2022年12月11日

ブートレッガーのインタビューに応じたキース・レルフ

 25年以上前に出たクリントン・ヘイリン著『The Great White Wonders: Story of Rock Bootlegs』に 次のようなことが書いてありました。

 TMQはヤードバーズの2枚のアルバムでも「カラー化」の実験を続けた。このアルバムもまた、珍しい曲や未発表マテリアルを取り揃えたコンピレーション盤であり、ヤードバーズの正規盤の中でも、これ以上に気のきいた形でまとめられているものは殆どない。1973年から74年にかけての冬頃には、ヤードバーズの重要性がコレクター間でも遅ればせながら認められるようになっており、TMQの《Golden Eggs》と《More Golden Eggs》はヤードバーズをそれ相応に扱うことを意図したアルバムであった。《Golden Eggs》が楽しいコレクションだとしたら、《More Golden Eggs》こそTMQの力作だった。《More Golden Eggs》には、スタウトによる素晴らしい風刺画のアルバム・ジャケットに加えて、ヤードバーズのリード・ヴォーカリストであるキース・レルフが収録曲について語っているインタビューを掲載したインサートまでもが付いていた。これこそロック・アーティストがブートレッグに贈った究極の是認ではないだろうか。

ウィリアム・スタウト:俺が《More Golden Eggs》を誇りに思っているのは、それが半分合法的なブートレッグの第1号だったからさ。ヤードバーズのキース・レルフが近所に住んでいたんだけど、彼は丁度アーマゲドンを結成しようとしていて、家賃のための金が必要だったのさ。そこで、俺達はその月の家賃を払ってやるかわりに、インタビューをすることが出来たんだ。キースにブートレッグ・レコードを聴かせて、1曲1曲についてコメントしてもらったのさ。…このインタビューをジャケットに載せて、それから4、5ページのインサートにも印刷して、ジャケットには署名もしてもらった。…《More Golden Eggs》は、子供用の本にイラストを描いているイギリス人イラストレーター、アーサー・ラッカムのスタイルで描いたものなんだ。当時、彼からは大きな影響を受けていたからね。…《Golden Eggs》のジャケットで言いたいことはこういうことだ。金の卵を産んだガチョウを殺そうとしているイタチはミッキー・モストなんだ。こいつがヤードバーズに対して行なったプロデュースは全然好きになれなかったね。「ポップ」なマテリアルをレコーディングするよう強要したのが、バンドにとってマイナスとなり、解散を招いたと思うんだ。


 このインタビュー、読みたいなあと思ってたのですが、該当のレコードがなかなか見つからないまま年月だけが経過してしまいました。しかし、昨年の今頃出版された『A Pig's Tale』にジャケット写真やデータ、そして、インタビューが載っていた裏ジャケやインサートの写真が掲載されていたので、やっと読むことが出来ました。大爆笑じゃん、これ。ヤードバーズが複数のマネージャーによって不本意なことをやらされ、その結果、迷トラック、珍トラックの宝庫と化していった様子が、メンバー本人の口から明らかになっています。

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 ついでなので、『A Pig's Tale』全体を日本語に訳して勝手に電子書籍を作って出版業界の知り合いにあたってはみたものの、今の所、これを出してくれそうなところは見つからず、今回も何人かの友人に見せて笑われるだけの自己満足に終わってしまいそうです。涙。とりあえず、キース・レルフのインタビューだけでも公開するので、読んでください。内輪受けの冗談と思しき意味不明の箇所はカットしてありますが、話題となってる曲はYouTube動画を貼り付けておきました。

12/13追記:イギリスのビートグループに超詳しい人によると、キース・レルフは記憶がボロボロで間違えだらけだそうです。でも、頭のおかしいマネージャーのせいで酷い目にあってるのは、全部本当だそうです。


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 以下はキース・レルフ(元ヤードバーズ〜ルネッサンス〜ニュー・ヤードバーズ----別の呼び方になるかも----のヴォーカリスト、ハーモニカ・プレイヤー)、ルイス・セナモ(元ルネッサンスのベース・プレイヤー)、マーティン・ピュー (《The Rod Stewart Album》のギタリスト)、ウィリアム・スタウト(Trade Mark of Qualityレコードのカバー・アーティスト)、ベイビー・レイ(Trade Mark of Qualityレコードのカヴァー・アーティスト)、及び、レルフ氏の連れの女性(名前はわからず)の間で交わされた会話である。その内容は、レアで、人には知られていないマテリアルを集めたこのアルバムについてだ。しかし、このインタビューを読み始める前に、次の事実を頭の片隅に入れておいていただきたい。この会話の中で〈Baby What's Wrong?〉に触れている部分があるが、この曲はこのアルバムには収録されていない(契約上の理由で)。


キース・レルフ:オレもどこかの時点で引退しなきゃいけないんだろうな。
ベイビー・レイ:はい、これ。

(テープが始まる)



ウィリアム・スタウト:まずはブルーズから。
レルフ:これは何?
スタウト:知らないの?
レルフ:ああ。
スタウト:〈Shapes in My Mind〉のB面の〈Blue Sands〉だよ。
レルフ:ああ、これはオレじゃない。これはインチキだ。え〜とね、演奏してるのはオレじゃないんだ。当時のマネージャーのサイモン・ネイピア=ベルは、オレをポップ・シングルのシンガーに変えたかったんだよ。B面を録音してる時間は全然なかったから、他の誰かにやらせたんだ。
スタウト:ということは、これはスタジオ・ミュージシャンだけで作ったの?
レルフ:最低だよな。次に行こうか。



〈I Wish You Would〉のスタジオ・バージョン

レルフ:これは何?
スタウト:ギターはクラプトン? これはキースのハーモニカ・ソロの入ったロング・バージョンだよ。こっちが最初のバージョンで、アルバム《For Your Love》に入ってるのは2番目のバージョンじゃないかと思う。
レルフ:この曲をレコーディングしたのは1回だけだよ。このトラックはどこにあったの? オレにはこのトラックの出どころはわからないなあ。レコーディングの時期も。
スタウト:このバージョンは全然覚えてないの? ヤードバーズがあの頃、どういうふうに作業してたのかは知らないけど、まずはラフなスタジオ・テイクを作ってから、それを進化させて最終テイクになってくんじゃないの?
ルイス・セナモ:BBCでやった仕事じゃないかな。
スタウト:そうかも。
レルフ:オレにはわからないなあ(…笑)。とても正確な演奏だから、スタジオでやったものだろう。感情は剥ぎ取っちゃってあるよね。このレコードにはライヴは入ってないの?
スタウト:あるよ。…ハーモニカは誰から影響を受けたの?
レルフ:そうだなあ、最初に影響を受けたのはジミー・リードかな。主にソニー・テリーとジミー・リードだ。ヤードバーズが軌道に乗ってきた頃だ。
スタウト:誰からの影響だって判じるのは難しいなあ。
レルフ:ハーモニカの演奏はそんなに影響は受けてないよ。それがきっかけだったって話さ。…言葉で説明するのは難しいな。はっきりとこれだとは言えないよ。
ベイビー・レイ:キースじゃないとしたら、一体誰が? これはあなたが演奏してるんじゃないの?
レルフ:これはオレの演奏だ。ただ、いつ頃の演奏なのかはわからない。エリックがいた頃だ。たぶん、イングランドで録音したんじゃないかな。
レイ:アメリカでもたくさんレコーディングはした?
レルフ:いや。こっちでは全然やらなかったよ。R・G・ジョーンズみたいだな。ウィンブルドンにある。
レイ:R・G・ジョーンズ?
レルフ:そう。
レイ:その人、誰?
レルフ:サウス・ロンドンにあるスタジオだ。
スタウト:エンディングは〈I'm A Man〉だ。
レルフ:'64年頃かもしれないなあ。シングル・バージョンを録音する前のやったもののようだ。正確にはわからないけど。



〈Baby What's Wrong?〉

レルフ:どこからこういうものを集めてきたんだよ?
スタウト:ヘッヘッヘッヘッ、この曲は知ってるかな?
レルフ:これは絶対にR・G・ジョーンズだ。…一体どこからこれを見つけてきたんだよ?
スタウト:これはガス・ヴァーノン・テープだよ。もっと持ってないのかなあ? エリック時代のヤードバーズの未発表音源はたくさんあるの?(この質問はあくまで歴史的興味から訊いてみたものだ)
レルフ:たくさんあると思うよ。かなりたくさんね。エリックだ。(リード・ギターを聞きながら)…ポール・サムウェル=スミスはレコーディング・セッションのために、3インチ・スピーカーの付いてるテレビのキャビネットを改造して、親父さんのオーディオ・セットからクオードのハイファイ・アンプを引っ張り出して持って来た。
スタウト:ヤードバーズは、この曲の頃にはイングランドでは有名だったの?
レルフ:ヤードバーズが何?
スタウト:ファンはいたんですか?
レルフ:この時点ではまだ駆け出しだから、いなかった。ファンと言える存在はなかった。まだ…。
スタウト:まだ、マーキーに出演するようになる前だよね。
レルフ:そう。前だ。そうすることが出来るように頑張ってる頃だった。ジョルジョ・ゴメルスキーがバンドの可能性を引き出そうとレコーディングを設定してくれたんだ。
スタウト:最初はどんな機材を使ってたの?
レルフ:エリックはワトキンス・ドミネーターを通してたと思う。



〈Questa Volta〉

レルフ:あぁ〜!(大爆笑)
スタウト:この曲はどういう経緯でリリースされたの?
レイ:イタリアじゃ大ヒットしたんだよね。
スタウト:そう。どうしてイタリアで売れたの?
レルフ:マネージャーが、音楽に対する考え方がとても大陸ヨーロッパ指向な奴で、ヤードバーズをサンレモ音楽祭で演奏したR&Bグループ第1号にしようと思ったのさ。ティアラや黒ネクタイっていう、とてもストレートなイベントだよね。それで、まったくもぉ、オレにこの曲を歌わせたわけさ。
レイ:歌詞を覚えるのは大変だった?
レリフ:今でもどんな意味なのかわからない。
スタウト:この曲でバック・ヴォーカルを歌ってるのは誰?
レルフ:全く知らない。
スタウト:愉快なイタリアの女の子たちがスタジオに入って来たとか…。
レイ:イタリアでレコーディングしたの?
レルフ:ストリップのCBSでやったんだ。オレたちには頭のおかしいマネージャーが何人かいたんだよ。
スタウト:クリス・ドレヤが何を演奏してたか覚えてる?
レルフ:演奏してないよ。でも、この曲を書いたのはクリスだ。
レイ:ヤードバーズが演奏したんじゃないの? だとしたら誰?
レルフ:ヤードバーズじゃない。オレと何人かのセッション・マンで録音した。
レイ:それじゃ、これは実質的にはキース・レルフのソロ・シングルじゃないか。
レルフ:そんな大したもんじゃない。キース・レルフの神経衰弱って言うほうが正解に近い。
スタウト:他のメンバーはこういう事の成り行きを知ってたの?
レルフ:ああ。知ってたよ。
スタウト:メンバーはそういう態度だったの?
レルフ:ジェフも神経が参っちゃう寸前だった。何度も悪夢を見た。最悪のね。
レイ:オレたちはいい夢を見てるよ。
レルフ:これはそのB面?
スタウト:っていうか、こっちがA面だったの?
レルフ:どうなってんだ、こりゃ!



レイ:これは〈Paff…Bum〉だ。
スタウト:とてもヨーロッパ的だ。
レルフ:だから、オレたちはこのマネージャーをクビしたんだよ。オレたちにそういうものばっかりやらせようとするからさ…。
レイ:これもヤードバーズの演奏なの? それとも、またあなただけ?
レルフ:これもサンレモ歌謡祭用にジョルジョがまとめたものの「1つ」に過ぎない。
レイ:この曲で演奏してるのは誰なの? 別の面と同じ人?
レルフ:そう。
レイ:誰があなたにこの2曲をやらせたの?
レルフ:マネージャーさ。
レイ:どの?
レルフ:ジョルジョ・ゴメルスキーだ。
レイ:まだミッキー・モストじゃなかったんだね。
レリフ:ああ、まだだ。そいつになるとさらに悪くなる。
スタウト:ということは、ジェフは参加してないんだ。
レルフ:いや、ソロはジェフが弾いてると思う…。もちろん、強制されて。
レイ:これはいつ録音したの?
レルフ:いつ? '65年前半頃だ。おかげでヤードバーズはポップ・バンドに変わったんだ…。
レイ:「イー…イー…イー」って言ってるのはキース?
レルフ:いや。あれはサムウェル=スミスだ。キミたち、本当に酷いもんをこのアルバムに入れたんだなあ。



〈Psycho Daisies〉

レイ:ヤードバーズの中で一番聞きたい曲だ。
レルフ:最近は、昔よりマシに聞こえるよ。
スタウト:歌っているのはベック?
レルフ:そう。
スタウト:この曲にはベックとペイジ両方がいるの?
レルフ:いや、ジェフだけ。メアリー・ヒューズのことを歌ってるんだ。
レイ:メアリー・ヒューズって誰?
レルフ:ジェフはメアリーっていう若手女優に恋しちまった。おっと、オレは発言に気をつけたほうがいいな。

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レイ:それじゃメアリー・なんとか。メアリー・Xにしよう。
レルフ:ジェフはメアリー・Xとの恋を優先してヤードバーズを辞めたんだ。
スタウト:ひゃあ!
レルフ:ツアーに戻らなきゃいけなかったのに、ジェフはハリウッドから離れたがらなかった。
スタウト:ペイジがこの曲で演奏してるって言ってるのを、どこかで読んだことがある。
レルフ:参加してないよ。ペイジはプレイしてない…。(「そこでは何もかもがメアリー・ヒューズとスイングしてる…♪」と歌いながら…)
レイ:それはテキトーな名前だと思ってたんだけど、実在の人物の名前なんだね!
スタウト:ここでは「メアリー・X」にしとこうよ。
レルフ:ああ、そのほうがいい。
セナモ:ここに入ってたら皆に聞かれちゃうだろうに。





〈Shapes in My Mind〉

レルフ:別のマネージャーもオレをシングル向きのポップ・スターにしようとしたんだ。ソロ・シングルとかを出してさ。
レイ:この曲は好きじゃなかったと。
レルフ:全然ね。
レイ:オレはこの曲のどっちのバージョンも好きだなあ。ここでは誰が演奏してるの?
レルフ:セッション・マンだ。当時、グループに入る前には、ジミー・ペイジがセッションの仕事をたくさんやってたよ。ビッグ・ジム・サリヴァンとジミー・ペイジだ。
スタウト:ビッグ・ジム・サリヴァンは何を演奏したの?
レルフ:リズム・ギターだけ。
レイ:どのマネージャーにこの曲を無理矢理やらされたの?
レルフ:サイモン・ネイピア=ベルだ。
レイ:たくさんのマネージャーがいたんだな。
レルフ:ああ。数人かな。
スタウト:誰がヤードバーズの一番良いマネージャーだった?
レルフ:最初の頃のジョルジョだ。
スタウト:ピーター・グラントもマネージャーだったよね?
レルフ:最後にね。
スタウト:この曲を録音した時、あなたは国際的ポップ・スターになるよう頑張ってたんでしょ?
レルフ:そんなことはない。
スタウト:あなたとスコット・ウォーカーが…。
レルフ:絶対にないよ! オレはグループにいて本当に満足してたんだ。…確かに、イングランドでいくつかのTVショウに出てこの曲を歌ったけどさ。『レディー・ステディー・ゴー』とかさ。
スタウト:バージョンIとII、どっちが最初なのかな?
レルフ:う〜ん、わからないよ。キミらがどこからこうしたトラックを手に入れたかは知らないけど、…オレが1バージョン作ると、誰かが編集とミックスをやって別のバージョンを作って、それでここに2種類あるんだよ。
スタウト:変わった曲です。バラードの歌なのに、ベースは派手にブンブン鳴ってるね。
レルフ:バラード風だ。…でも、気持ちが全然こもってないな。
レイ:どういう経緯でマネージャーたちはキースにこういう曲をやらせたの? あなたはどう思ってたのさ?
レルフ:オレかい? 言うことに従ってただけさ。
レイ:この曲をTVで歌ったの?
レルフ:ああ。かなり未熟だったなあ、オレ。
スタウト:この曲のイングランドでのチャート・アクションはどうだったの?
レルフ:鳴かず飛ばず。
スタウト:ヤードバーズ史上、最大のヒット曲は何?
レルフ:〈Shapes of Things〉だと思う。
レイ:こうしたトラックはいつ録音したの?
レルフ:'66年後半頃だ。



レイ:〈Mr. Zero〉は気に入ってるの?
レルフ:いや。オレは合わない場所に押し込まれたようなもんだった。オレはグループと一緒のほうがうまくいくんだ。そのほうが自由になれる。でも、この曲はオレには不自然だ。当時もそう思ったよ。だからうまくいかなかったんだと思うよ。
レイ:ヤードバーズのメンバーは参加してるの?
レルフ:誰も参加してないね。
スタウト:解散してからヤードバーズのメンバーとは会ったの? ポール・サムウェル=スミスとは?
レルフ:ああ、ポールには会ったよ。ジェフにもジムにもね。オレとジムは親友だ。クリスもね…。
スタウト:ジムのグループ、シュートの活動状況は知ってる?
レルフ:知らないなあ。あいつがこのバンドでこっちに来てるって耳にしたことはあるけど、それだけだ。元気にやってるかどうかは知らない。



〈She Just Satisfies〉

スタウト:これは聞いたことがあるかなあ? これはジミー・ペイジが出した〈She Just Satisfies〉っていうシングルで、キンクスのセッション('65)の直後に録音したものなんだ。ジミーがドラム以外の全ての楽器をプレイしている。
レルフ:知らないなあ。聞いてみようか。とても古くさいな。
スタウト:昔のキンクスみたい。
レルフ:ああ。…この曲については教えてあげられることはないよ。
レイ:まあまあの曲かな。
レルフ:ジミーがバンドに入る前のものだ。前だね。
レイ:聞いたことあった?
レルフ:ない。
レイ:次の曲にいく前にちょっと待って。B面で…レコーディングした曲で、キースが気に入ってるのは何?
レルフ:ヤードバーズで?
スタウト:そう。あなたが気に入ってる曲は?
レルフ:正直言って、オレたちが録音したものは、どれもあまり気に入ってない。レコーディング・セッションとなると、ライヴでやってることが全然捉えられてないって感じてたからだ。冷たい環境の中で、おとなしく座って正確な演奏を作ろうって頑張っても、うまくいかなかった。ヤードバーズは興奮してる環境じゃないと、つまり、そういう場所だったり、観客がいたりしないと調子が出ない、レアなバンドの1つだった。ヤードバーズの本質を一言で表すことが出来るとしたら----ヤードバーズを一言で説明するとなると----「興奮」かな。でも、それがあまりに「生{なま}」過ぎてテープには記録することが出来なかった。たぶんね。16トラックの設備があって、やりたいことが何でも出来たら、それを捉えることが出来たかもしれないけどね。たくさんの音を1度にストレートにモノラルに入れるなんてことをよくやってたんで…バランスは担当者次第だった。
スタウト:これは裏面。



〈Keep Moving〉

レルフ:ひっくり返してくれ。この曲について話せることは何もないから。
レイ:コンサートは何度も録音してるの?
レルフ:いや。あのファースト・アルバムだけだ。マーキーで録音した《Five Live Yardbirds》と、それから最後のもの。フィルモア・イーストだったっけかなあ。いや…。
スタウト:アンダーソン・シアターだ。
レイ:出ることは誰かが教えてくれたんじゃないの?
レルフ:いや。知らなかった。
レイ:スタジオでレコーディングするのが嫌だったら、ライヴ・レコーディングすることは考えれば良かったのに。
レルフ:それはねえ、オレたちには決定権がなかったんだよ。全てはマネージャーやレコード会社の手に握られてたのさ。今とは時代が違うんだよ。今は自分のことは自分で決めてるけど、昔はそんな権利なかったんだ。ポップスの時代だった。ポップ・バンドだったってことは、操られてたってことさ。
スタウト:ディック・クラークのツアーに参加したよね?
レルフ:ああ。
スタウト:1日2公演やったんでしょ。
レルフ:ある時なんて、午後のショウをやった後、200マイル移動して夜のショウをやった。それが済むと、次の日の午後のショウのために、夜の間に移動した。
レイ:ギャラは良かったんでしょ?
レルフ:全然。
スタウト:ディック・クラーク・ツアーなのに? ウソでしょ。ベイビー・レイ、お前も冗談だって思うだろ。
レルフ:ディック・クラークは金払いが悪かった。…演奏はもっとやれって要求するくせにさ。
レイ:殆どのトラックは『シンディング』で披露したライヴ演奏だ。
スタウト:『シンディング』用のレコーディングは『トップ・オブ・ザ・ポップス』『レディー・ステディー・ゴー』と同じようなものだった? こっちのほうが制約が少なかった?
レルフ:『レディー・ステディー・ゴー』はいつも生演奏だった。これは…。



〈For Your Love〉

スタウト:これは『シンディング』だ。
レルフ:ライヴじゃないね。
スタウト:ライヴだよ。
レルフ:これはライヴだよ。ジェフが12弦ギターを弾いてる。
スタウト:ジェフのギタリストとしての最大の長所は何だった?
レルフ:…ああいうプレイが何にも拘束されずに自然にぽんぽん出てくるところだ。乗ってる時には、自分という存在も忘れて爆発する。そんな時、ジェフは自分の問題も忘れちまってたよ。
スタウト:なるほど…。



〈Shapes of Things〉

レイ:これは素晴らしい。このショウは覚えてるでしょ。
レルフ:もちろん。
スタウト:ドラム以外はレコードだ。
レルフ:ドラムだけライヴ。(笑)
スタウト:地方のTV番組にはよく出たの?
レルフ:これは『ロイド・サクストン・ショウ』だ。
レイ:覚えてるの? ロイド・サクストンみたいな連中のことはどう思ってたの?
レルフ:オレが連中のことをどう思ってたのかって?
レイ:そう。ステージに登場して、バカなことやって笑いを取って…。
レルフ:バカなことやってるなあって思ったよ…。
レイ:…あれこれ質問されてるけど…
レルフ:答えようがなかったよ。当時、オレはああいうことは全部、糞だと思ってた。不満だらけだったよ。
レイ:確かに、楽しそうにはしてませんね。
レルフ:オレが楽しいのは演奏してる時だけ。ステージに立って…そこに観客がいる環境で演奏してる時だけ。(フィードバックに関するサクストンの質問にレルフが答えている様子を聞いて笑う)



〈Hang on Sloopy〉

スタウト:これはリッチモンド・ジャズ・フェスティヴァル…。
レルフ:リッチモンド・ジャズ・フェスティヴァル? どこからそれを手に入れたんだよ?
レイ:『シンディング』で放送されたんだ。
レルフ:あぁ、そうなんだ。
レイ:ヤードバーズが2曲、ザ・フーが2曲放送されたよ。
スタウト:《For Your Love》のアルバムではベックは〈Hang on Sloopy〉でギターを弾いてるの?
レルフ:あぁ。
スタウト:ライヴで演奏する時には、誰がヴォーカル・ハーモニーを歌ってたの?
レルフ:ポールとジェフだ。
スタウト:ヤードバーズが解散してから、クリス・ドレヤとは会った?
レルフ:あぁ。
スタウト:写真家として活躍してるの?
レルフ:そうだよ。詳しくは知らないけど、うまくやってると思うよ。
スタウト:ヤードバーズの演奏する〈Hang on Sloopy〉を聞くたびに、この曲をやったのは皮肉なんじゃないかと感じるんだ。
レルフ:その通りだよ。
スタウト:物真似みたいに…。
レルフ:マッコイズの?
スタウト:…売れ線のバンドの…そう、マッコイズ。昔は女の子の絶叫が大き過ぎて、演奏は聞こえなかったの?
レルフ:その様子が聞こえるだろ。
スタウト:それで困ってたの? それとも、見て笑ってただけ?
レルフ:シーンの一部ってだけさ。
スタウト:叫ぶオーディエンスから聞くオーディエンスに変わった時にはどう感じた? それって徐々に?
レルフ:もちろん、だんだんと良くなっていった。ずっと居心地の良い状況になっていったよ。この曲(〈Hang on Sloopy〉)はバカげた時期のものだ。
スタウト:リッチモンド・ジャズ・フェスティヴァルってジャズに限定してなかったんだね。
レルフ:そうだね。出来損ないのポップ・イベントになってしまった。
スタウト:出来損ない? 運営を誤ったとか?
レルフ:いや、運営は問題なかった。対処しなきゃいけないことがいろいろあってさ。その一番悪い面が出ちゃったんだ。ああいう状況では良い音楽は演奏出来ないよ。
スタウト:アウトドアだったの?
レルフ:そう。動き回って、皆を煽って。オレたちがリッチモンドでやったのはそれだけ。
スタウト:ヤードバーズで、フレットを塞いで「ピキピキピキ」っていう技を使った最初のギタリストは誰なの?
レルフ:エリックだ。
スタウト:エリックのプレイについて一番気に入ってるのはどんな点?
レルフ:フィーリングと巧みな指さばき。ブルースのフィーリングだと思うよ。…それがエリックさ。
スタウト:歌詞の殆どはキースが書いてたの? レーベルには「作曲:ヤードバーズ」って書いてあるけど。歌詞の殆どはキース?
レルフ:この曲では違うよ。



〈Heart Full of Soul〉

スタウト:この曲は…。
レルフ:…グールドマン。〈For Your Love〉とこの曲。最初の2曲のヒットはグレアム・グールドマンが書いた。
スタウト:バンドの友人だったの?
レルフ:マネージャーの友人だった。
レイ&スタウト:なるほどぉ。
レルフ:…その後、オレたちは自前で曲を書き始めたんだ。〈Shapes of Things〉や〈Over Under Sideways Down〉とか、B面曲全部とか。
スタウト:バンドで曲を書く時には、歌詞はたいていキースが書いてたの?
レルフ:そう。
スタウト:10cc(グレアム・グールドマンが今やってるバンド)は聞いたことある?
レルフ:あぁ。
スタウト:好きだよ。
レルフ:とてもね。いいバンドだ。
スタウト:バンドが書いたのではないマテリアルは誰がやろうって言い出したの? 〈I'm a Man〉(今、この曲が流れている)とか。


   



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2022年10月07日

【書評】ジェイ・バーゲン著『LENNON, the MOBSTER & the LAWYER----The Untold Story』



 《Roots》裁判でジョン側について、悪徳業界人モーリス・レヴィと戦い(マフィアとの繋がりもあったらしい)、ジョンを勝利に導いた正義の弁護士の回想録です。ジョンとのつきあいは裁判を担当することになった1975年2月から最終的な判決が下った1977年1月までですが、自分の記憶だけでなく、ジョンが裁判所で行なった証言の公式的な記録や業務日誌に基づいて書いているので、「いつ」「どこで」という情報が充実。正確さと精度も高いと思います。普段から、裁判の書類を書いているからか、指示代名詞の使い方が曖昧でなく、非常に読みやすい文体です。


本物と偽物の区別法を指南するこの動画面白い。拙宅にあるのは偽物。


 レヴィがAdam VIIIというTV通販会社から売り出した《Roots》には法律的正当性あると主張して、ジョンとキャピトル/EMIを訴えてきたので、ジョンらは被告だったのですが、それを返り討ちにしたのがこの裁判でした。ジョンが《Roots》の発売を承知していたのかどうかが主な争点でしたが、このレコードには正当性がないことを証明するプロセスで、法律云々、契約云々についての議論だけでなく、ジョンが収録曲を選んだ理由を述べたり、ジャケットの重要性を説明したり、レコーディングに参加したミュージシャンが証人として呼ばれたり、裁判所の中で皆でジョンのソロ・アルバムを聞いて、その音楽性を話し合ったりしているのです。裁判ではそんなことまで話題にするのかと驚くとともに、ジョンが自身のアーティストとしての哲学や自分の作品群の自己評価も語っているのはとても興味深いです。
 私が面白いと感じたのは:
・1975年までグランド・セントラル・ステーションに行ったことがなかった。
・〈Bony Moronie〉は、母親が見に来た唯一のパフォーマンスで披露した思い出深い曲。
・《Two Virgins》のヌード写真は、自分は常に衆人環視の状態でプライバシーなど皆無であることと、服を脱いだら皆と同じ人間であることを示しており、このジャケットは誇りに思っている。



・《Roots》の裏ジャケットに別のアーティストのレコードの宣伝が載ってるなんて言語道断。
・ジョンはボブ・グルーエンに頼んで裁判の様子を盗撮してもらった(その写真あり----ピンボケだけど)。
 ----などなど、1ページに1つのペースで興味深いことが書いてあるのですが、一番笑ったのはジョンではなく、ローリング・ストーンズに関することです。
 1976年1月、ジョン側の証人として、バーゲンがロサンゼルスからニューヨークに呼び寄せておいたジェシ・エド・デイヴィスは、2日後に裁判で証言するという超大切な仕事があるというのに、《Black And Blue》のレコーディングでニューヨークにいたロニー・ウッドからお誘いの電話がかかって来て、結局、2晩連続オールナイトで飲み(そういう人だったんですね)。プエルトリコ人売春婦2人と盛り上がって、ミック・ジャガーに電話し、朝方になって、女の子たちをホテルにお持ち帰り。それでもジェシ・エドは法廷で立派に証言を行ない、めでたしめでたしだったのですが、しばらくして、1978年にカーラジオから〈Miss You〉が流れてきた時、プエルトリコの女の子云々の箇所で、バーゲンは2年前のこの出来事を思い出したそうです。真夜中の迷惑電話を名曲に変えてしまうなんて、ミック、なかなかの詩人です。今後は「dyin' to meet you!」を聞くたびに、ジェシ・エドの姿が脳裏に浮かぶことになるでしょう。



 数多くの回想録の例に漏れず、この本も自分に都合の良いことしか書いていないようです。バーゲンはジョンと知り合って間もない頃に、グランド・ファンク・レイルロードvs最初のマネージャー、テリー・ナイトの裁判をマネージャー側の弁護士として担当して勝訴したことを自慢しています(バンド側の弁護士はジョン・イーストマンでした。そうです、リンダ・マッカートニーのお兄さんです。今年の8月10日に死去)。確かに、金銭的に勝ったのは元マネージャーのほうですが、この記事のように、違った見方をする人もいます(バンドが本当の名声と名曲を獲得するのは敗訴後のことでした)。



 また、最後の最後の著者紹介のページでは、ボブ・ディランvs最初のマネージャー、アルバート・グロスマンとの係争にグロスマン側の弁護士として関わったことにも触れていますが、詳細は皆無です。この係争は、ボブの旧友が有能な弁護士を紹介し(ボブのミネソタ時代の旧友、ルイ・ケンプの回想録『Dylan and Me』を参照のこと)、1960年代のままの契約条項のせいで袂を分かって久しいのに金が延々とグロスマンに流れ続けている状態をストップさせたことで知られています。結局、本格的な法廷闘争になる直前に、グロスマンがロンドンに行く飛行機の中で心臓発作で亡くなったために、適当な落としどころを見つけて和解となりましたが、こちらも話し合いのプロセスでボブの音楽を論じていたり、笑える逸話に満ちあふれているのだとしたら、その詳しい内容を知りたいところです。

   
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2022年10月03日

サンダークラップ・ニューマンの思い出と『ベースメント・テープス』

 レコード会社に手伝いに行ったついでに、無造作に置かれたお宝をあれこれくすねてきた話は大爆笑。


サンダークラップ・ニューマンの思い出と『ベースメント・テープス』
文:スチュワート・ペニー


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パート1:サンダークラップ・ニューマン

 今日は、日頃あまりしない話をしよう。1969〜71年の間、オレの友人{ダチ}、チャーリーはジェイムズ・ブラウン・ファンクラブのイギリス支部をひとりで切り盛りしていた。まさかそんなと思われるだろうが、これから話すのは本当に起こったことだ。月に1度、チャーリーはポリドール・レコードのロンドン本部のオフィス・スペースをあてがわれて、ソウル・ブラザーNo.1の会報と8×10インチ[20×25cm]大の写真を会員に発送する作業を行なっていた。もちろん、この頃はコンピューターなんてない。それだけじゃなく、コピー機も普及してなかった。なので、チャーリーはゲステトナーの謄写版印刷機をガチャガチャ回しながら、会報を印刷していた。これは退屈かつ疲れる作業で、午後の殆どがそれに費やされてしまった。スピード・アップを図るために、時々、オレが呼ばれて、封筒詰めを手伝ったり、運営作業の補佐をしたりした。以下は、オレが1970年9月にそういう用事でポリドールのオフィスに行った時の話だ。

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ライフタイムのシングル〈One Word〉


 当時のオレは、ソウル/ファンク・ミュージックはそんなにファンではなく、ぶっちゃけ、クリームやヘンドリクス、ツェッペリン等のヘヴィー・ブルースのほうがもっとずっと好きだったのだが、この用事でポリドールのオフィスに行くのは心の底から楽しかった。いつも大量のレコードをタダでもらって帰れたから、というのが主な理由だ。同じ年頃の多くの連中と同じく、オレはレコードのために生きていて、起きてる時間の殆どをアルバムを入手することに捧げてたのだが、いかんせん、最低賃金しかもらえない貧乏なティーンエイジャーだったので、この趣味は手に入る金をはるかに超えていた。なので、レコードを安く、あわよくばタダで手に入るチャンスがわずかでもある時にはいつでも、オレはすっ飛んでいった。

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デレク&ザ・ドミノスの回収されたシングル〈Tell The Truth〉


 当時、ポリドールのオフィスは、オックスフォード・ストリートの近くのジョージ王朝風のエレガントな袋小路、ストラトフォード・プレイスにあるスワン・ハウスの数フロアに入っていた。ストラトフォード・プレイスは現在でも、地下鉄のボンド・ストリート駅の殆ど真向かいで、すぐ近くにはHMVの第1号店もあったのだが、ウェスト・エンドの絶え間ない交通騒音からは隔絶された辺地みたいな場所だ。他の大手レーベルと同様、ポリドールも景気が良く、どの部屋の机にも宣伝用レコード、DJに送付する資料、ポスター、店頭用ディスプレイ、たくさんの音楽関連のグッズが山積みになっていた。そこら中、宝の山。まるでアラジンの洞穴だ。オレたちはいつも、正午に近い時間にオフィスに行った。その時間になると、スタッフの殆どが昼食を食べに出かけてしまい、社内がひっそりしてしまうことを知っていた。その1、2時間、オレたちは建物の中を自由に行き来した。
 当時、ポリドールが抱えてたビージーズやニュー・シーカーズといったチャートの常連グループ(オレはそういうのには殆ど興味がなかった)のレコードと並んで、心臓がドキドキするようなあらゆる種類のレア盤があった。こっちにはロリー・ギャラガーの〈Sinner Boy〉が10枚。これは近日発売予定のソロ・デビュー・アルバムからのプロモ・オンリーの3曲入りシングルだ。むこうには、トニー・ウィリアムズ・ライフタイム(ジャック・ブルースとジョン・マクラフリンをフィーチャー)の超レアなシングル〈One Word〉がひと箱。机の下の床にはエリック・クラプトンのデレク&ザ・ドミノスのシングル〈Tell The Truth〉の1カートンが転がっていた。フィル・スペクターがプロデュースしたテンポの速いバージョンで、発売直後に販売中止になってしまったので、コレクター市場での価格は急上昇することだろう。オレがつまづきそうになったのはそれだった。1枚掲げてチャーリーに知らせると、こいつは印刷機をガチャガチャさせながら、「もらっちまえ!」と口を動かした。そしてまた、仕事に集中した。ひと箱いただいといたほうがいいよな、将来のために、とオレは考えた。
 チャーリーとは数年前に知り合った。ソーホーにある同じ音楽出版社で働いていた頃からの仲だ。育ち方も気性も全然違ってたが、こいつを嫌いにはなれなかった。チャーリーは生まれも育ちもロンドンで(正確に言うと、ウォルサムストウからチンフォードを経由してロンドンにやって来ている)、チャンスは見逃さない愛すべきならず者だった。果物行商人のメンタリティーを持ったこいつは、たとえ数ポンドであっても、稼げるチャンスは見逃さなかった。法律的に危ない橋を渡ることであってもだ。こいつから買った車が、実はまだ信販会社にローンが残ってる状態で、売ろうとした時に超トラブったこともあった。オレが文句を言っても「ああ、そうだった。言うのを忘れてた」というのが唯一の弁明だった。

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ジェイムズ・ブラウン〈Get Up I Feel Like Being A Sex Machine (Pt1)〉


 1970年代半ばには、チャーリーはブリック・レーン・マーケットでレコードの露店をやってたが、下町っ子的な虚勢と口のうまさで難局を切り抜けたことも1度や2度のことではない。特に、ブートレッグや他の違法なブツを売ってた廉で逮捕された時にはそうだった。その一部が不正に手に入れたものだったとしても、オレは驚かない。
 オレたちは自分らがやってることを盗みとは思っていなかった。これっぽっちもだ。確かに正式な社員ではなかったが、オレたちは臨時とはいえポリドールのために働いてるんだから、何枚かレコードを持って帰ることは暗黙の了解事項であって、1970年代前半のレコード会社は気前が良いのも業務のうちだと思っていた。とにかく、オレたちが拝借したレコードの殆どはプロモ盤で、間もなくラジオ局や音楽誌にタダで配られる予定のものだった。そう自分たちに言い聞かせていた。

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ロリー・キャラガー〈It's You〉〈Just The Smile〉〈Sinner Boy〉プロモ


 オレたちはファン・クラブの作業をぼちぼちやりながら、休んでる間には、気に入ったレコードをご自由にお取りください状態だった。テン・イヤーズ・アフターの〈Love Like A Man〉のアメリカ盤シングルを見つけたのを覚えている。イギリス盤とはB面の曲が異なるのだ。1970年代前半には短期間だったが、ディープ・パープルやブラック・サバス、アトミック・ルースター、ジェスロ・タルといったアンダーグラウンドなバンドが定期的にイギリスのシングル・チャートを入り込んできていた黄金期があって、テン・イヤーズ・アフターのシングルは数週間前に驚きのトップ10ヒットとなっていた。〈Love Like A Man〉はデラム・レーベルから発売されてたので、このバンドがトリドールで何をやってたのかはわからないが、オレたちはとにかくそれをひったくっておいた。
 次に見たのは、白いジャケットに入った白レーベルのLPだった。ジャケットには鉛筆で「Thunderclap Newman Hollywood Dream」とだけ書かれていた。「こいつらって〈Something In The Air〉をやったバンドだよね?」とオレが言った。これは1969年6月に大ヒットして、ビートルズの〈The Ballad of John and Yoko〉をチャートのトップから引きずり下ろした曲だ。オレは何も知らなかったが、彼らの次のLPのテスト・プレスのようだった。チャーリーは作業の手元を見たまま、「カバンの中に突っ込んでおけ!」と言った。
 遂に、作業が完了した。数百通分の封筒詰めを行ない印刷機をガチャガチャさせてる合間に、オレたちは相当な量のレコードを集めていた。非常に生産的な午後だった。ポリドールの郵便物部屋にジェイムズ・ブラウンのファンクラブ・レターを預けると、スワン・ハウスをあとにした。チャーリーは制服を着たドアマンに明るくさよならの挨拶をしたが、ありがたいことに、オレたちのカバンをチェックされなかった。ヘトヘトに疲れてはいたが、月に1度の不正なレコード・ハンティングには満足していた。

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サンダークラップ・ニューマン《Hollywood Dream》(Track 2406 003)


 しかし、その後、何週間も、サンダークラップ・ニューマンのLPが気になって仕方なかった。白ジャケットにはレコーディングの詳細も曲目リストも何も記されていなかった。インターネットのない時代には、リリース前にそういう情報を得るのは不可能に近かった。未完成のようだった。オレは適当なジャケットを手に入れようと思った。幸いなことに、オレの職場はオールド・コンプトン・ストリートで、バンドのレーベル、トラック・レコードのソーホー・オフィスとは数ヤードしか離れてなかった。
 トラック・レコードは1966年にザ・フーのマネージャーのキット・ランバートとクリス・スタンプによって設立された。このレーベルのダントツの稼ぎ頭はジミ・ヘンドリクスとザ・フーだったが、契約アーティストの中には、ジョンズ・チルドレン(マーク・ボランをフィーチャー)、ザ・クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン、マーシャ・ハント等、大物ではないが面白さでは負けていないアクトが何人かいた。この頃、ピート・タウンゼントが後見人となってるサンダークラップ・ニューマンもそうしたバンドだった。1968年8月に〈Fire〉が大ヒットして、トラック・レコードに初めてナンバー1・シングルをもたらしたのがアーサー・ブラウンで、レーベルで2番目のナンバー1・ヒットとなったのがサンダークラップ・ニューマンの〈Something In The Air〉だった。1968年後半には、EMIがジャケットのヌード写真に難色を示してジョン&ヨーコの《Two Virgins》の発売を拒否した後に、トラックがその配給に応じたことで、このレーベルはヒップだという評判が急上昇した。トラックがリリースするレコードは全てポリドールから配給されてたので、オレが白レーベルのLPをそこで見つけたのも合点がいく。
 そこで、数日後のランチタイムに、オールド・コンプトン・ストリート58番地にあるトラックの受付に颯爽と行くと、ずうずうしくも、《Hollywood Dream》のジャケットの余りがあったら欲しいとお願いしてみた(あの頃はそんなことが出来たのだ)。「少々お待ちください」と退屈している受付嬢が言うと、インターホンのスイッチを入れて、何やら話した。数分後、若い男が階段を1段飛ばしで弾むように降りて来た。花柄のシャツにコールテンのズボンというイカした服装で長髪のそいつは、全身どこをとってもレコード会社の重役だった。「キミはサンダークラップ・ニューマンのLPを持ってるそうだね」と、いぶかしげな視線をオレに向けながら言った。「はい、そうです。でも、ジャケットがないんです」とオレは元気に答えた。すると、「おかしいなあ。そのレコードが出るのは次の金曜日なんだけどな[正確には、1970年10月2日]。よかったら、どういう経緯でレコードをもう持ってるのか説明してくれるかな」と反撃されてしまった。

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メロディー・メイカー紙に掲載された〈Something In The Air〉の宣伝(1969年5月)


 これには慌てた。どう説明しようかなんて、あらかじめ考えてなかったから。オレは虚勢を張りながら、その場で話をでっちあげて言った。「えっとですねえ。ボクには友人がいて、ポリドールで働いてるんです。そいつが自分用に持ってた1枚をボクにくれました」 これならありうる話だと思ってくれそうだと考えた。こいつの尋問はさらに続いたが、しばらく考えた後、やっとオレの話に納得してくれた。「来週また来てくれ。そうしたら、ジャケットをあげるから」 こいつはそう言うと、体の向きを変えて階段を駆け上がっていった。
 トラック重役は約束を守り、1週間後、写真やレコーディング情報、超重要な曲名が載っている見開きジャケットが、オレを受付で待っていた。もちろん、無料だった。やっと、パッケージが揃った。何て控え目なレコードなのだろう! 全ての曲が楽しかった。10分間バージョンの〈Accidents〉(鉄道マニアの行動の危険を警告している史上唯一のポップ・ソングかも)から、変なピアノの間奏曲、ギター・インストゥルメンタル、癖のあるポップ/サイケの珠玉の逸品を経て、ボブ・ディランの未発表曲〈Open the Door, Homer〉に至るまで、全ての曲が楽しかった。大変気に入った。全てを下から支えてるのが〈Something In The Air〉だった。やさしい幸福感に溢れたこの名曲は全世界でナンバー1・ヒットとなり、その後間もなく、1960年代のクラシック・ロック専門のラジオ局では不朽の定番曲となった。



 この曲のオリジナル・タイトルは〈Revolution〉だったのだが、ビートルズの同名曲との混同を避けるために〈Something In The Air〉と変更になった。「武器と弾薬を配れ」という節を含む、市民による暴動を堂々と呼びかけている歌詞は、明るいメロディーや鎮静効果のある2コードが繰り返す進行(フリートウッド・マックの〈Albatross〉のように、EメジャーとF#マイナーが繰り返す)、微妙な転調、メロウなストリングの入るアレンジとは完全にミスマッチだ。〈Something In The Air〉は子供騙しのようなシンプルな構造だが、こうした部分の総計をはるかに超えた曲だった。

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〈Something In The Air〉楽譜


 サンダークラップ・ニューマンは、アンディー・ニューマンのピアノ・プレイとスピーディー・キーンの作曲の才能を世に知らしめるために、1968年後半に結成されたグループだ。ピート・タウンゼントはアート・スクールに一緒に通ってた頃から、ニューマンの非凡なピアノ・スタイルに一目を置いていた。スピーディーはタウンゼントのドライバーで、昔のルームメイトだった。《The Who Sell Out》のオープニング曲〈Armenia City in the Sky〉を作曲した人物でもある。彼の作る一風変わった曲とひょろひょろとしたファルセットは、サンダークラップ・ニューマンのサウンドに完璧にマッチしていた。
 ギターの天才児、ジミー・マカロックはバンドに加わった時は弱冠15歳か16歳だったが、既にベテランのように演奏し、思いがけないほどタフなブルース風リード・ギターでアルバムに貢献していた。ジミーとアンディー・ニューマンが初めて顔を合わせたのは、1969年前半に〈Something In The Air〉をレコーディングした日だった。サンダークラップ・ニューマンの解散後、ジミーはジョン・メイオールのブルースブレイカーズや、同郷(スコットランド)のバンド、ストーン・ザ・クロウズなど、数多くのバンドに参加したが、一番有名なのは、1974〜77年にポール・マッカートニー&ウィングスでリード・ギターを弾いてたことだろうが、ジミーはその後間もなく、1979年に26歳という若さで亡くなってしまった。
 このバンドのサウンドを強力にしていたのは、アンディー・「サンダークラップ」・ニューマン本人のピアノである。元ジェネラル・ポスト・オフィスの電話技師だったニューマンは、ホンキートンクとビックス・バイダーベック・スタイルのブギウギが不調和に混ざり合ったプレイをし、殆ど全ての曲にはジャズ風のソロが押し込められていた。1曲1曲で急にキーやテンポが変わって脱線して、ピアノの間奏が登場するというのが、バンドのトレードマークになった。この一風変わった素晴らしいサウンドはじっくり聞くに値するものだが、カジュアルな音楽ファンにおいては、これを聞いて魅力を感じたのと同数の人が、このバンドを避けてしまったことと思う。

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サンダークラップ・ニューマンとピート・タウンゼント


 ピート・タウンゼントはアルバムをプロデュースし、ストリングスのアレンジを担当し、ビジュー・ドレインズという名前でベースを弾いた。LPではスピーディー・キーンがドラム担当とクレジットされているが、ライヴで演奏する時にはジミー・マカロックの兄のジャック(インストゥルメンタルのタイトル曲〈Hollywood Dream〉の共作者でもある)がドラム・キットの後ろに座っていた。ステージに出て演奏する時には、ジム・ピットマン=エイヴァリーにベースを弾いてもらっている。実際にコンサートを行なった回数についてはバンドのメンバー間でも記憶に差があり、わずか数回のみと言ってる者もいれば、1度はフル・ツアーを全うしたと発言してる者もいる。
 サンダークラップ・ニューマンは1枚のアルバムと4枚のシングルを発表しただけで、1971年4月に解散した。《Hollywood Dream》はイギリスではセールスが振るわず、〈Something In The Air〉の次に出したシングル〈Accidents〉(ショート・バージョン)も、1970年6月にイギリスのトップ50にかろうじて入って最高位46位を記録したことで、一発屋という不名誉なレッテルをぎりぎり貼られずに済むレベルのヒットだった。
 一方、〈Something In The Air〉は永遠の命を獲得した。1960年代的な雰囲気が求められる箇所でこの曲を使用した映画、テレビ番組、広告は数知れず。ラベル、ハービー・マン、ユーリズミックス、フィッシュ(元マリリオン)、ライトニング・シーズ、トム・ペティー&ザ・ハートブレイカーズ、ザ・デュークス・オブ・セプテンバー(ドナルド・フェイゲン、ボズ・スキャッグス、マイケル・マクドナルドをフィーチャー)等、この曲をカバーしたアーティストも多数である。今日、世界中どこにおいても、ラジオのダイヤルをクラシック・ロック専門局に合わせると、1時間以内に〈Something In The Air〉が流れてくる可能性が高い。

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1973年にアメリカで違うジャケットで再発された《Hollywood Dream》


 オレはこのアルバムを何十年も大切に抱えてたのだが、CD時代が到来し、《Hollywood Dream》が新鮮なサウンドで、ボーナス・トラック付きで入手出来るようになると(ただし、オリジナルLPとは曲順が違っている)、一瞬もためらうことなく、後悔もすることなく、この白レーベルのLPをeBayで£50で売ってしまった。デレク&ザ・ドミノスの販売中止になったシングルの殆どは、その何年も前に、ケンジントン・マーケットの屋台のレコード屋で1枚£1で売り、残りのものも、AB両面がエリック・クラプトンのボックス・セット《Crossroads》で手に入れることが出来るようになった後、eBayに出品してしまった。今では、このレアなドミノスのシングルは、オレがかつてそれで稼いだ金額の50倍の値段で売られているが、人生、勝つ時もあれば、負ける時もあるさ。でも、《Hollywood Dream》は今でも大好きなアルバムで、時々、棚から引っ張り出してかけている。
 なので、ポリドールには感謝している。それから、名前はわからないのだが、トラック・レコードの親切な人にもありがとうと言いたい。でも、一番感謝したい人物はチャーリーだ。今、どこにいるのかはわからないが。 
 ピート・タウンゼントは、アルバム《Hollywood Dream》の宣伝用に1970年に行なったインタビューで、アンディー・「サンダークラップ」・ニューマンについてこう語っている。

「アンディー・ニューマンと初めて会ったのは、アート・スクール時代だった。ある日、カレッジに行ったら、構内のいたるところに「サンダークラップ・ニューマンのコンサート、本日」って書かれたポスターが貼ってあった。皆、サンダークラップ・ニューマンなんて時代遅れのジャズ・スターだろうって思いながら、劇場に集合して待っていた。そしたら、視界の片隅から、独特な格好の奴が現れた。まず目に入ったのはカブみたいな外形だ。そいつがピアノのところに行って演奏を始めると、指がポロポロとした音を奏で始める。魔法のムードが会場中を通過していった。劇場で演奏した後、そいつは姿を消してしまった。友人とオレはそいつのテープを手に入れて聞いて、それからずっとそいつを完全に崇拝するようになった。
 2回目に見た時のことも覚えている。友人と一緒にストリートを歩いてる時だった。そいつは排水溝を覗いて何かを見ていた。時々立ち止まって、メガネをはずして、こっちで何かを見て、あっちで何かを見て、髭をなでたり、また歩いたりしていた。オレたちは「おい、あいつだぜ! サンダークラップ・ニューマンだ」って言いながら、そいつの後を追った。芸能人を追う女の子のように、キャーキャー騒いでサインをねだろうかと思った矢先に、そいつはバスに乗って消えてしまった。アンディーは完全に道化芝居だ。行動がまさに道化芝居だ。今ではもう慣れたとはいえ、こいつの姿を見ただけで、時々、笑いが出てしまう。だが、こいつの音楽は決して笑ってすますことなんて出来ない。もし笑うとしたら、それは理性を失うほど幸せを感じてる人間の笑いだ。そいつの音楽は----一部はオレのものだって気がするんだ。そういう感情を抱く人は多いと思うよ」

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たくさん存在するベースメント・テープスのアセテート盤の1つ
〈Open The Door, Homer〉は〈Open The Door, Richard〉と誤記されていることがよくある


パート2:『ベースメント・テープス』コネクション

 ポップ・ミュージック界で与えられる最も貴重な当たりくじ、ボブ・ディランの未発表曲が、実質的なヒット・シングルが1枚しかない無名のバンド、サンダークラップ・ニューマンに与えられた経緯は、もっとずっと壮大な物語の一環として、ここで詳細に説明するに値する。
 ディランはオートバイ事故の後は半分引退し、1967年の大部分は人前に出なかったが、彼の歌はいたるところにあった。ザ・ホークス(後のザ・バンド)がウッドストックで借りてたピッグピンクという家で、ディランは1967年3月から9月にかけて彼らと一緒に借り物の機材で私的に100曲以上を録音しており、この作品群はディランのアメリカ側の出版社、ドワーフ・ミュージックによって著作権登録された。これらのローファイのレコーディングは『ベースメント・テープス』として知られるようになった。
 ザ・ホークスのキーボーディスト、ガース・ハドソンが最も良い曲を選んでまとめた14曲入りアセテート・ディスクが、1967年後半に、ロンドンとニューヨークの音楽出版社間で出回り始めた。こうした曲を録音したいアーティストを探すのが、その目的だった。
 ディラン本人はこのマテリアルを特に大切だとは思っておらず、『ローリング・ストーン』誌の編集員、カート・ロダーに1984年に次のように語っている。「他のアーティストに録音してもらえるように、出版社用に録音した曲だ。オレだったら出さないよ」 ボブはそうした曲がリリースされることを望んでなかったのかもしれないが、全然違う考えを持ってる連中もいた。つまり、印税や法律的云々などどこ吹く風という考えだ。早速、約50曲がブートレッグ化され、1969年6月以後、特筆すべきロック・ブートレッグ第1号と思われてる《Great White Wonder》をはじめ、さまざまな有名なアルバムに登場した。同様の非公式的リリースは、CBS/コロムビアが1967年のトラックのうち24曲を収めた《The Basement Tapes》を1975年6月に正式にリリースするまで続いた。
 ハドソンがまとめた14曲入りアセテート盤に収録されていた曲は〈Million Dollar Bash〉〈Yea! Heavy and a Bottle of Bread〉〈Please, Mrs. Henry〉〈Down in the Flood〉〈Lo and Behold〉〈Tiny Montgomery〉〈This Wheel's on Fire〉〈You Ain't Goin' Nowhere〉〈I Shall Be Released〉〈Tears of Rage〉〈Too Much of Nothing〉〈The Mighty Quinn〉〈Open the Door, Homer〉〈Nothing Was Delivered〉だった。

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ボブ・ディランの《Great White Wonder》
ロックのブートレッグ第1号?


 以上の曲がどうなったか、手短に説明しておこう。
 ベースメント・テープの曲で初めてヒットを飛ばしたのは、当時、ディランと同じくアルバート・グロスマンがマネジメントを担当してたピーター・ポール&マリーだった。彼らがカバーした〈Too Much of Nothing〉は1967年11月に『ビルボード』誌のチャートで35位まで上昇した。PP&Mは同じ頃、〈I Shall Be Released〉もレコーディングし、どちらの曲も1968年のアルバム《Late Again》に収録された。
 〈The Mighty Quinn〉は、1968年1月にマンフレッド・マン(ディランのカバーを連続でリリース)のバージョンがイギリスのチャートで1位を獲得し、4月には、ジュリー・ドリスコルとブライアン・オーガー&ザ・トリニティーがレコーディングした〈This Wheel's on Fire〉がイギリスで最高5位を獲得した。最近の集計では、〈This Wheel's on Fire〉はマウンテンからカイリー・ミノーグまでのさまざまなアーティストによって約30回カバーされている。
 1968年4月には、ザ・バーズの〈You Ain't Goin' Nowhere〉がUK/USでマイナー・ヒットとなり、〈Nothing Was Delivered〉ともども、1968年8月にリリースされたキャリアの転換点的なカントリー・アルバム《Sweetheart of the Rodeo》に収録された。イギリスのポップ・バンド、ユニット4+2も1968年に〈You Ain't Goin' Nowhere〉をシングルとしてリリースしている。
 1968年5月には、後にキング・クリムゾンやバッド・カンパニーのメンバーになるボズ・バレルが、「Boz」名義でシングル〈I Shall Be Released〉/〈Down In The Flood〉を録音した。このレコードでバックを務めた面子は、ディープ・パープルを結成したばかりのリッチー・ブラックモア、ニック・シンパー、ジョン・ロードと、後にチャス&デイヴとして活躍するベーシスト、チャス・ホッジズだった。B面は曲のタイトルが「Dove In The Flood」と誤って印刷されている。
 イギリスのサイケ/プログレ・バンド、スプーキー・トゥースは、1968年6月にアイランドからリリースしたデビュー・アルバム《It's All About》に〈Too Much Of Nothing〉を収録した。2年後の1970年には、同じくアイランドのバンド、フォザリンゲイ(サンディー・デニーがリード・ヴォーカルを務めていた)がデビュー・アルバム《Fotheringay》用に同曲をレコーディングした。
 アルバート・グロスマン傘下のフォーク・アクト、イアン&シルヴィアは、1968年にリリースした2枚のアルバム《Nashville》《Full Circle》用に〈Tears of Rage〉〈The Mighty Quinn〉〈This Wheel's On Fire〉をレコーディングした。
 1968年には、さらに、ブルーグラスの雄、レスター・フラット&アール・スクラッグスがアルバム《Changin' Times》用に〈Down In The Flood〉をレコーディングしている。
 ザ・ホークスは、その頃にはザ・バンドと名を改めており、1968年7月にリリースしたデビュー・アルバム《Music from Big Pink》用に〈This Wheel's on Fire〉〈I Shall Be Released〉〈Tears of Rage〉に取り組んだ。ジョーン・バエズも1968年に発表したディラン曲集《Any Day Now》で〈Tears Of Rage〉〈You Ain't Goin' Nowhere〉をカバーしている。
 ロサンゼルス出身の無名のバンド、ストーン・カントリーは1968年に〈Million Dollar Bash〉をカバーし、フェアポート・コンヴェンションも同曲を1969年にアイランドからリリースしたアルバム《Unhalfbricking》用にレコーディングしている。プロデューサー/歌手/起業家のジョナサン・キングも、1970年に、同曲のシングルをデッカからリリースしている。
 1970年10月には、ギターの名手、クリス・スペディングが、ハーヴェストからリリースしたアルバム《Backwood Progression》に〈Please, Mrs Henry〉の世界初のカバー・バージョンを収録した。



 〈Open The Door, Homer〉をカバーしたアーティストは、サンダークラップ・ニューマンの他にも数名いた。ウォーカー・ブラザーズのジョン・ウォーカーは1968年に発表したソロ・シングル〈I'll Be Your Baby Tonight〉(《John Wesley Harding》に収録されているディランの曲)のB面として、この曲を録音した。
 3年間のうちに、ガース・ハドソンがまとめたアセテート盤に収録されていた14トラックのうち11曲が、数十ものアーティストによってカバーされた。ディランが殆ど興味を示さなかった多数の捨て曲にとっては、悪くない成績だ。以来、『ベースメント・テープス』の曲のカバー総数は少なくとも300に達し、中でも聖歌〈I Shall Be Released〉はダントツ1位で、英語バージョンだけでもジョー・コッカー、ボックス・トップス、ホリーズ、トレモロズをはじめ、150以上が存在する。

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《Basement Tapes》を完全収録したボックス・セット(2014年)


 ということで、サンダークラップ・ニューマンが〈Open The Door, Homer〉をレコーディングした経緯に移ろう。彼らがピート・タウンゼントとコネがあったことと関係があるのかもしれない。ブートレッグが広く出回るはるか前の1968年の時点で、ジョージ・ハリスンやエリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリクス、ニール・ヤングといった何人かの大物が『ベースメント・テープス』のマテリアルを持ってたことは、よく知られている。なので、ピートもテープを聞くことの出来る立場であって、新バンドのためにこの曲を選んであげたのかもしれない。さもなければ、当時、『ベースメント・テープス』の曲はデンマーク・ストリートにある音楽出版社の間で自由に出回っており、その資格があるか、有能なエージェント/マネージャーの後ろ盾のある人だったら、手に入れやすいものだったのかもしれない。

サンダークラップ・ニューマンを偲んで
ジェイムズ・「ジミー」・マカロック
1953年6月4日〜1979年9月27日

ジョン・「スピーディー」・キーン
1945年3月29日〜2002年3月12日

アンディー・「サンダークラップ」・ニューマン
1942年11月21日〜2016年3月29日


The original article "Call Out The Instigators! I Was A Teenage Record Thief" by Stuart Penney
https://andnowitsallthis.blogspot.com/2020/02/call-out-instigators-i-was-teenage.html?fbclid=IwAR1atWjvsAiwBFrYc1W-JeXj9v_BNqIX2ThOeQMP8XQ39mz2eL3fAg-FIqE
Reprinted by permission

   
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2022年10月02日

ボブが新著『The Philosophy of Modern Song』で取り上げてる曲(65&66)

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 これで予習はバッチリ。全曲を制覇したはずです。全部YouTubeで聞くことができました。ボブの本、『The Philosophy of Modern Song』は今年の3月にハードカバー本を注文した時にはアマゾンで4440円でしたが、今では円安の影響下、7000円を超えてしまっています。

“Waist Deep in the Big Muddy”
(Pete Seeger)


“Where or When”

(Dion and the Belmonts)


   

ラベル:ディオン
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