法律に違反してたから大きな声では言えないのですが、素敵な思い出なのだそうです。母が聞いていた音楽は非合法的に入手したものでした。'60年代〜'70年代には、正規のルートで手に入るレコードといったら、政府から許可をもらって国営の店で売っているものだけでした。
 母の説明によると、こうです。「認可された音楽っていうのはソヴィエトの音楽なの。ロシア国内の音楽ね。数も少なかったわ。アーティストもそんなにたくさんはいません。テレビで演奏を披露するのを許されていたのは、ほんの一握りのアーティストだけだったわ」
 ソヴィエト政府に公認されていない音楽を聞きたいと思ったら、レコード店に足を運ぶ以上のことをしなければなりませんでした。笑ってエスプレッソを吹き出しそうになりながら、母は説明してくれました。違法レコードが流通する闇の経済があったのです。「音楽マフィファね」 母は遠い過去に思いを巡らせていました。
 違法レコードのシンジケートはラジオとともに始まりました。母の思い出によるとこうです。「ヴォイス・オブ・アメリカやBBCといった、ロシアのラジオでは放送禁止の音楽を流す番組があったの。こうした放送を受信するためにラジオを調整するのには、あるやり方があったのよ。何時にトライしたらうまく行くとか、皆、知ってたわ。私のお父さんがテーブルについて、他の家族もお父さんと一緒にテーブルについてたのを覚えてる。ラジオのつまみをひねると、突然、声が聞こえてきたの」
 ラジオの近くにマグネトフォンのテープ・レコーダーを置きました。シンガーに対してマイクを向けるようにして。不明瞭な音で聞こえてきたローリング・ストーンズのシングルをこうしてテープに録ってる間、皆はシーンとしていました。でも、録音しただけでは、戦いはまだ半分も済んでいません。密かに手に入れた音楽をレコード盤に刻みたい場合、人脈と自由になる金が必要でした。シングル1枚を作るのに、平均的月収の半分以上を渡さなければならなかったのです。
 「そういうことをやってくれる人を知ってる誰かと知り合いになる必要があったのよ」 ソ連には、おみやげとしてメッセージや認可された音楽をディスクに録音する認可を受けているレコーディング・スタジオがありました。「例えば、いたいけな女の子がスタジオに行って、ママのために誕生日のメッセージを録音したい場合、そういうのは表だって出来たことなの。そういうのは合法で、スタジオにとってクリーンな金儲けだったわ」 しかし、それなりの金額の賄賂を渡すと、同じ人間がマグネトフォンで録音したものをレコード盤に刻んでくれたのです。
 しかし、問題は材料のプラスチックが不足していることでした。スタジオで働いていても、材料を得ることは不可能でした。そこで、解決法として登場したのがエックス線写真用のフィルムでした。
 母の説明は続きます。「皆、貧しかったから、どうにかして金を稼ぐ方法を探していたのよ。診療所から密かに持ち出すことが出来たのがそれなの。しかも、自分たちが間違ったことをしているなんて考えなくていいものでしょ。だって、古いエックス線写真なんて誰が必要なの? このフィルムをこっそり持ち出して売ったのよ。レコードを照明にかざすと、骨が透けて見えたわ」
 「フィルムを切って、レコード盤と同じ大きの円盤状にしたの。英語に訳すと「骨の上」っていう名前だったわ。音楽は骨の中に書かれてたの。レコーディング・スタジオでは、何でも録音してくれたわ。金さえ払えばね。でも、自分でそこに行くことはなかったわ。それをしてくれる誰かを知ってなきゃいけなかった。その人があれこれやってくれたの」
 この骸骨レコードを作ってもらうのに必要な金額は、気前のいい業者だったら、25ルーブルでした。母の記憶によると、1970年代には、平均的な月収は100ルーブルくらいだったそうです。1曲作ってもらうのに給料の4分1が消えます。これにはクリニックやスタジオで働いている人に渡す賄賂は含まれていません。レコードの取引には価格の吊り上げはつきものでしたが、母はこの半端なシステムから利益を得たことが----そんなつもりはなかったのですが----1度あったそうです。
 「お父さんがアメリカに向かおうとしている途中、イタリアから私にフリオ・イグレシアスのレコードを送ってくれたの。それを聞いてたら、お母さんが私に向かって叫ぶのよ。うちのプレイヤーでかけてレコード盤を痛めたくはないって。レコードはとても高い値で売れたの。それで、お母さんは、それをレコードの業者に売りに行っちゃった。だから、私がそれを聞いたのは1度だけよ」
 母が強調したのは、当時、そういうことは極めて非合法だったということでした。「刑務所行きだったわね。罪状は、英語で言うと、違法レコードの頒布、反ソヴィエト・プロパガンダの宣伝かしら」 外国の音楽には、認可されているもの以外は全て、「反ソヴィエト的プロパガンダ」というレッテルが貼られていました。当時、厳しい罰則があり、全てのレコードの取引を絶対にバレないように行なう必要がある状態で、人々はどうやってこのシステム利用していたのか、私はどうしても訊きたくなりました。
 母は声を張り上げて笑いました。「どう説明しようかしらねえ。私たちはとても奇妙な世界の中で暮らしてたの。2つの世界があったのよ。表の世界では、学校に通って、共産主義を信じていて、共産党の集会にも出かけて、共産主義者として生きてたわ。でも、もう1つの裏の世界では、みんな反共産主義的な話し合いをしてたの。キッチンの中で、ささやき声で。こんな言葉もあったわ。英語にすると「台所で話す」って意味かしら。アパートメントはとても小さかったので、皆、小さなキッチンに集まって、とても静かに、音楽を聞いてたの」
 1970年代後半になって、ペレストロイカの時代になると、ソ連の国境コントロールが緩くなり、音楽を密かに輸入する方法が出来上がりました。ソ連に観光客が来るようになると、レコードの業者はそういうホテルを下調べしておいて、高価なロシア産キャビアの缶詰との交換で最新アルバムを手に入れたのです。このシステムは世界中で知られるようになりました。ソ連を訪問する観光客は、音楽を持って行けば、ある程度高く売れることを知っていました。
 しかし、1980年代のペレストロイカの最中でさえ、非合法のレコード取引するというギャング映画的なスリルはモスクワやサンクトペテルブルク、それから、母の生まれ故郷のキエフといった大都市に限られていました。「それ以外の地域の人は何も聞けなかったのよ」 母はそういう立場の人を不憫に思いながら、説明しました。「いろんな音楽に興味を持つことが出来たのは、大都市の学校に通ってる若い人だけね。それ以外の人は、別の世界にいたの。ソ連の大多数の人は、音楽なんて聞いてなかったわ」
 母は言いました。たとえ英語とロシア語という言葉の障壁があっても、ああして聞いた曲にはずいぶん魅了されたと。母はビートルズの〈Yesterday〉をハミングで歌い始めました。そして、胸に手を置いて言いました。「今でも覚えているわ。あの歌が私の青春。[アメリカの]歌はまた違ったわ。〈Hotel California〉は魔法のよう。また別の美しい世界だったわ。ソ連での生活とはかけ離れた世界よ。歌詞を知らなくても、それがわかったわ」
 母がソ連を離れたのは1989年のことでした。アメリカに着くやいなや、カルチャーショックに襲われたそうです。「気絶しそうになったわ。アメリカには、お金で買えるものがこんなにたくさんあるんですもの」 母は深呼吸して、目を丸くしながら語ります。雑貨店にCDが並んでることはもちろん、現代のインターネットのオンディマンド・サービスで音楽が流れてくることにも、ビックリ仰天しています。
 アメリカに移住するまでの人生経験で、音楽はああいうプロセスで買うものだという観念が頭にこびりついていた母にとっては、消費社会アメリカにおける供給過多状態は理解を超えるものでした。「音楽がなかったら[ソ連での]生活はもっと酷いものだったでしょう」
 母の締めくくりの言葉はこうでした。「今でも、音楽を自分の人生から切り離すことは出来ません」


"Here's What It's Like To Have Listened To Illegal Vinyl In Russia" by Donna-Claire Chesman
https://www.vinylmeplease.com/magazine/heres-what-its-have-listened-illegal-vinyl-russia/?utm_content=buffer43312&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=Twitter+buffer
Reprinted by permisson


参考サイト
レントゲン写真製!冷戦時に作られた幻の”肋骨レコード”が美しい【旧ソ連】
https://matome.naver.jp/odai/2140436541870533901

ロックが禁止されていたソ連で「退廃的音楽」を入手するための「骨レコード」とは?
https://gigazine.net/news/20151216-bone-record-soviet-union/


 
posted by Saved at 21:36| Comment(0) | Music Industry | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月16日

ガッタ・サーヴ・サムバディ 私はディランにバナナ・プディングをサーヴ

 1978〜90年に、ミズーリ州カンザス・シティーで「バックステージ・カフェ」というコンサート会場に食事をケータリングする会社を経営していた人物が、『Rock & Roll Stories』というウェウページで写真や思い出話を公開しています。ボブの話もありました。ゴスペル・ツアー中の1980年1月27、28、29日に行なわれたアップタウン・シアター公演での出来事のようです。

Rock & Roll Stories
http://www.rockandrollstories.info/index.htm


BobmarqueeUptown.jpg

(Uptown Photo by Mike Webber)


dylan.jpg




ガッタ・サーヴ・サムバディ
私はディランにバナナ・プディングをサーブ


文:ペニー・ラッシュ



 アップタウン・シアターの小さなキッチンの壁は、ペンキを塗り直したばかりでした。そこにボブ・ディランにサインしてもらえないかとツアー・マネージャーにお願いしたところ、「あ〜、出来るかどうか、オレにはわからないなあ」という回答でした。まるで、ボブがわざわざそんなことするわけないだろとでも言いたげに、ツアマネ氏は言います。「ボブは昨晩もここにいたでしょうに。まあ、考えておきましょう。ところで、これは誰のサイン?」
 「ティモシー・リアリーです」と私は答えました。リアリーは講演ツアーをやっていて、数日前にアップタウンに姿を見せて、何も書いてない壁にでっかくサインを書いてくれたのです。

「我々は重力などものともしない。素敵なトリップをありがとう。愛を込めて、ティモシー・リアリー」

dylanpass_1.jpg


dylanticket.jpg


 私の姪のケリーとポーラがVIPルームにディナーを運んで行きました。一方、私はずっと小さなキッチンの中にいて、おいしいバナナ・プディングを冷蔵庫の中から出して、クルーの甘党メンバー用に盛りつけていました。バニラ・プディングと厚くスライスしたバナナ、バニラ・ウェハースの層の上に、山のようにホイップクリームをトッピングしたものが載った大きな平鍋を冷蔵庫の中に戻した後、振りかえると、あの伝説のミュージシャン、ボブ・ディランその人が、自分の皿を持ってドア口のところに立っているじゃありませんか。
 ほっそりとした体型で、もじゃもじゃ頭の下から黒い目がのぞき、かすかに微笑んでいました。私は呆気にとられました。ボブは殆ど聞き取れない小さな声で私に言いました。「ここに来ればバナナ・プディングがあるって聞いたんだけど、少しもらえるかな?」
 私は驚きながらも、この機会を逃すものかと思い、こう返事をしました。「もちろん。でも、ここで待ってる間に、壁にサインしてもらないかしら?」
  ボブはいぶかしげな表情をして私を見ています。私は、中に入って、大きなドアを閉めれば、壁全体が見えますよ、と言いました。小さなキッチンの中には私とボブしかいません。ボブは私ひとりを相手にしています。
 ボブは小さく見えました。あれだけの活躍と比べてしまうと小さな小柄です。ボブは壁を見上げると、バンドのメンバーはサイン済みなのかと訊きました。私はフレッド・タケット、ジム・ケルトナー、スプーナー・オールダム、ティム・ドラモンド、ふたりの女性シンガーのものを示しました。ボブは気に入った様子です。

tackett.jpg

(スプーナー・オールダム、キース・ルック、ロジャー・ジョーンズ、私、カンザスシティー・ケリー、フレッド・タケッド、ビューティフル・ポーラ)


tackett2.jpg

(スプーナー、ヴィッキー、フレッド、ポーラ、私の娘のアンバー)


 そして、大きく書き殴ってあるサインを見て、言いました。「これは誰の?」
 私がティモシー・リアリーのものだと言うと、さらに「本当? ここに来たの? 今は何をやってるのかなあ?」と訊くので、私は答えました。
 「講演活動ですよ」 ボブはとても驚き、俄然、興味がわいてきた様子で、壁のサインを読み、どういう意味なのか質問してきました。リアリーが講演中にステージの端から落ちてしまったことを教えてあげると、ボブは咳込むように笑いました。私が大きなマジックマーカーを手に取ると、ボブは私の手からそれを受け取りました。
 ボブはリアリーのサインの左のところに来ると、壁を抱きしめるかのように、床に両足をやや広げて置き、しっかりと立ちました。そして、大きなモーションで、大胆なストロークで、大文字でこう書きました。

「神が皆さんを力強く祝福してくれますように。愛を込めて。ボブ・ディラン」

autographwall.jpg


 ボブは振り返って言いました。「ねえ、これでバナナ・プディングもらえる?」

keltner.jpg

(ジム・ケルトナー、ケリー、ポーラ、フレッド、アンバー)


drumroom.jpg

(ジム・ケルトナー、バーテンダー、フレッド)



The original article "You Gotta Serve Somebody…Bob Dylan" by Penny Rush
http://www.rockandrollstories.info/dylan.htm
Reprinted by permission


    
posted by Saved at 19:36| Comment(0) | Bob Dylan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

クラウドファンディングで実現した本『ロックミュージックのオカルト的背景』

 昨年秋頃からクラウドファンディングでヨハネス・グライナー著『ロックミュージックのオカルト的背景』の翻訳出版の資金を募集してたので、1口3,000円分乗りました。サブタイトルが「アレイスター・クロウリーと深淵からの獣の浮上」なので、ロックとオカルト、クロウリーが大好きな私が読まないわけにはいきません。一般書店には置いてないそうですが、クラウドファンディングには間に合わなかった人も、出版元のSAKS-BOOKSから直接購入することが出来ます。

オカルト.png


 『ロックミュージックのオカルト的背景』は、シュタイナーの研究者であるグライナーがロックとオカルトというテーマに取り組んだ論文で、アレイスター・クロウリーを西洋哲学の系譜の中に、その鬼っ子、悪性腫瘍みたいな存在として位置づけています(哲学の系譜に組み込んでもらえていること自体が画期的)。論文の中身を超大雑把に要約すると「ロックはクロウリーを思想的な祖に持つゆえ、ロックを愛好する現代人はエーテル体が危機に瀕している」です。シュタイナー研究者にとっては当たり前の用語なのでしょうが、私のようなシロウトには、エーテル体だのアストラル体だのが出てきても、よくわかりません。訳者によるたった5行の脚注では足りません。「詳細はシュタイナーの『神智学』を参照のこと」だそうです。はい、わかりました(この本を読んでも理解出来るかどうかはわかりませんが…)。
 そして、最後の締めくくりが「この病を癒す薬は、何処に有るのでしょうか。この現状を打破する代替案は、何処に有るのでしょうか」です。エーテル体が危機に瀕している典型的な現代人の私の不安を煽るだけ煽っといて、疑問で終わってます。まさに尻切れとんぼ状態。シュタイナー教育の人でも、今のところ、ロックのせいで生じた深刻な「エーテル体の危機」を救うすべはないようなのです。『訳者あとがき』によると、著者本人が講演原稿に手を加え続けていて未完の状態であるのを承知して、この論文を翻訳したらしいのですが、だとしたら、「癒す薬」「代替案」についてもう少し著者の考えがまとまった時点で紹介して欲しかったなあ。時期尚早感がパないです。私の想像ですが、グライナーはこうした問題を抱えている現代人の心・精神・霊的な何かを治したいという立場の人なのでしょうに。
 そもそも、不思議な構成の本なんですよ、これ。全部で約200ページなのですが、タイトルにもなっているグライナーの論文が最初の70ページ、「訳者による解説と補足」という但し書き付きで竹下哲生の『近代と現代の分水嶺としての十九世紀』が約70ページ、残りが『深淵の獣の行方』と題した、竹下と現代フランス哲学の研究者でロックも大好きな柿並良佑の対談となっています。で、2番目の『十九世紀』が、それほどグライナー論文の解説にも補足にもなっていないどころか(だって、私に必要な解説はエーテル体のことだもん)、これはこれで独立した文として発表していいほど、面白い視点で刺激的に書かれている近〜現代の西洋音楽史なのです。3番目の『行方』対談も、グライナーのオカルト論文の解説というよりは、非常に興味深い、中高年には書けない鋭い内容の現代日本文化・文明論になっています。どちらも「解説」「補足」などという一段低い地位に甘んじる必要のない立派な内容です。はっきり言って、本の看板ではあるものの、「さて、レッド・ツェッペリンは----確認出来る範囲で----最初にリバース・スピーチ(逆再生メッセージ)を使用したアーティストだと言えます」とか、ちょっとボケたことが書いてあるグライナー論文など(ビートルズの〈Rain〉は確認範囲外だったのか?)、なくても通用する本ですよ。なので、グライナー論文をヨイショする必要性など、私には全く感じられません。何の根拠もない私の妄想ですが、本当は『十九世紀』と『行方』を発表したかったんだけど、シュタイナー系の出版社を説得するのにグライナーを取り上げなければならなかったという大人の事情でもあったのでしょうか?


   


本ブログのロックとオカルト関係記事:

・オカルト史観でロックを語る『Season of the Witch』著者インタビュー
http://heartofmine.seesaa.net/article/408594084.html

・どうしてロックはアレイスター・クロウリーを愛するのか
http://heartofmine.seesaa.net/article/433815718.html

posted by Saved at 10:15| Comment(2) | Occult | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする